第二次ル・ブルジェの戦い
☆ 第二次ル・ブルジェの戦い(12月21日)
※ル・ブルジェ市街図とその周辺図は「パリ攻囲/ル・ブルジェの戦い(10月28~30日)」を参照ください。
12月21日黎明。戦争当初、北独バルト海沿岸に陸戦隊を運び上陸作戦を決行する艦隊を指揮するはずだった男爵カミーユ・アダルベルト・マリエ・クレマン・ドゥ・ロンシエール=ヌリー海軍中将が率いる仏サン=ドニ軍団は、折からの濃霧の中ドゥ・レスト堡塁付近やラ・クールヌーヴから密かに東へ進み始めます。
この濃霧は太陽が昇った午前7時以降もまだ視界を覆っており、ようやく霧が薄れたのは午前7時45分頃でした。この時、パリの北から南東面に掛けてのあらゆる砲が火を噴き、仏軍の支配下に残っていた鉄路には砲を搭載した装甲列車が進み来て、それぞれ猛烈な砲火を独軍包囲網前哨陣地に向け浴びせ掛けたのです。
シャンピニーの戦い以来の激しい砲撃はおよそ30分間に渡って続き、砲撃が下火になった午前8時15分頃、密集縦隊となった仏サン=ドニ軍団は南方と西方より普近衛擲弾兵第3「王妃エリーザベト*」連隊第1大隊と同シュッツェン大隊の第1中隊が護るル・ブルジェの普近衛軍団前哨陣地を襲ったのでした。
※この連隊称号となり名誉連隊長だった「王妃エリーザベト」とは、前普国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の后で初代バイエルン国王マクシミリアン1世の子女エリーザベト・ルドヴィカ妃のことです。王とエリーザベト妃の間に子供は無く、結果王弟ヴィルヘルム1世が摂政を経て国王となりました。妃は長年ライバル関係にあった母国と嫁ぎ先との合同(ドイツ帝国の成立)を見届けた後、1873年に亡くなっています。(以前この連隊を「英女王エリザベス」連隊と記してしまいました。お詫びして訂正します)
エリーザベト・ルドヴィカ妃
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世
西側からル・ブルジェを襲撃したのは、ユジェーヌ・ラモット=トゥネ海軍大佐が指揮するサン=ドニ軍団の第3旅団で、ル・ブルジェ攻撃に参加したのは歩兵5個大隊と野戦砲兵1個中隊でした。
部隊はパリでも規律に優れ練度も高いと期待されていた海軍フュージリア兵1個大隊を中心に、主力はマルシェ部隊(主に後方警備や補充を担当する隊)から「昇格」した正規軍戦列歩兵(第138連隊)とセーヌ県の護国軍部隊で、部落南西縁の墓地に向かった一隊はここに構えていた普近衛擲弾兵第1中隊の約半数と衝突します。ところが普軍に数倍する兵力で襲ったセーヌ県護国軍将兵は、冷静かつ激しい銃撃で迎える普近衛兵の散兵線を抜くことが出来ず、ここで膠着状態に陥ってしまいました。逆に部落の外を西から回り込んだ仏海軍フュージリア将兵は、市街北西側から一気に部落へ侵入し中央西側にあるサン・ニコラ教会を占拠すると、デュニー(ル・ブルジェの北2キロ)へ続く街道口に築かれたバリケードを護っていた普近衛擲弾兵第2中隊の一部を背後から襲います。この中隊は護国軍部隊によって部落正面西側からも攻撃を受けていたため、余裕の無くなった普近衛兵たちは順次持ち場を放棄して南側に隣接していた公園内へ後退して行きました。
その西側にある墓地で、仏戦列歩兵と護国軍部隊から激しい攻撃を受け包囲されても必死で防戦し凌ぎ続けていた普近衛擲弾兵第1中隊の一部も、遂に耐え切れず血路を開く突撃を敢行して包囲を破り、同公園内へ逃げ込みました。しかしこの公園も直ぐに包囲されて四方から猛攻を受け、近衛擲弾兵の一部は市街へ脱出するものの、多くの者は武器を投じて手を挙げ捕虜となったのでした。
