ル・マン会戦に至るまで/コネレとトリニエ、アルドネの戦闘
☆ 1月9日・独第13軍団
カール王子の独第二軍8日午後10時発令の前進命令が届く以前の夕刻。メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世は9日の前進につき、以下の様に命じます。
「騎兵第4師団は、騎兵第12旅団による右翼(北又は後方・東)側援護を受けつつベレーム(ノジャン=ル=ロトルーの北西20キロ)及びサン=コスム(=アン=ヴァレ。ベレームの南西13.7キロ)を経て前進し、可能ならばボンネターブル(サン=コスムの南10.9キロ)に到達せよ。第17並びに第22師団はラ・フェルテ=ベルナールからル・マンへの本街道(現・国道D323号線)をコネレ(ラ・フェルテ=ベルナールの南西18.5キロ)へ向けて前進し、第17師団は一支隊をサン=メクソン(同南10.6キロ)経由でル・リュアール(同南南西13.9キロ)方向へ前進させ左翼(南)警戒とし、フォン・ラウフ将軍の支隊との間を埋めよ。ラウフ将軍はヴィブレイからベルフェ(サン=カレの北8.2キロ)経由でサン=カレへ至れ」
しかし、深夜に至り「第3軍団は昨日既にサン=カレを通過し、現在(8日)サン=カレにはフォン・マンシュタイン将軍の第9軍団がいる」との報告があり、これを聞いた第17師団長フォン・トレスコウ将軍から「ラウフ将軍の部隊を西進させてコネレ(ル・マンの東北東22.6キロ)で本隊との連絡を取らせては如何か」との上申もあって大公は「ラウフ支隊はコネレへ進め」と変更命令を発するのでした。
明けて9日。この日は早朝から雪が降り、凍える寒さの上に視界が優れない一日となります。
独騎兵第4師団は命令通りベレームに向かいますが、この地方は騎兵の運用に向かないボカージュと荒野、起伏の大きな丘陵が続くため前進は遅々として進みません。それでも午後にベレーム郊外へ進んだ師団は、隷属している第32連隊の第2大隊を市街に向け、小競り合いの末日没時に仏軍(ルソー将軍の後衛)を市街から駆逐することに成功しました。この夜、騎兵第4師団はベレームに宿営し、レマラール(ベレームからは東北東へ16.7キロ)から前進して来た騎兵第12旅団の前衛*も夜に入って合流しました。しかし、前衛を追ってスノンシュ(レマラールからは北東へ24.4キロ)を出た騎兵第12旅団の本隊は、途中ロンニー(=オー=ペルシュ。同北11.5キロ)付近に未だ仏の大部隊が展開しているのを発見して引き返したのです。
※1月9日・騎兵第12旅団前衛支隊
○第94「チューリンゲン第4」連隊・第2大隊の半数
○竜騎兵第13「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・第2中隊
○野戦砲兵第10連隊・騎砲兵第2中隊
雪中の斥侯(クリスチャン・セル画)
☆ コネレとトリニエの戦闘(1月9日)
1月9日午前9時。集合地シャトー・ドゥ・ボーシャン(城館。ラ・フェルテ=ベルナールの南西7.6キロ。現存します)を出立した第17師団前衛は、ル・マンへの本街道に出てソー(=シュル=ユイヌ。同南南西10.5キロ)を通過した途端、仏ルソー将軍の原隊、第21軍団第1師団の前哨部隊に遭遇します。
※1月9日・独第17師団の戦闘序列
師団長 ヘルマン・ハインリッヒ・テオドール・フォン・トレスコウ中将
◇前衛(第33旅団主幹)
ヴィルヘルム・マクシミリアン・カール・フィリップ・マルティン・アダム・フォン・デア・オステン中佐指揮
○第75「ハンザ第1/ブレーメン」連隊・第2、F大隊
○第76「ハンザ第2/ハンブルク」連隊
○竜騎兵第18「メクレンブルク第2」連隊・第2,3中隊
○野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・重砲第6中隊
