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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリの苦悶と『ル・マン』
441/534

ル・マンの戦い/1月11日(前)

☆ シャンパーニュの戦闘


 独第3軍団を率いるレイマー・コンスタンチン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将は、ル・マンを指呼にした10日夜、翌11日にも攻撃の手を緩めず続行するためにはこの日(10日)行ったような支隊単位での進撃ではなく軍団の総力を結集し面前の敵に当たらねば市街に達することは出来ない、と考えます。既に目標の市街地(ユイヌ川対岸)までは4キロ程度、敵の密度も必然的に高いのですから当然の考えだと思います。しかし、シャンジェから西へ進んでユイヌを渡河し東側からル・マン市街へ侵入しようとするこの作戦では、その右翼(北側)側面にあるオーヴル高地に構えるほぼ1個師団と想定する仏軍集団が大いに脅威となり、また、これを牽制するためにもサン=テュベール・デ・ロシュとシャンパーニュを押さえているフーゴー・ヘルマン・フォン・ビスマルク大佐率いる第12旅団を呼び寄せるわけには行かず、従って将軍がル・マンへの攻撃機動を行うには、まず後方からやって来るフォン・マンシュタイン歩兵大将率いる独第9軍団(歩兵は第18師団のみ)が第12旅団の戦区に代わって参入するまで待たねばならないこととなるのです。


 11日早朝。このオーヴル高地からシャンジェ方面の戦線で先に動いたのは仏軍でした。


 前日、シャンパーニュを占領した独第12旅団は10日夜にシャンパーニュへ前哨を置き仏軍を警戒していましたが、深夜、この前衛は命令の行き違いから部落を放棄してしまい、サン=テュベールまで戻って来てしまいました。

 前10日、ユイヌ対岸に退いて川越しに独軍と対峙していたグジェアール准将率いる仏第21軍団第4師団の左翼部隊は早朝に前進を開始しシャンパーニュを確保、西側のオーヴル高地に布陣していたパリ少将率いる仏第17軍団第2師団は2個小隊の砲兵を高地東端まで前進させ部落の守りを固めました。


 前哨の「勘違い」に雷を落としたサン=テュベール在の独第6師団長フォン・ブッデンブロック中将は第64「ブランデンブルク第8」連隊を代理指揮するオットー・フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ゲルシェン少佐*に対し、「第1とF大隊を直率してシャンパーニュを奪還せよ」と命じます。野戦砲兵第3連隊の重砲第5中隊を傘下に加えたゲルシェン少佐は、第3中隊(軍本営の護衛)と第9中隊(輜重護衛)を欠いて6個中隊だけとなっていた2個大隊と共に北上し、まず展開可能だった4門のクルップ6ポンド砲によるオーヴル高地東端への先制砲撃で仏軍砲兵を退却させると、F大隊に部落への突撃を命じました。ところが、部落にいた第21軍団第4師団・いわゆる「ブルゴーニュ兵団」兵は激しく抗戦し、一進一退の市街戦は2時間以上に及ぶのです。特に教会に籠もった仏兵は奮戦し最期まで独軍を足止めしますが、午前11時になると疲弊した仏軍は総崩れとなって潰走し、150名の捕虜を出しつつオーヴル高地へ撤退したのでした。この時、部落北を湾曲し流れるユイヌ川に架かる常設橋も独軍が確保し、ゲルシェン少佐はユイヌ右岸に潜む仏第21軍団を警戒して即席のバリケードを築き橋を封鎖するのでした(仏側の記録ではこのバリケードは元々仏軍が築いたことになっています。後述)。


挿絵(By みてみん)

ル・マンの戦い シャンパーニュの戦闘71.1.11(G・クック画)


 第64連隊がシャンパーニュを確保したとの報告を受けたブッデンブロック将軍とビスマルク大佐は、ゲルシェン少佐に「シャンパーニュを死守せよ」と命じると共に「マンシュタイン軍団がやって来るまで」と第24「ブランデンブルク第4」連隊のF大隊を前哨が警戒中のルネ・ドゥーヴルまで前進させ、正午、残りの諸隊をレ・ザレシュ城館(イヴレ=レヴックの南1.2キロ。ホテルとして現存します)に向け前進させました。しかし、このル・マンへの鉄道線に沿った前進路はオーヴル高地やその西側にある仏軍陣地から俯瞰され、その砲兵によって狙い撃ちされてしまうため、ビスマルク大佐は仕方がなく一旦南へ下ってレ・ピュイ(サン=テュベール・デ・ロシュの南西1.2キロ)からゲ・オー・オワ川(ルネ・ドーヴルの東側を水源にアミゲの西でゲ・ペレ川に合流する小河川)に沿って西へ、アミゲ(ルネ・ドーヴルからは南南西へ1.9キロ)付近を経由する迂回路を辿ることにするのでした。


