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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリの苦悶と『ル・マン』
436/534

ル・マン会戦に至るまで/サン=カレとラ・シャルトルの占領


☆ 1月8日


 1月7日の夜間、日中まで多少温暖だった気温は急激に下がり、泥濘の大地や街道筋は再び凍結し堅く締まります。翌8日は人間ばかりでなく馬匹も脚を取られて滑る程となり、行軍は厳しいものとなりました。


 フリードリヒ・フランツ2世大公率いる独第13軍団は8日早朝、両師団共にラ・フェルテ=ベルナール(ノジャン=ル=ロトルーの南西19.4キロ)目指して行軍を再開します。

 第22師団がノジャン(=ル=ロトルー)周辺から出立すると、騎兵第4師団に属する騎兵第9旅団もこの行軍に続行しました。この騎兵旅団はこの日から後命あるまで第22師団に隷属するものと命令されています。また同時に第22師団中、第32「チューリンゲン第2/ザクセン=マイニンゲン公国」連隊の第2大隊は騎兵第4師団本隊に派遣され、第94「チューリンゲン第5」連隊の第2大隊は、騎兵第12旅団に派遣されました。


 第22師団はラ・フェルテ=ベルナールへの前進中、少数の仏落伍兵に遭遇しただけでしたが、本街道(現・国道D923号線)は退却したルノー将軍率いる義勇兵主体の仏混成兵団によって破壊の限りを尽くされており、前述通り極寒もあって行軍は遅れに遅れてしまいます。従って第22師団本隊がラ・フェルテ=ベルナールに到着したのは午後4時を過ぎており、その時にはセトン(ラ・フェルテ=ベルナールの北東8.1キロ)~シェロー(同北東2.1キロ)を経由し第22師団の行軍と並進していた第17師団の前衛は既に市街を通過した後でした。

 第17師団の本隊はこの日、クルジュナール(同南東7キロ)とコルム(同南東4キロ)を経て行軍し、この間遭遇した仏軍後衛諸隊は並べて短時間の銃撃戦を行った後に陣地を放棄して撤退しました。これを追跡した騎兵斥候は途上、住民を捕まえて尋問した結果、仏軍本隊はコネレ(ラ・フェルテ=ベルナールの南西18.5キロ)まで退却したことを知るのです(ルソー将軍兵団のマルシェ部隊はこの地で仏第21軍団第1師団に合流しました)。

 この夕方、第13軍団はラ・フェルテ=ベルナールの周辺に宿営し、市街を流れるユイヌ川(ベレームの西郊を水源にペルシュ地方西部を時計回りに流れ、ノジャン=ル=ロトルー~ラ・フェルテ=ベルナールを経てル・マン南郊でサルト川に注ぐ支流)の両岸に前哨を派出するのでした。


挿絵(By みてみん)

ラ・フェルテ=ベルナール(20世紀当初)


 騎兵第17「メクレンブルク=シュヴェリーン」旅団を主体とするフォン・ラウフ少将の支隊はこの8日、更に猟兵第14「メクレンブルク」大隊と野戦砲兵第9連隊の軽砲第6中隊を加え、歩兵3個大隊(連隊クラス)・騎兵2個連隊・砲兵2個中隊と強力な「諸兵科混成戦闘団」となります。

 ラウフ支隊は前日深夜に大公より「モンミライユ(ラ・フェルテ=ベルナールからは南東へ15.3キロ)とヴィブレイ(モンミライユの南西6.4キロ)を経て前進し、その先エピュイゼイ~サン=カレ街道(現・国道D357号線)方面で戦闘が発生している場合はこれに参戦せよ」と命じられています。

