ル・マン会戦に至るまで/ シャエーニュ、ブリーヴの戦闘・シャトー=ルノー陥落
☆ シャエーニュ、ブリーヴの戦闘(1月9日)
独第10軍団長、フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将は9日の黎明前、次の命令を下します。
「パウル・フォン・ヴォイナ将軍支隊*は宿営地ル・ポン=ドゥ=ブレイからヴァンセ(ラ・シャルトル=シュル=ル=ロワールの北北東12.6キロ)を経由して北西方向に進み、ラ・シャルトル付近で宿営した軍団本隊はサン=ヴァンサン=デュ=ロルエル(同北北西12.5キロ)を経由しル・グラン=リュセ(同北北西17キロ)に進んで後命を待て。ヴァンセ在の騎兵第14旅団は西進しつつル・マン本街道とその南を前進する第3軍団との連絡を絶やすな」
※1月9日のパウル・フォン・ヴォイナ少将支隊
○第78「オストフリーゼン」連隊・F大隊(第37旅団)
○第91「オルデンブルク公国」連隊(第37旅団)
○竜騎兵第9「ハノーファー第1」連隊・第2,4中隊
○野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊・軽砲第2中隊・重砲第2中隊
既にフォークツ=レッツ将軍は前日捕虜にした仏兵の尋問により「バリー将軍率いる仏第16軍団の第2師団主力がシャエーニュ(ラ・シャルトルの西北西4.8キロ)付近の高地に展開している」ことを知っていましたが、それはこの朝正確な情報だった事が分かります。
ラ・シャルトルからロワール右(北)岸を西に向かって出立した第20師団前衛*は、ロム(ラ・シャルトルの北北西2.1キロ)を越えた途端、榴弾砲撃とミトライユーズの砲撃を受けてしまいます。ロムの西側、街道(現・国道D64Bis号線)筋の諸農家や雑木林には多数の仏兵が陣を敷いているのが見て取れました。そこで前衛にあった第56「ヴェストファーレン第7」連隊の第1、2大隊は自軍左(南)翼に展開して攻撃前進し、次第に仏軍をヴーヴ川(ブロワールの南8キロ付近を水源にラ・グラン=リュセ~サン=ヴァンサン~サン=ピエールを経由しロムの西でロワール/Loir川に注ぐ支流)の西へ撃退するのでした。師団の砲兵3個中隊はロムの北西郊外ヴーヴ沿岸に砲列を敷きますが、風雪が強く目標視認も不可能となったため午前9時に砲撃を中止するのです。
※1月9日の第20師団前衛支隊
第39旅団長代理ハインリッヒ・シモン・エデュワルド・フォン・ヴァレンティーニ大佐指揮
○第56「ヴェストファーレン第7」連隊
○竜騎兵第16「ハノーファー第2」連隊・第4中隊
○野戦砲兵第10連隊・重砲第3中隊
○第10軍団野戦工兵第1中隊
*ロムの砲列に加わるため、師団本隊より軽砲第4、重砲第4中隊も後から参加
フォークツ=レッツ将軍は、西に強力な仏軍が構えていることを確認すると、「敵は地形的優位にある(ヴーヴ川の作る狭い谷間/隘路を通過しようとする独軍・それを見下ろす高地上に展開する仏軍)ので簡単には後退せず頑強に抵抗するはず」と考え、北西へ進み始めたP・ヴォイナ将軍に対し、「戦場音に気を付けてその方向へ進み、敵の左翼(北)側へ進撃せよ」との変更命令を発するのです。また、ヴァレンティーニ大佐を助けるため師団本隊からは第92「ブラウンシュヴァイク公国」連隊の第1大隊と猟兵第10「ハノーファー」大隊が仏軍右翼(南)側を攻撃するためハーバーラント大佐に率いられてヴーヴ沿岸に進みますが、渡河点を発見出来ず、現場で即席の仮橋を架ける作業に入ったため大幅に時間を消費してしまい、苦難の果てに渡河を終えるとロワール右岸を西へ進んでシャエーニュへ進みました。