バポームの戦い(後)
☆ バポーム。1月3日(承前)
このティヨワにいたのは独第8軍団で総予備となり、フォン・ゲーベン将軍の直接指揮下にあった猟兵第8大隊でした。
ライン州猟兵はフォン・ゲーベン将軍から命じられ、バポームの左翼増援としてル・トランスロワから前進して来たもので、同時にサイイ=サイゼルから野戦砲兵第8連隊の重砲第3,4中隊も救援としてやって来ます。猟兵がティヨワとリニー(ティヨワの南西550m)を占拠すると、砲兵は両部落南方の高地上に砲列を敷いていた砲兵2個中隊(後退して来た重砲第2と軽砲第1中隊)に加わり計24門で迫り来る仏軍散兵群に対する砲撃を開始しました。
仏ピティ旅団将兵は突然激しい榴弾砲撃を受けて遮蔽物に飛び込みます。午後3時30分には後退を始めたため、独軍も砲撃を止め部落の猟兵たちもほっと胸を撫で下ろしましたが、暫くするとピティ旅団は再び前進を再開し、今度は砲撃を厭わず一気にティヨワとリニーへ押し寄せたのでした。戦闘はここでも家屋を争う近接市街戦となりますが、兵力差は如何ともし難く、結局ティヨワからライン猟兵は追い出されてしまいます。しかし、僅か1個(第3)中隊がいただけのリニー部落の方はこの中隊が死守し、仏兵は一旦下がって睨み合いとなるのです。
ティヨワの戦闘
バポームの東では、ヴィルヘルム・アルブレヒト王子がクンマー将軍に助太刀するべく麾下と共に西へ急行しました。
ベルタンクールで待機していた王子は早朝「バンクール(バポームの東2.8キロ)まで前進せよ」との命令を受け、同地到着後の午前11時30分、ゲーベン将軍からの「バポーム攻撃中の敵左翼を突け」との命令を受けたのです。
これによりアルブレヒト王子はフォン・ヘルツベルク大佐に対し「麾下と共にファヴルイユに向けて前進せよ」と命じます。王子はこの少し前、ファヴルイユに仏ペイヤン師団の前衛が入ったのを望見したためでした。ヘルツベルク大佐はまず砲兵2個(野戦砲兵第8連隊の重砲第6と軽砲第6)中隊に部落を砲撃させ、その砲撃効果が表れるとフォン・ローゼン少佐が指揮するフュージリア第40連隊の第1大隊を部落に向けて突進させました。ローゼン大隊は手際よく短時間で部落を囲み、一気に市街へ突入しますが部落内では仏軍が激しく抵抗し、短くも激しい白兵の後この仏軍前衛を部落外へ駆逐しました。ところが間を置かずに西側から強力な仏軍部隊が現れて部落を攻撃し、西郊外まで前進して来た独砲兵2個中隊も猛銃撃を受けてしまうのです。また、北方のヴォー(ファヴルイユの北東4.6キロ)にも仏軍の大集団が望見されたため、ヘルツベルク大佐は予備として後置していた第3大隊も含め全部隊を一斉にカンブレへの街道(現・国道D930号線)まで下がらせ、その右翼(東)端をフレミクールに置いて街道沿いに再展開するのでした。この時、ブナートルに向かって進んでいた近衛槍騎兵第2連隊も、同道した野戦砲兵第8連隊の騎砲兵第1中隊と共に転回しフレミクールまで下がったのです。
ヘルツベルク
アルブレヒト親王兵団の左翼(西)側ではフォン・ヴィッチヒ・ゲナント・フォン・ヒンツマン=ハルマン大佐率いる支隊がサン=トーバンへ進みます。
サン=トーバンは前述通り第68連隊のF大隊が残留し占拠していましたが、その後撤退命令を受けて市街まで後退しており、既に仏軍の前哨が侵入していました。フォン・ヴィッチヒ大佐はフュージリア第40連隊の第2大隊に部落奪還を命じ、大隊は突進してこの仏軍部隊と短くも激しい白兵を行い、これを駆逐して部落を奪還したのです。この少し前、サン=トーバンに仏兵が入ったことでフォン・クンマー将軍もバポーム市街の東街道口に第28連隊の第2大隊と軽砲第2中隊を配備していたため、これ以降バポームの東側戦線には歩・騎・砲兵寄せ集めではあるものの約1個旅団の将兵が展開し強固に守られることとなったのです。
このため仏軍(第23軍団)もなかなか突破戦闘を行うことが出来ず、先のフェデルヴ将軍の意向(西側にある第22軍団による攻勢重視)もあって午後2時30分以降は砲撃のみを行い、午後4時30分になってからようやく散兵群が前進を開始しますが、これも独の砲兵(合わせれば24門)の阻止砲撃で出鼻を挫かれ撃退されてしまったのでした。
