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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・北部戦線
454/534

1月上旬のセーヌ河口域戦線とソンム流域の危機


☆ ロベール・ル・ディアブルとメゾン・ブルレの戦闘(1月4日)


 独第一軍司令官フォン・マントイフェル騎兵大将自らによる新年早々の観察行により、「セーヌ河口域ルーアン市に掛かる敵の圧力を殺ぐための行動」が命じられ、結果アミアン在の独第3旅団が親部隊である第2師団に帰属することとなり、その第一段として第44「オストプロイセン第7」連隊がルーアンへ鉄道輸送されました(既述。連隊は同1日中にルーアンへ到着します)。

 ところが、年末にルーアンに迫っていたセーヌ左(ここでは南)岸の仏軍部隊は、大晦日に行われた独第1師団長フォン・ファルケンシュタイン将軍による強行偵察(「セーヌ下流域1870年末の状況とメジエール要塞の攻囲」参照)の効果によってか新年を迎えると全く形を潜めたために、セーヌ河口域の戦域を担当する独第1軍団長、ゲオルグ・フェルディナント・フォン・ベントハイム中将は1月3日、フォン・マントイフェル将軍から命じられていた「セーヌ左岸に潜む仏軍を西方へ追い返す」ための作戦を実施することに決し、4日早朝、この作戦のために歩兵12個大隊半、騎兵4個中隊、砲兵4個中隊、工兵1個中隊(殆ど完全編成の1個師団級)を再びルーアン南側のセーヌ左岸湾曲部内(以降「ルーアン湾曲部」と呼びます)のグラン=クーロンヌ(ルーアンの南西12キロ)に集合させました。

 この時、セーヌ左(南)岸にある仏軍・ロワ将軍の率いる兵員約1万名と各種野砲14門を持つ師団クラスの兵団は、大晦日の強行偵察後にルーアン湾曲部内へ去った独軍の後を密かに追ってセーヌ河畔のラ・ブイユ(ルーアンの南西15.9キロ)とエルブフ(ラ・ブイユの南東8.7キロ)を結ぶ線上に再度展開し事実上ルーアン湾曲部を封鎖していたのです。


挿絵(By みてみん)

グラン=クーロンヌ(20世紀初頭)


※1月4日・グラン=クーロンヌ周辺から出撃した独「ルーアン兵団」諸隊


◎ベルグマン支隊

リヒャルト・エミール・フォン・ベルグマン少将(第1軍団砲兵部長/砲兵第1旅団長)指揮

◇前衛 男爵グスタフ・アドルフ・オスカー・ヴィルヘルム・フォン・メアーシャイト=ヒュレッセム中佐(第41連隊長)指揮

*高地筋を行軍

○第41「オストプロイセン第5」連隊・第1、2大隊

○猟兵第1「オストプロイセン」大隊・第1,3中隊

○第1軍団野戦工兵第2中隊の半数

*ロアール谷地沿いに行軍

エミール・カール・アウグスト・フォン・ヴィンスコウスキ中佐指揮(擲弾兵第1連隊大隊長)

○擲弾兵第1「オストプロイセン第1/皇太子」連隊・第1大隊

○同連隊・第5,6中隊

◇本隊

エアハルト・ヴィルヘルム・エグベルト・フォン・レーガト大佐(擲弾兵第3連隊長)指揮

○擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊・第2、F大隊

○竜騎兵第1「リッタウエン/アルブレヒト親王」連隊・第1中隊

○野砲兵第1「オストプロイセン」連隊・重砲第1、軽砲第1中隊


◎後続予備隊(ブッセ支隊)

コンスタンティン・エルンスト・アルベルト・フォン・ブッセ大佐(第3旅団長代理)指揮

○第43「オストプロイセン第6」連隊・F大隊

○第44「オストプロイセン第7」連隊

○竜騎兵第1連隊・第2中隊

○野砲兵第1連隊・重砲第4、軽砲第2中隊

○第1軍団野戦工兵第2中隊の半数


挿絵(By みてみん)