 しかし直後に第3軍団本隊正面の戦闘が激戦となり(後述)、正午頃に本営幕僚を引き連れサン=テュベールへ到着したカール王子は、フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将に対し「麾下第10軍団は可能な限り最短の経路を辿ってル・マンの戦線に至り速やかに参戦せよ」との命令を送付し、サン=テュベール付近に接近した第9軍団に対し即座の参戦を厳命したのです。


☆ オーヴル高地の戦闘


挿絵(By みてみん)

オーヴル高地戦場図(1月11日・15時頃)


 オーヴル高地はシャンパーニュの西からイヴレ=レヴック東郊までの間、ユイヌ川の南側に隆起するプラトー・ドーヴルと呼ばれる標高100m前後の丘陵です。この地は既述通りアルドネからイヴレ=レヴックへ、またはパリニエからシャンジェへ至るそれぞれの本街道筋を俯瞰し扼することが出来たため、シャンジー将軍は年明け早々から錬成続く第21軍団を常駐させ、丘陵に点在する農家や小部落に重厚な防御を施し手強い拠点とするのでした。またこの日はヴィリエール(シャンパーニュの西1.3キロに現存するヴィリエール農場とその南北に点在する家屋を総称して呼びます)の北にある小丘(ヴィリエール農場の北330m。現ボールガール集落の東側)にミトライユーズ4門が備えられ、高地の南西端に設えた肩墻砲台でも砲兵1個中隊が南方斜面に対し睨みを効かせていました。


 独第9軍団長フォン・マンシュタイン将軍は午後1時、カール王子より直接「オーヴル高地を占領せよ」と命じられます。

 バイエル・フォン・カルガー大佐が率いる前衛は、シャンパーニュを占領しその西側に展開するゲルシェン少佐隊前哨の援護射撃を貰い、両側が積雪によって白い壁となった幾筋かの坂を登ります。すると血気に逸るゲルシェン少佐も部下の一部を率いその先頭に立って進撃を始めてしまい、両部隊は軍団を超えて互いに援助しつつ東側高地へ進みました。その後方からはカルガー隊の砲兵2個中隊が人馬共に幾度も脚を滑らせる急坂に四苦八苦しながらも高地東端へ達し、そのままヴィリエール東郊の丘陵西側に展開するとその西側に点在する敵拠点に対して砲撃を開始しました。


※1月11日の独第9軍団行軍序列


軍団長 アルベルト・エーレンライク・グスタフ・フォン・マンシュタイン歩兵大将

◎第18師団

師団長 男爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヴランゲル中将

*前衛

第36旅団長代理オスカー・ヴィルヘルム・アルフォンソ・モーティマー・バイエル・フォン・カルガー大佐指揮

○擲弾兵第11「シュレジエン第2」連隊・第2、F大隊

○第85「ホルシュタイン」連隊・第2大隊

○猟兵第9「ラウエンブルク」大隊

○驃騎兵第16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊(後刻に本隊へ参入)

○野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・軽砲第2、重砲第2中隊

○第9軍団野戦工兵第3中隊

*本隊

第35旅団長ハインリッヒ・カール・エリ・フォン・ブルーメンタール少将

○第85連隊・第1、F大隊

◇第35旅団(フュージリア第36「マグデブルク」連隊/第84「シュレスヴィヒ」連隊)

○野戦砲兵第9連隊・軽砲第1、重砲第1中隊

◇軍団砲兵隊

野戦砲兵第9連隊第2大隊長・コルマン中佐

○野戦砲兵第9連隊・軽砲第3,4中隊

○同連隊・重砲第3,4中隊

○同連隊・騎砲兵第2中隊

○ヘッセン大公国野戦工兵中隊と野戦軽架橋縦列


※軍団傘下の第25「ヘッセン大公国」師団はオルレアンを中心にロアール(Loire)沿岸へ展開し、擲弾兵第11連隊第1大隊は捕虜の護送任務、第36連隊第8中隊は輜重護衛任務、軍団工兵第2中隊はラニー(=シュル=マルヌ。パリの東26.2キロ)の停車場警備にそれぞれ就いて離れています。


