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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリの苦悶と『ル・マン』
439/534

ル・マンの戦い/1月10日(前)


 フランス西部の主要都市のひとつであるサルト県都ル・マンは古代ローマ帝国時代から存在する古都で、現代ではモータースポーツ「ル・マン24時間レース」の開催地として有名です。1923年に始まったこの自動車耐久レースは市街南郊のシルキュイ・ドゥ・ラ・サルト、即ちサルト・サーキットと呼ばれる公道(拙作では「国道DXX号線」と記しているD番号の付く地方道)とブガッティ・サーキットからなる全長13キロ超のコースで毎年6月に行われますが、普仏戦争当時、このパリニエ=レヴックの西側となる地域はボカージュに区切られた耕作地と果樹園、そして雑木林と小部落が点在する典型的な田園風景が広がるだけの場所でした。


 カール王子の独第二軍本営は、ここ数日(1871年1月7日から9日)、非常な労苦と犠牲で得た経験から、このル・マン周辺地域の地形と折からの悪天候、そして昼が短い1月という季節を考慮すれば「行軍及び攻撃機動を縦深な隊形で行うことは時間の浪費」と悟り、これを避けるには「各軍団を軽快かつ単独で行動する支隊に分割し、これを広く散開させて前進する」しかない、と考えます。しかしこの方法では至る所で脆弱な部隊が倍する敵と衝突する可能性が高くなり、カール王子ら軍本営の首脳陣は、「相互連絡も上手く行かない環境下では数的にかなり不利な戦闘を各地で強いられることになるだろう」と予測し、それでも「ル・マンを落とすためには」と覚悟を固め、各軍団本営にこの方針を通達するのでした。

 1月9日夜。戦闘を終えた諸隊が各地から報告を上げて来ると、独第3軍団長コンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将はカール王子の訓令を踏まえ翌10日の命令を以下の通り発します。

「第11、第9の両旅団はアルドネ(=シュル=メリズ)とゲ・ドゥ・ローヌ(農場。アルドネの南4.1キロ。現存しません)をそれぞれ発してレ・ブロッス(同西6.8キロ)とレ・シャッスリー(一軒家。同南西6.2キロ。現存しません)を経て前進し、シャンジェ(同西11キロ)付近で合同せよ。第12旅団はル・マンへの本街道(現・国道D357号線)上を直進せよ。第10旅団は第10軍団の前進を援助すべくヴォルネ(アルドネの南南東7.6キロ)からパリニエ=レヴックへ進め」


※1月10日・独第3軍団の行軍序列(左翼から右翼)


◎第5師団

師団長 ヴォルフ・ルイス・フェルディナント・フォン・シュテュルプナーゲル中将


*パリニエ=レヴックを目標とする支隊

(第10旅団長クルト・ルートヴィヒ・アーダルベルト・フォン・シュヴェリーン少将指揮)

◇第10旅団(擲弾兵第12「ブランデンブルク第2/カール親王」連隊、第52「ブランデンブルク第6」連隊)

○槍騎兵第3「ブランデンブルク第1/ロシア皇帝」連隊・第3中隊

○野戦砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・軽砲第1中隊・重砲第2中隊


*レ・シャスリー経由で前進する支隊

◇前衛(槍騎兵第3連隊長伯爵フォン・デア・グリューベン大佐指揮)

○第48「ブランデンブルク第5」連隊

○槍騎兵第3連隊・第2,4,5中隊

○野戦砲兵第3連隊・重砲第1中隊

○第3軍団工兵・第2中隊の数個小隊

◇本隊(第9旅団長カール・ベルンハルト・フォン・コンタ大佐指揮)

○擲弾兵第8「親衛/ブランデンブルク第1」連隊

○猟兵第3「ブランデンブルク」大隊

○野戦砲兵第3連隊・軽砲第2中隊

○第3軍団工兵・第2中隊主力


◎第6師団

師団長 男爵ロベルト・エデュアルド・エミール・フォン・ブッデンブロック中将


*レ・ブロッス経由で前進する支隊

(第11旅団長代理オットー・フェルデイナント・フリードリヒ・ヘルマン・フォン・フロトウ大佐指揮)

◇第11旅団(フュージリア第35「ブランデンブルク」連隊、第20「ブランデンブルク第3」連隊)

