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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリの苦悶と『ル・マン』
448/534

ル・マン会戦後の追撃戦(1月15日から18日)


☆ サン=ジャン=シュル=エルヴの戦闘(1月15日)


挿絵(By みてみん)

サン=ジャン、サント=シュザンヌ周辺図


 フォン・シュミット将軍は15日の午前9時前後にシャシエを発ち、ラヴァルへの街道を西へ進み始めました。早朝に放った斥候からは仏軍の長大な馬車縦列が諸街道をラヴァル方面へ後退中との報告も入り、監視と追跡を強化するため、槍騎兵第15「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊長のグスタフ・ヘルマン・フォン・アルヴェンスレーヴェン大佐が麾下2個(第1,3)中隊と野戦砲兵第3「ブランデンブルク」連隊騎砲兵第2中隊の1個小隊を引き連れて先発しています。


 午前11時30分頃。このアルヴェンスレーヴェン支隊はサルト県からマイエンヌ県に入りエルヴ川(シレ=ル=ギョームの北西側高地を水源に南西~南方へ流れ、ル・マン南西のサブレ=シュル=サルトでサルト川に注ぐ中級河川)が前方に見えて来た辺りで仏軍と遭遇、激しい銃砲撃を浴びて前進を阻止されます。

 アルヴェンスレーヴェン大佐の相手は旅団クラスの強力な仏軍で、エルヴ対岸のサン=ジャン(=シュル=エルヴ。シャシエの西21キロ)部落とその南北の高地尾根に散兵線を敷き、珍しく数個中隊の野戦砲兵も展開させていました。

 実はこの仏軍は第16軍団の主力で、昨日シュミット支隊と対戦し敗走したバリー将軍師団とドゥプランク将軍師団(残るドゥ・クルタン准将師団は一足先にラヴァルへ向けて行軍中です)でしたが、既に戦闘力は定数の四分の一以下で併せても6,000名前後となっていました。とはいえ、アルヴェンスレーヴェン大佐が率いる僅か300騎前後の騎兵と威力の小さな騎砲2門とは比べようもない規模でした。


※1月15日・仏第16軍団(ジョーレギベリ提督)サン=ジャンの布陣

*左翼(北)

◇第1師団(ドゥプランク将軍)

○マルシェ第31連隊

○護国軍第33「サルト県」連隊

○護国軍第75「メーヌ=エ=ロアール県/ロアール=エ=シェール県」連隊

*右翼(南)

◇第2師団(バリー将軍)

○マルシェ第38連隊

○護国軍第66「マイエンヌ県」連隊(但しこの連隊は定数の三分の一程度になっていました)

○マルシェ第62連隊

○護国軍第22「ドルドーニュ県」連隊

*部落正面

○マルシェ第40連隊

*後方河岸段丘上

○野戦砲兵4個中隊(ライット式4ポンド砲x24門)

○ミトライユーズ砲1個中隊(6門)


 第16軍団を率いるジョーレギベリ提督は、ル・マンからの撤退が自身の請願によって始まったことを大層気にしていました。彼は14日夜のシャンジー将軍宛報告で「(ル・マンでは)闘争心を失わない僅かな将兵を率い例え成功の可能性が低くとも戦わなくてはなりませんでした」と記し、「(ル・マンからの)退却を強要してしまったことをお詫び申し上げます」と記していました。しかし続けて「このような悲惨な状況は本官の39年間に及ぶ軍歴で経験したことはありません」と現状が異常であることも訴えています。

 ジョーレギベリ提督は、この川と河岸段丘が形作る防御適地で独軍の「追撃隊」に一矢報いようとしたのでした。


 この踏み留まって戦う決意をした20倍の仏軍に対し、アルヴェンスレーヴェン大佐は迷うことなく騎砲兵に命じて街道上に砲を展開させ、挑戦の意思を示します。すると間もなく追って来た騎砲兵第3中隊が加わって街道北側の砲列は8門となり、支隊本隊から先着した第78「オストフリーゼン」連隊のF大隊は部落に正対して布陣するのでした。しかし、この時点では仏軍は仕掛けることなく沈黙を守り、両軍はにらみ合いの状態となります。

 その後方ではフォン・シュミット将軍がヴァロン(=シュル=ジェ)とベルネー(=アン=シャンパーニュ。シャシエの北東7.2キロ)に向けて放った斥候たちが帰還し「仏軍の多数部隊が街道筋にバリケードや障害物を置いて道路を封鎖している」と報告しますが、将軍は更に情報を得ようとこの両左右両翼に騎兵数個小隊を派遣しました。

 左翼南側ではヴィレ=アン=シャンパーニュ(サン=ジャンの南東9.2キロ)、バンヌ(ヴィレの西4.6キロ)、トリニエ=アン=シャルニ(サン=ジャンの南東4.3キロ)へ、右翼北側にはサン=シンフェリアン(シャシエの北5.7キロ)、シュミレ(=アン=シャルニ。同北西7.5キロ)、ヌヴィレット(=アン=シャルニ。シュミレの北4.5キロ)、そしてビビエ(現トルセ=ビビエ=アン=シャルニ。ヌヴィレットの西3.7キロ)にそれぞれ騎兵小隊が派遣されます。これら騎兵たちは道中至る所で仏兵を見かけますが、独仏お互い戦闘を避けて大事には至りませんでした。