 擲弾兵第11連隊の第2大隊を率いる若き伯爵フォン・ストッシュ少佐は、第8中隊を高地東側の守備に残すと第5,6中隊を率いユイヌ川に沿って続く斜面の小道を仏軍左翼(北)へ向かいます。

 一方、同連隊のF大隊は一見し重厚で手強いと分かるル・オー・タイユー(農家。シャンパーニュの西1.2キロ。跡のみで現存しません)を後回しとばかりに避けてヴェリエール部落を直接狙い南方からの攻撃を企てました。しかし、正面からの攻撃ではヴィリエール後方の丘に設置されたミトライユーズ砲陣地からの射撃により損害が大きくなる可能性が高かったため、F大隊は攻撃に先立ち第10中隊の2個小隊と第9中隊の1個小隊(併せて約半個中隊)をこの丘に突進させてミトライユーズの無力化を図ります。部下を引き連れ遮蔽を伝いミトライユーズ砲陣地まで40mに接近した第10中隊の小隊長、アルフォンス・フォン・ツァヴァズキー少尉は、部下の先頭に立つと「突撃!」と一声、仏軍陣地へ突入します。同時にシュニーベル曹長率いる中隊同僚小隊も反対側から仏軍陣地に雪崩込み、両小隊は仏砲兵を短時間の白兵で駆逐してミトライユーズ3門の鹵獲に成功するのでした。


挿絵(By みてみん)

ミトライユーズ砲陣地を襲う独軍将兵


 これで仏軍はヴェリエールとその周辺に点在した農家から撤退せざるを得なくなり、それでも戦意衰えない仏将兵の一部は、独軍に対抗し得る貴重な戦力だったミトライユーズを奪い返そうと逆襲に出ますが、これもツァヴァズキー少尉の後から駆け付けたフォン・ビーバーシュタイン中尉率いる第10、11両中隊の各1個小隊による正確な猛射撃と巧みな近接戦によって阻止されてしまうのでした(この防戦中殊勲を上げたばかりのシュニーベル曹長は重傷を負い、ツァヴァズキー少尉は致命傷を受け後刻亡くなってしまいます)。

 同時に仏軍はゲルシェン少佐が西へ進み手薄となったため奪還に成功していたシャンパーニュの北に架かる常設橋も放棄し撤退しました。元々橋を護っていた第64連隊の第12中隊が増援として北上して来た擲弾兵第11連隊の第7中隊と共に逆襲し奪い返したのでした。


 ここで時計の針を11日早朝に戻します。

 この日の朝、ブルゴーニュ兵団(仏第21軍団第4師団)の第1旅団(この時期、ブルゴーニュ兵団は2個旅団を4個の「半旅団」に分割し運用しています)を率いるベル大佐はファティーヌ(シャンパーニュの北北東2.4キロ)の南郊、街道の切通し部分に旅団を集合させました。

 ベル大佐は昨日独軍が占領したシャンパーニュを奪還しようと彼の旅団の第1半旅団の主力(ロアール=アンフェリウール県の臨時護国軍1個大隊と戦列歩兵第25、86連隊の混成大隊)を直率しシャンパーニュに向かいます。午前5時頃、ユイヌ河岸に達した大佐はシャンパーニュへ斥侯を送り、独軍が部落を放棄していたことを知ると直ちに部下に橋を渡らせ部落を奪還するのでした。


※1871年1月10日からの第21軍団第4師団(別称「ブルターニュ兵団」)


◇第1旅団 ベル大佐(1/15からはジェンヌ大佐)

○第1半旅団 ヴィエル中佐

*臨時護国軍ロアール=アンフェリウール県・第1、2、3大隊

(ナント、シャントネ、サン=ナゼールの各地域郷土大隊)

*戦列歩兵「第25、第86連隊」混成大隊(サル大尉)

○第2半旅団 ダゲ中佐

*戦列歩兵第62連隊の1個大隊(ジェルマン大尉)

