ル・マン~オルレアン戦線の終焉(71年1月末)
☆ ヴィエンヌの戦闘(1月28日)
ブロア~ソローニュ西部
独第9軍団のブロア守備隊は1月26日、ブロア郊外市街フォーブール=ヴィエンヌから南方ブーヴロン川を越えて派出した斥候から「仏軍の大規模な縦隊が北上中」との報告を受け警戒を高めます。
翌27日、この仏縦隊から先行した騎兵集団が偵察中の独槍騎兵第8「オストプロイセン」連隊第2中隊と遭遇、独騎兵によって「煽られ」た仏騎兵は深追いしてブーヴロン河畔のカレット(ブロアの南南東7.5キロ)へ誘導されると、この前哨拠点を守っていた独第16「ヴェストファーレン第3」連隊兵の2個小隊約80名による銃撃を受け、慌てて逃げ去るのでした。
同じ27日午前にはオルレアンのH師団にル・マン在のカール王子から「ブロアに対して1個大隊を送りブロア在の第38旅団兵と交代させる(交代した第16連隊将兵はトゥール在の本隊へ合流する)」よう命令が届き、師団長のヘッセン大公子ルートヴィヒ中将はH猟兵第2「親衛」大隊をブロアへ急行させるのでした。
このH猟兵たちは28日の午後ブロアに到着し、まずはヴィエンヌにある第16連隊の前哨2個中隊と交代するため半数(同じく2個中隊)がロアール川を渡りました。するとちょうどこの時、仏軍が前進して来るとの警報がブロアに届くのです。図らずもヴィエンヌで合同した普第16連隊とH猟兵の4個(第16連隊第2,3・H猟兵第2大隊第2,3)中隊は、急ぎヴィエンヌ南郊に流れるコソン川(オルレアン南東シュリー=シュル=ロアール南方を源流に、ほぼブーヴブロン川の北を西へ流れ、ブーヴロン川がロアールに注ぐ直前で合流する支流)の堤防に散兵線を敷いて仏軍を待ち受けました。
すると仏軍(新設第25軍団の第2師団を中心とする軍団長直率兵団)は間もなく襲来し砲兵を独軍の小銃射程外前面に押し出します。その榴弾とミトライユーズの砲撃は激烈で、堤防を削り氷雪や石塊をまんべんなく独軍兵士に浴びせ掛けました。仏軍歩兵も隙を見て前進し、対岸から堤防の陣地に向かって激しい銃撃を繰り返します。この攻撃は夕暮れ時まで数時間に渡って続きましたが独軍側は陣地をなんとか死守しました。しかし夕闇迫る中でも仏軍は手を緩めず独軍の右翼(西)側を突破して包囲を仕掛け、同時にブロアからも後退命令が届いたため独軍前線指揮官たちは部下に急速後退を告げ、一斉にブロアへ向けて撤退し大橋を渡ってブロア市街で収容されました。直後ロアールに架かる大橋は爆破されたのです。
この日、仏第25軍団の死傷者は士官5名・下士官兵98名と言われ、独軍の損害は63名でした。この独軍損失中47名は捕虜で、これは後退命令を受領し損ねたH猟兵の1個小隊が任地を離れず戦い続け、大橋の爆破後に押し寄せた仏軍に包囲され投降したものでした。
このブロア大橋は仏軍が去った後の30日から再建が始まっています。
爆破されるブロアのロアール大橋
在ル・マン独第二軍本営のカール王子は28日の報告を受けると、ブロアを第9軍団長のフォン・マンシュタイン歩兵大将に任せることに決めます。1月22日にコンリー周辺から出立していたマンシュタイン将軍は28日、麾下と共にオルレアンへ入城していました。将軍はカール王子から「ブロアの処置を託す」との主旨の命令を受けると翌29日、到着したばかりの第9軍団から増援隊を組織してブロアへ向かわせ、その到着後第16連隊諸中隊はようやくトゥールに向けて出立することが出来たのです。しかし、仏第25軍団長のプルシェ将軍は29日早朝、ブロアを脅かして独軍に橋を落とさせた事で「目的を達成した」として、麾下諸隊を一斉に後退させ(後述する休戦協定を聞き及んでいたのかもしれません)ブーヴロン川を渡るとソローニュ地方の大森林地帯に消えてしまいます。その後ブロアでは再び独仏が衝突することはありませんでした。
