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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリの苦悶と『ル・マン』
449/534

ヘッセン大公国師団の孤軍奮闘(71年1月)


☆ 1月上旬/オルレアン方面・ロアール中流域の状況


※「普仏戦争/12月中旬・ジアン方面と第7軍団」を参照願います。


 独第二軍がル・マンに向かって攻勢を仕掛けた頃、オルレアンを中核としてロアール(Loire)川中流域に残留し仏ロアール軍の残存勢力や南仏から北上して来た「新」勢力に対抗したのは独第9軍団に属していた独第25「ヘッセン大公国」師団(以下「H師団」)でした。


 1月3日。H師団はHライター騎兵第1「近衛シュヴォーレゼー」連隊をラ・フェルテ=サン=トーバン(オルレアンの南20.3キロ)を南端とし、主としてロアレ川(オルレアンの南を流れるたった12キロと短くもロアレ県の由来となるロアール支流)沿岸の諸部落に駐屯させ、歩兵としてはH猟兵第1「近衛」大隊を派遣し、騎兵と共にソローニュ地方(ロアレ川流域からヴィエルゾン付近までの森林湖沼が多い地域)を巡察させ始めます。同時にオルレアンのロアール(Loire)川南岸の衛星市街であるサン=マルソー(オルレアンの南1.5キロ)に守備隊を駐屯させ、万が一仏軍が南方からオルレアンを狙った場合に阻止するため設営していた「オルレアン防衛線」の守備に就かせます。


挿絵(By みてみん)

ヘッセン・シュヴォーレゼー士官


 この長大な陣地帯は、独第二軍の工兵部長フリードリヒ・ロイトハウス大佐が設計し、12月初旬、まだバイエルン王国(以下B)第1軍団がオルレアンに駐屯していた頃に築造が始まり、幾度かの中断を挟みながらその都度オルレアンに駐屯していた部隊によって手が加えられて強化され、最終的に71年2月末になって独第9軍団により完成されることとなります。

 防衛線の構成は散兵壕を基本として、その前方に設置された厚い生垣や墻壁、稠密な鹿砦などから成り立ち、ロアール川南岸・オルレアン市街の南西に位置する練兵場(オルレアン市街中心から1.8キロ。現在は競馬場です)を起点として左回りにギニュゴー城館(練兵場の南350m付近。現存しません)を抜け、サン=メマンへの街道(現・国道D951号線)に沿って東へ進み、その後はサン=マルソーの南端を回り込み、ラ・ビノッシュ(家屋群。ギニュゴー城館の南東2.2キロ付近。現在は住宅街の中になって通りの名だけに残ります)~ラ・コル(農家。ラ・ビノッシュの東500m付近。現存しません)~ラ・ヴァレンヌ(小部落。ラ・コルの北東480m付近。現在も住宅街)と延び、最後はロアール川の分流が合流する地点のやや上流でロアール川に達していました。

 この陣地帯と交差する街道やロアール川との接点及び各河川の橋梁付近には砲台、肩墻などの拠点が9ヶ所設けられ、橋梁には爆破装置と共に頑丈な木柵が用意されて通行を制約していました。


挿絵(By みてみん)

オルレアン防衛線


 H師団はオルレアン周辺ばかりでなくロアール下流のブロア(オルレアンの南西55キロ)から同上流のブリアール(同南東59キロ)までの間を支配していたため兵力が分散配置され、その占領地支配は決して盤石ではありませんでした。また12月~1月の戦闘により大量の捕虜がオルレアンに集中したため、12月28日には「ビッターフェルト」後備大隊が、更に1月9日に「デトモルト」後備大隊と予備驃騎兵第5連隊の第2中隊が捕虜の後送任務に従事し始めます。元々オルレアン地区の後方兵站路守備隊だったこれら後備兵が去ったため、H師団は兵站路守備にも兵員を割くことになり予備の兵員が極少数となって心許ない状態にありました。このためH師団長でヘッセン大公国の公子、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・カール・フォン・ヘッセン・ウント・ベイ・ライン中将は「もし仏軍が優勢なる兵力で南から攻め上がって来た場合にはサン=マルソーの橋頭堡を撤退し、ロアール大橋を爆破落橋させて右岸(ここでは北岸)で戦う」方針を定めたのでした。


