表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・北部戦線
458/534

サン=カンタンの戦い(前)

☆ 独軍右翼の戦い


 1871年1月19日。前日18日、敵首都近郊にある代表的な宮殿で誕生した「統一」ドイツ帝国で最初に記録される会戦は、主戦場である首都パリを救援しようと図る仏北部軍司令官ルイ・レオン・セザール・フェデルブ少将と、それを阻止しようとする独第一軍司令官アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン歩兵大将二人のプライドを賭けた戦いでもありました。

 そのゲーベン将軍の下で軍右翼(ここでは南東方)を指揮するのは「グラヴロットの戦い」で奮戦した独第16師団長の男爵アルベルト・クリストフ・ゴットリープ・フォン・バルネコウ中将でした。

 バルネコウ将軍は歩兵13個大隊・騎兵15個中隊・砲42門と、歩・騎兵それぞれ1個師団に相当する戦力でサン=カンタン市街目指して北上するのです。

 バルネコウ将軍は午前8時の作戦開始と同時に左翼支隊を組織して、これを近衛驃騎兵連隊長のカール・フリードリヒ・ルートヴィヒ・ハインリヒ・オットー・フォン・ヒンメン中佐に預け、サン=シモン(アムの東7.2キロ)からサン=カンタン運河(カンブレからショニーまでを結ぶ運河)に沿ってスクロール=ル=グラン(サン=シモンの北東5キロ)を目標に先行させました。


挿絵(By みてみん)

フェデエルブ将軍


※会戦の独仏戦闘序列については前回「サン=カンタン会戦に至るまで(後)」の後書きを参照願います。


 本隊である第16師団主力はジュシー(サン=シモンの南東5キロ)を起点にサン=カンタン本街道(現・国道D8~D1号線)上を北上し、予備第3師団主力がこれに続きます。斥候となったのは驃騎兵第9「ライン第2」連隊の3個(第2,3,4)中隊で、その偵察結果からグリュジー部落(サン=カンタン中心部から南南西へ4キロ)とその南郊にある製糖工場(部落中心から南へ約750m。現存します)に強力な仏軍部隊が存在し、未だに市街方面から仏軍の縦隊が南下し前線が拡張していることが判明しました。バルネコウ将軍は午前9時45分、第31旅団に対しグリュジー南方・製糖工場前方の高地を奪取することを命じ、同時に第32旅団にはエニシー=ル=グラン(グリュジーの南4.3キロ)の北方まで進むよう、また予備第3師団にはエニシー=ル=グランの南郊で留まり、予備として待機するようそれぞれ命じたのです。

 バルネコウ将軍本人はこの際、第31旅団を直率するとグリュジー前面に向かいました。既に将軍の目にはグリュジー部落がこのサン=カンタン南面戦線の「鍵」と見えており、何故ならば偵察や幕僚たちによる観察の結果、仏軍の配置は市街に対しやや西に偏りソンム河畔まで至っていると想像され、市街南西のグリュジーはその要となっているため、ここを落とすことが出来れば仏軍の前線は崩壊し市街に向けて後退せざるを得なくなると考えられたのです。


 歩兵の前進を援護し、攻撃前の準備砲撃を行おうと旅団に属した砲兵2個(野戦砲兵第8連隊の重砲第5、軽砲第5)中隊はユルヴィエ(グリュジーの南東4.2キロ)付近からカストル(同西南西2.2キロ)に至るまで延びる谷地を越えた高所で砲列を敷き、グリュジー付近の仏軍陣地に対して砲撃を加えますが、直ぐさまゴシー(当時この部落中心はグリュジーの北1キロにあり、現在では中心が鉄道の東側に移転しています)の東郊外にあるドゥ・トゥ・ヴァン風車場(当時のゴシー部落の東1.3キロ。現存せず住宅地の一角となりましたが高名な戦跡のため跡地は保存され記念碑が建っています)の高地に砲列を敷いていた仏軍砲兵により激しい応射を受けました。それでも砲兵の援護射撃を受けた第69「ライン第7」連隊の第2大隊は教科書通りの縦列横隊となって先ずは本街道に沿って進むと、その後西側に斜行しつつ鉄道本線に向かって進むのでした。この付近の線路は堤状となったり切り通しになったりと変化に富んでおり、これはそのまま戦場を東西に分断しそれを利用するものには敵の銃砲撃に対する遮蔽を与えるものでした。また、その間に存在する側道と交わるいくつかの踏切は旅団の前進中先行して線路上に至った第29「ライン第3」連隊の第2大隊が確保し拠点とするのでした。


