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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリの苦悶と『ル・マン』
435/534

ル・マン会戦に至るまで/ノジャン=ル=ロトルー占領・エピュイゼイ=サルジュの戦闘


☆ 1月7日


 6日に目標であったノジャン=ル=ロトルーの占領を成し得なかったメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世普軍歩兵大将は、同地で仏軍が激しく抵抗することを予測し、これを撃破・駆逐するためには「全力」で事に当たるしかない、と決心し、翌7日には第22師団の全部隊と騎兵第4師団を同地に向け、万が一を考えて第17師団もボーモン=レ=ゾテル(ノジャンの南東12キロ)経由で続行させる事に決しました。この第17師団からは一支隊を左翼(南)側へ派出させオートン(=デュ=ペルシュ。同南南東15キロ)を占領させることにします。軍団の右翼(北)側面援護には昨日と変わらずフォン・ラインバーベン将軍から借り受けた騎兵第12旅団を使い、レマラール(同北12.4キロ)とロンニー=オーペルシュ(レマラールの北11.5キロ)方面を警戒させる事にしました。

 大公の下にカール王子同日夜発令の「モンミライユを確保しル・マンへ肉薄せよ」との主旨の命令が届くと、大公は第17師団に対し「ノジャンを越え、出来得る限りモンミライユ方面まで突進せよ」と命じ、第22師団長のフォン・ヴィッティヒ中将に対しては「ノジャンの占領は必ず7日中に行わなくてはならない重要事項である」と訓令するのです。


 7日の夜明け。黎明に第22師団から発せられた斥候はノジャン=ル=ロトルーに達して市街と周辺を探り、既に仏軍が撤退していたことを知ります。斥候は前進を始めた師団本隊に戻ってこれを報告し、第22師団は午後2時、市街へ入城を果たすのです。午後3時には第4騎兵師団も市街へ到着しました。この時、ルノー将軍率いる仏軍はラ・フェルテ=ベルナール(ノジャンの南西19.4キロ)に向けて急速後退中で、市内に入ったヴィッティヒ将軍は前衛*に敵の追撃を命じて送り出し、右翼側に支隊*を発してベルデュイ(ノジャンの北西6.3キロ)へ前進させるのでした。


※1月7日の独第22師団


◇前衛

第95連隊長フリードリヒ・フォン・ベッケドルフ大佐指揮

○第95「チューリンゲン第6」連隊

○驃騎兵第2「親衛(Leib)第2」連隊(騎兵第4師団より)

○野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊・重砲第5中隊

※行軍途上で本隊(騎兵第4師団)へ帰還

◇本隊

男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッティヒ少将

○第32「チューリンゲン第2/ザクセン=マイニンゲン公国」連隊・第1、F大隊

○第83「ヘッセン=カッセル第3」連隊

○第94「チューリンゲン第5」連隊

○野戦砲兵第11連隊・重砲第3,4,6中隊

○第11軍団野戦工兵第3中隊

◇右翼支隊(フォン・ベルンハルディ少佐)

○第32連隊・第2大隊

○槍騎兵第1「ヴェストプロイセン/ロシア皇帝アレクサンドル3世」連隊・第2,4中隊(騎兵第4師団より)


 フリードリヒ・フランツ2世は7日午後1時頃、ボーモン=レ=ゾテルに到着したところで「ノジャンに敵影なし」の報告を受け、直ちに第22師団に対し「シャトルー(農場と家屋群。ノジャンの南南西7.4キロ。現存します)とベルデュイまでに前哨を派出し、主力はノジャン市街に宿営せよ」と命じ、東からノジャンへ迫っていた第17師団には「師団左翼支隊はオートンを占領後、前哨をモンミライユまで進ませよ」と命じました。この日の夕方になって第22師団から切り離された騎兵第4師団はティロン=ガルデ(ノジャンの東12.9キロ)~ノジャン間に宿営するよう命令されたのです。