ル・ブルジェ 公園で戦う普近衛擲弾兵
市街西側で優勢となり勢いに乗った仏海軍フュージリア兵たちは、逃げる普近衛兵を追って再び市街中央部に進み、戦闘は凄惨で損害も大きくなる白兵によって家屋一軒一軒を争う市街戦へと移行しました。すると海と陸では「畑違い」とはいえ訓練が行き届いていた仏水兵たちは、普軍のエリートを自負する近衛擲弾兵と互角以上に戦い、じわじわと勢力圏を広げていったのです。
しかし同時進行で戦われていた部落郊外南西方にあったガス供給局の攻防では、普近衛擲弾兵の第1中隊約半数と救援に駆け付けた第3中隊が数倍の兵力で波状攻撃を続ける仏軍に対して頑強に抵抗し、同時に南東方向から出現した新たな仏軍部隊に対しても銃撃を浴びせ足止めに成功し膠着状態に持ち込んでいたのです。
ル・ブルジェで戦う仏海軍フュージリア兵
この南方からドーベルビリエ分派堡に続く街道(現・国道N2号線)両側を進みル・ブルジェに接近したのは、ラヴォワンヌ准将率いるサン=ドニ軍団第1旅団で、戦列歩兵第134連隊とセーヌ県の護国軍5個大隊からなっていました。
この日ル・ブルジェ攻撃に参加したのは歩兵およそ7個大隊で、ガス供給局の戦闘で少数の敵を相手に手を焼いている同僚第3旅団を横目に、その東側で停車場を襲い参戦しました。しかし停車場と部落東方の隔壁に潜んでいた普近衛擲弾兵第4中隊から猛銃撃を浴び、同じく街道に沿った家屋と街道の西側からも同第1中隊の一部と近衛シュッツェン兵が激しい抵抗を見せて仏軍の前進を妨げるのです。
特にガス供給局の東側街道上にあったバリケードでは、超人的な活躍を見せ公式戦記に特記された小部隊がありました。
それは勇猛果敢で知られた近衛シュッツェン大隊の1小隊で、小隊長は20歳を迎えたばかり、この年4月に正規入隊した駆け出しの「若輩者」でしたが、既にグラヴロットとセダンで奮迅の働きを示して下級士官憧れの第2級鉄十字章を授けられ、11月15日に近衛猟兵大隊から異動して来たばかりのエルンスト・オットー・フリードリヒ・フォン・ゾンマーフェルト少尉でした。
この小隊(多分40名程度だった筈です)は北以外の三方を敵に囲まれた状態で10倍以上の敵から激しい波状攻撃を受けつつも一切退かずに任地を護り、遂には部落内(北方・四方目)からも敵が襲来しましたが、増援が到着するまで1時間以上も敵の攻撃を阻止し続けたのでした。
ゾンマーフェルト
こうして激戦となったル・ブルジェの状況を知ったサン=ドニ軍団のロンシエール=ヌリー提督は、予備として後置していた第2旅団(旅団長はルイ・フランシス・ジョゼフ・アンリオ准将で戦列歩兵第135連隊とセーヌ県の護国軍併せて5個大隊が攻撃に参加しました)を投入し、アンリオ准将は麾下と共に部落の南から攻撃を開始しました。しかし仏砲兵が重点的に目標としたため隔壁や舎屋の一部が崩落していたガス供給局や街道のバリケードでは、アンリオ准将の攻撃が加わっても普近衛兵は一歩も退かず、仏軍は正しく釘付け状態でこれ以上歩を進めることが出来なかったのです。
戦闘開始から小1時間を過ぎた午前9時になると、独軍最初の増援がル・ブルジェに達します。これはル=ブラン=メニル(ル・ブルジェの東北東2.8キロ)より駆け付けた普近衛擲弾兵第1「ロシア皇帝アルクサンドル」連隊の第9中隊で、中隊は東側から部落に接近すると休む間もなく凄惨な市街戦が続くル・ブルジェに突入し、主に仏海軍フュージリア兵と戦いました。その30分後にはイブロン橋(ポント・イブロン。ル・ブルジェから街道沿いに北東へ2.7キロ)の主陣地から駆け付けた普近衛擲弾兵第2「墺皇帝フランツ」連隊の第1大隊と、イブロン橋の守備に第5中隊を残した同第3連隊第2大隊(第6,7,8中隊)が到着し、北方から部落に突入して参戦したのです。
