サン=カンタン会戦に至るまで(後)
☆ 1月17日(承前)
仏北部軍は1月17日、独第16師団前衛がアム方面へ去ったばかりのヴェルマン(サン=カンタンの西北西10.4キロ)周辺に到達しました。
この日の夕刻までにデロジャ師団(第22軍団第1)のピティ大佐旅団(師団第2)がコーランクール(サン=カンタンの西13キロ)、アイネ中佐旅団(師団第1)がヴェルマンに進み、ベッソル師団(第22軍団第2)は前衛がポアイイ(ヴェルマンの西3.2キロ)とベルヌ(同北西5キロ)、後続がアンクール(ベルヌの西南西2.1キロ)まで進みます。
また、ペイヤン師団(第23軍団第1)はヴォンデル(ヴェルマンの北3.8キロ)へ、ロペン師団(第23軍団第2)は少し離れてエプイー(カンブレの南南西20.2キロ)へ進み、ポリー旅団はバポームを出てベルタンクール(バポームの東南東9.6キロ)へ、イスナール旅団はサン=カンタンに留まりました。
こうしてカンブレの南方からサン=カンタンの西方までに進んだ仏北部軍ですが、フェデルブ将軍は翌18日に両軍団をサン=カンタンへ集合させようとするのです。
フェデルブ将軍は17日の夜、翌日の行軍命令を発し、それによれば第22軍団のピティ旅団とベッソル師団がコーランクールを経由して南下、ボーヴォワ=アン=ヴェルマンドワ(ヴェルマンの南西5.3キロ)で南東に転進しスクロール=ル=グラン(サン=カンタンの南西9.1キロ)でソンムを渡河、サン=カンタンのソンム南岸に展開することとなりました。第23軍団はアイネ旅団と共に真っ直ぐサン=カンタンを目指し、イスナール旅団と合流して市内外とその北に宿営地を設け、ポリー旅団はこれら北部軍本隊が万が一北部要塞地帯へ撤退する場合にその「逃走路を開けておく」ため、サン=カンタンとカンブレとのほぼ中間の地、ランピール(カンブレの南南西21キロ)に進むこととなりました。
サン=カンタン戦線/1月17日
☆ 1月18日早朝
翌18日。独第一軍司令官フォン・ゲーベン歩兵大将はサン=カンタン方向への行軍を継続させ、かつ行軍しながら少しずつ兵力を集中させて行こうとします。
この日早朝、ゲーベン将軍は、第15師団長フォン・クンマー中将に対し「麾下第15師団とフォン・デア・グレーベン将軍の兵団からなる軍の左翼(北・西側)を統括指揮し、エトレイエ(ヴェルマンの南5.5キロ)とヴェルマンを経由してサン=カンタンへ前進せよ」と命じます。更に加えて「敵がサン=カンタンを抑えている場合は攻撃を控えて偵察に留め、もし敵が北方に退却している場合は追撃し、万が一南方に行軍を続行中ならば直ちにその側面並びに背面を攻撃せよ」と命じたのでした。
同時に軍右翼(南・東側)中、騎兵第12「ザクセン王国」師団に対しては、「サン=カンタン南方を周回しつつモア=ドゥ=エーヌ(サン=カンタンの南南東12キロ)及びヴァンデュイユ(モアの南3.9キロ)でオアーズ河畔へ到達せよ」と、第16師団と予備第3師団に対しては「ソンム左岸(概ね南岸)で全軍ジュシー(サン=カンタンの南南西14.3キロ)又はアンまで進み待機せよ。同地において敵の動静により別に命令を与える」とするのです。
ゲーベン将軍の出陣
☆ テルトリーとポアイイの戦闘(1月18日)
1月18日。独第15師団傘下の第29旅団は午前8時、前日の宿営地ペロンヌの南方ソンム河畔のサン=クリスト(=ブリオスト。ブリの南2.5キロ)を発ち、ソンム支流オミニヨン川沿いの街道(現・国道D45号線)を進むとドゥヴィーズ(サン=クリストの東5.5キロ)を経て先ずはテルトリー(サン=カンタンの西15.6キロ)を目指しました。
その同僚第30旅団はブリを発つとサン=カンタンへの旧ローマ街道(現・国道D1029号線)を東へ行軍し、エストレ=アン=ショセ(ブリの東7.6キロ)で第29旅団の後方に付く予定でした。
※1月18日早朝・第15師団の戦闘序列
師団長 ルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー中将
◇第29旅団 旅団長代理/オスカー・フォン・ボック大佐
○フュージリア第33「オストプロイセン」連隊・第1、3大隊
○第65「ライン第5」連隊
○驃騎兵第7「ライン第1/国王」連隊・第2,4中隊
○野戦砲兵第8「ライン」連隊・重砲第1中隊、軽砲第1中隊