 シャトルーに向かって前進した第22師団前衛支隊は、午後4時前後ル・ジベ(当時は農場。シャトルーの北東400m。小部落として現存します)の東、街道(現・国道D923号線)に沿って広がる森の北で仏軍が待ち構えているのを発見します。独前衛からは直ちに重砲第5中隊が砲を敷き砲撃を開始しますが、仏軍は蛮勇を奮って退却せず、その場に踏み留まって銃撃で挑みました。この後1時間を超える猛銃撃戦となりますが、最終的に第95連隊第1大隊とF大隊による総攻撃により仏軍戦線は崩壊し、午後6時頃、森は独軍によって制圧され、30分後にはル・ジベも陥落し仏軍は50名の捕虜を与えて西へと退却するのでした。独第22師団前衛はこの周辺で宿営し、シャトルーに前哨を置いて終夜警戒に入るのです。

 この7日、第17師団左翼支隊*は主力がサン=テュルファス(モンミライユの北北東6.5キロ)に、前哨がグレエ=プレ=モンミライユ(現・グレエ=シュル=ロック。同北3.8キロ)にそれぞれ到達して宿営に入り、その士官斥候はラ・フェルテ=ベルナールとモンミライユそれぞれに仏守備隊が存在することを確認したのでした。


※1月7日の独第17師団前衛支隊

騎兵第17旅団長アルフレート・ボナヴェントゥラ・フォン・ラウフ少将指揮

○第75「ハンザ第1/ブレーメン」連隊・第1大隊

○フュージリア第90「メクレンブルク」連隊・第2大隊

○騎兵第17旅団本隊(竜騎兵第17「メクレンブルク第1」連隊、槍騎兵第11「ブランデンブルク第2」連隊)*

○野戦砲兵第9連隊・騎砲兵第1中隊(メクレンブルク砲兵)

*竜騎兵第18「メクレンブルク第2」連隊(第17師団騎兵として配属)を除きます。


 独第13軍団は前述の諸隊を除いてこの日、ほぼ命令通りに行軍し宿営に入りました。但し騎兵第12旅団だけは行軍を中止してスノンシュ(ラ・ループの北10キロ)とベロメール=ゲウヴィル(同北東5キロ)まで後退し、これは早朝ロンニーとレマラールに派遣された斥候により、「レマラール東5キロに広がる森林高地に仏大軍が存在する」との報告がなされたためでした。


 カール王子はこの日早朝、本営幕僚を引き連れてヴァンドーム~エピュイゼイ街道(現・国道D957号線)を騎行して前進しますが、途上フォン・フォークツ=レッツ将軍による午前8時にモントワールから発せられた報告を受け取ります。これによれば「敵はモントワールのロワール対岸(南岸)より兵を引き上げ、サン=タマンからも撤収した」が「ヴィルヘルム・メクレンブルク公には予定通り増援を派遣した」とのことでした。

 実はこの日、各地共に早朝より霧が深く垂れ込め、これは終日続いたため独軍は行軍にあたって慎重な行動を要求されました。このため、フォン・フォークツ=レッツ将軍の第10軍団は命令された全軍集合に長時間を要してしまうこと必至な状況にあったのです。第10軍団からの報告を手にしたカール王子は「この軍団が本日中に命令を履行することは不可能」として第10軍団の任務を他に振り分けようと考え、「もし敵が未だブレイ川の線にある時には第3軍団はその河畔まで到達するよう努め、第9軍団はエピュイゼイに集合するよう、両軍団は翌朝に偵察を出してその結果如何で前進を継続し、互いに連絡を通して相互援助を行うこと」と命令を下したのです。


挿絵(By みてみん)

森縁の待ち伏せ


☆ 1月7日・エピュイゼイ=サルジェの戦闘


 独第3軍団長コンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将は6日の激戦(アゼ=マザンジェの戦闘)を終え、フォン・フォークツ=レッツ将軍の第10軍団がモントワールを抑えたと聞くと、「明日はブレイ川の東で仏軍左翼(北東側)を包囲し、モントワールから西へ向かう第10軍団の方向へ敵を圧迫しよう(つまりは第10軍団との合撃)」と心に決めました。このため、6日深夜に発せられた命令は「第9旅団と軍団砲兵はマザンジェの南方でブロン川の線を守り、軍団残りの3個(第10、11、12)旅団はエピュイゼイに向かって前進せよ」という仏軍左翼を集中攻撃する作戦でした。

