表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
45/534

ケーニヒスホーフとシュヴェインシェーデルの戦い

 ヴィソコフとスカリッツで第6に続き第8軍団まで敗れたオーストリア北軍。

 三方から迫って来る「外線」機動のプロシア軍に対し、防御に徹することで「内線」の利点を活用する(各個撃破狙い)はずだった司令官ベネデック元帥の戦略は、プロシア軍の武器(ドライゼ小銃やクルップ鋼鉄後装砲)や電信と鉄道利用の素早い的確な部隊の機動により連戦連敗、足止めもうまくいかず根本的に戦略の練り直しが必要となりました。


 ベネデックは北軍全軍を、ギッチンへの集中行軍から東側プロシア第二軍への対抗を視野に、ケーニヒグレース(現チェコ/フラデツ・クラーロヴェー)からヨセフシュタット要塞に至るエルベ川前面の田園地帯へ撤退させることを決します。


 この6月29日。プロシア皇太子は自身が率いる第二軍のこの日の目標を定め、トラテナウで敗北後一日休養と補給に充てた第1軍団を再びトラテナウからピルニコウ(現チェコ/ピルニーコフ)へ、近衛軍団をケーニヒスホーフ(同/ドヴール・クラーロヴェー・ナト・ラベム)へ、第5軍団をグラドリッツ(同/ホウストニーコヴォ・フラディシュチェ)、第6軍団をナーホトへ、それぞれ進撃するよう電信で命じました。


 対するベネデック将軍は、第10軍団をケーニヒスホーフを通って更に南西ドゥベネック(現・ドゥベネツ/ケーニヒスホーフ南5キロ)へ撤退させ、第6と第8の疲弊した軍団はドゥベネック西方へ移動、第4軍団にはスカリッツ西のドラン(現・ドラニ)にて待機を命じます。

 司令部はヨセフシュタット要塞からドゥベネックへ移動しました。これは全軍にギッチンへの集中からプロシア第二軍への対抗を命じた都合上、東への防御を指揮しやすい場所と言う事での移動と思われます。


 これらの命令変更でオーストリア北軍全体が混迷したこの29日。三つの戦いが同時進行で起こります。


 プロシア第一軍とエルベ軍がザクセン軍とオーストリア・ボヘミア軍と戦った「ギッチンの戦い」。

「トラテナウの戦い」での勝者で昨日(28日)「ノイ=ログニッツの戦い」で敗走したオーストリア第10軍団が昨日の敵、プロシア近衛軍団と戦った「ケーニヒスホーフの戦い」。

「ナーホト」「スカリッツ」と敵の軍団を連破したプロシア第5軍団の「三日目」、「シュヴァインシェーデルの戦い」。


 まずは「ケーニヒスホーフの戦い」から見てみましょう。


 前日の「ノイ=ログニッツの戦い」で半減した一個旅団(グリヴィック大佐旅団)を犠牲にトラテナウ方面から脱出したオーストリア第10軍団。ノイ=ログニッツ(現チェコ/ノヴィー・ロキトニーク)はトラテナウ(同じくトルトノフ)の南3キロにある部落。司令官のガブレンツ将軍は指揮下の部隊をここから逃げるようにして南西へ後退、南西12キロにあるケーニヒスホーフの町を集合地点として各旅団ばらばらに退却しました。


 この一個旅団を失った第10軍団の穴埋めとして、南より第4軍団所属のフライシュハッケル少将旅団6,600名が派遣されて来ます。この旅団の半分(第6連隊ほか)をストックリン大佐が指揮し、第10軍団の先鋒となります。この後を僅か1,500名程度に減ってしまったグリヴィック大佐旅団の残兵が続き、クネーベル少将旅団、モンデール大佐旅団と続き、フライシュハッケル少将旅団の残り半分(少将自身が指揮)が後衛となってケーニヒスホーフの町を目指して行軍しました。

 残ったウィンプフェン少将旅団はこの行軍列とは別ルートでケーニヒスホーフを目指し、敵と出会わず無事にラーベ(エルベ)川を渡河、野営指定地のサルナイ(現・ジレチュ/ケーニヒスホーフ南東3キロ)に到着します。


