サン=カンタンの戦い(中)
フォン・ゲーベン歩兵大将は1月19日午前、ルピー(サン=カンタンの南西8.4キロ)まで前進しソンム川越しにフォン・バルネコウ中将率いる第16師団の戦闘を観戦していましたが、サン=カンタン南面に展開する敵が案外粘り強く抵抗し激戦となったことを感じていました。しかしこの時(午前10時過ぎ)、フォン・クンマー中将率いる第15師団の前線(ソンム川の右岸/ここでは北・西方)方面からは砲声が全く聞こえなかったため、ちょうどアムからルピーに到着し始めていた軍の総予備隊(ヴィルヘルム・テオドール・カール・ヨブスト・フォン・ベッキング大佐率いる歩兵3個大隊・騎兵3個中隊・砲兵2個中隊)を増援としてソンム左岸へ送り込むことを命じるのです。しかし総予備が去ってしまうと軍本営が「丸裸」となってしまうため、その護衛として「ベッキング支隊」から驃騎兵第9「ライン第2」連隊の第1中隊をルピーに残留させました。更にゲーベン将軍は軍の総予備として新たに第15師団から歩兵3個大隊と砲兵4個中隊を抽出させルピーへ呼び寄せたのです。
ベッキング
☆ 独軍右翼(東側)の「後半戦」
フォン・ベッキング大佐はゲーベン将軍からの命令を受けると直ちに進発してスクロール=ル=グラン(ルピーからは南南東4キロ)目指しソンムを渡りました。大佐は「バルネコウ兵団」の最左翼で戦うフォン・ヒンメン中佐の「左翼支隊」と合流するため自ら近衛槍騎兵第2連隊の2個(第1,3)中隊を率い先行してスクロール部落に至るとヒンメン隊の後衛と接触します。そしてコンテスクール(スクロール=ル=グランの北東1.9キロ)付近に展開した仏軍(ベッソル准将師団のドゥ・ジスレーン大佐旅団)に対するヒンメン隊の「苦戦」を聞くと、先ず野砲兵第1「オストプロイセン」連隊の重砲第3と軽砲第3中隊に対しコンテスクール郊外に砲列を敷くよう命じ、砲兵たちは手際よく砲を並べるや砲撃を開始しました。するとコンテスクール東方の農道に展開していた仏軍は見る間に退却し始め、ヒンメン隊の第19「ポーゼン第2」連隊・第1大隊はこれを見逃さず前進し、それまで仏軍が強力な散兵線として利用していた農道を確保するのです。
この時、ベッキング隊の第41「オストプロイセン第5」連隊も戦闘態勢が整い、予備を作らずに全力でコンテスクールへ向けて前進し、その先鋒となった第1大隊の2個(第2,3)中隊は部落に突入すると仏軍を駆逐することに成功するのでした。更にこの2個中隊は追って到着した同連隊の2個(第9,12)中隊と合同し、独軍からの砲撃を受けて既に殆どの仏将兵が持ち場を棄てて退却していたカストル(コンテスクールの北1.3キロ)へ進んでこれも占領するのでした。
この間に同連隊の第1,4中隊はコンテスクールとカストルの中間東側に広がる耕作地へ進出し、同連隊第2大隊とヒンメン隊の第19連隊兵はこれに続いて東へと進み始めたのです。この時テシュネル中尉率いる第41連隊の第4中隊はカストル南東方にあった一軒家の農家(場所不明)に突撃してこれを占領し、ここにいた仏軍の士官1名下士官兵130名を捕虜にするのです。更に中尉は前進してカストル東郊外の小街道(現・国道D1040号線)からも仏軍を追い出すことに成功したのでした。
こうして仏ベッソル師団の右翼を担っていたジスレーン旅団は、多くの負傷者や落伍兵を残してグリュジー東南方の風車場高地(ジフェクールの南方に当たり現在は全て耕作地です)まで退却しました。ベッキング大佐はカストル東方での戦闘が静まった頃に麾下諸大隊に対し集合・点呼を命じ、併せて占領した諸部落や拠点の防衛を任せます。また、砲兵には新たにグリュジー方面への砲撃を準備させるのでした。