サン=トーバンを奪還するフュージリア第40連隊
自軍右翼の脅威が緩和されたことでクンマー将軍の視点は左翼に移ります。
ここで独軍としてはアルベールへの街道を越えて侵出した仏軍を叩き、ティヨワを奪還することが目標となりました。リニーの南側高地上に砲を敷いていた独軍砲兵4個中隊は、仏軍に占領されたティヨワの部落に砲撃を集中しました。
ところで、騎兵第3師団のフォン・ミルス少将率いる支隊は前述通り騎兵第7旅団がアシエ=ル=プティ方面を攻撃中、アンクル河畔のプティ=ミローモンに待機を強いられていましたが、その間バポーム方面からは激しい砲撃音が連続して響いており、それは止まることなく続いたことでミルス将軍たちは「蚊帳の外」に置かれた疎外感を味わうのです。
我慢の限界に達したミルス将軍は午後1時を過ぎると独断で「戦場音」がする方向へ支隊を進めました。午後4時、ミルス将軍はリニーに接近すると砲撃中の独軍砲列を発見し直ちに麾下の騎砲兵2個小隊を砲列に参加させ、第69連隊の3個(第1,2,3)中隊をリニーに増援として送り込んだのです。
程なくしてフュージリア第33連隊の第3大隊もリニーへやって来ました。この大隊は前日ヴィルヘルム・アルブレヒト王子の下から親部隊への帰還途上、フォン・ゲーベン将軍から待機命令が届きボーランクール(バポームの南南東3.8キロ)で宿営し、この日午後にティヨワへの前進命令が届いたものでした。更にバポームからはフォン・ストルブベルク少将が第28連隊のF大隊と第65連隊の第1大隊、そして第68連隊の第5,7中隊を直率して到着するのです。
防戦する独軍
こうしてバポーム南西郊外でも1個旅団クラスの兵力を集合させた独軍でしたが、このまま仏軍と衝突することはありませんでした。何故ならばアルベールへの街道付近とティヨワに進んだ仏ピティ旅団は午後4時頃になると撤退を開始しており、ティヨワや街道筋から北方へ退いていたのです。
これもフェデルブ将軍の命令によるものでした。将軍は夕暮れが迫ると「各隊はその進出した地点で『敵と直接に接触していない限り』その地点に陣を敷いて大休止(宿・野営)せよ」と命じていました。
将軍としては「未熟な部下」を夜間老獪な敵の前に置くのは危険としたのでしょうが、この命令を受けた仏軍諸隊は戦場心理で過剰な反応を起こし、面前に敵の姿を見ていた前線部隊ばかりでなく、その後方にあって待機していた部隊までもが命令を受けるや否や一斉に後退したのです。
独軍側は仏軍が撤退したことに気付くと直ちに追撃を開始し、途上疲弊して動けなくなっていた多くの落伍兵を捕縛するのでした。この時、アヴェーヌ(=レ=バポーム)を占領していたアイネ旅団やバポームの北郭外市街フォーブール=ダラースを占領していたペイヤン師団の前衛も撤退していたのです。
この夜、デロジャ師団はグレヴィエに、ベッソル師団はビウクールとアシエ=ル=グランに、ペイヤン師団はファヴルイユに、ロペン師団はブナートルとヴォーに、それぞれ宿営するのでした。
一方の独軍では第15師団とフォン・ミルス支隊がバポーム市内とティヨワ、そしてリニーに、ヴィルヘルム・アルブレヒト王子の兵団がバポーム東のカンブレへの街道筋諸部落(フレミクールやブニーなど)に、騎兵第7旅団はブッコワの南西側諸部落(ピュイジューやエピュテルヌなど)に、それぞれ宿営しました。
バポーム郊外の仏軍
フォン・ゲーベン将軍麾下の諸団隊は1月2~3日に掛けて3倍近くの仏軍部隊と衝突してペロンヌへの進出を拒みますが、その代償として士官52名、下士官兵698名、馬匹141頭の損失を見ました。仏北部軍もまたペロンヌを奪い返すことは出来ませんでしたが独軍に損害を与え、ペロンヌ包囲網から一時部隊を引き離すことが出来ます。しかしこちらも士官53名、下士官兵2,066名を失ったのでした。
※1月3日「バポームの戦い」における独軍の損失