この部落には予想通り仏軍守備隊(護国軍第66「マイエンヌ県」連隊)がいましたが、独軍が近付くと抵抗僅かで街道(現・国道D64号線)をヴヴレ(=シュル=ロワール。シャエーニュの南西6.3キロ)方面へ退却して行き、落伍した50名が捕虜となるのでした。フォン・ヴァレンティーニ大佐率いる独前衛と対峙していた仏軍(マルシェ第38連隊)も、シャエーニュが陥落したことで包囲の危険が生じたため、一気に北方森林高地へ退却したのです。
一方、前衛の出立と共に独右翼(北)へも一支隊が出立していました。これは普第20師団長、アレクサンダー・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・クラーツ=コシュラウ少将から「レ・ジドニエール城館(ラ・シャルトルの北2.8キロ。現存します)を経由しヴーヴ河畔ル・オー・ペレ(農場と付属家屋。ロムの北西3.4キロ。現存します)に向かい、敵の左翼を攻撃せよ」と命じられた第79「ハノーファー第3」連隊長代理ベンドラー中佐の支隊*で、中佐は部下と共に猛吹雪の中果敢に前進しますがレ・ジドニエール城館は高地の縁にあってその坂道は完全に凍結しており、ために砲兵中隊は登ることが出来ずに滞留してしまったため、中佐は仕方なく高地縁をロムに向かって前進しヴァレンティーニ大佐の前衛支隊に合流するのでした。
※1月9日の第20師団右翼支隊
ベンドラー中佐指揮
○第79「ハノーファー第3」連隊・第1、2大隊
○竜騎兵第16「ハノーファー第2」連隊・第1,2中隊
○野戦砲兵第10連隊・軽砲第3中隊
独第20師団本隊は午後2時、シャエニールとロム前面の仏軍が後退したことで予定されたサン=ヴァンサン=デュ=ロルエル方面への前進を開始し、先ずはブロワール方面への街道(現・国道D64号線)とル・グラン=リュセへの街道(現・国道D304号線)の分岐点で、ヴーヴ川と支流・エタンソール川の合流点、ブリーヴ(現/ル・ムーラン・ド・ブリーヴ。ロムの北5.4キロ)を目指しました。
この行軍は想像を絶する厳しいものとなり、吹雪とヴーヴ川の谷底に立ち込める濃霧のために自然人馬の歩調は乱れ、元より起伏の大きな坂道が続く街道も路面が荒れて凍結し最悪の状態、馬匹は脚を滑らせて幾度も転倒するため騎兵と砲兵は下馬又は下車して行軍するしかなく、それでも馬匹が一頭でも脚を取られて転倒すれば隘路のために全縦隊は行軍を止めるしかなくなり、それも一度や二度ではありませんでした。フォークツ=レッツ将軍も愛馬から降りて砲の前車に乗り、幕僚たちは徒歩で行軍するのです。こんな状態では軍団砲兵隊は役立たず、しかも氷結した隘路で立ち往生してしまったため、フォークツ=レッツ将軍は正午頃護衛隊*を付してポンセ=シュル=ル=ロワールとル・ポント・ドゥ・ブレイを経てラヴネ(ル・ポント・ドゥ・ブレイの北2.1キロ)まで後退させたのです。この処置は翌10日に起伏と路面が少しはましなヴァンセへの街道(現・国道D34号線)を辿らせようという軍団本営の考えからでした。
※1月9日・第10軍団砲兵隊護衛隊
第78連隊長男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ロタール・フォン・リッカー大佐指揮