 この「至る所に敵」という状況報告を受けたシュミット将軍はまず、「右翼北側の敵を掃討する」と決め、第92「ブラウンシュヴァイク公国」連隊のF大隊長、フォン・ミュンヒハウゼン少佐に対し「麾下に槍騎兵と騎砲兵小隊を加え預けるのでサント=シュザンヌ(サン=ジャンの北北東7.5キロ)に向かってこれを占領し、その後エルヴ川の右岸(ここでは西側)をサン=ジャンに向かって前進せよ」と命じました。


※1月15日・ミュンヒハウゼン支隊陣容

○第92連隊・F大隊

○槍騎兵第15連隊・第2,5中隊

○野戦砲兵第3連隊・騎砲兵第2中隊の1個小隊(2門)


 ミュンヒハウゼン少佐は部下と共に直ちに北上し、サント=シュザンヌ南東方の森林地帯で仏軍と遭遇します。少佐らは約1時間に渡ってこの仏軍部隊と戦い、次第に包囲すると撃破に成功しました。ミュンヒハウゼン支隊が逃げる敵の後ろからサント=シュザンヌに進むと既に敵影はなく、部落は簡単に占領されます。少佐らと戦った仏軍は部落と森林に約100名の敗残兵を残しシャンム(サント=シュザンヌの南西3キロ)へ退却していました。しかし既に辺りは夕闇に沈んでおり、ミュンヒハウゼン少佐は無理をせず追撃を中止させるのでした。


 この間、サン=ジャン(=シュル=エルヴ)の戦線にはシュミット将軍が本隊を引き連れて東郊に到着し、直ちに市街への攻撃を命令しました。

 午後12時30分。将軍はまず砲兵によって部落と仏軍陣地への1時間近くに及ぶ連続榴弾砲撃を行い、仏軍の士気が挫けるのを待ちます。十分効果があったと感じた将軍は続いてずっと攻撃命令を待っていた第78連隊のF大隊兵を街道の両側で横列縦隊に並べて部落東正面に向けて進撃させますが、たちまち本街道の両側に展開したミトライユーズと散兵線の小銃による激しい銃砲撃で応戦されて犠牲が続出し、砲撃効果が甘かったことを悟ったシュミット将軍は攻撃前進を中止させるのでした。

 午後3時30分、今度は第91「オルデンブルク公国」連隊の第2大隊(一個と三分の一中隊欠)に命じて仏軍の右翼(南側)へ向けて突進させますが、レピンヌ農場(場所不詳)を中心に展開していた仏ドルドーニュ県の護国軍連隊の一部将兵が着剣し、白兵に持ち込もうと突撃して来ました。しかしオルデンブルク公国兵はこれを冷静に待ち受け、激しい白兵戦の後に仏護国軍兵を圧倒すると逆襲し仏兵を蹴散らすのでした(突撃に参加した仏兵数百名の内、生き残ったのは僅か15名だったと言います)。この大隊中ゴルトシュミット大尉率いる第8中隊は勢いのまま部落中央の教会まで突進し、油断した仏軍連隊長1名と下士官兵約50名を捕虜にする手柄を上げました。しかし、周囲には未だシュミット将軍麾下の数倍する仏軍が居座っており、夕闇迫る中で将軍は攻撃を中止させ、独将兵は部落から引き下がるのです。最後の銃声が止んだ時には午後8時を回っており、市街の攻防戦は5時間以上に渡って続いたのでした。


挿絵(By みてみん)

サン=ジャン=シュル=エルヴの戦い

突進するドルドーニュ県護国軍兵


 結局シュミット支隊はこの日約600名の捕虜を獲得し、将軍は前哨をエルヴ河畔に置いてサント=シュザンヌからトリニエ(=アン=シャルニ)間に宿営するのでした。

 この戦いで仏軍側は「戦闘終了後、市街地には独兵の遺体があちらこちらと散らばり、翌16日の朝になるとさらに多くの独兵が部落周辺に斃れているのが確認出来た。独軍側の死傷者は約3,000名」と記していますが、独軍の公式戦史はこれを真向から否定し、「独軍の損害は実際士官1名、下士官兵36名(戦死12名・負傷24名・捕虜士官斥侯1名)に過ぎず、そもそもシュミット支隊の歩兵はおよそ2,000名に過ぎなかった」としています。仏軍側の損害は捕虜600名以外不詳(シャンジー将軍の手記では「些細」となっていますが信じられません)ですが、戦闘の最中、前線で陣頭指揮に立っていたジョーレギベリ提督は至近に着弾した榴弾の爆発により乗馬を倒されて軽傷を負い、近くにいた参謀長ベロー大佐が重傷を負っています。


挿絵(By みてみん)