挿絵(By みてみん)

ヘッセン猟兵の士官


 幸いにも新年を迎えた後の1週間、ソローニュ地方各地に放たれた巡視斥候は仏兵を見ることなく過ぎて行きました。しかし1月7日、ロアール河畔サンディヨン(オルレアンの南東12キロ)から偵察に出た巡察騎兵隊がヴァンヌ=シュル=コソン(サンディヨンの南東20キロ)の北方で約400名の護国軍部隊(半大隊)に遭遇します。この仏軍は戦うことなく後退し南方に去りました。以降数日間は独軍斥候が少数の義勇兵と出会うだけで過ぎて行きます。これは東西に分裂し当初は第1ロアール軍と呼ばれたブルバキ将軍率いる軍のソローニュ地方における最後の動きで、ヴィエルゾン(オルレアンの南76.7キロ)やブールジュ(同南南東98.5キロ)にいた仏第15軍団の残党はこの頃仏東部へと向かって去って行ったのでした。1月8日にヴィエルゾンを偵察した独軍騎兵斥候は「市街地と周辺部に敵影なし」と報告しています。


 一方、昨年末からロアール上流を警戒して来た男爵ヘルマン・カール・ディートリヒ・フォン・ランツァウ少将率いる支隊は1月4日、仏軍が去ったとの情報から再びジアンを発ってブリアールに向けて前進しました。ところが5日、ロアール上流に放った斥候隊の一つが帰還せず(士官1名が負傷して帰還、下士官兵16名、馬匹17頭が捕虜に)、他の複数斥侯隊が「師団クラスの敵」の存在を報告したため、ランツァウ将軍は警戒し度々斥候を放ってこの敵と接触を保ち続けました。すると7日になってベルサイユ大本営から直接「ヌヴェール(ジアンの南南東87キロ)からクラムシー(同東南東71.1キロ)に掛けての地域を偵察せよ」との命令が届くのです。どうやら独大本営はブールジュ方面にいた敵(ブルバキ将軍麾下)が仏東部へ移動したとの情報を確認したがっている様子でしたが、ランツァウ将軍としては「目前の」コーヌ=クール(=シュル=ロアール。ジアンの南東37.5キロ)方面に出現した「新たな仏軍部隊」を駆逐しなければこの命令を実施することが出来ず、困惑してしまったのです。


 この「ロアール軍に属していない仏軍」の正体は、ジャン=バティスト=ルイ・ドゥ・ポワント・ドゥ・ジェヴィニー将軍が指揮を執る10,000から12,000名の兵団で、南仏中央部の諸県から出撃しヌヴェール(ブリアールの南南東78.7キロ)周辺に集合した臨時護国軍将兵(主にニエーヴル県)や義勇兵などの集団でした。

 齢70過ぎのベテランでニエーヴル県の護国軍責任者だったポワント・ドゥ・ジェヴィニー将軍は1月上旬、この麾下諸隊と共に北上し、12月中旬から度々ジアンとブリアール方面でB軍やランツァウ支隊と小競り合いを続けていたブルバキ将軍麾下第18軍団の先鋒部隊と入れ替わる形でコーヌ=クールへ前進して来ました。

 彼らは武器や制服も様々、練度も様々という寄せ集め集団でしたが、ランツァウ将軍が率いる支隊も歩兵2個大隊に軽騎兵1個連隊(4個中隊)、それに軽砲6門という2,000名前後の「少所帯」であり、独側からは迂闊に攻撃出来ない状態にあったのです。

 すると1月1日以来攻撃を手控えていた仏軍が12日、ル・マンでの会戦に合わせるかのように前進を始め、ランツァウ支隊に数倍する兵力でウズーエ=シュル=トレゼ(ブリアールの北東6.4キロ)を襲ったのでした。