挿絵(By みてみん)

ドゥ・トゥ・ヴァン(戦争記念物となった20世紀初頭)


 この独軍侵攻に対しこの地区を守る仏ベッソル准将師団は、ドゥ・ジスレーン大佐旅団がコンステクール(グリュジーの南西3.3キロ)とカストル、そしてジフェクール(同西1.1キロ)付近に展開し、フェルステ大佐旅団はグリュジー南方高地に陣を敷いていました。ベッソル師団の左翼・東側はデロジャ准将師団が連絡し、ピティ大佐旅団がトゥ・ヴァン風車場高地に、アイネ中佐旅団が予備としてサン=カンタンの南郊衛星市街「フォーブール・イスル」にありました。


 独第31旅団で先鋒となった第69連隊の第2大隊は仏ベッソル師団からの猛烈な銃撃で迎えられます。

 旅団に属した砲兵2個中隊はジフェクールの南東にあった風車場のある高地に砲列を敷く仏ベッソル師団砲兵からの砲火を浴び、谷地の縁に砲を敷いていた軽砲第5中隊はこの集中砲火のために中隊長のステュテル大尉が重傷を負って後送されてしまい、これ以上の犠牲を防ぐには谷地を越えて南方へ避難するしかありませんでした。この砲兵中隊は態勢を整えた後に谷地の南縁で砲列を敷き直しています。この本街道の西側には同僚の重砲第6、軽砲第6両中隊も駆け付けており、仏軍砲列に向けて対抗砲撃を開始しました。


 この間犠牲を出しつつも前進を強行した第69連隊の第2大隊は午前11時頃に遮蔽のない開けた「危険地帯」を脱することが出来、グリュジー南方高地の縁に取り付きました。そこで同大隊は高地上の仏フェルステ旅団に対し4回もの突撃を敢行しますが、その都度十字砲火を浴びて退却せざるを得なくなり失敗に終わります。この結果、同大隊は殆ど銃弾を撃ち尽くしてしまい、銃撃が衰えたことで独軍先鋒の状況を察した仏軍は、鉄道本線の堤両側から独軍めがけて突進して来ました。この大隊が絶体絶命の危機を迎えた時、第31旅団を指揮していたグスタフ・アドルフ・ハインリヒ・フォン・ローゼンツヴァイク大佐が第29「ライン第3」連隊の6個(第1~4,9,10)中隊を率いて救援に登場したのです。

 ライン州将兵はここで仏フェルステ旅団と正面から衝突し、お互い死力を尽くした壮絶な白兵戦となります。数十分に及ぶ死闘の末、数的有利にあるものの様々な面で独軍より劣っていた仏軍将兵は奮戦するも圧倒され始め、精糖場に向けて徐々に退却して行きました。それでもフェルステ旅団は製糖工場の南方に弧を描いて踏み留まり、対する第31旅団は鉄道本線の両側に展開して今度は猛烈な銃撃戦が開始されたのでした。時に午後12時30分となります。


挿絵(By みてみん)

サン=カンタン南部戦線(午後12時30分)


 この第31旅団の前進と平行して、第32旅団もエシニー=ル=グランから前進し始めますが、こちらの行軍も前・側方から猛烈な砲火を浴びる苦しいもので、フュージリア第40「ホーフェンツォレルン」連隊の大隊長、カール・アントン・ルートヴィヒ・フォン・ホルレーベン少佐が榴弾の破片を浴びて重傷を負うなど多少の犠牲を生じます。

 同旅団は昼過ぎに例のユルヴィエ~カストル間の谷地に至り、本街道の両側に停止すると第31旅団の戦いを援助し始めました。第32旅団を指揮するアドルフ・カール・テオドール・フリードリヒ・フォン・ヘルツベルク大佐は直接増援として第70「ライン第8」連隊の2個(第3,4)中隊を戦線右翼(東)へ、フュージリア第40「ホーフェンツォレルン」連隊の2個(第10,11)中隊を戦線左翼(西)へ送り出しますが、この銃撃戦闘で第4中隊長のローン大尉が戦死するなど大損害を受けてしまうのです。この時、重砲第6中隊は同第5中隊と共にユルヴィエからジフェクールに至る間にある高地尾根(108高地)の本街道東側に砲列を敷き直しており、エシニー=ル=グランの東郊外ではアルブレヒト王子の予備第3師団本隊が集合を終え、何時でも参戦出来るよう戦闘態勢を整えていたのです。