ブロア城前の独軍
☆ 1月下旬のソローニュ地方とジアン、ブリアール方面
1月24日。H猟兵第1大隊長ゲルラッハ少佐率いるH師団の強行偵察隊*はソローニュ地方の状況を確かめるためオルレアンからサルブリ(オルレアンの南54.2キロ)に向けて出立します。
※1月24日のゲルラッハ偵察隊
○H第1「近衛親衛」連隊・第5中隊
○H猟兵第1「近衛」大隊・第1中隊と第2中隊の半数(3個小隊)
○H騎兵ライター第1「近衛シュヴォーレゼー」連隊・第1中隊の1個小隊
○H野戦砲兵大隊・軽砲第1中隊の1個小隊(2門)
ゲルラッハ隊はオルレアン防衛線とロアレ川を越え、H師団の防衛最南端のラ・フェルテ=サン=トーバンをも越えて順調に本街道(現・国道D2020号線)を南下しますが、遂にブーヴロン河畔のラモット=ブーヴロン(オルレアンの南34.5キロ)付近で仏軍が前哨を置いているのを発見してこれを攻撃、短時間でヌーアン=ル=フュズリエ(ラモット=ブーヴロンの南7.5キロ)へ撃退しました。
これは直ちにヴィエルゾン在の第25軍団留守隊に伝えられ、プルシェ軍団長の留守を預かるフェリー=ピザニ将軍は麾下を率いてラ・ロッジュ(サルブリの南9.1キロ)まで本街道を北上しますが、斥候から「独軍はヌーアンを越えて追撃・南下せず」と報告されて再びヴィエルゾンへ引き上げるのでした。
1月29日にはH師団の巡察隊がシャンボール城近くのデュイゾン(ブロアの東25キロ)付近で義勇兵集団と遭遇しこれを撃破・四散させますが、これが普仏戦中ロアール川以南での最後の戦闘となりました。
オルレアンのロアール上流方面でも事態は終息に向かい、1月24日にはジアンから、同25日にはブリアールからも仏軍が退却し、この斥候情報を受けたランツァウ将軍はベルサイユ大本営からも再前進命令を受け、28日にウズーエ=シュル=ロアールから大本営に指示されたロワン河畔のシャティオン=シュル=ロワン(現・シャティオン=コリニー。ジアンの北東22キロ)に向けて出立し、翌29日、同市街から仏軍守備隊約400名を駆逐することが出来ました(ランツァウ支隊の損害は行方不明4名)。この日はパリ包囲網から独第6軍団の1個旅団が鉄道でモンタルジとジョワニー(それぞれジアンの北36キロと北東66キロ)へ輸送されましたが、ベルサイユ大本営からランツァウ将軍に対し「この派遣隊と協力しオーセール(ジョワニーの南東24キロ)より北の地方から義勇兵を掃討せよ」との命令が下ります。将軍は麾下H師団兵と共に東へ行軍して30日トゥシー(オーセールの西南西22キロ)に到達しますが、ここで独仏間に休戦協定が結ばれたことを知らされるのでした。
負傷兵を治療中に捕虜となる仏軍医
☆ 1月中旬以降サルト川西方の状況
既述通り仏第2ロアール軍司令シャンジー将軍は1月17日以降麾下主力をラヴァル~マイエンヌ間に集合させて展開し、ル・マンまでの戦闘で痛め付けられ衰退した兵力を何とか復興させ、左翼(北)側にドンフロン(マイエンヌの北32.2キロ)周辺で集合する予定の仏第19軍団を招致するつもりでいました。