 この部落にあったH軍の守備隊は簡単に駆逐されてしまい、ブリアールに助けを求めます。ランツァウ将軍は直ちに増援を送り、まさかH軍が短時間で逆襲に出るとは考えていなかったであろう仏軍は慌てて後退し、ウズーエ=シュル=トレゼは奪還され仏軍は手痛い打撃を受けるのでした。


※1月12日・ウズーエ=シュル=トレゼの戦闘に参加したH軍部隊

○H第2「大公」連隊・第1,3中隊、第5中隊の三分の二(4個小隊)

○Hライター騎兵第2「親衛シュヴォーレゼー」連隊・第4中隊の四分の一(1個小隊)


 しかし本来なら防御線として使える付近を流れるブリアール運河はこの時完全に凍結して自由に通行出来たため、H軍将兵は周辺に潜む5倍以上の敵にいつでも包囲される危険が生じて部落に長く留まるわけにいかなかったためにランツァウ将軍は部隊をブリアールへ呼び戻し、仏軍は翌13日の午前、再びウズーエ=シュル=トレゼを確保するのでした。


☆ ブリアール周辺の戦闘(1月14日)


挿絵(By みてみん)

ブリアール周辺図


 既に1月6日、命令によってジアン在の兵站守備隊(「デトモルト」後備大隊の4個中隊と予備驃騎兵第5連隊の第2中隊)はオルレアンに向かって去り、ランツァウ将軍は貴重な麾下歩兵(H歩兵連隊は2個大隊/8個中隊制です)から第7中隊を送ってジアン市街を守備させています。またオルレアンとの連絡を保つためオルレアン運河の渡渉点ポン・オー・モワンヌ(ジアンの西北西49キロ)やシャトーヌフ=シュル=ロアール(同北西37キロ)、そしてウズーエ=シュル=ロアール(同北西14.5キロ)には義勇兵などの襲撃に備えて連絡哨を置き、少なくない哨兵が配されていました。しかし仏軍が再び活発に動き始めたため、ただでさえ少ないランツァウ支隊は13日中にそれ以外の駐在拠点を放棄してブリアールに集合します。

 明けて1月14日。早朝から濃霧に覆われたブリアールではランツァウ将軍が仏軍の動向を調べようと斥侯を派出しました。すると複数の斥侯が帰還して報告するには、「モンタルジへの街道(現・国道N7号線)上に義勇兵の集団が出現、ウズーエ=シュル=トルゼからも護国軍の縦隊が行軍を始めており、この一部は既に西へ向かったため我らの背後(ジアン方面)に進みつつある」とのことだったのです。

 このためランツァウ将軍は麾下諸隊に対して緊急集合令を発し、同時に即出撃可能だった3個小隊(H第2連隊第4,5,6中隊の各1個小隊)をジアンへの本街道(現・国道D957から952号線/ブリアール道路)に向けて突進させ、街道を封鎖しようとしていた仏義勇兵を追い払うのでした。しかし仏護国軍兵の縦隊は迂回しつつ包囲を狙う行軍を続行し、しかも砲兵1個中隊を同行させていました。同時にロアール下流から戻った斥侯は「ウッソン=シュル=ロアール(ブリアールの南南東6.6キロ)の停車場周辺に仏軍の一大集団が集合し待機している」との報告を上げるのです。

 これらの状況からランツァウ将軍は麾下に対し、包囲の危険性が増したブリアールを潔く放棄してジアンに向かって撤退することを命じるのです。この撤退の「露払い」としてHライター騎兵第2連隊の「親衛」中隊と第3中隊がジアンへの街道筋を先行するのでした。

