サン=カンタン会戦に至るまで(前)
☆ 1月12日まで
独第一軍はペロンヌ要塞を攻略したことで「一見」仏北部軍に対し優位に立ちました。仏北部軍司令官ルイ・レオン・セザール・フェデルブ少将は救援が赴くまでペロンヌが耐久し、結果北部軍主力が一気にソンムを渡って左岸へ進み、パリ軍が解囲を図る突破作戦を発動し易くするためにそのままコンピエーニュ方面へ突進することを狙っていました。しかしこれも潰えたことで別の方針に転換するしかありませんでした。
一方、独第一軍としても未だ敵との兵力差が大きいことは変わらず、安穏としていることは出来ません。このため軍右翼(東)方面を更に「厚く」するため、一応の平静を見たセーヌ下流戦域から歩兵6個大隊・砲兵2個中隊を引き抜きアミアンへ送る手筈を整えるのです。
このアミアン行きを指定された諸隊はペロンヌ要塞が陥落寸前となった1月8日から11日に掛けてアミアンへ輸送され、アミアン在の同僚・第1軍団の歩兵3個大隊・砲兵2個中隊と合流します。
※1月11日・アミアン付近の第1軍団諸隊
アルベルト・アレクサンドル・ギデオン・ヘルムート・フォン・メメルティ少将(第3旅団長/疾病入院から復帰)指揮
◯擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊(第3旅団)
◯第44「オストプロイセン第7」連隊(第3旅団)
○擲弾兵第1「オストプロイセン第1/皇太子」連隊(第1旅団/第2,4中隊欠)
◯野砲兵第1「オストプロイセン」連隊・重砲第4,5中隊、軽砲第4,6中隊(第2師団と軍団砲兵)
アミアン大聖堂
この移動時、擲弾兵第1連隊の第2,4中隊はポア(=ドゥ=ピカルディ)とフォルムリーに駐屯しアミアン~ルーアン間の後方連絡線を警備していた第70「ライン第8」連隊の第3,4中隊と交代します。任を解かれた第70連隊の両中隊は12日にアミアンへ鉄道輸送されて来ました。
また、それ以前の7日には擲弾兵第4連隊のF大隊に近衛驃騎兵連隊の第2中隊、そして野砲兵第1連隊の軽砲第6中隊から1個小隊(2門)が抽出され、アミアン~ルーアン鉄道警備のためルーアンからモリアン=ヴィダム(現・モリアン。フォルムリーの東北東6キロ)へ送られています。
この頃、大本営のフォン・モルトケ参謀総長から通報があり、パリ包囲網北部担当のマース(独第四)軍に命じて9日、第一軍への増援として1個旅団をゴネスより鉄道にてアミアンへ送る準備をしているとのことでしたが、この第1軍団の一部移動中でも仏北部軍に大きな動きが見られなかったため中止されるのです。
普国王ヴィルヘルム1世は1月7日、第一軍司令官男爵エドウィン・カール・ロテェス・フォン・マントイフェル騎兵大将に異動辞令を発し、第8軍団長アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン歩兵大将を同軍司令官に昇任させる勅令を下します(後日詳述します)。
第一軍本営ではオスカー・エルンスト・カール・フォン・スペルリング少将が参謀長に留まりますが、参謀副長だった伯爵ヘルマン・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルテンスレーベン大佐はマントイフェル将軍の新しい本営参謀長となって一緒にアミアンを去りました。ヴァルテンスレーベン大佐の後任は第8軍団本営の筆頭参謀だったブンケ少佐が担います。