これらの増援はアルトロック大尉が各方面へ発した伝令が、南から押し寄せる仏軍から銃撃を受け追撃されつつも決死の思いで友軍主陣地に達して増援を要請し、それに応えて独断専行で救援隊を送り出した各地の前線指揮官たちによる即決が功を奏したものでした。
これによって兵力が3倍増した独軍(それでも仏軍の4分の1すらありません)は疲弊が見え始めた仏サン=ドニ軍団将兵と各所で戦い始めます。
普近衛第3連隊第2大隊は第8中隊を予備として部落北方街道口に残すと、第6,7中隊が市街西側へ突入して戦いながら市街を縦断し、多くの仏兵が後退すると市街中央西側のサン・ニコラ教会に達し、普近衛第2連隊の第3,4中隊は市街東部から南下して敵と戦いつつガス供給局付近に達し、それぞれの場所で囲まれつつも奮戦していた友軍を助けて仏軍とおよそ1時間に渡る接近白兵戦を行い撤退させたのです。市街中央部でも普近衛第1連隊の第1,2中隊が中央の街道沿いに進んで隠れ潜む仏軍兵士を狩り出し、これによって独軍は市街地全域を奪還しました。
午前11時30分。普近衛兵は最後に残っていた仏軍部隊を西側公園とその周辺の家屋から追い出すことに成功し、ル・ブルジェは独軍の手に戻ったのでした。戦闘終了直後には普近衛シュツェン大隊第3,4中隊がル・ブルジェに入り、これで近衛兵15個中隊となった独軍は、敵が再び攻撃することを予期して各拠点を固め始めるのでした。
仏サン=ドニ軍団歩兵がル・ブルジェから後退すると、仏軍は激しい榴弾砲撃をル・ブルジェとその周辺に見舞い始めます。これに対し独軍側も近衛軍団砲兵が対抗射撃を行いました。
サン=ドニ軍団がル・ブルジェを陥落させた後にその右翼南を前進する予定だったパリ第2軍のアレクサンドル・デュクロ将軍は、サン=ドニ軍団がル・ブルジェを解放した暁に同地から発せられる手筈の信号弾をじっと待ち続けていましたが、攻撃開始1時間を経た午前9時になっても合図はなく、焦った将軍は前衛を直率してボンディとドランシー間の前線から東に向けて出撃します。対する独軍は午前10時頃よりル・ブラン=メニルからオーネー=スー=ボワ(ル・ブラン=メニルの東2.4キロ)の間に構えた砲列によりパリ第2軍前衛の左翼側を砲撃したため、デュクロ将軍は砲兵隊をドランシー前面の陣地線まで前進させ、暫時砲撃を開始させたのでした。
当初独軍側は前述のル・ブラン=メニル~オーネー=スー=ボワ間に早朝から展開させていた普近衛砲兵連隊の重砲第5,6と軽砲第5の3個中隊18門によって砲撃を始め(軽砲第6はスブランの西にあって遠距離過ぎ参戦出来ませんでした)、ル・ブルジェの戦闘が終息した午前11時30分には近衛砲兵重砲第1,2中隊が駆け付けて先の3個中隊の砲列に並びます。ほぼ同時刻には同軍団砲兵隊の4個(重砲第4、軽砲第4、騎砲兵第3,4)中隊がイブロン橋の南方で街道の両側に砲を並べ参戦しました。しかし、街道の4個中隊は敵砲列までの距離が遠過ぎて効果はほとんどありませんでした。そこで普近衛軍団砲兵隊長のヴィルヘルム・ルドルフ・フランツ・フォン・ヘルデン=ザルノウスキー大佐は、イブロン橋陣地まで前進して来たマース軍司令のアルベルト・ザクセン王太子と並んで戦況を観察していた普近衛軍団長アウグスト・フォン・ヴュルテンベルク騎兵大将に対して砲兵の前進を上申し、許可された大佐は本街道の砲兵諸中隊に前進を命じて順次ル・ブルジェの北東からル・ブラン=メニルへ延びる小街道(現・国道D41号線)に沿って再展開させ、以降数時間に渡って仏軍砲兵と砲撃戦を繰り広げたのでした。