◇第30旅団 旅団長/オットー・ユリウス・ヴィルヘルム・マクシミリアン・フォン・ストルブベルク少将
○第28「ライン第2」連隊(第9,12中隊欠)
○第68「ライン第6」連隊
○猟兵第8「ライン」大隊(ブリにてストルブベルク将軍麾下となりました)
○驃騎兵第7連隊・第1,3中隊
○野戦砲兵第8連隊・重砲第2中隊、軽砲第2中隊
*ヴィレ=ボカージュより本隊合流を目指し行軍中
○フュージリア第33連隊・第2大隊
*ブリ付近で橋梁警備
○第28連隊・第9,12中隊
*カピー(ペロンヌの西13キロ)付近の橋梁警備後、本隊合流目指し東へ行軍・18日夕刻第30旅団に合流
○第8軍団野戦工兵・第2中隊
テルトリー=ポアイイの戦闘・戦場図
ボック大佐の第29旅団はこの日午前10時30分、テルトリーでオミニヨン川を渡河し、ボーヴォワ=アン=ヴェルマンドワ(テルトリーからは南東へ3.4キロ)へ向かった途端、仏第22軍団の後衛と遭遇、突発的な戦闘状態となります。
同軍団の最後尾にあったフェルステ大佐旅団(ベッソル師団第1旅団)は、本隊こそテルトリーを通過していましたが多数の荷馬車による輜重や糧食縦列が未だ後方を進んでおり、この光景を見た驃騎兵第7連隊のルドルフィ騎兵大尉は2個(第2,4)中隊を率いると、仏軍縦列の両側に展開しつつ同行し護衛していた歩兵1個大隊に対して果敢に突撃を敢行するのです。不意を突かれた仏歩兵は反撃もままならず壊乱し逃走する者多数、驚く馬匹は車輌を倒して逃げ廻り、多くの転覆した馬車が街道を塞いで混乱を増長し、辛うじて脱出に成功した馬車はコーランクール方面へ一目散に逃走するのでした。大量の鹵獲品と捕虜を前にして喜んだライン驃騎兵でしたが、それも束の間、直ちに仏軍の救援が現れ猛射撃を加えて来たためルドルフィ騎兵大尉は鹵獲品と捕虜を諦めるしかなく、急ぎ撤退するのでした。
フェルステ旅団は後続輜重が攻撃されているとの報告を受けると転向し、後方に現れ輜重を襲った独軍と対決するためトレッフコン(テルトリーの東南東1.8キロ)へ進みます。既にこの部落には独第15師団の前衛、第65連隊と到着順に砲列を敷いた砲兵3個(野砲兵第8連隊の軽砲第1、重砲第1,2)中隊が陣を敷いていました。仏軍の接近に独軍の砲18門による砲撃が開始され、合わせて始められた歩兵の一斉銃撃は迫る仏軍をボーヴォワ(=アン=ヴェルマンドワ)の北方で足止めさせます。ところが独軍砲兵たちは至近距離にあった森に侵入した仏軍散兵から猛銃撃を受けたために危機に陥ってしまうのです。そこで第65連隊から第1大隊がこのオミニヨン沿岸の森に突入し、仏散兵群を潰乱状態に貶めて追い払ったのでした。
その後第65連隊は、再三再四襲撃して来る仏兵をことごとく撃退しますが、これを知った仏旅団長ジョセフ・アルチュール・デュフォーレ・デュ・ベッソル准将は午後2時30分、自ら前線にやって来ると自棄を起こして突撃を繰り返すフェルステ大佐ら前線指揮官たちを諫めて攻撃を中止させ、後方警戒を密にしつつフェデルブ将軍の命令を遵守して諸隊をソンム河畔のスクロール=ル=グラン方向へ導いたのです。
ボーヴォワ=アン=ヴェルマンドワ (1900年)
この18日夜。第23軍団と行を共にしたアイネ中佐旅団を除く仏第22軍団の3個旅団は、サン=カンタンの南方郊外に達し宿営に入りました。
時計は遡り同18日の正午前。
仏第23軍団長のアンソニー・ジャン=ジャック・ユージン・ポールズ・ディボイ・ドゥ・ラ・ポップ准将はテルトリー方面で戦闘が行われていることを示す「戦場音」を聞き、ヴェルマンに向かって行軍し始めたばかりの麾下諸隊を一斉に停止させます。そして輜重縦列のみをサン=カンタンに向けて送り出すと、状況確認のためミシュレ中佐旅団(軍団第1師団第1)に対し、コーランクールを抜けて敵(独第15師団)の左翼側(北・西方)に向かって進むよう命令したのです。
対するフォン・クンマー将軍は師団左翼警戒のため、フェルム・ドゥ・コビニー(農場。コーランクールの西2キロ。犬の繁殖場として現存します)に猟兵第8大隊を送り、その周辺の丘陵や近隣の作業小屋などを占拠させ、第68連隊の第1大隊を猟兵の後援として続行させるのでした。