 支隊は昨夜の内に仏軍の去ったモンミライユを通過するとヴィブレイの北東郊外・ブレイ河畔まで順調に行軍し、するとこの地で仏軍が一軒家となった数軒の農家を中核として展開しているのを発見しました。ラウフ将軍は先鋒となっていたフュージリア第90「メクレンブルク」連隊の第2大隊に命じてこれら仏軍拠点を奇襲させ、この周辺農家ばかりでなくブレイ川に架かる橋も奪取します。後方から第75「ハンザ第1/ブレーメン」連隊の第1大隊がやって来ると両大隊は一気にヴィブレイに突入し、この地を守っていたおよそ1個連隊の仏軍は約30名の捕虜を出しつつスミュール(=アン=ヴァロン。ヴィブレイの南西7.3キロ)目指し退却して行きました。この戦闘中ラウフ将軍は南方ベルフェ(同南7.6キロ)まで斥候隊を派出しており、この斥候隊が帰還して言うには「サン=カレ方面に戦闘音は聞こえず」とのことでした。将軍はこれで満足し、この日はヴィブレイとその周辺部で宿営したのでした。


 第13軍団の右翼外を警戒するフォン・ブレドウ少将率る騎兵第12旅団はこの日、仏軍が去った事でようやくレマラール(ノジャン=ル=ロトルーの北12.5キロ)を占領しました。

 一方、ノジャン=ル=ロトルーの東にあった騎兵第4師団は、第13軍団の前進に従い大公から「軍団の右翼を警戒してノジャンを経てベレーム(同西北西20.2キロ)まで進むよう」命令されます。師団(騎兵第9旅団欠)は途中仏軍と遭遇せずに街道(現・国道D955号線)を進みましたが、午後に入ってベレームの東郊外3キロ付近で仏軍の大部隊に遭遇するのです。

 この仏軍はレマラールから西へ撤退しベレームに進もうとしていたルソー将軍兵団の後衛部隊で、仏ロアール軍にとって貴重な砲兵も付されていました。独軍騎兵は師団に属する野戦砲兵第11連隊騎砲兵第2中隊の1個小隊2門を繰り出し、試射を始めた仏軍砲兵を砲撃させ、仏軍砲兵は短時間で砲撃を止め引き下がりましたが、師団に隷属していた第32連隊第2大隊は遥かに優勢な敵を見て突撃を控えるのです。

 戦闘はこの後双方緩慢な銃撃戦となり、結局夕暮れが訪れたところで自然に終了し、独軍騎兵はベルデュイ(ノジャン=ル=ロトルーの北西6.3キロ)まで下がって宿営に入るのでした。


 7日にエピュイゼイの北、ル・タンブル(エピュイゼイの北3.5キロ)付近まで進んでいた騎兵第2師団は、この8日コンフラン(=シュル=アニル。サン=カレの北2.7キロ)付近まで進み、第17師団左翼と第9軍団との間で連絡を取りました。


 前日夜はブレイ河畔にあったC・アルヴェンスレーヴェン将軍の独第3軍団右翼となった第6師団はこの日、先ずはブレイ川を渡河してサン=カレに向かい前進し、サン=カレ東郊までは仏軍に遭遇することなく進撃しました。対する仏軍(ドゥ・ジュフロワ=ダバン将軍兵団)はサン=カレを流れるアニル川(サン=カレの北10キロ付近の森林高地を水源にサン=カレから南へ流れてベッセ=シュル=ブレイでブレイ川に注ぐ河川)西岸に沿って後衛を残置させ、ル・マンへの本街道(現・国道D357号線)を破壊しつつ障害物を置いて西へ退却していました。この後衛たちにしても、独軍が本格的な攻撃を始動する前に準備していた馬車に乗車し退却してしまうのです。

 独第5師団は軍団左翼として本街道の南側を前進し、仏落伍兵に遭遇するだけで殆ど抵抗らしい抵抗を受けずにサン=カレ南方のアニル河畔に至ります。

 独第3軍団はこの日、テュソン川(サン=カレの北西8.5キロ付近のロッジュの森を水源にエコーバン~ヴァンセ~ラ・シャペル=ゴガンと流れスジェの北でブレイ川に注ぐ支流)とアニル川の間、本街道の両側にある諸部落や農場に宿営を求め、第6師団前衛はロッジュの森(ボワ・デ・ロッジュ)の西側(サン=カレからは12キロ余り)まで進んで西方警戒となりました。


