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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・極寒期の死闘
424/534

12月中旬・ロンジョーとニュイ=サン=ジョルジュ

ラングル、ロンジョー周辺図

挿絵(By みてみん)


☆ ロンジョーの戦い(12月16日)


 モルトケ参謀総長から占領地域の堅守と集合する敵ヴォージュ軍への対応、そしてベルフォールとラングル両要塞の早期攻略を命じられた独第14軍団長フォン・ヴェルダー将軍は、麾下普軍混成旅団を指揮する男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将に対し「ラングルの監視と後方連絡線の安全確保」を命じます。

 フォン・デア・ゴルツ将軍は12月14日、麾下「ミニ混成師団」(歩兵2個連隊・騎兵2個連隊・砲兵3個中隊。戦闘員総計およそ6,000名との記録もあります)を二分割して縦隊を作り、ディジョンの北郊外からラングルへ向かうのです。


※12月14日・ゴルツ旅団の行軍序列

◇右翼(東)縦隊

○フュージリア第34「ポンメルン」連隊

○予備竜騎兵第2連隊

○第3軍団予備軽砲第1,2中隊

◇左翼(西)縦隊

○第30「ライン第4」連隊

○予備驃騎兵第2連隊

○第1軍団予備重砲中隊


 ゴルツ旅団は仏軍を見ることなく14日夜にはティル・シャテル(ディジョンの北北東24キロ)とイス・シュル・ティユ(ティル・シャテルの西4.9キロ)に達し、翌15日にはヴォー=スー=オービニー(同北北東18キロ)とスロンジェ(イス・シュル・ティユの北東9.1キロ)に進みます。

 順調にラングルへ近付くゴルツ旅団でしたが、16日、先行する右翼の前衛*がラングル街道(現・国道D974号線)を北上すると、ロンジョー(ラングルの南11キロ)に仏軍が2個大隊クラスの兵力を展開し、街道を破壊して障害物で封鎖しているのを発見するのでした。


※12月16日・ゴルツ旅団(右翼縦隊)前衛

○フュージリア第34連隊・第1大隊

○予備竜騎兵第2連隊・第2中隊

○第3軍団予備軽砲第2中隊


 ロンジョーで待ち受けていた仏軍は、元より11月上旬から守備隊として部落に駐屯していたマルシェ第50連隊の1個中隊約200名と、ラングル要塞司令官アルベロ将軍の命で派遣されて来たマルシェ第56連隊の2個大隊で、スタニスラス・ドゥ・リゲルとコッホ両大尉の指揮下にありました。

 ゴルツ旅団前衛は追って駆け付けるはずの縦隊本隊を頼りに、この倍と思える敵に対し攻撃を開始、第34連隊第1,4中隊は街道東から、第2中隊は街道西から部落に接近し、西側からの攻撃には間もなく縦隊本隊から駆け付けた予備軽砲第1中隊と予備竜騎兵第2連隊・第3,4中隊も後続しました。予備軽砲第2中隊の方はプラニエ(ロンジョーの南西3.9キロ)の東郊外に砲列を敷いてロンジョー部落への砲撃を始め、この砲兵中隊の護衛に付いていた第34連隊の第3中隊は砲撃が開始されると街道に沿って前進します。

 正午前には第34連隊第3大隊も到着して攻撃を始め、部落の南東側で反撃に出た仏軍部隊を撃退するのでした。こうしてロンジョーの仏軍は次第に高まり圧も強くなった独軍の銃砲撃に耐え切れず次々に部落から脱出して、最前線にあった独第34連隊の第3中隊は、部落に残って抵抗を続けていた仏残兵を掃討して正午頃ロンジョーを制圧しました。

