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ミュンヘングレーツの戦い(前)

 6月26日にヒューナーヴァッサーとポドルで敗れたオーストリア軍は、ザクセン軍と共にミュンヘングレーツ(現チェコ/ムニホヴォ・フラジシチェ)方面へ退却します。

 6月28日。オーストリア第8軍団がプロシア第5軍団に敗れた「スカリッツの戦い」、オーストリア第10軍団がプロシア近衛軍団に敗れた「ノイ=ログニッツの戦い」とほぼ同時進行で行われたのがこの先お話しする「ミュンヘングレーツの戦い」です。


 このボヘミア北部方面のオーストリア軍を率いたのはクラム=グラース『騎兵将軍』(中将格だが大将に近い格がある)。彼はオーストリア第1軍団の軍団長でしたが、開戦前、これに数個旅団を加え「ベーメン(ボヘミア)軍」と称する軍の指揮を任されます。

 ボヘミア軍は開戦後、ザクセン王国放棄の方針からザクセン軍(ザクセン王国のアルベルト王太子大将指揮)をも加え、この6月28日の時点でグラース将軍はボヘミア北部防衛の責任者となっていました。

挿絵(By みてみん)

クラム=グラース


 6月15日の開戦時、グラースのオーストリア軍は歩兵6,500人前後の旅団5つと6,000騎ほどの軽騎兵師団一個、総数で72門の大砲を持つ砲兵隊を、

 アルベルト王子のザクセン軍は歩兵4,500人規模の二個旅団を持つ師団二つと2,400騎の騎兵師団一個、総数で60門の大砲を持つ砲兵隊を、それぞれ配下に収めていました。

 総計すれば歩兵5万規模の立派な軍です。


 しかし、相手とするプロシア軍は規模が違いました。

 まずは、開戦と同時にザクセン王国に侵入、これを3日間で占領しボヘミアに入ったビッテンフェルト大将を指揮官とするエルベ軍。

 第14、15、16の三個師団、1,500騎ほどの騎兵旅団二個、総計140門の砲を擁する砲兵、歩兵の総計5万で、これだけでクラム=グラース将軍のボヘミア軍と同格です。


 さらに、フリードリヒ・カール・ニコラウス親王、あのカール王子指揮のプロシア第一軍がいます。

 こちらは二個師団編成の軍団三個(第2、3、4の各軍団)、3,000騎規模の騎兵旅団二個、総計216門の砲を擁する砲兵、歩兵の総計9万で、軍の規模としてはオーストリア・ザクセン連合軍の二倍規模というプロシア軍主力でした。

 このプロシア第一軍は、プロシアとボヘミア国境の町ゲルリッツ付近から南下、山地を越えてボヘミアの平原に出て来ました。


 オーストリア北軍総司令官ベネデック元帥の方針は、

「積極的な攻勢は行わない。要塞と河川を利用した防御に徹し、敵の息切れを待つ」だったので、クラム=グラース将軍とアルベルト王子もそれに従い遅延戦闘(敵の進撃を遅らせる事を目的とした後退戦術)を行いつつ、国境からボヘミア北部を横断するイーザー川のラインまで退いて来ました。


 この「イーザー・ライン」で敵の進撃を食い止めるのがクラム=グラースの任務だったのです。


 ベネデック総司令官は、

 クラム=グラースのボヘミア軍(第1軍団とザクセン軍)がイーザー・ラインで敵を食い止め時間稼ぎをし、その東では敵の第二軍を三個軍団程度(第6、8、10軍団と騎兵部隊)の兵力で食い止め、敵が弱って来たところで予備の軍団(第2、3、4軍団)を投入、第一、第二どちらか組みしやすい方と決戦、返す刃でもう一方を撃破出来れば最高、出来なくとも双方痛み分けで和平に持ち込む、そんな戦略を描いていたわけです。


 ですから開戦以来、クラム=グラースやアルベルト王子が小競り合いだけでさっさと後退して来たのはベネデックの戦略に従って来たわけで、とりたててオーストリア軍やザクセン軍が弱かったという理由ではなかったのでした。


 しかしこの6月28日辺りになると、オーストリア軍に「崩壊の前兆」が随所に現れ始めます。

 それは東の戦場でも起こり始めていた事と同じでした。即ち兵士の「厭戦気分」です。


 戦争とは全く理不尽極まる非日常であって、普段の生活や習慣、規則が全く役に立たない異常事態です。

 兵士たちはこの「非日常」に直面しても平気でいられる様に普段から鍛えられています。上下関係の厳しい戒律や軍隊特有の風習や言葉、個性を潰そうとする厳しい訓練は、全てこの「非日常」に備えての事と言っても過言ではないでしょう。