このノルマンディ地方から参集した軍団は1月22日にアルジャンタン(アランソンの北35.9キロ)~エクーシェ(アルジャンタンの西南西8.2キロ)~ブリウーズ(エクーシェの西18キロ)とフレールへの街道(現・国道D924号線)上にあって、その南面となるマイエンヌ~アルジャンタン間には軍団の騎兵師団と若干の臨時護国軍部隊、そしてアランソンから脱出したリポウスキー中佐率いる義勇兵集団が点在していました。また、ラヴァルの南には仏第16軍団の騎兵師団が展開し、シャトー=ゴンティエ(ラヴァルの南27.5キロ)、アンジェ、そしてソーミュール(アンジェの南東42.7キロ)にはカトリノー大佐の義勇兵集団やジャン=ジャック・クラレ=ランガヴァン准将(海軍大佐)が率いる支隊が駐屯し東側のトゥールからル・マン方面を警戒していました。
この頃(1月22日前後)ル・マン周辺の独第二軍は、メクレンブルク=シュヴェリーン大公率いる独第13軍団をルーアンへ、マンシュタイン将軍の独第9軍団をオルレアンへ送り出していたためサルト河畔に残った兵力は歩兵僅か27,000名・馬匹9,000頭・砲186門と正規1個軍団程度に減少しており、兵力減を命じられる前にカール王子が考えていた「仏北部と南部とを結ぶ鉄道線破壊のためのアンジェ方面への前進」は実施出来る状態にありませんでした。
実はこの計画実施のため既に混成旅団が編成されており、準備段階としてル・マンからラ・フレーシュ(ル・マンの南西39.5キロ)へ向かう直前にありました。これは独第10旅団長クルト・ルートヴィヒ・アーダルベルト・フォン・シュヴェリーン少将率いる第3軍団の部隊*で、その右翼(北西)には独猟兵第3「ブランデンブルク」大隊がサブレ=シュル=サルト(同西南西43.5キロ)まで進み、シュヴェリーン支隊が側・背面を突かれぬようラヴァル方面を警戒する予定でした。計画ではこれら部隊がアンジェの南方ロアール沿岸へ前進し、メーヌ川鉄道橋(アンジェ南西6.8キロのブシェメン付近)やシャロンヌ(=シュル=ロワール。同南西20.6キロ)東のロアール川鉄道橋を破壊するはずだったのです。
※1月22日前後のフォン・シュヴェリーン支隊
○第24「ブランデンブルク第4」連隊
○第52「ブランデンブルク第6」連隊
○槍騎兵第3「ブランデンブルク第1」連隊・第2,3中隊
○野戦砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・軽砲第2,5中隊
○第3軍団工兵の混成1個中隊と野戦軽架橋縦列
この間、ル・マン会戦後半から戦い続けていた第10軍団はル・マン市街に退却して休養に入り、ヴェージュ(ラヴァルの東22.1キロ)にあってラヴァルを警戒していた「シュミット支隊」も任を解かれて解散し、所属諸隊は親部隊に帰還しました。このラヴァルやマイエンヌを流れるマイエンヌ川方面に対する警戒は、十分とは言えないながらも再編のなった第3軍団と3個の騎兵(第2・4・6)師団が担うことになります。
独第10軍団が前線を離れるに当たり、独騎兵第6師団は改めて第二軍左翼(南)に指定され、第91「オルデンブルク公国」連隊の第3中隊が師団に隷属することとなります。また23日にはしばらくシュミット支隊に所属して騎兵第14旅団配下にあった竜騎兵第2「ブランデンブルク第1」連隊が親部隊の騎兵第15旅団に帰属しました。
師団は1月24日、ル・マン南方に向けて再前進します。騎兵第14旅団はノイエン=シュル=サルト(ル・マンの南西26キロ)からマリコルヌ(=シュル=サルト。ノイエンの南6.7キロ)、ル・バイユール(マリコルヌの南西7.5キロ)と進んで各拠点を占領、同僚騎兵第15旅団はラ・フレーシュとポンヴァレン(ル・マンの南28キロ)を占領します。ラ・フレーシュには仏軍守備隊が居ましたが独軍騎兵は簡単にこれを駆逐することが出来、この仏将兵はボジェ=アン=アンジュー(ラ・フレーシュの南17.4キロ)やデュルタル(同西13キロ)へ逃げて行きました。