 この2個ライター騎兵中隊はブリアールから離れた途端、前方と側面に潜んだ仏兵から激しい銃撃を浴びますが、何とかロアール川と街道の間に展開していた仏軍の散兵線を突破してジアンへ走り去ることが出来るのです。しかし、この突破戦で中隊長の一人男爵フォン・デア・ホーヴ少佐が戦死、第3中隊の一部が突破に失敗して街道筋のリヴォット農場(ブリアールの北西2.3キロ。ワイナリーとして現存します)へ逃げ込み、ブリアールから本隊が到着するまで耐久することになるのでした。この時、ボーヴォアール(城館。リヴォット農場の東380m付近。現存せず住宅地になっています)にあったH軍前哨の歩兵第8中隊と同第5中隊の1個小隊が仏の散兵線左翼にあった1個大隊の仏兵を攻撃して友軍騎兵の脱出を助けました。

 その後ランツァウ将軍は本隊を率いてブリアールを脱し、ジアンへの鉄道線路上と本街道上をリヴォット農場付近まで進んで仏軍散兵線と対峙していた騎兵と歩兵を吸収し、鼓手を前に出して太鼓を連打させつつ仏軍と衝突して血路を開き、堂々街道上をジアンまで撤退するのでした。

 しかしジアンもブリアールと同じく川と高地に挟まれ、その街道筋は視界が開けて平坦な地形であって少数の兵力では防御に適さない土地柄だったため、ランツァウ将軍は更に西へと後退を続け、幸いにも仏軍はジアンに留まって追撃せず、ランツァウ支隊はウズーエ=シュル=ロアール(ジアンの北西14.5キロ)まで撤退するのでした。

 この日、ランツァウ支隊は戦死8名・負傷9名・行方不明(捕虜)10名・馬匹損失10頭を報告しています(仏軍側は不詳です)。


挿絵(By みてみん)

ブリアールの1871年記念碑


 このランツァウ将軍からの至急報を受けた在オルレアンのヘッセン大公国公子ルートヴィヒ中将は、直ちに在ル・マンのカール王子に電信を送って指示を仰ぎました。すると同日(14日)夕刻、早くも返信命令が届くのです。それによれば「H師団は歩兵1個大隊と騎兵1個中隊をオルレアンに残し、残り全ての部隊をシャトーヌフ=シュル=ロアール方面へ前進させよ」とのことでした。カール王子は同時にシャトー=ルノーのユリウス・ハートヴィッヒ・フリードリヒ・フォン・ハルトマン中将に対し「麾下(歩兵)第38旅団をシャトー=ルノーからブロアに派遣して、ブロア在の守備隊中H第4「カール王子」連隊(2個大隊)をオルレアンに急行させよ」と命じたのです。

 しかしこの処置もランツァウ支隊が危機を脱してウズーエ=シュル=ロアールに達し、仏軍の追撃もないとの報告からシャトーヌフへのH師団前進は中止となり、東方警戒のためオルレアン運河沿いに警戒隊を置くだけに留められました。結局のところ仏ドゥ・ポワント・ドゥ・ジェヴィニー将軍の部隊はジアン西郊外のヌヴォワまでしか西に進まず、H師団のオルレアン運河警戒隊はこれ以降戦うことはありませんでした。


 H師団は71年1月の一ヶ月で戦死が士官2名・下士官兵23名/負傷が士官3名・下士官兵31名/行方不明(殆どが捕虜)が下士官兵83名/馬匹損失47頭を記録しています。


挿絵(By みてみん)

ルートヴィヒ公太子


☆ 1月中旬/ブロア~トゥール方面の状況


 オルレアンの「危機」がひとまず去ったことを知ったカール王子は、ハルトマン将軍に対し変更命令を発します。それによれば「第38旅団(原隊は第19師団)をそのまま隷属させるので、ブロアを死守しロアール(Loire)川とロワール(Loir)川の間に展開し続けよ」とのことで、「そのためにブロア~トゥールを結ぶ街道(現・国道D766号線やD911号線)を掌握し管制することが肝要」と指示するのでした。

 これを受けたハルトマン将軍はブロアに歩兵6個中隊と騎兵3個中隊を残して守備隊とし、1月17と18両日に掛けて第38旅団本隊をモネ(ブロアの西42キロ)まで行軍させました。これはカール王子の命令を「拡大解釈」したハルトマン将軍がトゥールを占領するために命じたものだったのです。

