ル・マンの戦い/1月12日(前)
☆ 1月12日・独第17師団/サン=コルネイユの戦闘
独第13軍団の本営はカール王子1月11日午後10時発の命令を受領する前に12日の行軍命令を発令しており、それは次の主旨でした。
「第17師団はゲ川(現・ロレス川。ユイヌ支流の小河川)の線を出立してロンブロン(コネレの北西6キロ)を攻略し、その後サン=コルネイユ(シャンパーニュの北4.6キロ)に向かってへ前進し、第22師団は第17師団の右翼(北)側をラ=シャペル=サン=レミ(コネレの北北西5.9キロ)からシル=レ=フィリップ(ロンブロンの北西5.9キロ)を経由しサヴィニエ=レヴック(同西8.8キロ)を攻略すること。第17師団は南方で(独第9軍団による)戦闘が発生してもこれに関わってはならない。騎兵第4師団は行軍路をバロンへの街道(現・国道D243号線からD20Bis号線)に移して第22師団と並進し、同時にル・マン~アランソン鉄道の破壊を試みよ」
12日早朝。第17師団の第34旅団はゲ川に沿って集合し、昨日はコネレにあった第33旅団の主力はラ・ヴァレ・ドゥ・ヴォー(コネレの北西2.7キロ)付近に集合しました。この旅団の分遣隊はユイヌ川左岸(ここでは南岸)に残ってポン・ドゥ・ジェスノワ(現モンフォール=ル=ジェスノワ。コネレの西5.7キロ)の仏軍と対峙することになります。騎兵第17旅団と砲兵隊の一部はコネレに残留となりました。師団各隊は集合地で再び支隊に分かれ、お互いに援護しつつ各団隊に定められた行軍路を行くことになりました。
※1月12日・独第17師団の戦闘序列
師団長 ヘルマン・ハインリッヒ・テオドール・フォン・トレスコウ中将
◎ユイヌ右岸地域
*ポン・ドゥ・ジェスノワと対峙するゲ川岸
◇クライスト支隊
エヴァルト・クリスティアン・レオポルト・フォン・クライスト大佐(擲弾兵第89連隊長)指揮
○擲弾兵第89「メクレンブルク」連隊・第2、3大隊
○野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・騎砲兵第1中隊
*ロレス城館(ロンブロンの南東1キロ)と対峙するゲ川岸
◇マントイフェル支隊
ルドルフ・カール・ハインリッヒ・エンゲルハルト・フォン・マントイフェル大佐(第34旅団長)指揮
○フュージリア第90「メクレンブルク」連隊・第1、3大隊
○竜騎兵第18「メクレンブルク第2」連隊・第1,4中隊
○野戦砲兵第9連隊・重砲第5中隊
*ラ・ショセ(農場。ロンブロンの東2キロ)~レ・トゥッシュ(小部落。同東北東2.7キロ)間
◇ラウフ支隊
アルフレート・ボナヴェントゥラ・フォン・ラウフ少将(騎兵第17旅団長)指揮
○第75連隊・第1大隊
○擲弾兵第89連隊・第1大隊
○フュージリア第90連隊・第2大隊
○猟兵第14「メクレンブルク」大隊
○槍騎兵第11「ブランデンブルク第2」連隊・第3中隊
○野戦砲兵第9連隊・軽砲第5中隊
*ラ・ヴァレ・ドゥ・ヴォー付近
◇フォン・デア・オステン支隊
ヴィルヘルム・マクシミリアン・カール・フィリップ・マルティン・アダム・フォン・デア・オステン中佐(第75連隊長)指揮
○第75「ハンザ第1/ブレーメン」連隊・第2、F大隊
○第76「ハンザ第2/ハンブルク」連隊・第2大隊
○竜騎兵第18連隊・第3中隊
○第9軍団野戦工兵第1中隊
◎ユイヌ左岸地域
*ポン・ドゥ・ジェスノワと対峙
◇ベルゲ支隊
マクシミリアン・フォン・ベルゲ・ウント・ヘレンドルフ少佐(第76連隊第1大隊長)指揮
○第76連隊・第1、F大隊
○野戦砲兵第9連隊・重砲第6中隊
*コネレ付近(残留/後方予備)
○竜騎兵第18連隊・第2中隊
○野戦砲兵第9連隊・軽砲第6中隊
◇騎兵第17「メクレンブルク」旅団
○竜騎兵第17「メクレンブルク第1」連隊
○槍騎兵第11連隊・1,2,4中隊
○野戦砲兵第9連隊・騎砲兵第3中隊
