ペロンヌ要塞攻略戦
ペロンヌ要塞(アミアン大聖堂の東45.6キロ)はソンム川の右岸(ここでは東岸)にある比較的小規模の要塞都市ですが、この地はカンブレへの街道(現・国道D917号線)、アムへの街道(同D937号線)、ロワゼルへの街道(同D6号線)、アルベールへの街道(同D938号線)、そしてバポームからアラス、ロワへの街道(同D1017号線)が集まり、また古代ローマ帝国時代から存在する重要なアミアン~サン=カンタン街道(現・国道D1029号線)も付近を通るという交通の要衝でした。また、ソンムの渡河地点としても貴重で、尚且つ要塞市街の周辺と付近のソンム流域は沼沢地のように泥濘が深い河岸が続き、市街地と街道以外は軍隊が通行し難い防御に適した場所でした。このため、普仏戦争においてもこの要塞はソンム川を制するためにアミアンに次いで重要な拠点となっており、その価値はアミアンとラ・フェールが独軍によって占領された後には独仏共に高まっていたのです。何故ならば、独から見た場合、ラ・フェールとアミアンの丁度中間に位置するこの要塞に仏軍が存在すれば、後方連絡線の常に側面間近に敵の拠点があることとなるため、連絡線上に多くの部隊を配置して警戒しなくてはならず、また仏から見ればペロンヌを抑えている限りサン=カンタンやアム、バポームなどに進んだ独軍を悩ますことが可能で、さらにはソンム川左岸(ここでは西~南岸)へ突破する場合の重要な「出撃門」となるのでした。
ペロンヌ中央広場(20世紀初頭)
当時ペロンヌの人口は4,000人(民間人のみ)と言われ要塞地区は長辺が約850m短辺が200m余りの長方形で、南を流れるソンム支流コローニュ川(ペロンヌ東18キロのアルジクール付近を源流とします)に沿って北東から南西方向に横たわり、北東側に王冠堡の形になったフォーブール・ドゥ・ブルターニュ、南側に島状の小さなフォーブール・ドゥ・パリと2つの「郭外衛星市街」を持ちます。市街の周りには稜堡形に設えた障壁が続き、この障壁の間には数ヶ所に中世以来の高塔が聳えていました。またその後方には連続して土塁壁があります。要塞は15世紀から16世紀に掛けて順次建造・整備され17世紀にドゥ・ヴォーバンによる改装を経て近代稜堡型要塞となり18世紀に拡張され19世紀に至りました。
その北西側中央部には16世紀に創建された古城があって角面堡として利用されており(現在は世界大戦博物館となっています)、前述通りブルターニュ郭外市街は要塞の北東側に接して稜堡形の外壁を備え、パリ郭外市街は要塞南西角に接して独立堡型の外壁を備えていました。このパリ郭外市街の外(南)にはいくつかの外堡も備えられ、その中でも一番大きなクーロンヌ・ドゥ・パリは要塞構造物で唯一ソンム左岸にあってペロンヌの橋頭堡となっていました。要塞は他に北西外に半月堡型の2つの堡塁を備え、南西正面には現在ソンムの川中島となっているパテ・ノワイエ角面堡もありますが、そのどれもが小さく要塞本体の程近くあり、このためペロンヌ要塞には近代の攻城砲撃を予防する分派堡塁に属する施設がなかったと言われるのです。
ペロンヌ城塞(旧城)
