1871年1月1日・独第一軍の状況
☆ 独第一軍の71年年頭とロクロワ要塞の陥落
1871年1月1日。独第一軍は年頭に当たりソンム河畔とセーヌ河口地域における仏軍優勢の状況から敵が再び攻勢に転じる可能性を考慮に入れ、今後の作戦を構想しました。
去る12月29日、第一軍司令官男爵エドウィン・カール・ロチェス・フォン・マントイフェル騎兵大将は一時本営を置いていたコンブル(アミアンの東北東42.3キロ)からアミアンへ帰還、独第8軍団長のアウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン歩兵大将に第8軍団ばかりでなくソンム流域に展開する予備第3師団、騎兵第3師団そして近衛混成騎兵旅団の総指揮を委任します(ゲーベン将軍の本営はコンブルに置かれました)。
ゲーベン将軍は先に開始された要塞都市ペロンヌ(アミアンの東46キロ)に対する攻囲が、「アリュ川の戦い」によって後退した仏北部軍によって妨害される可能性を考慮しなくてはなりませんでした。将軍はアリュ流域で示された仏軍の抵抗と機動力に対し、「敵は仏北部辺境要塞地帯へ退いたとはいえ再び攻勢に出る可能性を否定出来ない」と考えます。折しも長距離偵察に出た緒斥候の報告を検討した軍団幕僚たちは「敵が反転攻勢に出る兆候なきにしもあらず」と結論づけていたのです。
また、セーヌ河口付近に展開するゲオルグ・フェルディナント・フォン・ベントハイム中将麾下の兵団も、セーヌ両岸から敵の強力な縦隊がルーアンに接近しつつあることを察知していたのでした。
このベントハイム将軍の「ルーアン兵団」は独第1軍団(この時点で第3旅団と重砲第5、軽砲第6中隊を欠きます)と近衛騎兵第3旅団からなりますが、第1軍団から離れていた第3旅団は原隊復帰のため12月31日に予備第3師団とペロンヌ攻囲任務を交代し、1月1日夕方にはアミアンまで戻って来ていました。
フォン・マントイフェル将軍は1月1日、自らセーヌ河畔の状況を視察した結果、同日第3旅団の半数(第44「オストプロイセン第7」連隊)を鉄道輸送でルーアンに送るよう命じ、また第一軍の「余力」を以てセーヌ左岸(ここでは概ね南岸)を行軍しルーアンへの敵の圧力を殺ぐよう作戦を練るのでした。
同日夜にアミアンへ帰って来たマントイフェル将軍はこのルーアンを護るため、メジエール要塞を砲撃中で間もなく陥落させるだろうと思われる(要塞は翌2日に降伏)独第14師団をアミアンまで行軍させるよう命じました。ところがこの時、第14師団は普国王ヴィルヘルム1世から直接、要塞攻略後パリ包囲網へ向かうよう命じられており、これを知ったマントイフェル将軍は在ベルサイユ大本営に対し「第14師団を返してくれるよう」要望しましたが叶いませんでした。第14師団はアルデンヌ地方からソアソン経由でミトリー(=モリー。サン=ドニの東北東19.7キロ)まで鉄道輸送され、この地で第一軍傘下を離れてパリ北東部の包囲網に参加させられようとしていたのです。しかしその後の状況から同師団は所属軍団(第7軍団)に復帰させることが決まるのでした(後述します)。
第14師団のメジエールから南方への鉄道輸送は1月5日に開始されます。しかし師団長として赴任したばかりの男爵エルンスト・ヴィルヘルム・モーリッツ・オットー・シュラー・フォン・ゼンデン少将(後述)は移動命令の他にもう一つ重要な任務を帯びており、この作戦のため強力な別動支隊*を組織すると、これを第28旅団長ヴィルヘルム・フリードリヒ・フォン・ヴォイナ少将(当時ル・マン方面で戦っていたエミール・フォン・ヴォイナ少将の弟)に託してメジエールから出立させていました。
