ギッチン(イチン)の戦い(前)
オーストリア北軍司令官ベネデック元帥は6月29日、本営をヨセフシュタット要塞(現・チェコ/ヤロムニェルシ南のヨセフォフ)から北西へ12キロ、ドゥベネック(現・ドゥベネツ/ケーニヒスホーフ南5キロ)へ移動しました。
この移動は、同時に発せられた各軍団の移動計画と共に大変な混乱を巻き起こすことになります。
万事なんでもそうですが、計画が大きくなればなるほど、その変更もまた大変な労力と時間を要することになります。
軍隊とは町一つが動いている様なもの、とは以前に言及しましたが、その村や町を束ねる「県庁」が移動すれば、これもまた大変だという事が想像出来ます。本営には実戦を司る司令部だけでなく、様々な後方業務を行う部門が付いています。司令部が動けばこれもまた動くことになり、輸送機関が発達した現代でも大掛かりな引っ越しとなるものを、19世紀では馬車が中心となり、運が良ければ鉄道を利用することになります。
また、司令部が動けば命令を送受する電信局もまた動きます。
この日、ベネデックが移動したドゥベネックは小さな部落で、電信局などあろうはずはありません。電信線も近くの電信局から引いて来なくてはならず、この作業は丸一日かかりました。そのため、この29日午後に移動を完了したオーストリア北軍司令部の命令のやり取りは、一度ヨセフシュタット要塞へ伝令を送り、そこの電信局から発せられることになり、また各部隊からの連絡もヨセフシュタット経由でベネデックの下に送られる始末でした。
この早いはずの電信が相当のタイムラグを生じたことで混乱が発生することになります。
まず、ベネデックは27日夜に、
「オーストリア北軍本営は30日、ギッチンに至る」
との連絡を各軍団に発し、28日朝にオーストリア第1軍団とザクセン軍へ「ギッチンへ集合すべし」との命令を発しました。
ところが、28日の戦い(スカリッツやノイ=ログニッツ)の結果、ベネデックはこれを取り消し、28日深夜、各軍団にケーニヒグレーツ北方への集合を命じ直しました。
つまり、ザクセン軍と第1軍団へ向かっていた他の軍団が大きく東に進路を変え、ギッチンにはやって来ないことになったのです。
これを知らないザクセン軍指揮官のザクセン皇太子アルベルト王子は29日昼、ヨセフシュタットに向け電信を打ちます。
「ザクセン軍はギッチン南方5キロ付近に野営するが、ここ数日の移動と戦闘で兵が疲れているので一日休息を取りたい。本日はポドコスト(現在も同名)でオーストリア軍が敵襲を受けたが撃退した。周辺には敵を見ない。命令を待つ」
ところが、この電文は既にドゥベネックへ移動しつつある司令部になかなか届きません。
また、この29日夕方、ベネデックはアルベルト王子に対し、
「ザクセン軍は優勢な敵との戦いを回避して我が本軍に合流することを求める」
との「要請」を発します。
しかし、この時既にザクセン軍は「優勢な敵」とギッチンで戦っており、それは最初の命令により第1軍団がギッチンへ向かったことから発生した戦いだったのです。
命令の混乱からアルベルト王子が「本日朝、各軍団はイーザー川への機動(北上)を中止した」との情報を得たのは29日夜になっていました。全てが手遅れでした。
ベネデックはようやく手にしたアルベルト王子からの昼の電文を見ると慌てて命令を手直しし、午後8時30分、
「やむを得ない事なので貴軍は一日休息すべし。こちらは明日一戦を予定するのでここドゥベネックにいる。なるべく早くこちらに合流して貰いたい」
との電信をアルベルト王子に発しました。
しかし、この時既にギッチンの電信局は戦闘により封鎖、王子が別のルートからこの電文を手にしたのは30日の午前でした。
このように、オーストリアの電信事情は惨い事になっていましたが、これは何も今に始まった事ではなく、この戦いの当初より情報は遅れ気味で、南と東におけるオーストリアの連戦連敗は意図的なのか「イーザーライン」を守る彼ら、クラム=グラース将軍とアルベルト王子に伝わっていませんでした。
このため、王子とグラース将軍は北方からの「敵の大軍」を迎え撃つために北上して来る「はず」のオーストリア北軍主力のため、その到着まで必死でギッチンを防衛しようと話し合うのでした。
その予定が変更されたことを知った時には、二人の軍団は戦いの最中にあったのです。
「ギッチン(イチン)の戦い」はこうして始まりますが、この戦いに先立ち、「ポドコストの戦い」が発生しました。
ポドコスト(現在も同じ)はミュンヘングレーツとギッチンのちょうど中間、深い森林地帯の縁にある小さな城館です。
このコスト城は今もそのままに保存されており、見学することが出来るそうです。