当時のペロンヌ付近のソンム川は幅員が8m前後で水深は1m半と記録されています。川には平行してソンム運河が流れ、こちらは船舶運行のために川自体より幅広で水深も深く造られていました。同時に運河と川には水流を完全に閉塞可能な閘門装置があり、これによって要塞周辺を広範囲に渡って水没させることが出来、氾濫地域とすることが可能でした。もし周辺が氾濫地域となった場合、ソンム川と運河、そしてソンム支流のコローニュ川の幅員は数倍になり、敵の攻撃に際して北西側の一部と南東・南西側正面が水没し敵兵の接近を不可能とする効果がありました。17世紀ならこれで難攻不落とすることが可能でしたが、前述通り分派堡がないため攻城側は邪魔されずに要塞近辺まで接近可能となり、また要塞を取り巻く川谷からの高さ60m余りの高地からは要塞を俯瞰することが出来、かつその一部分は要塞自体に接しているほど近かったため攻城側はここに砲兵陣地を作り砲撃することが可能でした。また、西側にあるサント=ラドゴンド部落(要塞西端の西600m)はこれも攻城側に西側正面の遮蔽を与えるものでしたが、仏軍はこれを破壊することなく独軍に包囲されてしまうのです。
ペロンヌ要塞(1866年/氾濫地帯を水色で描く)
ペロンヌ要塞の守備隊は70年の12月末時点でおよそ3,500名を擁しますが、その大半は護国軍部隊でした。要塞砲は49門あり内14門は比較的新しい施条砲で、その弾薬もまた長期に渡って抵抗可能な量が備蓄されていました。要塞司令官は工兵上がりのガルニエ少佐で、メッスが包囲された頃(70年8月中旬)から指揮を執っています。
独軍が初めてペロンヌ周辺に現れたのは70年11月23日のことで、独騎兵第3師団がアミアンに向かう途上のことでした。この時は独軍斥候が南から接近し要塞を観察しますが、要塞の外に仏軍は見えず、また要塞自体からも発砲は無く、独騎兵たちは無事に要塞の近距離にあった街道を行軍して西へと去るのです。仏側の記録に因ればこの時、要塞には砲弾の1発もなかったとのことで、想像するに守備隊は銃を握りしめて独軍が射程内に入るまで形を潜めていましたが、接近することなく独軍が去ってしまったのでしょう。弾薬は12月4日になってから順次搬入されたとのことですが、独軍が去った僅か30分後に弾薬が届いたとする戦記もあり、これはさすがに「出来過ぎ」と言えます。
ペロンヌ要塞詳細図(攻囲時)
アミアンの会戦後、独第一軍がルーアンに向けて前進する頃、ペロンヌの監視任務はアミアン防衛と後方任務に加えて先の独騎兵第3師団長フォン・デア・グルーベン少将に与えられました。
12月初旬まで要塞周辺には仏野戦部隊の姿はありませんでしたが、同月6日、初めて仏北部軍将兵の部隊が現れてソンム左岸のビアッシュ(ペロンヌの西1.9キロ)に入りました。その後、22日には要塞監視のため槍騎兵第14「ハノーファー第2」連隊の第3,4中隊を残し独騎兵第3師団はアミアンの南方方面へ動きます。直後「アリュ川の戦い」が発生しその結果独第一軍主力はソンム右岸へ大きく進み出ますが、フォン・マントイフェル将軍は同時にペロンヌを陥落させることを決心して歩兵11個大隊・騎兵16個中隊・砲58門・工兵1個中隊という大兵力を攻囲に充てるのです。
※「アリュ川の戦い」(12月23日)直後にペロンヌ攻囲に向かった諸隊
●第一軍総予備隊
フロレンティン・リヒャルト・フォン・ミルス少将(騎兵第6旅団長)指揮
◇第3旅団(第2師団)
◯擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊
◯第44「オストプロイセン第7」連隊
◯槍騎兵第5「ヴェストファーレン」連隊(騎兵第3師団)
◯野砲兵第1「オストプロイセン」連隊・重砲第5中隊、軽砲第6中隊(第2師団)
◯野砲兵第8「ライン」連隊・第2大隊(軍団砲兵隊)
・重砲第3,4中隊
・軽砲第3,4中隊
◯第8軍団野戦工兵第1中隊
●予備第3師団(後備第3師団・欠)
師団長 男爵エルンスト・ヴィルヘルム・モーリッツ・オットー・シュラー・フォン・ゼンデン少将
◇混成歩兵旅団
◯第19「ポーゼン第2」連隊
◯第81「ヘッセン第1」連隊(第2大隊はラ・フェール駐屯で欠)