※1月5日・独第14師団の別動支隊
○第74「ハノーファー第1」連隊
○第77「ハノーファー第2」連隊・第1、2大隊
○驃騎兵第15「ハノーファー」連隊・第2,3中隊
○野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・重砲第1,2,3,4中隊
○同連隊・軽砲第1,2中隊
○第7軍団野戦工兵第2中隊
W・ヴォイナ将軍は命令によって仏白国境のロクロワ(メジエールの北西23キロ)要塞に向かいます。
ロクロワはセダン陥落以来メジエール周辺に跋扈する神出鬼没かつ勇猛なアルデンヌ地方の義勇兵が重要な策源地としている場所で、出来ることならメジエール周辺から有力な兵力(第14師団が去れば野戦能力に劣り少数のランス占領地総督府所属後備部隊が来るはずです)が去る前に取り除いておきたいと大本営が考えたのです。とはいえ、この時は誰もが強力な星形要塞であるロクロアを野戦兵力だけで陥落出来るとは考えておらず、脅して暫く使い物にならなくなればよい、と考えていたのです。
W・ヴォイナ将軍はロクロワに接近すると予定通り6個中隊36門の野砲を展開し4時間に渡る激しい砲撃を要塞に加えました。しかし予想通り要塞はびくともせず、そもそもこの攻撃の効果を疑問視していたW・ヴォイナ将軍は「任務は果たした」として砲列を撤収させ、支隊に行軍準備をさせると仏白国境から南へ去ろうとするのです。すると旅団副官のフォン・フェルスター中尉が「ダメ元でも要塞指揮官と交渉させて欲しい」と申し出たのでした。W・ヴォイナ将軍は若い中尉の熱意に絆され、「時間を掛けず無理と分かったなら即座に席を立て」と送り出します。中尉は白旗と共に要塞に赴き司令官と談判しますが、なんとその説得(はったりか?)が功を奏し、司令官はあっさり降伏を受け入れたのでした。
5日夕刻、ロクロワ要塞は開城され要塞守備隊の士官8名・下士官兵300名は捕虜となりました。国境の要衝ということもあってこの要塞には比較的新しい要塞砲が装備されており、W・ヴォイナ将軍は要塞カノン重砲53門(その多くは施条砲です)、臼砲19門の他数多くの武器と物資を鹵獲することが出来ました。独軍の損害は負傷した兵士1名という大勝でした。
W・ヴォイナ将軍はロクロワに第74連隊のF大隊を残して南へ去りますが、この大隊も1月8日に急報を聞いて駆け付けたランス占領地総督府の後備歩兵1個大隊と交代し、本隊を追って去ったのでした。
ロクロワ要塞のプラン図(18世紀)
☆1871年年頭・ソンム河畔とペロンヌ、バポーム方面の状況
ソンム河畔の首邑・アミアンには当時独第一軍の本営が置かれていますが、守備隊の数は都市の規模に比して極僅かでしかありませんでした。本来はアミアン守備隊に属するのエデュアルド・フォン・ペステル中佐の支隊は未だにピキニー(アミアンの西北西12.3キロ)にあって有力な護国軍部隊の存在が確認されたアブビル方面を警戒しています。
また、ソンム上流のペロンヌ要塞には仏守備隊が籠城し、予備第3師団と第31旅団に第8軍団砲兵6個中隊が包囲網を構築していました。なお、予備第3師団長だったシュラー・フォン・ゼンデン少将は、1月1日付けで第14師団長に異動となってペロンヌ要塞包囲網を去り、代わって包囲網の指揮は第16師団長の男爵アルベルト・クリストフ・ゴットリープ・フォン・バルネコウ中将が執ることとなりました。この「バルネコウ兵団」以外の第8軍団残部が仏北部軍主力がいるというアラス~カンブレ方面を警戒しサン=カンタン(アミアンの東71キロ)からビヤンヴィエ=オー=ボワ(ペロンヌの北西35キロ)間に円弧状となって散開していたのです。