 一方、フォン・ヒンメン中佐率いる「バルネコウ兵団」の左翼支隊は、前述通り第16師団の前進以前にスクロール=ル=グランに向け進みました。

 ヒンメン隊は午前8時30分過ぎに近衛驃騎兵連隊の第5中隊がスクロール部落前にいた小さな仏軍前哨隊を襲ってこれを四散させ、その勢いのまま部落に侵入しあっという間に占領してしまいます。続けて部落に入ったヒンメン中佐は、ここに第81「ヘッセン=カッセル第1」連隊のF大隊と近衛驃騎兵の第4,5中隊を残すと、残りを率いて午前9時に仏ジスレーン旅団が構えるコンステクール目指し前進を開始しました。第19「ポーゼン第2」連隊の第1大隊は強力な守備隊が見え隠れするコンステクール部落に面して開けた南方の原野に展開し、野砲兵第5「ニーダーシュレジエン」連隊の予備軽砲中隊は散兵線後方に砲列を敷きました。ここで部落の仏軍との間で銃砲撃戦が繰り広げられますが、兵力に勝り遮蔽も多い仏軍に対して、不利な地形にあった比較的小規模のヒンメン隊は防戦一方となり、部落へ前進することは適いませんでした。


挿絵(By みてみん)

サン=カンタンの戦い 独仏の死闘


 この第16師団の右翼(東)側では、伯爵フランツ・ヒラー・フォン・トゥール・リッペ=ビースターフェルト=ヴァイセンフェルト中将率いる騎兵第12「ザクセン王国(S)」師団がラ・フェール~サン=カンタン街道(現・国道D1044号線)上を北上していました。これに対抗したのは仏デロジャ師団のアイネ中佐旅団で、将兵はザクセン騎兵の前進を知らされるとサン=カンタン南の郭外市街から駆け足で出撃して戦場を南下し敵と正面から衝突する態勢を取りました。仏軍はこの時、ヌーヴィル=サン=タマン(トゥ・ヴァン風車場の東3.5キロ)とラ・ポンチュ(農場。ユルヴィエの北1.6キロ。敷地と境界並木が残ります)の北方高地に展開し、付属した砲兵2個中隊が、前進してコルネ・ドール(小部落。ユルヴィエの北東1.3キロ。現存します)の西方に順次砲列を敷いた独野砲兵第12「S」連隊の騎砲兵第1,2中隊を狙って砲撃を始めたのです。この時前衛にあった猟兵第12「S第1/王太子」大隊の第1,3中隊はラ・ポンチュ北方高地の敵に向かって前進を図りますが、ラ・ポンチュの北で本街道の東脇にあった庭園(ヴァレ・マドモワゼル。ヌーヴィル=サン=タマンの南西1.7キロ付近。現在は耕作地になっていますが一部それらしき境界並木が残ります)に潜んでいた強力な仏軍部隊によって迎撃され、これ以上進むことが適わずコルネ・ドールへ退却するしかありませんでした。

 これによりS騎兵師団はコルネ・ドール付近に自然集合する形で停止を余儀なくされます。ザクセン将兵たちはこの地でしばらく騎砲11門による砲撃のみを行って耐久し、その後に伯爵ベルンハルト・オットー・シュテラウス・フォン・ホルツェンドルフ中佐が率いる猟兵第12大隊は遮蔽が全く存在しない危険な平原を横切って再度ラ・ポンチュ北高地の敵陣を目指して進みました。するとパリ包囲網から送られた待望の増援、トルニエから到着したばかりのフュージリア第86「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊の第2大隊も、騎砲兵第2中隊の3門を同行させヌーヴィル=サン=タマン目指し前進を開始するのでした。


 午後1時30分。猟兵第12大隊は午前中に半大隊が撃退された庭園を全力で襲い仏軍を駆逐しますが、陣頭指揮中だった中隊長の一人、バルトキー大尉を失ってしまいます。続いて庭園の東にあった一軒農家(ヌーヴィル=サン=タマンの西南西1.2キロ付近。現存しません)に対し突撃を敢行して占拠すると逃げ遅れた多くの仏兵を捕虜とするのでした。同じくフュージリア第86連隊兵もしばらく後でヌーヴィル=サン=タマン部落に突進して部落占領に成功します。シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州のフュージリア兵は退却するアイネ旅団を追撃して損害を与え、仏旅団の残存兵をサン=カンタン郭外市街へ追い払ったのでした。