 同時に左翼西側においてヴァンジャンヌ川(当時はないロンジョー南にある大きな人造湖ヴァンジャンヌ湖に注ぐ川。川は部落の南2キロ付近となります)の岸辺に砲列を敷いていた予備軽砲第1中隊は、砲撃戦によりヴェルセイユ=ル=オー(ロンジョーの西930m)の南高地にあった2門の仏砲兵隊を後退させ、街道の西からこの高地に登った第34連隊第2中隊は、ヴェルセイユ=ル=オー部落を占領するとそのまま北上し逃げる仏軍を追います。ロンジョーに集合した同連隊の第1,3,4中隊は、休まず第2中隊に続いて追撃に入り、ベセ(ロンジョーの南西4.6キロ)付近まで進撃して来た左翼縦隊から先行した予備重砲中隊が急ぎ援護射撃を始めました。第34連隊第2中隊の1小隊長ストラール少尉は、この追撃戦で逃げ遅れた仏軍の砲1門を奪取する手柄を挙げています。


 街道の東側では、第34連隊第3大隊の一中隊が仏軍と銃撃を交わしつつ前進しロンジョー北東の大きな丘陵麓まで独り突進し、第3大隊残りと街道の東を進んで来た同連隊第2大隊が続き、この内第8,10中隊が同丘陵麓へ進出しました。

 この丘には2門の仏砲兵隊と数個中隊の歩兵がおり、当初は激しく抵抗したものの構わず突進して来る独軍に対し短時間で銃砲撃を止め撤退を始めました。この左翼西側に続いたフォン・ボニン中尉率いる同連隊第5中隊は、南側から登って来る独兵に対し必死に砲撃を繰り返す仏砲兵の不意を突き、思わぬ所(西側)から襲撃して砲1門を奪取しました。

 こうしてロンジョーとその東西郊外を制圧したフォン・デア・ゴルツ将軍は急ぎ右翼縦隊を集合させ、その間予備軽砲第1中隊はロンジョー北郊外まで前進してブール(ロンジョーの北3キロ)の高地に留まった仏軍を砲撃しました。

 午後1時30分。フォン・デア・ゴルツ将軍は第34連隊第2大隊にブール攻撃を命じ、大隊はブールに向かい前進します。対する仏軍も迫る独軍に対し高低差を利して必死に抵抗しましたが、これも短時間で腰砕けとなって押し寄せる独軍に押されて部落を脱し、ラングル方向へ撤退して行くのでした。


 この日の「ロンジョーの戦い」において仏軍は歩・砲兵合わせ2,000名ほどの兵力で戦い、損害は戦死・負傷がおよそ200名、捕虜が80名でした。独軍はほぼ右翼縦隊にあった第34連隊と3個砲兵中隊のみ(仏と同じく2,000名程度)で戦い、損害は戦死4名・負傷15名と比較的軽微で、砲2門と弾薬馬車2輌も鹵獲しています。


挿絵(By みてみん)

ロンジョー 後退する護国軍


 左右縦隊を解消し合同したゴルツ旅団は翌17日もロンジョー周辺で宿営を続け、18日になってラングル要塞に向け出立し、要塞の西側を回り込む形でその北方・ショーモンの南方に出ました。この時、独第30連隊は予備重砲中隊を引き連れて単独行動に入り、要塞の周辺に宿営していた護国軍部隊を襲撃して損害を与えます。これら要塞の外周防衛にあった諸隊は一部を除き要塞内へ引き上げました。

 この処置の後、フォン・デア・ゴルツ将軍はオルレアン在の独第二軍後方連絡線の警戒に当たり、連絡線に沿って麾下を広く北東方向(ヌシャトー方面)へ展開させました。これは同時に第14軍団の本拠ディジョンへの後方連絡線を確保することにも繋がったのです。

 ラングル要塞司令・アルベロ将軍は18日、フォン・デア・ゴルツ将軍が送った軍使による降伏勧告を拒否しました。この時に行われた捕虜交換で帰還した将兵(11月から12月に掛けて捕虜となった兵站部隊や斥候たちです)の報告から「要塞は攻城重砲が30門もあれば砲撃に因って攻略が可能」との確証が得られるのです。そこでフォン・デア・ゴルツ将軍は攻城砲と資材の集積をディジョンのヴェルダー将軍に要請し、同時に砲台構築と資材を受け入れる諸工廠の設置を開始させるのでした。この間も将軍は要塞の外にしぶとく残留していた仏軍前哨の排除を行い、これら諸隊も23日までに全て要塞外壁内へ撤退するのでした。