☆ 独第一軍・71年1月1日時点での配置(セーヌ河口域に展開する諸隊及び第14師団を除く)
◎ 独第8軍団
軍団長アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン歩兵大将
●第15師団 ルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー中将
*ベルタンクール(ペロンヌの北17.5キロ)付近に展開
◇第29旅団 オスカー・フォン・ボック大佐
○フュージリア第33「オストプロイセン」連隊・第1、2大隊
○第65「ライン第5」連隊
○驃騎兵第7「ライン第1/国王」連隊・第4中隊
○野戦砲兵第8「ライン」連隊・重砲第1中隊、軽砲第1中隊
*バポーム(ペロンヌの北20.2キロ)付近に展開
◇第30旅団 オットー・ユリウス・ヴィルヘルム・マクシミリアン・フォン・ストルブベルク少将
○第28「ライン第2」連隊
○第68「ライン第6」連隊・第4~12中隊(第2、F大隊と第4中隊)
○驃騎兵第7「ライン第1/国王」連隊・第1,2,3中隊
○野戦砲兵第8連隊・重砲第2中隊、軽砲第2中隊
○第8軍団野戦工兵・第2中隊
●騎兵第3師団 伯爵ゲオルク・ラインハルト・フォン・デア・グレーベン=ノイデルヘン中将
*ビヤンヴィエ=オー=ボワ付近(アネスカンやフォンクヴィエなど)在
◇ミルス支隊 フロレンティン・リヒャルト・フォン・ミルス少将(騎兵第6旅団長)
○第69「ライン第7」連隊・第1,2,3中隊
○胸甲騎兵第8「ライン」連隊・第2中隊と第1,3,4中隊の各半数
*ブッコワ(バポームの北西10.7キロ)付近
◇騎兵第7旅団 伯爵フリードリヒ・ジークマル・ツー・ドーナ=シュロビッテン少将
○槍騎兵第5「ヴェストファーレン」連隊
○槍騎兵第14「ハノーファー第2」連隊
○野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・騎砲兵第1中隊
*騎兵師団に臨時派遣されブッコワ~アシエ=ル=グラン(バポームの北西5.5キロ)間に展開した諸隊
◇第32旅団 アドルフ・カール・テオドール・フリードリヒ・フォン・ヘルツベルク大佐(第68連隊長)
○フュージリア第40「ホーフェンツォレルン」連隊
○第70「ライン第8」連隊・第2大隊
○驃騎兵第9「ライン第2」連隊
○野戦砲兵第8連隊・重砲第6中隊、軽砲第6中隊
○第8軍団野戦工兵・第3中隊
*フアン(ペロンヌの北北東13.9キロ)東方
◇近衛混成騎兵旅団 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・アルブレヒト親王中将*
○近衛驃騎兵連隊・第1,4,5中隊
○近衛槍騎兵第2連隊
*騎兵旅団に臨時派遣された諸隊
○フュージリア第33連隊・第3大隊
○野戦砲兵第8連隊・騎砲兵第1中隊
*コンブル(ペロンヌからは北北西へ10.2キロ)とその周辺
●第8軍団本営
○猟兵第8「ライン」大隊
○野戦砲兵第8連隊・騎砲兵第2,3中隊
◎ペロンヌ攻囲兵団 男爵アルベルト・クリストフ・ゴットリープ・フォン・バルネコウ中将(第16師団長)
◇第31旅団 グスタフ・アドルフ・ハインリヒ・フォン・ローゼンツヴァイク大佐(第28連隊長)
