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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリの苦悶と『ル・マン』
446/534

ル・マンの戦い(終)/当然の結末と意外な経緯


☆ 1月12日・仏第2ロアール軍


 バンジャマン・ジョーレギベリ提督の「絶望的な報告と撤退の申し出」から始まった仏第2ロアール軍の「ル・マン放棄」は12日午前8時に始まります。

 アルフレ・シャンジー将軍はアランソン(ル・マンの北48キロ)~プレ=アン=パイユ(アランソンの西21.5キロ)間への後退について各隊に具体的な後退路を示しますが、これはアランソンにノルマンディ地方で編成された仏第19軍団の2個師団が編制地カランタン(アランソンの北西138キロ)から前進して来ているとの情報によるものでした。


 最左翼(ル・マン北東側)でメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世配下の独第13軍団や騎兵第4師団と戦った第21軍団中、ヴィルヌーヴ将軍率いる(軍団第3)師団は既述通りシャントルーの南側ラ・クロワ農場の防衛線で撃破され、バロン(サヴィニェ=レヴックの北12キロ)に向かってほぼ潰走しますが、夜間、同部落で何とか踏み留まり集合しました。しかしその員数は師団単位の充足数を大きく割り込み、まともに戦える兵員は数えるほどまで低下していたのです。

 ブルターニュ兵団を含む軍団残りの諸隊も状況は似たり寄ったりで、その殆どは夜間から翌13日早朝に掛けて独軍戦線の面前を抜けて北上し、ラ・ギエルシュ(サヴィニエ=レヴックの北西8.8キロ)~スイエ(ラ・ギエルシュ対岸)間とモンビゾ(その北3.6キロ)の橋梁でサルトを渡河しました。


 ル・マン東方から南方に掛けては仏軍主力となっていた第16と17軍団が見る影もなく敗残兵の群となって市街を通過し、または迂回して去って行きました。


挿絵(By みてみん)

イヴレ=レヴックの教会


 イヴレ=レヴックでは第21軍団の後退を援護するため、パリ少将率いる第17軍団第2師団が濃霧の中居残りますが、幸いにも午前中に独軍の攻勢はなく、師団は昼近く密かに部落と強力な陣地を放棄してサルジェ=ル・マンを経由しサルト川方面(北)へ去ります。独第3軍団と第9軍団の前進阻止に活躍したイヴレ=レヴック周辺の砲兵たちはル・マン市街へ待避しますが、市街は濃霧が晴れるまでに独軍との距離を置きたい将兵の集団でごった返しており、砲兵たちは砲車の脇でいらいらしながら待機を続け、時間だけが過ぎて行くのでした。

 伯爵アルフォンス・ドゥ・ジュフロワ=ダバン准将が率いた第17軍団第3師団は午前8時の総軍退却命令を受け、素早く前線を離脱し市街地が混乱する前に通過出来ました。彼らは問題なくサルトを渡河するとこの日はコンリー兵営とその周辺で宿営するのでした。

 対照的にシャルル・ベルナール・ドゥ・ヴェッセ・ドゥ・ロクブリューヌ海軍少将率いる第17軍団第1師団は撤退命令を受領するのが遅れ、将軍らはシャンジー将軍が前夜命じた攻撃続行を守り、最後の力を振り絞って独第3軍団の重要拠点となっていたル・テルトルを襲い、一部はラ・フェルメの防衛線に頼って独第20師団の軍勢らと戦いますが、午前11時頃に撤退命令の存在を知り、諸団隊は急速に市街地へ退いて行きました。その際にルオダンから北上して来た独第20師団将兵に「痛めつけられる」こととなります。敗残兵の群となってしまい既に師団とは呼べなくなったロクブリューヌ集団は何とか市街から脱出してサルトを渡り、夜半にコンリー兵営手前のドンフロン(=アン=シャンパーニュ。コンリーの南東3.7キロ)へたどり着くのです。