○第78「オストフリーゼン」連隊・第1、2大隊
○竜騎兵第9「ハノーファー第1」連隊・第1,3中隊
○第10軍団野戦工兵第2中隊
*この護衛隊は目的地到着後の夕刻、ヴァンセ在のP・ヴォイナ将軍と連絡を取り指揮下に入りました。
P・ヴォイナ将軍は変更された軍団長命令通り「敵の左翼(北)側へ進撃」するためブリーヴを目指し行軍しました。その道中に遭遇した仏軍の小部隊を駆逐しつつ午後に入ると森林の中にあるラ・シュニュール城館(ヴァンセの南西3.8キロ。現存します)付近まで進みますが、この時シャエニールやロムの戦闘が終了し、南西方向からの戦場音が聞こえなくなったためP・ヴォイナ将軍は第10軍団が行軍を続行するか否かの判断が出来ず、万が一このまま単独で未知の仏軍が控えるブリーヴ方面へ進んだ場合、援護無しにヴーヴ川を渡るのは「自殺行為」と考え、支隊を率いて踵を返しテュソン川方面へ引き返したのでした。
下馬して戦う独槍騎兵中隊(R.クネーテル画)
午後3時30分。第20師団の前衛はブリーヴの南郊に到達しますが、この時北方の高地から激しい銃撃を受けてしまいます。高地にはドゥ・ジュフロワ師団のマルシェ第46連隊と護国軍第70「ロット県」連隊が構えていました。
付近は街道以外雪が凍結して歩兵ですら運動困難な土地であり、この北方高地を包囲攻撃することは実質不可能でした。この敵を攻撃する方法は、街道上とそのすぐ脇を前進して正面から攻撃機動を行うしかありません。前衛の第56並びに第79連隊将兵は犠牲を厭わず正面攻撃を断行することを決し、一気に北方高地に登って仏軍散兵線へ殺到すると圧された仏軍は抵抗空しく最後は潰走するのでした。この突撃はフォン・ムーティウス中佐が主導して先頭に立ち、第20師団参謀の男爵フォン・ヴィルリゼン大尉も並んで突撃に参加しました。この攻撃中、野戦砲兵を率いていたカール・ハインリヒ・グスタフ・フリードリヒ・フォン・リンダイナー=ヴィルダウ少佐は右下肢に銃弾を受け重傷を負っています。
※1月9日・ブリーヴ北方高地への攻撃
◇本街道左(西)脇から前進
○第56連隊・第6中隊
◇本街道上から前進
○第56連隊・第8中隊
○同連隊・第1大隊の半数
○同連隊・F大隊
◇本街道右(東)脇から前進
○同連隊・第1大隊の半数
○同連隊・第5,7中隊
○第79連隊・第2,3中隊
◇第二線(後方に接して続行)
○第79連隊・第1,4中隊
○同連隊・第2大隊
ブリーヴ(20世紀初頭)
一方、ハーバーラント大佐率いる2個大隊は、本隊が前進することを知るとシャエニールから高地縁を辿ってヴーヴ沿岸へ進み、本隊と並進しようと図りますが前述通り地形は厳しく狭隘な道路のため行軍は遅延し、漸く午後5時にブリーヴの対岸ラ・フォンテーヌ・マリー(小部落。ブリーヴの西550m)に辿り着くのでした。大佐はここで逃げ遅れた仏兵30名ほどを捕虜にしています。
大幅に予定が狂ってしまった第20師団長、フォン・クラーツ=コシュラウ将軍は、前衛を率いていたフォン・ヴァレンティーニ大佐に対し4個大隊*を直率して夜間追撃することを命じました。午後6時30分、ヴァレンティーニ大佐は出立し、サン=ピエール(=デュ=ロルエル。ブリーヴの北西2キロ)に近付くと既に仏軍が去った後であることを知ります。大佐は更に進んでサン=ヴァンサン(=デュ=ロルエル。サン=ピエールからは北西へ3.3キロ)へ接近しますが、ここでは仏軍の後衛を発見し直ちに攻撃、仏軍は短時間で抵抗を打切って撤退し、独軍は逃げ遅れた士官5名・下士官兵約100名を捕虜にするのでした。更に車輌100輌からなる糧食縦列も逃走する事が出来ず、満載された糧秣もすっかり独軍の手に落ちるのでした。