*戦列歩兵第97連隊の1個大隊(ラルモア大尉)

◇第2旅団 ドゥ・ピノー大佐

○第3半旅団 リフォー中佐

*戦列歩兵第19連隊の1個大隊

*護国軍マイエンヌ県第5、6大隊

*護国軍コートダモール県(ブルターニュ半島北部)の第6大隊

*臨時護国軍カンペール(フィニステール県の街)1個大隊(所属せずとの説あり)

○第4半旅団 ペリン中佐

*外人部隊1個中隊

*臨時護国軍モルビアン県の1個大隊

*護国軍ロアール=アンフェリウール県の1個大隊


 ベル大佐は周囲にあった材料で即席のバリケードを作り始めますが、その完成を待たずに独第64連隊の攻撃が始まってしまいます。既述通り「ドゥッベルの英雄ゲルシェン」率いる独軍に対し大佐等は勇敢かつ粘り強く2時間に渡って戦いましたが、砲兵援護もない仏軍は次第に劣勢となって部落中央の教会に追いつめられ、第25連隊兵は士官を含み約1個中隊を失ってしまい、シャンパーニュは再び独軍に奪われてしまうのです。

 この攻撃の最中、ベル大佐はオーヴル高地に進んだ旅団主力に合流するため弾雨の中をシャンパーニュから脱出しようと計りますが銃弾を全身に浴び壮絶な戦死を遂げてしまいました。同じくシャンパーニュを死守しようとしたサン・ナゼールの臨時護国軍大隊長、ドゥ・トレゴマン少佐も最後の拠点で戦死してしまい、予備役から召集されたベテランのエメリー大尉が残存兵の指揮を執ることとなります。

 大尉は残存兵を率いて墓地(場所不詳)に逃れ、ここでも防戦に努めましたが結局オーヴル高地へ敗走します。最終的に部落北のユイヌ架橋も独軍に奪われ、シャンパーニュの戦闘は終了するのです。


挿絵(By みてみん)

独第64連隊と戦う仏ベル大佐旅団


 さて、ヴィリエール後方のミトライユーズ砲陣地を蹂躙しヴィリエール周辺を確保した独軍は攻撃軸をル・オー・タイユーとその周辺に点在する農家へ指向し、これを南方から前進して来た猟兵第9大隊の2個(第1,2)中隊が援護しました。この猟兵大隊はルネ・ドゥーヴルにいた第24連隊F大隊と交代するために進んで来たもので、この後オーヴル高地東側の戦いは仏ベル大佐旅団とパリ将軍師団兵が激しく抵抗したため大激戦となるのです。

 独軍*は仏の拠点農家を一軒一軒確実に白兵で奪って行きましたが、この戦い方は犠牲もまた大きくなるものでした。それでも午後5時30分頃に最後の拠点から仏兵が逃走し、オーヴル高地東側はようやくにして独軍の手に落ちます。この戦いで仏軍(パリ将軍師団とベル大佐旅団のそれぞれ一部)は士官9名・下士官兵約200名を捕虜にされてしまうのでした。


※オーヴル高地東側ル・オー・タイユー付近の戦闘に参加した独軍諸隊

○擲弾兵第11連隊・第2大隊

○同連隊・第9,11中隊

○第64連隊・第11中隊

○第85連隊・第5,7中隊

○猟兵第9大隊・第1,2中隊


 一方、オーヴル高地の西側に対しては午後3時、第18師団本隊から第85連隊長の男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・ハインリッヒ・エドゥアルド・アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン大佐が同連隊第1、F大隊を直率して両街道を前進し、野戦砲兵第9連隊の軽砲第1、重砲第1両中隊は軍団砲兵部長の男爵ゲオルグ・ハインリッヒ・カール・フォン・プットカマー少将の命によりヴィリエールに向かう小街道とル・マン本街道の交差点に砲列を敷いて高地への砲撃を開始しました。フォン・マンシュタイン将軍は砲兵護衛と攻撃隊の左翼援護のためファルケンハウゼン大佐に命じて第1大隊の両翼(第1,4)中隊をルネ・ドーヴルへ進ませます。

