アミアンの危機
☆ 独第一軍(ケリューの戦い/12月20日)
泣く子も黙る独軍きっての鬼将軍、男爵エドウィン・カール・ロテェス・フォン・マントイフェル騎兵大将率いる独第一軍は、メッス攻囲終了後仏北西部へ進み、1970年12月上旬にはアミアン(12月1日)、ルーアン(同5日)を次々に占領し英仏海峡まで到達しました。しかしこれと同時に手薄となったソンム川(エーヌ県サン=カンタン市北東方のフォンソンヌ付近を源流にピカディリー地方を西へ流れ、ペロンヌ、アミアン、アブヴィルを経由し大西洋に注ぐ河川。ベルギーから仏へ侵入する経路に横たわるため史上幾度も激戦地として名を残します)流域に配された独駐屯部隊に対し新生・仏「北部軍」が襲撃を企て、アム(アミアンの東南東58キロ)、サン=カンタン(同東71.2キロ)、そしてラ・フェールでは独軍後方部隊が襲われて損害を出しました。独大本営と独第一軍は「敵は今後大規模の集団となってソンムを渡りパリ包囲網の後方を脅かすのではないか」と考え、その対策に奔走することとなったのです(既述。「普軍の海峡到達とフェデルブ将軍の登場」を参照)。
アムの城塞
アミアンから東へ出立したある独軍偵察隊は、仏軍の大部隊がこの数日(12月9日から12日頃)に渡って鉄道を使い根拠地の一つアラス(アミアンの北東56キロ)からバポーム(アラスの南21.5キロ)方面へ輸送され、更に徒歩行軍でソンム河畔のペロンヌ(アミアンの東46キロ)方面へ向かったことを確認します。ソンム川の南方へ向かった別の独偵察隊*は12月13日、サン=カンタン~アミアン街道(現・国道D1029号線)上のフーコークール(=アン=サンテール。ペロンヌの南西13キロ)で仏の歩兵1個中隊を発見し短時間の戦闘後に駆逐しましたが、翌14日になると更に大規模な部隊が独第一軍の後方連絡線(現・国道D934号線)上にあるロワ(アミアンの南東41.6キロ)周辺まで現れるに至ったのです。
※フーコークールへの偵察隊(12月13日)
*ハイニヒェン少佐指揮
○独擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊・第2,3中隊(独第2師団より)
○独槍騎兵第7「ライン」連隊第1中隊の2個小隊(独騎兵第3師団より)
○独野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊・軽砲第1中隊の1個小隊(クルップ4ポンド砲2門/独第1師団より)
フォン・マントイフェル将軍と独大本営はこの危機的状況に鑑み、海峡沿岸のル・アーブル占領やディエップの確保を諦め、またセーヌ南岸ノルマンディ方面への進撃を棚上げして、パリ包囲網後方のリスクを取り除くため独第一軍とパリ包囲網北部担当のマース(独第四)軍から抽出した部隊を使いソンム流域への攻勢を企てました(既述)。
この結果12月13日にパリ北方包囲網からマース軍傘下の部隊が抽出され、これら諸隊は2つの支隊に編成され16日にオアーズ川(ベルギーのシメイ付近を水源にサン=カンタンの西を抜けてラ・フェール~ノアイヨン~コンピエーニュ~クレイユと流れてコンフラン=サント=オノリーヌでセーヌ川に注ぐ支流)方面に到達し南下する仏軍に備えました。
※12月16日におけるマース軍のオアーズ流域防衛
◇ベルンハルト・フォン・ケッセル少将(独近衛歩兵第1旅団長)支隊
*クシー=ル=シャトー(=オフリック。ソアソンの北15.4キロ)周辺に展開
*歩兵4個大隊・騎兵1個中隊・砲兵2個中隊
○独近衛フュージリア(F)連隊
○独近衛驃騎兵連隊・第2中隊