ロベール・ル・ディアブルとメゾン・ブルレの戦闘地域図


 1月4日の未明。グラン=クーロンヌを発した行軍の先頭にあったフォン・メアーシャイト=ヒュレッセム中佐は、歩兵6個中隊(フォン・ヴィンスコウスキ中佐の隊)をセーヌに沿った街道(現・国道D3号~D67号線)上をムーリノー(グラン=クーロンヌの南西3.5キロ)に向けて進ませると、自身は残り2個大隊半と工兵半個中隊を直率して街道の南側・広大なロンドの森東側の高地上に登って大晦日にも一時占領した円錐型の山上にあるロベール・ル・ディアブル城址(ムーリノーの南西郊外600m。現存します)に向けて進みました。

 本隊を率いたフォン・レーガト大佐は歩兵2個大隊・騎兵1個中隊・砲兵2個中隊を直率して前衛のヴィンコウスキ隊後方を進み、その更に後方には大きく距離を置いてフォン・ブッセ大佐が歩兵4個大隊・騎兵1個中隊・砲兵2個中隊・工兵半個中隊を直率し追従するのでした。グラン=クーロンヌの陣地には歩兵2個大隊半が居残り、この残留隊からはラ・ロンド(グラン=クーロンヌの南西6.9キロ)に向けて強行偵察隊が発し、本隊の行軍左翼側を警戒しました。また、ルーアン湾曲部の南側、細長い半島状の根元にあるトゥルヴィル(=ラ=リヴィエール。グラン=クーロンヌの東南東7.8キロ)駐屯の前哨隊は、同様に攻撃隊の後方を警戒するため一旦ポン=ドゥ=ラルシュ(トゥルヴィルの南東4.5キロ)の渡河点より対岸に渡り、川沿いに西へ進んでエルブフに向かいました。


※1月4日・グラン=クーロンヌに残った部隊

カール・ヴィルヘルム・フォン・マッソー大佐(擲弾兵第1連隊長) 指揮

○擲弾兵第1連隊・第7,8中隊

○同連隊・F大隊

○擲弾兵第3連隊・第1大隊

※1月4日・トゥルヴィル=ラ=リヴィエール駐屯部隊

フェルディナンド・ハインリッヒ・エルドマン・エヴァルト・フォン・マッソー中佐(竜騎兵第1連隊長)指揮

○第41連隊・F大隊

○竜騎兵第1連隊・第3,4中隊

○野砲兵第1連隊・重砲第2中隊


 フォン・メアーシャイト=ヒュレッセム中佐の縦隊は、未だ明けない朝の積雪に反射する月明りに照らされた森の中を進みます。中佐らはこの月明りに浮かび上がった仏軍の前哨を攻撃し、この前哨部隊は慌ててロベール・ル・ディアブル城址方向へ逃げ出すのでした。この城跡には大晦日の時と同じく仏軍守備隊がおり、彼らは前哨兵を収容すると警報を出して散兵壕に入り迫る独軍を銃撃しました。

 独軍の先鋒となった3個(第41連隊の第3,4,6)中隊は、後方から2個(第41連隊第7と猟兵第1大隊の第1)中隊が追い付くのを待つと、この5個中隊の独将兵は西以外の三方から城址がある円錐形の高地に駆け上がり、短時間で仏軍の散兵壕を制圧するのです。

 この仏兵の大部分は高地西側へ遁走し、残った少数が城址に逃げ込みましたが、直ぐ後方から突入した独将兵によって全員が捕虜となりました。


挿絵(By みてみん)

ロベール・ル・ディアブル城址


 ロアール沿岸の街道を進むフォン・レーガト大佐の縦隊は、ムーリノーを簡単に占領すると更に西へ進みますが、前面の高地上に陣取る仏軍から猛銃撃を受け一時停止しました。しかしほぼ同時刻にメアーシャイト=ヒュレッセム中佐の部隊が同じ尾根東端のロベール・ル・ディアブル城址を占領したため、この仏軍部隊も高地尾根から撤退して行きました。