これにより第20師団前衛はサン=ヴァンサンに集合して宿営に入り、強力な前哨線を郊外に展開しました。深夜には辺りをうろついていた仏敗残兵の一群が独前哨と遭遇し、これは直ちに駆逐されたのです。
※1月9日夕・第20師団前衛
○第79連隊・第1、2大隊
○第92連隊・第2、F大隊
第20師団の残部はブリーヴとラ・シャルトルの間に宿営し、P・ヴォイナ将軍支隊(ロタール・フォン・リッカー大佐の砲兵護衛隊を含む)はヴァンセとラ・シャペル=ゴガン(ヴァンセの南南東4.4キロ)の間に宿営を求めます。
フォン・シュミット将軍の騎兵第14旅団は早朝にヴァンセから北西方向へ出立し、まずはモントルイユ=ル=アンリ(ヴァンセの北西7.2キロ)を目指しましたが、この方面には仏ドゥ・ジョフロワ=ダバン将軍師団がおり、モントルイユ近郊とサン=ジョルジュ=ドゥ=ラ=クエ(同西北西4.9キロ)で強力な部隊に遭遇し、それ以上西へ進むことは適わず、諦めてヴァンセへ戻りP・ヴォイナ支隊と並んで宿営するのでした。
1月9日の「シャエーニュ及びブリーヴの戦闘」で独第10軍団(P・ヴォイナ将軍支隊含む)は戦死12名・負傷46名・行方不明3名・馬匹4頭の損害を受けました。仏軍は士官12名・下士官兵350名の損害を受け100名に近い捕虜を出したものと思われます。
独軍戦死者の埋葬
☆ シャトー=ルノーの占領とカール王子の第二軍本営(1月9日)
9日早朝、カール王子から騎兵第1師団と第38旅団の指揮権を再認証されたフォン・ハルトマン中将はこの朝、仏軍がシャトー=ルノー周辺に未だ存在することを斥侯報告で知り、今日こそシャトー=ルノーを陥落させると決心し行動に移ります。
午前8時30分、ハルトマン将軍はル・フレンヌ城館(アンブロワの南西8.4キロ。現存します)を集合地に指定して第38旅団とヴィルヘルム・ツー・メクレンブルク公の下に残された騎兵集団*を集合させると、ヴィルティウ(同南4.5キロ)周辺に宿営していた騎兵第1旅団にヴァンドームへの本街道(現・国道N10号線)守備を命じ、進撃する部隊の背後を固めるのでした。
※1月9日・ル・フレンヌ城館に集合した騎兵部隊
◯胸甲騎兵第3「オストプロイセン/伯爵ヴランゲル」連隊(騎兵第2旅団)の2個中隊半
◯騎兵第15旅団の騎兵3個中隊(連隊不詳)
◯野戦砲兵第3連隊・騎砲兵第2中隊の1個小隊(2門)
*この集合時、前哨にあって離れていた胸甲騎兵第3連隊の残部(1個中隊半)は集合に間に合わず、遅れてシャトー=ルノーへ向かいます。また騎兵第15旅団の騎兵3個中隊(連隊不詳)は「ハルトマン兵団」の右翼(西)側警戒として残置され、同じく騎兵第15旅団からハルトマン将軍の本営警備とモントワール(=シュル=ル=ロワール)の守備にそれぞれ騎兵1個中隊が配されました。
ル・フレンヌ城館に集合を成した諸隊は、オートン(シャトー=ルノーの北6キロ)やヌーヴィル(=シュル=ブリンヌ。同北3キロ)に仏軍がいないことを確認しつつブリンヌ川(ヴァンドームの南10キロ付近を水源にサン=タマン~ヴィルショヴ~ヌーヴィルと流れてシャトー=ルノーに達し、更に南へ流れヴルヌー=シュル=ブリンヌ付近でロアール支流シス川に注ぐ中河川)に達し、ヌーヴィルで小休止して態勢を整えると第16連隊の第2大隊を先鋒として前進再開、シャトー=ルノーに接近します。独軍歩兵は市郊外で仏軍が一軒家を中心に散開して布陣するのを発見し、これらに対して一気に突進すると既に戦意を失っていた仏兵を短時間で駆逐、午後1時にシャトー=ルノー市街へ侵入しました。