○独近衛野戦砲兵連隊・軽砲第2中隊
○独第19「ポーゼン第2」連隊・第2大隊(予備第3師団より)
○第5軍団予備野戦砲兵大隊・重砲第2中隊(予備第3師団より)
◇カール・クルーク・フォン・ニッダ少将(騎兵第23「ザクセン騎兵第1」旅団長)支隊
*コンピエーニュ(ソアソンの西35.7キロ)周辺に展開
*歩兵2個大隊・騎兵8個中隊・砲兵1個中隊
○独擲弾兵第100「ザクセン王国(S)擲弾兵第1/親衛」連隊・第1、2大隊
○独槍騎兵第17「S第1」連隊
○独槍騎兵第18「S第2」連隊
○独野戦砲兵第12「S」連隊・騎砲兵第2中隊
独第12「S」騎兵師団(と付属歩兵)は「エトレパニーの悲劇」(「マントイフェル軍のルーアン占領」参照)後、独第一軍がルーアンに向けて進撃中、その左翼側面を護るためエクイ(ルーアンの南東28.2キロ)方面へ進出していましたが、アムとラ・フェールが脅かされたことでマース軍司令ザクセン王太子アルベルト王子の命令によりジゾー(エクイの東25キロ)方面へ後退しています。その後、13日になってコンピエーニュにも一部を転進させる命令が届き、ジゾーで支隊を結成しクルーグ・フォン・ニッダ将軍が率いて東方へ進んで来たものでした。
独第一軍所属部隊については、第15師団(第8軍団)がルーアンから行軍を開始し、16日夜には第30旅団がブルタイユ(アミアンの南29キロ)、第29旅団がマルセイユ=ル=プティ(現マルセイユ=アン=ボーベス。同南西43.1キロ)に到達しています。
アミアンを守備していた伯爵ゲオルク・ラインハルト・フォン・デア・グレーベン=ノイデルヘン中将(独騎兵第3師団長)は14日、マントイフェル将軍13日発令の命令(既述。「アミアンに歩兵3個大隊を残し残部を率いて16日にはロワに至り第15師団と連絡せよ」との主旨)に従い、偵察行に散っていた隷下諸隊をアミアンへ帰還させる命令を発しました。15日、アミアン守備隊は集合を完結しますが、翌16日朝になると将軍は「このまま命令通り1個連隊(3個大隊)という比較的少数の兵力で少なくとも師団クラス以上と思われる敵を迎え撃ってもアミアンを護り切れないのではないか」との不安に襲われ、ならば、とアミアン重城(シタデル/城塞。防御都市内の要塞)に少数の守備隊*を残し「敵が来襲した場合、籠城し解囲軍を待て」と持久戦を命じ、その他の部隊を全て郊外に出して行軍して来る第15師団との合流を計ろうと考えます。結果グレーベン将軍と麾下諸隊は同16日、アミアンを「捨て」、命令よりかなり西方となる(即ち合流も早い)エリー=シュル=ノワイエ(アミアンの南南東16キロ)まで進むと第15師団を待ったのでした。
アミアン付近を行軍する独軍縦隊
※12月16日のアミアン城塞守備隊
*フーベルト大尉(第44連隊所属)指揮
○第44「オストプロイセン第7」連隊・第7,8中隊
○要塞砲兵第11大隊・第8中隊
○第1軍団野戦工兵・第3中隊
アミアン周辺が「今にも仏軍の大部隊に襲われる」と大騒ぎになっていた頃、独ベルサイユ大本営と独第一軍本営には仏北部軍に関する真偽不明様々な情報が続々と寄せられていました。当初は「パリ北郊外・マース軍管轄下の包囲網を後方から脅かされる危機が生じた」と考えた独首脳陣でしたが、これらの情報を整理している内に、「仏北部軍なる敵兵団はアミアン撤収の後、明らかに戦力を増強し攻勢を強めソンム、オワーズ両河川間に進んだ」ものの「情報を吟味すれば、敵はパリへ直接向かおうとしているのではなく、先にアミアン奪取を目指しているのではないか」と疑い出します。