連日最前線にあって敵と戦って来たフォン・ラウフ将軍は午前9時、相変わらず凍て付いた街道を進み始め、凍結したゲ川を越えると午前10時にロンブロン郊外へ到達します。しかし市街からは既に仏軍が消えており、将軍らは直ちに市街を占領したのでした。
ラウフ支隊の左翼南方を行くフォン・マントイフェル大佐の支隊は程なくラウフ支隊に並んで市街南郊に達し、独軍が付近を捜索すると仏兵の背嚢や煮炊き用の什器に食器、そして大切な武器・糧食さえも大量に遺棄され散乱しており、この辺りに展開していた第21軍団のコリン将軍師団が潰走状態で去ったことが窺えたのです。付近に点在する農家や納屋からは多くの仏軍敗残兵が刈り出され捕虜となります。
仏軍の大規模な後退はロンブロンばかりでなく、あれほど強固に守っていたポン・ドゥ・ジェスノワやモンフォールからも仏軍部隊が消え去り、しかもユイヌに架かる貴重なジェスノワの橋梁も無傷で残されており、これに気付いたベルゲ=ヘレンドルフ少佐は素早く橋を確保し渡河するとポン・ドゥ・ジェスノワに隠れ潜んでいた落伍兵たち(士官3名・下士官兵50名ほど)を捕虜とするのでした。
この「前面の敵、後退す」との至急報を受け取った第17師団長ヘルマン・フォン・トレスコウ将軍はサン=コルネイユに直行するためモンフォールを抜ける街道(現・国道D20Bis号線)を進むよう行軍路を変更させ、午前10時30分、師団本隊はモンフォールを通過して西へ出立します。ほぼ同時にロンブロンを発した第75連隊と擲弾兵第89連隊の両第1大隊はサン=コルネイユ目指して西へ進み始めますが、この付近の道路は細い農道ばかりで、しかも雪が降り積もっていたため独軍は道を見失い、仕方がなくロンブロンに戻ると街道上をモンフォールへ進み、師団本隊を追い駆ける形で行軍したのでした。
第17師団の先鋒部隊は正午前後にメルドロー川(モンフォールの北側高地を水源に西へ流れ、サン=コルネイユの東郊を抜けオーヴル高地北西側でユイヌ川に合流する支流)に到達します。すると対岸のイル城館(サン=コルネイユの南東450m。現存します)にまとまった数の仏軍部隊が潜んでいるのが望見されるのでした。
師団先鋒となっていた第76連隊の第1とF両大隊は直ちに渡河し城に面して展開します。これにフュージリア第90連隊が続き、城館の仏軍はたちまち三面を包囲されてしまいました。すると左翼側のファティーヌ(サン=コルネイユの南2.3キロ)まで進んでいた独第9軍団の第35旅団前衛、第84「シュレスヴィヒ」連隊F大隊中3個(第9,11,12)中隊は、同大隊長フランツ・ユリウス・ジャスタス・トレンク少佐に直率されてこの攻撃に参戦し(後述します)、独軍の前線はラ・ペリニュ城館(サン=コルネイユの北西760m。現存します)まで延伸され、包囲は部落にまで発展しました。午後4時、態勢整った独軍は各中隊一斉に鬨をあげて突撃を敢行、サン=コルネイユとその前哨拠点だったイル城館は陥落し、仏軍は約500名の捕虜を残し潰走したのです。
独軍に立ち向かう仏軍下士官
同じ頃、ベルゲ・ウント・ヘレンドルフ少佐の支隊はマントイフェル支隊前衛先鋒のフュージリア第90連隊2個(第10,12)中隊を併せトゥヴォワ城館(サン=コルネイユの北西2.4キロ。現存します)の東、小河川ヴィヴ・パロンス川(メルドロー支流)の沿岸で仏軍と衝突し、既に夕闇迫る中仏軍を川に追い詰めます。仏軍はこれを渡河して撤退しましたが、少なくない数が川岸で降伏するのでした。
こうして第17師団のベルゲ支隊はこの夕、グラン・ウセ(農家。サン=コルネイユの北西1.7キロ。現存しません)とその周辺で宿営を求め、ヴィヴ・パロンス川に前哨を配置しました。前哨たちは対岸に仏の前哨が潜み、サヴィニエ=レヴック方面に仏の大軍がいることを報告するのです。
この夜、第17師団の本隊はサン=コルネイユとポン・ドゥ・ジェスノワの間の街道筋に宿営し、フリードリヒ・フランツ2世の本営はモンフォール(ポン・ドゥ・ジェスノワの西1.3キロ)に進みました。この日第13軍団が獲得した捕虜は1,000名を越え、仏軍が遺棄して行った武器や糧食もまたかなりの量となるのでした。