☆ 12月中旬のディジョン


 ディジョンではフォン・ヴェルダー将軍が各斥候報告から「南東方にあった(オーソンヌからサン=ジャン=ド=ローヌ付近で遊弋していた)仏軍はソーヌ川沿岸から鉄道で西へ向かって去った」との判断をしました。ディジョン南方の仏軍も12月3日以降攻撃機動を全く行わず独軍(主としてバーデン大公国軍)との接触もありませんでした。斥候たちは「仏軍がいた諸部落に敵影はなくなっている」との報告を上げたのです。

 ヴェルダー将軍はこの報告をベルサイユに送り、独大本営は折り返し命令書を送ってよこしました。この命令は12月15日の夜更けにヴェルダー将軍の下へ届けられ、これに因れば、「麾下部隊により(アルマンソン沿岸の)ニュイからスミュール(=アン=ノーソワ。ディジョンの西北西56.6キロ)間を完全に支配下に置き、それ以東の鉄道線も確保せよ」とのことで、これは16日にシャティヨン=シュル=セーヌからオーセール方面へ動き出すフォン・ツァストロウ将軍の第7軍団に代わってオータンのヴォージュ軍を警戒しアルマンソン川中流域を確保せよ、とのことだったのです。命令では更に「貴第14軍団は主力をディジョンに留め常に攻勢に出られるよう準備を成せ」とあったのでした。


 この12月中旬。ディジョン地方は月頭より強烈な寒気に晒されていましたが、16日を過ぎた辺りから寒気も緩み、雪も溶け出して堅く凍っていた街道でも再び泥濘が見られるようになります。すると仏軍も再び活動を開始し、独斥候はシャンブェフ(ディジョンの南西14キロ)で護国軍の約1個大隊がウシュ川(ここでは北方にあります)に向かって行軍するのを望見し、更にキュルレ(同南西17キロ)やコートドール山地南方などでも仏軍が諸部落に戻って居座っているのを発見するのです。

 ヴェルダー将軍は「ディジョンの東(ポンタイエ=シュル=ソーヌ)から南東(ドール)に掛けての方面はほぼ静穏となり、逆に南(ニュイ=サン=ジョルジュ)から西(コート=ドール山地)に掛けては危険が増している。北方(ラングル)方面はフォン・デア・ゴルツ旅団が抑えている」との状況から、アルマンソン沿岸からラングルにかけてはフォン・デア・ゴルツ将軍に任せ、このゴルツ旅団と任地が一部重複している予備第4師団に対し、「ベルフォール攻囲のウード・フォン・トレスコウ将軍の下へ追加2個大隊*を送り、ブズールからラングルへの街道(現・国道N19号線)上にあるコンボーフォンティーヌ(ブズールの北西22キロ)と、グレーからラングルへの街道(現・国道D67号線)上のシャンリット(グレーの北19.8キロ)に宿営していた諸隊をソーヌ川右(ここでは西)岸へ移動させ、同時にディジョンへの後方連絡線・兵站路をソーヌ川沿いに移設して警護する」よう命じたのです。また、バーデン大公国(Ba)師団を率いるハインリッヒ・カール・ルートヴィヒ・アドルフ・フォン・グリュマー中将に対しては、「麾下師団によりディジョン南方で活動を再開した仏軍を直ちに駆逐せよ」と命じます。グリュマー将軍は当初17日行動開始と命じられますが、ディジョン周辺に散って展開している諸隊を再配置して攻撃隊を編成しなくてはならなかったため、1日の猶予をヴェルダー軍団長に請い、許されて18日早朝の出立を命じられたのです。


※予備第4師団はこの時、オストプロイセン後備混成歩兵第1「第1/第3」連隊よりティルジット後備大隊とインスターブルク後備大隊を引き抜いてベルフォール包囲陣に向けて出立させました。同師団は最大時(12月末)に歩兵7個大隊・騎兵1個中隊・砲兵1個中隊をベルフォール包囲網へ送り込みます。

※12月21日以降のベルフォール包囲網参加の予備第4師団諸隊

<>内日付は配置開始日

指揮官 エミール・ユリウス・フォン・トレスコウ少将(予備騎兵第4旅団長)