○第29「ライン第3」連隊(第7中隊欠)
○第69連隊・第2、F大隊
○野戦砲兵第8連隊・重砲第5中隊、軽砲第5中隊
◇野戦砲兵第8連隊・第2大隊
・重砲第3,4中隊
・軽砲第3,4中隊
○第8軍団野戦工兵・第1中隊
●予備第3師団 師団長不在(ヴィルヘルム・ニコラウス・アルブレヒト親王中将が1月5日付で任命されます)
◇混成歩兵旅団 カール・フリードリヒ・テオドール・フォン・ゼル大佐(第81連隊長)
○第19「ポーゼン第2」連隊
○第81「ヘッセン=カッセル第1」連隊・第1、F大隊
◇予備騎兵第3旅団 男爵カール・フリードリヒ・テオドール・フォン・ストランツ少将
○予備竜騎兵第1連隊
○予備驃騎兵第3連隊
○野戦砲兵第5「ニーダーシュレジエン」連隊・混成砲兵大隊
・予備重砲第1,2中隊、予備軽砲中隊
*ピキニー(アミアン西方)駐屯
◇ペステル支隊 エデュアルド・フォン・ペステル中佐(槍騎兵第7連隊長)
○第70連隊・F大隊
○槍騎兵第7「ライン」連隊
*ペステル支隊との連絡(アミアン~ピキニー間を行軍中)
○第69連隊・第4中隊
○胸甲騎兵第8連隊・第1,3,4中隊の各半数
◎第一軍総予備
*アミアン守備隊
○擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊
○第70連隊・第1,2中隊
○脚部負傷兵による団隊2個
○近衛驃騎兵連隊・第2中隊
○野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊・重砲第5中隊、軽砲第6中隊
○要塞砲兵第11大隊・第8中隊の数個小隊(アミアン城塞配備)
○第1軍団野戦工兵・第3中隊
*軍本営守備(12月4日以来)
○近衛竜騎兵第1連隊・第1中隊
*兵站路守備任務(アミアン在)
○後備歩兵「サン=ヴェルデル」大隊・第2,4中隊
○予備驃騎兵第6連隊・第1中隊
*軍弾薬縦列・輜重護衛
○第68連隊・第1,2,3中隊と第8中隊の半数
*エリー=シュル=ノワイエ(アミアンの南南東16キロ)在/クレイユ~アミアン鉄道の守備
○第29連隊・第7中隊
*ポア=ドゥ=ピカルディ(アミアンの南西の26.4キロ)及びフォルムリー(同南西49.2キロ)在/ルーアン~アミアン鉄道の守備
○第74「ハノーファー第2」連隊・第3,4中隊
*ラ・フェール要塞駐屯
○第81連隊・第2大隊
●騎兵第12「ザクセン王国(S)」師団 伯爵フランツ・ヒラー・フォン・トゥール・リッペ=ビースターフェルト=ヴァイセンフェルト中将
*カンブレの南方・ル・カトレ(ソンム沿岸。カンブレの南19.2キロ)に展開
◇騎兵第23「S第1」旅団 カール・ハインリッヒ・タシーロ・クルーク・フォン・ニッダ少将(騎兵第23「S騎兵第1」旅団長)支隊
○S近衛「ライター」騎兵連隊
○槍騎兵第17「S第1」連隊
○野戦砲兵第12「S」連隊・騎砲兵第2中隊
○猟兵第12「S第1/王太子」大隊・第1,2中隊
*サン=カンタンに駐屯
◇ピルザッハ支隊 フリードリヒ・モーリッツ・アドルフ・ゼンフト・フォン・ピルザッハ少将(騎兵第24「S第2」旅団長)
○猟兵第12大隊・第3中隊
○槍騎兵第18「S第2」連隊
○野戦砲兵第12連隊・騎砲兵第1中隊の2個小隊(4門)
*クレルモン(アミアンの南58.2キロ)在/クレイユ~アミアン鉄道沿線を巡回
○猟兵第12大隊・第4中隊
○S「ライター」騎兵第3連隊
○野戦砲兵第12連隊・騎砲兵第1中隊の1個小隊(2門)