 ストックリン大佐はガブレンツ将軍の命に従い、ウィンプフェン旅団に続いてエルベを渡河、ケーニヒスホーフの北側に陣を敷き、軍団残りの撤退を援護しました。ガブレンツは更に町の周囲に騎兵と散兵による警戒線を敷き、やがてやって来るであろう敵近衛軍団を警戒しました。


 午前11時前にはグリヴィック大佐旅団の残兵がケーニヒスホーフに入り、砲兵隊に続いてクネーベル、モンデールの両旅団も程なく町に入って来ました。

 このクネーベル旅団の兵士が町を越え、目的地であるドゥベネックへ向かう街道を行軍しようとした時、ケーニヒスホーフの周囲に砲弾が降り注ぎ始めます。遂にプロシア軍がやって来たのでした。


 ガブレンツ将軍は直ちに待機していた軍団砲兵隊をケーニヒスホーフ南側の停車場後方にある高台へ向かわせ、これにクネーベル、グリヴィック両旅団砲兵も加えて砲列を作り、直ちに砲声のする方向へ応射を始めさせました。


 ケーニヒスホーフを目標にやって来たのはプロシア近衛軍団のフォン・ケッセル大佐率いる近衛第1師団の前衛部隊。一個旅団程度の部隊でした。彼らは北東からガブレンツの軍団を追ってエルベ川が町中を流れるケーニヒスホーフ郊外にやって来たのでした。ケッセルは騎兵による偵察で敵の大軍が目前の町にいることを掴むと、砲兵隊を町の東に広がる森林に配し、午後2時、砲撃を開始したのです。


 町の北でガブレンツ軍団の渡河を援護していたストックリン大佐は敵が自分たちより兵力に優れていることを認めますが、戦いと退却に疲れ果てたガブレンツの軍団は未だ町の中を流れるエルベに架かる橋を渡っている最中で、ここは踏み留まって戦うしかない、と決心します。案の定、敵はほどなく(午後3時)町に向かって進撃して来ました。


 プロシア軍ケッセル部隊は北東方面から町に突入し、オーストリア・ストックリン部隊と激戦が展開されました。ここでケッセル大佐は大胆にも砲兵を最前線まで進め、至近距離からオーストリア軍へ射撃を繰り返しました。

 30分の激闘の末。数に劣るストックリン部隊は押され始め、彼らはじりじりと後退します。ここで槍騎兵隊が応援に訪れますが、焼け石に水、遂にプロシア軍は町の東側を抑え、町に二つ架かる橋のひとつ、「上橋」の占拠に成功します。


 ケッセル大佐は更にもう一つの橋「下橋」の占領も狙いますが、南側ではオーストリア砲兵が踏ん張り、猛砲撃とストックリン大佐自ら率いた攻撃により辛うじてプロシア軍の接近を防ぎます。プロシア騎兵の一隊は南側浅瀬よりエルベを渡河、西岸に上がりますが、これもモンデール旅団が攻撃して追い返すことに成功しました。

 

 この後、一時の膠着状態を利用してオーストリア軍は戦場を離脱し始め、ガブレンツ将軍は軍団砲兵が睨みを利かす中、なんとか部隊を後方へ退かせることが出来ました。


 すぐ西側に布陣していたオーストリア第3軍団(エルンスト大公親王指揮)は、砲声を聞くや指揮下の二個旅団(キルヒベルク大佐旅団とプロチャッカ大佐旅団)を応援に向かわせ、午後6時、両旅団はエルベ川西岸の高台に到着、川を挟んで東岸のプロシア軍と対峙しました。

 この頃にはケッセル大佐の親部隊、プロシア近衛第1師団本隊が続々とケーニヒスホーフ東岸側に到着し、ここに両軍は対峙したまま睨み合いの状態に入るのでした。


 この戦いでオーストリア軍はストックリン大佐(下橋の戦いで重傷)を含む士官23名、兵士597名を失い、対するプロシア軍は士官2名兵士68名という軽微な被害でした。


 次に「シュヴァインシェーデルの戦い」を見ます。


 ボヘミアを東側から攻めるプロシア第二軍の先鋒、第5軍団はたった二日でオーストリアの二個軍団を敗走させ、被害は一万人以上とオーストリア北軍司令官ベネデックの動揺を誘いました。