◯ オストプロイセン後備混成歩兵第3「第43/第45」連隊

・レッツェン後備大隊<11/17~>

・ゴールダプ後備大隊<11/21~>

・ダンツィヒ後備大隊<11/26~>

・マリーエンブルク後備大隊<11/26~>

◯ オストプロイセン後備混成歩兵第1「第1/第3」連隊

・グンビンネン後備大隊<11/20~>

・ティルジット後備大隊<12/20~>

・インスターブルク後備大隊<12/21~>

*予備槍騎兵第3連隊第3中隊<11/3~>

*師団「混成」砲兵大隊・予備軽砲第4中隊<11/21~>


※ベルフォール派遣部隊以外の普予備第4師団戦闘序列

 師団長 フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュメリング少将

◇ 師団「混成」歩兵旅団

◯ 第25「ライン第1」連隊

◯ オストプロイセン後備混成歩兵第2「第4/第5」連隊

・オステローデ後備大隊

・オルテスブルク後備大隊

・グラウデンツ後備大隊

・トールン後備大隊

◇ オストプロイセン後備歩兵旅団

◯ オストプロイセン後備混成歩兵第1「第1/第3」連隊

・ヴェーラウ後備大隊

◇ 予備騎兵第4旅団

◯ 予備槍騎兵第1連隊

◯ 予備槍騎兵第3連隊(第3中隊欠)

◇ 師団「混成」砲兵大隊

・軽砲第1,2,3中隊、重砲第1,2中隊

◇ 第7軍団要塞工兵第2中隊

(歩兵8個大隊・騎兵7個中隊・砲兵5個中隊30門・工兵1個中隊)

ベルフォール攻囲に関しては別章にて後述します。


☆ ニュイ(=サン=ジョルジュ)の戦い(12月18日)


 18日黎明時。まずはディジョン南方で西側コート=ドール山地への入り口となる要衝・ニュイ=サン=ジョルジュ(ディジョンの南南西21.6キロ)を目指すBa師団は、ディジョン守備にBa第3旅団と騎兵4個中隊・砲兵3個中隊を残留させた後、数個縦隊に分かれて行軍を開始しました。戦闘部隊はBa第1と第2旅団を中核に、騎兵7個中隊と砲兵6個中隊が同行し、軍団長のフォン・ヴェルダー将軍も本営側近幕僚を引き連れ本隊と共にソロン=ラ=リュ(ディジョンの南11.2キロ)~エペルネ=ス=ジェヴレ(同南15.7キロ)を通過する行軍路で進みました。


※12月18日Ba師団の行軍序列

◇本隊(大公子ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フォン・バーデン中将/Ba第1旅団長)

  ロンヴィック(ディジョンの南南東4.3キロ)~ソロン=ラ=リュ~エペルネ=ス=ジェヴレを経由してニュイ=サン=ジョルジュへ

*本隊前衛(男爵カール・ゲオルク・グスタフ・フォン・ヴィルリゼン大佐/Ba騎兵旅団長)

◯Ba擲弾兵第1「親衛」連隊

◯Ba竜騎兵第1「親衛」連隊・第3中隊

◯Ba野戦砲兵連隊・軽砲第3中隊

◯Ba工兵中隊の1個小隊


挿絵(By みてみん)

ヴィルリゼン


*本隊主力(大公子ル・ヴィルヘルム・フォン・バーデン将軍直率)

◯Ba擲弾兵第2「プロシア王」連隊

◯Ba第3連隊・第2、F大隊

◯Ba竜騎兵第1連隊・第1,5中隊

◯Ba竜騎兵第2「マルクグラーフ・マクシミリアン」連隊・第2,3,5中隊

◯Ba野戦砲兵連隊

・重砲第1,2,3,4中隊

◯Ba工兵中隊の3個小隊

◇支隊(男爵アルフレッド・エミール・ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・デーゲンフェルト少将/Ba第2旅団長)