◇予備騎兵第3旅団
◯予備竜騎兵第1連隊
◯予備驃騎兵第3連隊
◯野砲兵第5「ニーダーシュレジェン」連隊/混成砲兵大隊
・予備重砲第1,2中隊
・予備軽砲中隊
◇ピルザッハ支隊
フリードリヒ・モーリッツ・アドルフ・ゼンフト・フォン・ピルザッハ少将(騎兵第24「ザクセン第2」旅団長)指揮
○槍騎兵第18「ザクセン第2」連隊
○野戦砲兵第12「ザクセン王国」連隊・騎砲兵第1中隊の2個小隊(4門)
攻囲部隊参加を命じられた諸隊は26、27日の両日に掛けて順次ペロンヌ要塞の要塞砲射程外に到着し、そのまま包囲網の構築に着手しました。対する仏軍守備隊の前哨は拠点を探る独軍前哨相手に各地で小競り合いを起こしますがほぼ全てが撃退されてしまい、27日の夕刻には独軍包囲網が完成するのです(この二日間の独軍損害は戦死1名・負傷2名・捕虜1名と軽微でした)。
※12月27日夜完成のペロンヌ包囲網
◆ソンム右岸(東)
*右翼隊
ペロンヌ下流側ソンム河畔~ペロンヌ=ロワゼル街道(現・国道D6号線)間
◯擲弾兵第4連隊・F大隊
◯同連隊・第5,6中隊
◯第44連隊・第1、2大隊
◯同連隊・第9,10,11中隊
◯槍騎兵第5連隊・第2,3,4中隊
◯同連隊・第1中隊の半数(2個小隊)
◯野砲兵第1連隊・重砲第5中隊
◯野砲兵第8連隊・第2大隊(重3,4・軽3,4)
◯第8軍団野戦工兵第1中隊
*中央隊
ペロンヌ=ロワゼル街道~ペロンヌ=テルトリー街道(現・国道D937~D44号線)間
◯第19連隊
◯予備竜騎兵第1連隊
◯野砲兵第5連隊・予備重砲第1中隊
◯同連隊・予備軽砲中隊
*左翼隊
ペロンヌ=テルトリー街道~ペロンヌ上流側ソンム河畔間
◯第81連隊・第1、F大隊
◯予備驃騎兵第3連隊
◯野砲兵第5連隊・予備重砲第2中隊
◆ソンム左岸(西)
*右翼隊
ペロンヌ上流側ソンム河畔~ペロンヌ=バルル街道(現・国道D79号線)間
◯擲弾兵第4連隊・第1,4中隊
○槍騎兵第18連隊
○野戦砲兵第12連隊・騎砲兵第1中隊の2個小隊(4門)
*左翼隊
ペロンヌ=バルル街道~ペロンヌ下流側ソンム河畔間
◯擲弾兵第4連隊・第2,3中隊
◯槍騎兵第5連隊・第1中隊の半数(2個小隊)
◯野砲兵第1連隊・軽砲第6中隊
◆第一軍本営(在コンブル)
◯擲弾兵第4連隊・第7,8中隊
◯第44連隊・第12中隊
◆第一軍がペロンヌ攻囲のために占領し宿営や補給拠点とした諸部落
*ソンム右岸
・アール(ペロンヌの北西2.2キロ)
・クレリー=シュル=ソンム(同北西4.8キロ)
・ブシャベルジャン(同北6キロ)
・エズクール=ル=オー(同北東5.1キロ)
・タンクール=ブクリー(同東7.7キロ)
・ブクリー(タンクールの南東850m)
・カルティニー(ペロンヌの東南東5.6キロ)
・メニル=ブルンテル(同南南東4キロ)
*ソンム左岸
・ヴィレ=カルボネル(同南南西6.6キロ)
・アスヴィエ(同南西8キロ)
・エルベクール(同西6.8キロ)
※攻囲部隊のソンム両岸連絡はフイエール(ペロンヌの西北西6.7キロ)、ブリ(同南6キロ)、サン=クリスト(ブリの南2.6キロ)のそれぞれ常設橋梁を利用して行われました。
ペロンヌ要塞に捕らわれた独軍槍騎兵(斥侯と思われます)
フォン・マントイフェル将軍は27日、予備第3師団長のシュラー・フォン・ゼンデン少将を攻囲指揮官に任命し28日早朝、次の命令を下しました。
「ペロンヌ要塞に対しセダン要塞と同一条件にて開城を勧告せよ。この勧告への回答は短時間にて行わせるよう、またこの勧告前に包囲陣を狭め砲兵を高地に展開させよ。敵が降伏を拒絶した場合は直ちに、同時に四方より砲撃を開始せよ」
