表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリの苦悶と『ル・マン』
442/534

ル・マンの戦い/1月11日(中)


☆ ラ・ランドゥリエールとル・テルトル/独第3軍団の戦闘


 この11日。コンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将の独第3軍団と対決することになった仏第17軍団の2個(第1と第3)師団は前夜、極寒と疲労の中を強いて独軍前面にある森林地帯(後述するシャンジェの森)を中心に防御を高めました。特にポンリュー(シャンジェの西5.3キロ。ユイヌ河畔の目立つロータリーは当時から存在します)の東に広がる森林地帯東端では、シャルル・ベルナール・ドゥ・ヴェッセ・ロクブリューヌ海軍少将(戦時昇進で本来は海軍大佐です)率いる第17軍団第1師団が既に設えてあった堡塁へ障害物や土嚢・蛇籠などを重ねて防御力を高め、ユイヌ川のル・マン側河岸に強力な砲兵を配するのでした。


挿絵(By みてみん)

11日・麾下の出撃を見守るシャンジー将軍


 自身の軍団西側に重厚な防御を設えた強大な兵力が存在することを感じ取っていたC・アルヴェンスレーヴェン将軍は、既述通り「軍団総力でなければ敵を撃破出来ない」と考えており、このため未知数となる仏軍右翼(ポンリューなど南西側)への半包囲攻撃を諦め、まずは昨日来戦って来た面前西側の敵を攻撃することにします。この任務は第11旅団に任され、残る第9、10旅団は一旦シャンジェとその東側グ・ラ・アールに留め、ビスマルク大佐の部隊(第12旅団)がマンシュタイン将軍の第9軍団と交代し右翼側に参戦するまで待機とするのです。


 攻撃は昨日の激戦による回復と第12旅団を待つために午前11時まで延期され、時が来ると第11旅団はゲ・ペレ川(シャンジェの南側からアミゲの西を流れイヴレ=レヴックの南でユイヌ川に注ぐ支流)に沿ったシャンジェの森(現存するゲ・ペレ川南側からポンリューの南東側までに広がる森林地帯)の北側へ進みました。しかしその右翼側のイヴレ=レヴックやオーヴル高地は未だ仏軍支配下にあり、高地上から強大な部隊が降りて来る予兆も見えたために、前衛となっていたフュージリア第35連隊はゲ・ペレ河畔で高地に面して展開し戦闘態勢を取らざるを得なくなりました。


※1月11日の独第11旅団

旅団長代理オットー・フェルディナント・フリードリヒ・ヘルマン・フォン・フロトウ大佐

○フュージリア第35「ブランデンブルク」連隊

○第20「ブランデンブルク第3」連隊

○野戦砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・軽砲第5中隊


 ブランデンブルク・フュージリア連隊はまず3個(第4,11,12)中隊をユイヌ川と鉄道線の南にぽつんと建つレ・ザレシュ城館(イヴレ=レヴックの南1.1キロ)まで前進させて占拠させ、折しもイヴレ=レヴックから街道に沿って進んで来た仏軍縦隊を撃退しました。軽砲第5中隊は1個分隊1門を城館に送り、この砲はルネ・ドーヴル目指してアルドネ=シュル=メリズへの街道筋を進もうとする仏軍部隊を妨害しますが、城館が奪われたことを知ったグジェアール将軍の「ブルターニュ兵団」砲兵による猛烈な砲撃を浴びてしまい、たちまち後退することとなってしまいました。


挿絵(By みてみん)

シャンジェ戦線(1870.1.11)


 この頃、第20連隊は左へ転回して細い農道(「牛の小道」と呼ばれる林道で現存します)を進んで南下しますが、付近に展開していた伯爵アルフォンス・ドゥ・ジュフロワ=ダバン准将率いる第17軍団第3師団の前線に衝突し激しい戦闘が発生します。