ライン猟兵たちは現地に到着するなり襲来した仏ミシュレ旅団と衝突し、第68連隊兵の援助を受けつつ2時間以上に渡る銃撃戦を行った後に攻勢に出、仏軍を押し出すと午後3時頃、その勢いに乗ってコーランクール部落内へ突入します。結果部落は占領され仏兵約100名が捕虜となり、仏輜重が運び出せなかった糧食馬車14輌が鹵獲されたのです。因みにコーランクールの戦闘にはフォン・デア・グレーベン将軍麾下の前哨兵、擲弾兵第4連隊第1中隊も参加していました。
追いつめられ捕縛に来た独槍騎兵を撃つ仏斥候兵
再び時計の針を同日午前11時45分まで戻します。
フォン・デア・グレーベン将軍はこの時、ペロンヌを通過すると麾下と共にドアン(ペロンヌの東南東2.3キロ)まで進んでいましたが、ここでテルトリー方面に砲声を聞き、フォン・メメルティ少将に対し現在掌握している部隊*を直率してテルトリーに向かって前進せよ、と命じました。
※1月18日正午・フォン・メメルティ将軍直率諸隊
○擲弾兵第1「オストプロイセン第1/皇太子」連隊・第2、F大隊(第1旅団)
○擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊(第3旅団)
○第44「オストプロイセン第7」連隊(第3旅団)
○槍騎兵第7「ライン」連隊・第1,2,4中隊
○野砲兵第1「オストプロイセン」連隊・重砲第4,5中隊
○同連隊・軽砲第4,6中隊
*以下はこの日行軍中に配下となったもの
○槍騎兵第5「ヴェストファーレン」連隊・第1,4中隊
○槍騎兵第14「ハノーファー第2」連隊・第1,4中隊
○野砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・騎砲兵第1中隊の2個小隊(4門)
メメルティ少将は歩騎砲兵併せて1個師団以上の強力な支隊を率いて戦場へ急ぎ、交戦中の第15師団左翼に連携しようと図ります。ところが同行したフォン・デア・グレーベン将軍は途上、「仏軍の攻撃発起点はどうやらヴェルマンにあり、増援や戦線拡張ではなく直接ヴェルマンを突けば救援の効果は倍増しとなるだろう」と考え、メメルティ将軍に対し「エストレ=アン=ショセに至ったら、サン=カンタンへの旧ローマ街道(現・国道D1029号線)に乗り、ヴェルマンを目指せ」と命令し直すのでした。するとメメルティ隊は前進間もなくポアイイに強力な仏軍部隊が展開していることを発見するのです。
ポアイイ フレシンへの街道 (20世紀初頭)
敵を見たメメルティ将軍は直ちにポアイイを攻撃すると即決し、先ずは砲兵に働いて貰おうと4個中隊(騎砲4門は予備で待機しました)に砲列を敷かせ砲撃を開始させました。砲撃に対する仏軍の抵抗が薄いと感じたメメルティ将軍は更に砲列を部落へ接近させますが、その最中にフォン・スタインベーア大尉は手近の擲弾兵第4連隊兵を率いて砲撃を待たず一気にポアイイ部落へ突進し、部落手前で短時間停止して隊列を整えさせると将兵に鬨を上げさせ、オストプロイセンの擲弾兵たちは雪崩のごとく部落内へ突入しました。既に戦意を失っていた様子の仏軍将兵は多くが持ち場を棄ててヴェルマン方向へ逃走し、居残った兵士たちも抵抗僅かで力なく手を挙げ捕虜となったのです。
また、フリードリヒ・バルツァー・フォン・ストランツ少佐が指揮する槍騎兵第14連隊の第1,4中隊は擲弾兵の左翼(北)側に続いて攻撃に加わり、ポアイイの北郊外を進んでフレシン(ポアイイの北1.7キロ)とソイエクール(同北東2キロ)間の窪地に至りました。
ソイエクールには仏の臨時護国軍部隊がいましたが独軍の接近を知ると退却を始めており、槍騎兵第14連隊の第1中隊長モーリッツ・ルドルフ・フォン・カイゼンベルク騎兵大尉は部下を引き連れこの仏軍を襲撃しました。するとたちまち仏の隊列は四分五裂となり、槍騎兵小隊長のシャハトルップ少尉は部下と共に先行し、更に大きな一群の仏縦隊を襲撃しますが、こちらの敵は踏み留まって激しく抗戦したため、ストランツ少佐とカイゼンベルク大尉は落馬して負傷し、若いシャハトルップ少尉は壮絶な戦死を遂げてしまうのです。