 フォン・マンシュタイン将軍の独第9軍団はカール王子の命令通り、この8日は第3軍団を援助するためその後方を進み、第3軍団右翼が支障なく無事にサン=カレを通過すると、軍団前衛は直ちにサン=カレへ入りました。軍団はこの夜サン=カレとその東方にある諸部落に宿営しています。


挿絵(By みてみん)

サン=カレ 占領後酔って騒ぐ独軍兵士(仏側の図録より)


 さて、フォン・フォークツ=レッツ将軍麾下において独り右翼側に突出していた独騎兵第14旅団ですが、この日は将軍より「第3及び第9軍団との連絡を維持せよ」と命じられました。

 仏軍ではジョフロワ将軍麾下のマルシェ胸甲騎兵第3連隊(元は第16軍団騎兵師団所属)とアルジェリアからやって来た戦意旺盛な植民地部隊|(アルジェリア・エクレルール騎兵)が昨日来ラ=ヴィエイユ=エイ(サヴィニー=シュル=ブレイの南南東3.8キロ)に陣を構え、シュミット将軍の騎兵たちを撃退しますが、このままでは包囲される危険もあって夜の内にラ・シャペル=ユオン(同西南西5.5キロ)を経て西へ退却していました。

 この8日早朝、旅団長フォン・シュミット将軍と騎兵旅団は宿営したラ・リシャルディエール農場を後にベッセ(=シュル=ブレイ。サヴィニーの南西6.6キロ)を経て前進します。その道中で捕虜にした仏斥候兵の語るところでは、「仏軍騎兵部隊先鋒はヴァンセ(ベッセの西7.8キロ)に留まり、後続はラ・シャペル=ユオンよりヴァンセに向けて行軍中」とのことだったのです。


挿絵(By みてみん)

寒気の下・仏軍の野営


☆ ヴァンセの戦闘(1月8日)


 独騎兵第14旅団の先鋒となった諸中隊がヴァンセ付近までやって来ると、部落から猛射撃が始まります。この付近は例によって街道上以外重量物が通行不可能だったため、騎兵たちは即座に街道を外れて続行していた騎砲兵中隊に前方を空け、砲撃を促しました。

 仏軍は部落南北郊外に続くボカージュ(生け垣)に騎銃を手に下馬した胸甲騎兵たちを忍ばせ、テュソン川に沿って植民地兵を展開させていました。この時、独軍の野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊の騎砲兵大隊長ユリウス・ヴィルヘルム・ケルバー少佐(マルス=ラ=トゥールの戦いでは最前線のヴィオンヴィル付近で騎砲兵を率いて奮戦し、戦後プール・ル・メリットと准貴族“フォン”の称号を得、最終階級は砲兵大将にまで出世しました)は、麾下第3中隊と共に騎兵第14旅団に同行し、その後この旅団に属する砲兵全てを指揮していました。ケルバー少佐は街道以外では砲撃不可能な地形と見て取ると、先頭にあった騎砲1門のみに命じて砲撃を開始しました。まずはボカージュの敵胸甲騎兵を霞弾で掃射し、続いて川岸に潜む植民地兵に対して榴弾を発射させます。敵に砲兵がいないことを察した少佐は更に後続の騎砲2門も前進させて狭い空間に砲列を敷かせ、この3門は苦労しながら射撃を繰り返し、榴弾が仏軍散兵線の只中で破裂すると動揺した仏軍兵士たちは錯乱して部落を棄て、モントルイユ=ル=アンリ(ヴァンセの北西7.2キロ)とサン=ジョルジュ=ド=ラ=クエ(同西北西4.9キロ)に向かって潰走してしまうのです。

 シュミット将軍は逃げる仏軍に対しグスタフ・ヘルマン・フォン・アルヴェンスレーヴェン大佐率いる槍騎兵第15「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊を追撃に差し向け、旅団諸中隊はエタンソール川(サン=カレ~ル・マン街道の南、メゾンセルの北東郊外を水源にサン=ジョルジュ~クルドマンシュを経てル・ムーラン・ド・ブリーヴ付近でロワール支流ヴーヴ川に合流する河川)河畔に達しました。しかし、ここで対岸のボカージュや空濠に潜んだ仏兵から猛射撃を浴びてしまい、大佐は無理をせず日没までに旅団が宿営を始めたヴァンセに引き返しました。