1月1日・フォン・ゲーベン将軍麾下の展開
このソンム川流域及び以北に展開する独軍から発した斥候たちは、仏北境の要塞地帯南方で仏軍前哨との小競り合いを繰り返します。
仏北部軍はアラス付近に集合する主力部隊以外にもカンブレ付近に1万5千を有するとされていました。ベルサイユ大本営にもこれらの情報は逐一伝わっており、特にランス占領地総督府からは「仏白国境要塞地帯東方を警戒するためヴェルヴァン(サン=カンタンの東44.5キロ)まで前進していた所属部隊が度々仏軍をによって攻撃されている」との情報が入り、同総督府は「この仏軍を駆逐して欲しい」との要請を繰り返したのです。このためベルサイユ大本営はザクセン騎兵の騎兵第12師団に対し直接「要塞地帯東側で跋扈する仏軍部隊を掃討せよ」との命令を下すのでした。
このように独第一軍はアミアンからより離れた右翼(東)側に脅威を感じ始めており、フォン・ゲーベン将軍は1月2日、騎兵第3師団に隷属していた第32旅団主力(フュージリア第40連隊主幹)を右翼へ回すよう命じます。これによってソンム以北の部隊配置は以下のように変更されました。
※1月2日に移動した第32旅団諸隊
*フォン・ヘルツベルク大佐の指揮下、ニュル(ペロンヌの北北東10.3キロ)へ
○フュージリア第40連隊・第1、3大隊
○驃騎兵第9連隊・第3中隊
○野戦砲兵第8連隊・重砲第6中隊、軽砲第6中隊
*オットー・フォン・ヴィッチヒ・ゲナント・フォン・ヒンツマン=ハルマン大佐(驃騎兵第9連隊長)の指揮下、エプイー(ニュルの東8キロ)へ
○フュージリア第40連隊・第2大隊
○驃騎兵第9連隊・第1,2,4中隊
この2個の支隊は同じく1月2日に行軍を開始した近衛騎兵混成旅団のヴィルヘルム・ニコラウス・アルブレヒト王子の指揮下に入ります。これと入れ替える形で翌3日、王子はフュージリア第33連隊の第3大隊を原隊である第15師団へ返しました。
一方、第32旅団で残った第70連隊の第2大隊は同2日に親部隊がいるアミアンへ帰され、入れ替わりにアミアン在の兵站路守備隊は本来の任地であるパリ包囲網北端のシャンティイ(サン=ドニの北29.6キロ)へ向かって出立するのでした。同じく2日、第8軍団の野戦工兵第3中隊はペロンヌ攻囲に加わっています。
ところがこの2日朝。仏北部軍司令官フェデルブ将軍は麾下を独第一軍の戦線中央と左翼に向けて進撃させるのでした。
フェデルブ将軍
フェデルブ将軍は12月28日にペロンヌ要塞が独軍によって包囲され攻撃が開始されたことを知ると、このソンム河畔の重要拠点を救援するため前進することを考え始めました。将軍は12月31日に麾下をスカルプ川(アラスの西、タンク付近を源流に東へ流れアラス~ドゥエ~サンタマン=レゾーを経てベルギーとの国境付近でエスコー川に注ぐ支流)後方の給養宿営地よりティヨワ(=レ=エルマヴィル。アラスの西北西16.3キロ)からリヴィエール(同南西9.2キロ)に掛けての間に前進させた後に高級指揮官集合を命じ、翌1月1日、指揮官会議をアラス郊外のボーレン(同南3.2キロ)で開催しました。その席上、フェデルブ将軍は「パリ救援のために必要となる重要な拠点・ペロンヌを救うため」に明日2日、南進を開始すると表明したのです。
これに対しルコアント准将やディボイ将軍を始めとする指揮官たちは「麾下が未だアリュ河畔における戦いの損害・疲弊を癒していないこと」や「練成不足・物資不足」などを理由に口々に反対しますが、フェデルブ将軍は頑として譲らず、次のように述べて前進を命じたのでした。