*左翼縦隊(ウンガー少佐/Ba第3連隊第1大隊長指揮) ヴージョ(ディジョンの南南西17.1キロ)を経てボーヌ本街道(現・国道D974号線)を前進

◯Ba第3連隊・第1大隊

◯Ba竜騎兵第1連隊・第2中隊の1個小隊

*中央縦隊(アルノルト中佐/Ba第4連隊第1大隊長指揮) コート=ドール山地の東端沿いに南下しコンカール(ヴージョの西南西3.6キロ)を経て前進

◯Ba第4「ヴィルヘルム親王」連隊・第1大隊

◯Ba竜騎兵第1連隊・第2中隊の2個小隊

*右翼縦隊(デーゲンフェルト将軍直率) キュルレ(ヴージョからは北西へ5.2キロ)を経てヴィラール=フォンテーヌ(同南西6.3キロ)に向けて前進

◯Ba第4連隊・第2、F大隊

◯Ba竜騎兵第1連隊・第2中隊の1個小隊

◯Ba野戦砲兵連隊・軽砲第4中隊


◇ディジョン守備残留(フランツ・アントン・ケラー少将指揮)

*Ba第3旅団

◯Ba第5連隊

◯Ba第6連隊(第2大隊・欠)

*Ba竜騎兵第3「カール親王」連隊

*Ba野戦砲兵連隊

・軽砲第1,2中隊

・騎砲兵中隊


挿絵(By みてみん)

グリュマー(Ba師団長)


 Ba師団が目指すニュイ=サン=ジョルジュは世界的に名高いブルゴーニュワインの生産地で、ディジョンから南仏リヨンまでの地域は別名ワイン街道とも呼ばれる名産地(ボジョレーもこの地域)です。特に北端のこのコート・ドゥ・ニュイと呼ばれる地区には、北からマルサネ(=ラ=コート)、フィクサン、ジュヴレ=シャンベルタン、モレ=サン=ドニ、シャンボール=ミュジニー、ヴージョ、ヴォーヌ=ロマネ、ニュイ=サン=ジョルジュとワイン通が聞けば垂涎のワイン(特に赤)生産地が続きます。これから記す戦闘でも、これら名産地が戦場となり、ボーヌへの本街道、特に西側コート=ドールの山地へ広がるブドウ畑も格好の遮蔽や障害物として両軍が蹂躙してしまい、厳冬期で収穫時でなかったことがせめてもの救いとなったのです。


挿絵(By みてみん)

ニュイ郊外のブドウ畑とワイナリー(20世紀初頭の絵葉書)


 このディジョン南方の地で活動していたのは、オータンの戦いでも活躍したカミーユ・クレメー将軍率いるリヨン周辺からやって来た師団クラス約1万名(欄外に戦闘序列を記します)で、ヴォージュ軍と連携してボーヌからディジョンの間に布陣していました。

 クレメー将軍は当時30歳と若く、戦争がなければ砲兵部隊に勤務する世間では無名の一大尉だったはずです。独仏国境サルグミーヌで生まれた彼はサン=シール士官学校を卒業すると歩兵連隊の少尉を始めに胸甲騎兵連隊、竜騎兵連隊と騎兵士官として勤務、中尉に進級します。24歳でメキシコ出兵に参加、ズアーブ連隊で頭角を現し、2年後早くも大尉に昇格して仏に帰還します。普仏戦争前には砲兵連隊に勤務し、若手の将来有望な士官として中央にも知られ始めます。そんな折に戦争が始まり、クレメーはメッスで戦い、最終段階で包囲脱出に成功すると国防政府派遣部のあるトゥールに現れてガンベタの知顧を得ると、士官不足もあって一気に准将に昇格しました。その後南仏リヨンに派遣された将軍はソーヌ沿岸で徴募を行い、正規軍の補充・後方部隊(マルシェ部隊)を中核として1万6千名の師団編成に成功し、少将に戦時昇級するとワイン街道を北上してディジョンを目指したのでした。


挿絵(By みてみん)

クレメー


 この日、クレメー将軍はディジョン南方に斥侯と少数の前哨を置いていた他、ニュイ=サン=ジョルジュの東にマルシェ第32連隊、南郊外にマルシェ第57連隊を展開させ、市街と鉄道切通付近には第2旅団(ローヌ県の諸隊)の一部を置き、西郊外の高地に砲兵隊を、更に西のコート=ドール山中にローヌ県の集団を置いて独軍の前進に備えていたのです。