仏ドゥ・ジスレーン大佐は突然現れた敵によってコンテスクールとカストルから追い出された麾下諸大隊を後方予備によって収容させると、フェルステ大佐旅団と密に連絡して鉄道本線までの間を防御するよう急ぎ再展開させました。サン=カンタンの南方戦線を統括する仏第22軍団長のアルフォンス=テオドール・ルコアント准将は、戦線右翼(西側)の危機に際し攻守の要であるグリュジーを死守するため、自戦線左翼中央(ドゥ・トゥ・ヴァン風車場高地の南面)で戦闘中のフランシス・ガブリエル・ピティ大佐旅団から2個大隊を引き抜き、更にこの時ラ・フェールへの街道沿いでザクセン騎兵師団と戦闘中の最左翼・アイネ中佐旅団からも4個大隊を引き抜くという大胆な采配を行って崩壊寸前の右翼戦線へ投入するのでした。
対する独軍は午後1時30分頃に砲兵3個中隊をコンテスクール東の高地へ前進させ、急ぎ砲列を敷いた砲兵たちはたちまちグリュジー南西高地に砲列を敷いていた仏軍砲兵と激しい砲撃戦を繰り広げました。この砲撃戦では高地から仏軍歩兵も小銃で応戦したため、火力不足を痛感した前線では「もっと砲兵を」と増援を望む声が上がりましたが、これに応えたのがアルブレヒト王子率いる予備第3師団で、コンテスクールの遙か南方で待機していた野砲兵第5連隊の予備重砲2個(第1,2)中隊が第19連隊の2個(第7,8)中隊に護衛されコンテスクールにやって来たのでした。
サン=カンタンの戦い~ドゥ・トゥ・ヴァン風車場
これが戦いの「分水嶺」となります。
この併せて30門となった独軍砲列は凄まじい破壊力を示し、猛砲撃を行うこと15分で仏軍の火力は著しい減衰を見せ、高地上からは仏軍砲兵が次々と撤退し、撤退を拒む1個中隊だけが留まって応射を行うまでになります。これを見たルコアント将軍はこの中隊に対しても「無理をせず後退せよ」と命じ、更に高地周辺の歩兵等にも後退を命じるのでした。フォン・ベッキング大佐は仏軍の砲撃が止み歩兵が退却し始めるのを自ら望見するや「今こそ前進の好機到来」と、傍らに控えていた第41連隊長の男爵グスタフ・アドルフ・オスカー・ヴィルヘルム・フォン・メアーシャイト=ヒュレッセム中佐に「麾下連隊を率いて敵陣に突入せよ」と命じるのでした。時に午後2時15分となります。
メアーシャイト=ヒュレッセム
この攻撃で第41連隊の3個(第3,9,12)中隊は仏軍右翼(西)を包囲するため高地南西の斜面を駆け上がり、5個(第1,2,4,6,7)中隊は高地正面から、2個(第5,8)中隊はスクロール=ル=グランからグリュジーに至る街道(現・国道D321号線)の東側を突進します(第10,11中隊は予備として後置されました)。
風車場の高地を登る8個中隊のオストプロイセン将兵は、高地上から猛射撃で応じる仏ベッソル師団兵と激しい銃撃戦を交え、じりじりと斜面を登り詰めると最後は白兵に持ち込み、仏将兵は次第に押され始めると遂には製糖場のあるグリュジー南郊外の谷へと撤退するのでした。
このベッキング大佐支隊の活躍と対する仏軍の反応は、サン=カンタン南方戦線全体に影響を及ぼしました。戦線中央部で膠着状態にあった独第16師団将兵は明らかに敵の銃砲撃が弱まるのを感じ、歩兵が2個大隊しかない独軍最右翼のザクセン騎兵師団に対するアイネ旅団も4個大隊を引き抜かれたため、逆襲を手控えてしまうのです。
この状況からフォン・バルネコウ将軍は午後3時前後、攻勢を強める決断を成し、予備第3師団で未だエシニー=ル=グランに控えていたフォン・ゲーベン大佐率いる9個中隊を前進させ、第31旅団で同じくエシニーにあった11個中隊も前線へ出動させるのでした。
※1月19日午後3時にエシニー=ル=グランより前線へ進んだ諸隊
*ハインリヒ・ゲオルク・エデュアルド・ヴィルヘルム・フォン・ゲーベン大佐支隊の残部
○第29「ライン第3」連隊・第1大隊
○第19連隊・F大隊と第5中隊
*第31旅団の予備隊
○第29連隊・第1大隊
○同連隊・F大隊
○第69「ライン第7」連隊・第5,6,7中隊
ゲーベン大佐
ほぼ同時刻。形勢不利となり始めた仏ルコアント将軍は、今一度逆襲を行って独軍を押し返そうとしました。
製糖場とその南方にあったピティ旅団兵と、ベッキング隊とヒンメン隊に大分痛め付けられたフェルステ旅団の左翼側一部は突撃命令を受けると一気に高地を下って南方と南西方へ向かいました。すると、鬨を上げて迫り来る仏将兵の「波」に対し独軍は歩兵「以外」の戦力が反応するのです。