☆ 1月12日・独第22師団/ラ・クロワの戦闘
独第22師団長フリードリヒ・フォン・ヴィッティヒ少将は前述の命令によりラ・シャペル=サン=レミ周辺から出立しボンネターブル~ル・マン本街道(現・国道D301号線)に沿って北回りでサヴィニエ=レヴックに向かいますが、出立間もなく南方で第17師団が戦闘状態となったことを知り、サン=セルラン(ラ・シャペル=サン=レミの北西2.6キロ)で「助太刀」が必要かどうかしばらく推移を見守りました(第17師団には他団隊の戦闘行為へ加勢することを禁じる命令がありましたが、第22師団にはありません)。このため諸隊は数時間に渡って小休止状態となりますが、逆にこの間、師団はほぼ全部隊がサン=セルランに集合を終えることが出来ました。午後に行軍が再開されると、フリードリヒ・ルートヴィヒ・エミール・フォン・ベッケドルフ大佐の支隊が先行して街道を進み、大佐がシャントルー(サヴィニエ=レヴックの北東4.7キロ)に至った時には午後2時となっていました。ベッケドルフ隊は本街道前方のラ・クロワ農場(シャントルーの南南西750m。現存します)付近に未だ仏軍(第21軍団第3師団)が居残り展開していることを知ると直ちに攻撃へ向かいます。
ベッケドルフ隊の主力・第95「チューリンゲン第6」連隊の本隊は野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊の重砲第3中隊による援護射撃を受けて本街道とその両側を進みました。右翼には第6,7,8の3個中隊、街道上にF大隊、左翼に第3,4の2個中隊という編成で、この戦闘は独軍が圧勝し仏軍前哨は約100名の捕虜を残してラ・クロア農場後方の本陣地まで後退しました。しかし、ここに構えていた仏軍は攻撃する独軍の数倍はする兵力に見え、ベッケドルフ大佐は無理をさせず監視に留め後続を待つこととします。やがて師団主力もシャントルー付近に到着し、「ヴルトとセダンの勇者」アルトゥール・フォン・ネッカー少佐率いる第94「チューリンゲン第5」連隊の第1大隊は左翼側に展開し先ずはシレ=ル=フィリップを襲って仏軍の散兵群を本街道まで駆逐しました。街道上には第94連隊のF大隊と第95連隊で予備となっていた3個(第1,2,5)中隊が待っていた第95連隊の本隊に合流し、午後5時過ぎ、再びラ・クロワ南の仏軍陣地線に接近します。これによって激しい銃撃戦が始まりますが十数分もすると仏軍は押され始め、仏前線指揮官たちは部下を叱咤しつつ散兵線から縦列横隊となった独軍に向けて突撃を敢行させますが、この機動を待っていたネッカー少佐の第94連隊第1大隊が仏軍右翼(東側)に対して突撃を行ったため仏軍は恐慌状態に陥り潰走するのでした。
完全に戦意を失っていた仏将兵たちは次々に武器を捨てて手を挙げ、やがて数個中隊が全員揃って投降し、すると丸々1個大隊全員が武器を投じて手を挙げるという独軍将兵も驚愕の状況すら発生したのです。
このラ・クロワ農場周辺で捕虜となった仏将兵はおよそ3,000名に及び、通常は再戦を期して捕虜になることを避ける士官も多くが自ら武器を捨て、その中には連隊長も1名含まれていたのです。
この時点で付近は闇に閉ざされたため前線に到着したフォン・ヴィッティヒ将軍は追撃を中止させました。将軍は前哨をラ・クロワの仏軍陣地に配すると前衛をシャントルー周辺に宿営させます。師団本隊は本街道を後退してボーフェ(シャントルーの北北東4.4キロ)とトルセ=アン=ヴァレ(同東北東5キロ)間に宿営、師団に隷属する騎兵第9旅団はボンネターブル(同北東10キロ)まで下がって宿営に入りました。