○同連隊・騎砲兵第3中隊
○第9軍団野戦工兵第1中隊
◇本隊(第34旅団主幹)
ルドルフ・カール・ハインリッヒ・エンゲルハルト・フォン・マントイフェル大佐指揮
○擲弾兵第89「メクレンブルク」連隊
○フュージリア第90「メクレンブルク」連隊・第3大隊
○竜騎兵第18連隊・第1中隊
○野戦砲兵第9連隊・重砲第5中隊
◇「ラウフ」支隊との連絡隊
エルンスト・モーリッツ・ベルンハルト・フォン・レーガト中佐指揮
○フュージリア第90連隊・第1大隊
○竜騎兵第18連隊・第4中隊
○野戦砲兵第9連隊・軽砲第5中隊
◇左翼「ラウフ」支隊
アルフレート・ボナヴェントゥラ・フォン・ラウフ少将指揮
○第75連隊・第1大隊
○フュージリア第90連隊・第2大隊
○猟兵第14「メクレンブルク」大隊
○騎兵第17「メクレンブルク」連隊(竜騎兵第17「メクレンブルク第1」連隊・槍騎兵第11「ブランデンブルク第2」連隊)
○野戦砲兵第9連隊・軽砲第6中隊
○同連隊・騎砲兵第1中隊
独前衛の第75連隊第2大隊は突進してジュドリー(ソーの南南西1.1キロ)に至り、更にル・ポワリエ(同南南西2.3キロ)からラ・クロワ・ドゥ・フェール(ル・ポワリエの南西1.1キロ)へと仏軍を押し続け、遂にメルドロー(農場。ラ・クロワ・ドゥ・フェールの東南東300m余り。現存します)で仏軍前哨は壊乱し南方へ逃走するのでした。
午後3時45分頃に仏軍はラ・グルアス(ラ・クロワ・ドゥ・フェールの南西670m)を攻撃起点に反撃へ転じますが、これもまた短時間で撃退される運命にありました。
この後夕暮れ時に掛けて自由都市ブレーメンの将兵たちは第76連隊の第2大隊やル・リュアールから戦場音を聞き付けてやって来たフォン・レーガト支隊の援護を受けながら前進し、ラ・グルアス、レ・ランド(「グラン」と「プティ」の2つの農場。ラ・グルアスの南東1キロ付近。現存します)、ル・クードレイ(同南西700m)など街道の小部落や農場から仏軍を追い立て、170名の捕虜を獲たのでした。
日没になると追撃戦で弾薬が欠乏し後退した第75連隊第2大隊に代わり第76連隊第1大隊の両翼(第1,4)中隊が追撃戦を続行し、自由都市ハンブルク兵たちはデュノー(コネレの北東2.2キロ)を越えて前進しますが、コネレ前面のル・ポワン・デュ・ジュール(当時は農家。デュノーの南西700m。現在小部落)及びラ・ベル・エトワール(ル・ポワン・デュ・ジュールの街道挟んで向かい側/南にある農家。現存します)で仏軍から強力な抵抗を受けて留まり、南方のデュ川(コネレでユイヌ川に注ぐ支流)沿いに多くの焚き火や松明を見るのでした。
この少し前の夕暮れ時、レーガト隊のフュージリア第90連隊第1大隊は本街道南方をデュ川の谷地に向かって前進しますが、仏軍400名ほどの集団と遭遇し、着剣したメクレンブルク兵たちは短時間の白兵戦でこの大半に手を挙げさせました。その直後、左翼(南東)側から優勢な仏軍が現れて銃撃を加えて来たため、大隊は捕虜を連れル・リュアールへ引き上げるのでした。
この夜、第17師団の前衛を率いるフォン・デア・オステン中佐は第76連隊にデュノーを占領させてコネレの敵と対峙させ、師団本隊はソーの南西街道沿いに、第22師団はソーの後方(北東)街道沿いにそれぞれ宿営を求めて夜を過ごします。なお、第22師団はこの日正午頃、野戦砲兵第11連隊の軽砲第1,2中隊を迎え入れました。これは「ボージョンシー=クラヴァンの戦い」で全損・解隊した軽砲諸中隊(同連隊の第3~第6中隊)の代わりとしてベルサイユ大本営から送られた最後の増援(既に同連隊重砲第5,6中隊が師団砲兵として加わっています)でした。