この仏地方部隊の上層部は1月26日から翌27日に掛けて臨時護国軍や義勇兵、国民衛兵からなるいくつかの混成集団を作り、独騎兵に奪われた拠点を取り返そうと南方や西方から進み出ます。しかしこれもその先々で独軍に妨害・阻止され、占領地解放の試みは全て失敗に終わるのでした。
この27日には騎兵第6師団長でメクレンブルク=シュヴェリーン大公の弟君、ヴィルヘルム殿下の容態が重くなり再入院となったため、フォン・シュミット将軍が再度師団長代理として指揮を執り始めます。また、29日にはラ=シューズ(=シュル=サルト。ル・マンの南西18キロ)のサルト川に架かる鉄道橋が第10軍団野戦工兵の第2中隊によって爆破・落橋されました。
義勇兵らが籠る市街を走り抜ける独驃騎兵
コンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将率いる独第3軍団は「ほぼ単独でル・マン会戦のお膳立てをした」と称えられ(実際は第13軍団の貢献も大きなものがあります)、その功績の分損害もまた大きなものでしたが、1週間ほどの間に態勢を整えて再び前線へ出動することになります。
この軍団左翼は23日にサブレ(=シュル=サルト。ラ・フレーシュの北西24.7キロ)付近で独騎兵第6師団右翼と連絡を取り、ル・マンの西側を固め始めるのでした。
この日軍団は4個の旅団に砲兵・騎兵を分配・隷属させ、諸兵科混成旅団(後の世に言う「戦闘団」)に設えるとル・マンを発ち、諸街道を西へと進んでその先頭はサブレ~シレ=ル=ギョーム街道(現・国道D4号線)を越え更に西へと進みます。
第3軍団諸旅団は24日までに、第9旅団はシレ=ル=ギョーム~コンリー間、第10旅団はヌヴィレット=アン=シャルニ(シレ=ル=ギョームの南西11.8キロ)~サン=シンフォリアン(ヌヴィレットの東南東7.7キロ)間、第11旅団はジュエ=アン=シャルニ(ヌヴィレットの南8.6キロ)~シャシエ(ジュエの東5.6キロ)間、第12旅団はブルロン(ジュエの南南西6.5キロ)~ルエ(同南東4キロ)間へ進出しました。各旅団に属する騎兵はその先・西側に散って偵察・巡視を行い、数個歩兵中隊が騎兵援護のために前述のサブレ~シレ街道を越えて展開します。これに先立ちアンジェ方面の作戦用に結成されていた「フォン・シュヴェリーン支隊」は解散して麾下諸隊は親部隊に戻り、当面出番のない軍団砲兵はラヴァル街道(現・国道D357号線)上のクラン=シュル=ジェ(ル・マンの西14.1キロ)で宿営となりました。
C・アルヴェンスレーヴェン将軍の本営はこのクランの北、クルテイユ城館(クランの北2キロ。現存します)に置かれるのでした。
このC・アルヴェンスレーヴェン将軍が隷下に置いている独騎兵第2師団は、それまで「シュミット支隊」が担っていたラヴァル方面の警戒任務を行うためにラヴァル街道を進んで軍団の先に出、エルヴ河畔(サン=ジャン付近)に至ります。
ここで騎兵第5旅団は街道北側(サント=シュザンヌ方面)に、騎兵第4旅団は街道筋とその南方(バレ方面)にそれぞれ展開し、騎兵第3旅団はエルヴ河畔を更に下ってサン=ドニ=ダンジュ(ヴェージュの南28キロ)付近まで進んでマイエンヌ川方面、特にシャトー=ゴンティエを警戒しました。
C・アルヴェンスレーヴェン将軍は、もし仏軍が再度攻勢を掛けて東進する場合、ヴェージュ川とエルヴ川の間にある高原地帯で対決することを考えていました。これは元より仏軍がこの地域に割合しっかりとした陣地を築いており、それをシュミット支隊が強化利用していたことに因ります。しかし独第二軍はベルサイユ大本営の命令に準拠して自ら攻勢に出る事は考えておらず、C・アルヴェンスレーヴェン将軍もまた前哨にあった諸隊に対し「斥候騎兵が危機に陥りこれを救出する場合以外は自らの戦闘行為を禁止する」と達していたのです。