 ところが7日黎明、軍団がヴァンドーム周辺を出立しようかという頃合いになって前哨より報告が入り、それによれば「仏軍は昨日退いたリュネ(マザンジェの南西2.8キロ)とフォルタン(同北北西3.4キロ)からも撤退している」とのことだったのです。C・アルヴェンスレーヴェン将軍は前線にあった第5師団長、フォン・シュテュルプナーゲル中将に対して「第9旅団と軍団砲兵第2大隊を直率して直ちにフォルタンを経由しサヴィニー(=シュル=ブレイ。エピュイゼイの西南西9.3キロ)に向けて前進せよ」と命じ、他3個旅団は予定通りエピュイゼイを目指して出立するのでした。


 この日エピュイゼイへの行軍先頭は第12旅団*で、午前中にはエピュイゼイ近郊に至りますが、ここで市街地から激しい銃撃を受けました。先鋒に立った第64「ブランデンブルク第8」連隊の第10,11中隊はエピュイゼイ東の街道を塞ぐバリケードを襲撃してこれを占拠しましたが、この先は市街からの銃撃が激しく、それ以上進むことは適いませんでした。前衛を率いるフォン・ビスマルク大佐は、更に5個中隊(同連隊第1~5中隊)の歩兵を前進させ、合わせて7個中隊の歩兵散兵群は市街南を中心に左右へ展開し、仏軍と激しい銃撃戦となりましたが、午後1時を過ぎて仏軍は撤退を始め、30分後、独軍はエピュイゼイから仏軍を駆逐し占領に成功するのです。

 これは先の7個中隊の奮戦もさることながら、東方から前進して来た独第9軍団所属・第18師団前衛の攻撃も大きく貢献していました。

 この支隊*は午前8時30分に宿営地のビュルー(ヴァンドームの北北東12.3キロ)を発して街道(現・国道D357号線)上を順調に進み、ベランド(数軒の農家群。エピュイゼイの東2.2キロ。現存します)に至って仏軍の前哨に遭遇しますが、独軍が街道外左右に展開し始めると仏兵は包囲を恐れて戦わずエピュイゼイへ撤退してしまいました。その後、第12旅団の攻撃を見て東から擲弾兵第11連隊兵が進み出て、市街地との銃撃戦に加わったのです。


※1月7日・エピュイゼイ付近の独第5、第18両師団前衛

◇独第6師団前衛

第12旅団長フーゴー・フォン・ビスマルク大佐指揮

○第12旅団(第24「ブランデンブルク第4/大公メクレンブルク=シュヴェリーン」連隊、第64「ブランデンブルク第8/王子カール・フォン・プロイセン」連隊)

○胸甲騎兵第6「ブランデンブルク/ロシア皇帝ニコラス1世」連隊・第3,4中隊

○野戦砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・軽砲第6中隊

*第64連隊の第9中隊は輜重護衛で後置

◇独第18師団前衛

第36旅団長代理オスカー・ヴィルヘルム・アルフォンス・モーティマー・バイエル・フォン・カルガー大佐指揮

○擲弾兵第11「シュレジエン第2」連隊

○猟兵第9「ラウエンブルク」大隊

○驃騎兵第16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊

○野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・軽砲第2、重砲第2中隊

○第9軍団野戦工兵第3中隊


挿絵(By みてみん)

サン=カレへの街道(エピュイゼイ付近)


 その後、第12旅団兵はサン=カレへの街道(現・国道D357号線)上を退却する仏軍を追って進み、ブレイ川に到達する前のル・ポワリエ(エピュイゼイの西5キロ)で仏軍後衛を捕捉するのです。

 この遭遇戦の最初こそ敵を駆逐した独軍でしたが、やがて西側から増援が出現し、その数が見る見ると膨れ上がって独軍を上回り、また戦意の高い一大隊が三色旗の大隊旗を先頭に押し立て、街道上を堂々と進み来ると、独第64連隊の第1中隊はこの数倍する敵に対し銃剣突撃を敢行し、敵を分断して退却させるのでした。