 独軍のル・マン侵攻を妨げていた諸隊が撤退するのに使った重要なポンリューの大橋周辺にはジョセフ・マリエ・ドゥ・ブーエデク准将が率いていた臨時集成の「混成師団」とコンリー兵営補充兵師団の一部が後衛として構えていました。橋梁には爆薬が仕掛けられ、いつでも爆破出来る状態にあります。

 ユイヌ左岸(南)にあった諸隊が殆ど市街へ入った後、ブーエデク将軍は橋の南詰を守るためマルシェ第36連隊を中心とするジョベー大佐率いる一支隊(第16軍団第2師団の一部?)とミトライユーズ砲の半個中隊(3門)を残し、麾下を市街対岸へ進めますがそこへ準備のなった独第10軍団と第3軍団の一部(第10旅団)が襲い掛かります。直ぐ南側のラ・テュイルリー付近からクルップ6ポンド野砲の直射を受けたミトライユーズ砲兵は反撃も出来ずに大急ぎで橋を渡って市街へ消え、迫り来る独軍を前に闘争心の欠片も失せてしまった仏将兵は殆ど抵抗せず一部は逃走し一部は進んで捕虜になります。

 これによりブーエデク将軍は大橋の爆破を命じ工兵隊のレグロス大尉が橋の爆破を行いました。しかし急ぎ準備され爆薬の仕掛け方にも数量にも問題があったこの爆破では大橋を崩壊させることが出来ず、爆破を行った工兵数人とレグロス大尉も破片などを浴びて重傷を負ってしまったのでした。


挿絵(By みてみん)

仏工兵によって爆破されるポンリューのユイヌ架橋


 その後の市街戦では仏軍後衛が出来るだけの糧食と装備を馬車に詰め込んで脱出しようとしていたところを発見されて襲撃され、車輌の多くが鹵獲され護衛の兵士たちも捕虜とされてしまい、また市街では次々に家屋が奪われ、隠れ潜んでいた兵士たちが狩り出されて行くのでした。

 アール広場の高名なカフェ「リュニヴェール(宇宙)」には降伏を厭う将兵が籠って激しく抵抗し、手を焼いた独軍が野砲を持ち込んで至近距離から榴弾を撃ち込んだことでようやく投降しました。

 市街戦が終了した時、既に日付が変わろうとしていました。市街に居残っていた比較的少数による後衛の犠牲によってシャンジー将軍ら主力は何とか独軍の手から逃れることが出来たのでした。


挿絵(By みてみん)

ル・マンのカフェ「リュニヴェール」(右側。20世紀初頭)


☆ ル・マン会戦……当然の結末と意外な経緯


 独公式戦史やモルトケの伝記、そして仏側ルセ中佐の戦記によれば、1月6日の「ラ・フルシュの戦闘」「アゼ=マザンジェの戦闘」「サン=タマンの戦闘」から12日の「ル・マン陥落」までの1週間で独第二軍は約200名の士官と3,200名の下士官兵を失い、仏第2ロアール軍は総計およそ26,200名の損害、その内約2万名が捕虜となり、野砲17門と膨大な数の武器、軍旗2旒が独軍によって鹵獲されました。表面上は独の圧勝ですが、ここまで記して来たようにこれは正しく「薄氷の勝利」でした。

 独軍は過酷な条件下での連続した戦いで仏軍を圧倒し続けましたが、戦負傷死以外にも多くの兵力を疾病で奪われ、疲弊し尽くしました。この犠牲の上でカール王子が獲たのが仏第2ロアール軍の敗退だったのです。


 独軍の犠牲の多くは第3軍団にありました。この首都ベルリンを取り巻くブランデンブルク州を主な策源地とする軍団はル・マンを巡る戦いで主役を演じるだけでなく、一人何役もの難しい「役」をこなしたのでした。

 第3軍団では13日の夜明けをル・マン市内やシャンジェ周辺で迎えることが出来た本来の中隊長は存在せず、その多くは後方の野戦病院で痛みに耐えるか熱にうなされ、運の悪い者は死の間際におり、少なくない数の士官が凍った大地の下に葬られるか、葬られるのを待っている状況でした。一握りの中尉や大尉が大隊や連隊の指揮を執っており、その大隊にしても本来の充足数である800から1,000名を大幅に下回り、小隊程度の員数となってしまったがため一時的に「欠番」となった中隊もありました。そして中隊の殆ど全てが曹長や軍曹によって率いられていたのです。