この日の早朝、シャトー=ルノーではドゥ・クルタン将軍が自軍左翼(西)前方に進んだと思われる独軍の様子を知って、このままでは孤立するのは確実と考え、ル・マンの防衛線に赴くことを決します。将軍は残されていた部隊の主力(ドゥ・クルタン将軍の指揮下には1個師団・約1万5千名と砲20門前後が残っていたとされています)を率いてサン=ローラン=アン=ガティンヌ(シャトー=ルノーの西9.9キロキロ)へ向かい、最終的には先発した諸隊を追ってシャトー=デュ=ロワール(同西北西38.5キロ)へ進もうとしていました。
ハルトマン将軍は仏軍がシャトー=ルノーから消えたことを伝えられると直ちに追撃を命じ、集合を終えた胸甲騎兵第3連隊は騎砲兵小隊を連れてシャトー=ルノーを発し、トゥールへの街道(現・国道D766号線)を西へ突進して道中多くの落伍兵を捕縛しました。しかし、クルタン将軍の師団主力は既にサン=ローランを越えて進んでいて、独軍騎兵は諦めて引き返したのです。
シャトー=ルノー占領による「ハルトマン兵団」の損害は負傷1名・馬匹3頭と軽微で、仏軍の損害は不詳です。
この日午後、ハルトマン将軍は麾下全てをシャトー=ルノー周辺に呼び寄せ、ここで宿営に入ったのでした。
カール王子は9日午後、本営と共にサン=カレからブロワールに移動し、ル・マンへの本街道前方アルドネで第3軍団が戦果を挙げたことを聞き及びました。また、騎兵第14旅団より報告に訪れた連絡士官から「第10軍団がラ・シャルトルの北方で強力な敵によって進撃を阻まれている」と聞かされるのです。しかし、当の第10軍団、そしてフリードリヒ・フランツ2世大公の第13軍団からはなかなか報告が到着せず、その日の戦況がはっきりしたのは深夜になってからでした。
独第二軍本営では、仏第2ロアール軍司令シャンジー将軍はユイヌ川の右岸(西)で独軍に対し決戦を挑むであろう、との観測がなされていました。もしその決戦が実現した場合、独軍としては決戦前に南北に広がった戦線を中央に集約、その両翼(第13と第10軍団)も出来る限り中央(第3軍団と後続する第9軍団)と並列させることが大事となります。
しかし現状は、独軍が北・東・南の三方に広がって展開していた仏軍を攻撃し追い立てたことによってル・マンへ集合させている形にもなり、この独軍両翼の機動が遅ければ遅いほど仏軍はル・マンに集合して強力な防衛線を敷き、一息吐く時間が与えられることにもなります。しかしカール王子配下の幕僚による見積もりによると、第2ロアール軍は「5から6個師団」をル・マン周辺に、シャトー=ルノーとラ・シャルトルの北にそれぞれ1個師団を擁している(実際はル・マンの北と東に7個、その他3個プラス義勇兵)と見られ、この離れた2個師団はこのままではル・マンでの「決戦」には間に合わないだろう、と信じられていました。実際に前線の仏軍(第16軍団の第2・3師団、第17軍団の第2・3師団、第21軍団の第1師団)はみなこの1週間ほど激しくまた状況不利な戦いを強いられ、独軍が確保した捕虜や落伍兵の様子を見ても士気が相当落ちているように思われました。
これらの戦況から強気のカール王子は、自身勝算はあっても冒険に近いと言える攻撃機動を命じることになります。