 しかしこの間、周辺の農家や高地上には多数の仏兵が展開し終わり、街道を進む独軍へ対決姿勢を露わにしていたのです。

 同じくこの間に第64連隊の第2大隊は前線に展開し、その散兵線には軽砲第6中隊の1個小隊2門が進み出て砲を敷きました。ここで濃霧にも関わらず激しい銃撃戦が発生し、一時は膠着状態に陥るかと思われましたが午後4時少し前、前線に第24連隊の第1大隊が現れ、第64連隊兵は増援による援護射撃を背に突撃を敢行してル・ポワリエとその北方の高地を占拠し、その先にある高地縁のモンプレジール十字路(ル・ポワリエの西1.3キロ)にまで到達するのでした。その右翼(北側)を併進していた第64連隊のF大隊は夕暮れ時にサルジェ(=シュル=ブレイ。エピュイゼイの西北西6.4キロ)へ侵入し、居残っていた少数の仏軍後衛はサン=カレに向かって退却して行くのでした。

 その右翼(南方)では、道中ほとんど落伍兵と足止めを狙う少数の狙撃兵にしか出会わなかった第9旅団がサヴィニーを占領しています。


 独軍は7日のエピュイゼイ=サルジェの戦闘で、戦死が下士官兵16名、負傷が士官1名・下士官兵37名、捕虜/行方不明者が下士官兵1名の損害を受けました。仏軍の損害は不詳ですが独軍の記録では約200名の捕虜を出しています。


挿絵(By みてみん)

城館(サヴィニー=シュル=ブレイ)


☆ 1月7日・独第10軍団の行動


 フォン・フォークツ=レッツ将軍は7日早朝、第19師団中モントワール(=シュル=ル=ロワール)にあった諸隊の大部分を前述通りサン=タマン(=ロングプレ)に向けて「背進」させ、「シュナップス殿下」ヴィルヘルム・ツー・メクレンブルク公への増援としました。

 なお、サン=タマン周辺に居残る混成兵団(騎兵第1、6両師団と増援を含めた第19師団)の指揮権はこの朝、ヴィルヘルム公から百戦錬磨の独騎兵第1師団長フォン・ハルトマン中将に譲られました。これはシュナップス殿下の容態(殿下は9月、ラン/Laonにて重傷を負っており後遺症に苦しんでいました)や、やはり軍人というより大貴族の御曹司と言った方が正しいお方のため、名より実を取ったものと思われます。


挿絵(By みてみん)

モントワール市街(20世紀初頭)


※1月7日・サン=タマンへ送られた独第19師団の増援

第19師団長代理エミール・ペーター・パウル・フォン・ヴォイナ少将指揮

○第78「オストフリーゼン」連隊・F大隊(第37旅団)

○第91「オルデンブルク公国」連隊(第37旅団)

○竜騎兵第9「ハノーファー第1」連隊・第2中隊

○野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊・軽砲第2中隊・重砲第1,2中隊


 同7日、第10軍団本隊はこのヴォイナ支隊の帰着(24時間の期限付き派遣です)をモントワールと周辺の宿営地で待つこととなり、また万が一右翼(北方)を行くC・アルヴェンスレーヴェン将軍が援助を求めた場合、即座に動けるよう終日待機となったのでした。

 騎兵第6師団本隊から独り前方サン=タルヌー方面へ派遣されていた騎兵第14旅団(旅団長はカール・ヨハン・フォン・シュミット少将)には、野戦砲兵第10軍団の騎砲兵第3中隊が付され、サヴィニー(=シュル=ブレイ)に向けて前進するよう別命が下りました。しかし旅団はラ=ヴィエイユ=エイ(現ル・ヴュー・ピュイの一部。農場と家屋群。サヴィニーの南南東3.8キロ)で仏軍前哨部隊に遭遇してしまいます。シュミット将軍は濃霧の中、敵の兵力推定が不可能だったにも関わらず「条件は敵もまた同じ」と攻撃を命じ、まずは騎砲兵小隊が農場に対し砲撃を行い、竜騎兵第6「マグデブルク」連隊の第2中隊は下馬しドライゼ騎銃を手に小部落を攻撃しましたが、仏軍は案外強力で逆に防戦一方となり、陣頭で指揮を執っていた中隊長のルドルフ・アウグスト・フォン・ハンテルマン中尉も腹部に致命傷を負って倒れてしまいます(1月10日に死去)。シュミット将軍は旅団に急速後退を命じ、この日はラ・リシャルディエール(農場。モントワールの北7.4キロ。現存します)で警戒しつつ夜を明かしました。