また、第22師団の側方警戒となって行軍したフリードリヒ・フォン・ベッケドルフ大佐の支隊(第95「チューリンゲン第6」連隊、驃騎兵第13「ヘッセン=カッセル第1」連隊の第3,4中隊、野戦砲兵第11連隊の重砲第3中隊)は、先ずラ・フェルテ=ベルナールで第95連隊の第10中隊と驃騎兵第13連隊の第4中隊にユイヌを渡河させ、この歩騎兵たちはユイヌ右(北)岸を軍団の行軍に従って並進しました。支隊残部はユイヌに残る橋梁を調べつつ南西に進みソー付近で渡河します。ユイヌ川には比較的多くの固定橋が残っていましたが、ヴィレンヌ=ラ=ゴネ(ラ・フェルテ=ベルナールの南西6.9キロ)の橋は破損しており、歩兵のみ渡れました。ベッケドルフ隊はシュロンヌ川(ユイヌ支流)の線で留まり、この夜はサン=ティレール(=ル=リエル。ソー=シュル=ユイヌの西3.5キロ)とテュフェ(サン=ティレールの北西1.6キロ)で宿営に入りました。
フリードリヒ・フランツ2世大公はこの日、ル・リュアールに本営を進めます。
本隊から右翼側に離れ南方に進んでいたフォン・ラウフ少将の支隊は9日、サン=カレからコネレへ南から西と90度行軍目標を変更され、午前中時間を掛けてヴィブレイからドロン(ヴィブレイの西11.1キロ)へ進み、この地で周辺に散っていた前哨たちも合流しました。ラウフ将軍らは小休止後にコネレへ向け前進を再開し、するとその途上トリニエ(=シュル=デュ。コネレの南東3.8キロ)に接近すると周辺に仏大軍が展開しているのを発見します。ラウフ将軍は臆することなく第75連隊の第1大隊に猟兵第14大隊の一部を加えて市街地へ突進させ、午後3時30分には仏守備隊を駆逐して市街全域を確保するのでした。ところがその西側へ進出を図ったラウフ将軍らは、郊外に潜んだ仏軍からの猛銃撃によって進撃を阻止されてしまいます。
この間、フュージリア第90連隊の第2大隊は騎兵数個中隊を伴ってクロゼ(トリニエの北1.2キロ)に進みましたが、ここにも目立つ仏軍部隊がおり、歩兵2個中隊が先行して部落の東にある林(現存)に侵入して確保し、更にロンゲーヴ川(デュ川支流)に架かる固定橋を占拠しました。部落からの銃撃を冒して橋を渡った部隊は部落の北郊へ突進して散兵線を敷き、残り2個中隊が川を挟んで南方から援護射撃を行う中、部落から突撃して来た仏軍を落ち着いて銃撃し撃退するのです。仏軍はその後夕暮れに紛れて西へと撤退しました。
ラウフ支隊はこの夜、トリニエとクロゼ、そして後方ドロンに宿営し、前哨たちは直ぐ郊外に潜む仏軍と対峙しつつ不眠の夜を迎えます。すると深夜になって仏軍は一斉にル・マン方面への退却を始め、コネレからも仏兵が消えた事を知ったラウフ将軍は、終夜警戒にあった数個中隊を市街へ侵入させ占領するのでした。
この日、第13軍団諸隊は雪による視界不良と困難な地形によって砲兵が一切活動出来ず、騎兵もまた行動が制限されたため殆ど歩兵のみの戦闘となりました。コネレとトリニエの戦闘で第17師団は戦死16名・負傷46名・行方不明4名の損害を受けますが、仏軍(主にルソー将軍師団第2旅団のマルシェ第26連隊と護国軍第90連隊)は約500名の捕虜を出すと共に戦死24名・負傷98名・行方不明250名前後(こちらは殆ど逃亡兵か落伍兵)の損害を受けます。また諸隊の一部は壊乱状態となっての後退中、寒気の激しい夜間で道に迷い、独第3軍団の進むサン=カレ~ル・マンの本街道付近まで進んでしまった部隊も出るのです。
仏護国軍負傷者輸送隊の行軍
☆ アルドネの戦闘(1月9日)
独第3軍団は軍団長フォン・アルヴェンスレーヴェン中将の命令で第6師団と軍団砲兵隊がサン=カレの西、街道沿いの宿営地からル・マン街道(現・国道D357号線)上ブロワール(サン=カレの北西15.3キロ)を越えて更に西へ進み、第5師団は街道を行く第6師団の左翼(南)側を並進、右翼(北)ではツー・リナル中佐の支隊が西進すると同時に第13軍団との連絡を取りました。