 レーガト隊はその後ラ・ブイユ手前(南東)のメゾン・ブルレ(邸宅。ラ・ブイユの南900m付近。現存しません)の街道交差点で仏軍部隊と衝突しますが、擲弾兵第3連隊の第2とF大隊による包囲攻撃を受けたこの仏軍はブール=アシャール(同西8.1キロ)方面へ撃退されたのです。この攻撃中、擲弾兵連隊の第11中隊は、同僚第10中隊と第8中隊の一部兵士の援護と協力により、榴弾を発射していた仏軍の大砲2門を奇襲しこれを奪取するのです。

 レーガト大佐はこの直後に総指揮官のフォン・ベルグマン将軍から敵を追撃せよとの命令を受けてブール=アシャールに向かって前進し、メアーシャイト=ヒュレッセム隊は南方のラ・ロンドに向けて転進しました。同じく後方からロベール・ル・ディアブル城址の高地に到着したブッセ大佐隊はメアーシャイト=ヒュレッセム隊の右翼側となるブールテルード=アンフルヴィル(ラ・ブイユの南南西7.2キロ)方面へ進んだのです。


挿絵(By みてみん)

ラ・ブイユ(19世紀)


 レーガト大佐はブール=アシャールへの途上、サン=トゥーアン=ドゥ=ドーベルヴィル(ラ・ブイユの西3.2キロ)で強力な仏軍と遭遇し半包囲攻撃を受けて停止しました。これはラ・ブイユ周辺から後退した部隊の可能性が高く待ち伏せに近い仏軍の攻撃は一時効果を現し激戦となります。しかしレーガト大佐が軽砲第1中隊に命じた榴弾砲撃により、仏軍は浮足立って逃走を始め、駆逐されたのでした。レーガト隊は午後に入るとブール=アシャールに突入し、これを簡単に占領しました。

 午後6時。すっかり暗くなったブール=アシャールにフォン・ベントハイム将軍からの命令が届きます。それによると、レーガト隊は更に敵を追撃してその動向を探れ、とのことで、大佐はプライニッツェル少佐に命じて一支隊を作り、これを一部は馬車に乗せてルジュモンティエ(ブール=アシャールの西7キロ)に向け送り出したのです。


※1月4日夕方・プライニッツェル隊

○擲弾兵第3連隊・第8中隊

○竜騎兵第1連隊・第1中隊の2個小隊

○野砲兵第1連隊・軽砲第1中隊の1個小隊(2門)


 面白いことにレーガト大佐は同道していた第1軍団軍楽隊一行の一部をこの遠征隊に同行させるのです。

 プライニッツェル少佐はルジュモンティエに近付くとリットケン中尉とイェールマン中尉率いる擲弾兵中隊と竜騎兵半中隊に部落掃討を命じ、両中尉は4ポンド砲2門の援護射撃を貰って同時並進してルジュモンティエ部落に突入しました。部落の街道口には旧式の12ポンド砲2門が配置してありましたが、これは発射する前に独兵が砲手を殺傷して鹵獲されます。仏の守備隊は交戦僅かで遁走し、独竜騎兵は敗走する仏軍から更に弾薬を積載した馬車1輌を奪取するのです。

 ほぼ同じ頃、フォン・ブッセ大佐の支隊もブールテルードに進む途上、仏軍の抵抗に遭遇しますが短時間の交戦でこれを駆逐して、付近の仏軍を順次排除しつつ進みました。これら仏兵たちはブリオンヌ(ブールテルードの南西16.2キロ)方面へ撤退して行ったのです。