○胸甲騎兵第6「ブランデンブルク/ロシア皇帝ニコライ1世」連隊の1個小隊

○野戦砲兵第3連隊・軽砲第5中隊


*ル・マンへの本街道上を西進する支隊

(第12旅団長フーゴー・フォン・ビスマルク大佐指揮)

◇第12旅団(第24「ブランデンブルク第4/大公メクレンブルク=シュヴェリーン」連隊、第64「ブランデンブルク第8/王子カール・フォン・プロイセン」連隊)

◯胸甲騎兵第6連隊主力

◯野戦砲兵第3連隊・軽砲第6中隊・重砲第5,6中隊

◯第3軍団工兵・第3中隊


*第3軍団砲兵隊

(砲兵隊長ユストゥス・エミール・フリードリヒ・フォン・ドレスキー=メルツドルフ大佐)

◯野戦砲兵第3連隊・騎砲兵大隊・騎砲兵第1,3中隊

◯野戦砲兵第3連隊・第2大隊・重砲第3,4中隊・軽砲第3,4中隊


*軍団配下で他に派遣されている部隊

◯擲弾兵第12連隊・第5中隊 → 軍団行李縦列の警護

◯同連隊・第6中隊 → 捕虜の護送

◯猟兵第3大隊・第3中隊 → 軍本営の護衛

◯第20連隊・第11中隊の半分 → 在ル・ブレイユ野戦病院の警護

◯第64連隊・第9中隊 → 軍団輜重縦列の警護

◯第3軍団工兵・第1中隊 → 1月6日にロワール(Loir)川に架橋作業後、軍団合流目指し行軍中(この10日夕刻に帰隊)


 しかし10日朝、カール王子の本営に第3軍団から「敵はパリニエ=レヴックを放棄したらしい」との報告が入り、また第10軍団からも前日9日の午後遅くブリーヴから発した報告が届き、それによってフォン・フォークツ=レッツ将軍は10日、「ヴァンセ及びモントルイユ(=レ=アンリ。ヴァンセの北西7.3キロ)を経由して西への前進を再興する」ことが判明します。フォークツ=レッツ将軍は9日午後に行ったブリーヴまでの行軍によって、軍団がこの先辿るヴーヴ沿岸の街道が師団クラス以上の行軍に不適と判断し迂回路を取ろうとしたものでした。カール王子は直ちに変更命令を発し、それによれば「第3軍団は左翼(南側)によって第10軍団への助攻としてパリニエ=レヴックへ向かう予定だったが、これは必要とされなくなったため、同軍団左翼はパリニエの北方を通過し、軍団主力と同じくシャンジェを目標とし、先ずはレ・ブレフマルティン北の十字路(現・レ・ブルマルダン。ヴォルネの西3.2キロ。十字路とはその北650m付近にあり、ナレ川支流ユーヌ川を越えた先となります)へ向かえ」とのことでした。

 ところが第10軍団は9日夜、フォン・ヴァレンティーニ大佐の前衛支隊がブリーヴ北西方のサン=ピエール(=デュ=ロルエル)とサン=ヴァンサン(=デュ=ロルエル)を確保(既述)したため、結局このヴーヴ渓谷の隘路を抜ける手立てが整い、予定通りル・グラン=リュセ(パリニエ=レヴックの南東11.1キロ)へ進むこととするのです。

 また、第3軍団からの「パリニエに敵影なし」との報告は既に古くなっており、パルニエには「新たな仏軍」が到着し地歩を固めていたのです。


☆ パリニエ=レヴックの戦闘(1月10日)


 10日午前8時。独第二軍この日の機動が始まる以前にルードンの森(ボワ・ドゥ・ルードン。パリニエ=レヴック北方・アルドネの南西方に広がる森林)南端にあってパリニエを監視していた第3軍団第10旅団の前哨*は、突然仏軍の強力な部隊から攻撃を受けます。この仏軍は昨夜来ル・マン東郊からパリニエに進んでいたドゥプランク将軍師団(第16軍団第1師団)の半数、ペレイラ准将率いる第2旅団*で、独軍の前哨を蹴散らした後、ル・グラン=リュセから後退して来たドゥ・ジュフロワ将軍師団(第17軍団第3師団)の前衛1個連隊*と砲兵若干を加えるのです。