 この第3軍団がほぼ3倍近い戦闘員数を持つ仏の4個師団と戦い続け、戦場がル・マンに近付くにつれてその地勢や天候による補給状況の悪化から補充人員や糧食、そして弾薬を受け取ることが出来ず、特にル・マン会戦中は極寒と風雪が惨い状況となって道という道は雪と氷で閉ざされ、その行軍は通常の10分の1以下と呼んでもよい速度となっていたのでした。将兵は体裁などに拘っていることが出来ずにまるで浮浪者のような姿で行軍し、穴の開いた軍靴に麻布を巻き付けて行軍する者も見られます。補給だけでなく追従する行李や輜重も遙か遠くで停滞し、身だしなみや服を取り替えることなど考えることすら出来ません。士官も行軍中は滅多に降りることはない馬を降りて徒歩で行軍する有様でした。


 その状況は仏側も同様以上で、それは遡る12月20日前後、ボージョンシー=クラヴァンの戦いからヴァンドームの戦いで敗れた第2ロアール軍がル・マン周辺に到着した頃から既にその崩壊は始まっていました。


挿絵(By みてみん)

ブルターニュから来たコンリー兵営の新兵


 糧食不足の上に恐ろしい独軍から逃げるようにしてル・マンに達した錬成不足の仏軍兵士たちは独第二軍主力のオルレアン後退(こちらも給養と厳寒期の装備を充実させるための再編成)を受けて約半月の「クリスマス休暇」を貰うのですが、その間、シャンジー将軍等仏軍首脳陣は奔走して軍の再編成を計り、ガンベタ率いるボルドー政府派遣部はブルターニュからノルマンディ地方にかけて再徴兵を掛けて12万に及ぶ新兵をシャンジー率いる3つの軍団(第16、17、21)に届けるのです。

 しかし時間は余りにも少なく、装備も米英からル・アーブルやブレスト港経由で届いたものの新兵たちはその旧式銃(スプリングフィールドにスペンサーやレミントンなど)の扱いに慣れることも出来ませんでした。

 ル・マン周辺の野営地(市街地に宿営させなかったのは軍規を弛緩させないためと言われます)は極寒と積雪のため住環境は最悪で、病気で倒れる者が相次ぎます。コンリーの新兵訓練兵営*でも状況は変わらず、屋根こそあるものの隙間風が吹く兵営は泥の中に沈み、そこへ次から次へと新兵を送り込んだため兵舎はぎゅうぎゅう詰めで糧食状態も悪く、飢えと疾病(腸チフス、天然痘が多かったと言います)と厭戦が蔓延していました。最悪の状況を見た訓練担当士官たちは窮状を訴えますがボルドー派遣部やシャンジーたちにも打つ手は限られ、やがては指揮官エミール・ドゥ・ケラトリ准将(9月4日の革命でパリ警察庁総監となり10月に気球でパリを脱出、ガンベタは新兵徴兵・錬成の責任者としてコンリーへ送っていました)が抗議の辞任、代わって指揮を執ったアンリ・ドラクロワ・ドゥ・マリヴァル=エムリオー少将は12月19、20日の両日、病人と約15,000名の新兵をレンヌ(ブルターニュ地方主邑。ル・マンの西140キロ)へ送り返すのでした。

 ル・マンの戦いで出陣したコンリー兵営のブルターニュ地方出身兵士たちは19,000名と言われ、その一部はアメリカから送られて来た南北戦争の中古兵器であるスプリングフィールド小銃(多くは銃身が錆び付いており薬包の一部は不良品で暴発したそうです)で武装していました。ラランド将軍に率いられた兵士は2ヶ月に及ぶ劣悪な兵営暮らしのため端から厭戦気分で戦場に到着し、ポンリューの防衛に回された兵士たちは独軍を見ると多くが逃亡してしまいました。シャンジー将軍は後にル・マン失落の原因の一つに「コンリー兵営のブルターニュ兵」を挙げています。