挿絵(By みてみん)

ニュイの市場広場で防衛計画を練るクレメー将軍と幕僚たち


 ヴィルリゼン大佐率いるBa師団本隊前衛はソロン=ラ=リュにいた仏クレメー師団の前哨を駆逐して南下、ヴージョの東側で仏前衛部隊と衝突して少時戦闘後、後退する仏軍を追撃してボンクール(=ル=ボワ。ニュイの東3.3キロ)の北で本格的戦闘に入りました。スージエールの森(ボンクール東に広がる森)中央にある伐採地に砲を敷いたBa前衛の軽砲第3中隊はボンクール部落を砲撃し、午後12時30分、この援護射撃を受けてBa擲弾兵第1連隊の連隊長・男爵カール・ハインリヒ・ルドルフ・フォン・ヴェマール大佐はF大隊を直率して部落へ突撃を敢行し、仏の守備隊をシャトー・ドゥ・ラ・ベルシェール(城館風の農場。ニュイの東2キロ。現存します)とニュイの東郊外を走るボーヌへの鉄道の切通へ駆逐し、部落を占領したのです。この時、北方からラ・ベルシェール農場に接近したBa擲弾兵第1連隊第2大隊は、ちょうどボンクールから追撃に出たF大隊の2個中隊と共に農場を襲撃し、立て籠っていた仏兵を鉄道切通方向へ追い払うのでした。


挿絵(By みてみん)

ベルシェール農場から脱出する仏マルシェ第32連隊兵


 この鉄道切通(ニュイ中心部から北東へ1.3キロ付近)には、ボンクールや北方から撤退して来た前哨、そしてニュイ市街から出撃した諸隊が散兵壕代わりに布陣し、ニュイ市街西郊外の高地には砲兵数個中隊が布陣しており、ラ・ベルシェール農場が占領された直後からBa師団諸兵に向けて激しい砲撃を開始しました。対するBa師団はボンクール~ニュイ街道(現・国道D116号線)の両側に本隊の砲兵5個中隊全てを順次集合させて、鉄道切通の仏軍散兵線に向けて砲撃を開始します。Ba擲弾兵第1連隊の第2大隊はこの援護射撃を受けてラ・ベルシェール農場を越えて鉄道切通に向かいましたが、農場の先(西側)は鉄道切通までの約1.2キロに渡って全く遮蔽物もなく平坦(現在ローカル飛行場の滑走路がちょうど農場から鉄道切通付近まで走っています)で、切通縁からの猛銃撃と高地からの砲撃がBa兵の突撃を阻止してしまうのでした。

 この時、Ba師団本隊左翼(南)では、Ba擲弾兵第1連隊の第1大隊が仏軍の散兵を蹴散らしつつアジャンクール(ボンクールの南西1.5キロ)を占領し、ここから西側ニュイの南東郊外でムザン川(コート=ドール山地南部を源流にニュイの南を南西方向へ流れてソーヌ支流ドゥーヌ川に注ぎます)川岸までに展開する強力な仏軍右翼に対し突撃を敢行しましたが、これも猛烈な銃砲撃によって阻止されてしまいました。


挿絵(By みてみん)

ニュイの戦い ムザン川の橋で戦うマルシェ第57連隊


 膠着状態となりつつあった午後2時、Ba師団本隊主力がボンクールに到着し、師団長のフォン・グリュマー将軍は直ちにBa擲弾兵第2連隊を戦線に投入します。同連隊第1、2大隊はボンクール~ニュイ街道で戦う第1連隊第2大隊の増援として、F大隊はアジャンクールまで前進し第1連隊第1大隊の増援として各々仏軍と戦い始めました。グリュマー将軍はこれらBa擲弾兵たちにニュイへの総攻撃を命じたのです。直後、Ba第3連隊の第5,6中隊が前線に投入され、この2個中隊は前線右翼「ラ・ベルシャール農場」側散兵線を更に北へ延伸し、同時に本隊のBa竜騎兵5個中隊は逆側左翼「アジャンクール」方面でカンセ(アジャンクールの南2キロ)へ前進してボーヌ方面からの仏増援を警戒しました。