カストル付近に進んでいたベッキング隊の砲兵2個(野砲兵第1連隊・重砲第3と軽砲第3)中隊は南へ突進する仏軍に気付くとその右側面を痛撃し、隊形を引き裂き突進力を弱めます。同時に、早朝の戦闘開始から待機を強いられじっと耐えていた男爵カール・フリードリヒ・テオドール・フォン・ストランツ少将率いる予備騎兵第3旅団は、敵の逆襲を知ると5個中隊がユルヴィエ付近の谷底から発進し仏軍左翼に突入しました。特に先行していたフォン・ケルテュ中佐率いる予備竜騎兵の2個中隊は、第一線に進んだ仏軍散兵群を襲撃してこれを四散させ、仏軍の進撃を食い止めるのでした。
ピティ大佐(ナダル撮影)
※1月19日午後3時頃・ストランツ将軍直率の騎兵
○予備竜騎兵第1連隊・第1,2中隊
○予備驃騎兵第3連隊・第1,2,3中隊
砲・騎兵の活躍で仏軍の突進が鈍った直後、最前線で戦っていたフォン・ヘルツベルク大佐も麾下のフュージリア第40「ホーフェンツォレルン」連隊と第70「ライン第8」連隊の8個(第70の第3,4,9~12と第40の第9,12)中隊を直率して本街道の両側を進み始め、第32旅団の残りと驃騎兵第9「ライン第2」連隊はこれに続行しました。
結果、仏ピティ旅団は一斉に元の陣地、ドゥ・トゥ・ヴァン風車場高地に向けて退却するのです。この時、仏フェルステ旅団は自軍右翼(西側)をベッキング隊によって圧迫されつつありましたが、持ち場を離れず製糖場を維持し、将兵の態度もまた落ち着きを取り戻して南方から迫る独軍散兵群に対し冷静に銃撃を行っていました。しかし、東隣に展開していたピティ旅団が一斉に退いたために左翼側も敵の攻撃に晒され始め、長時間の戦闘に疲労困憊の旅団将兵は包囲を避けるためにも製糖場の陣地を棄てて退却するしかなくなったのでした。
仏軍が撤収したのを見届けた鉄道本線西側にあった独の6個中隊*は急ぎ製糖場を占領し、第41連隊は第19連隊の第1大隊を引き連れ、仏ベッソル師団の後衛をグリュジーから駆逐して遂に部落を占領するのです。
※製糖場を占領した諸隊
○第69連隊・第8中隊
○第29連隊・第5,6,8中隊
○フュージリア第40連隊・第10,11中隊
戦闘中のドゥ・トゥ・ヴァン風車場
サン=カンタンの南方戦線はこうして独軍有利となりますが、最後に残った仏軍拠点のドゥ・トゥ・ヴァン風車場高地は厄介な障害と思われました。それでもベッキング大佐は鉄道本線西側にある諸隊全てを掌握すると臨機に統括指揮を取り始め、先ずは砲兵にドゥ・トゥ・ヴァン高地を狙った集中砲撃準備を急がせます。
この最後の攻撃には、それまで予備として後方待機となっていた諸隊も参加することとなり、ヴィルヘルム・フォン・ゲーベン大佐支隊はベッキング隊とヘルツベルク隊の間に入り、ローゼンツヴァイク隊はその中央後方に位置して続行しました。
この独軍総力を挙げての包囲攻撃に対し、ルコアント将軍の第22軍団も必死で抵抗し、その銃砲火は猛烈で斜面を登りつつある独軍散兵群に降り注ぎます。しかし鉄の規律が揺るがない独軍は犠牲を厭わず前進を強行し、また仏軍散兵線も独軍の砲兵によって激しく叩かれた後では長くは持たず、疲弊し切った仏将兵は殺到した独軍歩兵に蹂躙され次々に敗走するのでした。
仏軍の残兵は多くがサン=カンタン市街へ逃走し、風車場の高地には多くの戦死者と諦観し呆けたように座り込んだ負傷者や敗残兵が点在し、見るも哀れな光景を呈していました。敗走兵を追うようにゴシー(当時はグリュジーの北1キロ)まで前進した独砲兵2個中隊は、目前のソンム対岸に見えるサン=カンタン市街に向けて砲撃を開始したのでした。