第6師団の前衛は昨夜ロッジュの森西縁まで進んでいましたが、午前9時に出立しブロワールに居残っていた仏軍後衛を簡単に撃退すると前に進みました。
※1月9日・独第6師団の戦闘序列
師団長 男爵ロベルト・エデュアルド・エミール・フォン・ブッデンブロック中将
◇前衛(第12旅団主幹)
フーゴー・フォン・ビスマルク大佐指揮
○第24「ブランデンブルク第4/大公メクレンブルク=シュヴェリーン」連隊・第2、F大隊
○第64「ブランデンブルク第8/王子カール・フォン・プロイセン」連隊
○胸甲騎兵第6「ブランデンブルク/ロシア皇帝ニコライ1世」連隊・第3,4中隊
○野戦砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・軽砲第6中隊
○同連隊・重砲第6中隊の1個小隊(2門)
○第3軍団野戦工兵第3中隊
◇本隊(第11旅団主幹)
ルイス・カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レヴィン・フォン・ロートマーラー少将指揮
○フュージリア第35「ブランデンブルク」連隊
○第20「ブランデンブルク第3」連隊
○胸甲騎兵第6連隊・第1中隊の1個小隊
○野戦砲兵第3連隊・重砲第5中隊
○同連隊・軽砲第5中隊
◇右翼支隊
伯爵ヘルマン・アルベルト・ツー・リナル中佐指揮
○第24連隊・第1大隊
○胸甲騎兵第6連隊・第1中隊の3個小隊、第2中隊
○野戦砲兵第3連隊・重砲第6中隊の2個小隊(4門)
*第64連隊の第9中隊は輜重警護として後置。
*1月6日にロワール(Loir)川に架橋した第3軍団野戦工兵第1中隊は1月10日夕刻、本隊に復帰しました。
この日の軍団先鋒となった第64連隊の半部(第1大隊と第6,7中隊)は、午後に入りコネレと南方ル・グラン=リュセを結ぶ街道(現・国道D33号線)との交差点(ブロワールの西北西6.6キロ)に接近しますが、仏軍が前方の高地と森林地帯に展開しているのを発見、見敵必戦とばかり即座に攻撃へ移行しました。仏軍の前哨部隊は一時激しく抵抗し、短時間ですが猛烈な銃撃戦となりました。しかし練度と経験に勝る独軍側は簡単に押し切り、午後2時、独前衛はこのル・ブレイユ(=シュル=メリズ。交差点からは北へ2キロ)の南西高地とシュルフォン(同じく南へ1.9キロ)北の森林を制圧します。更に街道を西へ進んだフォン・ビスマルク大佐支隊でしたが、アルドネ(=シュル=メリズ。同交差点の西3.4キロ)付近で自軍に倍する強力な仏軍と遭遇し前進を阻まれるのでした。
アルドネの仏軍はパリ将軍率いる第17軍団第2師団で、それまでこの本街道を後退しつつ戦って来たドゥ・ジョフロワ=ダバン将軍の兵団がサン=カレの戦闘で壊乱し、街道を外れて南西方向へ退却したため、ル・マンのシャンジー将軍がパリ将軍に命じて前進させ、このアルドネの高地に陣を構えていたものでした。パリ将軍は本街道を境として右翼(南)側旅団にアルドネ城(市街中心から南西へ670m。現存します)と市街を守備させ、左翼(北)側旅団には街道上のラ・ビュット(小部落。アルドネの北500m)と街道を挟んだその北郊までに散兵線を敷かせると、その後方(西)高地森林縁に師団砲兵(野砲4門とミトライユーズ砲2門)を置いたのです。
対する独軍は、両側を森林に阻まれ、砲兵はたった1個小隊2門(軽砲第6中隊所属)が街道上に砲を敷くのみでした。お互いを発見した直後から砲撃戦が始まり、圧倒的に不利だった独軍軽砲小隊でしたが、まずは危険なミトライユーズ砲を狙い、至近にミトライユーズの弾丸が降り注ぐ身も縮むような状態の中で榴弾砲撃を続け、30分後、遂にミトライユーズ砲小隊を後退させることに成功するのです。その後、この小隊は仏砲兵だけでなく歩兵からも狙撃され続けますが一時も休むことなく砲撃を続行し、それは戦闘終了の命令が発せられるまで続くのでした。