このマイエンヌ川方面へ斥候偵察に出ていた独軍騎兵たちも苦労していました。何故ならばマイエンヌ~ラヴァル間にある仏軍の騎兵たちはル・マン会戦以前に増して大胆不敵・神出鬼没に活発な行動を開始しており、独騎兵は各所で仏騎兵に遭遇し妨害され、跳ね返されて偵察行動が不発に終わることも多くなっていたのです。
この騎兵を多く含む仏軍前哨は独騎兵第3旅団と対峙してサン=ドニ=ダンジュ付近に居座り、またラヴァル街道方面ではスルジェ=シュル=ウエット(ヴェージュの西北西7.2キロ)とその東側高地に陣を占めて独騎兵第2師団本隊と対峙していました。また、その前衛は独軍が放棄していたヴェージュ部落にまで進出しここを前進拠点化していました。
1月27日。独驃騎兵第1「親衛」連隊の1個中隊はドライゼ騎銃を手に下馬してヴェージュへ接近し、徒歩銃撃戦を仕掛けて部落に宿営していた仏アフリカ猟騎兵の集団を混乱に巻き込むとこれを西へ駆逐しましたが、元より部落を占領するつもりはなく夕暮れ時までに撤退しました。すると翌28日、独驃騎兵第6「シュレジエン第2」連隊の第5中隊がヴェージュに接近・偵察して見ると再びアフリカ猟騎兵が部落を占拠しているのを発見するのです。
そこで独驃騎兵中隊長のティトス・フォン・シュツェトニツキー騎兵大尉は部落の東側で警戒任務に就いていたアフリカ猟騎兵1個中隊の目前で、部下にあたかも誤って部落前に進んでしまったかのような機動を行わせて仏騎兵を誘い出し、追撃に出た仏騎兵中隊の面前で突然方向転換すると不意を突いて襲撃を敢行し、この仏騎兵を壊乱させたのです。大尉らは怒るアフリカ猟騎兵本隊からの追撃を受ける前に急ぎサン=ジャンの本陣地まで撤退するのでした。
一方、シレ=ル=ギヨームの西方へ偵察行に及んだ独軍斥候たちは、エヴロン(シレ=ル=ギヨームの西20.8キロ)、ベ(同北西19キロ)、グラゼ(同北西28.8キロ)などで仏軍と遭遇します。このため騎兵第5旅団はシレ=ル=ギヨームの友軍第9旅団と申し合わせ、29日に驃騎兵第4「シュレジエン第1」連隊2個中隊を出動させ、これに第9旅団が猟兵第3大隊の若干小隊に数門の砲を援軍として送りエヴロンに向かって前進させました。
この支隊はエヴロン東郊に砲を敷くと市街を砲撃し、驃騎兵が下馬して市街に突入すると現地の守備隊を混乱に陥れてこれをモンシュー(エヴロンの西南西11.5キロ)方向へ撤退させます。独軍はしばらくの間追撃を行った後に本隊へ帰還するのでした。
この戦闘がこの方面における最後の戦いと思われます。
配給のラム酒を水筒に詰める仏海軍歩兵たち
第13軍団が去った後に独第二軍の最右翼(北方)となっていた独騎兵第4師団もまた、平穏な日々とは程遠い毎日となっていました。
1月19日。アランソンに残留する予定の騎兵第4師団将兵に見送られ、第13軍団と騎兵第12旅団(騎兵第5師団からの出向)は市街とその周辺地域からルーアンに向けて出立しました。しかし翌20日、師団はカール王子の命令によりアランソンを退いて再展開することに決まります。この結果、騎兵第10旅団はフレネイ(=シュル=サルト。アランソンの南南西17.3キロ)周辺に、騎兵第8旅団はボーモン(=シュル=サルト。同南22.8キロ)周辺に、それぞれ宿営地を求め、騎兵第9旅団は開戦直後からの宿営地であるバロンとテイエに残ってサルト左岸に宿営し続けました。