北仏戦線の総責任者となったフォン・ゲーベン将軍は9日、今後の方針として「ソンム川の後方(左岸)に退き防御に徹する」ことを主目的とし、「こちらからは仕掛けず仏軍が南下する場合のみ対戦する」ことを決しました。既にソンム流域の重要な渡河点は全て独軍が制しており、そもそも第一軍に課せられた主任務は仏北部軍の「壊滅」や仏白国境地帯までの「制圧・占領」ではなく「パリ包囲網を脅かす敵を北部に留めておく」ことだったからです。
このため、渡河点付近の橋頭堡や重要拠点には目立つ監視部隊を置くものの、これら最前線に立つ諸隊に対しては「本格的戦闘に陥らぬよう」釘が刺されたのでした。
ゲーベン将軍
この方針により11日、戦線突出部となっていたバポームに駐屯する騎兵第3師団がアルベールに向けて後退行軍を始めます。因みにこの師団はペロンヌが陥落した9日から10日に掛けて第19「ポーゼン第2」連隊の2個(第2、F)大隊を本隊へ返し、フュージリア第33「オストプロイセン」連隊の第2大隊を交代に受け入れていました。
しかし、フェデルブ将軍はこの時既にペロンヌを救うための行動を再開しており、早くも仏デロジャ師団(仏第22軍団第1)が独軍退去直後のバポームに侵入し始め、その郊外に残っていた独騎兵の後衛(槍騎兵第5連隊の一部)はこの仏軍によって攻撃を受けたのです(独軍は死傷者2名と捕虜11名を出しています)。
バポーム郊外で仏デロジャ師団に属した竜騎兵に襲われる独後衛
バポームに敵が入城したことを知った独騎兵第3師団長の伯爵ゲオルク・ラインハルト・フォン・デア・グレーベン=ノイデルヘン中将は、騎兵1個連隊をル・サール(バポームの南西6キロ)に留めて仏軍の南下に備え、本隊は急ぎアルベールの北方でアンクル川を渡りメニル(=マルタンサール。アルベールの北5.8キロ)を中心として川の両側に防衛線を展開しました。
しかしこの11日、デロジャ師団はバポームに留まり、同じくデロジャ師団の左翼を急進して来たベッソル師団(仏第22軍団第2)はブッコワ(アルベールの北北東15.8キロ)で停止するのです。またその後方に続いていた仏第23軍団も先行する両師団(仏第22軍団)に同調し停止・宿営に入りました。
この仏軍の「急停止」はペロンヌ陥落の報がフェデルブ将軍に伝わり、将軍が今後を考えるため停止させたものと伝わります。
遡ること1月10日。仏軍が再び動き出すことが決定的となったことを斥候報告などから知ったゲーベン将軍は、アミアンから第1軍団の歩兵3個大隊と砲兵1個中隊をダウール及びコルビ(それぞれアミアンの東11キロと15.6キロ)付近のソンム架橋警備に派出しました。続いて11日にもアミアンより歩兵2個大隊・砲兵1個中隊をアリュ河畔のケリュー(同北東10.8キロ)及びその周辺へ派遣しました。
※1月10~11日にアミアンから前進した諸隊
*ダウールとコルビの橋梁守備
第44連隊長代理ボック少佐指揮
○第44連隊
○野砲兵第1連隊・重砲第5中隊
*アリュ河畔(ケリュー方面)守備
擲弾兵第4連隊長アウグスト・エルンスト・ジークフリート・フォン・ティーツェン・ウント・ヘンニヒ大佐指揮
○擲弾兵第4連隊・第1、2大隊
○野砲兵第1連隊・重砲第4中隊
※10日には第一軍本営の護衛だった近衛竜騎兵第1連隊の第1中隊が親部隊へ帰され、代わりに槍騎兵第7「ライン」連隊の第3中隊が本営護衛となりました(近衛竜騎兵は騎兵将軍であるマントイフェル将軍の護衛としては「収まり」(見栄えか?)が良く、またライン槍騎兵は元よりゲーベン将軍麾下です)。またフォン・ペステル中佐が率いていた小支隊は解隊され、第70「ライン第8」連隊のF大隊も親部隊(第16師団)へ帰隊しています。
☆ 1月13日から16日
これ以外の独第一軍諸隊は、13日に至るまでゲーベン将軍9日の命令を実行するべく行動しました。