この砲撃戦の間、第64連隊は森林縁に散兵線を展開し、第24連隊の2個(第6,7)中隊もこれに加わって仏パリ将軍師団兵と銃撃戦を繰り広げ、午後4時、アルドネ城に対し約4個半中隊*が突撃を敢行、城を奪うのでした。
街道の北・仏軍左翼に対しては第64連隊の3個中隊がラ・ビュットに向かって延びた森を遮蔽に使って小部落に接近し、これを発見した部落の仏軍は突撃して来ましたが迎撃して仏軍を追い返し、独側最右翼を進んだ約2個中隊半も森林から目前の窪地となった牧草地を越え、ラ・ビュット北の高地森林縁まで進出すると、共に接近した敵と長時間に渡る銃撃戦となったのです。
アルドネ城
※アルドネの戦闘で前線にあった独軍諸隊
◇アルドネ部落に対峙し散兵線を敷いた諸隊
○第64連隊・第2中隊の2個小隊
○同連隊・第3中隊の2個小隊
○同連隊・第4中隊の3個小隊
○同連隊・第6中隊
○同連隊・第7中隊
◇アルドネ城に突撃した諸隊
○第24連隊・第6,7中隊
○第64連隊・第3中隊の4個小隊
○同連隊・第4中隊の3個小隊
○同連隊・第11中隊
◇ラ・ビュットに突撃した諸隊
○第64連隊・第8中隊
○同連隊・第10中隊
○同連隊・第12中隊
◇最右翼で牧草地に突進した諸隊
○第64連隊・第1中隊
○同連隊・第2中隊の4個小隊
○同連隊・第5中隊
こうして倍する仏パリ将軍師団と互角に戦うビスマルク支隊でしたが、パリ将軍は部下を叱咤して日没を待ち総攻撃を命じたのです。仏軍は夕闇と吹雪の中一斉に突撃を敢行しますが、前線の独将兵は冷静に迎え撃ち、結果仏軍将兵は負傷者を残して再び部落内へ引き返すのです。すると短時間の後、ラ・ビュットの仏軍に対し第64連隊の第10,12中隊が北側から前進を始め、ほぼ同時に第二線にあった第24連隊第2大隊の両翼(第5,8)中隊も街道に沿って南側から突進し、これが「引き金」となって独軍は総突撃を開始するのでした。
自然発生したこの突撃は独軍が時折行う無発砲突撃(射撃を行わない分危険も大きいが敵への接近も早い)で、4,000名近い将兵は吶喊すると必死で銃撃を繰り返す部落の仏軍に突撃して行きました。この夕闇の中の突撃は仏軍の士気を完全に砕き、急速に迫るピッケルハウベの列を見た護国軍兵やマルシェ兵は持ち場を棄てて逃走し始め、これは完全な潰走となってしまいます。
独軍は仏将兵を部落から駆逐すると西側高地を越えて逃げる仏軍をその先ナレ川(ル・グラン=リュセ南西の高地を水源に北へ流れ、サン=マルス=ラ=ブリエール付近でユイヌ川に注ぐ支流)の谷へ追い落し、逃げ遅れた多くの兵士を捕虜とするのでした。
アルドネでビスマルク支隊が戦闘中と聞き及んだC・アルヴェンスレーヴェン将軍は、午後4時にフュージリア第35連隊の2個大隊を南方からアルドネへ接近させるようフォン・ブッデンブロック将軍に命じます。ブッデンブロック師団長は同連隊長ヴィルヘルム・フリードリヒ・ルイス・デュ・プレシス大佐に対し、重砲第6中隊の1個小隊を付して第1、2大隊を進撃させるよう命じ、デュ・プレシス大佐は両大隊を直率してシュルフォンに向かい、ここからアルドネの南郊外へ向かう林道を進むと、ラ・コアイニエール(農場。アルドネの南850m。現存します)付近で仏軍部隊と遭遇、これを蹴散らしました。デュ・プレシス大佐はその勢いのままこの小路を辿ってナレ川に出ますが、既に辺りは夕闇に沈んでおり、渡河可能な場所を発見出来なかった部隊は本隊へ引き返すのでした。
この夜、ビスマルク大佐の前衛はナレ川東岸沿いに前哨を置くと、極寒の中、占拠した部落前仏軍が作った陣地に野営するのです。