挿絵(By みてみん)

アルジェリア・エクレルール隊の突撃


 ヴィルヘルム公に代わって指揮を執ることとなったフォン・ハルトマン将軍は、増援のヴォイナ支隊がアンブロワ(サン=タマンの北西4.5キロ)付近まで進んで来た事を知らされると、その地で停止させました。とりあえずは「自分たちの失態は自分たちで取り返そう」とばかりに、早朝仏軍が去ったサン=タマンに入った第38旅団に対して午前10時、「ヴィルティウ(同南西3.9キロ)経由で大街道上をシャトー=ルノー方向へ前進せよ」と命じ、騎兵第2旅団には「歩兵の後方に続行せよ」と命じました。同じく騎兵第1旅団は左翼(南東)方面警戒として、騎兵第15旅団は右翼(北西)方面警戒としてそれぞれサン=タマンの東西に展開させたのです。


 シャトー=ルノーへの街道(現・国道N10号線)上を行く第38旅団(1個大隊欠)の前衛、第57「ヴェストファーレン第8」連隊はヴィルショヴ(ヴィルティウの南西3.4キロ)の東側で仏軍前哨と遭遇しました。濃霧はここでも酷く、同行していた野戦砲兵第10軍団の軽砲第1中隊は砲撃することが適いませんでしたが、連隊は3個(第6,9,10)中隊を突進させ、犠牲を出しつつもラ・ガリオニエール(農場。ヴィルショヴの東1.1キロ。街道の東側に現存します)を占拠し、仏軍は士官3名下士官兵80名を捕虜にされ退却しています。

 ところが、正午頃ハルトマン将軍は前線部隊に対し前進中止を命じました。これは左翼警戒にあたっていた騎兵第1旅団から「部隊左翼側諸農場や部落に敵が多数存在する」との報告を受けたからで、この騎兵旅団に付されていた第16「ヴェストファーレン第3」連隊F大隊は南下してピア(ヴィルポルシェの北東1.1キロ)を確保したものの、この3日間両軍の焦点となっているヴィルポルシェと周辺農場には多くの仏軍部隊があり、緩慢な長距離銃撃を交わして牽制しあうだけとなっていたのです。

 午後2時になると仏軍は約3個大隊の歩兵で第57連隊第1大隊が守備していたヴルショヴを襲い、これは必死で防戦に努めた独大隊によって撃退されました。しかしヴィルショヴ周辺の農場や一軒家など拠点となる地点には少数とはいえ仏兵が居残り、これを一つ一つ奪うために独大隊は救援にやって来た5個中隊の歩兵(第16連隊第2,3、第57連隊第9,10,12の各中隊)を加えて1時間以上に渡る掃討戦を行い、ようやく部落と周辺部から仏兵を駆逐するのでした。すると午後4時過ぎになって霧が晴れ始め、ヴィルショヴの遙か西を行く仏軍の大縦隊が望見されたのです。午後2時過ぎからの仏軍の攻撃は、この縦隊の安全を図るための牽制だったことが判明しますが、対して独第38旅団では午後に入って到着した野戦砲兵第10軍団の重砲第1中隊と軽砲第1中隊によって敵縦隊後部に向け嫌がらせ程度にしかならない遠距離砲撃を行うことしか出来ませんでした。

 既に夕暮れ時を迎え、続く戦闘と連日の緊張で疲弊が激しい諸兵の様子を鑑みたハルトマン将軍は戦闘中止を命じ、更に前哨をロングプレ(ヴルティウの南西1.8キロ)とピアとの線上に展開させると宿営を命じました。


 独軍は7日、サン=タマン南方の攻防戦で戦死が士官2名・下士官兵22名、負傷が士官1名・下士官兵55名、捕虜/行方不明者が下士官兵4名の損害を受けました。仏軍の損害は不詳ですが約90名の捕虜を出しています。