挿絵(By みてみん)

ケラトリ


*キャンプ・コンリー

 コンリー市街の北北西1.3キロ付近、ル・グラン・シュマンの北東側、鉄道線路の北にあって現在は農地となり跡形もありません(兵営跡から北西へ600m程離れたラ・ジョヌリエールにブルターニュ兵団とコンリー兵営を記念した70/71年記念碑があります)。70年11月10日から新兵の教練が始まり25,000名の兵士をル・マンの第2ロアール軍へ供給しました。また、その北側に大きな陣地帯が築かれつつありました。

 収容定員は5万名とされていましたが、兵舎の設営は遅れて未完工のものがあり、あぶれた兵士はテント暮らしを強いられていました。兵営には次々に到着する新兵を受け入れたため約6万人が押し込まれたといい、前述通り衛生状態と食糧や衣料(テントや毛布、軍靴の不足が深刻でした)事情が劣悪で12月には「まるで強制収容所のようだ」との不満の声が高まり反乱の恐れすらありました。

 ある兵士の証言では「キャンプは広大な湿地のようで常に膝まで浸かるような泥で覆われていた。雨や大雪が降れば兵舎は浸水し、激しい雷雨があった日にベッドの上で溺死した兵士すらいた。平均4万名がこの環境で過ごし毎日400から500名が病気で送還されていた」とのことでした。


挿絵(By みてみん)

コンリー兵営(1870.11)

挿絵(By みてみん)

コンリー兵営とブルターニュ兵団記念碑


 このような状態で年明け早々から再起した独カール王子軍と戦い始めたシャンジー軍ですが、その戦い振りを見ると、よくもこの「烏合の衆」で「精鋭」独軍を苦しめたものだ、と思います。

 シャンジー将軍自身は最後まで強がっていましたが本心は「勝敗は明らか」と考えていたのでは、と想像します。祖国に対する責任の重さを痛いほど感じていた将軍はガンベタや実質国防を司ったフレシネなどに対し再三「ブルバキ将軍率いる第1ロアール軍との協同作戦」を訴えましたが叶いませんでした。

 このままでは北東から迫る「メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍」と東から迫る「カール王子軍」によって合撃・包囲される危険性が高く、何とか「手持ち」でル・マン死守を計ろうとするシャンジー将軍でしたが、相手の独軍側にも後方連絡線が延び切り、補充は少なく補給も細々という危機があり、仏軍と等しく襲う寒波と疾病で将兵は弱り、正面で戦う兵員数は常に仏軍の半分~三分の一程度となっていました。


 この状況によりほぼ互角の戦いとなったル・マンの戦いは、それでも独軍有利と思われましたが、カール王子はベルサイユ大本営の目的であったル・マンの確保こそ達成しますが、「シャンジー軍」を弱体化させたもののその壊滅には失敗するのです。

 この理由としては、独の公式戦史が告げる次の理由が大きかったと考えます。


「ル・マンの会戦においては常に独軍が遅い時間に攻撃前進を開始していたことにより、仏軍は恩恵を受けていたと思われる。つまりは冬日のことで日没も早いため戦場は午後早い時間に夕闇に沈み、独軍は逃げる仏軍を追うことも出来なかった。この理由は当時の寒波にあり、独軍は夜間出来る限り野営を避けねばならないので屋根の下で宿営する必要があり、そのため多くの場合は前線からかなり離れた宿営地に入って明日の準備をして弾薬を受け取り、十分とは言えない糧食で炊事を行うしかなかったからである。このため独軍は遠隔地で集合してから戦場まで行軍をしなければならず、その疲弊度は通常以上のものがあった」(筆者意訳)


 更に公式戦史はこのような劣悪な状態にあっても「軍の志気・忍耐・軍紀は常にのしかかる幾多の困窮に対して些かも揺るぐことはなかった」と自軍を誉め讃えています。


挿絵(By みてみん)