また、この騎兵師団はその後細分されて多任務に振り分けられることになり、4個中隊はシャルトル~ル・マン警備に差し向けられ、2個中隊はマメール(バロンの北北東21.8キロ)に駐屯して北方を警戒しました。同じく2個中隊半は兵站路守備に当たりますが、捕虜の輸送に当てられた2個中隊は間違って第13軍団について行ってしまい、25日になって本隊に戻って来たのでした。
こうしてアランソンからやや南方に第一線を退かせた独第二軍でしたが、1月23日になるとアランソンの西側で斥侯が仏軍部隊を発見するようになり、翌24日、フレネイから発した偵察隊*は、ラ・ポオット(現・サン=ピエール=デ=ニ。アランソンの西14.4キロ)付近で仏軍小隊と遭遇し士官2名下士官40名を捕虜としました。しかし更に西へ進みヴィレンヌ(=ラ=ジュエル。同西南西28.5キロ)が近付くと強力な仏軍部隊が展開しているのを発見し、無理をせずに引き上げたのです。
※1月24日・ヴィレンヌへの偵察隊
フォン・クロッケ少佐指揮
○第48「ブランデンブルク第5」連隊・第3,4中隊
○竜騎兵第5「ライン」連隊・第1,4中隊
○驃騎兵第2「親衛第2」連隊の2個小隊
翌25日にもアランソン市街を偵察しようとした独斥候が市街南郊で仏軍と遭遇、暫し戦闘となりました。このため、翌26日にボーモン(=シュル=サルト)から諸兵科混成の支隊*がアランソンへ進み強行偵察を試みるのです。
※1月26日・アランソンへの偵察隊
カール・ヴィルヘルム・ハインリヒ・フォン・クライスト騎兵大尉指揮
○第48連隊・第1中隊
○騎兵第8旅団の混成騎兵1個中隊
○騎砲兵第2中隊の1個小隊(2門)
クライスト騎兵大尉らはアランソンの南方に進み市街を望見すると、サルト南岸郊外市街のモンソール地区に臨時護国軍兵約1,000名がいることを確認し、騎兵大尉は騎砲兵にモンソールに向け榴弾数発を発射させました。独軍側は仏軍を驚かすだけの嫌がらせで満足だったのですが、仏護国軍兵士たちは独軍の想像以上に恐慌状態となり馬車を棄てて西方へ逃走し始めてしまいました。呆れたクライスト騎兵大尉らは短い時間市街へ侵入すると幾分かの捕虜と馬車を鹵獲しボーモンへ引き上げたのです。
報告を受けたカール王子は27日、騎兵第9と同第10旅団を西進させて、第3軍団の展開線北に連ねるためオルト川の源流付近(シレ=ル=ギョームの北)まで至るように進ませました。その後アランソンから仏軍が消えたことを確認し、今度は長期に渡って占領下に置くため29日、先の2個騎兵旅団にアランソンを占領させるのでした。
ル・マン会戦中モンフォール=ル=ジェスノワで戦う仏義勇兵
1月28日夕刻。ベルサイユ大本営から在ル・マン独第二軍本営へ重大な命令が届きます。独仏が1月31日正午から起算し3週間の休戦に入る協定を結んだとの通告でした。
命令電文を手にしたカール王子は何を想ったのでしょうか?ひょっとすると半年足らず前の光景・メッスの西サン=プリヴァの面前で夕日が照らす大地を朱に染め累々と倒れていた近衛やザクセン将兵の姿を想い、瞑目し頭を垂れ神に祈り感謝したのかも知れません。
カール王子は副官に本営総員集合を命じ、集まった幕僚たちを前に「休戦だ」と告げると、まもなく戦争が終わるとはいえ祖国に帰還出来るまでには相当な月日を要するはずなので、油断することなく粛々と任務を遂行するよう全員肝に銘じろ、と気を引き締めさせるのでした。
追って29日には休戦実施に関わる施行細則も届きます。独第二軍本営はこの日、麾下諸団隊に対し31日からの休戦協定発効を告げ、その実施方法と休戦中の協定遵守を命じました。独第二軍の管轄下では翌30日から暫時敵対行動が中止されて行くのでした。
◎仏第25軍団戦闘序列 1871年1月下旬
(レオンス・ルセ中佐著「普仏戦争」に因ります)