 そのオーストリアにとって悪魔の如き第5軍団司令官、シュタインメッツ将軍はしかし、第二軍からの「29日、第5軍団は目標をグラドリッツへ定め前進せよ」という命令に悩んでいました。いくら第5軍団が強いとは言え、二日連続で二万規模の軍団と戦い、少なからぬ損失も受けています。そんな状態で三日連続の戦いを行うのは無理がありました。


 将軍は将兵の疲労を考え、スカリッツの郊外で野営した軍団を午前中一杯休ませます。この日は出来るだけ戦いを避けて目標に向かおうと考えた将軍は、敵が待ち構えるであろうスカリッツ=ヨゼフォフ(ヨシフシュタット要塞の「城下町」)街道を行かずに街道の北に広がる高原と田園を西に進む計画を立てます。そして近衛重騎兵旅団が再び軍団後方に位置するのを待ち、スカリッツ西方七キロにあるグラドリッツへ向かい出立するのは午後2時としました。

 

 一方、スカリッツ西方に待ち構えるのはオーストリア第4軍団。四個の旅団を基幹とする25,000規模の軍団でしたが一個旅団を北方ガブレンツ将軍の第10軍団へ応援として派遣していて、2万足らずの軍団となっていました。指揮官はタシーロ・フエスティス中将。偵察により敵の軍団はスカリッツの西郊を動かず、近衛の騎兵旅団も後方に後退したことを確認しています。


 将軍が北軍司令部から受けていた命令は、「ドラン(現・ドラニ)に留まり、もし敵が大軍によって攻撃を受けた場合、正面から対抗するのを避け、ケーニヒグレース方面へ後退し第2軍団の隣に位置せよ」と言うものでした。将軍は敵の進軍のハナ先を叩くため、軍団直轄の砲兵を街道から東を狙えるシュヴァインシェーデルの高台に展開し、ペーク大佐旅団を高台の北、ヨーゼフ大公少将旅団を南側街道方面で守備に付かせます。ブランデンシュタイン少将旅団は予備として後方に控えました。


 「シュヴァインシェーデル」とはドイツ語で「豚の頭蓋骨」。この不気味な名前を持つ高台、現在は広大な畑が広がる本当に何もない場所ですが、1866年当時も草原と農耕地が広がるだけの場所でした。位置としてはスカリッツの西およそ5キロ、チェコのスヴィニシュチャニとドラニの部落の間になります。このスヴィニシュチャニから北にあるセプチュの部落へ向う狭い田舎道沿い左側を気を付けて行くと当時の事が書かれた案内板があります。もうそれだけが当時を知らせるもののようで、ここで激しい戦いがあったことなど想像も出来ない静かで何もない高原です。


 プロシア第5軍団は午後2時、スカリッツを出発します。前衛はキルヒバッハ中将が指揮の第19旅団(ティーゲマン少将指揮)を中心とした部隊、左翼を第20旅団(ヴィッチヒ少将指揮)とウンク騎兵旅団、右翼にレーヴェンフェルド中将指揮の第17旅団に第18旅団(第7連隊)と近衛重騎兵旅団(アルブレヒト親王中将)。後ろからホフマン少将の第22旅団が続きます。


 午後3時30分頃、ヴィッチヒ少将の第20旅団がミスコレス(現・ミスコレジ)部落付近に差しかかった時、オーストリア砲兵の砲撃が始まりました。最初、ヴィッチヒ将軍は攻撃を控え、渓谷や林など遮蔽物を使って行軍しますが、オーストリア砲兵が盛んに撃ち掛けるため、遂に攻撃を決意します。

 