擲弾兵第4連隊はこの騎兵襲撃の間に追撃を敢行し、午後3時30分にはヴェルマンの西郊外に達しましたが、この地では仏ペイヤン師団がほぼ集合を終えて部落を守るように展開するのを見、またその北方ソイエクールとヴォンデル(ヴェルマンの北3.7キロ)間にはロペン師団(第23軍団第2「臨時護国軍」師団)がゆっくりと東へ進んでいるのが望見されたのです。そこでメメルティ将軍は敵の足止めを狙って槍騎兵第14連隊が確保したフレシン~ソイエクール間の窪地東側に重厚な散兵線を敷き、敵軍団に対し持久銃撃戦を仕掛けたのでした。ところが、この銃撃戦初期、陣頭指揮を執っていたメメルティ将軍は下半身に銃弾を浴びて重傷を負い後送されてしまいました。余談ですが、将軍はこの傷が元で一生足が不自由となったため野戦指揮官を降り、戦後はダンチヒ(グダニスク)の要塞司令官となっています。第1軍団の混成師団はこの後、擲弾兵第1連隊長のカール・ヴィルヘルム・フォン・マッソー大佐が臨機に掌握し指揮を執るのでした。
午後4時となると、戦線の左翼(西)に伯爵フリードリヒ・ジークマル・ツー・ドーナ=シュロビッテン少将率いる混成騎兵旅団も到着しました。この旅団はアンクール(ポアイイの北西3.3キロ)からベルヌを経てソイエクールの北方まで進出し、その騎砲兵中隊がヴォンデル周辺のロペン師団を砲撃します。
この後戦場は急速に暮れて夕闇に閉ざされ始め、フォン・デア・グレーベン将軍は部下を戦線に展開させたまま夜を迎えるのを厭い、麾下諸隊へポアイイとその周辺に集合するよう命じました。ところが、前線から独軍が離れ始めると対峙する仏軍が同調して追尾し、やがてはポアイイに夜襲を掛けるのではないか、との恐れが出始めたため、フォン・デア・グレーベン将軍は麾下に再び反転攻勢を命じ、反復して攻撃を仕掛けて来た仏第23軍団諸隊をことごとく撃退するのでした。
一方、コーランクールを押さえたクンマー将軍の第15師団は、午後も南進を続行するとボーヴォワ(=アン=ヴェルマンドワ)を占領し、ここで約200名の仏兵を捕虜とするのでした。この部落には第22軍団の砲1門も遺棄されており勿論これも戦利品として鹵獲されたのです。
第15師団は夕刻に至りボーヴォワとコーランクールに分かれて宿営すると、仏第23軍団の襲撃を全て撃退したフォン・デア・グレーベン将軍兵団もポアイイとアンクールやその西側諸部落に宿営を求めるのでした。
ポアイイ 1871年慰霊碑
※「テルトリーとポアイイの戦闘」独軍の損害
*第1軍団
戦死32名・負傷244名・行方不明(捕虜)6名・馬匹損害27頭
*第8軍団
戦死15名・負傷66名・行方不明(捕虜)3名・馬匹損害53頭
*騎兵第3師団
戦死3名・負傷6名・行方不明(捕虜)1名・馬匹損害18頭
*総計
戦死50名・負傷316名・行方不明(捕虜)10名・馬匹損害98頭
※仏軍損害は不詳です。
ヴェルマンの戦闘 捕虜になる独驃騎兵
仏北部軍では午後4時頃、ヴォンデルのポールズ・ディボイ将軍の下にフェデルブ将軍が現れます。将軍は第23軍団が攻撃を受けていることを知ると一足先にサン=カンタン郊外へ到着していたアイネ旅団に対し第23軍団を救援するとしてヴォンデルへ引き返すよう命じ、旅団と共にに駆け付けたのでした。しかし既に夜に入って戦闘は終了していたため、フェデルブ将軍は第23軍団に対してサン=カンタン周辺まで進んで宿営するよう命じ、ポールズ・ディボイ将軍は疲れ果てた部下を叱咤激励しつつサン=カンタンに向かって前進させ、夜半にサン=カンタン市街とその西方諸部落に到着した諸隊はそのまま宿営に入るのでした。
この日、パ=ドゥ=カレー県の臨時護国軍兵からなるポリー旅団は命令通りランピールに到着しています。
その他フォン・ゲーベン将軍麾下の諸隊中、第16師団は特筆することなく夕方までにジュシーに到着し、予備第3師団はフラヴィー=ル=マルテル(アムの東南東9.4キロ)に達しました。フォン・ベッキング大佐率いる軍の総予備もアムに入り、ゲーベン将軍の本営もアムへ前進します。
第8軍団砲兵隊はリクール(ブリの南南西6.4キロ)からユニー(=レキペ。アムの北7.7キロ)を目指しましたがマティニー(同北西7キロ)で止まりました。これは前進方向(アムの北方)に正午頃まで仏軍の存在があったがための安全策でした。
騎兵第12「ザクセン王国」師団はオワーズ川に跨がってヴァンデュイユとアメジクール(サン=カンタンの南南東14キロ周辺)に宿営します。
ザクセン騎兵はこの日サン=カンタン周辺に多くの斥候を放ちましたが、その報告を集約すれば「仏軍はサン=カンタンに留まるものの市街を越えて前進するものなく、特にオワーズ川以東には全く存在しない」ということだったのです。