軍団長 ジョセフ=オーギュスト=ジャン=マリエ・プルシェ少将(元・第16軍団長)
参謀長 フールショール大佐
砲兵部長 シャップ大佐(前・第15軍団砲兵隊長)
工兵部長 グラニエ大佐
☆第1師団 エミール・マリウス・ブリュア少将心得(海軍大佐)
○第1旅団 ユーグ・シャルル・ドゥ・ベルナール・ドゥ・セニューラン准将
*マルシェ第74連隊(ローランス中佐)
*海軍歩兵連隊<2個大隊>(ジョセフ・ジル・ユリス・アザン中佐)
○第2旅団 エミール・ジョセフ・マリエ・ラ・モルダン・ドゥ・ラングーリアン大佐
*マルシェ第75連隊(ギシャール中佐)
*海軍フュージリア連隊<2個大隊>(ドブロ海軍中佐)
○砲兵隊
4ポンド野砲3個中隊(18門)
○工兵 1個分隊
仏海軍フュージリア兵
☆第2師団 ジャン=バティスト・セレ少将→マリエ・エティエンヌ・エマニュエル・ベルトラン・ドゥ・シャブロン准将
○第1旅団 ショラン大佐*
*マルシェ猟兵第7大隊(再編成/デュボア少佐)
*護国軍「ピュイ=ドゥ=ローム県」第6大隊(不明)
*護国軍「イスル県」1個レギオン(ゴベルト中佐)
○第2旅団 ルクレア大佐*
*マルシェ第77連隊(デュバル中佐)
*護国軍「ジェール県」1個レギオン(ポール・プロスパ・コンシャール・ヴェルメイ中佐)
○第3旅団
*護国軍「ジロンド県」第3レギオン(レニョット中佐)
*護国軍「ジロンド県」第4レギオン(ペラス中佐)
○砲兵隊
4ポンド野砲3個中隊(18門)
○工兵 1個分隊
※独公式戦史では第1と第2旅団が入れ替わっており、両旅団長の大佐は両名とも赴任しなかったとあります。また、「イスル県」は「アンドル県」、「ジェール県」は「シェール県」の護国軍と記載されています。
☆第3師団 サン=タナスタズ伯爵ジャン・バティスト・フェリクス・オーギュスト・フェリー=ピザニ・ジャルダン准将
○第1旅団 ローラン中佐
*マルシェ第78連隊(バルビエ中佐)
*護国軍「ドルドーニュ県」1個レギオン(不明)
○第2旅団 ブロ中佐
*マルシェ第79連隊(ブラン少佐)
*護国軍「コート=ドール県」1個大隊(不明)
○第3旅団 ブルジャッド准将
*護国軍「ランド県」の3個レギオン(旅団長直率)
○砲兵隊
4ポンド野砲3個中隊(18門)
○工兵 1個分隊
☆騎兵師団 ジョセフ・エリ・トリパー准将(前・カモ師団騎兵旅団長)
○第1旅団 ジャン=ルイ・ドゥ・ブランシャール准将
*マルシェ竜騎兵第9連隊(ペリー・ルイ・フランシス・カルタニエ中佐)
*護国軍「ドルドーニュ県」騎兵連隊(ドゥ・マンフレート・オノレ・ポール・アレクシ・カミーユ・ブルゴワン中佐)
○第2旅団 ドロスム准将
*混成軽騎兵第9連隊(マソン中佐)
*混成軽騎兵第10連隊(エリオン・ジャック・フランシス・ドゥ・バルバンソワ中佐)
*ドゥ=セーブル県のエクレルール1個中隊(不明)
※独公式戦史によればマルシェ竜騎兵第9連隊は「1月下旬時点で1個中隊半しか編成出来ず」とあります。また各旅団所属部隊に相違があります。
トリパー
☆軍団砲兵隊 ヴィダル戦隊長(騎兵少佐)
*12ポンド野砲3個中隊(18門)
*騎砲兵2個中隊(12門)
*護国軍「バス=ピレネー県」のミトライユーズ砲2個中隊(12門)
※独公式戦史によれば、砲兵1個中隊は遅れて2月下旬になって軍団に到着、とあります。
○軍団工兵 1個分隊
※レギオン Légion