乗馬を倒されるジョーレギベリ提督


 この日、シュミット支隊の増援に向かった独第10軍団はロンニュ(サン=ジャンからは東へ23キロ)まで前進し周辺で宿営しています。


☆ シレ=ル=ギョームの戦闘(1月15日)


挿絵(By みてみん)

コンリーからシレ=ル=ギョーム周辺図


 14日午後にコンリーへ至ったペーター・フリードリヒ・ルートヴィヒ・レーマン大佐率いる支隊はこの15日、第78連隊の第5,7中隊と竜騎兵半個中隊を警備と戦場整理のため残留させるとエヴロン(コンリーの西29キロ)目指して午前9時にコンリーを発ちます。しかしその前衛は早朝以来の濃霧の中、ル・ポワン・ドゥ・ジュール(農家。コンリーの北西3.3キロ。現存します)付近の街道上で仏軍後衛と衝突しました。この戦闘は短時間で終わり、仏軍は無理をせずにシレ=ル=ギョーム(コンリーの北西10.8キロ)へ逃走し、この市街周辺に展開した仏第21軍団の第3師団(ヴィルヌーヴ少将指揮)に吸収されました。

 レーマン大佐は仏大軍が先に構えているとの斥侯報告にも怯まず前進し、先行する第91連隊のF大隊と野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊・軽砲第2中隊の2個小隊はシレ=ル=ギョームに接近すると、砲兵は氷雪のために街道上でしか砲を敷くことが出来なかったため、砲撃拠点を探して街道左翼側へ移動し、最終的にフォルタポール(農家。シレ=ル=ギョームの南930m。現存せず、跡地入口に十字架があります)付近に2門、その後方高地に2門前後して砲を敷きました。この砲兵援護の下でオルデンブルク・フュージリア兵は市街地に向けて前進しましたが地形は市街地に向かって緩斜面となっており攻撃側に不利でした。ここで猛銃砲撃を受けた独軍歩兵は大きな損害を受け、結局市街地南面の小川を越えることが出来ずに攻撃は失敗に帰します。それでも強気のレーマン大佐は同連隊残りの5個中隊強と第78連隊の3個中隊を到着次第に前線へ投入し、第91連隊第1,4中隊を市街正面へ、残り(第91連隊の第2,3,6中隊と第5中隊の三分の一、第78連隊の第1,2,6中隊)を仏軍部隊の存在が確認されたクリッセ(シレ=ル=ギョームの東南東5.3キロ)を警戒し街道の右翼側に展開させるのでした。残った2個中隊、第78連隊の第3中隊が砲兵援護に、同連隊第4中隊が中央のフォルタポール農場に追加の増援として進んだため予備は無くなり、追ってコンリーに到着した騎兵第15旅団(竜騎兵第2連隊と同第3連隊の第1中隊を別任務で欠きます)はそのままコンリー兵営と左翼(西)側警戒に当たります。しかし数倍の敵を前にレーマン支隊は市街からの激しい銃撃に晒され、一部では逆襲されて捕虜も出し、いたずらに犠牲を増やし続けてしまいました。

 結局レーマン大佐は午後5時前後に戦闘中止を命じ、仏軍が自ら攻撃前進する気がないことを確認すると、一気にコンリーまで兵を退かせるのでした。

 レーマン支隊はこの夜、前哨をクランヌ部落の北西街道沿いに展開させるとコンリー部落に宿営しました。支隊はこの日、戦死18名・負傷58名・行方不明(捕虜)31名という目立つ損害を受けています。


挿絵(By みてみん)

シレ=ル=ギョーム 城塞(20世紀初頭)


☆ アランソンの戦闘(1月15日)


挿絵(By みてみん)

アランソン サルト河岸


 オルヌ県都アランソンに「ル・マンが陥落した」とのニュースが届いたのは14日の午前中でした。この日からアランソンには逃亡兵や退却して来た将兵らがやって来て、ある者は市内に留まり、ある者は市内を通過して去って行きます。オルヌ県知事と防衛司令官のレイモン・コンテ・ドゥ・マルゼルブ将軍は駐屯していたオルヌ県とマイエンヌ県の臨時護国軍部隊約4,000名とリポウスキー大佐(実際は中佐です)率いる2,000名余りの義勇兵に警戒態勢を取らせました。実はシャンジー将軍に知らされていた「カランタンからやって来た第19軍団の2個師団」は未だアランソンに到着しておらず、この3万人の将兵はこの時点でまだ途上にあったのでした。

 ボルドー派遣部のフレシネはアランソン市に対して事前に「(フランスの)国益のためにアランソンが防衛体制を最大限に高めていることを望む」として「防衛準備は次の日曜日(1月15日)午前0時までに完了し、敵の襲来によって街の防衛線が突破された場合はあらゆる手段を用いて敵の前進を阻むこと」を命じます。また「町の防衛が破綻した場合のみ、サルト架橋と街道阻塞の破壊を許す」としていました。


挿絵(By みてみん)

フレシネ(1874年の肖像)