この間、ル・ブルジェから追い出された仏サン=ドニ軍団は再三に渡って部落を攻撃しましたが、すっかり防備を固めた普近衛諸隊の前に悉く失敗し、午後1時から2時に掛けて遂にサン=ドニへと戻って行ったのでした。
ヘルデン=ザルノウスキー
デュクロ将軍は正午まで待ちましたが結局「ル・ブルジェ攻略成功」の合図はなく、パリからの「ル・ブルジェ付近の戦闘我が軍に不利」との連絡もあってモレ沿岸への攻撃を中止し撤退を決めるのです。午後1時頃には普近衛砲兵から重砲第5と軽砲第5の両中隊がガルド・デュ・コール(近衛教導騎兵)連隊の2個中隊に援護されてル・ブルジェの砲列に加わり、後退中のデュクロ将軍縦隊を砲撃するのでした。
仏軍の総退却が始まると普近衛軍団本営は左翼(南側)の諸隊に対し「元の陣地線に復帰せよ」と命じますが、普近衛擲弾兵第3連隊のF大隊だけは同軍団の重砲第6中隊と軽砲第6中隊の1個小隊(計8門)に援護射撃を貰いつつ前進し、オーネー(=スー=ボワ)南方の鉄道堤に居残っていた仏軍後衛を攻撃してこれを西方へ撤退させるのでした。
この日のル・ブルジェ付近の戦闘で、普近衛軍団(主として近衛第2師団)は約400名(戦死68名、負傷241名、捕虜90名。馬匹の損失は58頭)の損害を被り、仏軍は360名の捕虜と623名の戦死傷者を出しています。
市街戦 家屋内で戦う仏兵
ル・ブルジェで戦闘が始まった頃。サン=ドニ軍団でル・ブルジェ攻撃に参加しなかったおよそ4個大隊の歩兵たちは、散兵群を成してスタンに襲い掛かりました。
この部落周辺では普近衛(歩兵)第1連隊の第2大隊と同第3連隊の第10中隊が警戒していましたが、普近衛兵たちは四倍近い敵を迎えても落ち着き払って結束が揺るぐことはなく、猛銃撃で仏軍を迎え撃って短時間で多くの損害を与え、仏軍も粘って複数回に渡る突撃を敢行するものの結局は諦めて引き上げるのです。この地で仏軍は約170名の損害を受け、普近衛第1師団の損害は戦死2名、負傷55名でした。
サン=ドニ軍団のセーヌ県護国軍兵
一方、サン=ドニ西方の独軍前哨拠点エピネー(=シュル=セーヌ)では同日午前中、歩兵を満載しセーヌ川を下って来た仏砲艦2隻によって砲撃を受けますが、オルジュモン山(エピネーの西3キロ)上とサン=グラティアン(同北西2.7キロ)付近に砲列を敷いていた独第4軍団砲兵*が激しい対抗射撃を行い、砲艦は歩兵の上陸を諦め短時間で転回してサン=ドニへ引き上げるのでした。独第4軍団はこの日戦死2名、負傷14名を報告しています。
同じ頃、モン・ヴァレーリアン要塞からの援護射撃を受けた仏軍の一隊がシャトウのセーヌ対岸まで進出し、普後備近衛師団の前哨と対峙してセーヌ川越しの銃撃戦に発展しますが、およそ1時間後に仏軍は後退を始めて去りました。この間普後備近衛師団に損害は皆無でした。
※12月21日の独第4軍団砲兵(一部)
*オルジュモン高地上
○野戦砲兵第4連隊・軽砲第5中隊
○同・重砲第5中隊
*サン=グラティアン付近
○野戦砲兵第4連隊・軽砲第3中隊
○同・重砲第4中隊
☆ 12月21日・ヴィノワ将軍の攻撃
※アジール・ドゥ・ヴィル・エヴァルとメゾン・ブランシェ、アヴァロン山の周辺図は「シャンピニーの戦い/仏軍攻勢・ヴィリエの戦闘」を参照ください。
パリ第3軍ジョセフ・ヴィノワ将軍が繰り出した21日の攻撃は、サン=ドニ軍のル・ブルジェ攻略失敗で早々と諦めたデュクロ将軍のパリ第2軍より「粘り強い」ものとなります。
出撃前にアヴァロン山の陣地を検閲するヴィノワ将軍(1870.12.21)