シュラー・フォン・ゼンデン将軍は28日正午までに野砲58門を展開させて砲撃準備を完了させ、白旗の使者が帰還して開城勧告が一蹴されたことを報告した午後2時30分、砲撃陣は要塞に対し一斉に砲撃を開始しました。
※12月28日正午過ぎ・ペロンヌ包囲網の野戦砲兵展開位置
*アール部落東方・クレリー~ペロンヌ街道(現・国道D938号線)の南側(クルップ6ポンド野砲x18)
・野砲兵第1連隊/重砲第5中隊
・野砲兵第8連隊/重砲第3,4中隊
*モン・サン=カンタン(ペロンヌの北2キロ)部落とその東、ペロンヌ~フェン街道脇の風車場(モン・サン=カンタンの東1.4キロ。現存しませんが跡が残ります)の間高地上(クルップ4ポンド野砲x12)
・野砲兵第8連隊/軽砲第3,4中隊
*ドアン(ペロンヌの東南東2.3キロ)の西側高地上(クルップ6ポンド野砲x12、クルップ4ポンド野砲x6)
・野砲兵第5連隊/予備重砲第1,2中隊
・同連隊/予備軽砲中隊
*ビアッシュ部落西方のエルベクールへの街道(現・国道D1号線)北方
(クルップ4ポンド野砲x6)
・野砲兵第1連隊/軽砲第6中隊
*ラ・メゾネット(農場。ビアッシュの南1キロ)の北方高地(クルップ4ポンド騎砲x4)
・野戦砲兵第12連隊・騎砲兵第1中隊の2個小隊
水没したペロンヌ要塞
この独攻囲兵団初回の砲撃は当初目標を定めるため間隔を置いた緩やかなものでしたが、やがて砲兵たちが距離と角度を掴むと徐々に激しいものとなりました。要塞市内では数ヶ所に火災が発生し、またこの日は風も強かったため多くの家屋が全焼してしまいます。対する要塞では全方面で要塞砲が応射を行い、特に西側アール部落付近の独砲陣を目標とするものが多くあり、このためアール付近に砲列を敷いていた重砲3個中隊には多少の損害が発生しています。
独攻囲兵団は28日夜から29日の丸一日砲撃を続けましたが、やがて到着したマントイフェル将軍の「一時弾薬消費を抑えよ」との命令に従い射撃間隔を開き始め、翌30日は一日砲撃を中止するに至ります。
この30日、シュラー・フォン・ゼンデン将軍は軍本営の命令によって野砲兵第8連隊の第2大隊と第8軍団の野戦工兵第1中隊を除く第3「強化」旅団をアミアンへ返し、同じく砲兵を付け加え強化された第31旅団を受け入れました。更に翌大晦日にはザクセン騎兵のピルザッハ支隊も攻囲任務から離れてサン=カンタンへ向かったため兵力を減じています。
※1月1日夕時点のペロンヌ包囲網
<兵力は歩兵10個大隊・騎兵8個中隊・砲兵9個中隊・工兵1個中隊>
◆ソンム右岸(東)
*右翼・第1包囲区
アール~ペロンヌ=ファン街道(現・国道D917号線)間
◯第29「ライン第3」連隊・第1大隊
◯予備竜騎兵第1連隊・第2中隊
◯野砲兵第8連隊・重砲第3,4,5中隊
◯第8軍団野戦工兵第1中隊
*右翼・第2包囲区
ペロンヌ=ファン街道~ペロンヌ=ロワゼル街道(現・国道D6号線)間
○第69「ライン第7」連隊・第2、F大隊
◯予備竜騎兵第1連隊・第4中隊と第3中隊の半数
◯野砲兵第8連隊・軽砲第3,4中隊
*中央隊
ペロンヌ=ロワゼル街道~ペロンヌ=テルトリー街道(現・国道D937~D44号線)間
◯第19連隊
◯野砲兵第5連隊・予備重砲第1中隊
◯同連隊・予備軽砲中隊
*左翼隊
ペロンヌ=テルトリー街道(現・国道D937~D44号線)~ペロンヌ上流側ソンム河畔間
◯第81連隊・第1、F大隊
◯予備驃騎兵第3連隊
◯野砲兵第5連隊・予備重砲第2中隊
◆ソンム左岸(西)
*右翼隊
ペロンヌ上流側ソンム河畔~ペロンヌ=バルル街道(現・国道D79号線)間