「翌10日。第3軍団はアルドネを発して直前の敵を攻撃せよ。第13軍団はサン=マルス=ラ=ブリエールに向かい前進せよ。騎兵第4師団と増援の歩・砲兵はユイヌ右岸においてル・マンへの街道(現・国道D60号線)上を行軍しボンネターブル(コネレからは北北西へ14.2キロ)を抜いてル・マンへ向かえ。第9軍団は第13軍団援助のため一支隊をトリニエ=シュル=デュ(同南東4キロ)経由で北西に送り、残余はブロワールに進め。第10軍団はパリニエ=レヴックへの前進を続行し、第3軍団左翼は北方からこれを援助せよ」
カール王子は更に、「仏軍の複数師団が未だ我が軍の支配範囲にあるため、ル・マンを目指す各行軍縦隊は迅速かつ果敢な前進を心掛け、これによってル・マンへ集合しようとする敵部隊を危機に陥らせるよう大いに努めること」と訓令しています。
☆ 仏第2ロワール軍・1月6日から9日
アントワーヌ・アルフレ・ユージン・シャンジー将軍ら在ル・マン第2ロワール軍本営は1月6日に至るまで、カール王子率いる独第二軍が再前進を図っていることに気付いていませんでした。
1月6日。伯爵アルフォンス・シャルル・ジョセフ・ドゥ・ジュフロワ=ダバン将軍率いる第17軍団第3師団を中核とする兵団は、敵も前進して来るとは知らずにヴァンドーム攻撃を実行し、これに同調してドゥ・クルタン将軍率いる第16軍団第3師団を中核とする兵団もシャトー=ルノーから北上し、これは既述通り独軍左翼諸隊を混乱させてサン=タマンまで席捲することが出来ました。しかしジュフロワ将軍の攻撃はロワール河畔で頓挫し、後衛が奮戦して独第3軍団の攻勢を防いでいる間、本隊はそれまで拠点としたエピュイゼイを放棄してサン=カレの東方ブレイ河畔まで退いたのです。これにより、ドゥ・ジュフロワ将軍とドゥ・クルタン将軍は以降連絡が途絶えたまま各々で独軍と対することになります。
1月7日。独第二軍はル・マン方向に本格的な侵攻を開始し、これによって仏第2ロワール軍はノジャン=ル=ロトルーからサン=カレを経てサン=タマンに至る最前線(延長約80キロ)のほぼ全てに攻撃を受けることとなりました。ノジャンにいたジャック・オーギュスト・ルソー将軍(工兵で元「ペルシュ兵団」指揮官から第21軍団第1師団長)はこの日第21軍団から増援を得ることが出来ましたが、正直独軍と比して練度に差がある自軍の様子を考慮し、正面に迫った独第22師団との対決を避けノジャンを放棄しル・テイユ(ノジャン=ル=ロトルーの南西11.7キロ)付近まで下がりました。更に敵との距離を開けるため夜間行軍を強行、第21軍団本隊前哨がいるコネレとトリニエまで一気に退却したのです。同日、ドゥ・ジュフロワ将軍は独第3軍団によってブレイ川の前線を制圧されてサン=カレを流れるアニル川より西へ下がり、ドゥ・クルタン将軍はサン=タマンを放棄して再びヴィルポルシェ~ヴィルショヴの戦線に戻りました。
1月8日は厳寒により独軍の追及が弱まり、仏軍左翼(南方)の一部は現状維持を図り、また一部は命令によってル・マン方面への後退を続けました。しかし戦線中央ではドゥ・ジュフロワ兵団が独第3軍団の猛攻を受けてル・マン本街道を外れ、南西方面へ退却してエタンソール河畔・クルドマンシュ(ラ・シャルトルの北9.7キロ)付近まで逃れました。同時にその右翼を守っていた騎兵集団もヴァンセで敗れ、モントルイユ=ル=アンリ(クルドマンシュの北5.8キロ)まで退却するのです。