※ルードンの森南端にあった第10旅団前哨隊

○第48連隊・第1大隊

○槍騎兵第3連隊・第2中隊

○第3軍団工兵・第2中隊の1個小隊


※パリニエ=レヴックの戦闘に参加した仏軍

◇第16軍団第1師団・第2旅団(ペレイラ准将)

◯マルシェ猟兵第3大隊

◯マルシェ第39連隊

◯護国軍第75「メーヌ=エ=ロアール県・ロワール=エ=シェール県」連隊

◯砲兵数個中隊

◇第17軍団第3師団・前衛

◯護国軍第70「ロット県」連隊

◯砲兵1個中隊/ライット4ポンド砲x4・ミトライユーズx2


挿絵(By みてみん)

パリニエ=レヴック グラン=リュへの街道


 この日早朝、第9旅団長フォン・コンタ大佐率いる支隊はゲ・ドゥ・ローヌに集合を終え、同時にフォン・デア・グリューベン大佐率いる前衛はレ・ブロー(農家。現・レ・プティ・ブロー。パリニエ=レヴックの北北東2.5キロ。現存します)で集合しました。フォン・デア・グリューベン大佐はコンタ大佐に先行して出立し、先ずはパリニエから攻撃された前哨隊を救うため第48連隊の第2大隊をル―ドンの森南端へ急行させます。この大隊はラ・エルリー(農家。レ・ブローの南南西1.7キロ。現存します)の北方でこの仏軍と遭遇、直ちに攻撃して仏軍部隊をパリニエ方面へ駆逐するのでした。独第9旅団前衛はその後ラ・エルリーと、パリニエに向かって突角となるルードンの森先端部までの間に展開・集合します。すると仏軍はパリニエから猛烈な銃砲火をこの独軍前衛に浴びせ始め、その後大きな散兵群が前進して来ました。この危機に際し、フォン・デア・グリューベン大佐は第48連隊の2個(第10,11)中隊を、本隊のフォン・コンタ大佐は擲弾兵第8連隊の第2大隊と猟兵3個中隊をそれぞれ順次増援として前線へ送り込み、これらの諸中隊はラ・エルリー農家の東630mにあるレ・ブリニエール農場(現存)を中央に展開し仏軍を迎え撃ちます。しかしこの陣地の周囲は深い氷雪の積る耕作地で、独軍は砲兵を前面に押し出しますが僅か7門(重砲第1中隊の3門と軽砲第2中隊の4門)が配置出来ただけでした。それでも砲兵たちは市街地北方の仏軍砲兵陣地と対等に渡り合い、幾度かは敵の砲撃を中断させます。同じく、パリニエ市街の北街道口に隠されて配されていたミトライユーズの射撃を何度か中断させますが、仏軍砲兵を完全に撤退へ追い込む事は出来ませんでした。

 地形や気象のために包囲展開が出来ないことを悟った師団長フォン・シュテュルプナーゲル中将は、目標であるル・マン郊外シャンジェに至るためこれ以上無理をせず戦力温存を図ろうと考え、麾下に対し無闇な突撃を避け持久銃撃戦を命じます。このまま現在地を維持すれば間もなく第10旅団が左翼(南東)側へ到着するはずで、そうなればパリニエを落とすことが出来る、そう目論んだからでした。


 第10旅団は当初の目標であるパリニエ=レヴックへ向け出立した直後、フォークツ=レッツ軍団長からの変更命令を受領します。

 旅団長フォン・シュヴェリーン少将は、命令通り午前10時30分にレ・ブレフマルティン北の十字路へ差し掛かりますが、この時、前述のコンタ支隊によるラ・エルリー農場付近の戦闘が始まり、ほぼ同時に軍団長から更なる命令が届きました。それは「シャル(パリニエの東3.6キロ)を経由しパリニエに東から接近して北方で戦うコンタ支隊を援助せよ」と言うものでしたが、シュヴェリーン将軍たちの前には荒れ果てた上に凍結した細い街道があるだけで、その外は氷雪が固く積っていてとても行軍出来る地勢ではなく、それでも迂回する時間がない将軍たちは果敢に進みますが、障害物を除き道を均すため度々停止せざるを得なく、旅団がパリニエの仏軍と戦い始めた時には午後に入ってしまいました。