アミアンは仏北部の首邑であるばかりでなく、ソンム流域に戦線を構築する場合その管制には欠かせない要衝であり、この「点」を失えばソンム川という「線」の支配は(アミアンで簡単に渡河出来てしまうため)難しくなります。フォン・マントイフェル将軍は「敵がアミアンを迂回してパリへ向かわないのであればアミアンを死守することが理に適う。これは先の大本営令(ソンム流域支配)遵守にも合致する」と考えを改め16日夕刻、「兵力集中のため一旦放棄したと聞くアミアン市街を急ぎ再占領し防御を固めよ」と命じました。
この任務は本来ならアミアン守備隊のフォン・デア・グレーベン将軍が担うはずですが猛将マントイフェルは、独断により「早まって」アミアンを放棄した部下が許せなかったのか、この任務を独第15師団長のルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー中将に与え、クンマー将軍はマントイフェル将軍から直接「フォン・デア・グレーベン将軍とその麾下諸隊を指揮下に入れ、準備出来次第望むべくは元のアミアン守備隊全部、最低でも歩兵3個大隊に騎兵1個連隊、砲兵2個中隊によりアミアンを再占領せよ」と命じられました。
更にマントイフェル将軍は翌17日朝、クンマー第15師団長に対し「麾下師団全てをモンディディエ(アミアンの南東33.7キロ)に集合させ、現在(16日夜)グルネー=アン=ブレイ(同南西61.5キロ)までに至った第16師団の到着を待て」と命じ、両師団に対し「モンディディエ周辺に集合を成すまでは敵との本格的な戦闘を極力避けよ」と命じたのでした。
クンマー中将
フォン・クンマー将軍は17日、第30旅団を直率してモンディディエへ行軍し、軍司令から叱責されて消沈していたフォン・デア・グレーベン将軍はエリー=シュル=ノワイエから麾下と共に第30旅団の行軍後方に続きモンディディエで合流しました。翌18日、第29旅団もモンディディエに到着すると、クンマー将軍は第30旅団に槍騎兵第14「ハノーファー第2」連隊と野戦砲兵第7連隊の騎砲兵第1中隊(両部隊共に騎兵第3師団所属で「元」アミアン守備隊です)を付してアミアン方面へ流れるアヴル沿岸のダヴネスクール(モンディディエの北北東7.2キロ)まで進めました。
19日になるとこの第30旅団「支隊」から歩兵1個大隊と騎兵半中隊(2個小隊)をロワ(モンディディエからは東北東17キロ)付近へ派遣し、周辺に出没しているという仏軍に備えさせました。
この間、独騎兵第3師団はフォン・デア・グレーベン将軍の下で再び集合(後述するミルス支隊を除きます)し、ル・クネル(モンディディエの北北東14.9キロ)とル・ケノワ(小部落。ル・クネルの南東5.9キロ)の間に宿営しています。同じく第16師団も更に東進し、第31旅団は第8軍団砲兵隊を引き連れてブルタイユへ、第32旅団はコンティ(アミアンの南南西20キロ)までそれぞれ進みました。
こうしてアウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン歩兵大将の独第8軍団がアミアン南方に進んだ時、マース軍から派出されていた独第12「S」騎兵師団はその前衛をオワーズ河畔で交通の要衝であるノアイヨン(ロワの南東20キロ)まで進めました。このS騎兵斥候の他、コンピエーニュとクシー=ル=シャトーに派遣されていたマース軍の支隊斥候たちもソンム流域へ盛んに出撃し、「サン=カンタンだけでなくアムとペロンヌも仏軍が抑えており、更に西方アミアン方面へ行軍する兆候がある」ことを報告するのです。この偵察行が一段落し、仏北部軍がアミアンへ向かったことが確実視された18日から順次ケッセル支隊とクルーク・フォン・ニッダ支隊は鉄道によりパリ包囲網へ帰還して行きました。
