ミュンヘングレーツの戦い(後)
明けて6月28日。ミュンヘングレーツ周辺でプロシア軍を待ち受けたのはオーストリア第1軍団のライニンゲン少将旅団。その7,000人程度の兵力のうち、数個大隊を北西へ分散、主力をミュンヘングレーツの西側郊外クロステル(現チェコ/クラーシュテル)に置いて敵の襲来に備えました。
一方、北方のヒューナーヴァッサーで一旦オーストリア軍前哨を破り、この日改めて南下して来たのはプロシア・エルベ軍の前衛。第16師団(エッツェル中将指揮)の半数、セーレル少将率いる第31旅団でした。
また、イーザー上流のポドルで敵を破りイーザー川に架かる橋を確保したプロシア第一軍。
こちらは第7師団(フランセキー中将指揮)を左翼のジーダー(現・ジュジャール)から、第8師団(ホルン中将指揮)を右翼のポドル前面からミュンヘングレーツに向けてゆっくりと進軍しました。第8師団の第15旅団(ボーズ少将指揮)は一昨日ポドルで夜戦を戦った部隊です。
午前7時。ミュンヘングレーツ北西7キロのニーダー・グルパイ(現チェコ/ドルニー・クルパー)部落で最初の戦闘が発生しました。
エルベ軍先鋒のセーレル少将旅団はミュンヘングレーツへの街道を南進中、ここで待ち構えていたライニンゲン旅団の一個大隊と衝突します。オーストリア兵は奮戦しますが勢いはプロシア側にあり、増援を得てもプロシア軍を止められません。次第にオーストリア軍は押され、三キロ南のワイスライム部落(現ビーラー・フリーナ)まで退却しました。セーレル旅団はそれを追って南下して行きます。
北西方面からプロシア軍迫るの報に接したライニンゲン少将は、ワイスライムの部隊を援護するため、北隣の部落ブコヴィナ(現在も同名)へ一個大隊(1,000人)を派遣しました。
午前9時。ワイスライムとブコヴィナで再び両軍は衝突します。騎兵をうまく使ったオーストリア軍が一時プロシア・セーレル旅団を食い止めますが、プロシア側は付近の山頂に砲兵隊を上げワイスライムの部落を砲撃し、敵がそれに気を取られている間に歩兵が部落の南を流れるイーザー川の支流沿いに迂回、部落を包囲に掛かりました。
完全に劣勢となったワイスライムとブコヴィナの部隊は包囲を避け、9時30分、本隊のいるクロステルまで退却して行きました。
勢いに乗ったセーレル旅団はそのままクロステルに迫ります。その後方からは第16師団の本隊がやって来ました。ライニンゲン将軍はこのままでは部隊が全滅してしまう、と全軍ミュンヘングレーツへの退却を命じました。
退却はプロシア軍の猛砲撃下で行われます。砲撃の犠牲が出る中、将軍は全部隊がイーザー川に掛かる木橋を渡り切ると、直ちに橋の破壊を命じ、これを川に落としてしまいました(午前10時)。
こうしてライニンゲン将軍は川を挟んで第16師団と対峙し、敵の強行渡河を防ごうとしたのでしょうが、実は北方で重大な事態が発生していたのです。
エルベ軍のビッテンフェルト大将は先鋒のセーレル旅団の他に、もう一つの接近ルートで部隊を動かしていました。
それが第14師団(マインヘーヴェル中将指揮)で、その先鋒は既に午前8時、敵の警戒が手薄だったモヘルニック(ミュンヘングレーツの北三キロ・現モヘルニツェ)に到着、浅瀬を見つけて次々にイーザー川を渡っていたのです。
その本隊が到着するとマインヘーヴェル将軍は直ちに架橋を命じ、工兵たちは素早く木の仮設橋を浅瀬に渡しました。こうして正午にはおよそ一万人のプロシア軍がミュンヘングレーツの北に出現したのです。
北と西から一つの敵にアプローチする。そのタイミングも素晴らしく、正に絵に描いた様な「分進合撃」でした。
カール・エーベルハルト・ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルト大将は当時70歳と高齢でしたが、代々プロシア軍人を輩出した名家の出身で、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争ではアルス島上陸作戦の指揮官としてモルトケが描いた作戦通りに島の占領を成功させた人です。
その指揮振りは堅実で、この時もモルトケの部下であるエルベ軍参謀長シュトロハイム大佐の進言通り分進合撃を成功させたのでした。
余談ですが田中芳樹氏の大作「銀河英雄伝説」の印象的な登場人物、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトはこの将軍がヒントとなったのではないでしょうか?