 この日の騎兵第14旅団は戦死2名・負傷3名・行方不明1名と僅かな損害で、仏軍はアルジェリア・エクレルール隊が約100名の損害、胸甲騎兵が士官2名、下士官兵22名の損害を受けています。


挿絵(By みてみん)

ケルバー少佐


☆ ラ・シャルトル(リュイエ)の戦闘とサン=タマン戦線の状況


 この8日。独第10軍団はロワール(Loir)川の右(北)岸を進撃しますが、その道中には隘路が多くあり、また街道筋では地面が荒れて凍り付いているだけでなく仏軍による破壊と障害物の設置が多数あったため、行軍は遅延し方々で渋滞が発生してしまいました。


 この日の第10軍団前衛*は独第92「ブラウンシュヴァイク公国」連隊長、ハインリッヒ・テオドール・ヴィルヘルム・アルベルト・ハーバーラント大佐が率い、モントワール周辺から消えた仏軍を追ってロワール北岸沿いの街道(現・国道D917号線)を西へ進みました。するとポンセ(=シュル=ル=ロワール。モントワールの西15.4キロ)を越えた辺りで仏軍に遭遇するのです。


※1月8日の独第10軍団前衛支隊

○第92「ブラウンシュヴァイク公国」連隊

○竜騎兵第16「ハノーファー第2」連隊・第1,2,3中隊

○野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊・軽砲第4中隊

○第10軍団の野戦工兵1個小隊


 この仏軍部隊はジョーレギベリ提督麾下の仏第16軍団第2「バリー将軍」師団前衛で、護国軍部隊約1,000名でした。このポンセ付近では街道は川と北側の高地に挟まれ、完全な隘路となっています。仏軍は隘路の出口となるリュイエ(=シュル=ロワール。ポンセの西南西3キロ)に陣を構え、ミトライユーズ砲を前面に出して街道の隘路を掃射したのです。

 対するハーバーラント大佐は率いる軽砲中隊から1個小隊を前面に出して対抗射撃を行わせ、独砲兵の正確な砲撃はたちまちミトライユーズ砲を後退させるのでした。しかし、仏護国軍兵たちは後退せずにリュイエに籠って銃撃を繰り返し、独軍も5個(第92連隊の第1,4,6,7,8)中隊を隘路に出し、独軍歩兵たちはドライゼ銃の有効射程に入るまで危険でじれったい程の時間を掛けて前進すると激しい銃撃戦を繰り広げたのです。この後2時間近く続いた銃撃戦の末、疲弊した仏軍は本隊のいるラ・シャルトル=シュル=ル=ロワール(リュイエの西南西4.2キロ)へ向けて撤退しました。ハーバーラント大佐はリュイエで234名の捕虜を獲ています。

 「ポンセの隘路」が安全となると軍団本隊も前進し、護国軍部隊前衛の後退により本隊も西へ撤退した仏軍と入れ替わり午後4時にラ・シャルトルを占領するのでした。

 この夕、第10軍団はラ・シャルトル周辺で一軒家などに籠る仏軍を掃討し、本隊はラ・シャルトルで宿営しますが前哨は未だ付近に居残るバリー将軍麾下の仏軍部隊と対峙して一晩を明かすのでした。