これを受けフォン・マントイフェル将軍はフォン・ゲーベン将軍に対し19日、「アミアン南東方へ進んでソンム川方面を警戒している麾下諸隊をアミアン周辺へ集合させ、1個旅団相応の兵力を市街地に配置せよ」と命じます。
16日に独兵が消えた当のアミアン市では、マントイフェル将軍ら第一軍本営が恐れていた市民の蜂起や城塞への本格攻撃は発生せず、比較的静穏な状態が続いていました。さすがに血気盛んな強硬共和主義者や過激な思想を吹き込まれた極左系の労働者集団が城塞を取り囲み気勢を上げますが、旧式の小銃に斧や槍だけが武器の労働者では城塞攻撃は不可能で、城塞に籠もっていたフーベルト大尉は部下に威嚇射撃を行わせてこの労働者集団を追い払っています。18日になると市街北部郊外に仏軍の斥候偵察隊が出現しましたが直ぐに攻撃へ移る様子はなく、また市街南方には一切仏軍は現れませんでした。
アミアン再占領を命じられていたクンマー将軍は17日、モンディディエからフォン・デア・グレーベン将軍の部下で騎兵第6旅団長のフロレンティン・リヒャルト・フォン・ミルス少将が指揮する支隊*をアミアンへ向けて出立させ、将軍はこの18日、全く抵抗されずに市街へ入城し城塞守備隊と連絡を取るのでした。
※12月18日の「ミルス」支隊
◇第3旅団
○擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊
○第44「オストプロイセン第7」連隊
○槍騎兵第7「ライン」連隊
○野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊
・重砲第5中隊
・軽砲第6中隊
ミルス将軍は直ちに斥侯を北方へ送り、その内東側に進んだ一隊はアリュ川(アミアンの北東20キロ付近を水源に南へ流れ、同東11キロのダウール付近でソンムに注ぐ支流)に沿って仏軍の大部隊が展開しているのを発見しました。将軍は20日、歩・騎・砲兵混成の支隊を擲弾兵第4連隊のF大隊長ボック少佐に預け、バポームへの街道(現・国道D929号線)をアリュ河畔のケリュー(アミアンの北東10.8キロ)に向けて強行偵察に送り出します。
※20日の「ボック」支隊
○擲弾兵第4連隊・F大隊
○槍騎兵第7連隊・第3中隊
○野戦砲兵第1連隊・軽砲第6中隊
ボック少佐は部隊をケリュー西郊外のラ・ゴルグの森(ボワ・ドゥラ・ゴルグ。ケリューの西南西2キロ付近。現存します)東縁まで進め、午前9時頃、部落郊外に陣を構えていた仏軍と激しい銃撃戦となりました。
この仏軍部隊はアリュ川に沿って展開していたジョセフ・アルチュール・デュフォーレ・デュ・ベッソル准将率いる仏北部軍の新軍団・第22軍団第2師団の一部(北部軍編成は後述します)で、当初は2個大隊の歩兵たちでした。数的に不利なボック隊でしたが、この時仏軍にはなかった砲兵が加わったおかげで戦いは拮抗し、この銃砲撃戦は3時間ほどに渡って続きましたが、やがてアリュ下流のブシー=レ=ダウール(ケリューの南3キロ)から3個大隊(1個連隊)の増援が到着し総攻撃を仕掛けてきたためボック支隊は戦線を維持出来ず、街道沿いのフェルム・デ・アランソン(当時は一軒家の農家。現在はル・プティ・カモン部落中の一軒で面影はありません。ケリューの南西5キロ)まで後退してここに散兵線を敷き直し、砲兵中隊はその南方、騎兵中隊は砲兵の更に南へ展開して側面援護に就きます。ボック隊は追撃して来た仏軍を必死に防ぎ、敵の攻撃が緩んだ隙を突いて午後1時頃一斉退却に転じてアミアンへ引き上げたのです。