これでサン=カレ~ル・マン本街道が「ガラ空き」となってしまい、シャンジー将軍は翌9日早朝、ル・マン東郊に待機中のパリ将軍師団(第17軍団第2師団)に出撃を命じ、パリ将軍はアルドネ(=シュル=メリズ)を中心とする高地に前進したのです。同時に連携が取れず行動がバラバラとなってしまった自軍右翼を立て直すため、シャンジー将軍は第16軍団長のジャン・ベルナルダン・ジョーレギベリ提督に命じて「ドゥ・ジュフロワ」師団、「ドゥ・クルタン」師団そして「バリー」師団(第16軍団第2師団)を統括指揮するよう命じたのでした。この前日までバリー将軍師団はシャトー=デュ=ロワール(ラ・シャルトルの西南西12.3キロ)~ル・ポン=ドゥ=ブレイ(同東北東10.6キロ)までのロワール河畔に布陣していましたが、独第10軍団の攻撃に晒されて後退を余儀なくされ、ラ・シャルトルを放棄してシャトー=デュ=ロワール以西まで下がっていました。この方向へ下がろうとしていたのはシャトー=ルノーのドゥ・クルタン師団でしたが、クルタン将軍は9日早朝、シャトー=ルノーから西への退却行を始めた直後、この事実(即ち行軍路は既に敵に占領されているという事実)を知り迂回路を取るしかなくなります。クルタン将軍はまずサン=ローランからボーモン=ラ=ロンス(シャトー=ルノーの西18キロ)へと西進し、ここでようやく北西に転進してシャトー=デュ=ロワールへ進んだのでした。
同じく9日、独第13軍団の攻撃に晒されているルソー将軍師団(第21軍団第1師団)を救援するため、第21軍団長のコンスタン・ルイ・ジャン・バンジャマン・ジョレス提督は麾下諸師団を前進させ、独軍と対峙しました。
オーギュスト・グジェアール海軍准将率いる軍団第4師団はモンフォール=ル=ジェスノワ(コネレの西5.8キロ)~ラ・ベル=アンユティル(同西南西5.3キロ)に向かって前進し、コリン将軍率いる軍団第2師団はレ・コアニエール(北西2.8キロ)へ、ギヨン将軍率いる同第3師団は軍団左翼(西側)警戒のためサヴィニェ=レヴック(モンフォールの北西9.4キロ)にそれぞれ向かったのです。しかし、諸師団が目的地に至る前にルソー将軍師団は独第13軍団の攻撃を受けてトリニエを失い、コネレに集合して必死で防戦に努め、何とか敵の進撃を阻止しました。しかし敵中孤立を恐れたルソー将軍は深夜にコネレを放棄して味方前線内へ引き下がるのでした。
アルドネのパリ師団も独第3軍団前衛から攻撃を受けて敗れ、ほぼ潰走状態でナレ川を越え、多くの捕虜を出しつつもル・マン東郊へ退避するのでした。
この9日、独第3軍団はナレ河畔で仏パリ師団と対峙し、ル・マン中心部まで15キロにまで迫ります。しかし、ジョーレギベリ提督率いる仏軍の3個師団は未だル・マンから30から40キロ前後離れたところにおり、迂回を強いられたクルタン師団は最も離れたヌイエ=ポン=ピエール(トゥールの北北西19.7キロ。ル・マンからは南南東へ57キロ)におり、明日にも迫った独軍のル・マン攻撃には間に合いそうもありません。ジョーレギベリ提督はこのクルタン師団を何とかル・マン防衛線に呼び寄せる「時間」を稼ごうと、バリー将軍に対し「ラ・シャルトルの敵をシャエーニュとその北高地で阻止せよ」と命じました。しかし既述通り独第10軍は悪天候にも関わらずバリー師団を襲い、仏軍も必死で抵抗したものの結局は撃退されてジュピユ(ラ・シャルトルの北西13.8キロ)へ、バリー師団の左翼(北側)ブリーヴで戦ったドゥ・ジュフロワ師団もル・グラン=リュセへと退却するのでした。このためジョーレギベリ提督もシャンジー将軍も自軍右翼をどう使うか、ひたすらル・マンへ急がせるか、それとも敵の左翼と直接対決するのか悩ましいところとなったのです。