第15師団はブレイ=シュル=ソンム(ソンム右岸。ペロンヌの西15.5キロ)に強力な前衛を置くとソンム左岸に宿営地を定めて展開し、予備第3師団の歩兵と砲兵はペロンヌ要塞の西郊外に駐屯します。ペロンヌの東側では要塞地区からロワゼルに至る地域までに第16師団の主力と予備騎兵第3旅団が宿営・展開しました。その更に東では騎兵第12「ザクセン王国」師団(この頃クレルモンから猟兵第12大隊第4中隊と野砲兵第12連隊騎砲兵第1中隊の1小隊が帰って来ました)がサン=カンタン周辺に集合しています。またアミアンには歩兵4個大隊・騎兵1個中隊・砲兵2個中隊・工兵1個中隊が守備隊として残りました。これではまだ不安とばかりにゲーベン将軍は13日朝になるとルーアンから更に増援を呼び寄せる命令を発したのです。
※1月13日・ペロンヌ守備の第16師団
○第69「ライン第7」連隊・第1、2大隊
○第8軍団野戦工兵・第3中隊
○要塞砲兵第1連隊・第11中隊
○要塞砲兵第5連隊・第13中隊
※シュミット中尉率いる要塞砲兵第11大隊(大隊で間違いありません。ヘッセン=カッセル州の砲兵です)の第8中隊は残留隊が待つアミアン城塞へ帰りました。また攻城厰は解体され集められた攻城資材はパリ包囲網へ輸送されました。
※1月13日時点のアミアン守備隊
○擲弾兵第1連隊(第2,4中隊欠)
○傷病兵2個団隊
○槍騎兵第7連隊・第3中隊
○野砲兵第1連隊・軽砲第4中隊
○同連隊・軽砲第6中隊の2個小隊
○第1軍団野戦工兵第3中隊
○要塞砲兵第11大隊・第8中隊
※第70連隊の第1,2中隊は10日にアンへ鉄道輸送されています。同じ10日、フュージリア第40「ホーヘンツォレルン」連隊の第11,12中隊は親部隊に帰還しました。
※1月13日にゲーベン将軍の命令でルーアンよりアミアンへ鉄道輸送された諸隊
○第1師団本営
○第41「オストプロイセン第5」連隊
○野砲兵第1連隊・重砲第3、軽砲第3中隊
○弾薬及び糧食縦列数個
○輜重縦列数個
一方、12日には「強力な仏軍部隊が南下して来る」との通告を受けたアルベール付近に展開するフォン・デア・グレーベン将軍配下の諸隊は、一旦アルベールとその周辺陣地を放棄してアミアン方面へ避難しますが、翌13日、この報告は「虚報」だったことが判明し、アミアンから前進して来たフォン・メメルティ将軍は麾下のティーツェン・ウント・ヘンニヒ大佐に一支隊を預け、再びアルベールを守備し始めました。
アルベールから撤退した騎兵第3師団は「ティーツェン・ウント・ヘンニヒ支隊」の西側でエナンクール(アルベールの西6キロ)とヴァルロワ(=バイヨン。エナンクールの西3キロ)周辺で北面して再展開します。
フォン・デア・グレーベン将軍はアミアンから進出して来たフォン・メメルティ将軍麾下の諸隊を指揮下に加え、騎兵第7旅団に胸甲騎兵第8「ライン」連隊と野砲兵第7連隊の騎砲兵第1中隊を編入すると同旅団長・伯爵フリードリヒ・ジークマル・ツー・ドーナ=シュロビッテン少将に預けて別働隊とするのです。
※1月13日のティーツェン・ウント・ヘンニヒ支隊
◯擲弾兵第4連隊・第1、2大隊
◯第44連隊・F大隊
◯槍騎兵第7連隊・第2中隊と第1中隊半数
◯野砲兵第1連隊・重砲第4中隊
奮戦する独砲兵(バポーム1月3日)
ところが翌日14日の正午頃、強大な仏軍の縦隊がバポーム方面からアルベールに向けて行軍しているのが発見され、「狼が来た」が本物になったフォン・デア・グレーベン将軍は手遅れになる前に軍令に従い再び全軍撤退を命じるのでした。