 しかし、トゥール・リッペ将軍は指揮下の歩兵が僅か2個大隊しかない状況からこれ以上の攻撃機動を中止させ、騎兵たちをラ・フェール本街道の両脇に待機させると、歩兵をヌーヴィル=サン=タマン周辺に集合させて防御・警戒待機に入ったのでした。


挿絵(By みてみん)

サン=カンタンの戦い戦場図(東・南部)


 遡って午後12時30分過ぎ。仏ベッソル准将師団は鉄道沿いと本街道に掛けて展開する独第16師団に対し本格的な反撃に転じました。

 結果、優勢な兵力で「力押し」を仕掛けた仏軍に押された鉄道線路両側の独前線諸隊は耐え切れずに撤退を始めますが、鉄道堤の西方にあった4個中隊(第29連隊の第8に第69連隊第8の両中隊と、救援として前進して来たフュージリア第40連隊の第10,11中隊)は良く耐えて逆襲に転じ、一度は退いた元の陣地を奪還します。しかし、線路東側では銃弾が殆ど尽きてしまった諸中隊をフォン・ローゼンツヴァイク大佐が集めてエシニー=ル=グラン西郊外の高地まで引き上げさせたのでした。


 バルネコウ将軍は、この第16師団の戦線中央に開いた穴を塞ぐためにヘルツベルク大佐に命じ、これにより第32旅団とフュージリア第40連隊の第2大隊が前進を始め、これら諸隊はグリュジー方面に向けて疾走しつつ鬨を上げて仏軍散兵群を襲い、鬼の形相で迫る独軍の「圧」に押された仏フェルステ旅団は再び製糖工場へ撤退するのです。独第32旅団はここで鉄道西側の4個中隊との連絡を回復し、前線を回復するのでした。

 この時、バルネコウ将軍は本街道の東側・ユルヴィエの北西方高地にあった砲兵陣地に軽砲第6中隊を加えますが、先ほどの仏軍逆襲で前進し、大地の起伏を遮蔽に居残った仏散兵の一群が砲兵陣地を小銃の射程に収め、独砲兵に対し猛烈な銃撃を浴びせ始めたため、ルートヴィヒ・アム・エンデ大尉率いる第70連隊のF大隊が本街道脇を前進して仏軍を攻撃し、砲兵に銃撃を浴びせていた仏散兵群を谷地の北へと撃退するのでした。アム・エンデ大尉はそのまま砲兵のいる高地北斜面に留まって仏軍を警戒するのです。

 この後、バルネコウ将軍は砲兵陣地北の第70連隊F大隊と本街道西と鉄道線の間で仏軍を撃退したフュージリア第40連隊の第2大隊との間隙に第70連隊の第3,4中隊を送り込んで新たな前線を作り出し、この前線の右翼(東側)後方となるユルヴィエ西の谷地内に驃騎兵第9連隊と予備騎兵第3旅団を集合待機させました。同時に予備第3師団を好機に投入しようとエシニー=ル=グランの北西郊外へ進ませるのです。


 この動きを最後に、サン=カンタンの南方戦線は双方共に暫くの間攻撃機動が収まるのでした。


☆ 独軍左翼の戦い


挿絵(By みてみん)

サン=カンタンの戦い戦場図(西・北部)


 この19日。ソンム川の右岸(ここでは概ね西・北岸)では、仏北部軍のロペン准将師団がファイエと旧・ローマ街道沿いのフランシイ間に、ペイヤン海軍大佐師団中ドゥ・ラグランジュ海軍中佐旅団がアムへの街道(現・国道D930号線)に左翼(南)を置いて展開した後、独軍の接近を見て独立旅団のイスナール大佐旅団が市街から出撃し、ラグランジュ旅団とロペン師団との間を埋め前線を形成するのでした。ペイヤン師団のミシュレ旅団は当初予備となって市街西方に待機となりました。 


 この仏第23軍団に向かって行ったのは騎兵第3師団長の伯爵ゲオルク・ラインハルト・フォン・デア・グレーベン=ノイデルヘン中将率いる歩騎混成兵団で、将軍は午前8時にポアイイを出立しサン=カンタンへ向かうのです。