6月28日夜。ミュンヘングレーツの戦いに敗れ、ギッチンに向けて夜間行軍するボヘミア軍(オーストリア第1軍団)。その一部隊、ヨーゼフ・フォン・リンゲルスハイム少将の旅団は軍団より一足先にソボトカ(現在も同じ)に向かい出立しました。この街で軍団の通過を待ち、後衛としてギッチンへ後退する軍団の「背中」を守ることが彼らに与えられた命令でした。リンゲルスハイム将軍はソボトカ周辺に兵を散開させ、町の北西3キロにあるポドコストにも部隊の精鋭猟兵大隊を配置しました。
同じ28日夕。プロシア第一軍司令官のカール王子は、ミュンヘングレーツでの勝利の後、急速に後退するオーストリア軍を追跡するため、第3師団のヴェルダー中将に命じ、一支隊をゼーロウ(現・ジェフロフ)からソボトカへ向かわせます。
この支隊は第6旅団の二個大隊と猟兵二個中隊に工兵と騎兵若干を加えた部隊で、いわば威力偵察に近い状態です。フォン・スタール大佐が率いました。
スタール大佐は夜10時にゼーロウを立ち、夜11時30分、ポドコストの北で警戒中のリンゲルスハイム旅団所属の第26猟兵大隊の兵士と遭遇、夜戦となります。ここで一旦プロシア側が退きますが、この攻撃で敵が思ったほど多くないことを知ったスタールは翌早朝2時30分、再びポドコスト北の敵猟兵部隊を急襲、ここで朝まで激しい戦いが繰り広げられます。
オーストリア猟兵たちは次第に後退してコスト城へ入り、朝6時、スタール大佐は部隊の半数をもってコスト城に攻め込もうとしますが、オーストリア兵たちは城壁から射撃を続け、必死でプロシア軍の攻撃を防ぎました。
この小城は抜けないと分かったスタール大佐はここで攻撃を止め、以降ただ監視するにとどめます。
この間、オーストリア・ボヘミア軍(第1軍団)の各部隊はフュルステンブルク(現・クニェジュモスト)からギッチンへ抜ける街道を夜間行軍し、既に午前6時には全部隊がソボトカを通過したため、リンゲルスハイム少将は午前6時30分、クラム=グラース将軍から撤退命令を受け、7時、コスト城の部隊に城を放棄して撤退を命じます。
こうしてリンゲルスハイム旅団は後衛の任務を全うし、以降敵に妨害されることなくギッチンへ入城することが出来ました。
その損害は士官5名と兵72名。対するプロシア軍は兵18名の損失でした。
リンゲルスハイム
さて、29日午前10時。ザクセン軍はギッチン南方でオーストリア軍のギッチン入城を待っていました。
スチグリッツ中将が指揮する歩兵第2師団はポドーラド(ポドフラディー/現。以下同)の北に、シンプ中将が指揮する歩兵第1師団はコステレック(コステレス)からジチノウェス(イチーニェヴェス/ギッチン南5キロ)にかけて野営しています。
また、オーストリア第1軍団はギッチンの防備を固めます。グラース将軍は部隊が到着する毎にその守備位置に部隊を向かわせます。
ポシャッハー少将旅団はギッチンの西北西3キロにあるブラダ(同)の山上へ、
ピレー少将旅団は同じく東北東4キロ、アイゼンスタブル(ジェレズニツェ)北の高地へ、
アベル少将旅団をブラダ山西2キロのプラシコー(プラホフ)山の南へ、
ポドコストから撤退して来たリンゲルスハイム少将旅団をプラシコー南西1キロ、街道沿いの部落ロンコー(ドルニー・ロホフ)に、
そして昨日ミュンヘングレーツで戦い、その後の夜間行軍で疲れ切ったライニンゲン少将旅団は予備としてポシャッハー旅団の後ろ、ブラダ山の南へ、
軍団砲兵と軍団騎兵はブラダ山とアイゼンスタブル高地の間、ギッチンの北3キロ、デレク(ディールツェ)部落の周囲に広がる広大な空き地に、
そして6,000騎を擁する第1軽騎兵師団(エデルスハイム少将指揮)はギッチンの西側へ、
それぞれ展開させました。
こうしてザクセン軍とオーストリア軍の配置が終わると、後は敵が来るのを待ち受けることになります。
午後2時。北軍司令部からベネデックの部隊配置命令が届きます。それによると、
「29から30日にかけ、北軍の四軍団(第2、3、6、8)と騎兵四個師団はギッチン地方に進撃するので、ボヘミア軍はこれと合流するために現在位置を維持せよ」
となっていました。これは28日朝に届いた命令を繰り返し、命令に変更がないことを追認したに過ぎません。
ところが、これは前述の通り28日の夕方に発せられた命令で、その後(28日深夜)命令は撤回され、北軍主力の四個軍団は東側の敵(プロシア第二軍)へ対抗するためギッチンには来ないことになっています。ヨセフシュタットから発せられたこの「電信」命令は、ギッチンまでのおよそ40キロをなんと20時間かけて届けられたことになります。これでは馬を乗り継いで届ける伝令の方がよほど早かったことでしょう。
もし、この29日午後早くの時点でクラム=グラース将軍が他の軍団の「惨状」を知り、また、東の敵に対抗する北軍司令部の方針を知っていたとすれば、彼はザクセン軍を含む「ボヘミア軍」全体に、「直ちにギッチンを捨て、南へ後退せよ」と命令したことでしょう。それでも手遅れ、敵と後衛が戦う事になったかとは思いますが、無駄な犠牲は避けられたと思います。
しかし、現実は残酷で、彼らは数倍の敵と正面から戦う事になってしまうのです。