◯猟兵第12「ザクセン第1/王太子」大隊・第3中隊*
○第29連隊・F大隊
○予備竜騎兵第1連隊・第1中隊
*左翼隊
ペロンヌ=バルル街道~ペロンヌ下流側ソンム河畔間
◯第29連隊・第2大隊(1個中隊欠)
◯予備竜騎兵第1連隊・第3中隊の半数
◯野砲兵第8連隊・軽砲第5中隊
※第69連隊第1大隊は騎兵第3師団に派遣中
※猟兵第12大隊の第3中隊は12月30日にコンピエーニュより到着
※第29連隊の第7中隊と予備竜騎兵1個小隊はエリー=シュル=ノワイエ(アミアンの南南東16キロ)の停車場警備のため派遣中
フォン・マントイフェル将軍はペロンヌ攻囲兵団が野砲により砲撃を始めると、アミアン城塞の砲兵指揮官で独要塞砲兵第11大隊の第8中隊長シュミット中尉の進言により「ペロンヌ砲撃の威力を増すため、ラ・フェールとアミアンの要塞陥落により鹵獲された要塞備砲を攻城砲に転用しペロンヌ攻囲兵団に与える(要塞砲も攻城砲も砲架の違いくらいで殆ど同じ代物です)」ことを命じました。
この命令により12月30日夕暮れ時に大口径(12cm以上)の要塞砲12門がアミアンより包囲網へ到着するのです。
一方のペロンヌ要塞は長時間休止することはあるものの依然独軍包囲網に対して砲撃を継続していました。すると大晦日の正午頃、仏軍守備隊は北西側出入り口からおよそ歩兵5個中隊(1,000名前後)の兵力で出撃に及びます。これは独攻囲兵団が砲撃を中止(30日)したことで、籠城する仏守備隊が「仏北部軍が決起してペロンヌ解囲を図って独軍を攻撃し始めたに違いない」と思い込んだため、と言われます。しかしアールとモン・サン=カンタン間、即ちソンム運河方向に向かった仏守備隊は「カンコンスの丘」(現在の競技場と学校付近。要塞の外郭から500m程度)に達するのが精一杯で、この地区を守備していた独第29連隊第1大隊の前哨による粘り強い戦闘によって「腰砕け」状態となり、結局守備兵たちは壊乱状態で要塞に逃げ戻るのでした。
12月末までに攻囲兵団は要塞を観察し続けた結果、砲撃を行う方向は要塞の南西側正面と決定します。この理由としては、要塞の南西正面はペロンヌ要塞の中で最も狭く、しかもこの正面に面する高地からは要塞を全て見通すことが出来、最も離れた北東端までも射程に収められるからでした。また、アミアンからやって来た要塞重砲をそのまま短時間で設置出来るという利便効果もあったのです。
このための砲台築造は1月1日の正午に開始され、これは休みなく徹夜で行われた結果、翌2日午前10時には要塞(攻城)砲12門と野戦用小口径カノン砲12門によって砲撃を再開するのでした。
※ペロンヌ要塞に対する独軍攻城砲陣地と備砲
◇砲台(攻城砲・臼砲陣地)
○ビアシュの東方
*第1号砲台 22センチ榴弾砲x2門
○ビアシュの南東方
*第2号砲台 22センチ榴弾砲x2門
○ビアシュの南方
*第3号砲台 21センチ臼砲x2門
○ラ・メゾネット農場の南東方
*第4号砲台 12センチカノン砲x3門
*第5号砲台 12センチカノン砲x3門
◇肩墻(重野砲陣地)
○ドアンの南西方
*第1肩墻 8センチカノン野砲x2門と9センチカノン野砲x4門
○オミエクール=レ=クレリー(アールの北北西1.9キロ。クレリー=シュル=ソンム対岸)の南方
*第2肩墻 9センチカノン野砲x6門
ペロンヌ要塞攻囲図
これら砲撃陣の指揮は第8軍団砲兵部長のパウル・フリードリヒ・フォン・カメケ大佐が執りました。また、野戦砲兵にとって不慣れな攻城砲撃を支援するため、アミアン城塞に少数の部下を残したシュミット中尉が麾下要塞砲兵を引き連れてやって来ます。砲台建造に活躍したのはクルーゲ大尉率いる第8軍団の野戦工兵第1,2中隊で、同第3中隊も1月2日、包囲網へやって来るのです(既述)。