 ところが、独軍の攻撃機動を知った仏軍はイヴレ=レヴック北郊丘陵と西郊のル・リュアール(小部落。イヴレ=レヴックの南西900m)付近の砲台から猛烈な砲撃を行い始めます。独軍砲兵は対抗射撃を行うものの高低差が大き過ぎ、砲撃は困難を極めました。これを見かねた第85連隊F大隊長代理のハーク大尉は、3個(第9~11)中隊を率いて同じく猛砲撃を繰り返していたオーヴル高地の南西角にある仏軍砲台(イヴレ=レヴックの東北東2キロ。現ル・テルトル・ドーヴル部落付近)に向かって前進を計りました。高地角下の斜面に張り付いた第10中隊は仏砲兵中隊の籠もる肩墻の前に展開していた散兵群と交戦して牽制を行うと、その隙に第9中隊は中隊長フォン・マウンツ中尉を先頭に砲台の右翼西側に対し突撃を敢行、中尉らは一旦立ち止まって正確な一斉射撃を行って砲兵の動揺を誘った後に再び突進、一気に仏砲兵を蹂躙して砲3門を奪うのでした。生き残った仏砲兵は残り3門の砲を急ぎ前車に繋ぎ砲台から西高地下へ遁走したのです。同時に砲台の左翼東側へ進んだものの、遅れを取ってしまった第11中隊は逃げる仏砲兵を追撃しますが追い切れませんでした。直後に南方斜面下から仏散兵群が砲台を奪還しようと迫りましたが、ホルシュタイン州のフュージリア兵はこれを迎撃し、激しい戦闘の末撃退に成功するのです。


挿絵(By みてみん)

オーヴル高地のパリ将軍師団将兵


 この間に同連隊第1大隊長代理のブレスチウス大尉は第2,3中隊を率いてレ・ゼートル(ヴィリエの南南西350mほどにある農場。現存します)から砲台東側の高地斜面を登り始め、第12中隊がこれに続きました。これによって発生したオーヴル西側高地の戦闘も凄惨を極め、仏軍に対し突撃と白兵を繰り返した独軍はブレスチウス大尉始め士官の多くを失いつつも優位に戦いを進めましたが、仏軍(パリ将軍師団兵)もまた渾身の力を振り絞り闘志を剥き出しにして奮戦し犠牲は双方更に膨れ上がります。しかし独軍はル・オー・タイユーを奪取したカルガー隊の一部も東側から現れて参戦し、やがて形勢不利となった仏軍はヴィリエール西方の諸農場(レ・グッティエールやル・シェーヌ、レ・フィール・デュなど。全て現存します)を放棄して高地南西側斜面を転がり落ちるようにしてイヴレ=レヴック方向へ撤退して行くのでした。

 オーヴル高地西部でも激戦が始まった頃、ルネ・ドゥーヴルの猟兵第9大隊残り2個(第3,4)中隊は、やって来た第85連隊兵(第1,4中隊)に後を託して街道を西へ進み、ル・ポリュカン(一軒家。イヴレ=レヴックの東南東980m付近で現国道D314号線のインターチェンジ付近にありました。現在付近は集落になっています)手前の森林に達するのでした。


 仏パリ将軍師団がオーヴル高地よりイヴレ=レヴックへ追い落とされた時。イヴレ=レヴック周辺の戦域を担当していた第21軍団「ブルターニュ兵団」司令官、グジェアール海軍准将は高地の斜面を我先にイヴレ市街に向けて逃走するパリ将軍師団兵を見て、直ちに高地を奪還し戦線を立て直すことを命じたのです。


挿絵(By みてみん)

グジェアール准将


 オーギュスト・グジェアール(英語読みでゴーガードとする資料も多くあります)海軍准将は当時43歳。海軍根拠地のひとつロリアンで生まれ15歳で仏海軍に入隊した彼は17歳で見習士官に登用され数年で少尉昇進、21歳で中尉となります。26歳で大尉となるとクリミア戦争で活躍し名誉勲章を受勲され、戦後はロリアン軍港で副官として勤務した後に少佐昇進、小艦艇の艦長や陸戦海兵指揮官としてアフリカや東南アジアで植民地獲得戦争に参戦します。39歳で中佐となり、ロリアンを母港とする艦艇勤務を続けますがここで普仏戦争が起こり、帝政の崩壊、仏軍の混乱により陸に上がって陸戦隊を率いることになり、上司のコンスタン・ルイ・ジャン・バンジャマン・ジョレス海軍大佐と共にブレスト、ロリアン、サン=ナゼールそしてナントなど軍港の要員と水兵を中核とする兵団を組織してトゥールの国防政府派遣部に隷属しました。やがてブルターニュ地方の臨時護国軍兵に義勇兵などを併合してブルターニュ兵団を創設、訓練を始めます。ここでガンベタの知遇を得たジョレスとグジェアールは第21軍団の組織と戦力化を託され、ロアール軍分裂後の戦局が切迫する中、グジェアールはジョレス麾下、雑多な兵力を戦力にまで仕上げる苦労を重ねてこの日を迎えたのでした。因みにこの時戦時昇進(と言うよりガンベタの独断で)によって「准将」の階級を得、休戦後海軍より正式に海軍大佐となっています。