 ヴィッチヒ将軍は一個大隊を中心にシュヴァインシェーデル台地に陣を敷くオーストリア砲兵隊を攻撃、プロシア砲兵隊もオーストリア砲兵陣地に向け盛んに砲撃を仕掛けます。これにオーストリア砲兵も榴弾で砲撃し、一時砲撃戦が激しくなりました。


 これを見ていたキルヒバッハ中将は先に進んでいたティーゲマン少将の第19旅団を呼び戻し、シュヴァインシェーデル台地の攻撃を命じました。今日は戦わない、とのシュタインメッツ将軍の方針は聞かされていますが、この敵の砲兵を放って置く訳には行かなかったのです。


 ここでオーストリア第4軍団のフエスティス将軍は、このまま後退してしまっては士気がガタ落ちとなってしまうだろう、との危惧から遅延戦闘を行った後に後退することを考え、ペーク大佐に攻撃を命じました。

 ペーク大佐旅団はプロシア兵を果敢に攻撃しますが、プロシア兵は例のドライゼ銃の猛射撃でこれに応じ、次第に圧倒された旅団は西へ退却に入ります。ヨーゼフ大公旅団も街道を西へ退却に入りました。

 台地では尚もペーク旅団の一大隊が頑強に抵抗し、味方の退却時間を捻出します。この大隊は半分以上の兵を失いながらも味方砲兵隊の退却を待って最後に台地を去りました。

 シュタインメッツ将軍はこれ以上の進撃を許さず、この台地から撤退を命じます。その後第5軍団は目的地のグラドリッツに向かって行軍を続け、夜には街に入りました。


 オーストリア第4軍団はそのままヨセフシュタットへ向けて退却して行きました。


 この戦いでプロシアは士官15名、兵士379名を失い、オーストリアは士官39名、兵士1,411名を失いました。


 シュタインメッツはなんと3日間で一つの軍団により三つの軍団と戦い三連勝、敵に多大な損害と衝撃を与えます。

 そしてこれが普墺戦争の行く末を決定付けることになった大会戦を生む遠因となったのでした。



※ケーニヒスホーフの戦いに参加した主な部隊


☆オーストリア北軍

○第10軍団 戦闘員26,000名(以下同じ) 指揮官;ガブレンツ中将

 モンデール大佐旅団 6,700 

 クネーベル少将旅団 6,700 

フライシュハッケル少将旅団6,600(第4軍団より派遣中/ストックリン大佐半旅団含む)

ウィンプフェン少将旅団 6,600(但し戦いには直接参加せず) 

 槍騎兵3個中隊 400騎

 軍団砲兵 900 砲40(全体で72)


☆プロシア第二軍

○近衛軍団 アウグスト・フォン・ヴェルテンブルク親王大将

○近衛第1師団 ゲルトリンゲン中将

 前衛隊 フォン・ケッセル大佐 6,100

  近衛歩兵三個大隊と三個中隊

  近衛猟兵二個中隊

  近衛騎兵二個中隊

  近衛砲兵二個中隊

  他

 

※シュヴァインシェーデルの戦いに参加した主な部隊


☆オーストリア北軍

○第4軍団 26,300名 タシーロ・フエスティス中将

ペーク大佐旅団6,200

ヨ-ゼフ大公少将旅団6,800

ブランデンシュタイン少将旅団6,600

(フライシュハッケル少将旅団6,600は第10軍団へ派遣中)

槍騎兵4個中隊700騎

軍団砲兵1,000 砲48(全体で80)


☆プロシア第二軍

○第5軍団 歩兵21,000 指揮官 シュタインメッツ大将

前衛隊 キルヒバッハ中将 

 第19旅団(ティーゲマン少将) 6,000

 砲兵 

左翼支隊 ヴィッチヒ少将

 第20旅団(少将直卒)6,000

 ウンク騎兵旅団 約1,000騎

 砲兵

右翼本隊 レーヴェンフェルド中将

 第17旅団(ベロー大佐)6,000

 第7連隊(第18旅団)2,800 

 砲兵

軍団予備砲兵900 砲40

○第6軍団増援

 第22旅団(ホフマン少将)6,100

○近衛重騎兵旅団(アルブレヒト親王中将)1,260騎



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