 この兵団で前衛となったのはメメルティ将軍の負傷により擲弾兵第1連隊長のカール・ヴィルヘルム・フォン・マッソー大佐が臨時に率いることになった第1軍団の「混成師団」でした。大佐はこの日、歩兵8個大隊・騎兵7個中隊・砲28門で旧ローマ街道のサン=カンタン~アミアン街道(ヴェルマンまでは現・国道D1029号線。ヴェルマン以東は部落南から南東に延びる農・林道)上を進み、その左翼(北)には騎兵第7旅団を中核とした「混成騎兵旅団」が伯爵フリードリヒ・ジークマル・ツー・ドーナ=シュロビッテン少将に直率されて並進し側面警戒に当たったのです。


 独軍左翼側で最初に敵と遭遇したのはフォン・デア・グレーベン兵団の先鋒、槍騎兵第7連隊長で「普仏戦争で最初に仏軍と戦った男」エデュアルド・フォン・ペステル中佐率いる歩兵3個大隊・騎兵5個中隊・砲10門の支隊でした。

 ペステル支隊はヴェルマンで仏の落伍兵を発見して捕虜にすると、そのまま部落を通過し本街道を逸れて旧ローマ街道の脇街道上を急ぎましたが、オルノン(ヴェルマンの東南東5キロ)の西郊外でロペン師団の前哨を発見、たちまち戦闘状態となったのです。この時仏軍は数個中隊の歩兵をオルノン西にある森林(現存します)中に展開させて独軍縦隊に向け銃撃を行いますが、ペステル中佐は前衛の砲兵をこの森北方に緊急展開させて仏軍を砲撃させ、直後に第44「オストプロイセン第7」連隊のF大隊が森から部落へと突撃を敢行すると仏軍前哨は短時間で森と部落を棄てて東隣のセランシー部落(オルノンの東900m)へ逃走するのでした。これを第44連隊の第10,11中隊と擲弾兵第1「オストプロイセン第1/皇太子」連隊の第7中隊が追撃し、殆ど仏軍敗走兵と同時にセランシーへ達すると部落内の仏軍を掃討して東郊へ突き抜け、後から進んで来た擲弾兵第1連隊第2大隊の残り3個中隊がセランシーを占領するのです。この時、歩兵に後続して進んだ野砲兵第7連隊の騎砲兵第1中隊・2個小隊は、混成師団本隊からやって来た野砲兵第1連隊の軽砲第4,6中隊と共にオルノンの北方で砲列を敷き戦闘に参加するのでした。直後、オルノンに到着したマッソー大佐は、セランシーから第44連隊の2個中隊を召還すると擲弾兵第1連隊F大隊と前衛砲兵の重砲第5中隊を予備としてオルノン部落周辺に待機させ、混成師団残りをオルノンとファイエ(オルノンからは東北東へ2.9キロ)間にある風車場の高地(セランシーの北東1キロ付近。風車場跡に小林があります)に向けて前進を続行させるのです。

 その先鋒に立った擲弾兵第1連隊の第6中隊はムーラン・コット(農家。セランシーの北東700m付近。現在この地に家屋は数軒ありますが、該当する農家は多分現存しません)を占拠するのです。同時にセランシーから突進したイェールマン大尉の同連隊第8中隊とアウエル・フォン・ヘルレンキルヘン1号*中尉の第7中隊は、ムーラン・コットと風車場間に展開していた仏軍を攻撃してこれを退却させ、この際に砲撃中だった仏軍砲兵を急襲して4ポンド野砲1門の奪取に成功、更に逃げた砲手が放棄した弾薬運搬馬車2輌の鹵獲に成功すると付近で手を挙げた多くの仏兵を捕虜とする手柄を上げたのでした。しかし、この成功も束の間、セランシーの南に接するフランシイ(セランシーの南800m。現在はフランシイ=セランシーとなり同じ集落です)に強力な仏軍が構えていることが発見され、マッソー大佐は急ぎ擲弾兵第1連隊の将兵を招聘し、ムーラン・コットからセランシーへと引き返させたのでした。