挿絵(By みてみん)

グジェアール准将とブルターニュ兵団の指揮官たち


 戦後グジェアール将軍(1880年代にガンベタの下で海軍大臣となります)が残した証言によると、将軍はこの日の午後一杯、オーヴル高地の戦いをイヴレ=レヴックの北郊外にあるユイヌ川の「ローマ橋」ピエール橋近くで観戦していましたが、午後4時過ぎ、パリ師団兵が雪で覆われ凍り付いた高地斜面を転がるように降りて来るのを目撃しました。それは全く烏合の衆の体で、馬匹に曳かれた砲車は混乱して暴走し、兵士たちは恐怖に我を忘れてイヴレ=レヴック市街やユイヌの河岸に溢れ始めたのです。独軍は既に高地上を占領した様子でグジェアール将軍は「このままではロアール軍はサルト川とユイヌ川の間に閉じ込められてしまう」と考え、「敵を管制するオーヴル高地は絶対に保持しなくてはならない」とするのです。

「この深刻な状況では一刻も躊躇は許されない」と思ったグジェアール将軍は、「敵が高地に砲を据え付ける前にどんな犠牲を払っても奪い返さなくてはならない」として部下に「このピエール橋を封鎖して敵も味方も通過させてはならない」と厳命しました。そして部下に威嚇射撃を命じ、山砲が2発の榴散弾を発射して逃げて来るパリ師団兵の集団が驚いて止まるようにしたのです。将軍はこの集団に対し「逃亡すれば撃つ」と脅し、高地へ戻るよう促すのでした。将軍は「私の脅しに多くの者が留まったが幾人かは半分凍った川に入って溺れてしまった」と回想しています。


挿絵(By みてみん)

ピエール橋を渡る仏兵(背景はオーヴル高地/20世紀初頭)


 我に返ったパリ師団の士官たちは周囲に佇む兵士たちを集め、今一度隊列を組んで高地に戻ろうとします。しかし、一度恐怖を感じてしまった兵士たちの動きは鈍く、グジェアール将軍は彼らに反撃の主軸を任せられないと即断するのです。

 将軍は急ぎ近くに布陣していた第3半旅団所属のレンヌ市臨時義勇兵大隊と戦列歩兵第19連隊の1個大隊にピエールの橋と河岸とを護らせると、コートダモール県の護国軍大隊、西部義勇兵集団の教皇領ズアーブたち、そして未だ戦意が衰えていない様子だったと言うパリ将軍師団のマルシェ猟兵第10大隊残存兵など合わせて2,000名前後の戦闘員をかき集め集合させました。午後5時30分頃、グジェアール准将は幕僚と共にこの戦闘集団を率いてピエールの橋を渡り高地を登り始めたのです。

 このイヴレ=レヴックに面したオーヴル高地西側斜面はまっすぐにユイヌ川へ下っており、低木と耕作地が織りなして所々にボカージュもあるただでさえ登攀し難い地形でした。それに厚く雪が積もって凍り付き、雨水溝が雪に隠され落とし穴と化しており道路以外の登攀はほとんど不可能でした。

 滑る坂道を行くグジェアール将軍たちは高地上の家屋や砲台の肩墻に隠れた独第85連隊兵から猛烈な銃撃を浴びます。しかしコートダモール県の護国軍大隊は西部義勇兵集団と共に弾雨の中急坂を登り、マルシェ猟兵はこれを援護しました。