 フォン・メアーシャイト=ヒュレッセム中佐も部下と共にラ・ロンド付近で仏軍部隊と交戦し、こちらの仏軍は粘り強く戦って長時間に渡る攻防となりますが、やがて中佐の支隊は一軒家となった農家以外この広い部落を制圧するのです。夕暮れ時に至ると中佐は孤立を避けて他の支隊と合流するためブールテールドへ進むのでした。


挿絵(By みてみん)

ブールテルード市街(20世紀初頭)


 このように4日、独ルーアン兵団は仏軍の躍動を抑えるため多くの支隊をセーヌ南方に派遣しましたが、遅れてグラン=クーロンヌからラ・ロンドへ向かった一隊(フォン・マッソー「大佐」隊の一部)は最初オリヴァル(エルブフの北北西2.3キロ)に向かいますがこの部落には仏軍の守備隊が構えており、しばらく交戦することとなります。また、トゥルヴィルからエルブフへ向かった隊(フォン・マッソー「中佐」隊)は途上仏の義勇兵や狙撃兵などを駆逐しながら進んだためエルブフを望見する位置で夕暮れを迎え、無理をせずトゥルヴィルへ引き返すのでした。

 仏軍の右翼(東)側諸隊はほとんど後退せずにルーアン湾曲部口を「閉じ」続けましたが、前述通り左翼側が大きく後退したため前線に留まるのは危険となり、夜になると夜陰に紛れて急速に後退して行ったのでした。


 翌5日早朝。フォン・ブッセ大佐は宿営したブールテールドを発って未だ仏軍が確保していると考えられたエルブフに向かいますが、同地に接近して見ると、そこには既に友軍の姿があったのです。この独軍は昨日この部落を目前にして引き返したフォン・マッソー中佐のトゥルヴィル派遣隊で、この日未明から再び行動を起こし、部落から仏軍が消えていることを確認して進駐していたのです。

 この他、4日に独軍が占領した各地は5日に至っても全て独軍が確保し続けていました。早朝に各方面へ放った斥候は西方のリスル川までの間に仏軍が全て消え去ったことを確認します。この他住民への尋問や観察から仏軍がこの地域における抵抗を諦めたことを知るのです。


挿絵(By みてみん)

エルブフ(20世紀初頭)


 独ルーアン兵団は4日の「ロベール・ル・ディアブルとメゾン・ブルレの戦闘」他により戦死39名(うち士官3名)・負傷者139名(うち士官2名)・捕虜4名を出し、仏ロア将軍の兵団もまた独軍とほぼ同等の死傷者を計上しますが、捕虜は300人余りを出して砲4門を鹵獲されています。

 この作戦の総指揮を執ったフォン・ベルグマン将軍は、ルーアン湾曲部の外に出たブール=アシャール~ブールテルード~エルブフの線を維持するために擲弾兵第3連隊や猟兵第1大隊、竜騎兵第1連隊などを駐屯させ、予備として歩兵3個大隊をグラン=クーロンヌに残し、残りの部隊をルーアンに返すのでした。


※1月5日以降、ルーアン湾曲部とその外に残った部隊

*ブール=アシャール駐屯

ヴィルヘルム・アルベルト・フォン・プレッツ中佐(独第1猟兵大隊長)指揮

○擲弾兵第3連隊・F大隊

○猟兵第1大隊・第1中隊

○竜騎兵第1連隊・第1中隊

○野砲兵第1連隊・軽砲第1中隊

*ブールテルード駐屯

エアハルト・ヴィルヘルム・エグベルト・フォン・レーガト大佐(擲弾兵第3連隊長)指揮

○擲弾兵第3連隊・第2大隊

○猟兵第1大隊・第3中隊

○竜騎兵第1連隊・第2中隊

○野砲兵第1連隊・軽砲第2中隊

*メゾン・ブルレ駐屯

○擲弾兵第3連隊・第1大隊

*エルブフ駐屯

フェルディナンド・ハインリッヒ・エルドマン・エヴァルト・フォン・マッソー中佐(竜騎兵第1連隊長)指揮

○第43連隊・F大隊

○第41連隊・F大隊

○竜騎兵第1連隊・第3,4中隊

○野砲兵第1連隊・重砲第2中隊

・この内歩兵1個中隊をポン=ドゥ=ラルシュの渡河点(橋梁)守備に回します。

*グラン=クーロンヌ駐屯(予備隊)