この時アルベール周辺にあったフォン・メメルティ将軍麾下の諸隊はアリュ川に向かって急速後退しケリューを目指します。騎兵第3師団他の騎兵諸隊は敵の動向を探る騎幕を配置するとフレシャンクール(ケリューの北3キロ)及びボークール=シュル=ラリュ(フレシャンクールの北2.5キロ)に向かって撤退しました。同時にソンム川の破壊された諸橋梁の左岸側には、仏軍による渡河を警戒して少数の歩兵前哨が配置されたのです。
仏軍接近の報によりフォン・ゲーベン将軍の本営は多忙を極めました。
ゲーベン将軍は「迫る対決に向けては使用可能な兵力を根こそぎ動員して対応する」と決意し、軍務に耐え得る療養中の傷病兵を退院させ傷病隊へ編入させました。同時に後方連絡路や鉄道などを警備中の野戦部隊を後備兵と交代させるようベルサイユ大本営に要求しました。大本営はこれに応え後備4個大隊をゲーベン将軍に送り出すよう占領地総督府や各軍の兵站部に命じますが、後備部隊も引く手数多で後方連絡線上に出払っている現状では、この時緊急の要請に応えアミアンに到着することが出来たのは後備「ラーティボーア」(オーヴァーシュレジエン州。現ポーランドのラチブシュ)大隊だけでした。
それでもゲーベン将軍は14から15日に掛けて後方に点在していた部隊を中心に大移動を行います。
※1月14から15日に移動した諸隊
*アリュ川方面へ移動しフォン・メメルティ将軍配下となった諸隊
○擲弾兵第1連隊・第2大隊
○擲弾兵第4連隊・F大隊
○槍騎兵第7連隊・第4中隊
○野砲兵第1連隊・軽砲第4,6中隊
*第16師団本隊へ
○第70連隊・第3,4中隊
*モリアン=ヴィダムでアブヴィル(アミアンの北西40キロ)への強行偵察隊を組織
○擲弾兵第1連隊・第1,3中隊
○近衛驃騎兵連隊の第2中隊
*ヴィレー=ヴォカージュ(アミアンの北11.7キロ)守備
○擲弾兵第1連隊・F大隊
*ヴィレー=ヴォカージュから親連隊へ帰還(16日着)
○フュージリア第33「オストプロイセン」連隊・第2大隊
*アミアン守備隊(15日)
○第70連隊・第2大隊
○傷病兵2個団隊
○槍騎兵第7連隊・第3中隊
○後備「ラーティボーア」大隊
○第1軍団野戦工兵第3中隊
○要塞砲兵第11大隊・第8中隊
1月14日。フェデルブ将軍率いる仏北部軍は師団単位4個縦隊となってソンム沿岸方面への前進を再開しました。その先鋒となったベッソル師団はアルベールに、デロジャ師団はその後方ポジエール(アルベールの北東6.7キロ)へ、ペイヤン師団(第23軍団第1)はクルスレット(ポジエールの北東2.7キロ)へ、ロペン師団(第23軍団第2)はバポームへ、それぞれ進みます。
この進撃方向(アミアンへの街道/現・国道D929号線上)を見てもフェデルブ将軍はペロンヌ喪失を知って、今一度アリュ川方面へ進撃しコルビ以西でソンムを渡河するかアミアンを襲う気でいたことが窺い知れます。しかしフェデルブ将軍は翌15日早朝までに収集した斥侯や住民からの報告などによって「独軍がソンムに沿って展開し待ち構えている」ため、渡河は相当な犠牲と困難を覚悟しなくてはならないことを知るのです。
しかも15日にはガンベタ率いる仏政府ボルドー派遣部で実質陸軍大臣となっているシャルル・ルイ・ドゥ・ソルス・ドゥ・フレシネから電信命令も届き、それによれば、「仏パリ軍は近日中に独包囲網を突破する最終作戦を発動するので、北部軍は牽制作戦を実施し、出来る限り多くの敵兵力を拘束してこれをパリより遠方(即ち自軍方向)へ誘引せよ。これが困難な場合でも敵のパリ増援を妨害するべく努めよ」とのことでした。
負傷した脚を縛る仏軍ラッパ手
ここでフェデルブ将軍は熟考を求められます。