 この時、傍らを行くあのロワニーから生還した教皇領ズアーブ兵たちにグジェアール将軍はこう語り掛けた、と伝えられます。

「行こう、紳士諸君。神と祖国は諸君らを必要としているぞ!」

 将軍はラッパ手に突撃の号音を吹かせると2,000名の雑多な集団はホルシュタイン兵に向かって突撃し戦い始めたのでした。


挿絵(By みてみん)

オーヴル高地の戦い リオネル・ロワイヤル画(1874)


 戦闘は砲台下にあったロマディエール農場(砲台のあったル・テルトル・ドーヴルの南西200m付近。現存しません)を確保した仏軍と砲台の独軍との間で激しい銃撃戦となった後、一部では白兵戦になりましたが独軍は30分ほどでグジェアール将軍らを撃退し、仏の残存兵たちは個々にイヴレ=レヴックに向かって撤退しました。この途中ル・ポリュカン付近で西部義勇兵集団の義勇兵と教皇領ズアーブたちは独猟兵第9大隊の兵士たちから猛銃撃を浴びせられ、不意を突かれて士官13名、下士官兵80名が捕虜となっています。


 この戦闘でグジェアール将軍は6発の銃弾を受けた乗馬を失いますが本人は無事でした。しかし護国軍部隊は320名中士官6名と200名以上の下士官兵を失い、マルシェ猟兵第10大隊もまた多くの将兵を失いました。斃れた多くの士官の中には教皇領ズアーブの大尉ベルビューがいます。彼は元ル・マンの若い司祭で、同じくル・マンの神父フォクレイはベルビューと共に戦場へ赴きますが、ベルビューが撃たれて倒れると彼を助けようとして神父も撃たれ、共々死亡してしまいました。


挿絵(By みてみん)

斃れたベルビュー大尉とフォクレイ神父


 ル・マン前面中央の戦線を統括指揮するルイ・ジョセフ・ジャン・フランシス・イシドロ・ドゥ・コロンブ将軍は、グジェアール将軍の攻撃が頓挫すると、高地麓で落ち着きを取り戻したパリ将軍師団将兵とブルターニュ兵団の残部に対し再度攻撃を命じ、既に夜に入ったこの時は、さすがの独第85連隊も右翼東側にまで仏軍の進出を許してしまったため砲台や家屋を放棄し、仏軍が再び使用し始めたミトライユーズの集中砲撃に追われるようにして一気に高地を下ったのでした。


 戦闘は午後8時過ぎに終了し、仏軍は一部がイヴレ=レヴックへ戻りますが多くは西側高地上に留まり、終夜東側に潜む独軍とにらみ合いを続けることとなるのです。


挿絵(By みてみん)

イヴレ=レヴックにあるオーヴル高地戦記念塔



※オットー・フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ゲルシェン少佐


挿絵(By みてみん)


 1864年の第2次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争(独名「ドイツ=デンマーク戦争」)に第24連隊第6中隊長(大尉)として参戦すると「デュッべル堡塁の戦い」と「アルス島上陸戦」において最前線で大活躍し、戦後、ヴィルヘルム1世国王から赤鷲勲章(4級)とホーエンツォレルン家勲章(4級)を授けられ、またメクレンブルク=シュヴェリーン大公からミリタリ=メリット=クロス勲章(2級)、オーストリア皇帝から鉄王冠勲章(3級)を授けられて「勇者」として一般でも名が知られるようになりました。


挿絵(By みてみん)

ドゥッベル堡塁の戦い(1864年)


 66年の普墺戦争ではフォン・マンシュタイン中将の第6師団第12旅団配下の第64連隊第7中隊長で参戦し、ケーニヒグレーツの戦いで奮戦し負傷しています。68年時点ではアルフレート・アウグスト・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・フォン・レヴィンスキー少佐(普仏戦争時は第5師団参謀。即ちこのル・マン会戦時、オーヴル高地の南側シャンジェの後方にいました)と共に独軍最多受勲者となっていたゲルシェンは同年少佐に進級、同連隊第2大隊長となります。普仏戦争には同大隊長として参戦し、マルス=ラ=トゥール戦のヴィオンヴィル攻防で左足脹ら脛に銃傷を負って入院しますが退院後は直ちに原隊へ復帰、上長が負傷または疾病で倒れる中、連隊長代理としてル・マンの戦いに臨んだのでした。


挿絵(By みてみん)

アルス島上陸作戦(ヴィルヘルム・カンプハウゼン画)


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