 一方、独メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世は14日深夜、15日の命令を起草し麾下に配します。それによれば、「第22師団は一支隊をブール=ル=ロワ(ボーモン=シュル=サルトの北13.2キロ)を経て前進させ、本隊は本街道(現・国道D338号線)をアランソンに向かって前進せよ。第17師団は第22師団に続いて一支隊をフレネイ(=シュル=サルト。同北西10キロ)からアセ=ル=ボアヌ(フレネイの北北西5キロ)へ分派せよ」とのことでした。同じく独騎兵第4師団に対しては「1個旅団をアンサンヌ(ボーモン=シュル=サルトの北北東16.2キロ)経由でアランソンへ送れ」、独騎兵第12旅団には「マメールを発ってアランソンへ直行せよ」と命じたのです。


 15日は底冷えしこの一週間と同じく濃霧で明けます。全ての街道は路面が凍結し、その滑る路上を仏軍諸隊が持ち場へ急ぎました。


挿絵(By みてみん)

アランソン市街のリポウスキー中佐


※1月15日のアランソン防衛仏軍諸隊

○パリ市の義勇兵諸中隊(10月来リポウスキー中佐が率いて来た原隊)

○アランソン市の義勇兵中隊(ユシェ大尉)

○ピレネー山地の義勇兵中隊(オースターレ少佐)

○オルヌ県の護国軍連隊(ローラン大佐/タルディ大佐)

○マイエンヌ県の護国軍連隊(ブルネル大佐)

○アフリカ猟騎兵1個中隊

○4ポンド山砲14門(砲兵100名と若干の護衛/砲兵の数からして同時使用が可能だったものは8門とされます)


挿絵(By みてみん)

アランソン周辺図


 独第22師団の前衛*は15日の午前9時にボーモン=シュル=サルトの北、ピアセから前進を開始、昼直前にベトン(ボーモンの北15.2キロ)を越えるとその先ラ・フイエール(ベトンの北2.4キロ)で仏軍と遭遇します。

 この部隊はピアセの西にある鉄道橋の破壊に向かって失敗し戻って来た仏軍前哨小隊で、独軍に対し果敢に銃撃を浴びせました。前衛を率いる第44旅団長代理のオットー・フォン・フェルスター大佐は、麾下重砲中隊に榴弾砲撃を命じ、数発の砲撃によって仏軍はアランソン方面へ退却して行きました。


※1月15日・独第22師団前衛支隊

○第83「ヘッセン=カッセル第3」連隊

○驃騎兵第13「ヘッセン=カッセル第1」連隊・第2,3中隊

○野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊・重砲第6中隊

○第11軍団野戦工兵第3中隊の半個


 フェルスター大佐支隊は仏前哨の抵抗が失せると前進を再開しますが、アルソネ(現在はアランソンの南3.7キロの住宅街ですが当時はその東870mにあるル・ヴュー・ブール集落が「アルソネ」と呼ばれていました)を過ぎた所でル・グラン・クードレイ~サン=ジル間(彼我の距離は600mほど)に敷かれた仏軍前哨線(街道の西にピレネー山地の義勇兵中隊とオルヌ県の護国軍連隊・東にリポウスキー中佐の義勇兵諸隊)と衝突し、激しい戦闘が始まります。フェルスター大佐はラ・フイエールの前方、街道の右側に展開させていた重砲中隊によって仏軍前線を砲撃させますが、オゥ・エクレア農場(現在のアルソネ北1キロ付近。ワイナリーとして現存します)付近で砲列を敷いていた仏軍砲兵は直ちに応じて対抗砲撃を開始するのでした。

 この時、独第83連隊の先頭にあったF大隊は本街道の両側に展開して仏軍前線と銃撃を交わし、後続する同連隊の第1大隊はアルソネを占拠します。そこへ午後3時30分、右翼のブール=ル=ロワから進んで来た支隊*が銃砲声を聞き付けると街道を外れ雪を掻き分け苦労しながら戦場に現れました。


※1月15日・独第22師団右翼支隊

第95「チューリンゲン第6」連隊長代理/ヴィルヘルム・フェルディナント・イーノ・フォン・コンリング少佐指揮

○第95連隊・第1大隊

○驃騎兵第13連隊・第4中隊


 師団本隊の諸中隊も相前後して到着すると師団長フォン・ヴィッティヒ中将はまず、到着したばかりの軽砲第2中隊を前衛砲兵・重砲第6中隊の砲列横に並ばせて砲を敷かせ、続いて到着した重砲第4中隊をサン=ブレーズ(現在のアルソネ住宅街西側にあった農家。現存していても住宅になっているためどの家屋か特定出来ません)付近に進めて砲を敷かせます。この重砲第4中隊はアランソン市街から増援としてラ・シャペル(農場。サン=ブレーズ農家の西1.7キロ付近。現存します)に向かっていたマイエンヌ県護国軍連隊の行軍列を狙って砲撃を行い、この仏将兵を混乱に陥れ前進を阻止しました。