 同連隊第1大隊はまずレ・ノワイエ城館(シャンジェの北西1.8キロ付近。現存せず土台のみの廃墟があります)とその北西側のユイヌ架橋を占領し、第2とF両大隊は付近にいた仏軍をレ・グランジェ(農家。シャンジェの西南西2キロ。現存します)方向へ駆逐しましたが、この仏軍前哨は強力な増援(ジュフロワ将軍師団の一部)を呼び込んで再度前進して来たため、独の2個大隊は倍以上の敵に包囲されそうになってしまいます。この戦闘は大変な激戦となり、猛烈な銃撃戦は延々と午後2時を過ぎても続いたため、前線指揮官たちは増援を要請し、レ・ノワイエ城館から2個(第2,3)中隊が駆け付けたものの劣勢は覆えりませんでした。特に第2大隊では士官全員が戦死か負傷してしまい、銃弾も底を尽きかけて防戦一方となり絶体絶命の危機に陥るのです。これを聞いたフラトウ大佐は「第12旅団がレ・ザレシュ城館に向けて進んで来る」との連絡を受け、後をビスマルク大佐に任せてフュージリア第35連隊と共に第20連隊の救出に向かったのでした。


 このブランデンブルク・フュージリア兵はよく戦いました。

 第1中隊を率いるイーゼンブルク中尉は連隊中一番にレ・ノワイエ城館へ到達すると、直ちに仏兵が堅く護る露天掘りの粘土採掘場(現存しません。レ・ノワイエ城館の南西900m付近。丸い池が露天掘り跡でその周辺が採掘場でした)に向かって突撃を敢行し、不意を突かれた仏兵を場内から追い出して採掘場を占拠します。イーゼンブルク中隊はこの後数倍する仏軍の奪還攻撃を三度に渡って撃退し、三回目の防戦中イーゼンブルク中隊長が負傷したことで採掘場を棄てレ・ノワイエ城館の南側まで退却しました。

 また、第1中隊に続いたフュージリア連隊の前衛諸中隊は、そのまま「牛の小道」を南下してレ・グランジェ農家を襲い、こちらも一旦は仏軍を追い出してこの重要な拠点を抑えました。しかし仏軍の強烈な逆襲に会い、これを耐え凌いで襲い来る仏将兵を一部は白兵によって撃退しましたが、仏軍は数の力で押し切る包囲攻撃を開始し、独フュージリア兵はあわや降伏の危機に陥ってしまいました。それでも何とか東方へ血路を見い出したブランデンブルク・フュージリア兵はシャンジェの森を突っ切ってラ・ランドゥリエール(農家。シャンジェの西1キロ。現存します)方面への脱出に成功しています。

 その後フラトウ大佐は予備まで投入しフュージリア連隊の全力で今一度レ・グランジェ農家を奪おうとしますが仏ジュフロワ将軍も譲らず、銃撃戦の最中に日は暮れ自然に銃声は収まって行ったのでした。


 仏軍(ジュフロワ将軍師団)は日没時、この戦区で僅か2,900名と定数の半分にまで減ってしまっていた独第11旅団に対し数で3倍近い兵力を残していたものと考えられますが、結局フラトウ旅団をラ・ランドゥリエールより東へ押し返すことは出来なかったのです。


挿絵(By みてみん)

雪の高地に砲列を敷く仏軍砲兵


 フラトウ旅団が激戦に陥っていた午後1時、第10旅団がシャンジェを出て東へ前進を始めました。因みにこの時、前10日夕にシュフエゾンとラ・パイユリ2つの城館監視に残った擲弾兵第12連隊の第1大隊は集合に手間取り、この日は一日この街道筋(現・国道D304号線)に残留して本隊復帰は適いませんでした。


※1月11日の独第10旅団

旅団長クルト・ルートヴィヒ・アーダルベルト・フォン・シュヴェリーン少将

○擲弾兵第12「ブランデンブルク第2/カール親王」連隊(1個大隊欠)

○第52「ブランデンブルク第6」連隊

○野戦砲兵第3連隊・軽砲第1中隊・重砲第2中隊


 クルト・フォン・シュヴェリーン将軍率いる旅団は第52連隊を先にシャンジェの森縁に沿って南西方向へ進みましたが、たちまち仏軍の前哨線と衝突し、1時間余りの激しい銃撃戦の末にかなり大きな損害を受けてしまいました。それでも午後2時過ぎ、フォン・ナッツメル少佐率いる連隊右翼(北東)のF大隊は幾度かの失敗の末ル・パヴィヨン(農家。ル・テルトルの北東350m。現存します)とその西に隣接する小さな林を占拠することに成功し、ここを護っていた仏兵約100名を捕虜にするのでした。

 第52連隊の左翼(南西)を行く第1大隊と第7,8中隊の方はル・グラン・オーノ(当時は農家。現デ・ロディヴォー集落。ル・テルトルの南東550m)を占拠しますが、やがてポンリュー方面から進んで来た仏軍の強力な増援部隊と衝突するのです。