伝来としては旧ローマ帝国の「軍団」からですが、時代と共に変遷し普仏戦争当時では仏護国軍が好んで使用している部隊単位名称となります。有名な「外人部隊」の「部隊」が「レギオン」に当たりますが、実際の規模は曖昧で、部隊により最小は強化大隊から最大は旅団に欠ける規模(1,200名から3,800名前後)となっており、「数個大隊の集合体だが連隊と呼ぶには大き過ぎるか小さ過ぎる」部隊に付けたのでは、と考えます。
◎仏第19軍団戦闘序列 1871年1月下旬
(レオンス・ルセ中佐著「普仏戦争」に因ります)
軍団長 ポール=アベ・ダルジャン少将
参謀長 コレン大佐
砲兵部長 シュヴレ海軍大佐
工兵部長 ブルジョア中佐
ダルジャン
☆第1師団 ユジェーヌ・バルディン准将
○第1旅団 シャルル・マリエ・ローラン・ドミニク・ジェローム・カモ准将→リッター准将
*マルシェ第55連隊(フィッシャー中佐)
*マルシェ第66連隊(オーギュスタン・ルコルベイエ中佐)
*護国軍第96「ジロンド県/シャラント県」混成連隊(2個大隊/ゴトゥロー中佐)
○第2旅団 リュズィ准将心得
*マルシェ第71連隊(アレクサンドル中佐)
*護国軍「ジロンド県」第1レギオン(クロン中佐)
*護国軍「ジロンド県」第2レギオン(バリル中佐)
○砲兵隊
4ポンド野砲2個中隊(12門)
海軍山砲1個中隊(6門)
○工兵 1個分隊
☆第2師団 ソハン准将*
○第1旅団 ロベール准将
*マルシェ猟兵第22大隊(ガテ少佐)
*マルシェ第64連隊(ジャック少佐)*
*護国軍「セーヌ=アンフェリウール県」第1レギオン(ラプリンヌ大佐)
○第2旅団 デスメゾン准将(前・第16軍団第2師団第1旅団長)*
*マルシェ第65連隊(ドゥ・ブレーメ中佐)
*マルシェ第70連隊(レオナール・フェイファン中佐)*
*護国軍「シャラント=マリティーヌ県」1個大隊(不明)
○砲兵隊
4ポンド野砲2個中隊(12門)
海軍山砲1個中隊(6門)
○工兵 1個分隊
※独公式戦史によれば、師団長は「ジラール将軍」で、第2旅団長はドゥ・ブレーメ中佐、マルシェ第64連隊は第17軍団と重複、マルシェ第70連隊は北部軍と重複との注意記載があります。
☆第3師団 フェリクス・ギュスターヴ・ソーシエ准将
○第1旅団 ロア准将心得
*護国軍「アルデシュ県」の部隊(規模不明/トマス中佐)
*護国軍「ウール県」の部隊(規模不明/パウエル中佐)
*護国軍「カルヴァドス県」第3レギオン(ラブ中佐)
*「ドゥワニエ」義勇兵中隊
○第2旅団 旅団長不明
*護国軍「ロアール=アンフェリウール県」1個大隊(不明)
*護国軍「ランド県」2個大隊(不明)
*護国軍「シャラント=マリティーヌ県」1個大隊(不明)
*護国軍「カルヴァドス県」第1レギオン(不明)
*護国軍「カルヴァドス県」第2レギオン(不明)
*義勇兵数個中隊
○砲兵隊
4ポンド野砲1個中隊(6門)
12ポンド野砲1個中隊(6門)
山砲1個中隊(6門)
○工兵 1個分隊
※独公式戦史では第1旅団は1万名、第2旅団は8,000名、砲20門との記載があります。
☆騎兵師団 アブドラル准将
○第1旅団 オーギュスト・ヴィクトール・クラムザ・ドゥ・ケルエ大佐
*驃騎兵第3連隊(再編成/旅団長直率)
*マルシェ驃騎兵第4連隊(ジャック・フィリップ・ボーヴュー中佐)
○第2旅団 エドモンド・フェリクス・オーギュスト・ドゥ・ヴォージュ・ドゥ・シャントクレール准将
*マルシェ竜騎兵第8連隊(ジュリアン・レオン・ロワジーヨン中佐)
*マルシェ胸甲騎兵第9連隊(グランディン中佐)
☆軍団砲兵隊 ジュイユ中佐
*7ポンド野砲2個中隊(12門)
*騎砲兵1個中隊(6門)
*ミトライユーズ砲2個中隊(12門)
*海軍4ポンド砲2個中隊(12門)
○軍団工兵 1個分隊
○軍団輜重兵 1個中隊
「ロアール軍万歳!」