この「アルドネの戦闘」で独軍は戦死が士官2名・下士官兵31名・馬匹2頭、負傷が士官2名・下士官兵118名、行方不明が下士官兵3名、合計156名の損害を受け、仏軍は戦死が士官2名・下士官兵40名、負傷が士官10名・下士官兵210名、そして捕虜1,000名以上を記録しています。
アルドネの戦い(リヒャルト・クネーテル画)
一方、ブロワール付近から本隊の右翼に離れて北西方向へ進んだツー・リナル中佐率いる右翼支隊は、ニュイエ=ル=ジャレ(アルドネの北東5キロ)で義勇兵の集団が部落にいるのを発見し、これを襲撃してコネレへの街道(現・国道D33号線)へ駆逐しました。その後支隊はモンフォール=ル=ジェスノワ(コネレの西5.7キロ)方面目指して行軍し、道中遅延攻撃を行う仏軍を排除しつつル・マンへの本街道(現・国道D323号線)上のラ・ベル・アンユティル(コネレの南西5.2キロ)に至り、ここで頑強に抵抗する仏軍を攻撃して、最後は第24連隊第1大隊の攻撃により仏軍は部落を棄てて撤退するのでした。この部落では逃げ遅れた約100名の捕虜と、弾薬及び糧食の縦列が独軍の手に落ちるのでした。
しかし、周辺の諸部落や独立家屋には多くの仏軍がおり、ツー・リナル中佐の支隊だけでは攻撃はおろか防戦一方となること必至だったのです。中佐はラ・ベル・アンユティルの家屋に防御を施して部隊を集中配置して警戒しつつ宿営を始め、四方郊外に前哨を配置しましたが、これら前哨は一晩中小規模な敵襲を受け続けたのです。ツー・リナル中佐は夜に入ってようやくコネレ方面の友軍第13軍団との連絡に成功するのでした。
このコネレは前述通り夜半近くまで仏第21軍団によって確保され、その南方にも多くの仏軍部隊が居残っていたため、独第13軍団前線部隊ばかりでなく、その南側ニュイエ=ル=ジャンとスリトレ(ニュイエの南西2.1キロ)で宿営に入った第6師団本隊も、更にはル=ブレイユ(=シュル=メリズ)に入った師団司令部までもが夜半過ぎまで仏軍の騒擾部隊によって銃撃されるのです。
独第6師団の左翼(南)側を併進する予定だった第5師団はこの日の行軍中、仏軍からの抵抗を受けることはありませんでした。しかし主行軍路としたナレ川支流ユーヌ川沿いの諸街道(現・国道D90号線など)は幾度も泥濘と凍結を繰り返して荒れに荒れており、降雪もあって行軍は大きく遅延します。午後遅くになり、漸く前衛がナレ沿岸のゲ・ド・ローヌ(農場。アルドネ=シュル=メリズの南4.1キロ。現存しません)に到達つしますが、本隊は未だサン=マルス=ドゥ=ロックネ(ブロワールの南西7キロ)に到着したばかりで、師団はここで宿営することになりますが、ゲ・ド・ローヌの前衛は急ぎ工兵が架けたナレ川の仮橋を渡って前哨を出し、この前哨たちはアルドネ南西方に広がるルードンの森(ボワ・ドゥ・ルードン)を横断すると、日没までにラ・ビュザルディエール城館(アルドネの南西6.1キロ)を占拠し、その南方、パリニエ=レヴック(同南南西7.8キロ)方向へと突出するルードンの森南端にも侵入しました。このパリニエ=レヴックには仏守備隊が存在することもこの前哨たちは報告するのです。
この日、C・アルヴェンスレーヴェン将軍は本営と共にアルドネ城に入りました。独第3軍団は友軍両翼(第13と第10)軍団よりル・マン方向へ突出する形となり、その前哨たちはナレ川の西に多くの焚火や松明を見て眠れない夜を迎えるのでした。
フォン・マンシュタイン歩兵大将率いる独第9軍団はこの日、第3軍団後方を同じル・マンへの本街道に乗って進み、夕方にはブロワール周辺で宿営に入ります。この第9軍団と第13軍団の間を連絡する独騎兵第2師団はこの日サン=ミシェル=ドゥ=シャヴェーニュ(ブロワールの北5.2キロ)で宿営しました。
しかし、独第10軍団はこの9日にパリニエ=レヴックに達する予定が大幅に遅れてしまうのです。
1月9日の独第二軍