※当時の独軍では同じ姓名を持つ将兵が同階級だった場合、先任順に「1号」「2号」と番号を付け識別しています。


 フォン・デア・グレーベン兵団の右翼(南)では、ルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー中将率いる第15師団が同日午前8時にボーヴォワ=アン=ヴェルマンドワを発って午前10時にはエトレイエ(ヴェルマンの南5.5キロ)に到達し、すると師団は南方のアム街道(現・国道D930号線)上でルピー(エトレイエの南東2.5キロ)をサン=カンタンに向け通過中の仏騎兵部隊を発見するのです。

 昨日、テルトリーで敵の後方諸縦列を襲ったものの逆襲にあって鹵獲を諦めざるを得なかったルドルフィ騎兵大尉率いる驃騎兵第7「ライン第1/国王」連隊の第4中隊は、仏騎兵を襲撃するべくエトレイエから東へ急進し、敵がいなかったサヴィー(エトレイエの東2.3キロ)を越えるとアム街道沿いのレピンヌ・ドゥ・ダロン(小部落。サヴィーの東3.2キロ)の南西方高地上で敵の騎兵1個中隊と遭遇しました。積極果敢で鳴らす独ライン驃騎兵を発見した仏軍騎兵は騎馬戦を諦め街道脇で下馬すると、騎銃を構えて迫る独驃騎兵に応戦し猛射撃で撃退を試みましたが、ルドルフィ騎兵大尉を始めライン驃騎兵たちは怯むことなく襲い掛かり、この騎兵中隊を撃破・敗退させるのでした。続いて同中隊は北方に発見した別の仏軍騎兵部隊を追い、この敵をサヴィー方面へ誘引するとサヴィーに進んでいた第65「ライン第5」連隊の第2大隊が仏騎兵を狙って銃撃を浴びせ、これを四散させるのでした。

 同大隊は独第29旅団の先鋒となっていましたが、この後サヴィーの北東方でフランシイとの間にあった大小二つの森(サヴィーの北東2キロ周辺。一部が現存します)に向かって前進を図ったところ、突如榴弾砲撃を浴びたのです。実はこの森を中心としてフランシイとレピンヌ・ドゥ・ダロンの間には強力な仏軍部隊が布陣していたのでした。

 この仏軍部隊の正体はイスナール旅団(仏右翼)とラグランジュ旅団(仏左翼)で、その後方にペイヤン師団砲兵2個中隊が布陣していました。この仏砲兵に対抗して野戦砲兵第8連隊の軽砲第1と重砲第1,2中隊が順次サヴィーの東郊外に砲列を敷き応射を始めたのでした。


挿絵(By みてみん)

独軍騎兵を待ち受ける仏竜騎兵


 サヴィー北東森林へ向かった第65連隊の第2大隊は、追って到着した同連隊のF大隊と合同し、仏兵が構える2個の森林へ突進します。そして南側の小さな森林(以降「南小林」とします)に在った仏軍部隊を短時間で駆逐しましたが、北側の大きな森林(以降「北森」とします)には仏イスナール旅団主力がどっしりと構えており、戦闘はたちまちにして膠着状態となったのでした。


 歩兵が激闘を繰り広げる中、北方のオルノン~ファイエ間の戦場では第1師団砲兵隊長のムンク少佐がマッソウ大佐麾下の砲28門を統括指揮し、砲列を風車高地上の一ヶ所に集中させるとムーラン・ドゥ・セピー(風車場。ファイエの南東2キロ付近。現存しません)の西に展開していた仏ロペン師団や第23軍団砲兵、そして旧ローマ街道上をサン=カンタン市街へ退却中の仏軍縦隊を狙って砲撃しました。ところが、砲撃僅か30分ほどで独砲兵諸中隊は弾薬が殆ど尽きたことを訴え始めます。これは前日に消費した弾薬を補給すべきところ、「空」となった隊付きの弾薬馬車群が後方にある第8軍団の弾薬縦列に出向いたまま戦闘開始までに帰着出来なかったため生じた緊急事態で、しかもファイエ市街とその南に展開するロペン師団兵による狙撃で砲兵自体にも損害が続出したため、ムンク少佐は無念にも砲列に対しオルノンへの一斉撤退を命じたのでした。

 しかし、砲兵は撤退したもののオルノンから再度進み出た歩兵歩兵6個(第44連隊・第1,2,5~8)中隊は風車場高地に集合を終わり、高地上からファイエ部落に向けて前進を開始するのです。この独軍半大隊はファイエ部落郊外で一旦停止して銃撃戦を繰り広げた後の午後1時、本隊を率いるモーリッツ・カール・アルベルト・ボック少佐に直率され一斉にファイエ部落内へ突入、部落から仏軍を追い出したのでした。