 この仏軍はブーエデク混成師団のベラール大佐旅団と思われます。これによって第10旅団左翼の前進は完全に阻まれてしまいました。それでも旅団長のフォン・シュヴェリーン将軍は、仏軍拠点のル・テルトル東方戦線でジュフロワ師団の2個連隊による総攻撃を右翼諸隊の全力で防ぎ切ると、それまでは後方に控えさせていた野戦砲兵第3連隊の重砲第2中隊をル・パヴィヨンの北側へ張り出すシャンジェの森縁に進ませました。ル・テルトルから600m離れラ・ランドゥリエール農家の直ぐ南側に展開したこの重砲中隊は、榴弾砲撃を繰り返しシュヴェリーン旅団ばかりでなく右翼側のフラトウ旅団も援助します。当然ながら仏軍はこの砲列に対し近距離から銃撃を浴びせ掛け、独砲兵もお返しに至近の仏軍陣地へ榴弾を撃ち込みました。この貴重な砲兵を守るため擲弾兵第12連隊のF大隊は砲列を囲んで西側の仏前線に銃撃戦で挑みます。この時、同僚の軽砲第1中隊も重砲中隊の右翼北東側、レ・ノワイエ城館への林道と「牛の小道」との十字路付近に展開しました。ところが砲撃開始直後、全軍でも「不死身のステファジウス」として有名だった中隊長のリヒャルト・エデュアルド・ステファジウス大尉*は銃撃を受けて重傷を負い後送されてしまうのです。この間に擲弾兵第12連隊では第7,8中隊を第2大隊長レーマン少佐が直率しル・テルトル農場に接する森林縁へ突入しますが、ここでも仏軍の銃撃が激しく足止めを食らいル・テルトルを陥落させることは出来ませんでした。


挿絵(By みてみん)

ル・マンの戦い 独第3軍団兵の突撃


 独第5師団長のフォン・シュテュルプナーゲル将軍は前線からの悲鳴に近い増援要請に対し、この日の午前中グ・ラ・アールからシャンジェへ進んでいた第9旅団から擲弾兵第8連隊の2個(第2、F)大隊をクルトブール(農場。ル・パヴィヨンの北東300m。現存します)へ進ませます。シュテュルプナーゲル将軍は第2大隊に対し「ル・テルトルに対して展開・攻撃せよ」と命じ、F大隊には「半数を予備とし残りでポンリューへの小街道(現カルフォルニ道路)をレ・グランジェ農家方向へ前進せよ」と命じます。F大隊率いるフォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン大尉は命令通り9,11中隊をクルトブール付近に残すと2個(第10,12)中隊を率いて前進しました。この時最前線にあった第52連隊のF大隊はほぼ全弾を撃ち尽くしていたため擲弾兵に後を任せ後退しています。


※1月11日の独第9旅団

旅団長カール・ベルンハルト・フォン・コンタ大佐

○擲弾兵第8「親衛/ブランデンブルク第1」連隊

○第48「ブランデンブルク第5」連隊

○野戦砲兵第3連隊・軽砲第2中隊・重砲第1中隊


 シュテュルプナーゲル将軍は午後5時に至り日没までに出来る限り戦線を拡大するべく、最低でもル・テルトルを占拠しようと麾下に総攻撃を命じます。

 擲弾兵第8連隊の増援を得た第10旅団は奮って前進を再興し、両擲弾兵連隊の5個(第8連隊の第7,8,10・第12連隊の第7,8)中隊はル・テルトル農場の包囲に成功して総攻撃を仕掛け、遂に農場を陥落させると逃げる仏兵を追ってシャンジェ森林の「牛の小道」農道に向かって突進しました。この「牛の小道」農道とレ・グランジェ農家東の交差点には仏の砲兵1個小隊2門が前進しており、迫る独軍に激しい砲撃を浴びせます。フォン・ガルニール中尉率いる独擲弾兵第8連隊の第12中隊は同僚がル・テルトルを攻略している間にポンリューへの小街道の北側を遮蔽伝いに西へ進み、この仏軍砲兵に接近しました。ガルニール中隊は仏砲兵の不意を突いて突進し短くも壮絶な白兵の後にこの2門を鹵獲します。これに気付いたレ・グランジェの仏軍歩兵大隊が奪還するべく突撃しガルニール中隊は俄然不利となりますが、ここでル・テルトルから前進して来た増援(第8連隊の第10中隊と第6中隊の一部、第12連隊の第7,8中隊の一部)が仏軍の猛射撃を冒してガルニール中尉が必死で守る仏軍の砲の下に駆け寄り、突撃して来た仏兵とこれもまた壮絶な白兵戦となりました。結果独兵はなんとか砲を守り切り仏兵も一旦は退きます。その後態勢を整え再び襲来した仏軍ですが、これは既に夕闇となった戦場で待ち受けた独軍によって狙い撃ちにされ撃退されてしまいます。また、仏軍の砲兵1個中隊がユイヌを渡河して前線まで進み、シャンジェの森西端に展開しようとしましたがこれも北側のフラトウ大佐旅団と、このレ・グランジェ東のブランデンブルク擲弾兵たちにより銃撃を浴びせられたため砲列を敷くことが出来ませんでした。