 しかし、Ba師団本隊が全力を発揮しても戦線は膠着状態に陥り、周囲が平坦で見通しの良いニュイ北方の鉄道切通は、東西両側からのBa師団接近を損害無くしては適わない状況を作り出していました。Ba師団側では西側を進むデーゲンフェルト将軍らのBa第2旅団到着を待って両面からの合撃を計りたいところでしたが、どうやらデーゲンフェルト将軍の縦隊も山地の中で敵と衝突した様子(後述)で、夜までに何とかニュイを抑えたいと考えたグリュマー将軍はBa第1旅団長のヴィルヘルム親王に対し、右翼からの増援を待たず本隊だけで鉄道切通の即時制圧を命じるのでした。


 命令を受けたBa大公子ヴィルヘルム親王は本隊のBa擲弾兵を主力とする右翼(ここでは北)前線にあった諸隊の先頭に立ち、猛烈な銃火を浴びせる仏クレメー師団数千名が肩を並べて待ち構える鉄道切通(ニュイ市街の東郊外から北へおよそ1,200mに渡って直線上に続きます。当時とほぼ同じ形状で現存します)に向かって突撃を号令したのです。

 この千名を越えるBa将兵の一斉突撃は悲惨な接近戦となりました。突撃では馬上で諸隊を鼓舞していた多くの高級士官が銃弾を受けて負傷し、ヴィルヘルム親王は頬を銃弾が掠めて倒れ、グリュマー将軍も負傷し後送されます。グリュマー将軍に代わっては本隊に追従しボンクールに至ったフォン・ヴェルダー大将が、ヴィルヘルム親王に代わってはBa擲弾兵第2連隊長カール・フリードリヒ・ヨセフ・フェルディナント・フォン・レンツ大佐が指揮を採り、攻撃は休まず続きます。しかし、部下と共に最前線にあったレンツ大佐は指揮を代わった直後に3発の銃弾を浴びて壮絶な戦死を遂げてしまい、Ba擲弾兵第1連隊第1大隊長の男爵フォン・ゲンミンゲン少佐もまた銃弾を浴びて重傷を負い、その後亡くなってしまうのでした。

 それでも犠牲を厭わず鉄道切通に接近したBa諸隊は、頑強に抵抗を続ける仏軍将兵に対し絶え間なく銃撃を浴びせ、一部では銃剣白兵戦となりますが、午後4時頃、遂に戦線の一角が崩れて仏軍散兵線が浮足立ち、Ba将兵は鉄道切通に雪崩を打って飛び込みました。仏軍は一気に壊乱状態となって南側ニュイ市街と西側コート=ドール山地に向けて潰走し、Ba擲弾兵第2連隊のF大隊は敗走する仏兵の背中を見続けながら鉄道上を市街南に向けて急進しますが、市街南郊に構えていた仏軍に阻止され、市街への突入は適いませんでした。


挿絵(By みてみん)

ニュイの戦い(サン=ベルナール跨線橋)


 Ba歩兵の前進に従い後方から進んだBa重砲第1中隊は、銃撃を浴びて損害を受けつつも前進を強行し、鉄道を越えて市街地から600mまでに接近して砲列を敷きニュイ市街で右往左往する仏軍を砲撃します。Ba軽砲第3中隊はBa第3連隊のF大隊と共に制圧された鉄道切通際まで進み砲を並べたのでした。

 これらBa砲兵の集中砲火と接近しながら銃撃を行うBa歩兵諸大隊の圧を受け、市街の仏将兵は次第に追い込まれて動揺が広がり、迫るBa諸隊に最後の銃撃を浴びせた後、午後5時、陣地から西と南へ撤退して行きました。しかし、西側高地に構えた仏砲兵隊はなおも長時間、夜陰が広がった後も砲撃を続行したのです。


挿絵(By みてみん)