ビッテンフェルト
さて、ライニンゲン将軍は北に敵が出現、と聞くや、潔くミュンヘングレーツの放棄を決定(11時)し、町の東にあるホルカ山へ退却して行きました。
こうしてエルベ軍はライニンゲン旅団を町から追い出し、第14師団は町に入城します。北西からやって来た第16師団と続く第15師団も午後1時には仮設橋の架橋と浅瀬の渡河を開始しました。
一方、オーストリア第1軍団の主力はミュンヘングレーツ南東五キロにあるフュルステンブルク(現・クニェジュモスト)周辺に陣を張っていました。
午前8時には北西のミュンヘングレーツ方面から砲声が幾度も聞こえ始め、クラム=グラース将軍はアベル少将旅団をフュルステンブルクより北西二キロにあるボシン(現・ボセニ)村まで前進させ、敵に備えます。また、北にあるムスキー高地にも砲兵部隊と猟兵部隊を派遣、ポドルから迫って来る筈のプロシア第一軍に備えさせました。
しかし昼過ぎにライニンゲン旅団が退却して来ると、プロシア軍の急速な前進を知り、グラース将軍はライニンゲンとアベル両旅団をフュルステンブルク方面へ引き揚げさせる様命令しました。
同じ頃、イーザー川の南側をミュンヘングレーツへ向かっていたプロシア第8師団は、エルベ軍が先にミュンヘングレーツへ入ったことを知ると南側の高原地帯を経てフュルステンブルク方面へ進路を変えました。
部隊がちょうどブレジナ村に入った時、南側のムスキー高地(現・ムジュスキー)に陣を敷いていたオーストリアの砲兵隊がこの軍列に向かって砲撃を開始しました。
砲撃は熾烈で、負傷者が出始めると第8師団は一旦ポドル方向へ退却しました。
これを見ていた第7師団のフランセキー中将は部隊を区分して南側の敵に対抗することにします。
午前11時、まず二個大隊を湿地帯沿いに南へ迂回させ、ピルジーラス(現・プジーフラジ)部落から急な斜面を攻め上がらせます。
次に別の二個大隊をウォルジナ(現・オルシナ)部落とドゥネボフ(現・ドネボ)部落とに分けて高地を急襲、このミニ合撃で高地上の砲兵やエリート部隊の猟兵大隊を追い出すことに成功しました。これはタイミングの難しい困難な采配で、師団長フランセキー将軍の手腕が光ります。
この正午頃の第7師団の勝利が戦いの分水嶺でした。
この頃、ミュンヘングレーツを追い出されたライニンゲン旅団と、前進したものの退却を命じられたアベル旅団、そしてムスキー高地から追い出された部隊の三つの集団が全て、それぞれ部隊主力のいるフュルステンブルクへ向かって退却して行きました。プロシア軍は騎兵を放って落後するオーストリア兵を捕虜にして行きました。
このミュンヘングレーツの戦いで、プロシア軍は士官8名に兵士333名を失い、
オーストリア軍は20名の士官と兵士1,634名を失いました。
ザクセン軍は南に離れていて、この戦いには全く参加出来ませんでした。
ミュンヘングレーツの戦い
ミュンヘングレーツの戦いに参加した主な部隊
☆オーストリア・ボヘミア軍
○第一軍団 33,000
司令官クラム・グラース騎兵将軍
参謀長リッツェルホーフェン大佐
リングスハイム少将旅団6,600
ポッシャッハー少将旅団6,600
ピレー少将旅団6,500
アベル少将旅団6,500
ライニンゲン少将旅団6,900
槍騎兵4個中隊700騎
軍団砲兵850 砲40(全体で80)
☆プロシア・エルベ軍 48,800
司令官ビッテンフェルト大将
参謀長シュトロハイム大佐
第14師団 14,800 マインヘーヴェル中将
第27旅団シュワルツコッペン少将6,100
第28旅団ヒラー少将6,100
猟兵第7大隊1,000
騎兵600
砲兵580砲24
他
第15師団 14,300 カンスタイン中将
第29旅団スティックラート少将6,100
第30旅団グラスナップ少将6,100
騎兵780
砲兵580砲24
他
第16師団 13,600 エッツェル中将
銃兵旅団バイエル少将6,100
第31旅団セーレル少将6,100
猟兵第8大隊1,000
騎兵780
砲兵300砲12
他
☆プロシア第一軍 97,000
司令官フリードリヒ・カール・ニコラウス親王
参謀長レーツ中将
○第四軍団(司令部なし名称のみ)25,600
第7師団 14,100 フランセキー中将
第13旅団シュッツホーフ少将6,100
第14旅団ゴルドン少将6,100
騎兵600
砲兵580砲24
他
第8師団 11,500 ホルン中将
第15旅団ボーズ少将6,100
第16旅団シュミット少将3,100
猟兵第4大隊1,000
騎兵600
砲兵580 砲24
他