 また、リポウスキー中佐の義勇兵たちはオゥ・エクレア農場から東側に戦線を維持していましたが、独軍の砲兵はこの農場とその後方に展開する仏軍山砲の砲列にも正確な榴弾砲撃を行ったため、義勇兵たちは農場からその北側の森林に逃げ込んで難を避け、それでも逃走せずにこの森を盾にして銃撃を繰り返したのです。同じく独軍の榴弾はアランソンのサルト南岸郊外市街・モンソール地区にも落ちて民家を破壊しますが、武装して待機していた国民衛兵と市民たちは婦女子を地下のワインセラーに避難させて持ち場を死守したのでした。


挿絵(By みてみん)

アランソンの戦い 前線のリポウスキー中佐


 こうして激しい抵抗に遭遇した独軍は、時折逆襲に出る仏軍のため貴重な砲兵にも少なくない損害が発生し、業を煮やしたフォン・ヴィッティヒ将軍は午後4時に集合した第83連隊に命じて仏軍前線へ総攻撃を掛けましたが、戦線を崩壊させるまでには至りませんでした。

 夕方に至るまで市街に突入することが出来なかったヴィッティヒ将軍はフリードリヒ・フランツ2世へ伝令を送り「市街への突入は翌日に延期したい」と懇願するのです。

 結局独第22師団はこの日の夜ベトンとその周辺まで退いて宿営しました。また、第17師団は命令通り一支隊をフレネイ(=シュル=サルト)に送って左翼(西側)を警戒させ、本隊はアセ=ル=ボアヌ(ベトンの南西8.3キロ)からルウセ=フォンティーヌ(同南東6キロ)を結んだ線上に進出し宿営に入り、師団麾下の騎兵第17旅団はバロンに進みました。

 アランソンの戦闘による独軍損害は戦死6名、負傷19名となっています。

 この日、フリードリヒ・フランツ2世と第13軍団本営はボーモン(=シュル=サルト)に前進しました。


挿絵(By みてみん)

アランソン ル・アーブルの義勇兵


 一方、大公の命令で独騎兵第4師団から分派された騎兵第10旅団はアンサンヌ(アランソンからは南東へ9.4キロ)を占領するとアランソンに向けて前進し午後3時、ラ・ショッセ(アランソンの南東3.2キロ)まで進みます。するとアランソン市街から仏軍がル・マンへの鉄道線路を越えてやって来たため、旅団に隷属していた第32連隊の第1大隊が部落に入って銃撃を開始、野戦砲兵第11連隊の騎砲兵第2中隊が仏軍縦隊に砲撃を仕掛けると仏軍は市街地へ撤退して行きました。

 騎兵第10旅団は夕暮れ時にアンサンヌとルヴィニー(アンサンヌの南南東3.7キロ)まで後退して宿営に入り、その前哨はラ・ショッセ付近に残留してアランソン市街を警戒するのでした。


 フォン・ブレドウ少将率いる独騎兵第12旅団はアランソンヘの進撃を命じられたものの、マメールの北方に潜んでいると思われた仏義勇兵や臨時護国軍の遊撃隊が気になったためにマメールへ本隊を残留させ、アランソンには旅団に隷属していた歩兵大隊と騎兵3個中隊とを中核とした支隊*を編成し、将軍自ら率いて出立するのでした。


※1月15日・独騎兵第12旅団支隊

○第94「チューリンゲン第5」連隊・第2大隊

○胸甲騎兵第7「マグデブルク」連隊・第3中隊

○槍騎兵第16「アルトマルク」連隊・集成中隊(連隊中で応募した志願兵と思われます)

○竜騎兵第13「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・第5中隊

○野戦砲兵第10連隊・騎砲兵第2中隊


 ブレドウ将軍支隊はアランソンヘの途上、サン=レミ=デュ=ヴァル(マメールの西8.5キロ)とヌフシャテル=アン=ソスノワ(サン=レミ=デュ=ヴァルの北3.2キロ)付近で義勇兵の集団に遭遇してこれを騎砲兵が放つ数発の榴弾で蹴散らしました。その後、午後3時過ぎにサン=パテ(現・サン=パテルヌ。アランソンの南東2.7キロ)の東方で仏軍から激しい銃砲撃を受け、その後2時間に渡る銃撃戦を行う事となります。日没直前の午後5時となって第94連隊の第2大隊は仏軍前衛部隊を撃破してサン=パテ部落とレ・エヴァン(農家。サン=パテの南東郊外。現存します)、そして西側にある鉄道線路までを占領し夜を迎えたのでした。


 独第二軍司令官、フリードリヒ・カール親王元帥は15日の午後、伝令報告によってシレ=ル=ギョーム周辺におけるレーマン支隊の苦戦を知り、ル・マン北方郊外で休養していた第9軍団と騎兵第2師団に対し「翌16日にレーマン大佐を援助するためシレ=ル=ギョームへ前進せよ」と命じます。ところが第9軍団長のフォン・マンシュタイン歩兵大将はこの命令を受ける前、独断専行して先遣隊*をコンリーまで送り出していたのでした。