この時、独本土で広く喧伝され統一帝国となったばかりの「ドイツ人」に賞賛されたエピソードが発生します。それは仏の敗走兵を追撃するため独の諸騎兵中隊が競ってソンム河畔まで進む中、近衛槍騎兵第2連隊第4中隊の半数が中隊長フォン・ブランド騎兵大尉に率いられ仏軍の一散兵線を突破しこれを蹂躙した「一齣」で、この僅か半個中隊による「無茶」に血気盛んな連隊長のヘッセン(=ダルムシュタット)大公国公子ハインリヒ・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・アダルベルト・ヴァルデマー・アレクサンダー普軍大佐が加わっていたことで、格好のプロパガンダ(独帝国軍はプロシア王国人だけでなく諸王公国の将兵からなり、王侯貴族自ら危険を厭わず最前線へ出陣する)となったのでした。
仏散兵を襲撃する独槍騎兵
ベッキング隊で先鋒となったフォン・ヒュレッセム中佐率いる第41連隊(一部第81「ヘッセン=カッセル第1」連隊)兵は鉄道本線の堤沿いに前進を続け、グリュジーからゴシーを抜け一気にソンム河畔に至ります。その勢いのまま、サン=カンタン南方の郭外市街・フォーブール=イスル(グリュジーの北東3.8キロ)西郊外にあるサン=カンタン停車場に突入すると、その第一線にあった4個(第41連隊の第4,9,12と第81連隊の第3)中隊は停車場の仏軍守備隊を蹴散らし、ヒュレッセム隊の残り諸中隊は郭外市街へ侵攻しますが、既に仏第22軍団主力は川を渡って市街へ撤退しており、郭外市街では諦観した少数の後衛だけが短時間抵抗を試みただけで手を挙げるのでした。
同じ頃、独軍最右翼のトゥール=リッペ将軍も2個大隊の歩兵を直率してサン=カンタン市街を目指して前進し、伯爵麾下のザクセン騎兵たちも「サン=カンタン一番乗り」を目指し疾駆しますが、市街東方からの侵入を図って渡河可能な橋梁や浅瀬を探す中、アルリー(郭外市イスルの東北東1.9キロ)とオンブリエール(同東4.9キロ)に居残っていた仏の守備隊と遭遇し、市街突入を阻まれてしまうのでした。
フォーブール・イスルで防戦する仏軍
☆ 独軍左翼(西側)の「後半戦」
前述通りフォン・ゲーベン将軍は第16師団へ増援として送り出したベッキング支隊の代わりとして、この時点では未だ本格的戦闘状態にはなかった第15師団より予備隊を即席で編成させ、傍ら(ルピー部落)に呼び寄せました。
この新たな支隊は猟兵第8「ライン」大隊長で、あのグラヴロット会戦の一大激戦地「サン=テュベールの家」争奪戦で活躍したルドルフ・エドガー・アダルベルト・フォン・オッペルン=ブロニコウスキー少佐が率いることとなります。
※1月19日・午前11時頃のブロニコウスキー支隊
○第28「ライン第2」連隊・第1、2大隊
○猟兵第8「ライン」大隊
○野砲兵第8「ライン」連隊・軽砲第2中隊
○同連隊の騎砲兵大隊(騎砲兵第1,2,3中隊)
南部戦線への増援兵力(ベッキング隊)投入が「大当たり」となったゲーベン将軍は、西・北部戦線でも戦況を有利にしようと画策し、午後1時、ブロニコウスキー少佐に対して「アム街道上(現・国道D930号線)を前進しサン=カンタン市街へ迫れ」と命ずるのです。
命令を受けたブロニコウスキー少佐は、第28連隊の第1大隊を前衛として、この時ルピー目指し前進して来た仏ドゥ・ラグランジュ旅団の数個中隊を迎撃して撃退、ルピー北東高地上にあった一軒の農家(現在はルピー=サン=カンタン民間飛行場の管理棟。ルピーの北東1.9キロ)を占拠しました。その後同大隊は砲兵の援護射撃を貰い、また街道北方を進み始めた同僚第2大隊と共同して午後2時頃、レピンヌ・ドゥ・ダロンの小部落を占領するのでした。ソンム河畔のダロンよりレピンヌに展開していたラグランジュ旅団兵は猛烈な銃砲撃に追われて多くの敗残兵を後にオエストル(レピンヌ・ドゥ・ダロンの東1.3キロ)部落の北、友軍砲列があるアム街道に跨がる高地まで撤退するのです。
この少し前の正午頃、第1師団長に昇任したばかりの男爵ヴィルヘルム・カール・フリードリヒ・フォン・ガイル少将が戦場に到着し、カール・ヴィルヘルム・フォン・マッソー大佐に代わってフォン・デア・グレーベン兵団の混成師団の指揮に就きました。ゲーベン将軍はガイル将軍に対し右翼隣のブロニコウスキー隊の攻勢に併せ攻勢を掛けることを命じ、ガイル将軍は敵の前線要となっているフランシイ部落に対する攻撃を再興するのでした。