フレシネは簡単に「敵を拘束」「敵を妨害」と言いますが、現実の北部軍は既に「一枚岩」ではなくなっており、厳冬期に物資不足という過酷な環境に長時間晒された上、戦闘と退却を繰り返したため脱走が急増し抗命する者が目立ち始め、一部では新規召集の未練成兵が反乱・暴動を起こす事態にもなっていたのです。
ノール県ではボルドー派遣部の「指導」に対しての不満も爆発し、県知事はガンベタの命令を拒絶して更迭される事態になりました。
この様に圧倒的不利・不穏な状況下でもフェデルブ将軍は最善の方法を考えて、自軍の能力ではいくら数に劣るとはいえ待ち構える独軍に正面から挑んでも跳ね返されるはずであり、また、「戦意が急速に衰える中、不満を抱えた将兵が会戦を行える機会もそう残されていない」と考え、能力不足の北部軍でも実行可能で最も成功の可能性が高い「独軍のパリ包囲網が使用する後方連絡線を襲い麻痺させる」ことを決定するのでした。
このためフェデルブ将軍は「予備を置くことなく全兵力をサン=カンタンに向ける」ことを命じます。これは今のところ独軍防御の「薄い」サン=カンタンを経てその南方を通るオワーズ川(ベルギーのシメイ付近を水源にイルソン~ギーズ~ラ・フェールを経てコンピエーニュでエーヌ川を合せ、コンフラン=サントオノリーヌでセーヌに注ぐ一大支流)に出ることが出来ればラ・フェールやノワイヨンを抜ける独パリ包囲網への後方連絡を妨害出来、かつパリ包囲網自体にも脅威を与えることが可能となる、と考えた上での決定でした。このため、この独占領地奥深く進めば独軍に包囲される可能性は高くなるものの、フェデルブ将軍は今までの対戦における独軍の有様(会戦後に深追いせず)から、その場合は機会を見て再び北方の要塞地帯へ避難することが出来る、と考えたのです。
サン=カンタン戦線/1月15日
この決定に従い将軍はカンブレ在のイスナール独立旅団に対し15日に「サン=カンタンに向けて進撃せよ」と命じ、同旅団はこの日ベリクール(サン=カンタンの北北西13.3キロ)に至りました。
この「カンブレより仏軍の一部隊がサン=カンタンに向けて進撃中」という情報がゲーベン将軍に伝わった時には16日早朝となっていました。
今度はゲーベン将軍が熟考を求められる番となります。
明らかに仏北部軍より兵力が劣る独第一軍としては、機会を逃さず出来得る限りの最大兵力で仏北部軍の「挑戦」を受けて立たねばなりません。しかし、諸報告によれば仏軍はアミアンへ向かうもの、サン=カンタンへ向かうもの二手に分かれており、一体どちらが「目標」であるかこの時点(16日午前)では判別が付きませんでした。状況は逼迫しており、両方を同時に相手にするには兵力も足りず、ゲーベン将軍としては直ぐにでもどちらか、「アルベールを経てアミアン方向に動く仏軍を追う」か、「カンブレから南下する仏軍を迎撃するか」二つに一つを選択する必要に迫られたのです。
因みに、アルベールから西へアミアン街道を進むように見える仏軍集団の方が明らかに大兵力です。冷静に考えてもサン=カンタンへ向かうように見える「小さな集団」の方が助攻か牽制に見えるこの状況で、なんとゲーベン将軍は前15日の夕刻、大本営のモルトケ参謀総長に対して送った書簡の中で「本官は、敵が我らソンム川の前線陣地を迂回し、サン=カンタン方面からオワーズ渓谷に入りパリへ向かう計画もあるのではないかと疑っています」と記していたのでした。
このように「宿敵」フェデルブ将軍の手を「読んでいた」ゲーベン将軍は、サン=カンタンでザクセン歩騎兵を率いる伯爵フランツ・ヒラー・フォン・トゥール・リッペ=ビースターフェルト=ヴァイセンフェルト中将に対し「カンブレよりそちらに向かう敵に対し、もし継戦するに手強い場合は無理をせずアム方面へ撤退せよ」と命じました。同時にペロンヌ攻略後ソンム戦線の右翼を率いる第16師団長、男爵アルベルト・クリストフ・ゴットリープ・フォン・バルネコウ中将に対しては「ザクセン騎兵がサン=カンタンを捨てる場合、この敵の側面を攻撃するべく機動せよ」と命じます。ところが、この最後の命令がバルネコウ将軍に伝わるまでは相当な時間が掛かってしまうのでした。