 この戦闘は戦場が完全な夜闇に沈むことでようやく終わるのです。


 他の3個旅団と離れ、シャンパーニュとルネ・ドーヴルで戦っていた第12旅団は半数を残し正午頃3個(第24連隊の第1、第2、第64連隊第2)大隊でレ・ザレシュ城館を目指しました。


※1月11日の独第12旅団

旅団長フーゴー・ヘルマン・フォン・ビスマルク大佐

○第24「ブランデンブルク第4/大公メクレンブルク=シュヴェリーン」連隊

○第64「ブランデンブルク第8/王子カール・フォン・プロイセン」連隊

○野戦砲兵第3連隊・軽砲第6中隊・重砲第6中隊、重砲第5中隊の1個小隊(2門)

○第3軍団野戦工兵第3中隊

※但し、第64連隊の第1とF大隊は午前中オーヴル高地とシャンパーニュに、第24連隊のF大隊はルネ・ドーヴィルに進みました(第24連隊F大隊は午後5時レ・ザレシュ城館付近で本隊に合流します)。


 一旦南に下がってアミゲ付近からゲ・ペレ川に沿って進んだビスマルク大佐直率の3個大隊は、悪路と時折周辺で爆発する仏軍の榴弾に悩みながらも午後2時にレ・ザレシュ城館へ到着します。

 この城館にはフロトウ大佐麾下のフュージリア第35連隊が南へ去った後に再び仏軍が入っていましたが、防御態勢を整える前にビスマルク支隊の第64連隊第2大隊が襲撃を開始し、仏軍は短時間で駆逐されて城館は再び独軍の手に落ちました。

 ビスマルク支隊の先任砲兵士官だったマイネッケ大尉は直ちに砲撃可能だった砲10門(軽砲第6と重砲第6の各4門と重砲第5の2門)を城館の脇に展開させ、イヴレ=レヴックとオーヴル高地西側に対する砲撃を行おうとしましたが、ユイヌ川対岸の仏砲兵は独砲兵の砲撃が始まる前に先制砲撃を開始し、やがては歩兵の狙撃も始まったためとても砲撃どころではなくなり、マイネッケ大尉は砲撃を中止させると砲10門を急ぎ前車へ繋ぎ、かなり減員していた砲兵たちは苦労しながら破壊された砲も含め全数撤退させることに成功するのでした。更にイヴレ=レヴックの仏軍は城館に向かって突進して来ますがビスマルク大佐は後続の第24連隊第1大隊を城館に送ってこれを撃退するのです。しかし仏軍の榴弾砲撃は夜陰に閉ざされるまで執拗に繰り返されたのでした。


挿絵(By みてみん)

攻撃の前


 11日の夜。独第3軍団の前哨は全て敵を目前とする緊張した状態にあり、右翼から左翼に向かってレ・ザレシュ城館~レ・ノワイエ城館~ラ・ランドゥリエール農家~ル・テルトル農場と続き、左翼端はパリニエ=レヴックからポンリューへ向かう街道(現・国道D304号線)に接し、ここで独騎兵第14旅団と連絡していました。

 軍団本隊はその後方シャンジェ周辺を中心に宿営を求め、軍団砲兵隊はグ・ラ・アールからラ・フコディエール(農場。グ・ラ・アールの東北東1.9キロ。ホテルとして現存します)までの地域に宿営しました。