 この日(7日)夜、第38旅団はヴィルティウとその周辺まで退き、騎兵第1旅団はサン=グルゴン(サン=タマンの南3.1キロ)に、フォン・ヴォイナ将軍率いる支隊と騎兵第2旅団はサン=タマンとその周辺に、騎兵第15旅団はアンブロワに、それぞれ宿営したのでした。


1月7日の独第二軍

挿絵(By みてみん)


☆ 1月7日・独第二軍本営


 ヴァンドームに本営を置く独第二軍司令カール王子の下にはこの7日夕刻から宵に掛けて、前線にある麾下諸軍団から様々な情報や報告が続々と到着していました。また、夜も更けるとロアール(Loire)河畔に残留させていた諸支隊からも詳細な情報が届けられます。これにより前日、大本営から届けられた「第1ロアール軍東進」の情報に確証が得られるのでした。

 これら情報を総合するとアルフレ・シャンジー将軍率いる仏第2ロアール軍は「独力で攻防を行っており、何処からも援助を得ていない」ことがはっきりとしました。そのため、カール王子が強気に押し進めようとしている「全軍速やかなル・マンへの攻撃機動」は理に適っていることになり、王子はますます全軍の西進に自信を深めるのでした。

 7日深夜、カール王子は「軍の左翼(南側)には、現在抵抗している兵団以上に敵はいない」としてサン=タマンのフォン・ハルトマン将軍に対し「第10軍団所属の部隊(第19師団)を翌8日、速やかに同軍団へ帰還させよ」と命じるのです。


 これで8日、独第二軍は殆どロワール(Loir)川とサルト川の間に侵入することとなりました。


 この地方、特にブレイ川から西側は、穏やかに続く丘陵地帯と急激に5、60mほど立ち上がる高地とが織りなして起伏に富み、間を流れるアニル、ピボー、テュソン、ノーギュなどの諸河川は渓谷を作り、谷間は広いものの両側は切り立った崖という地形も多く見られます。

 これらの河川は豊富な水量を持ち急流も多く、豊饒な土地では農業が盛んで広大なワイン用のブドウ園やリンゴを主とする果樹園、そして野菜畑が広がっていました。その中に時折深い森と数軒の石造家屋よりなる農家・農場が点在し、古来領主の館だった城も多く林に囲まれて存在しました。

 また、このメーヌ地方からブルターニュ、ノルマンディー地方にかけては所有者によって土地を区分するために土堤や高く厚い生垣で囲い込む風習(これがボカージュです)があり、この地形は防御側にとって好都合なもので、ボカージュは便利なバリケードや掩蔽として使われ、攻撃側はボカージュの陰に敵が潜むのではないかと疑心暗鬼になって自然慎重な行動(遅い行軍)を求められることとなるのです。

 しかしボカージュは仏軍にとってメリットとなるばかりではありません。デメリットとしてはシャスポー銃の長射程を活かせない可能性も高めました(当然攻撃側も遮蔽に使い接近します)が、地方の工業力を集約して生産されつつあったミトライユーズ砲には好都合で、ボカージュと崖の多い地形により隘路もまた多いこの地方では、この隘路に照準を定めたミトライユーズは独軍恐怖の的となったのです。


 独軍はまた、この遮蔽の多い地形により高地上から遠方を見通すことも出来ず、敢えて危険を冒すのでなければ兵力を密集させての行軍や集中展開させることも難しくなっていました。これは特に独軍が絶対有利にある砲兵にとっては悪夢のような状況となります。現に独軍がロワール(Loir)川を越えた後の戦闘では、見通しの良い砲列展開可能な場所が少なく展開可能の場所も狭いため砲兵は中隊単位(6門)で展開することが難しくなっており、小隊(2門)や分隊1門による砲撃が多く見られるようになっていました。当然ながら騎兵の運用も街道のみに限られて来るのです。

 こうして独軍ル・マンへの進撃は自然と歩兵の能力が試されることとなり、またこの状況では高級指揮官の命令は目標指示のみにならざるを得なくなり、実戦は下級指揮官たちの状況判断と独断専行に委ねられることとなるのです。


挿絵(By みてみん)

ミトライユーズと仏砲兵


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