 この時、第52「ブランデンブルク第6」連隊の第1大隊はレ・ブティニエール(シャルの西北西1.6キロ)を占拠すると前方の斜面に展開する敵と銃撃を交わし、同連隊第2大隊は護衛として砲兵2個中隊に同道します。この砲兵たちは先に中隊全部が射撃可能な場所を求めて南へ移動し、ラ・エローディエール(2軒の農場。シャルの南東2.3キロ。現存します)の西側に展開していたコンタ支隊の軽砲第2中隊の隣に全12門を並べ、パリニエ方面への砲撃を始めるのでした。この砲撃は射程4~5キロと野砲としては限界に近い遠距離砲撃となりましたが、目標のパリニエは高地の上にあり、その郊外に展開する仏軍も緩やかな下り斜面に展開していたため遠距離とはいえかなり効果的な砲撃となったのです。

 指揮官たちにより砲撃効果を認められた午後12時30分。シュヴェリーン将軍は麾下4個大隊を左翼(南)端から第52連隊第1・第12連隊F・第52連隊F・第12連隊第1の順に並べ(残2個の第2大隊は予備)、全将兵に「Hurra! das Brandenburg(ブランデンブルク万歳)」を連呼させ、高地上のパリニエに向けて一斉突撃を敢行させました。

 この2,000名以上による突撃は仏軍を浮き足立たせるのに十分で、第52連隊第1大隊はレ・ブティニエールを発すると凍る大地をおよそ1,500m駆け抜けてパリニエの南側市街へ突入し、同第4中隊は市街南郊の林に遺棄されていた仏軍の野砲1門を鹵獲する手柄を上げます。擲弾兵第12「ブランデンブルク第2/カール親王」連隊のF大隊は高地沿いに北上してレ・ブリニエールまで進むと、その農場で戦っていたコンタ支隊の擲弾兵第8連隊に猟兵第3大隊と連携し一気に前進するとパリニエの北東街道口を奪取しました。この時、同大隊は逃げ遅れたミトライユーズ砲2門を鹵獲します。すると貴重なミトライユーズを奪い返そうと市街から仏軍が撃って出ますが、F大隊長フォン・アウトロック少佐は手近にいた第10,12両中隊の一部を直率して迎撃し、中隊長や小隊長自らが先頭に立った攻撃は一時壮絶な白兵となりましたが仏軍は敗れて逃走し、後にはミトライユーズ1門、野砲1門、軍旗1旒と馬車数輌が残されるのでした。


挿絵(By みてみん)

パリニエ=レヴック 奮戦する仏砲兵


 この西側では第52連隊のF大隊と第12連隊の第1大隊が、同じくコンタ支隊の第48連隊F大隊の2個中隊を引き連れてパリニエ北郊の耕作地とラ・メゾン・ヌーヴ(一軒家。ラ・エルリー農場の南南西240m付近。現存しません)から仏兵を駆逐し、第48連隊の第1、2大隊は更に西へ向かってレ・ゲット(当時は農場で現小部落。パリニエの北北西1.7キロ)を奪取し、農場警備にあった半個大隊約400名を捕虜にしました。事ここに至ると厭戦気分を秘めていた一部の仏兵たちは完全に戦意を失い、突進する独軍を前に銃尾を上に掲げ、次々と降伏の意思を示したのです。

 パリニエ市街でも独軍が突入して来ると多くの将兵がこれ以上戦わずしてル・マン方面西側へ脱出し、約1個連隊1,500名が捕虜となりました。それでもパリニエ市内に居残った闘志を残し戦い続ける仏将兵を制圧するには更に1時間を要する独軍でした。


 パリニエを脱した仏ペレイラ准将旅団兵の多くはルオダン(パリニエの西7.6キロ)へ向かい、その周辺に広がる森林へ逃げ込みます。また護国軍第70「ロット県」連隊は南方へ続く街道(現・国道D52号線)を辿りましたが、こちらはシュヴェリーン支隊の軽砲第1中隊から1個小隊2門が街道上を前進して逃げる仏縦隊を直射し、ために仏縦隊は壊乱しつつブレット=レ=バン(パリニエの南西3.4キロ)へ退却、遅れた約250名が捕虜となったのです。