対するペロンヌ要塞の砲兵たちは午前中こそ激しく抵抗して応射し、独砲撃陣にも損害が及びますが、午後に入ると約1時間の「自主的休戦」を行い、同時に要塞からは白旗の使者が現れ、独軍も砲撃を中止する間にこの日攻囲司令官になったばかりのフォン・バルネコウ将軍(既述)の下にやって来るのです。そして懇願するには「市民の内の弱者(婦女子・老人)を要塞の外に脱出させたい」とのことでした。しかしバルネコウ将軍は「婦女子を除けば要塞の抵抗が長期化する」と考えてこの要求を拒絶し、使者を追い返したのです。
砲撃は使者が要塞の門に消えた直後に再開されますが、これ以降は攻城要塞砲のみ使用し、カノン野砲は射撃を中止しました(要塞重砲は頑丈な要塞本体や軍事施設に対して使用され射撃間隔も長くなりますが、野砲はより軟弱な建造物を狙うため、これは砲弾の節約以外に民間人への被害を少なくする目的もあるかと思われます)。
砲撃下のペロンヌ市街
翌3日も砲撃は続行されましたが、この日「バポームの戦い」の影響で既述通り攻囲兵団から歩兵3個大隊・騎兵2個中隊・野戦砲兵4個中隊が引き抜かれてサイイ=サイゼルへ出立しました。またバポーム周辺に独軍主力が集中し後方連絡線の防備が手薄となったため、ヴィレ=ヴルトヌー(ペロンヌからは西南西へ30キロ)とネル(同じく南へ19キロ)へも少数の騎兵(予備竜騎兵第1連隊の第3中隊と予備驃騎兵第3連隊の第4中隊)が送られました。
前日の前哨戦から始まったバポームの戦いは要塞の北方僅か20キロ前後隔てた位置で発生したため、攻囲兵団も万が一仏軍がフォン・クンマー将軍麾下の部隊を撃破して迫った場合を考えなくてはならなくなり、貴重な攻城資材や要塞砲を敵に奪われぬよう、速やかに撤収可能な準備を始めたのでした。このため、先ずはソンム右岸包囲網の後方にあった輜重縦列をソンム左岸へ送り出し、包囲網右岸にあった諸隊はエズクール=ル=オー周辺に、左岸はラ・メゾネット農場付近に、それぞれ集合して行軍準備を整え、夕暮れ時を待って隠密に砲台から多くの攻城重砲を撤して搬出、安全な後方へと出発するのです。この3日夜、独攻囲兵団はペロンヌ要塞守備隊に包囲網が撤収し始めたことを悟らせぬため、榴弾重砲3門と12センチカノン砲1門により五月雨的な砲撃を続行したのです。
この時、ペロンヌ要塞の守備隊はバポームの戦いによる絶え間ない砲声を聞いていましたが動くことはなく、夜間に出撃するとの計画もありましたが、これも実行することはありませんでした。結局、バポームの戦いは勝敗付かず仏軍が撤退したために独軍の戦術的勝利に終わり、攻囲兵団は再び従前の攻囲に戻って行くのです。
しかし、ラ・フェールに留め置かれていたペロンヌ攻城用の諸資材は4日にアンまで進んだものの、ソンム流域が未だ不安定な状況ではこれ以上先へ送ることが出来ないと判断され、再びラ・フェールへと返送されてしまったのでした。
独軍が慌ただしく包囲網を動かす中、対する要塞からの砲撃は激しいものがありましたが、攻囲兵団はこれに対し4日は僅か5門、5日になっても8門だけが応射を続けました。しかし数は少なかったものの独軍は地の利と経験を積んでおり、またクルップ砲の榴弾には焼夷性の高い爆薬が使われていたため、要塞市街では火災の煙が絶えることがありませんでした。
1月6日にはバポームの戦いを終えて攻囲兵団に加わった諸隊があり(既述)、結果攻囲兵団は第16師団と近衛混成騎兵旅団を加えた予備第3師団のそれぞれ主力からなる歩兵11個大隊・騎兵16個中隊・砲兵7個中隊・工兵2個中隊の編成になるのでした。