この「ケリューの戦闘」でボック少佐支隊は戦死13名・負傷58名・馬匹2頭の損害を報告しました。仏軍の損害は意外と軽微で戦死7名・負傷20名と伝えられます。
12月20日 ケリュー西の森から逃走する独ボック支隊
独第一軍司令官フォン・マントイフェル将軍とその本営は12月17日、戦況が東方不利となったことでルーアンを出立してアミアンを目指し、翌18日、行軍中にベルサイユ大本営からの重大な命令(「クリスマス 騎兵第5師団の行動と大公軍の解散」参照)を受領しました。マントイフェル将軍と第一軍本営は同月20日、別動していたフォン・ゲーベン第8軍団長とその本営、そして独第32旅団(第16師団)とほぼ同時にアミアンへ入城します。これで正式に中止となった「ル・アーブル攻撃」と「ノルマンディ方面への侵攻」の拠点だったルーアンには、ゲオルグ・フェルディナント・フォン・ベントハイム中将が居残り、独第3旅団とその付属部隊以外の独第1軍団(第1、2師団と砲兵隊)とル・アーブルを監視中の近衛騎兵第3「竜騎兵」旅団(伯爵アレクサンドル・フェルディナント・ユリウス・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク少将指揮)を率いて大西洋岸に睨みを利かせました。
この20日、第16師団の片割れである第31旅団はサン=アン=アミネノワ(アミアンの南8.7キロ)に、第8軍団砲兵隊はエリー=シュル=ノワイエにそれぞれ到着して宿営に入ります。同じく第15師団(第29、30旅団)はリュス川(ケクス付近を水源に西へ流れるアヴル川支流。アミアンの戦い参照)に沿って、また、騎兵第3師団はロジエール(=アン=サンテール。モンディディエの北北東21キロ)からショルンヌ(ロワの北13.5キロ)に掛けて、それぞれ従来の展開線を前進又は延伸させています。
翌21日。アミアンのマントイフェル将軍の下に決定的な諸情報が届きます。これらをまとめれば「仏北部軍は5万前後の兵力となり、その前衛はアリュ川に沿って展開し、主力はソンム川を境としてその北に集合している」ということがはっきりとしたのです。
この仏北部軍の「再生」は、仏の逆転を切望する仏ノール県の住民ばかりでなく遠くセーヌ川以南ノルマンディ地方の住民にも希望と勇気を与えており、独第一軍は敵意むき出しの地方住民に囲まれ、この不穏な空気は独軍の諸隊、特に後方連絡線に点在する兵站部門の将兵や補給段列、斥候各隊に緊張と不安を与えるものでした。前日「ケリューの戦闘」もあり、このままではアミアンの維持も危ういと感じたマントイフェル将軍はベルサイユ大本営に増援要請を込めた報告をし、モルトケら独参謀本部も再度マントイフェル軍に増援を派遣することを決定します。これによって(シャルルヴィル=)メジエール要塞都市の攻囲に携わっていた予備第3師団と、ついこの前(11月25日。既述)までエプト方面支隊を率いてボーヴェにいたマース軍傘下近衛軍団のヴィルヘルム・ニコラウス・アルブレヒト親王(子息の方)が指揮を執ることとなった臨時編成の「近衛混成騎兵旅団」(近衛歩兵2個師団の付属騎兵連隊を引き抜き合同させたもの。近衛驃騎兵連隊と近衛槍騎兵第2連隊)をアミアン方面へ向かわせるのでした。
ヴィルヘルム・ニコラウス・アルブレヒト親王(子息)
大本営から直接命令を受けた予備第3師団は西へ向けて出立する準備に入りクリスマスイブにはサン=カンタン付近に、アルブレヒト親王の近衛騎兵は22日にボーヴェへ、それぞれ到着する予定となります。またルーアンのフォン・ベントハイム将軍に対しては同22日、麾下から歩兵6個大隊を抽出し鉄道を使ってアミアンまで派遣するよう命令が飛ぶのでした。