*戦死/士官14名・下士官兵91名・馬匹67頭
*負傷/士官26名・下士官兵429名・馬匹49頭
*行方不明(ほぼ全員が捕虜)/下士官兵65名・馬匹3頭
◎総計/士官40名・下士官兵585名・馬匹119頭
☆ フェデルブ将軍、再度の後退(1月4日)
フェデルブ将軍が3日のバポーム攻撃で最も期待していたことは「ペロンヌ包囲網の北面を脅かす仏軍のバポーム進撃を防ぐため、独軍がペロンヌ攻囲を中断し増援をバポームに送ること」でした。事態は正にフェデルブ将軍の願い通りに進展しますが、このバポームへの独軍増援が同時にフェデルブ将軍麾下の諸隊を痛め付けることは間違いなく、その場合ペロンヌも救えず自軍も崩壊、と言う「やぶ蛇」状況に陥る可能性が見えて来たのです。
フェデルブ将軍は実際、一気果敢な攻勢により短時間でペロンヌに達し、独軍が反撃に出る前に要塞を解放、あわよくばソンムを渡河してロワからコンピエーニュ方面へ突破したいところだったのでしょうが、バポームで時間を費やしてしまったことによりペロンヌ解放が遠退いてしまいました。
練成不足で「戦争を知らない」新兵を多く抱える仏北部軍は、2日から3日に掛けて善戦し、ほぼ「勝利」を手中にし掛けましたが、多くの者が身体も精神も疲弊し尽くし、しかも厳寒によって更に多くの落伍兵を産み出すのです。
フェデルブ将軍は麾下の様子を確認すると、躊躇せずアラス方面への撤退を決意するのでした。
独軍にしても1月4日に続けて仏軍と戦うのは厳しい状態にありました。一番の問題を抱えていたのは砲兵諸中隊で、砲弾・弾薬が殆ど底を尽き、補充も十分に受けられない状態だったのです。これは当時弾薬縦列の貯蔵品が戦闘の連続で消費し尽くされ、後方からの補充が間に合っていなかったことが原因でした。厳寒の中数倍する敵と戦い続けた兵士たちの疲弊度も相当に高く、切実に休養を求めていました。これによってゲーベン将軍は4日早朝、「バポームの戦い」に参与した第15師団をソンム南岸へ撤退させることを決め、直ちに後退行軍を開始させたのでした。
ところがこの朝。前哨から「仏軍がバポーム北方の諸部落から撤退している」との報告が相次ぐのです。
4日早朝。独第15師団は仏軍監視と後衛として撤退行軍開始の直前、驃騎兵第7連隊をバンクール~バポーム~ティヨワの線上に配備します。この時連隊の第1中隊はバンクール、第2,4中隊はバポーム、第3中隊はティヨワにそれぞれ駐屯しました。同じ頃、フォン・デア・グレーベン将軍も胸甲騎兵第8連隊の諸中隊をアラス方向に放って仏軍の動向を探らせます。
※1月4日・独胸甲騎兵第8連隊の状況
*連隊長の直率でアラス方面へ偵察
・第1中隊の2個小隊
・第2中隊(4個小隊すべて)
・第3中隊の1個小隊
・第4中隊の2個小隊
*斥侯に従事
・第3中隊の1個小隊
*アミアン守備隊の一部としてピキニーへ
・第1,3,4中隊の各2個小隊
4日・独胸甲騎兵第8連隊の襲撃
胸甲騎兵第8連隊長、伯爵マクシミリアン・フォン・レーデルン大佐はバポームからアラスへの本街道を北上しますが、たちまちサピニーで強力な仏軍歩兵部隊と遭遇し、後退局面にある仏軍の「弱さ」を実体験から知るレーデルン大佐は、敵の数にも躊躇せず直ちに襲撃を命じました。
ところがこの時の仏軍は落ち着いた対処を見せ、騎兵の襲撃に対する基本戦術である方陣を組み、独軍騎兵の挑戦を待ち受けるのです。独胸甲騎兵第3中隊の1個小隊と第4中隊の2個小隊を率いていたフリードリヒ・フォン・マレース騎兵大尉は、一番間近にあった大隊クラスの敵に対して襲撃を仕掛けますが、相手は冷静で方陣戦術の基本を守って直前まで引き付けると「必中」の一斉射撃を放ち、結果マレース大尉らは一部の方陣こそ撃破しますが複数の方陣から十字砲火を浴びて次々と倒れ、マレース大尉は大腿部に銃創を負って瀕死の重傷(1月24日にアルベールで死去)となり、他の士官1名と多くの騎兵も戦死を遂げたのです。同時に第1,2中隊の半数も仏軍の背後に回り込もうと機動しますが、騎馬では通過不可能な切通し道によって行く手を阻まれ、滞留したところに集中砲火を浴びてこちらも大損害を被りました。この戦闘で胸甲騎兵連隊は17名戦死・9名負傷・5名の捕虜を出し馬匹73頭を失ってしまったのでした。