 軍だけでなく世間一般にも有名人だったステファジウス大尉が瀕死の重傷を負ったとの知らせに顔を曇らせたカール王子は、もう一人の「有名人」フォン・ゲルシェン少佐率いる第64連隊の2個(第1とF)大隊を「軍本営の警護に充てるため」アルドネ=シュル=メリズまで下がらせるよう命令します。「不死身のステファジウス」を失っただけでも士気の低下が気になるところ、「勇者ゲルシェン」まで失うことによるダメージ(士気ばかりでなく世論も)を恐れたからだと思われます。少佐個人を招聘せず部下ごと下がらせたのは、熱血漢のゲルシェンが個人の安全を理由に単身後退するのを断固拒否するはずと考えたカール王子の気配りでしょう。


☆ 1月11日のカール王子本営


 カール王子はこの日、ル=ブール=ヌフ(シャンジェの南南東700m)付近の林間空き地から第9軍団(実質第18師団)の戦いを観戦していました。同時に第3軍団の戦況を順次得ており、C・アルヴェンスレーヴェン将軍が苦戦しつつも前線を維持したことを知ります。しかし、軍右翼(北側)の第13軍団からは午前10時発「敵の抵抗は頑強と予期する」との報告があっただけで午後になっても連絡は届かず、軍左翼の第10軍団に至っては全く報告がありませんでした。これもカール王子は予期していたものの、改めてシャンジー将軍率いる第2ロアール軍の「数の力」を思い知らされることとなっていたのでした。

 それでも「後一押しすれば錬成のままならない烏合の衆であろう仏軍は崩壊する」と信じていた強気のカール王子は、翌12日もル・マン前面の仏本陣地に対する攻勢を持続しようと考え、またフォン・フォークツ=レッツ将軍率いる第10軍団も明日になれば本格参戦することが可能となり、サルト川の東岸となるル・マン南方にも圧を掛けることが可能となる、と考えます。結果軍本営は午後4時30分、早くも第9軍団に対して翌12日の命令を発し、その主旨は「第9軍団はオーヴル高地全体を確保し、更にシャンパーニュ付近のユイヌ橋梁も死守せよ」とのことで、この命令を確実に履行させるため軍参謀長のフォン・スティール少将自らシャンパーニュに進んだフォン・マンシュタイン将軍の本営に持参し、将官たちは激戦だったオーヴル高地に点々と灯る敵味方不明の焚き火を眺めつつ翌日の作戦を検討するのでした。


 そのマンシュタイン将軍はスティール将軍を迎える直前の夕刻、第35旅団に対し貴重なシャンパーニュ北のユイヌ橋梁を死守するよう命じると、命令を受けた旅団長ハインリッヒ・フォン・ブルーメンタール少将は第84「シュレスヴィヒ」連隊と重砲第4中隊を右岸(ここでは北岸)に進出させ、その内の第2大隊とF大隊はユイヌ北岸周辺に居残っていた仏ブルターニュ兵団諸隊を駆逐し、この夜は前哨をラ・クロワ(農場。シャンパーニュの北750m。小部落として現存)とラ・ソヴァジュリ(農場。ラ・クロワの北400m。同上)に置いて終夜警戒に入りました。

 同じくユイヌ左岸(ここでは南岸)では、オーヴル高地東部をかろうじて確保した第85「ホルシュタイン」連隊をそのままヴィリエールとその北方に残留させ、高地西部を確保する仏軍を警戒させました。軍団残り諸隊はシャンパーニュとサン=マルス=ラ=ブリエール(シャンパーニュの東3.2キロ)に分散して宿営を行いました。

 第9軍団の遙か後方では、独騎兵第2師団が右翼(北)側でユイヌ沿岸を行く第13軍団の左翼側面を守るため、この11日はル・ブレイユ(=シュル=メリズ。アルドネの東北東4.2キロ)とトリニエ(=シュル=デュ。コネレの南東3.8キロ)周辺で待機を続けたのでした。