 第10軍団は8日、戦死5名・負傷18名の損害を受け、仏軍の損害は不詳ですがリュイエの戦闘を含め250名前後の捕虜を出しています。


 一方、独騎兵第1師団長フォン・ハルトマン中将率いる兵団が展開するサン=タマン(=ロングプレ)の戦線はこの日、不気味なほど静かに明けました。

 早朝から警戒態勢に入った独軍は、対峙する仏軍の動きがなかったため拍子抜けの態でしたが、これによりハルトマン将軍は午前9時、昨日から「24時間の期限で」借りていたパウル・フォン・ヴォイナ少将の支隊を第10軍団本隊へ帰還させるよう命じました。P・ヴォイナ将軍は支隊を率いてサン=タマンを出立し、モントワール経由で夕方までにスジェ(ポンセ=シュル=ル=ロワールの東5.5キロ)からル・ポン=ドゥ=ブレイ(同東3.5キロ。ブレイ川の渡河点で街道分岐点)へ達し、宿営に入りました。また、昨日はアンブロワで宿営していた騎兵第15旅団の竜騎兵第2「ブランデンブルク第1」連隊は、旅団に随行していた野戦砲兵第3連隊の騎砲兵第2中隊から2個小隊(4門)を加えられて第10軍団本隊に送られ、この日はロワールの南岸を西へ進んでル・プラ・デテン(スジェの南南東3キロのアルタン部落西端にある屋敷。当時は一軒家で現存します)に達し、その後P・ヴォイナ将軍支隊に合流するよう命じられスジェに進んでいます。


 サン=タマンの南方では仏クルタン将軍がル・マンからの命令で昨日から麾下を西へ撤退させており、半数ほどが最終目的地のシャトー=ラ=ヴァリエール(トゥールの北西32キロ)に向かって出立していました(昨日独第38旅団がヴィルショヴで望見した大縦隊がその一部です)。しかしクルタン将軍はこの8日、残った諸隊で独軍前哨のいるヴィルティウ(サン=タマンの南西3.9キロ)に対して本街道(現・国道N10号線)を中心に散兵線を構築し、争奪の続いたヴィルポルシェ部落とその南の森林にも増援を送り込んで守備固めを始めたのです。

 対する独ハルトマン将軍は仏軍からの攻勢がなかったことで、第16「ヴェストファーレン第3」連隊の第1、F大隊と野戦砲兵第1連隊の騎砲兵第1中隊に対し「ピア(ヴイルポルシェの北東1.1キロ)に集合した騎兵第1旅団(胸甲騎兵第2「ポンメルン/国王」連隊、槍騎兵第4「ポンメルン第1」連隊、槍騎兵第9「ポンメルン第2」連隊)と合流し共にヴィルポルシェを攻撃して確保せよ」と命じました。

 ピアに進出した騎砲兵中隊は到着後直ちに砲列を敷き、ヴィルポルシェの仏軍に砲撃を開始します。第16連隊の第1大隊はル・グラン・ヴィルマン(農場。ヴィルポルシェの北950m。現存します)から先行して3個中隊を、同連隊F大隊はピアに前進した後に同じく3個中隊をヴィルポルシェ前面に突進させ、ピアの胸甲騎兵たちはその両翼に展開して一気にヴィルポルシェへ侵入するのです。仏軍は短時間抵抗しただけで南方の森林へ逃走し、独軍は部落を占領すると共に捕虜100名を獲るのでした。ほぼ同時にその東側、サン=シル=デュ=ゴー(ヴィルポルシェの南東3.4キロ)を槍騎兵第9連隊が襲い、駐屯し警戒していた仏アフリカ猟騎兵(アルジェリア植民地から来た植民地騎兵)をサン=ニコラ=デ=モテ(サン=シルの南4キロ)へと追い払うのでした。


挿絵(By みてみん)

フォン・ハルトマン(騎兵大将時代)


 ところで、フォン・ハルトマン将軍はヴィルポルシェ攻撃を命じた直後の午前10時頃、第10軍団長のフォン・フォークツ=レッツ歩兵大将から「我が軍団に追従し兵団をラ・シャルトル方面へ向かわせよ」との命令を受領します。この命令は、カール王子の第二軍本営から「今やシャトー=ルノーの敵は我が軍に脅威を与えるものではなくなった」との認識を示され、「ハルトマン将軍に預けた兵力について召喚するも可能とするが歩兵(第38旅団)を残留させるか否かは判断を委ねる」とされたフォークツ=レッツ将軍が下したものでした。ところが、この命令は発令されて一晩明けた9日朝に「この判断は誤認(騎兵第1師団はフォークツ=レッツ将軍に指揮権がありません)」として第二軍本営から取り消され、直ちに修正された命令が発せられましたが、この修正命令がハルトマン将軍の下に届いた時には既に最初の命令が実行された後となってしまったのでした(後述)。