「諸君らは正論を述べているのだろうが、本官の指揮下に3万の兵と90門の野砲があるにも関わらずプロシアの輩にペロンヌを砲撃させておくなどということは不名誉極まりないことである。本官は義務を果たさず告発されるよりプロシアの砲火を浴びる方を選ぶ。我々は明日敵に向かって前進する。今夜諸君らはその命令を受けるだろう」(筆者意訳)
結果フェデルブ将軍は第22軍団を偶然にも独第32旅団主力が東へと去ったばかりのブッコワ~アシエ=ル=グラン方面へ向かわせ、第23軍団にアラス~バポーム街道(現・国道D917号線)上を急進させ包囲されたペロンヌを救援しようとしたのです。
☆ サピニーの戦闘(1月2日)
デロジャ
仏第22軍団(アルフォンス=テオドール・ルコアント准将指揮)の第1師団はジョセフ・バルテルミー・グザヴィエ・デロジャ准将(実際は大佐で戦時昇進です)が指揮を執っていました。この「デロジャ」師団は2日午前10時30分頃に独第一軍の「ソンム戦線」左翼端となっていたビヤンヴィエ=オー=ボワを襲い、部落南東方に設えた陣地に控えていた独騎兵第3師団の前哨を駆逐しました。警報を受けた同師団長フォン・デア・グレーベン将軍は麾下諸隊に対しピュイジュー(ビヤンヴィエの南東8.4キロ)周辺に集合するよう命じ、その後ミローモン(ピュイジューの南東3.6キロ)まで退いて陣を構えました。
この頃、アラス~バポーム街道を南下した仏第23軍団第1師団第1旅団(師団長はアリュ川の戦い後ムラック准将に代わったフランシス・ルイ・ジュール・ペイヤン海軍大佐、旅団長はミシュレ中佐)は同日正午頃ベアニー(バポームの北4.4キロ)郊外に達し、ここに独軍が陣を構えているのを発見すると部落を半包囲しました。
このすぐ南方のサピニー(ベアニーの南800m)には偶然前線視察に訪れていたフォン・クンマー中将がおり、将軍は仏軍接近の警報を受けると第28連隊の第1大隊をベアニーへ送っていたのです。
クンマー将軍
独第一軍は正に不意を突かれました。
フェデルブ将軍はさすが長年植民地で戦い続けた人で、兵力を有効活用し機動力を生かして敵の不意を突く戦術には冴えが見られます。この時も偶然とはいえ独軍が「面前右翼から左翼へ軸足を動かした瞬間」に「敵兵力が減った右翼側から攻撃」したもので、行軍中の諸隊が慌てて前線に展開しようにも仏軍が先手を取っており、完全に出遅れてしまったのです。
とはいえ前線にいたクンマー将軍も優将でした。将軍は急ぎ戦線を整えるため各地へ伝令を飛ばしなんとか仏軍の攻撃に対処しようと試みるのです。この時(2日朝)バポームの北方にあって仏軍と正対することになった独第30旅団では、第28連隊の2個大隊が驃騎兵第7連隊の2個中隊と共にサピニーとファヴルイユ(サピニーの南東2キロ)にあり、フュージリア第40連隊の去った穴を埋めるため(騎兵第3師団との連絡を保つためでもあります)この朝早く歩兵1個大隊と驃騎兵1個小隊、重砲1個小隊(2門)がアシエ=ル=グランに向けて行軍中でした。旅団とその隷属した残り諸隊*はすべてバポームとその東側のフレミクール(バポームの東3.8キロ)に宿営していたのです。
バポーム戦場図
※1月2日のバポーム周辺兵力
*バポームとフレミクール在
○第68連隊・第4~12中隊(第2、F大隊と第4中隊)
○驃騎兵第7連隊・第1中隊(1個小隊欠)
○野戦砲兵第8連隊・重砲第2中隊の2個小隊(4門)と軽砲第2中隊
○第8軍団野戦工兵・第2中隊
*アシエ=ル=グランへ行軍中