仏北部軍は16日、アルベール~バポーム間の集合宿営地帯から第22軍団がコンブル(バポームの南10.5キロ)方面、第23軍団がサイイ=サイゼル(コンブルの北東4.1キロ)方面へそれぞれ動き始めました。また、パ=ドゥ=カレー県の臨時護国軍部隊を集成したポリー准将(戦時任官)の旅団*は第23軍団と入れ替わる形でバポームに入り、イスナール大佐の旅団は更にサン=カンタンに向かって行軍しました。
※仏ポリー旅団
ピエール・ポリー准将率いるパ=ドゥ=カレー県(県都アラス)の臨時招集護国軍部隊で、この1月中旬にとりあえず練成なって軍に参加しました。1月7日第一軍本営に報告されたブーローニュ=シュル=メールに現れたという「謎の増援」とはこの旅団の事だったのではないか、と思われます。旅団はフェデルブ将軍によれば独立1個大隊と3個大隊制連隊1個に2個大隊制連隊1個の6個大隊(砲兵無し)だったとのことです。
夜明け前・部落に接近する仏兵
トゥール・リッペ将軍は16日、襲来したイスナール旅団と小競り合い程度の戦闘で一斉に後退行を始めアンに向かいました。イスナール旅団はそのままサン=カンタン市を解放し残留していた市民から熱烈な歓迎を受けますがザクセン騎兵を追撃することはありませんでした(ザクセン騎兵師団は戦死3名・負傷5名・捕虜21名・馬匹損害32頭を記録します)。
バルネコウ将軍は右翼(東)警戒のためオミニヨン川(ソンム支流)の線を守るヴェルマン(サン=カンタンの西北西10.4キロ)の守備隊を加増しロワゼル(ヴェルマンからは北北西に8.5キロ)にも1個大隊を送りますが、その他は部隊毎に集合を掛け警戒態勢を取らせるだけで麾下を無闇に動かすことを控えるのでした。
※1月16日・独第16師団の動き
*ヴェルマンへの増援
○フュージリア第40連隊・第3大隊
○野砲兵第8連隊・軽砲第6中隊の1個小隊
*ロワゼルへ派遣
○第29連隊・第2大隊
*ヴィレー=ヴォカージュへ派遣
○胸甲騎兵第8連隊
サン=カンタン戦線/1月16日
☆ 1月17日
フォン・ゲーベン将軍は自身の「勘」が正しいかどうか確かめるため、17日にアルベール方面にいる敵に対し包囲攻撃を掛けることを命じます。この包囲に対し仏軍が強力に反撃して来れば「アミアン行」、微弱ならば「サン=カンタン行」との判断を得るためでした。ところが、ゲーベン将軍麾下諸隊が行動を起こす以前、仏軍はコンブルに向けて一斉に転進したことが斥候から報告されるのです。
この斥候にファン(コンブルの北北西10.5キロ)付近で捕らえられた仏軍の砲兵士官の尋問では「ソレル(ファンの南南東1.3キロ)に3個大隊と砲兵2個中隊が宿営している」とのことで、更にアルベールへ肉薄した槍騎兵第7連隊のある士官斥候からは、「仏軍は16日の正午頃アルベールを撤した」との報告があり、これが17日早朝ゲーベン将軍に達したのでした。これによってゲーベン将軍は「アルベール包囲」を撤回し「諸隊は直ちに東へ行軍せよ」との緊急令を発したのです。