☆ ル・シェーヌ農家とレ・コアニエールの高地/独第13軍団の戦闘


 メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世率いる独第13軍団は11日、その全力でサヴィニエ=レヴック(シャンパーニュの北北西6.2キロ)を抜きル・マン市街へ突進するようカール王子から命令されます。しかし大公はこの命令(10日夜に発送)を手にする前に11日の行軍命令を麾下に発しており、それによれば、「ユイヌの左岸(ここでは概ね南岸)には第17師団前衛のみを留め、ジェスノワのユイヌ橋梁(シャンパーニュの東北東6.7キロのモンフォール=ル=ジェスノワ南方にある常設橋)付近の強力な仏軍部隊(第21軍団第1師団)を牽制・留置させ、第17師団本隊はコネレで渡河してユイヌ右岸(ここでは概ね北岸)に入り、フォン・ラウフ将軍支隊と第22師団の戦線に加入せよ」とのことでした。同時に北方を行くフォン・ベッケドルフ大佐支隊と騎兵第4師団には、「フォン・ベッケドルフ大佐支隊は仏軍左翼(西)を攻撃するためシャントルー(シャンパーニュの北9.5キロ)から少々東へ引き返しラ・シャペル=サン=レミ(コネレの北北西6キロ)へ進み、騎兵第4師団はボンネターブルからル・マンへの街道(現・国道D301号線)を進んでル・マン方面を偵察すること」との命令が下ります。

 これらの命令は、ほぼカール王子の考えと一致しており、大公は軍本営からの命令を受け取ると、ただその附則としてあった「ル・マン~アランソン鉄道の破壊と成し得るならル・マン~ラヴァル鉄道も遮断すること」との命令を実行するため、 騎兵第4師団に対し「ル・マン~アランソン鉄道を遮断せよ」との追加命令を下しただけでした。


 11日黎明。独第17と第22両師団の第一線諸隊は暗闇に乗じて宿営地を発し、それぞれ前日に占拠していた前哨線に入って戦闘態勢を整えます。この前哨線の一部では夜間から工兵によって防御工事や拠点構築が行われていましたが、この状況は仏軍側(第21軍団第2師団)も同様で、10日夜まで死守していたレ・コアニエール(コネレの北西2.8キロ)の高地からラ・シャペル=サン=レミまでの前線に戻り、その先に突出していたル・シェーヌ農家に入って独軍を待ち受けるのでした。

 独第22師団は前日10日、ル・シェンヌ農家東側の森林地帯で戦ったため各所に散ってしまい、その集合に時間が掛かり、隊を再編成するのにも時間を要しました。また、フォン・ヴィッティヒ、フォン・トレスコウ両師団長は申し合わせたように午前中の大部分を偵察と敵陣の観察に当て、漸く午前11時になってから攻撃を開始したのです。フリードリヒ・フランツ2世は前日夜、「翌11日の攻撃開始は午前8時とする」と命じますが、前述したように第22師団の準備が手間取ったため午前11時まで3時間延長し、両師団一斉に攻撃を開始するためこの時間にラッパ手らに号音を吹奏させるのでした。


 フォン・トレスコウ師団長から命じられ、コネレ南西に設えた砲兵陣地に入った野戦砲兵第9連隊の重砲第5中隊と騎砲兵第1中隊は、仏第2ロアール軍最右翼となる第21軍団のコリン将軍師団の陣地を満遍なく砲撃し、このためオート・ペルシュ(農場。コネレの北西1.8キロ。現存します)が炎上し、仏前哨兵は農場を棄てて北方高地に後退しました。これを見た独擲弾兵第89「メクレンブルク」連隊第3大隊はすかさず農場を確保しています。この大隊は続いて第75連隊第1大隊と共同で北方のレ・コアニエールの高地を攻撃し、数時間の激闘の末高地から仏軍を駆逐しこの重要な拠点を奪取するのでした。

 第17師団他の3個(第89連隊第1、第90連隊第2、猟兵第14)大隊はこの降り積もった雪が凍り付いた高地斜面を苦労しながら踏破し、ラ・ヴァレ・ド・ヴォー(数軒の農家。レ・コアニエールの北東800m。現存します)を占拠し、順次レ・グラン・ヴォー(農場。同北750m。現存)やラ・シャルパントリ(農家。現存しません)をも占拠して、苦労しながら続行して来た軽砲第5中隊の1個小隊は北方へ退却する仏軍を砲撃するのでした。




普仏戦争こぼれ話~ステファジウス大尉の最期


挿絵(By みてみん)

リヒャルト・エデュアルド・ステファジウス

(1832.12.4-1871.1.15)


新聞に載ったボーヌ=ラ=ロランド会戦の記事

挿絵(By みてみん)

「ステファジウス大尉」

「第3軍団野戦砲兵軽砲第1中隊長のステファジウス大尉。彼は砲兵指揮官の中でも名を知られた男です。

 バルヴィル(=アン=ガティネ。ボーヌ=ラ=ロランドの北方)にて。1870年11月28日」


 ステファジウスはブランデンブルク州北東辺境でポンメルン州との境にあるアルンスヴァルデ(現・ポーランドのホシュチュノ。ベルリン北東155キロ)近郊の寒村で生まれます。