独第13軍団の右翼外に進んだ独騎兵第4師団*は12日早朝、麾下騎兵第8旅団をサルト上流に向けて出立させます。旅団はクルスブッフ(サヴィニエ=レヴックの北6.8キロ)付近で仏軍騎兵の一集団を発見しこれを襲撃して多くを捕虜とします。その後バロン(同北11.9キロ)に接近した独軍騎兵はこの地に守備隊がいることを確認しましたが周辺は起伏が多い雪原となっており騎兵戦闘や砲兵の展開には不向きだったため攻撃を断念し引き返したのでした。
※1月12日の独騎兵第4師団
師団長代理 オットー・ハインリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・ベルンハルト少将(騎兵第9旅団長)
◇騎兵第8旅団
旅団長マリア・ヨブ・ニコラウス・リヒャルト・フォン・ホントハイム少将
○胸甲騎兵第5「ヴェストプロイセン」連隊
○槍騎兵第10「ポーゼン」連隊(2個中隊欠)
◇騎兵第10旅団
旅団長 ルドルフ・フォン・クロージク少将
○竜騎兵第5「ライン」連隊(1個中隊欠)
○驃騎兵第2「親衛第2」連隊
○第32「チューリンゲン第2/ザクセン=マイニンゲン公国」連隊・第2大隊(第22師団より増援)
○野戦砲兵第11連隊・騎砲兵第2中隊
*師団配下で他に派遣されている部隊
○槍騎兵第10連隊・第2中隊 → 輜重縦列護衛隊
○同連隊・第3中隊 → シャルトルの守備隊一部
○騎兵第9旅団と野戦砲兵第5連隊・騎砲兵第1中隊 → 第22師団に隷属
○竜騎兵第5連隊・第4中隊 → 師団行李護衛隊
独第22師団の前衛がシャントルーに到着した後、フォン・ベルンハルト将軍は騎兵第10旅団をボーフェに向かわせ、ここで一支隊を作り騎兵第8旅団を追う形でサルト川方面へ進ませます。
この支隊は第22師団から新たに借り受けた第32連隊の第1大隊(今まで隷属していた同連隊第2大隊はボーフェで帰属しました)、竜騎兵第5連隊の第3中隊、野戦砲兵第11連隊の騎砲兵第2中隊の2個小隊(4門)から成り、先頭に立ったライン竜騎兵中隊はクルスブッフの西で仏の胸甲騎兵集団を発見し交戦、これを撃退しました。ところが、南方より仏歩兵の大集団が突進して来たため、ここで短くも激しい戦闘となります。ライン竜騎兵は駆け付けたザクセン=マイニンゲン歩兵に救われましたが、形勢は全く独側に不利で、氷結した隘路に立ち往生してしまった騎砲兵も歩兵に救われ援護され、ようやく虎口を脱するのでした。支隊は夜更けまでにボーフェへ帰還しています。
この夜、騎兵第4師団はボンネターブルとオレーヌ(ボンネターブルの東1.1キロ)に宿営しました。
クルスブッフの戦闘 バリケード上で大見栄を切る仏護国軍軍曹
☆ 1月12日・独第9軍団のオーヴル高地占領
前日に重要なオーヴル高地を半分しか確保出来なかったフォン・マンシュタイン将軍の独第9軍団はこの12日、既述通りカール王子から高地の完全占領を厳命されました。
マンシュタイン将軍は黎明、先鋒として歩兵2個(フュージリア第36連隊第3、第84連隊第1)大隊と砲兵4個(野戦砲兵第9連隊・軽砲第2、重砲第2,3,4)中隊を宿営地より出立させ、砲兵隊の護衛として猟兵第9大隊を続行させました。これら砲兵諸中隊はヴィリエール(シャンパーニュの西南西1.4キロ)の東高地縁に砲列を敷き、後続した擲弾兵第11連隊の第2とF大隊はオーヴル農場(同西南西2.3キロ。現存します)付近に集合します。
この日午前、シャンパーニュからオーヴル高地を挟んでイヴレ=レヴックに掛けては黎明から濃霧に覆われており、敵情が分からない独軍は慎重に行動しました。午前中仏軍はただ1回だけ銃撃を主とする攻撃を仕掛けますがこれは短時間で終わり、本格的な戦闘には至りません。この後、高地西から続々と帰参した独の斥候たちは口々に「高地西端下のユイヌ河畔までに敵影なし」との報告を上げたのです。