それでもライン胸甲騎兵たちは、この仏ベッソル師団後衛の後退を見て距離を置きつつ尾行を行い、ボイエル(バポームの北11.4キロ)まで追いますが夕暮れが迫ったため引き返し、夜までにアルベールまで退却しました。
このように仏北部軍は4日、アラス方向に一斉後退を行い、ボワウルー=オー=モン(アラスの南9キロ)周辺に至りました。
4日夜・ボワウルーの仏北部軍本営
独第15師団本隊はこの日、仏軍から妨害されることなくペロンヌの西でソンム川を渡り、ヴィルヘルム・アルブレヒト王子麾下のフォン・ヴィッティヒ大佐支隊とフォン・ヘルツベルク大佐支隊はペロンヌ要塞の北方でニュル(ペロンヌの北東10.3キロ)、東方でマルケ(同東9.8キロ)とロワゼル(マルケの東2キロ)を占領し、王子麾下の騎兵は更に東のアルジクール(ロワゼルの東6.2キロ)からル・カトレ(アルジクールからは北東へ6.4キロ)の間に宿営地を求めました。ヴィルヘルム・アルブレヒト王子は翌5日に予備第3師団長となり、近衛騎兵混成旅団は近衛槍騎兵第2連隊長でヘッセン大公国公子のハインリッヒ・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・アーダルベルト・ワルデマー・アレクサンダー・フォン・ヘッセン・ウント・ベイ・ライン大佐が指揮を執ることになりますが、この騎兵たちもそのままアルブレヒト王子の指揮下に留まりました。
騎兵第3師団はこの日アルベールに至って宿営し、前3日にサイイ=サイゼルへ進んだペロンヌ包囲陣の歩兵2個(第19連隊の第2とF)大隊を配属されます。なお、これまで同師団に配属されていた第69連隊の第1大隊は、交代部隊と入れ替わりにサイイ=サイゼルへ進み、同地で同連隊のF大隊と合流すると親部隊の第16師団へ帰属し、同じく3日にサイイ=サイゼルまで進んだ野戦砲兵第8連隊の第2大隊は軍団砲兵隊へ帰属しました。
騎兵第3師団は4日夜、独第一軍司令官フォン・マントイフェル将軍よりの直接命令が届き、翌5日、とりあえずは危機の去ったバポームに前進することとなります。
ザクセン騎兵の独騎兵第12師団は「バポームの戦い」の間、大本営が命じていた「仏白国境要塞地帯の東部における仏軍の掃討」を実施するためボアン(=アン=ヴェルマンドワ。カンブレの南東26.2キロ)を経由しギーズ(サン=カンタンの東北東24.7キロ)へ向かいます。途中サン=カンタンを発したゼンフト・フォン・ピルザッハ少将支隊を迎え入れ前進を続行しますが、カンブレから攻囲されるメジエール要塞を救援するために東進し同要塞が独軍の手に落ちてしまったために引き返して来た仏イスナール大佐指揮の独立旅団*と遭遇、短時間交戦しました。その後、イスナール旅団はカンブレへ撤退し、ザクセン騎兵師団はサン=カンタンに進んで再び第8軍団と連絡を取るのでした。
※イスナール独立旅団(歩兵8個大隊半・砲12門)
サン=カンタンで70年12月に結成。指揮官・イスナール・ドゥ・サント=ロレット中佐(戦時昇進で大佐扱い。カモ師団に所属していた前マルシェ第59連隊長か?)
◯戦列歩兵第24連隊の1個大隊(補充大隊と思われます)
◯ノール県のズアーブ隊(連隊クラス?)
◯カンブレの遊撃隊(住民志願の義勇兵)
◯4ポンド野砲x8、4ポンド山砲x2、15ポンド滑膣榴弾砲x2
この仏軍部隊が「要塞地帯東部に現れた敵」だったと思われます。
エドゥアール・アルマン=デュマレスク画「バポームの戦い」
※激戦のビエフヴィエ部落内を描いたとされます。白馬に跨がるフェデルブ将軍と戦う将兵が古典的・写実的に描かれていますが、これも仏兵の献身と犠牲を強調した「愛国」プロパガンダ画と呼んでも差し支えないかと思われます。
エドゥアール・アルマン=デュマレスク画「バポームの戦い」(右部分)
エドゥアール・アルマン=デュマレスク画「バポームの戦い」(左部分)