ル・マンの並木道


 また、仏軍側から普仏戦争を俯瞰したルセ中佐は次のように述べます。


「仏軍側から見れば、シャンジー将軍がその超人的な熱意によって第2ロアール軍を突き動かしたことをあまり称賛することが出来ないだろう。その裏で兵士たちは様々な困難・不足・疾病・そして厳寒に苦しみ続けていたのだ。将軍が敗北した主原因の一つは規律の維持を重視するあまり兵員の多くを劣悪な環境下で野営させたことだ。犠牲を厭わない仏軍兵士は反面、苦難に対してしばしば脆弱な面を見せるものだが、第2ロアール軍に課せられていたものは、普通の兵士が担うレベルを遥かに超えていた。臨時護国軍兵が氷雪の中でもがいた3ヶ月間の遺跡であるコンリー兵営は、正に滅び行く軍勢の落胆した魂が集う悲惨な難破船とでも呼ぶべき代物であった」(筆者意訳)


ル・マンの戦い(1871年1月10日から12日)における独軍の損害

◆1月10日

*第3軍団

戦死/士官10名・下士官兵101名・馬匹23頭

負傷/士官23名・下士官兵319名・馬匹2頭

行方不明(殆どが捕虜)/下士官兵20名

計/士官33名・下士官兵440名・馬匹25頭

*第13軍団

戦死/下士官兵9名

負傷/士官4名・下士官兵42名・馬匹4頭

行方不明/下士官兵1名

計/士官4名・下士官兵52名・馬匹4頭

◆1月11日

*第3軍団

戦死/士官8名・下士官兵123名・馬匹40頭

負傷/士官26名・下士官兵346名・馬匹6頭

行方不明(殆どが捕虜)/下士官兵18名

計/士官34名・下士官兵487名・馬匹46頭

*第9軍団

戦死/士官7名・下士官兵101名・馬匹18頭

負傷/士官11名・下士官兵174名・馬匹8頭

行方不明(殆どが捕虜)/軍医士官1名・下士官兵1名・馬匹1頭

計/士官19名・下士官兵275名・馬匹27頭

*第10軍団

戦死/下士官兵17名

負傷/士官5名(内軍医1名)・下士官兵59名・馬匹2頭

行方不明(殆どが捕虜)/士官2名・下士官兵53名

計/士官7名(内軍医1名)・下士官兵129名・馬匹2頭

*第13軍団

戦死/士官2名・下士官兵32名・馬匹2頭

負傷/士官6名・下士官兵101名

行方不明/下士官兵7名

計/士官8名・下士官兵140名・馬匹2頭

*騎兵第4師団

負傷/下士官兵1名・馬匹1頭

◆1月12日

*第3軍団

戦死/士官6名・下士官兵44名・馬匹4頭

負傷/士官5名・下士官兵98名・馬匹3頭

行方不明(殆どが捕虜)/下士官兵4名

計/士官11名・下士官兵146名・馬匹7頭

*第9軍団

戦死/下士官兵5名

負傷/下士官兵8名・馬匹3頭

*第10軍団

戦死/士官1名・下士官兵33名・馬匹2頭

負傷/士官5名・下士官兵83名

行方不明(殆どが捕虜)/下士官兵9名

計/士官6名・下士官兵125名・馬匹2頭

*第13軍団

戦死/士官5名・下士官兵53名

負傷/士官3名・下士官兵151名

行方不明(殆どが捕虜)/士官1名・下士官兵19名

計/士官9名・下士官兵223名

*騎兵第4師団

戦死/馬匹3頭

負傷/馬匹1頭

行方不明/下士官1名

*騎兵第6師団

負傷/下士官1名


ル・マンの戦い 独軍損害総計

戦死/士官39名・下士官兵518名・馬匹93頭

負傷/士官88名(内軍医1名)・下士官兵1,383名・馬匹30頭

行方不明(殆どが捕虜)/士官4名(内軍医1名)・下士官兵132名・馬匹1頭

計/士官131名(内軍医2名)・下士官兵2,033名・馬匹124頭


挿絵(By みてみん)

イヴレ=レヴックの71年記念碑


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