 ハルトマン将軍は日中に兵団を西進させると仏軍が追撃して来ると考え、夕暮れを待って諸隊を前線から撤退させることにします。この夜、騎兵第1旅団から各騎兵中隊を派出してヴィルポルシェ~ロングプレ間に前哨警戒線を張り、同じく騎兵第15旅団からもオートン~モントードン間に前哨を派遣させると本隊はサン=タルヌー、プリュネ=カスロー、アンブロワの各地に宿営しました。ハルトマン将軍は翌朝を待って行軍を開始しようと考えたのでした。


1月8日の独第二軍

挿絵(By みてみん)


☆ 1月8日・独第二軍本営


 カール王子は8日午後、本営をサン=カレへ進めました。王子はこの夕方、サン=タマン方面の戦況はヴィルポルシェを確保したものの未だ膠着状態にあることを聞き及びますが、ル・マンへの進撃は最優先であり速やかに達成すべきであることに変わりはないとして、「全兵力をル・マン北郊から東郊に集合させる」ことを改めて命じました。

 独第二軍本営はカール王子名義の命令を午後10時に発し、それによれば翌9日、第13軍団はラ・フェルテ=ベルナールからル・マンへの本街道(現・国道D323号線)上を前進し、前衛をサン=マルス=ラ=ブリエール(ル・マンの東北東13.3キロ)へ、本隊をモンフォール=ル=ジェスノワの東方(ラ・ベル・アンユティル付近。サン=マルスの東4キロ)へそれぞれ到達するよう命じられ、更にユイヌ川の北側を警戒するため一支隊を同川右岸へ派遣するよう命じられます。また、第3軍団はサン=カレ街道(現・国道D357号線)上をブロワール経由で前進し、アルドネ=シュル=メリズ(ル・マンの東16.8キロ)に至るよう、第9軍団は第3軍団に続きブロワール(サン=カレの北西15.7キロ)へ、第10軍団はパリニエ=レヴック(ル・マンの南東14.5キロ)へそれぞれ前進するよう命じられました。一方、第13軍団と第10軍団には別命も下り、両軍団は外翼に支隊を派遣し、ル・マン~アランソン鉄道とル・マン~トゥール鉄道を破壊するよう命じられました。

 サン=タマンのハルトマン将軍には少し複雑な命令が下ります。カール王子は「手元にある騎兵第6師団の残部を第10軍団へ合流させ、残る歩兵(第38旅団)をヴァンドーム~シャト=ルノー街道に残留させるか否かはフォン・フォークツ=レッツ将軍に一任している」と伝え、更に「万が一シャトー=ルノーの敵がブロワに向かう場合、ブロア守備隊(第25「ヘッセン大公国」師団からの支隊)を指揮下に加えてこれを阻止せよ」と命じました。これはシャトー=ルノーのクルタン将軍は、ヴァンドームとブロワ両方を同時に攻撃するほどの兵力を保持していないとする第二軍本営の見立てからで、即ちハルトマン将軍に機動防御を命じたものでした。

 しかし夜が明け9日の早朝となって第10軍団本営から「フォン・ハルトマン将軍には昨日我が軍団の後方に付くべく命じ、兵団は昨夜モントワール方向に出立した」との報告が届くと、ハルトマン兵団「全て」が第10軍団に合流するとは思っていなかったカール王子は改めて午前9時、ハルトマン将軍に宛てて至急令を発します。それは「貴官(ハルトマン将軍)は騎兵第1師団と第38旅団の指揮権を有し、ヴァンドームの南方に駐屯すべし。以て敵がヴァンドームやブロワへ進出を試みた場合、決然としてこれを撃退し、これが適わない場合はヴァンドームを死守せよ」という、ハルトマン将軍の立ち位置をはっきりとさせる命令だったのです。


挿絵(By みてみん)

独竜騎兵の斥侯隊



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