※1月15日午前にコンリーへ向けて出立した第9軍団先遣隊

第85「ホルシュタイン」連隊長/男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン大佐指揮

○第85連隊・第1大隊

○驃騎兵第16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・第1中隊


☆ 1月16日


 1月16日早朝。独第二軍の前線諸隊はそれぞれ騎兵斥侯を出して仏軍の動向を探りますが、斥侯たちは前日あれだけ徹底して抗戦していた仏軍がサン=ジャン=シュル=エルヴ、シレ=ル=ギョーム、そしてアランソンの各前哨陣地から姿を消しているのを発見するのです。


 斥侯報告を聞いて空かさず宿営地からサン=ジャンへ向かったフォン・シュミット将軍支隊は、騎兵を先行させて本街道をラヴァルへ向かって逃走する仏第16軍団を追い、ヴェージュ(サン=ジャンの西6.7キロ)までの間で仏落伍兵数千名を捕虜にするのでした。その後シュミット支隊はスルジェ=シュル=ウエット(ヴェージュの西北西7.2キロ)で初めて仏軍の抵抗に遭い、この地で停止・対陣するのでした。

 シュミット将軍を追う独第10軍団本隊はこの日、サン=ドニ=ドルク(サン=ジャンの東8.5キロ)まで前進します。


 同じく敵(仏第21軍団第3師団)の撤退を聞いたレーマン大佐は、支隊を引き連れてシレ=ル=ギョームに入城し占領しました。市街と周辺部には多くの落伍兵がおり、彼らは全て捕虜として後方へ送られます。また仏軍の撤退方向を知るために先行してサン=ピエール=シュル=オルト(シレ=ル=ギョームの北西6.5キロ)とルウセ=ヴァセ(同南西6キロ)へ至った斥侯は、「仏軍は西・マイエンヌ方面に向かって後退中」との報告を上げたのでした。

 レーマン支隊を助けろ、と命令されて前進した独騎兵第2師団は、シレ=ル=ギョームが占領され仏軍が消えたことを知らされるとヴェルニ(シレ=ル=ギョームの東11キロ)で、同じく第9軍団はコンリーとその周辺部落で停止し宿営に入りました。


 この16日、独第13軍団はアランソンに入城します。消えた仏軍を捜索した偵察隊は戦意を喪失し彷徨う敗残兵の集団に遭遇し捕虜としただけで戦闘に至ることはありませんでした。


 こうして仏第2ロアール軍が崩壊状態となったことを確認したカール王子でしたが、シャンジー将軍をこれ以上追撃することが難しくなって来ました。何故ならばこの16日昼前後にベルサイユの独大本営から前日発令の命令が届いたからで、それには「統帥部に達した情報によれば仏北部軍は再び攻勢を取るための動きを見せており、これに対するフォン・マントイフェル騎兵大将の独第一軍はソンム河畔に集合して展開し迎え撃つ準備を成す必要がある。このため、現在セーヌ下流にある部隊(独第1軍団)も第一軍本隊に合流させる必要が生じたため、第二軍所属の第13軍団を至急ルーアン方面へ北上させるよう命ずる」とのことだったのです。

 この命令が実施されると独第二軍は兵力のおよそ三分の一を失うことになります。カール王子はシャンジー軍をこれ以上追撃することは不可能と断じ、「コンリーとシュミット将軍が至ったヴェージュ川(ヴェージュの北方を水源に南へ流れ、エルヴ川と同じくサブレ=シュル=サルトでサルト川に注ぐ支流)の線で追撃を中止する」と決するのでした。

 このため、第9と第10の両軍団本営にはカール王子本営から追撃中止の命令が送付され、第9軍団は別途コンリー兵営の整理と破壊が命じられます。また騎兵第4師団には「軍の右翼(北側)となってサルト左岸に移動しアランソンに駐屯せよ」との命令が発せられたのでした。


挿絵(By みてみん)

アランソン城塞


 同じ16日夜。シャンジー将軍は第16軍団の残存兵力と共にラヴァルへ到着すると、マイエンヌ川(アランソンの西・プレ=アン=バイユの東郊外を水源にマイエンヌ県とオルヌ県との境を成してマイエンヌに至り、南へ流れてアンジェでロアール川に注ぐ支流)の線を防衛するため命令を発しました。

 それによれば、「第17軍団はマイエンヌ川の右岸(ここでは西)に至り、サン=ジェルマン=ル=フイユー(ラヴァルの北7.6キロ)に主力を展開させ、サン=ジャン=シュル=マイエンヌ(サン=ジェルマン=ル=フイユーの東2.7キロ)とモンギルー(同北北東10.6キロ)間に前哨を置いて諸橋梁を守れ。同軍団の騎兵師団はアンドゥイエ(同北4.5キロ)に駐屯し、第21軍団の右翼と連絡せよ。第21軍団もマイエンヌ川右岸に渡って第1、2師団をアンドゥイエの北からマイエンヌ西郊外でエルネ街道(現・国道N12号線)の北側までに展開させ、グジェアール将軍の第4師団は最左翼となってサン=フランボー=ドゥ=プリエール(マイエンヌの北北東5.8キロ)に至れ。第16軍団とその騎兵師団はラヴァルからシャトー=ゴンティエ(ラヴァルの南27.5キロ)間に展開し、この間のマイエンヌ川に架かる橋は全て落とせ」とのことでした。