 本隊残りの内、擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊の第1大隊は南方のフランシイに発見された仏軍のためにセランシーに進み、同連隊第2とF両大隊はオルノンに留まります。少し後には風車上高地から退却した砲兵の内、ようやくオルノンに到着した弾薬馬車から補充を終えた重砲2個中隊が再び風車場高地に進み、ムーラン・ドゥ・セピー西の仏砲列と激しい砲撃戦を繰り広げるのでした。


挿絵(By みてみん)

フェイエの戦闘 前進する仏ノール県護国軍部隊


 この時、仏第23軍団長アンソニー・ジャン=ジャック・ユージン・ポールズ・ディボイ・ドゥ・ラ・ポップ准将は、「このままではカンブレへの退路を封じられ、北部軍全体がサン=カンタン市街に包囲されてしまう」と危惧し、予備として市街西郊外に待機していたミシュレ旅団を呼び寄せ、ファイエ周辺にあったロペン師団兵と併せて強大な散兵群となって独軍が占拠したばかりのファイエとムーラン・コットを襲わせます。仏軍必死の逆襲を受けたフォン・マッソウ大佐は無理をせず前線部隊を風車場高地まで下げさせました。マッソウ大佐としてはそれまでの仏軍の行動通りファイエやムーラン・コットの農家を奪還すればそれで満足するだろうと踏んでの後退でしたが、この時はそうでなく、気力を振り絞った仏軍諸隊は風車場高地めがけて殺到するのでした。ここで臨機応変・独断専行でスランシーから前進して来た独の5個中隊*が機会良く南方から参戦し、仏軍の左翼側面を突いたため仏軍の突進は腰砕けとなって、急ぎ転回しファイエへと戻ったのでした。混乱した仏軍はファイエの南にあったボワ・デ・ロズ(農家。ファイエの南南西1.2キロ。現存しません)にいた部隊も襲来した独軍部隊に降伏し、ここでは多くの捕虜を出し、弾薬馬車1輌が鹵獲されるのです。


挿絵(By みてみん)

ポールズ・ディボイ・ドゥ・ラ・ポップ


※午後12時頃・スランシーからファイエの南方に進んだ独軍の5個中隊

・擲弾兵第1連隊の第6,7中隊

・擲弾兵第4連隊の第2,4中隊

・第44連隊の第4中隊


 フォン・デア・グレーベン兵団の前衛がファイエ付近の戦闘で血汗を流している正午過ぎ、その右翼側では第15師団が仏第23軍団の最左翼(南)としてソンム河畔からレピンヌ・ドゥ・ダロン付近までに在ったラグランジュ旅団による包囲攻撃を阻止していました。


 前線で死闘を繰り返す第65連隊を救援するため、フュージリア第33「オストプロイセン」連隊の第1大隊が、次いで同連隊の第3大隊が「南小林」の南方にあった窪地に集合します。この頃には予備としてマティニー(アムの北西7キロ)にあった第8軍団砲兵隊もサヴィー付近に到着し、その数個中隊が砲列を敷き砲撃を始めていましたが、午後には更に重砲第3,4中隊も砲列に加わったのです。ラグランジュ旅団右翼は短時間「南小林」を奪い返しますが、独第65連隊第1大隊の猛攻撃により再び撤退するしかありませんでした。


 こうして独仏前線での戦闘は熾烈を極め、仏第23軍団は午後1時30分になってもファイエ~フランシイ間とその南にある「北森」を固守し譲らず、「南小林」こそ独軍が確保しますがその直ぐ南側の街道筋(現・国道D68号線)やサヴィーの東郊外ではイスナール旅団やラグランジュ旅団兵が戦線を維持し、この数倍に及ぶ敵を前に独第15師団の前衛・第29旅団も徐々に防御へと転じるしかなかったのです。


 サン=カンタン市の南と西、ソンム南北両岸で発生した「サン=カンタンの戦い」前半戦は両戦線共に午後1時と2時の間で自然停戦状態となります。しかしこれはBOXのラウンド間のようなもので、両軍「息を整えるための小休止」に過ぎません。午前中前線近くまで進出し第16師団の戦闘を観戦していたゲーベン将軍は、再び攻勢に転じるため軍の総予備を投入し、必ずや本日中にサン=カンタン市街へ突入することを決心するのです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