○第41連隊・第1、2大隊

○第43連隊・第2大隊(1月6日にルーアンから派遣)

*オワセル(ルーアン湾曲部内・トルヴィルの対岸)駐屯

○第1軍団野戦工兵第2中隊の半数


 セーヌ河口の港湾都市、ル・アーブルではアメデ・アーネスト・バーソロミュー・ムーシェ海軍大佐(後のパリ天文台所長)が先頭に立って組織(司令官)し、ル・アーブル地区の護国軍部隊指揮官プルタンジァ中佐(准将扱い)が実質率いた約1万2千と各種野砲18門の兵団が1月2日、ロワ将軍の動きに同調する形で動き始め、最前線のボルベック(ルーアンの西北西47.5キロ)からコドゥベック=アン=コー(同西北西28.6キロ)に向けて出撃しましたが、4日になると急ぎ引き返し元の前線を構築ました。この間、独軍前線部隊(近衛騎兵旅団中心)はゆっくりと進む仏軍の縦隊に付かず離れず監視していましたが、特に大きな偵察隊がフォヴィル=アン=コー(ボルベックの北東12.3キロ)に進んだことを知ったプルタンジァ将軍が「ル・アーブルと自軍との間に敵が入り込む前兆」と考え、包囲攻撃を恐れて撤退したものと言われています。


挿絵(By みてみん)

 ムーシェ


 4日夜。ロア将軍も敗退したことを知ったプルタンジャ将軍は更にル・アーブルに向けて後退し、5日夕刻時には前哨線を自軍左翼よりオクトヴィル=シュル=メール(ル・アーブルの北6.8キロ)~モンティヴィリエ(同北東8.3キロ)~アルフルール(同東6.8キロ)に置き以前に増して防衛範囲を絞り、文字通り背水の陣で兵員を集中させるのです。

 一方、セーヌ南方のロワ将軍兵団はリスル川左岸に退き、ポン=オードゥーメル(ブリオンヌの北西23.3キロ)~ブリオンヌ間に再展開しました。

 これでセーヌ河口方面の仏軍も完全に守勢に転じ、それはアミアンの東、ソンム中流域バポームの戦いで仏北部軍がアラスへ退却した時と同じくし、アミアン在の独第一軍本営をほっとさせるのでした。


挿絵(By みてみん)

ロベール・ル・ディアブル城址と独軍歩哨(1871年1月撮影)


☆ バポーヌ会戦の後のソンム流域(1月5~7日)


挿絵(By みてみん)

バポームの戦い(仏の戦史絵)


 1月5日。バポームには独騎兵第3師団が入城し、再び北方アラス方面への監視拠点となります。

 同騎兵師団長、伯爵ゲオルク・ラインハルト・フォン・デア・グレーベン=ノイデルヘン中将はアラスに向けて斥侯複数を放ち、仏北部軍がアダンフェール(アラスの南南西11.8キロ)~ボイエル(同南10.2キロ)~クロワジル(同南東12.5キロ)の線に前哨を置いていることを確認しました。このことからフォン・ゲーベン将軍の第8軍団本営は、仏北部軍がアラスの北・スカルプ川を越えた先の安全な「仏白国境要塞地帯」には退くことなく、アラスの南面に留まって直ぐにでもペロンヌへ再出撃する準備中にあることを知るのです。