○第28連隊・F大隊
○驃騎兵第7連隊の1個小隊
○重砲第2中隊の1個小隊(2門)
*サピニーとファヴルイユ在
○第28連隊・第1、2大隊
○驃騎兵第7連隊・第2,3中隊
ベアニー在の第28連隊第1大隊は仏ペイヤン師団と衝突しますが兵力差は如何ともし難く、大隊は1時間ほどの戦闘後、開いた南方へ脱出しサピニーの本陣地まで退却するのでした。このサピニーでは仏軍を迎え撃つため急遽同連隊の第2大隊が部落右翼(東)に展開し、この陣地にはバポームから駆け付けた重砲第2中隊の2個小隊(4門)と軽砲第2中隊が砲列を敷いたのです。同じく左翼(西)にはアシエ=ル=グランへの行軍から引き返した第28連隊の2個(第9,12)中隊と重砲第2中隊の1個小隊(2門)が展開したのです。第30旅団長でバポーム防衛の責任者フォン・ストルブベルク少将は第68連隊兵を直率して北上しサピニーへ接近中でした。
ストルブベルク
仏軍は砲兵数個中隊をベアニー付近に展開させてサピニー部落と周辺の独軍陣地に対し猛砲撃を加えます。砲撃によって独軍の銃撃がなくなると数で上回る歩兵を前進させサピニーに迫りました。この攻撃で右翼にあった第28連隊の第8中隊が撃破され、戦線に穴が開きます。このため付近にあった砲1門も危険となり急ぎ戦線を離脱しようとしたのです。
ところがここに野戦砲兵第8連隊第1大隊長(第15師団砲兵隊長)のメルテンス少佐が駆け付け、砲列を一旦崩し少々後退させて砲列を敷き直させると、その右翼東側に待機していた驃騎兵第7連隊の半個中隊(第1,2中隊の各1個小隊)に対し「敵の歩兵に対し襲撃を掛けては貰えまいか」と要望するのでした。これを二つ返事で受けたのは、この騎兵集団を率いていた若き伯爵ヤコブ・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・プルタレス少尉(後に外交官。第1次大戦勃発時の駐ロシア大使です)でした。若干18歳の伯爵は200mを切って接近する仏の散兵群に向かって僅か70騎ほどの部下と共に突撃し、驚いた仏軍兵士を後退させるのです。
サピニーの普軍砲兵
この時、クンマー師団長とストルプベルク旅団長は本街道上で戦況を見守っており、騎兵の逆襲で前進が鈍った敵の様子を見た両将官は前線に対し総攻撃を命じました。
第28連隊の10個中隊は先頭に立つ2人の大隊長、フォン・デア・モーゼル少佐とヴィルスキー大尉(この大尉は戦闘開始直後に負傷しますが後送を拒絶して前線に居続けていました)に率いられ散兵線を出て一斉に前進し、駆け足で仏軍散兵群に向かいます。浮き足だった仏軍は押され始め、午後2時に至るとベアニーからも撤退するのでした。独軍はこの部落で逃げ遅れた250名を捕虜にしています。
その後第28連隊はクンマー将軍の命令で追撃を中止し、ベアニー部落に防御工事を施したのでした。
仏ペイヤン師団はエルヴィエ(ベアニーの北2.3キロ)まで下がるとここで踏み留まり、比較的強力な砲兵を展開させて独軍を警戒しますが、この日は再び前進を試みることはありませんでした。
サピニーの戦い・斃れる仏軍士官
一方、仏第23軍団の第2師団(ロペン准将指揮)は当初ペイヤン師団の後方に追従し本街道を南下しましたが、ペイヤン師団がベアニーを落とすと街道を外れ、東側のサン=レジェール(ベアニーの北北東5.6キロ)を経由して脇街道(現・国道D36E2号線など)を利用し南下しました。