 この行軍中ブロアからロアール川沿いに進んだ別動隊はモンルイ=シュル=ロアール(トゥールの東11キロ)で重要なブロア~シャテルロー鉄道のロアール橋梁を破壊しています。

 また独騎兵第1師団も18日にモネへ至りました。


※1月18日のハルトマン兵団

*ブロア守備として残留

○第16「ヴェストファーレン第3」連隊・第1大隊

○同連隊・第6,7中隊

○独槍騎兵第8「オストプロイセン」連隊(騎兵第2旅団所属。1個中隊欠)

*ヴァンドームからモネへ行軍中

○第16連隊・第5,6中隊

*モネ集合

◇第38旅団本隊

○第16連隊・F大隊

○第57「ヴェストファーレン第8」連隊

◎騎兵第1師団

◇騎兵第1旅団

○胸甲騎兵第2「ポンメルン/国王」連隊

○槍騎兵第4「ポンメルン第1」連隊

○槍騎兵第9「ポンメルン第2」連隊

◇騎兵第2旅団

○胸甲騎兵第3「オストプロイセン/伯爵ウランゲル」連隊

○槍騎兵第12「リッタウエン」連隊


挿絵(By みてみん)

独軍のトゥール入城~ロアール橋を渡るハルトマン兵団


 ハルトマン兵団は翌1月19日、ガンベタ率いる仏政府派遣部の根城だったトゥールへ無血入城します。ガンベタがボルドーへ去った直後(12月20日前後)は頑強に抵抗していた市民は、ル・マンの陥落を知りシャンジー将軍らが西へ去ったことを知った為か今回は概ね恭順で、比較的少数の部下を率いるハルトマン将軍は安心して隊を割り、前衛をシェール川(トゥール西方ヴィランドリーでロアールに注ぐ支流)方面へ送り出すことが出来ました。ロアール南岸へ放たれた前衛の斥候たちはその後数日間、ヴィランドリー(トゥールの西南西15キロ)、バラン(=ミレ。同南西8.2キロ)、モン(同南南西14キロ)等で仏の地方部隊(臨時護国軍や国民衛兵など)を発見しますが、そのどれもが守勢で攻撃を受けることはありませんでした。

 ハルトマン将軍はトゥール占領を受けてカール王子が命じたロアール川に掛かる諸橋梁の破壊を実施し、サン=シール=シュル=ロワール(トゥールの西郊外衛星市街)の街道橋やサンク=マルス=ラ=ピル(ヴィランドリーの西3.8キロ)付近の街道橋、そしてシェール川に掛かるサヴォニエール(同東2.9キロ)の橋などを破壊し川面へ落とすのでした。


挿絵(By みてみん)

トゥール周辺図


☆ 1月中旬から下旬・ソローニュ地方の状況(仏第25軍団の出現)


 オルレアンに残ったH師団は1月16日、ヴィエルゾン(オルレアンの南77キロ)に再び仏軍が集合し始めたことに気が付きます。以降数日間に渡り斥候と諜報等からこの仏軍の規模が明らかになり始めました。これらソローニュ地方に浸透したH軍斥候たちは、ブーヴロン川(ジアン南西アルジャン=シュル=ソルドル付近を源流に一部ロアレやロアール=ル=シェールとシェールとの県境を成してブロアの南カンデでロアール川に注ぐ支流)の北方でも仏軍偵察隊と遭遇するようになったと報告を上げます。この情報がベルサイユ大本営に伝えられると、モルトケら参謀本部は「オルレアンに兵力を増強しなければならない時が来た」と考え、カール王子に命令を送るのです。