 フォン・ゲーベン将軍は5日早朝にアミアンのフォン・マントイフェル将軍から許可を得、「バポームの戦い」に参戦した諸隊に対しこの日一日の休養を許すと共に輜重・弾薬縦列の尻を叩いて各種軍用資材、特に弾薬の補給を急がせました。その最中、翌6日にソンム川左(ここでは南)岸に退いていた第15師団に再びソンムを渡河させ、ペロンヌの東方に展開している諸隊と共にアラスへの本街道(現・国道D917号線)の側面に展開し、仏軍が再び南下を図った場合にその側面から迎撃するよう配置する計画を立てるのです。

 この命令に従い第15師団は6日、アルベール~ブレイ=シュル=ソンム(ペロンヌの西15.7キロ)間に展開し、アミアンの西・ピキニーでソンム河畔を警戒していたエデュアルド・フォン・ペステル中佐の支隊は、槍騎兵第7「ライン」連隊の第4中隊のみピキニーに残してアミアンの北東側へ送られアシュー=アン=アミエノワ(アルベールの北西11.6キロ)まで前進しました。第8軍団砲兵隊はソンム南岸に残ってフェイ(ペロンヌの南西10.4キロ)とフラメルヴィル(=レヌクール。フェイの西南西7.3キロ)に駐屯し、ペロンヌの東側、マルケやロワゼル、ニュルにあったフォン・ヘルツベルク大佐とフォン・ヴィッティヒ大佐の両支隊は第16師団長の男爵アルベルト・クリストフ・ゴットリープ・フォン・バルネコウ中将率いるペロンヌ攻囲兵団に隷属することになります。この内フュージリア第40「ホーフェンツォレルン」連隊の第3大隊と驃騎兵第9「ライン第2」連隊の第3中隊は新たな支隊となってアン(ペロンヌの南南東22.6キロ)へ送られましたが、その行軍途上フュージリア第40連隊の第9,10中隊に本隊帰属命令が出されて7日に連隊へ戻りました(アンには第11,12中隊が進みます)。因みにこの両支隊が攻囲兵団に属することとなったのは、今後バルネコウ将軍が独自にペロンヌ包囲網の北方における「安全」を確保する(=フォン・ゲーベン将軍の本営に諮らず速やかに・自由に使えるようにする)ためと伝えられています。


 ところが1月7日。一つの情報が独第一軍にもたらされ、その内容にマントイフェル将軍・ゲーベン将軍共に震撼するのです。

 それは仏ノール県全域に対する斥侯と諜報による情報収集の結果で、要約すれば「仏北部軍はアラス南面に置いた前哨の後方に集合し、フェデルブ将軍は本営を再び前線上のボワウルー=オー=モン(アラスの南9キロ)へ進めている。同時にアミアンを襲撃する計画の存在がある。何処からか不明であるが多数の兵員を擁する増援がブーローニュ(=シュル=メール。北西95.4キロ)に上陸している」とのことでした。

 このためゲーベン将軍はアミアンへも救援可能なようにソンム川自体を防衛線として麾下全てを左(南)岸に展開させることも考えるのでした。

 しかし、いつ敵が動き出すか分からない・それが今日かも知れない(これまでの戦いでフェデルブ将軍の「能力」はゲーベン将軍にも良く分かっていました)現状では、大きく兵を動かす訳にもいかず、独第8軍団はこれまでの配置を守りつつ最低限の配置転換を行い、これにより予備第3師団はペロンヌ包囲網に麾下の予備第3騎兵旅団を残留させると歩兵旅団は西へ動いてフイエール(ペロンヌの西北西6.7キロ)周辺に至り左翼(西)側でブレイ(=シュル=ソンム)在の第30旅団と連絡しました。また近衛混成騎兵旅団はサイイ=サイゼルとコンブルまで戻ってペロンヌとバポームの中間に展開するのです。また直前配置のまま騎兵第3師団はバポームに、第29旅団はアルベール周辺、第30旅団はブレイ(=シュル=ソンム)周辺に留まりました。


挿絵(By みてみん)

バポーム郊外のフェデルブ将軍と幕僚たち



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