バポームの戦い(独の図版)
※1月6日時点でペロンヌ要塞包囲網に参加しなかった諸隊
◎第16師団傘下
◯第29連隊の第7中隊はエリー=シュル=ノワイエ(アミアンの南南東16キロ)の停車場警備のため派遣中。
◯フュージリア第40「ホーフェンツォレルン」連隊の第3大隊はアム駐屯
◯第70「ライン第8」連隊の第1、2大隊はアミアン駐屯
◯同連隊のF大隊は「ペステル中佐支隊」に参加
◯驃騎兵第9「ライン第2」連隊はアム駐屯
◯同連隊の第1中隊半数(2個小隊)はポワ(=ドゥ=ピカルディ。アミアンの南西26.1キロ)及びフォルムリー(ポワの南西22.9キロ)に駐屯
◎予備第3師団傘下
◯第81連隊の第2大隊はラ・フェール駐屯
◯第19連隊の第2、F大隊は包囲網から騎兵第3師団へ派遣
◯予備竜騎兵第1連隊の第3中隊はヴィレ=ヴルトヌー駐屯
◯予備驃騎兵第3連隊の第1中隊半数はアティー=ス=ラン(ラン/Laonの東郊外)駐屯
◯同連隊の第4中隊はネル駐屯
この6日、包囲網参加の予備第3師団諸隊はカンブレ~ル・カトレ(ペロンヌの東北東23.6キロ)方面警戒も兼ねるためロワゼルを中心に南北に包囲網を形成しました。また夕方には攻囲材料を運搬する「攻城輜重」縦列も再びラ・フェールから行軍して包囲網に到着しました。この縦列には22センチ榴弾砲2門・21センチ臼砲6門・12センチカノン砲2門が含まれています。ベルサイユ大本営からは「メジエール要塞で鹵獲された要塞重砲28門もペロンヌに向けて出立した」との通報も届いたのでした。
これで攻城作戦に余裕の出来たバルネコウ将軍は遂に「正攻法で要塞を陥落させる」ことを決意するのです。この方針に従い、既存の砲台による砲撃は間隔を開いた緩慢なものとして、攻囲兵団総力を挙げて正攻法の準備に勤しむこととするのでした。
この準備のため、包囲網南端のヴィレ=カルボネルにはバポームの戦いによって先延ばしにされて来た攻城廠が開設されることとなり工事が開始されます。
この6日夜。ペロンヌ要塞守備隊は曳光弾を要塞前に発射するとモン・サン=カンタンとビアッシュに向けて猛烈な砲撃を行いましたが、包囲網の損害は僅かでした。
バルネコウ将軍
攻囲は着々と終盤に向かって進みます。
1月8日夕刻。ペロンヌ包囲網に待望だった大量の砲弾薬が到着しました。これにより、攻城砲撃は弾薬の残量を気にすることなく間隔も狭めて翌日から実施されることに決まります。しかし、攻囲兵団指揮官のフォン・バルネコウ将軍は要塞を「タコ殴り」する前に「以降要塞の抵抗は仏軍ばかりでなく民間人の犠牲も増やすのみで双方全くの無駄」と考え自ら白旗の使者として要塞に赴き、司令官のガルニエ少佐に対し降伏を迫ったのです。少佐も観念し開城を認めるのでした。
独仏双方が砲撃と敵対行動を休止した後、午前11時に仏軍側から3名の士官が独攻囲兵団の司令部を訪れ開城協定の協議が開始され、これはほぼ半日に渡り断続的に行われた結果、午後11時45分、セダン開城の条件とほぼ一緒の協定が交わされ決着するのでした。
この8日夕、未だ交渉が続いていた時にバルネコウ将軍はカンブレ警戒を兼ねてペロンヌ東方のロワゼル方面に展開していた予備第3師団をペロンヌ至近まで引き寄せ、万一仏軍が変心した場合に備えます。しかしその心配も日付が変わった頃になくなり、1月10日午後2時、遂にバルネコウ将軍は堂々ペロンヌ要塞に入城するのです。
1月1日から9日までのペロンヌ攻囲戦で仏軍守備隊や市民の被った損害は不詳です。また独軍が被った損害は記録されていません。
要塞に備蓄されていた弾薬や糧食は膨大で、兵器も各種多数が独第一軍の手に入ったのでした。