 オルレアンが再び狙われているとの状況を知り大本営からも命じられたカール王子は1月22日、コンリー周辺で宿営するフォン・マンシュタイン将軍の独第9軍団(第18師団並びに軍団砲兵と直轄部隊)に対し「オルレアンに向かって前進し、同地でH師団と合流せよ」と軍団合同を命じたのでした。21日にコンリー兵営並びに同陣地帯の整理と再使用不可を狙った破壊を終えたばかりのマンシュタイン将軍は、これも修理が終わって19日から運行可能となったル・マン~コンリー間の鉄道線を利用して麾下をル・マンへ運搬し行軍を始めました。


 同じ頃。H師団の斥候たちの偵察や情報収集の結果、ヴィエルゾンの新たな仏軍集団はガンベタが命じて1月1日付で新設された仏第25軍団と判明しました。

 この軍団は、12月下旬にブールジュ周辺から仏第15や第18軍団の残留諸隊がブルバキ将軍の第1ロアール軍に追従しようと順次ブザンソン(ブールジュからは東へ275キロ)へ向けて出立した後、シェール流域やソローニュ地方を防衛、あわよくばオルレアンを奪還するためにガンベタが命じ創設されたものですが、既述通り仏の軍用資源は枯渇し物資の欠乏が甚だしかったため、その編成は大いに遅延していました。この1月中旬から一部が活動を始めてはいましたが、部隊の編成は1月末となっても完結することが出来なかったのです。余談となりますが、この第25軍団は結果的に普仏戦争で編成された最後の正規軍団となりました。

 この困難な状況下で軍団長となったのは当時57歳、70年の10月上旬にアルジェリアからやって来たジョセフ=オーギュスト=ジャン=マリエ・プルシェ将軍で、去る10月17日、ロアール軍司令官に昇進したドーレル・ドゥ・パラディーヌ将軍に代わって第16軍団長となったものの同月29日、無茶なパリへの北上を命じるガンベタらトゥール派遣部に抗命したためシャンジー将軍に取って代わられ「干されて」いたところ、高級指揮官不足から復帰を命じられるのでした。


挿絵(By みてみん)

プルシェ


 1月12日、軍団長として赴任したプルシェ将軍は本営を独軍が放棄していたヴィエルゾンに置き、22日になってボルドー派遣部フレシネの命令によって形ばかりではあるものの一応の編成なった1個師団(ブリュアー海軍大佐率いる第1師団)をブールジュ~ラ・シャリテ(=シュル=ロアール。ブールジュの東北東48キロ)と進ませてロアール川を渡らせ、最終的にクラムシー(ラ・シャリテからは北東へ49キロ)まで送るよう命じました。この師団は前述した「ニエーヴル兵団」を率いていたドゥ・ポワント・ドゥ・ジェヴィニー将軍が統括して指揮を執ることとなります。

 翌23日にプルシェ将軍は編成中の諸隊から混成師団(第2師団の歩兵8,000名と軍団騎兵6個中隊・各種砲兵7個中隊)を編成し、残存兵力(12月20日にモネで戦ったフェリー=ピザニ将軍率いる第3師団中心)をヴィエルゾンに残置すると混成師団と共にトゥールを目指しシェール川に沿って西へ行軍し始めました。

 途中、独軍と遭遇せずに進んだプルシェ将軍は26日に本隊がサン=テニャン(=シュル=シェール。ブロアの南35キロ)、右翼警戒支隊がシメリー(同南南東29キロ)に到達します。ここまで独軍から攻撃を受けなかったプルシェ将軍は、一気にブロアまで北上前進して重要なブロアのロアール橋を破壊すれば独軍に一泡吹かせることが出来ると考えるのです。

 将軍はブロアまで進むには、先に独軍の存在がはっきりしている右翼(東)側を制しておく必要があると認識し、翌27日、本隊がコントル(ブロアの南南東20キロ)、支隊がクル=シュヴェルニ(同南東13キロ)へ進みました。ここでも独軍に出会わなかった将軍は翌28日、麾下を4つの縦隊に仕立てると、先ずはブーヴロン川越えてブロアのロアール南岸郊外市街フォーブール=ヴィエンヌを目指し前進するのでした。


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