ガイル将軍に指揮を譲り擲弾兵第1「オストプロイセン第1/皇太子」連隊の指揮に専念するマッソー大佐は、部下のパウル・ハンス・アントン・ヨセフ・レオポルト・フォン・エルポンス少佐に対し、「セランシーとオルノンで戦っていた半大隊を直率してフランシイを北方より攻撃せよ」と命じます。またガイル将軍の命令を受け、擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊と第44「オストプロイセン第7」連隊からなる半大隊はその右翼(南)で「北森」から出撃していた仏アイネ旅団兵の散兵群と戦うため前進しました。
※午後2時頃・フォン・ガイル将軍の前進
*セランシーより
○擲弾兵第1連隊・第5,8,9,11中隊
*オルノンより
○擲弾兵第1連隊・第10,12中隊
*フランシイ西方より
○第44連隊・F大隊
○擲弾兵第4連隊・第10,11中隊
エルポンス
擲弾兵第1連隊将兵は猛銃撃で必死に守るフランシイの仏軍を襲い、短時間で部落を制圧、多数の捕虜を獲て弾薬を積んだ馬車1輌の鹵獲に成功します。フランシイにいた仏軍は南東方面へ撤退し、友軍の散兵線に収容されました。
ここでサン=カンタン西方戦線でも戦いの「分水嶺」が現れます。
ゲーベン将軍はブロニコウスキー少佐隊の成功を直接目にし、ソンム左岸へ送ったベッキング大佐隊の活躍で前線がグリュジーまで進んだことを聞くと、ソンム右岸の戦線を指揮するルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー中将に対し「攻勢を強めてサン=カンタン市街を目指せ」と命じました。ところがクンマー将軍は以心伝心、ゲーベン将軍の命令が伝令によって届けられる以前に第29旅団長オスカー・フォン・ボック大佐に対し「麾下諸隊全力で前面の高地(北森とその東側高地尾根)を攻略せよ」と命じ、この攻撃が開始されるとその右翼に連なる兵団を指揮するフォン・デア・グレーベン将軍は自軍右翼に対し「ボック隊に連携してスランシーとフランシイから再度前進を図り旧ローマ街道の南方を東進せよ」と命じるのでした。しかし、フォン・デア・グレーベン将軍は午後4時、自軍左翼(北)に対し強烈な反撃を受け、防御に転じるしかなくなるのです。
仏第23軍団のポールズ・ディボイ将軍はこの独軍攻勢を受け、戦線を立て直すために前線を整理・後退させ、フェイエよりミシュレ中佐旅団を前進させてその退路確保を行い、フランシイから前進を始めたフォン・ガイル将軍麾下の独軍を迎撃しました。また、それまでベリクール(サン=カンタンの北北西13.2キロ)で仏北部軍全体の後方を警戒していたピエール・ポリー准将旅団もグリクール(ファイエの北2.4キロ)に現れ、ムードン・コット農家の高地を守る独軍左翼を襲ったのでした。
ムードン・コットの前線には第44連隊の半数・第2大隊と第1大隊の半大隊(第1,2中隊)が展開して仏ポリー旅団将兵を迎え撃ちましたが、歩兵の危機を聞いた野砲兵第1連隊の軽砲第4,6中隊が前進して緊急の援護射撃を行ったのです。この時前線指揮を執るモーリッツ・カール・アルベルト・ボック少佐(第2次大戦緒戦~東部戦線で軍集団を率いるフェードア・フォン・ボック元帥の父)が負傷しますが後送を勧める副官を無視して戦闘が終了するまで指揮を執り続けました。指揮官の敢闘精神を見せられた部下将兵はその後、包囲を図って波状攻撃を仕掛ける数倍はする敵を前に奮戦し、ムードン・コット高地を死守したのです。しかしその南方では拠点にしたばかりのボワ・デ・ロズの農家が集中砲火と猛攻を受けて放棄され、フランシイやスランシー周辺からの東進も中止されてしまいました。
この危機に際し、フランシイの占領後に真東へ進んだ擲弾兵第1連隊の半大隊は命令を受けて左折すると旧ローマ街道に乗りましたが、ちょうど東から現れた仏軍縦隊と遭遇戦となり、ここでは仏軍側が攻撃を切り上げてサン=カンタン方面へ退いたのでした。
グリクール ポリー旅団のカレー護国軍兵