この「サン=カンタンの危機」に際し既にベルサイユ大本営はアランソン方面の独第13軍団に対して「セーヌ下流域(ルーアン地方)に向かって行軍せよ」と命じており(既述)、これでゲーベン将軍はルーアン地方をメクレンブルク=シュヴェリーン大公に任せ、ゲオルグ・フェルディナント・フォン・ベントハイム中将の独第1軍団残余もアミアンへ招致することが可能となりました。ゲーベン将軍は第13軍団に引き継ぐ後衛以外の擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊と野砲兵第1連隊の重砲第1中隊をアミアンへ輸送させ、この部隊は18日から19日に掛けてアミアンへ到着します。また大本営は19日までに1個旅団をテルニエ(サン=カンタンの南21.2キロ)へ送りゲーベン将軍の麾下とするよう、マース軍のアルベルト・ザクセン王太子に命じるのでした。
これらの処置(=大規模な増援)が順次行われることに決定すると、ゲーベン将軍としては仏北部軍に対する「北部の要塞地帯に再び逃げ込むことがないよう後方を遮断する」作戦が立て易くなり、またそうしたい思いも出て来ます。しかし、その前に成さねばならないことは、「あらゆる妨害・障害からパリ包囲網を守り、その安全を確保、後方連絡線の安全も万全とする」ことなのです。ゲーベン将軍は敵の後方に回り込む計画を棄て、敵の正面を抑えると同時に側面も攻撃可能な配置を計画し、その方針に沿った作戦を発動するのでした。
ゲーベン将軍の「対北部軍作戦」は17日午後に発令され、ソンム左岸(概ね南岸)ではサン=カンタンから引き上げたザクセン王国の騎兵第12師団をフラヴィー=ル=マルテル(サン=カンタンの南西17キロ)へ、予備第3師団(混成近衛騎兵旅団が隷属し予備騎兵第3旅団が欠)がネル(ペロンヌの南19キロ)へ、第15師団が第8軍団砲兵隊と共にヴィレ=カルボネルとリクール(それぞれペロンヌの南南西6.8キロと12キロ)へ、それぞれ進み、第15師団はヴィレ=カルボネルから1個大隊をソンム渡河点のブリ(ヴィレ=カルボネルの東2.4キロ)へ派出しました。
一方、仏軍と直接対峙するソンム右岸(概ね北岸)では、第16師団(予備騎兵第3旅団が隷属)がアムに進み、その行軍途上のタンクール=ブクリー(ロワゼルの西4キロ)やヴェルマン周辺で仏北部軍の最右翼部隊と遭遇し暫し小競り合いとなったのでした。
また、ソンム流域の戦線で最左翼(西)となったフォン・デア・グレーベン将軍率いる「兵団」*は、第1軍団のほぼ1個師団とツー・ドーナ将軍率いる混成騎兵旅団を併せてクレリ=シュル=ソンム(ペロンヌの北西4.7キロ)とその周辺に進みました。
※1月17日時点での伯爵フォン・デア・グレーベン中将が率いる兵団
◎第1軍団の混成師団
フォン・メメルティ少将指揮
○擲弾兵第1連隊・第2、F大隊(第1旅団)
○擲弾兵第4連隊(第3旅団)
○第44連隊(第3旅団)
○槍騎兵第7連隊・第1,2,4中隊(騎兵第6旅団)
○野砲兵第1連隊・重砲第4,5中隊(軍団砲兵と第2師団砲兵)
○同連隊・軽砲第4,6中隊(軍団砲兵と第2師団砲兵)
◇混成騎兵旅団
○胸甲騎兵第8連隊(騎兵第6旅団)
○槍騎兵第5連隊(騎兵第7旅団)
○槍騎兵第14連隊(騎兵第7旅団)
○野砲兵第7連隊・騎砲兵第1中隊(騎兵第3師団)
フォン・デア・グレーベン将軍
17日、(セーヌ河口戦域を除く)ソンム河畔の独第一軍は、戦死6名・負傷16名・捕虜(行方不明)13名・馬匹損害13頭でした。
この頃、セーヌ下流域から到着した第1軍団の諸隊はゲーベン将軍の総予備として第44連隊長で第1旅団長代理のヴィルヘルム・テオドール・カール・ヨブスト・フォン・ベッキング大佐が指揮し、ソンム右岸を進む各団隊の後方からアルボニエール(クレリ=シュル=ソンムの南西20キロ)まで進むのです。
決戦を前にしてゲーベン将軍は本営を予備第3師団が進んだネルに置くのでした。