 独第5師団長フォン・シュテュルプナーゲル中将は仏ルオダン周辺に退却した仏ペレイラ旅団の再前進を警戒するため、擲弾兵第12連隊の第2大隊(2個中隊欠)とF大隊をパリニエ=レヴックに残留させ、フォン・デア・グリューベン大佐率いる第9旅団前衛はル・マンへの街道北側をレ・ヴェルネル(当時は農場で現小部落。パリニエの北北西3.3キロ)経由で前進、フォン・コンタ大佐率いる第9旅団本隊はルードンの森中のレ・シャッスリー(一軒家)を越えてシャンジェへ、フォン・シュヴェリーン将軍の第10旅団はパリニエからル・マンへの街道上を前進するのでした。


この10日、仏軍がパリニエ=レヴックの戦闘で受けた損害は、士官が戦死1名・負傷15名、下士官兵は1,370名が戦死・負傷しました。捕虜を含む行方不明は少なくとも2,400名に上ったのです。(独第5師団の損害は後述します)


☆ シャンジェの戦闘(1月10日)


 フォン・フロトウ大佐が指揮を執る独第11旅団は午前10時30分、アルドネ(=シュル=メリズ)の東方で集合を終えると命令通りル・マンへの本街道(現・国道D357号線)南でナレ川を渡り、午後に入ってルードンの森を越えると、仏軍の前哨を駆逐しつつレ・ロセ(小部落。レ・ブロッスの東900m)の北側を通過しました。独軍に追われた仏軍前哨たちは午後3時過ぎにグ・ラ・アール(現ル・ボルダージュ。シャンジェ東郊外ビュザルディエール川の渡河点。市街から東へ1.1キロ)でシャンジェの防衛線に収容されます。

 このシャンジェ周辺はリベル大佐率いるドゥプランク将軍師団の第1旅団*が守備しており、主力は東郊のアミゲ(小部落。グ・ラ・アールの北920m)からボイエール(小部落。同南460m)に掛けて布陣していました。


挿絵(By みてみん)

ビュザルティエール川岸の洗濯場(20世紀初頭)


※シャンジェの戦闘に参加した仏軍

◇第16軍団第1師団・第1旅団(リベル大佐)

◯マルシェ第37連隊

◯マルシェ第62連隊

◯護国軍第33「サルト県」連隊

◇第17軍団第3師団・前衛

◯砲兵数個中隊


 シャンジェに対しフォン・フロトウ支隊は正面東側から接近し、仏軍前哨と衝突します。

 独軍の先鋒はフュージリア第35連隊の第2大隊で、レ・ブロッスを経て街道をレ・ガ(農場。グ・ラ・アールの東北東520m。現存します)付近まで進むと突然激しい銃撃を浴び、大隊はこの農家と西側に陣取る仏軍と銃撃戦を始めました。しかしここでは仏軍も踏ん張って独軍の前進を許さず、またブランデンブルク・フュージリア兵はここで大きな損害(士官9名・下士官兵100名超)を受け、中隊長の一人バッハフェルド大尉は戦死、大隊長のジギスムント・フォン・シュッツ少佐は胸に銃弾を受けて重傷を負ってしまいます。シュッツ少佐はマルス=ラ=トゥールの戦いでもヴィオンヴィルで同じく胸を射抜かれ重傷を負っており、2度目の負傷で後に第1級鉄十字章を受けています。

 フロトウ大佐は前衛の苦戦に砲兵を招集しますが、この周辺はボカージュと凍結した大地のために砲兵の布陣に適さず、同道していた軽砲第5中隊は何とか街道上に1個小隊2門を置いて敵陣に指向し砲撃を試みましたが、効果は薄く逆に猛銃撃を受けて危険となったため砲撃を中止し後退してしまいます。

 旅団に同行しこれを見ていた軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将は直接フュージリア第35連隊第1大隊に命令し、午後3時30分前後、大隊はアミゲに向かって前進して仏軍の本陣地左翼を狙い、その後を第20連隊のF大隊が続行するのでした。ほぼ同時にフュージリア第35連隊第3大隊の2個中隊は仏軍陣地の正面へ、第20連隊の第1大隊はラ・グードリエール(農場。レ・ガ農家の南230m。現存します)を抜けて仏軍の右翼端を狙います。このラ・グードリエールで同大隊の両翼中隊は対岸から猛烈な銃撃を行う仏軍の目前、ビュザルディエール川(シャンジェの東側を流れ北側でレ・ペレ川となってユイヌ川に注ぐ小河川)を渡り、するとフォン・デア・グリューベン大佐率いる第9旅団の前衛と邂逅するのです。