サン=カンタン戦線/1月18日
☆1月19日・朝
明けて19日。ゲーベン将軍は前日の「テルトリーとポアイイの戦闘」と前夜来の偵察報告から、仏北部軍がほぼサン=カンタン周辺に集中し、かつ南下していないことを掴み、今が戦機と考え「敵が一つに集合している本日を以て敵に向かい総攻撃を行う」ことを決しました。
しかし、そのためには出来る限り独軍も集中する必要があったのです。
一方のフェデルブ将軍も前進方向(南)に独軍が侵入し始めており、作戦通りオワーズ川方面へ進むためにはサン=カンタンに集中する全兵力を使用して南下し、独軍主力がオワーズ渓谷の「閂」を閉じてしまう前に最も近くにいる敵を撃破し渓谷へ突破するしか手はありませんでした。
ところがフェデルブ将軍はサン=カンタンから動くことなく、南と西に正面を取って敵の襲来を待ち受ける策に出るのです。何故ならば将軍は、「このままオワーズ河畔に向かって前進すれば、遮蔽の少ない地域で独軍を真横(西側)から迎えねばならず、いくら員数が勝るとも今の北部軍の状態では勝利は覚束ない」、と考えたからです。また、今の内ならば北部要塞地帯へ引き上げることも可能でしたが、それは明らかにボルドー派遣部が命じた「パリ軍の解囲出撃を援助する」目的を放棄したことになり、軍令違反の誹りを受けること必至でした。
それならば、と将軍はサン=カンタンで敵を待ち受けることを覚悟したのです。
サン=カンタン市と周辺の地形は戦術上防御側に有利となっており、市街周辺の諸高地は開けた射界を提供して砲兵や歩兵の散兵群がその効力を十分に発揮可能で、また遮蔽の多い市街は予備隊を隠蔽するにも適していました。また、独軍は市街南部を横切るソンム川のために市街を包囲するには川を隔てて東西に分かれるしかなく、逆に仏軍は市内と郊外に残る諸橋梁を利用して左右両岸を自由に連絡可能となるため、市街と周辺に集中展開することはフェデルブ将軍にとって理に叶っていたのでした。
しかし、そうは言っても守勢を採って敵の攻撃を待つことは、敵・独軍に時間を与えその兵力を最大限集中させることも可能となるはずで、そうなれば包囲される可能性も考慮しなくてはならないのです。
仏北部軍の行軍
この当時、サン=カンタンで衝突する仏北部軍(2個の独立旅団を含む)の総兵力は公称4万名となっており、独軍は3万2,580名と言われています。
この独軍の兵力には騎兵5,580騎も含まれていました。また、この19日の会戦に参加することとなるパリから派遣されて来たマース軍からの援軍・第16旅団のフュージリア第86連隊第2大隊も含まれます(戦闘の終盤にもう1個大隊がテルニエに到着しますが、これは含みません)。
※1871年1月19日における「サン=カンタンの戦い」に参戦した独軍兵力表
◎第8軍団
歩兵大隊・20個と1個中隊/騎兵中隊・8個/砲兵中隊・15個/工兵中隊・1個
歩兵員数・13,000名/騎兵馬数・880騎/砲数・90門
◎第1軍団(主力)
歩兵大隊・11個/騎兵中隊・0/砲兵中隊・6個/工兵中隊・0
歩兵員数・8,500名/騎兵馬数・0/砲数・36門
◎予備第3師団(近衛混成騎兵旅団含む)
歩兵大隊・4個と3個中隊/騎兵中隊・14個/砲兵中隊・3個/工兵中隊・0
歩兵員数・4,000名/騎兵馬数・1,500騎/砲数・18門
◎騎兵第3師団
歩兵大隊・0/騎兵中隊・14個/砲兵中隊・1個/工兵中隊・0
歩兵員数・0/騎兵馬数・1,700騎/砲数・6門
◎騎兵第12師団(フュージリア第86連隊第2大隊も含む)
歩兵大隊・2個/騎兵中隊・12個/砲兵中隊・2個/工兵中隊・0
歩兵員数・1,500名/騎兵馬数・1,500騎/砲数・11門
仏北部軍は19日、次のような戦闘配置を取る計画でした。
◎第23軍団
イスナール独立旅団を加え、ソンム右岸(ここでは西岸)でカンブレ街道(現・国道D1044号線の市街北方)とアム街道(現・国道D930号線)間のファイエ(サン=カンタン中心街から北西へ3.5キロ)からロクール水車場(ファイエの南南東3.8キロ付近。現存しません)までに展開。
◎第22軍団
ソンム左岸(ここでは東岸)で市街地を背面とし、ゴシーとグリュジー(それぞれサン=カンタン中心街から南へ2.4キロと南南西へ4キロ)に守備隊を置き、その左翼(東)端はラ・フェール街道(現・国道D1044号線の市街南方)まで延伸。