クンマー将軍はベアニー回復直後にこの敵の動きを知らされ、第68連隊の混成1個大隊(第4中隊半数と第9,11,12中隊)を同連隊F大隊長のユージン・フェオドール・カール・セラフィム・フォン・オルスツェヴスキ少佐に託してサピニー東方に前進させました。この内モリ(ベアニーの北東2.6キロ)に先遣された第11中隊は巨大な敵と遭遇し急ぎ引き返しますが、残りは味方の驃騎兵第7連隊本隊の右翼側に進んで前線を東へ延伸させます。オルスツェヴスキ少佐らは、このバポーム北東郊外のファヴルイユ(バポームの北2.4キロ)とブナートル(ファヴルイユの東北東1.4キロ)北方の高地上で監視任務に就いていた同僚第2大隊兵と並び散兵線を構え敵に備えるのです。
この動きを望見した仏ロペン師団は、広範囲に展開し活発に動き回る独軍に惑わされて兵力推定を誤り、強力な部隊がバポーム前面に展開していると考えて、砲兵を展開したものの攻勢に転じることはありませんでした。この日ロペン師団はモリとヴォー(=ヴロークール。モリの東3.4キロ)に宿営しています。
ベアニーの戦闘 仏海軍フュージリア兵
ジョセフ・アルチュール・デュフォーレ・デュ・ベッソル准将(開戦時は少佐、メッスで中佐に昇進するとアミアンの戦いで大佐、アリュ川の戦いで准将と3階級昇進です)率いる仏第22軍団第2師団はこの日午後、独側が「穴」を埋めるために配備を予定した第30旅団分遣隊が半数しか到達しなかったアシエ=ル=グランに向かいます。この時、部落守備にあったのは独第28連隊の第10,11中隊と驃騎兵第7連隊の1個小隊だけでしたが、サビニー西郊外から重砲第2中隊の1個小隊(2門)が駆け付け、その砲撃援護によって仏軍の攻撃を鈍らせて1時間半に渡る防戦後、ビエフヴィエ(=レ=バポーム。アシエ=ル=グランの南西3.3キロ)を経由しアヴェーヌ=レ=バポーム(バポームの西郊外衛星部落)まで退くのです。しかし仏ベッソル師団はアシエ=ル=グランを解放しただけで満足したのかこれ以上追撃せず、前哨をビウクール(アシエ=ル=グランの南東1.2キロ)へ出して部落周辺に展開するのでした。
この日午前中、ビヤンヴィエ(=オー=ボワ)付近にいて独騎兵師団と対峙していたデロジャ師団は、午後に入りベッソル師団がアシエ=ル=グランを攻撃し始めるとバポーム方面への街道(現・国道D8号線)上を進み、ブッコワを経てアシエ=ル=プティ(アシエ=ル=グランの西2.4キロ)に至ると、この日はここで宿営に入ったのでした。
友軍兵士の歓声に迎えられビウクールに入る仏マルシェ猟兵第20大隊
独軍ではこの日夕方、第68連隊がファヴルイユ北の高地に留まって仏ロペン師団と対峙したまま夜を明かし、バポームの危機を知らされベルタンクール(バポームの東南東9.5キロ)に集合し戦闘態勢で待機していた第29旅団は、夕闇が迫ると警戒のためバポーム郊外のブナートルとフレミクールに各1個大隊を派出して第68連隊を援護し、1個大隊をアヴェーヌ(=レ=バポーム)、ビエフヴィエ(=レ=バポーム)、そしてグレヴィエに送って第30旅団の左翼を増強するのでした。
独第15師団の残余諸隊はバポーム市街地の内外に集合し、騎兵第3師団麾下の諸隊はバポームの南西郊外からアルベール(バポームの南西18.1キロ)までの間の街道(現・国道D929号線)筋に宿営するのでした。
サピニー付近の戦闘で独軍は戦死が下士官兵19名・馬匹8頭、負傷が士官12名・下士官兵91名・馬匹14頭、行方不明が下士官兵3名で合計125名・22頭の損害を受けました。仏軍側この日一日の損害数は不詳です。
ベアニーの戦闘(1月2日)