※1月10日午後4時・独第11旅団諸隊の位置(左翼から右翼)

*ラ・グードリエール付近

◯第20「ブランデンブルク第3」連隊・第1,4中隊

*ラ・グードリエール農場とレ・ガ農家の間

◯第20連隊・第2,3中隊

◯フュージリア第35「ブランデンブルク」連隊・第2大隊

◯第20連隊・第9中隊

*レ・ガからアミゲまでの間

◯フュージリア第35連隊・第10中隊

◯第20連隊・第10~12中隊

◯フュージリア第35連隊・第1大隊

*予備としてレ・ブロッスの西郊に待機

◯フュージリア第35連隊・第11,12中隊

*その他

◯第20連隊・第2大隊

 この大隊は同日午前中軍団右翼(北)警戒としてニュイエ=ル=ジャレ(アルドネの北東5キロ)に後置されますが、午後に入って前進を開始、午後4時30分前後にレ・ピュイ(一軒家。レ・ブロッスの北1.6キロ。現存します)付近に到着し更に西へ進みます。


挿絵(By みてみん)

シャンジェ周辺


 パリニエ=レヴックからシャンジェを目指したフォン・デア・グリューベン大佐支隊*は午後4時、ラ・ノエ(小部落。グ・ラ・アールの南東650m)に到達しますが、ここから更にシャンジェに接近を図るとグ・ラ・アール方向から激しい銃撃を浴びてしまいます。しかし第48連隊の6個中隊は付近の農家を占拠して銃撃を避け、猟兵第3大隊の2個中隊はラ・ジラルドゥリー(邸宅。グ・ラ・アールの西南西440m。現存しません)へ突進してこの邸宅を押さえました。


※1月10日午後4時・独第9旅団前衛支隊

◯第48連隊・第1大隊・第9,12中隊

◯猟兵第3大隊・第1,2中隊

◯第3軍団野戦工兵第2中隊の1個小隊

※第48連隊の残半分はパリニエ周辺から前進出来ず、猟兵第3大隊の第4中隊は軍団砲兵隊の護衛へ回りました。


 午後4時30分、第11旅団から右翼(北)側へ向かった諸隊もアミゲの仏軍陣地と正対し、これに同行したC・アルヴェンスレーヴェン将軍は全戦線に渡る総突撃を命じます。


 突撃は高らかなラッパの号奏によって始まり、アミゲに向かった第20連隊のF大隊とフュージリア第35連隊の半数(第1大隊と第10中隊。遅れて右翼に第11中隊)は声を張り上げて突進、第35連隊第2大隊の一部と第20連隊の第2,3中隊も第二線としてこれに続きました。この時、第35連隊の第10中隊は結氷した川岸に展開し、独軍の突撃に対抗して猛射撃を行いつつ陣を出た仏の1個大隊を撃退します。第35連隊の第9中隊を率いるミュラー大尉は先鋒として激しい銃撃を冒して仏軍前線に突入し、続行した味方と共に短時間でグ・ラ・アール北方の常設橋を占領するのでした。

 南方からグ・ラ・アールに迫ったフォン・デア・グリューベン大佐の第48連隊将兵と工兵小隊は、同地南方で戦う第20連隊の2個(第1,4)中隊と共に、鼓舞する太鼓の連打に送られて敵陣へ突入し、凄惨な白兵戦の末、グ・ラ・アールの南側を確保するのです。

 これで仏軍は退勢となり、夕暮れ時にはアミゲ~グ・ラ・アール~ラ・ジラルドゥリーの線は独軍によって完全に占領され、仏軍はおよそ1,000名の捕虜を出し残りは一斉にシャンジェへ後退しました。しかし仏リベル旅団はシャンジェを放棄せず、文字通りの背水の陣でユイヌ川を越えることなく踏ん張っていました。

 何としてでも本日中にシャンジェを確保したいC・アルヴェンスレーヴェン将軍は、日没になったにも関わらず遙か後方から駆けつけた第20連隊の第2大隊に命じてグ・ラ・アールを経て西へ向けて進撃させます。同大隊は午後7時30分、シャンジェの前面にあったバリケードの小哨を駆逐してこれを奪取しますが、その時には別方面から進撃した友軍によって既にシャンジェは占領されていたのでした。