☆ 仏北部軍
仏北部軍司令官ルイ・レオン・セザール・フェデルブ少将は、ヴィレ=ブルトヌーとアミアンで敗退し意気消沈してアラス方面へ退いた仏北部軍を率いる(12月4日)こととなりましたが、その僅か4日後の12月8日、部下となったアルフォンス=テオドール・ルコアント准将に命じて麾下の3個歩兵大隊、1個猟兵大隊、そして砲兵2個小隊(4門)をソンム川に向けて出撃させ、アムにいた独軍後方部隊(兵站路守備と鉄道補修隊)を襲って全員を捕虜として部落を開放します。その後ルコアント支隊は南東に進んで12日には独軍が確保したばかりのラ・フェール要塞を脅かし、まずはその北方高地に居座りました。
アムを開放する仏軍と捕虜になった独兵
フェデルブ将軍はマントイフェル将軍率いる独第一軍がルーアンへ進み、アミアンには比較的少数の守備隊が残っているだけ、との情報を得ると14日、ラ・フェールを脅かしていたルコアント隊を呼び戻し、ルコアント将軍は部下と共にソンム川を下流(西)へ向かって進み、16日にはソンムを渡ってコルビ(アミアンの東15.5キロ)の南方付近まで至りました。
翌17日、フェデルブ将軍は麾下を2つの軍に再編成します。一つはルコアント准将率いる「仏第22軍団」で、先の「アミアンの戦い」で奮戦した部隊を中核に新兵を加えて編成され、北部軍の主力となりました。もう一方はアラスやリール方面で召集されたノール県の臨時護国軍集団を中心とする部隊で、海軍部隊や元・近衛兵にセダンやメッスからの脱走組、そして義勇兵も加わってノール県の要塞地帯で護国軍部隊の召集と錬成を行っていたベテランのアンソニー・ジャン=ジャック・ユージン・ポールズ・ディボイ・ドゥ・ラ・ポップ准将が率いるのでした。
同日、フェデルブ将軍はルコアント将軍に再びソンムを渡河させ、川の北方でアリュ川までの間に再集合させました。これは南方のモンディディエに独第15師団と同騎兵第3師団が到着し北上する動きを見せたことを知ったのが原因で、その後将軍は第22軍団の本隊をルコアント隊に合流させると18日から19日にかけてアリュ川の線に強固な陣を敷かせたのでした。同時に仏第23軍団もアラスから南下しアリュ川の東に向かって進み、ルコアント軍団と連絡を取ってアミアンに対面したのです。
※ 仏北部軍戦闘序列(1970年12月23日)
一説には戦闘兵員43,000名・各種砲82門と言われます。
フェデルブ少将
軍司令官 ルイ・レオン・セザール・フェデルブ少将
参謀長 ジャン=ジョセフ・フレデリック・アルベール・ファレ准将
砲兵部長 シャロン中佐
工兵部長 ミリルー大佐
◎ 仏第22軍団
軍団長 アルフォンス=テオドール・ルコアント准将
◯第1師団 師団長 ジョセフ・バルテルミー・グザヴィエ・デロジャ准将(戦時昇進)
◇第1旅団 アイネ中佐
*マルシェ猟兵第2大隊
*マルシェ第67連隊
*護国軍第91「パ・ド・カレー県」連隊
◇第2旅団 フランシス・ガブリエル・ピティ大佐(戦時昇進)
*マルシェ猟兵第7大隊(第17大隊との説もあり)
*マルシェ第68連隊
*護国軍第46「ロット県(南仏トゥールーズの北)」連隊(ノール県の護国軍部隊との説もあり)
◇師団砲兵隊 4ポンド野砲2個中隊・8ポンド野砲1個中隊(計18門)
◇工兵半個中隊
◯第2師団 師団長 ジョセフ・アルチュール・デュフォーレ・デュ・ベッソル准将(戦時昇進)
◇第1旅団 フェルステ大佐
*マルシェ猟兵第20大隊
*マルシェ第69連隊
*護国軍第44「ガール県(南仏)」連隊