 それは現在も過去も変わりはしません。人類の進化に従って変化してきたのは戦争の「方法」、即ち戦術や武器であって「人間である兵士」ではないのです。それは19世紀中期激動下のこの普墺戦争でも今と全く変わりません。


 しかし、人間は人間です。気分屋である人間は、「戦意」というものがない限り自己犠牲を問われる戦場で、敵の待ち受ける陣地に向かって突撃など出来ないのです。

 この戦意は「勝利」によって簡単に補充されます。勝ってさえいれば倦怠など忍び込む余地がありません。もちろん、圧倒的有利になると「慢心」という別の悪魔が忍び込むものですが。

 

 さて、この時のオーストリア軍の兵士の気分を想像してみましょう。

 一兵卒(最下級である兵)である「あなた」は戦っては逃げる、戦っては逃げるという数日間を過ごします。丸一日うねうねと畑や林の続くボヘミアの台地を行軍する日もありました。

 「あなた」は幸いにも戦闘の矢面には立っていませんでしたが、負傷兵や死体を見る場面が日に日に増えていきます。いつかは自分もああなるかもしれない。やがて奇妙な「噂」がささやかれていることに気付きます。「敵の大砲はすごい威力で、ウチの大砲の数倍遠くまで砲弾が飛ぶそうだ」

「敵の銃は恐ろしく精密で、しかも敵は信じられないくらい早い間隔で次弾を撃って来る」

 自分たちより敵の方が「優れている」「強い」らしい。次第にあなたは不安になって来ます。補給も滞り始め、今日は朝から何も口にしていません。戦友たちの顔にも不安と疲労がにじみ出ている気がします。それはイコール自分の姿なのです。


 こんな環境と精神状態で、自分の国とは言っても生まれ故郷とは全く違う言葉を話す現地人(チェック人)の土地で戦うオーストリアの兵士。

 元より多民族の国家であるオーストリア帝国は軍隊も多くの民族の集合体です。民族毎に隊が分けられているので、一国の軍隊というより初めから「連合軍」の様なものになっています。それをドイツ人であるオーストリア本国の士官たちが指揮するのです。南で戦い破れたイタリア軍にも似た傾向がありましたが、こういう軍隊は上層部に強力なリーダーシップがないとなかなか強い力を発揮出来ません。

 プロシアはほぼドイツ人のみで軍隊が成り立っているので、普墺戦争はこうした軍の環境の違いも念頭に置いて眺めた方が良さそうです。

 オーストリア軍がプロシア軍に連戦連敗だった理由の一つがここにあるのです。


 6月27日のこと。クラム=グラース将軍とザクセン王国皇太子アルベルト親王は、イーザー川中流の町ミュンヘングレーツ付近で敵に抵抗を試みようと話し合います。

 この背景には、最終的に川の南にある交通の要衝ギッチン市まで主力を後退させるという決定がありました。南方の軍団にもギッチン行きを命じたベネデックの命令です。

 この主力の後退を援護するため、時間稼ぎとしてミュンヘングレーツで遅延戦闘が行われるのでした。


 一方のプロシア側でも、この日ミュンヘングレーツが焦点となりました。北西からやって来たエルベ軍と北東からやって来た第一軍がこのミュンヘングレーツ付近で合同することとなったのです。ここでイーザー川を渡河、更に南下してギッチンで東から来るプロシア第二軍と合流する。それによって敵のボヘミア軍をイーザー川とギッチンの間で包囲し「合撃」しようというのが最初モルトケが考えた作戦でした。

 しかし、敵は既にミュンヘングレーツからギッチンにかけて退却中でした。

 エルベ軍司令官のビッテンフェルト将軍は第一軍の司令官カール王子と話し合い、ミュンヘングレーツで合同し敵を叩き、イーザーを渡河、北上して来るであろう敵主力をギッチンで叩こうと決めます。ギッチンに付く頃には東から皇太子の第二軍もやって来るであろう、と。モルトケの命じるギッチンでの「合撃」はこれで完成する。


 こうして双方ミュンヘングレーツで戦う事が決し、戦いは必至となりました。


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