☆ 1月17日


 独第13軍団が再び配下から離れることとなったため、独第二軍本営は17日午前中、シレ=ル=ギョームにあったレーマン支隊を原隊の第10軍団に帰還させる命令を発し、シレ=ル=ギョームには入れ替わりに第9軍団の前衛が入って駐屯を開始します。同じくシュミット支隊は全ての歩兵中隊と一部疲弊した砲兵とを本隊に戻して交代兵を受け取りました。


※1月17日・シュミット支隊陣容 §印は本隊からの交代兵力 <>は原隊

○§第56「ヴェストファーレン第7」連隊・第1大隊<第39旅団>

○§同連隊・F大隊<第39旅団>

○§第92「ブラウンシュヴァイク公国」連隊・第1大隊<第40旅団>

○§同連隊・第2大隊<第40旅団>

○竜騎兵第2「ブランデンブルク第1」連隊・第1,2,3中隊<騎兵第15旅団>

○竜騎兵第6「マグデブルク」連隊<騎兵第14旅団>

○槍騎兵第15「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊<騎兵第14旅団>

○野戦砲兵第3連隊・騎砲兵第2中隊の2個小隊(4門)<騎兵第6師団>

○§野戦砲兵第10連隊・騎砲兵第1中隊<第10軍団砲兵>

※本隊へ復帰した諸隊

○第56「ヴェストファーレン第7」連隊・第6,7,8中隊<第39旅団>

○第78「オストフリーゼン」連隊・F大隊<第37旅団>

○第91「オルデンブルク公国」連隊・第7,8中隊と第5中隊の三分の二(4個小隊)<第37旅団>

○第92「ブラウンシュヴァイク公国」連隊・F大隊<第40旅団>

○野戦砲兵第10連隊・騎砲兵第3中隊<第10軍団砲兵>

○第10軍団野戦工兵・第2中隊の数個小隊<第20師団>


 シュミット将軍はこの時点で追撃中止命令を受け取っていなかった軍団長のフォン・フォークツ=レッツ将軍から、「交代部隊が到着するのを待った後、出来る限り戦闘を避けつつ敵を追跡するよう」命じられます。また、第20師団はシュミット支隊を後援するため一支隊をヴォージュ付近まで送るよう命じられるのでした。


 この日シュミット将軍は行軍中支障なく前進しジュアンヌ川(アランソンの西側高地を水源にするディナール川やポワレ川などの諸河川がエヴロンの北でジュアンヌ川として一本となりラヴァルの南方でマイエンヌ川に注ぐ支流)の線に達します。ここでジュアンヌ川の上流に向けて放った斥侯騎兵から「仏軍の目立つ縦隊がエヴロン(サン=ジャン=シュル=エルヴの北13.6キロ)からモンシュー(ラヴァルの北東17.6キロ)に向けて行軍中」との至急報が入り、ヘルマン・フォン・アルヴェンスレーヴェン大佐は再び強力な支隊*を率い、敵縦隊の機先を制するためにアルジャントレ(同東8.3キロ)を経て進み、ラヴァルへの街道(現・国道D32号線)を封鎖して敵縦隊(第21軍団の第1か第2師団と思われます)のラヴァル接近阻止に成功しました。この仏軍は分裂し片やサン=セヌレ(モンシューの西南西3.4キロ)で他の縦隊に吸収されて西方マイエンヌ川方面へ去り、もう半分はシャロン=デュ=メーヌ(同北西7.3キロ)へ進み難を避けたのです。


※1月17日・アルヴェンスレーヴェン支隊陣容 

○第92連隊・第1、2大隊

○槍騎兵第15連隊・第1,3,4中隊

○野戦砲兵第3連隊・騎砲兵第2中隊の2個小隊


 アルヴェンスレーヴェン大佐らはそのままラヴァルへ接近しましたが、市街東郊には諸兵科連合の目立つ仏軍部隊(ドゥ・クルタン准将率いる第16軍団の第3師団)があり、戦闘を避けろとの命令を遵守した大佐らはアルジャントレへ引き返しこの日はこの部落で宿営しました。また、シュミット将軍が南方に派遣した竜騎兵第6連隊も大きな仏軍部隊(ドゥプランク少将率いる第16軍団の第1師団)と遭遇し激しい銃撃を浴びて撤退します。シュミット将軍は本隊をジュアンヌ川の線へ帰還させて本街道周辺に宿営しました。


☆ 第2ロアール軍最後の戦い/サン=メレーヌの戦闘(1月18日)


挿絵(By みてみん)

ラヴァル市(19世紀)


 17日の夜。シュミット将軍はフォン・フォークツ=レッツ将軍本営経由でカール王子本営の追撃中止命令を受領し、翌18日にヴェージュまで後退しラヴァル方面には騎兵斥侯を送って監視するだけに留めるよう差配しました。