しかし戦況が悪化し自軍不利であってもシャンジー将軍の闘志は衰えることがありませんでした。
将軍は翌10日の命令を9日夜に下します。
「第21軍団は独軍に奪われたコネレとトリニエを奪還せよ。パリ将軍師団はアルドネに向かって前進し回復せよ。ドゥ・ジュフロワ将軍師団はパリニエ=レヴックまで下がってパリ将軍師団と連絡せよ。またパリニエ=レヴックにはドゥブランク将軍師団(第16軍団第1師団)から1個旅団を派遣し、師団残部はシャンジェ(ル・マンの東南東6.5キロ)に待機せよ」
こうして独仏両軍はそれぞれ翌10日に双方攻撃を命じられ、これでル・マン東方で一大会戦が発生すること必至となったのでした。
病院にて 仏軍士官と独軍士官
普仏戦争・こぼれ話 「塹壕にて」
塹壕にて(アルフォンス・ヌーヴィル画)
In the Trenches (1874) Alphonse de Neuville
キャンパス油絵・57.7x96.5cm ウォルターズ美術館(アメリカ・ボルチモア)所蔵
アルフォンス・ドゥ・ヌーヴィル(1835‐1885)はロリアンの海軍学校出身ですが巨匠ドラクロワの下で絵画を学んだ異才で、戦争を題材とする絵を得意とする画家でした。彼の絵は拙作でも度々紹介していますが、今回紹介する絵は戦争の本質を突く筆者が大好きな絵画です。
熱烈な愛国者だったドゥ・ヌーヴィルは普仏戦争で国民衛兵として出陣し、幸いにも戦闘は経験していませんでしたが頻繁に戦場を訪れてはスケッチを続けます。戦後、そのスケッチなどを元にプライドをズタズタにされたフランス人の心を捉える戦争画を次々に発表して好評を博しました。その絵画は圧倒的な独軍の攻撃を前に犠牲的精神で戦い続ける仏軍人を中心に、フランス人のドイツに対する復讐心を煽るものが殆どで、特にセダン会戦の前哨戦・バゼイユの戦いのエピソードを描いた「最期の銃弾の家」は普仏戦争絵画の傑作と言われます(セダンの戦い/バゼイユ陥落・「最後の銃弾の家」を参照下さい)。しかし、この絵を始めとして、その多くは先の「ドイツへの憎しみ」を掻き立てるプロパガンダ画であり、そのリアルなタッチに反して多くの「嘘」が仕込まれています。ドイツにもアントン・フォン・ヴェルナーやルイ・ブラウンなどこの手のプロパガンダ画を描いて好評だった画家が多くいましたが、ドゥ・ヌーヴィルの絵には一種「怨嗟」を感じる凄みのある絵が多く、それはそれで戦争の本質を描いると言えるかもしれません。
しかし、そんな彼にも本当に戦場の一部分を脚色せず描いた絵ではないのか、と思われる絵画もあり、この「塹壕にて」はその頂点にあるものと思えます。最前線の塹壕で浅い眠りを貪る仏護国軍兵士を描いたこの絵からは倦怠感と諦観が垣間見えるように感じます。これ以上の説明は野暮と言うものでしょう。
なお、この絵にはちょっとしたエピソードもあり、ドゥ・ヌーヴィルのパトロンの一人、画商のアルフォンス・グーピルはこの絵を持ち込んだヌーヴィルに対し「私はもっと人々が気楽に見ることが出来る、余計な感情(=反戦?)を呼び込まない絵が欲しい」と告げ、この傑作に僅か6,000フランの値しか付けなかったそうです。このことも当時のフランスの感情を示しているように思えるのです。
戦争中国民衛兵制服姿のヌーヴィル