 パリニエ=レヴックの陥落後、西への進撃を続行したフォン・シュヴェリーン将軍率いる独第10旅団はシャンジェの南方に至った時、右翼北側のシュフエゾン城館(シャンジェの南2キロ。現存します)と左翼南側のラ・パイユリ城館(同南2.9キロ。現存します)から激しい十字砲火を浴びてしまいます。この砲火は完全に街道を制圧していたため、シュヴェリーン将軍は砲兵を呼び、野戦砲兵第3連隊の軽砲第1中隊は何とか小隊2門を街道上に並べ対抗射撃を開始しました。ところが、短時間で効果が薄いことを悟ったシュヴェリーン将軍は貴重な砲兵を下がらせ、両城館を無視し回避しながら前進を続けることに決めるのでした。

 将軍は1個大隊*を両城館監視に残留させると残りの本隊を率いて街道を右折し、両城館から死角となるように行軍してシャンジェ前面のボイエールへ向かいました。

 するとシャンジェの東では前述通り激しい攻防が続いており、シュヴェリーン将軍は参戦を即決すると旅団を2つに分割し、片やグ・ラ・アールに、片やシャンジェ市街へ向かわせるのでした。


※1月10日午後5時前後・独第10旅団諸隊の位置

*シュフエゾン城館とラ・パイユリ城館監視

○擲弾兵第12連隊・第1大隊

*グ・ラ・アール方面

○擲弾兵第12連隊・F大隊と第7,8中隊

○第52連隊・第2大隊

○槍騎兵第3連隊・第3中隊

○野戦砲兵第3連隊・軽砲第1中隊・重砲第2中隊

(この砲兵援護にあった第52連隊・第4中隊も追ってグ・ラ・アールへ向かいます)

*ラ・ジラルドゥリーを経てシャンジェへ

○第52連隊・第1、F大隊

(パリニエから逃走した敵を追撃し本隊から離れた第48連隊の第8中隊は第52連隊と合流しシャンジェへ向かいました)


 シャンジェへ向かった諸隊は第52連隊長ゲオルク・オットー・フォン・ヴルフェン大佐が指揮を執り、途中仏軍の残留将兵を駆逐しその拠点となっていた諸農家を確保しました。未だ付近では前線が錯綜し敵の所在が明らかでなかったため、ヴルフェン大佐は占拠した拠点に守備隊を残し、シャンジェの前面に着いた時には5個中隊を率いるのみとなっていたのです。


※1月10日午後6時前・シャンジェ攻撃のフォン・ヴルフェン隊

*ボイエール、ラ・ジラルドゥリー、サブロン(小部落。グ・ラ・アールの西北西500m)付近の農家を占拠

○第52連隊・第1,12中隊

○第48連隊・第8中隊

*シャンジェ橋梁前へ前進

○第52連隊・第2,3,9,10,11中隊


挿絵(By みてみん)

シャンジェ 仏軍を追い込む独軍


 ヴルフェン大佐はこの5個中隊を集合させ、密集一団となって夕闇の中シャンジェ橋に向かって突撃を敢行し、敵の激しい銃撃に中隊長の一人フォン・ボルケ大尉を失うも橋を奪取、午後6時頃、勢いのままシャンジェ市街に突入します。

 シャンジェでは「日没で戦闘は終了」と思いこんだ仏軍の一部が既に宿営を始めていましたが、独軍の襲来に慌てて集合し応戦を始めます。シャンジェにいた仏軍将兵は疲弊していたものの戦意を失っておらず、急襲されても良く反応して抗戦したため、戦いは凄惨な家屋奪取の白兵となりました。この激戦は1時間余り続き、仏軍は独軍に圧されて市場に包囲され、やがてフォン・ナッツメル少佐率いるF大隊兵に手を挙げるのでした。仏軍はここで800名の捕虜を出しています。


 この10日、シャンジェ付近の戦闘における仏軍の損害は、士官が戦死5名・負傷35名、下士官兵は1,500名以上が戦死・負傷・捕虜となりしました。

 独第3軍団のパリニエ=レヴックの戦闘とシャンジェ付近の戦闘による損害は、戦死が士官8名/下士官兵92名、負傷が士官20名/下士官兵289名、行方不明は下士官兵14名、馬匹の損害計32頭でした。


挿絵(By みてみん)

奇襲(アルフォンス・ヌーヴィル画)


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