仏北部軍の野営
19日早朝。仏軍の実際配備は第23軍団が計画通りファイエ~ロクール間に進みますが、第22軍団は計画より少々外(南~西)に出て展開を終えます。この時、ポリー旅団はペロンヌからの街道とカンブレへの街道が交わるベリクール(サン=カンタンの北北西13キロ)に進み警戒・待機となりました。
同じく19日早朝。独第一軍は仏北部軍が前述の展開を終える前、先制攻撃を仕掛けます。
フォン・ゲーベン将軍の作戦によると、フォン・クンマー将軍率いる軍左翼(第15師団とフォン・デア・グレーベン兵団など)は昨日朝の命令に変更なく、午前8時にヴェルマン経由の街道上(現・国道D1029号線)とエトレイエ経由の街道上(現・国道D68号線)をサン=カンタンに向かって前進を開始し、街道前方に構えた仏前哨を駆逐しつつ市街北方から東に向かって市街地を包囲する構想で進みました。
同時にフォン・バルネコウ将軍率いる軍右翼(第16師団と予備第3師団など)はサン=カンタンとコンピエーニュを結ぶ鉄道本線に沿って北上し、更にエシニー=ル=グラン(サン=カンタンの南8キロ)経由の街道上(現・国道D1号線)をサン=カンタン市街に向け進みます。
その中間のソンム河畔スクロール=ル=グランには守備隊を置いて両翼との連絡を担わせました。また右翼外にはザクセン騎兵師団が第16師団のテルニエから前進して来る部隊を合わせてラ・フェール街道上をサン=カンタン目指して進み、仏軍左翼(南側)を包囲しようとするのでした。
軍の総予備「ベッキング支隊」は午前9時にアムを発ち、軍の前進に追従するよう命じられています。
そして各団隊には「もし敵が攻撃を回避し逃走するならば極力これを追跡すべき」との訓令も発せられるのでした。
サン=カンタンの市街図(19世紀)
※ 独第一軍・71年1月19日サン=カンタンの戦いにおける戦闘序列
総指揮官 アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン歩兵大将
◎ 右翼兵団 男爵アルベルト・クリストフ・ゴットリープ・フォン・バルネコウ中将(第16師団長)
● 前衛
◇第31旅団支隊 グスタフ・アドルフ・ハインリヒ・フォン・ローゼンツヴァイク大佐(第28連隊長)
○第29「ライン第3」連隊(第7中隊欠)
○第69「ライン第7」連隊・第2大隊
○驃騎兵第9「ライン第2」連隊・第2,3,4中隊
○野戦砲兵第8「ライン」連隊・重砲第5中隊、軽砲第5中隊
● 本隊
◇第32旅団支隊 アドルフ・カール・テオドール・フリードリヒ・フォン・ヘルツベルク大佐(第68連隊長)
○フュージリア第40「ホーフェンツォレルン」連隊
○第70「ライン第8」連隊・F大隊、第3,4中隊
○予備竜騎兵第1連隊・第4中隊
○野戦砲兵第8連隊・重砲第6中隊、軽砲第6中隊
◇予備騎兵第3旅団 男爵カール・フリードリヒ・テオドール・フォン・ストランツ少将
○予備竜騎兵第1連隊・第1,2,3中隊
○予備驃騎兵第3連隊・第1,2,3中隊
● 予備隊
□予備第3師団 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・アルブレヒト親王中将
◇混成歩兵旅団支隊 ハインリヒ・ゲオルク・エデュアルド・ヴィルヘルム・フォン・ゲーベン大佐(第19連隊長。フォン・ゼル大佐が疾病入院のため代理)
○第19「ポーゼン第2」連隊・F大隊、第5,7,8中隊
○第81「ヘッセン=カッセル第1」連隊・第1大隊
○近衛槍騎兵第2連隊・第4,5中隊
○野砲兵第5「ニーダーシュレジエン」連隊・予備重砲第1,2中隊
◇左翼支隊 カール・フリードリヒ・ルートヴィヒ・ハインリヒ・オットー・フォン・ヒンメン中佐(近衛驃騎兵連隊長)
○第19連隊・第1大隊
○第81連隊・F大隊
○近衛驃騎兵連隊・第1,4,5中隊
○野砲兵第5連隊・予備軽砲中隊
◎ 騎兵第12「ザクセン王国(S)」師団 伯爵フランツ・ヒラー・フォン・トゥール・リッペ=ビースターフェルト=ヴァイセンフェルト中将
● 前衛
オスヴァルト・ルードルフ・フォン・カルロヴィッツ大佐(S近衛「ライター」騎兵連隊長)
○猟兵第12「S第1/王太子」大隊・第1,3中隊
○S近衛「ライター」騎兵連隊