鉄道を越えてブドウ畑で戦うバーデン擲弾兵


 この日ボーヌへの本街道上をヴージョ目指して前進していたウンガー少佐率いる支隊左翼縦隊は、ジュヴレ=シャンベルタン(ヴージョの北5.4キロ)で前哨任務にあった仏軍の2,3個中隊と短時間戦闘を交え、仏軍が撤退した後を追って街道上を急進し、この仏軍がヴージョを越えてヴォーヌ=ロマネ(同南南西2キロ。高名なワインのロマネコンティはこの地のワイナリーです)で止まった後もこれを無視してニュイへ急ぎ、鉄道切通の戦闘後半に参戦して仏軍撤退に貢献しました。ヴォーヌ=ロマネの仏軍も鉄道切通から仏軍が撤退した後、部落を放棄して消え去るのでした。

 このウンガー隊の一部は更に西を並進していたアルノルト中佐率いる縦隊と連絡し、ちょうど切通の戦闘後にニュイ北西郊外に到着しました。アルノルト中佐らは市街へ突入する本隊と同調して市街へ突入します。

 一方、キュルレを通過して進んだデーゲンフェルト将軍率いる縦隊は、目標としたヴィラール=フォンテーヌで仏クルメー師団の強力な一隊が構える陣地帯と衝突し、堅い護りに突破には兵力不足と踏んだデーゲンフェルト将軍は諦めて転向し、砲兵を含む仏軍を見かけたショー(ニュイの西南西3.5キロ)周辺の高地へ突進しましたがこれもニュイから引き上げた部隊によって自然と増強されていたクレメー将軍に押し返され、山中の森林を抜けて夜までにペリニー(=レ=ディジョン。ディジョンの南南西6.7キロ)まで撤退しました。結局デーゲンフェルト隊はこの日、自隊左翼(東)を進んだ友軍と連絡することが出来なかったのでした。


挿絵(By みてみん)

障害多いブドウ畑を進むバーデン兵


 ニュイ市街を占領したBa師団諸隊はこの日の夜、西側高地のショーや南側のプルモー(ニュイの南南西3.1キロ)方面に対して警戒前哨を配置し、未だ捜索が終わっていない民家や農家を避けて市内の市場広場一帯に固まって宿・野営しました。市街へ入らなかった他の諸隊は、ラ・ベルシェール農場やアジャンクールの部落周辺で宿営します。

 この18日の「ニュイ(=サン=ジョルジュ)の戦い」では、Ba師団は900名以上*という大きな損失を被り、その多くは鉄道切通で発生しています。仏クレメー師団もまた戦死・負傷1,100名前後の大損害を受け、更には負傷者ではないおよそ650名の捕虜を出しました。また、クレメー師団はニュイ市街に数百挺の新品の小銃と多くの弾薬を残し、Ba師団を喜ばせたのでした。


挿絵(By みてみん)

ニュイ市街で戦うローヌ県護国軍部隊


※「ニュイ(=サン=ジョルジュ)の戦い」におけるBa師団の損害

*戦死/士官18名・下士官兵211名・馬匹55頭

*負傷/士官37名・下士官兵656名・馬匹27頭

*行方不明(捕虜)/下士官兵18名

合計 士官55名/下士官兵885名/馬匹82頭


挿絵(By みてみん)

ニュイのバーデン親衛擲弾兵1870.12.18(C.レヒリング画)

挿絵(By みてみん)

ニュイ北方鉄道切通・サン=ベルナール跨線橋(20世紀初頭)




ニュイ=サン=ジョルジュ周辺図

挿絵(By みてみん)



☆ 仏クレメー師団戦闘序列


師団長 カミーユ・クレメー少将

参謀長 プーレー大佐

砲兵部長 カム少佐

工兵部長 ルモール大尉


◇第1旅団 旅団長グラジアニ中佐

◯ジロンド県の護国軍・1個大隊

◯マルシェ第32連隊(3個大隊)

◯マルシェ第57連隊(3個大隊)


◇第2旅団 旅団長セレー大佐


挿絵(By みてみん)

セレー


◯ローヌ県の護国軍第1レジオン(集団/3個大隊)

◯ローヌ県の護国軍第2レジオン(集団/3個大隊)

◯ローヌ県のエクレルール猟騎兵3個中隊

◯ローヌ県のエクレルール兵1個中隊


◯砲兵3個中隊(各種砲18門)


挿絵(By みてみん)

ニュイ=サン=ジョルジュの1870年12月18日記念追悼碑


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