仏軍縦隊はノワジー=ル=グラン付近に砲列を敷くW師団砲兵の砲撃を冒して正午頃にアジール・ドゥ・ヴィル・エヴァルとメゾン・ブランシェを襲い、同地に駐屯していたザクセン王国(S)軍団前哨は無理をせずいち早くル・シュネー(=ガニー。ヌイイ=シュル=マルヌの北東3キロ)付近の本陣地へ後退しました。
ノワジー=ル=グラン付近でヴィノワ軍の仏軍縦列を砲撃したのは独W師団砲兵の4ポンド砲第7中隊と6ポンド砲第9中隊で、昼下がりになるとアヴァロン山の東斜面を下って前進を始めた仏軍数個大隊(デューグ将軍師団兵)の歩兵縦隊をも砲撃しました。このマルヌ川の南方でW師団右翼部隊の指揮を執っていたW騎兵旅団長の伯爵フォン・セーレル少将はこの砲戦中に砲弾の破片を受け負傷しています。
マルヌ北岸の戦線では目標地点を簡単に攻略し居座るヴィノワ軍に向け、夕暮れ間近になって独第12「S」軍団長のゲオルグ・ザクセン王子が病気療養から復帰したばかりの独第107「S第8」連隊長、男爵フォン・リンデマン大佐に対し両拠点の奪還を命令します。大佐は2個大隊を直率して前進し、4個大隊(第107と第106連隊の一部)を予備としてル・シュネーからポン=パール(グルネー=シュル=マルヌのマルヌ川対岸)間に控えさせました。
リンデマン大佐は前進する2個大隊を2つの集団*に分けて、右翼部隊をメゾン・ブランシェへ、左翼部隊をアジール・ドゥ・ヴィル・エヴァルへ差し向けます。
※12月21日・フォン・リンデマン大佐支隊
◇右翼部隊
○独第107「S第8」連隊・第10,11中隊
○独猟兵第13「S第2」大隊・第1,2中隊
◇左翼部隊
○独第107連隊・第9,10中隊
○独猟兵第13大隊・第3,4中隊
右翼部隊がメゾン・ブランシェに接近すると、意外にも仏軍の抵抗は弱く、残っていた仏軍前哨が僅かであることを見抜いた部隊は直ちに突進して館と周辺の庭園を包囲すると、逃げ遅れた仏軍士官6名と下士官兵46人を捕虜にするのでした。
左翼部隊はヴィル・エヴァルに対し、まずは北面と南面を第107連隊のそれぞれ1個中隊で攻撃し、諸隊は家屋群への突入に成功しました。しかしこの間、付属庭園の東側正面へ向かった猟兵2個中隊は頑強な抵抗に遭遇して進むことが叶わず、更に後方から駆け付けた援軍3個(独第106「S第7」連隊第9,11、第107連隊第7)中隊が加わって攻撃を再開したものの、庭園の東側を確保しただけで膠着状態となり、夜に入ると全く闇に閉ざされてしまったため攻勢に出ることが出来ず、以降場当たり的な銃撃戦が繰り返されるだけとなります。統合的な指揮を執ることが不可能となったリンデマン大佐は、夜半過ぎに戦闘中止を命じて前線諸隊を主陣地まで引き上げさせるのでした。
この戦闘でリンデマン大佐隊は前線で約70名の損害(戦死9名、負傷46名、捕虜17名)を出しましたが、仏軍の捕虜600名以上を獲得(戦死・負傷者は不詳)するのでした。
一方、ヴィル・エヴァルを確保した仏パリ第3軍のヴィノワ将軍は、翌22日にヌイイ(=シュル=マルヌ)及びアヴァロン山からメゾン・ブランシェへの攻撃とヴィル・エヴァルへの増援を送り出すため再度攻撃隊を編成し、早朝に出立させました。対する独軍前線では、W師団砲兵2個(4ポンド砲第8中隊と6ポンド砲第9中隊)とアヴァロン山砲撃のため急速築造中の攻城砲台の内、完成して砲を備えていた2個の砲台(第9と第10砲台)が前進する仏軍縦隊に向けて砲撃を開始します。この砲兵たちは正確かつ速射に次ぐ速射によって仏軍縦隊を叩き続け、結果午前中にはヴィル・エヴァルに居残っていた仏軍を含め全ての仏将兵が退却し、独軍の視界から消え去ります。メゾン・ブランシェとヴィル・エヴァルでは午後になるとS軍団前哨が現れ、危険な包囲網最前線任務を再開するのでした。