○野戦砲兵第12「S」連隊・騎砲兵第2中隊の1個小隊(2門)
● 本隊
カール・ハインリッヒ・タシーロ・クルーク・フォン・ニッダ少将(騎兵第23「S騎兵第1」旅団長)
○フュージリア第86「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・第2大隊
○猟兵第12「S第1/王太子」大隊・第2,4中隊
○槍騎兵第17「S第1」連隊
○野戦砲兵第12「S」連隊・騎砲兵第2中隊の1個小隊半(3門)
● 予備隊
フリードリヒ・モーリッツ・アドルフ・ゼンフト・フォン・ピルザッハ少将(騎兵第24「S第2」旅団長)
○槍騎兵第18「S第2」連隊
○野戦砲兵第12「S」連隊・騎砲兵第1中隊
(○第96「チューリンゲン第7」連隊・第1大隊)※午後に入って到着
◎ 左翼兵団 ルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー中将(第15師団長)
□ 第15師団 クンマー将軍直率
◇第29旅団支隊 オスカー・フォン・ボック大佐
● 前衛
男爵ヘルマン・ヴィルヘルム・カール・ゲオルク・フォン・デルンベルク中佐(第65連隊長)
○第65「ライン第5」連隊・第2、F大隊
○驃騎兵第7「ライン第1/国王」連隊・第4中隊と第2中隊の1個小隊
○野戦砲兵第8連隊・軽砲第1中隊
● 本隊
ヴィルヘルム・フェードア・ナターリス・アントン・フォン・ヘンニング中佐(フュージリア第33連隊長)
○フュージリア第33「オストプロイセン」連隊・第1、3大隊
○第65連隊・第1大隊(この大隊は誤って第30旅団の後方から続行します)
○驃騎兵第7連隊・第2中隊の2個小隊
○野戦砲兵第8連隊・重砲第1中隊
◇第30旅団支隊
オットー・ユリウス・ヴィルヘルム・マクシミリアン・フォン・ストルブベルク少将
○第28「ライン第2」連隊
○第68「ライン第6」連隊・第1、2大隊
○猟兵第8「ライン」大隊
○驃騎兵第7連隊・第1,3中隊(この内第1中隊は行軍中に第29旅団へ派遣されます)
○野戦砲兵第8連隊・重砲第2中隊、軽砲第2中隊
○第8軍団野戦工兵・第2中隊
◇第8軍団砲兵隊とその護衛
カール・ルイス・フランツ・アマルリック・ウルリヒ・フォン・ブリュッヒャー大佐(野戦砲兵第8連隊長)
○第68連隊・F大隊
○驃騎兵第7連隊・第2中隊の1個小隊
○野戦砲兵第8連隊・騎砲兵大隊
(騎砲兵第1,2,3中隊)
○野戦砲兵第8連隊・第2大隊
(重砲第3,4中隊)
(軽砲第3,4中隊)
◎ フォン・デア・グレーベン兵団
伯爵ゲオルク・ラインハルト・フォン・デア・グレーベン=ノイデルヘン中将(騎兵第3師団長)
□ 第1軍団混成師団
カール・ヴィルヘルム・フォン・マッソー大佐(擲弾兵第1連隊長)/後に男爵ヴィルヘルム・カール・フリードリヒ・フォン・ガイル少将(第1師団長/1月5日昇任)
● 前衛
エデュアルド・フォン・ペステル中佐(槍騎兵第7連隊長)
○擲弾兵第1「オストプロイセン第1/皇太子」連隊・第2、F大隊
○第44「オストプロイセン第7」連隊・F大隊
○槍騎兵第5「ヴェストファーレン」連隊・第1,4中隊
○槍騎兵第7「ライン」連隊・第1,2,4中隊
○野砲兵第1「オストプロイセン」連隊・重砲第5中隊
○野砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・騎砲兵第1中隊の2個小隊
● 本隊
モーリッツ・カール・アルベルト・ボック少佐(第44連隊大隊長)
○擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊
○第44「オストプロイセン第7」連隊・第1、2大隊(第3中隊欠)
○槍騎兵第14「ハノーファー第2」連隊・第2,4中隊
○野砲兵第1連隊・重砲第4、軽砲第4,6中隊
◇混成騎兵旅団
伯爵フリードリヒ・ジークマル・ツー・ドーナ=シュロビッテン少将(騎兵第7旅団長)
○胸甲騎兵第8「ライン」連隊
○槍騎兵第5連隊・第2中隊
○槍騎兵第14連隊・第1,3中隊
○野砲兵第7連隊・騎砲兵第1中隊の1個小隊
◎ 軍総予備
ヴィルヘルム・テオドール・カール・ヨブスト・フォン・ベッキング大佐(第44連隊長)
○第41「オストプロイセン第5」連隊