◇第2旅団 ドゥ・ジスレーン大佐
*マルシェ猟兵第18大隊
*マルシェ第70連隊
*護国軍「ソンム県・マルヌ県」混成連隊
◇師団砲兵隊 4ポンド野砲3個中隊(18門)
◇工兵半個中隊
◎ 仏第23軍団
軍団長 アンソニー・ジャン=ジャック・ユージン・ポールズ・ディボイ・ドゥ・ラ・ポップ准将
参謀長 マルシャン中佐
工兵部長 アラール少佐
ポールズ・ディボイ
◯第1師団 師団長 ヴィンセント・アルフレド・ムラック海軍准将
◇第1旅団 フランシス・ルイ・ジュール・ペイヤン海軍大佐
*マルシェ猟兵第19大隊(第10大隊との説もあり)
*海軍フュージリア連隊
*護国軍第48「ノール県」連隊の一部
◇第2旅団 ドゥ・ラグランジュ海軍中佐
*マルシェ猟兵第24大隊
*護国軍第47「ロット=エ=ガロンヌ県(ボルドーの東。県都アジャン)」連隊(マルシェ第72連隊との説もあり)
*護国軍第48「ノール県」連隊の一部
◇師団砲兵隊 4ポンド野砲3個中隊(18門)
◇工兵1個中隊
◯第2師団 師団長 ロペン准将
◇第1旅団 ブリュスレイ大佐
*ヴォルティジュール(選抜歩兵)第1大隊*
*臨時護国軍「ノール県」第1連隊
*臨時護国軍「ノール県」第2連隊
◇第2旅団 アルノ大佐
*第5レジオン(外人部隊)第4大隊*
*臨時護国軍「ノール県」第3連隊
*臨時護国軍「ノール県」第4連隊
◇師団砲兵隊 2個中隊(12門)
◎ 北部軍直属隊
◯憲兵2個中隊
◯ノール県のエクレルール竜騎兵2個中隊
◯砲兵2個中隊と2個小隊(山砲16門)
※ヴォルティジュール兵大隊は第二帝政の近衛軍団に所属しメッスやセダンから逃亡した兵士たちによって創られます。また、レジオン隊は外人部隊(レジオン・エトランジェ)の事ですが、この「第5レジオン(・エトランジェ)」は戦争中に仏全土で急募した外国籍の「義勇兵」部隊であり、当時アフリカ植民地を本拠に活躍しロアール軍にも参加していた「本家(第1、第2レジオン)」とは全く別物の傭兵組織でした。
アリュ沿岸に展開したのは、以下の諸隊でした。
※12月22日における仏北部軍「アリュ戦線」
◎第一線(第22軍団)
*ヴァダンクール(ケリューの北東8.7キロ)及びコンテ(ヴァダンクールの西700m)からベオンクール(ケリューの北北東4.4キロ)まで
○第22軍団第1師団(デロジャ准将)
*ベオンクールの南郊からダウール(アリュ河口。ケリューの南南東4.2キロ)まで
○第22軍団第2師団(デュ・ベッソル准将)
◎第二線(第23軍団)
*コルビ(ダウールからは東へ4.6キロ)とフィヨワ(コルビの南西950m)及びその周辺。前衛はラウッソイェ(ケリューの東北東3.8キロ)。
○第23軍団第1師団(ムラック海軍准将)
*アルベール(ケリューの北東17.4キロ)とその周辺
○第23軍団第2師団(ロペン准将)
→この師団は23日正午頃にベオンクールの東郊外まで行軍します。
仏北部軍の行軍
☆ 独第一軍のアリュ流域侵攻
この明確になった脅威を受け、マントイフェル将軍は先に下された大本営の方針により「敵が大兵力を以て出撃して来た場合はこれを直ちに攻撃し排除する」ことが重要と考え、「優秀なる部下を信じてルーアンからの増援を待つことなく直ちに攻撃を行う」として、ルーアンからの増援は第二線に使用すると決するのでした。
将軍は更にラ・ヌーヴィル(アミアン東郊外。大聖堂の東南東2.4キロ)とカモン(同東3キロ)のソンム川に架かる2つの橋が修繕され渡渉可能となったことを受けて東方への進撃を計画し、独第16師団がアミアン市内及びその西郊、第15師団と騎兵第3師団がアミアンの東郊にそれぞれ集合を終えた22日の午後、攻撃命令を下すのです。