 ところが深夜、前哨から報告があり、それによれば「敵は前哨陣地を放棄して撤退し、マイエンヌ川に架かる橋を次々に破壊し落としている」とのことだったのです。これによりシュミット将軍はジュアンヌ川の線からヴェージュへ退く前に「ラヴァルで敵がどのような様子にあるのか偵察する」と決し、支隊から2つの部隊を出撃させ、ひとつは本街道上を、もうひとつはアルジャントレから共にラヴァルへ向けて行軍するよう命じたのです。


※1月18日のシュミット支隊

◇本街道進撃隊(フォン・シュミット少将直率)

○第56連隊・第1大隊

○竜騎兵第2連隊・第1,3中隊

◇アルジャントレからの進撃隊(フォン・アルヴェンスレーヴェン大佐)

○第92連隊・第1大隊

○槍騎兵第15連隊・第3,4中隊

○野戦砲兵第3連隊・騎砲兵第2中隊の1個小隊(2門)

※残りはジュアンヌ河畔に残留しました。


 この2個隊は早朝宿営地から出立しボンシャン(=レ=ラヴァル。ラヴァルの東5.5キロ)付近で合流しましたが、その先2キロほど進んだサン=メレーヌ(当時は数軒の家屋。現在はラヴァル駅の東側鉄道の分岐付近となります)で仏軍の強力な前哨に衝突しました。

 この仏軍は第16軍団のドゥ・クルタン師団配下、護国軍第88「アンドレ=エ=ロアール県(県都トゥール)」連隊でした。

 この連隊は元々ジェローム・カモ将軍率いる「トゥール地区機動兵団」(通称カモ師団)に属してボージョンシー=クラヴァンの戦いやヴァンドームの戦いに参戦し、敗退した原隊が解散したためクルタン師団に吸収されていたもので、ル・マンの戦いでは戦わずしてこのラヴァルまで撤退して来ていました。この時連隊を指揮していたのはティエリー大佐で、クルタン師団の第2旅団長です。大佐はこのラヴァルの東口に当たる重要な防衛拠点を任され4ポンド野砲1個中隊と数門のミトライユーズ砲を配下に置いており、鉄道線と本街道の間に展開させていました。

 午前9時。ティエリー大佐は数騎の独槍騎兵が前哨線前に現れ、仏兵の銃撃で逃げ去るのを見ます。この偵察斥侯を見て独軍の侵攻があることを感じた大佐は麾下に戦闘待機を命じて独軍を待ちました。すると午前11時30分、独軍の諸兵科連合の部隊が現れ、銃撃戦が始まったのです。


 独側のシュミット将軍は敵のミトライユーズと野砲の砲撃を受けても構わず歩兵を前進させて仏の護国軍将兵に圧を掛け始めます。仏ティエリー大佐も独軍の左翼側に隙を見て攻撃しますが、これは独軍が跳ね返しました。2時間に渡る戦いは自力に優る独軍が次第に仏軍を追い詰め、最終的にラヴァルの市街地へ逃走させて終了しますが、市街地には独側に数倍する仏軍がおり、また鉄道線路北方の高地には仏軍の大軍(第16軍団の残存主力)が待機しているのが望見されるのです。ここでシュミット将軍は「本日の目的は偵察であり、これ以上の戦闘は不要」として後退命令を下しました。

 この日、シュミット支隊はおよそ100名の捕虜を獲るとヴェージュまで後退しました。その後シュミット将軍はラ・シャペル=レンスワン(ヴェージュの北北西7.3キロ)、スルジェ=シュル=ウエット(同西7.2キロ)、そしてバスジェ(同南西8.2キロ)に監視哨を設けて前哨を置くとヴェージュ川沿いに駐屯し始めるのでした。

 この18日、仏軍はサン=メレーヌで士官2名、下士官兵29名を失い、独シュミット支隊は戦死3名、負傷3名と僅かな損害でした。


 シュミット支隊は翌1月19日に第56連隊のF大隊と第92連隊の第1、2大隊を第20師団へ帰隊させ、代わりに第79「ハノーファー第3」連隊を受け入れます。また、このハノーファー兵と共にやって来た元々の連隊長で第39旅団の代理指揮官ハインリッヒ・シモン・エデュワルド・フォン・ヴァレンティーニ大佐が歩兵全体の指揮(併せて歩兵4個大隊)を執ることとなってシュミット将軍の労を軽減しました。

 一方、この18日には第10軍団本隊から派遣された軍団野戦工兵第1中隊の一部隊がサント=シュザンヌ(サン=ジャン=シュル=エルヴの北北東7.5キロ)を経て北上し、ヴオレ(サント=シュザンヌの北東6.2キロ)付近でル・マン~ラヴァル鉄道線を破壊し使用不能としました。


 この日以降、月末の休戦まで小競り合いはあるものの(後述します)仏シャンジー将軍麾下の部隊が積極的攻勢に出ることはなく、独軍も監視主体に努めています。

 カール王子は事実上仏第2ロアール軍の無力化に成功したのでした。


挿絵(By みてみん)

第2ロアール軍の敗退



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