○近衛槍騎兵第2連隊・第1,3中隊
○驃騎兵第9「ライン第2」連隊・第1中隊
○野砲兵第1連隊・重砲第3、軽砲第3中隊
※「サン=カンタンの戦い」に参戦しなかった諸隊
○第29連隊・第7中隊/エリー=シュル=ノワイエ(アミアンの南南東16キロ)駐屯
○第69連隊・第1、F大隊/ペロンヌ駐屯
○第70連隊・第1,2中隊/アム駐屯
○同連隊・第2大隊/アミアン駐屯
○フュージリア第33連隊・第2大隊/アミアンから本隊に向け行軍中
○第19連隊・第6中隊/ショルンヌ(ペロンヌの南西15.8キロ)在の補助糧食縦列警護
○第44連隊・第3中隊/輜重及び糧食縦列警護
○槍騎兵第5連隊・第3中隊/ペロンヌ駐屯
○槍騎兵第7連隊・第3中隊/アミアン駐屯
○S「ライター」騎兵第3連隊/クレルモン(パリの北58.4キロ)駐屯
○第8軍団野戦工兵・第1中隊/ジュシーとサン=シモン付近の橋梁守備
○第8軍団野戦工兵・第3中隊/ペロンヌ駐屯
※ 仏北部軍戦闘序列(1971年1月19日付)
軍司令官 ルイ・レオン・セザール・フェデルブ少将
参謀長 ジャン=ジョセフ・フレデリック・アルベール・ファレ准将
砲兵部長 シャロン中佐
工兵部長 ミリルー大佐
◎ 仏第22軍団
軍団長 アルフォンス=テオドール・ルコアント准将
参謀長 ファルジョン海軍大尉
◯第1師団 師団長 ジョセフ・バルテルミー・グザヴィエ・デロジャ准将(戦時昇進)
◇第1旅団 アイネ中佐
*マルシェ猟兵第2大隊
*マルシェ第67連隊
*護国軍第91「パ・ド・カレー県」連隊
◇第2旅団 フランシス・ガブリエル・ピティ大佐(戦時昇進)
*マルシェ猟兵第7大隊(第17大隊との説もあり)
*マルシェ第68連隊
*護国軍第46「ロット県(南仏トゥールーズの北)」連隊(ノール県の護国軍部隊との説もあり)
◇師団砲兵隊 4ポンド野砲2個中隊・8ポンド野砲1個中隊(計18門)
◯第2師団 師団長 ジョセフ・アルチュール・デュフォーレ・デュ・ベッソル准将(戦時昇進)
◇第1旅団 フェルステ大佐
*マルシェ猟兵第20大隊
*マルシェ第69連隊
*護国軍第44「ガール県(南仏)」連隊
◇第2旅団 ドゥ・ジスレーン大佐
*マルシェ猟兵第18大隊
*マルシェ第70連隊
*護国軍「ソンム県・マルヌ県」混成連隊
◇師団砲兵隊 4ポンド野砲3個中隊(17門*)
◇工兵1個中隊
※1門を18日に戦闘で喪失
◎ 仏第23軍団
軍団長 アンソニー・ジャン=ジャック・ユージン・ポールズ・ディボイ・ドゥ・ラ・ポップ准将
参謀長 マルシャン中佐
工兵部長 アラール少佐
◯第1師団 師団長 フランシス・ルイ・ジュール・ペイヤン海軍大佐
◇第1旅団 ミシュレ中佐
*マルシェ猟兵第19大隊(第10大隊との説もあり)
*海軍フュージリア連隊
*護国軍第48「ノール県」連隊
◇第2旅団 ドゥ・ラグランジュ海軍中佐
*マルシェ猟兵第24大隊
*マルシェ第72連隊(第73連隊との説もあり)
*護国軍第47「ロット=エ=ガロンヌ県(ボルドーの東。県都アジャン)」連隊
◇師団砲兵隊 4ポンド野砲3個中隊(18門)
◯第2「臨時護国軍」師団 師団長 ロペン准将
◇第1旅団 ブリュスレイ大佐
*ヴォルティジュール(選抜歩兵)第1、2大隊*
*臨時護国軍「ノール県」第1連隊
*臨時護国軍「ノール県」第6連隊
◇第2旅団 アルノ大佐
*第5レジオン(外人部隊)第4大隊*
*臨時護国軍「ノール県」第3連隊
*臨時護国軍「ノール県」第4連隊
◇師団砲兵隊 3個中隊(18門)
◇工兵1個中隊
◇騎兵半個中隊
◎ 北部軍直属隊
◇騎兵隊 パルポール・ドゥ・ラ・モット大佐
*マルシェ竜騎兵第7連隊の3個中隊
*マルシェ竜騎兵第4連隊の2個中隊
◇砲兵3個中隊(山砲18門)
◇イスナール大佐旅団
イスナール・ドゥ・サント=ロレット大佐(戦時昇進)
*戦列歩兵第24連隊・第3大隊
*マルシェ第73連隊(5個大隊)
*マルシェ第48連隊(2個大隊と2個中隊)
◇旅団砲兵隊
4ポンド野砲x8、4ポンド山砲x2、15ポンド滑膣榴弾砲x2
◇パ=ドゥ=カレー県臨時護国軍旅団「ポリー旅団」
ピエール・ポリー准将
*第1大隊
*第1連隊(3個大隊)
*第2連隊(2個大隊)
※ヴォルティジュール兵大隊とレジオン隊については「普仏戦争/アミアンの危機」を参照