これによりマンシュタイン将軍は軍団砲兵の第1大隊(軽砲第1,2、重砲第1,2の4個中隊)をオーヴル高地南西端に進ませ、正午過ぎに霧が晴れ始めるとユイヌ対岸のイヴレ=レヴック周辺や街道を砲撃し始めました。しかし、昨日は激しく対抗射撃を行っていた仏軍砲兵はほとんど応射せずに沈黙しており、多くは陣地を捨てて後退する様子が見られるのです。また、歩兵たちも拠点となっていた諸農場・農家から急ぎル・マン市街方向へ撤退して行くのでした。北方から街道沿いに行軍して来た縦隊も砲撃を受けて混乱した様子で、殆ど潰走状態となって独軍の視界から消えて行きました。しかし、イヴレ=レヴックと周辺の散兵壕などには未だ仏軍の姿が見え隠れしており、ユイヌの渡河は一戦交えなければ行えないと独軍首脳陣に予感させたのです。
雪上の仏軍砲兵
カール王子はこの日も早朝幕僚を引き連れてアルドネ=シュル=メリズの本営を発し、サン=テュベールを経由してシャンパーニュ郊外ル・ブール・ヌフの丘に向かいましたが、正午前後に霧が晴れ始めたのとほぼ同時にシャンパーニュの北方から激しい銃撃音が始まったため「作戦計画通り第9軍団は1個旅団を第13軍団の援助に向かわせよ」との主旨の命令を発しました。
救援に向かったのは第35旅団で、旅団前衛はファティーヌ付近で仏軍前哨と接触してこれを監視していましたが、この命令が届くと急ぎラ・クロワ(シャンパーニュの北700m。更に北方でボンネターブル街道の同名農場との混同注意)付近に戻り集合して午後2時、改めてラ・コミューン(ファティーヌの北1キロ)に向け前進しました。
※1月12日・第35旅団の戦闘序列
旅団長 ハインリッヒ・カール・エリ・フォン・ブルーメンタール少将
*前衛 男爵フリードリヒ・アレクサンダー・ルドルフ・フォン・キットリッツ中佐指揮
○第84「シュレスヴィヒ」連隊・第2大隊と第9,11,12中隊
○驃騎兵第16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊(1個小隊欠)
○野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・重砲第3中隊の2個小隊(4門)
○同連隊・重砲第4中隊
*本隊 ハインリッヒ・フォン・シュランム中佐(第84連隊第1大隊長)指揮
○第84連隊・第1大隊と第10中隊
○フュージリア第36「マグデブルク」連隊・第1,4,6中隊と第3大隊
*左翼支隊 シュヴェンク大尉指揮
○フュージリア第36連隊・第2,3中隊
○驃騎兵第16連隊・第4中隊の1個小隊
○野戦砲兵第9連隊・重砲第3中隊の1個小隊(2門)
*旅団配下で他に派遣されている部隊
○フュージリア第36連隊・第5,7中隊 → 軍団砲兵護衛
○フュージリア第36連隊・第8中隊 → 輜重縦列護衛隊
第84連隊のF大隊長、トレンク少佐に直率された3個(第9,11,12)中隊はル・ピュイ(農家。ファティーヌの西北西1.8キロ)付近のメルドロー川に架かる常設橋(現存しません)を守っていた仏兵を駆逐すると北上し、前述通りサン=コルネイユを巡る第17師団の攻撃に参入しました。フォン・ブルーメンタール将軍はここで旅団を西側ヴィヴ・パロンス川方面へ向けて転進させます。旅団が同川岸に斥候を送って確かめると、川に架かる諸橋梁にはバリケードや障害物が置かれて通行困難となっていましたが仏兵の姿はなく、旅団本隊と前衛主力はメルドロー川の左岸に沿ってヴィヴ・パロンス川との合流点に向かい、追って到着した左翼支隊共々ヴィヴ・パロンス河岸に達し、その間仏軍の姿を見ることはありませんでした。この後旅団は夕方に至るまで河岸で待機し、対岸には驃騎兵を送って偵察を重ねましたが夕闇迫る中これ以上の進撃を諦め、この夜はファティーヌまで下がって宿営に入りました。
ブルーメンタール旅団以外の第9軍団はこの夜、ユイヌ川に沿って前哨を配置すると高地中央のヴィリエール、シャンパーニュ、サン=マルス=ラ=ブリエールの各部落周辺に宿営を求め、マンシュタイン将軍の本営は昨日同様シャンパーニュに帰りました。
☆ 1月12日・仏第2ロアール軍の崩壊
寒風の中、耐え忍ぶ仏第21軍団兵