また、W師団前線の危機に際し21日にW師団戦線の後方へ到着しグルネー(=シュル=マルヌ)東方のマルヌ河畔まで進出した独第4師団と独第2軍団砲兵隊でしたが、同日には直接W師団の戦線(マルヌ南岸)に仏軍の攻撃はなく、第4師団はトルシー(グルネーの東南東6キロ)とフェリエール(同南東10.5キロ。郊外にあのフェリエール城があります)に宿営し待機となります。翌22日早朝に同師団所属の第8旅団と軍団砲兵隊の一部はS軍団への増援としてシェルに前進し、一時はS軍団と肩を並べてル・シュネー周辺の最前線守備に就きました。しかし前述の通り仏ヴィノワ将軍の諸隊は後退を始めたため、第4師団と軍団砲兵隊には旧来の陣地へ復帰するよう命令が出され、その日の内に元の「クレテイユの三角地帯」へ帰って行ったのでした。
☆22日以降の普近衛軍団前線
仏パリ第2軍は22日以降もグロレー・フェルム(当時は一軒家の農場。ドランシーの東1.4キロ。レストランとして現存します)とドランシー部落周辺に居残り、その後方でも部隊移動など活発な行動が見られたため、普近衛軍団を中心に独マース軍は「仏軍は23日以降も攻撃機会を狙うに違いない」と考え、以降数日間は前線近くに本隊を留め置き、厳重な警戒態勢を続けました。
しかしこの頃、北方アミアンの戦線で「アリュ川の戦い」が発生したため、ベルサイユ大本営はマース軍に対してマントイフェル第一軍への増援派遣命令を出すのです。25日には独第16旅団(第8師団)に第4軍団の軽砲第4と重砲第3中隊を付して、ゴネス(ル・ブルジェの北5.8キロ)付近から鉄道に載せアミアンへ送られる手筈が整い、これによって「穴」の開く第4軍団の包囲網には普後備近衛師団の一部が送られて守備に就くよう、更に後備近衛兵の移動によってこちらも穴の開くサン=ジェルマン=アン=レーには独第三軍最左翼の第5軍団が一部を派遣するよう、それぞれ手配が成されました。しかし、25日中に独第一軍はベルサイユ大本営に対し「アリュ川の戦いに勝利して仏北部軍が撤退を始めた」旨の報告を上げたため、ほとんどの部隊はクリスマスの内に元の守備位置へ引き上げたのでした。
仏国防政府のトロシュ将軍は結果が出なかったル・ブルジェへの突破戦闘につき「従来の方法(正面からの強襲)では普軍の戦線を抜けない」と考えて作戦を断念し掛けますが、政権内部とパリ軍の高級士官たちはパリ市民に不穏な動きが高まるのを恐れ、攻撃続行を進言し続けました。そのため国防政府は、ル・ブルジェに対し要塞攻略の手法で攻撃続行することを決めて対壕掘削作業をデュクロ将軍に命じ、将軍はこの作業に第1軍団を充てるのでした。
しかし、対壕の出発点となるドランシーの西郊周辺では同時に防御強化作業も続けられており、これに対しても特に中止命令が出されなかったため、クリスマスを挟んだ1週間ほどは防御と攻勢両面の工事が狭い地域で並行し行われるという奇妙な状況が現出するのでした。しかもクリスマス前後の期間は再びパリ周辺を猛烈な寒気が襲い、装備が不十分で糧食や燃料も不足していた仏パリ軍では苦難の連続で将兵が疲弊し切ってしまい、攻守両面の工事は26日に自然休止されてしまったのでした。
とはいえ、既に完成していた土塁や肩墻、そして築堤や散兵交通壕はそのまま活かされ、強力な守備兵は前線に残され続けており、依然独軍のパリ包囲網東部に対する脅威は残ったままだったのです。
野営 ル・ブルジェの戦い(187012.21)アルフォンス・ヌーヴェル画