 十代で独軍に参加したステファジウスは野戦砲兵一筋に軍歴を積み上げ、32歳・少尉で迎えた1864年の第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争におけるドゥッベル堡塁群の戦い序盤、アンカー中尉の襲撃*の際、堡塁奪取に大活躍し、鹵獲されたデンマークの大砲を勝利の証としてベルリンまで運ぶ輸送隊を指揮するという栄誉を得ました。戦後ステファジウスは中尉に昇進し、剣付赤鷲勲章(3級)をヴィルヘルム1世自らが授け、叩き上げの砲兵指揮官として頭角を現します。


挿絵(By みてみん)

ドゥッペル堡塁・砲台の占領


※この際に一工兵カール・クリンケが那須の与一ばりに敵の面前で大見得を切り、爆薬を抱えて単身第2堡塁前の防壁を爆破し後に控えた歩兵に突破口を開きますが自身も瀕死の重傷を負って戦死した、という事績(旧軍でいうところの軍神)が有名です。


 66年には第5師団砲兵隊で中隊を率い、ギッチン(イチン)、ケーニヒグレーツ、ブリュン、そしてオーストリア本国と短くも目まぐるしい普墺戦争を戦い抜きますが、ステファジウスは砲弾飛び交う砲列線で一切遮蔽に頼ることなく常に陣頭指揮をしていたにも関わらず掠り傷ひとつ負わず、その豪胆さと「不死身」そして味方を鼓舞し部下を統率する能力に対し階級を越えて敬愛する者多数、これは一般新聞各紙にも取り上げられて大衆にも名声が響き渡りました。

 普仏戦争でも序盤のスピシュランからマルス=ラ=トゥール、グラヴロット、メッス包囲、そしてボーヌ=ラ=ロランドからのオルレアン近郊とル・マンに至る諸会戦に参加し既述通りの大活躍、これも無傷で切り抜ける強運を見せます。ステファジウス大尉は自己の中隊ばかりでなく師団や軍団全体にまで気を配って面倒を見、第3軍団の精神的支柱であり続けていました。

 しかし、彼に微笑み続けた勝利と幸運の女神も遂に目を離してしまう時(それとも独軍らしく「ヴァルハラからの迎えが来た」とでも言いましょうか)が訪れます。


 1871年1月11日の昼下がり。第10旅団将兵は勇敢に戦っていたものの数倍と思える強力な仏軍を前に劣勢となっていました。弾薬切れの怖れも出て来た彼らは師団本隊からの増援を熱望していたのです。するとそこに、旅団に隷属していたものの劣悪な環境と敵の猛射撃で中々砲列を展開出来ないでいた砲兵2個中隊が、犠牲を覚悟し前進して来ました。その中には全軍に名が轟くステファジウス大尉率いる野戦砲兵第3連隊・軽砲第1中隊もいました。ステファジウス中隊もここ数日の戦いにより損害を受けており、それでも歩兵の危機に急ぎ砲を修繕し駆け付けたのでした。

 面前の敵に対し砲撃を命じたステファジウス大尉は、いつものように愛馬に跨り砲列線横に立って陣頭指揮を始めましたが、直後、敵狙撃兵の放ったシャスポー銃弾に胸を射抜かれてしまうのです。

 愛する「不死身の」中隊長が倒れたのを見た砲兵たちは慌てて彼をパリニエ=レヴックの野戦病院まで後送し手当を施しました。しかし大尉は会戦4日後の1月15日、師団長らが見守る中、手当の甲斐なく息を引き取ってしまいました。


 彼の最期の言葉は覗き込む師団長を見上げて呟いた次の言葉、と伝えられます。


「ああ、師団長閣下。第5師団はステファジウス無しでもやって行けますか?」


 これに対しステュルプナーゲル将軍がどう答えたのかは不詳ですが、師団長は多分感極まりながらも「師団の宝」に対し「君が戻って来るまで何とかやって行くから、そんなことは心配せずに頑張って治せ」などと励ましたのではないでしょうか?

 あと僅か半月で戦争が終わろうかという時、歴戦の勇士ステファジウスは師団長の言葉に安堵して旅立ったと信じます。


挿絵(By みてみん)

1864年のステファジウス





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