この攻撃命令によれば、独第8軍団は12月23日午前8時に1個師団でコルビ及びアルベールへの街道(現・国道D1号線)を前進してソンム沿岸の敵を正面に牽制・拘束し、もう片方の師団でアシュー(=アン=アミエノワ。アミアンの北東26キロ)に至る街道(現・国道D919号線)を前進して敵右翼(北方)を包囲する事になります。
アミアンの守備には当初アミアン城塞守備隊(フーベルト大尉指揮。前述)がそのまま残り、市街の治安には兵站守備隊の2個中隊と、脚部の負傷等で行軍に耐えられない傷病兵からなる臨時編成の1個大隊だけが残されます。当然これだけでは不安なので、ルーアンからやって来る第1軍団の3個大隊が到着次第そのままアミアンの守備に就くことになりました。
これ以外の第3旅団(擲弾兵第4連隊と第44連隊の10個中隊)、槍騎兵第5「ヴェストファーレン」連隊、野戦砲兵第1連隊の重砲第5、軽砲第6中隊、そしてルーアンから先行して鉄道で送られて来た擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊の第1、2大隊(22日夕にアミアンへ到着しました)はマントイフェル将軍の直属予備部隊に指定されました。
この予備部隊もゲーベン将軍を追って直ぐに出動することとなります。この内、擲弾兵第3連隊の第1、2大隊は軽砲第6中隊と槍騎兵第5連隊の第1中隊を付されて同23日午前10時から後命があるまでラモット=ブルビエール(アミアンの東6.8キロ)付近の渡河点を守備しつつ待機に入ることとされ、その他の予備諸隊はフォン・ミルス少将の指揮下、午前11時にアミアンを出てケリューへの街道を前進することとなったのでした。
槍騎兵第5連隊を除く騎兵第3師団中、アミアンにあった槍騎兵第7連隊は同22日、ソンム下流のピキニー(アミアンの北西12.2キロ)に派遣されて警戒任務に就き、槍騎兵第14「ハノーファー第2」連隊の2個中隊もペロンヌとアム方面の監視警戒任務でショルンヌに居残ります。師団本隊はこの間もう一人の旅団長(騎兵第7旅団)伯爵フリードリヒ・ジークマル・ツー・ドーナ=シュロビッテン少将に任されますが、その手元にあったのは胸甲騎兵第8「ライン」連隊に槍騎兵第14連隊の2個中隊(計6個中隊)と野戦砲兵第7連隊の騎砲兵第1中隊だけとなりました。
また、未だ補修中で本格始動していないアミアン~ルーアン鉄道の事情により予定された歩兵6個大隊の輸送は遅れに遅れ、先の2個大隊に続いて同連隊のF大隊が23日の夕方になってようやくアミアンに到着し、続いて夜には第43「オストプロイセン第6」連隊のF大隊(第12中隊欠)も到着します。24日になって第43連隊の第12中隊、続いて同連隊第2大隊が相次いで到着しました。最後に第43連隊第1大隊が他の任務に当てられたため、第2旅団に配されていた擲弾兵第5「オストプロイセン第4」連隊の第1大隊が到着して、ようやく予定された6個大隊全てが揃ったのでした。
一方、オワーズ河畔のノアイヨンに進んでいた独第12「S」騎兵師団は、ソンム河畔に向けて北上前進するよう命じられ、更にマントイフェル将軍から「アムを確保する事」を要請されました。ボーヴェに達したアルブレヒト親王の近衛混成騎兵旅団は24日中にアミアンへ到着するよう命じられ、予備第3師団はメジエール要塞包囲の拠点・ブルジクールから前進するに当たり、その最終行軍目標をソンム河畔のペロンヌにするよう命じられるのでした。
仏予備役兵の出征(ピエール=ジョルジュ・ジャンニオ画)