1月11日夜。既述通り第2ロアール軍司令官シャンジー将軍は南方からポンリュー(=ロカード)に迫る独第10軍団を阻止するよう、右翼戦線指揮官のジョーレギベリ提督に厳命しました。提督はル・マン戦線へ到着したばかりの軍勢と、コンリー兵営の臨時護国軍新兵に攻撃を命じましたが、とうに限界を超えていた兵士たちは銃撃戦半ばで我先に競うようにル・マン市街方面へ逃亡、動くことも出来なかった多くの兵士たちは独軍に投降するのです。
これは正に「戦いの分水嶺」で、それまで寒さ・ひもじさ・疲労・恐怖など「軍の抱える闇」に耐えに耐えて来た将兵たちは遂に限界を超えてしまい、そうなれば規律も愛国心も紳士としての矜持も全てが失われ、残されたのは生存本能、ただひたすら目前の敵が象徴する「現実」から逃れたい一心となってしまったのです。
戦線が崩壊したことを知らされたジョーレギベリ提督は、それでも精力的に動いて戦線の建て直しを図りました。しかしもう全てが手遅れでした。
ジョーレギベリ提督はシャンジー将軍の本営に向かうと将軍と対面し、「ラ・テュイルリーを回復することが出来ませんでした。兵士たちは逃亡し戦線は崩壊しました」と伝えます。シャンジー将軍はぐっと堪えて「諦めるのは早い。貴官の部下は直ぐに義務を思い出し、反省して戦意を回復するはずだ。反転攻勢は絶対に上手く行く」、と半分楽観的に提督を慰め奮起を促します。しかし、栄光のクルミエ会戦以来シャンジーが最も信頼する野戦指揮官だった提督は頭を振り、万感の思いを込めて訴えました。
「本官に撤退命令を下して頂けませんか」
シャンジー将軍は言葉に詰まり、じっと提督の顔を見つめましたが、提督もシャンジーの顔を見続け、その目は全てを物語っていました。シャンジーは深いため息と共に、折れたのです。
「貴官がもう戦うことが出来ないと訴えるのであれば、それは真実なのだろう。分かった。痛恨の極みであるが本官は譲歩し、貴官に撤退を命じる」
既に中央戦線のコロンブ将軍や北部のジョレス提督からも即刻後退を訴える伝令がシャンジー将軍の本営にやって来ていました。シャンジーは日付が12日に変わった頃、遂に「総軍撤退」を命じたのでした。
シャンジー
ジョーレギベリ
12日早朝。前述通りこの日は濃霧で明けます。
2日間に渡る激しい戦闘でシャンジェの森のドゥ・ジュフロワ=ダバン准将師団(第17軍団第3)や「牛の小道」に展開していたドゥプランク少将師団(第16軍団第1)、ドゥ・ロクブリューヌ提督師団(第17軍団第1)は戦闘力を大幅に減少させ、第二線に退いていたバリー少将師団(第16軍団第2)もバラバラになって各個に戦い団隊としての体を成していない状態となっていました。また、オーヴル高地を追い出されたパリ少将師団(第17軍団第2)の残存兵力はかろうじてイヴレ=レヴックとその周辺に居残っています。
シャンジー将軍が発した撤退命令は夜が明けた直後に全軍に伝達され、その撤退先はアランソン(ル・マンの北48キロ)からプレ=アン=パイユ(アランソンの西21.5キロ)の間に定められました。
仏第21軍団のルソー少将師団(第1師団)とグジェアール准将の「ブルターニュ兵団」(第4師団)はサルジェ=レ=ル・マンへ後退集合し、ルソー将軍麾下のマルシェ猟兵第13大隊が独軍に迫られていたオーヴル高地周辺の友軍砲兵を救出しル・マンへ撤退させました。
しかしコリン将軍師団(第21軍団第2)がサン=コルネイユを経て北西方へ撤退した時、その後衛となっていた第1旅団が午前9時頃から霧の中で独第13軍団に接触され、この日一日だらだらと続く戦闘の末、潰走するのでした。
その北、ラ・クロワ農場付近ではヴィルヌーヴ少将率いる第21軍団第3師団が独第22師団に捕捉されて壊滅状態となり、更に北のクルスブッフでは仏第17軍団に属していた騎兵師団の残兵(マルシェ胸甲騎兵第4連隊ほか)が進出して来た独騎兵第4師団と戦って四散し、その後南方から撤退して来たローム県やオルヌ県の護国軍大隊とマルシェ第41連隊の残兵力3個中隊に多くの義勇兵部隊が独騎兵の北上を阻止するのでした。
ル・マンの戦い 仏前線で斃れる司祭




