12月中旬・ジアン方面と第7軍団
独第二軍司令官・フリードリヒ・カール親王元帥は「(第1次)ヴァンドームの戦い」後の12月18日にオルレアンへ帰還しますが、到着直後一足先にオルレアンへ帰っていたバイエルン王国(B)第1軍団長ルートヴィヒ・フォン・ウント・ツー・デア・タン=ラートザームハウゼン歩兵大将から「ジアン(オルレアンの南東59.5キロ)付近に現れた敵はシャルル・ブルバキ将軍が率いていると言われる第1ロアール軍配下ではなく遊軍と化した部隊や落伍兵の集団と考えられ、ジアンとブリアール(ジアンの南東9.5キロ)間に防御態勢を構築しているだけのようだ」との報告を受けます。カール王子は早々にオルレアンが攻撃されることはないと信じ、オルレアン周辺に集合した諸隊が安心して「クリスマス休暇」を取り補充・修繕を行えるよう差配するのでした。
これにより、B第1軍団はオルレアン市内に駐留、独第3軍団は1個旅団を市内に置くと残りはオルレアン西郊からロアール川に沿ってボージョンシー(オルレアンの南西24.5キロ)までに分散宿営し、独第9軍団はオルレアン東郊外からロアール上流に向けてシャトーヌフ(=シュル=ロアール。同東23.9キロ)までの間に分散宿営するのです。
ジアン方面の監視も請け負う独第9軍団は、仏ブルバキ軍がパリに向けて遡るルートとして有力視されていたロワン川(ジアンの東南東47キロ付近を源流にサン=ファルゴー~ブレノー~モンタルジ~ヌムールを経てフォンテーヌブローの東でセーヌに注ぐ支流。ロアール川とはブリアールで運河により連絡されます)流域に一支隊*を送り、指揮を執る独騎兵第25「ヘッセン大公国(H)」旅団長の男爵ヘルマン・カール・ディートリヒ(フリードリヒ)・フォン・ランツァウ少将(開戦時は騎兵第3師団付き。グラヴロット戦後のマース軍創設時に現職。ヘッセン軍人ではなく普軍人です)は主力をモンタルジに置いて警戒を強めました。元よりジアンを監視していたB軍支隊*は独驃騎兵第16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊が加わり、ウズーエ(=シュル=ロアール。ジアンの北西14.5キロ)に留まり、ランツァウ支隊の援助を行いました。
ランツァウ
※ランツァウ支隊
○H第2連隊(2個大隊制)
○Hライター騎兵第2連隊
○H軽砲第1中隊(クルップ4ポンド砲6門)
※ウズーエ在「レオンロード」支隊
○B親衛連隊・第1、2大隊
○独驃騎兵第16連隊
○Bシュヴォーレゼー第3連隊・第1,2,3中隊(驃騎兵の到着直後にオルレアンへ向かいます)
更にカール王子は配下に残った独騎兵第6師団を分割させ、騎兵第15旅団を再びソローニュ地方(オルレアンの南ビエルゾンまでと西はジアン・東はブリアールまでの森林が目立つ地方)へ送って巡視警戒させました。以前より同地域を巡回していた独槍騎兵第4「ポンメルン第1」連隊(騎兵第1師団所属)の斥候たちは度々仏の義勇兵中隊に遭遇しており、カール王子にとって未だソローニュ地方は大いなる不安材料だったのです。
なお、11月から12月に掛けて目まぐるしく展開した戦況のため、独軍の騎兵師団は正に右往左往の状態で、騎兵と馬匹の負担もまた大きなものがありました。このため、独ベルサイユ大本営は12月19日、騎兵たちの労苦を軽減するための一策として、独騎兵第6師団に所属する騎兵連隊の配置転換を命じ、これは主に第二軍傘下の歩兵師団に属する各騎兵連隊を騎兵師団に、騎兵師団傘下の各騎兵連隊を歩兵師団にそれぞれ配置転換させると言うもので、これは歩兵に合わせた「速度」で行軍し戦闘でも比較的後方待機が多かった歩兵師団所属騎兵を、逆に長駆行軍し広範囲の斥候・敵地浸透や追撃任務も多かった騎兵師団所属部隊と交換することで少しでも労苦を平等にする意味があったのです。
独騎兵第6師団では騎兵第14旅団所属の胸甲騎兵第6連隊が歩兵第6師団に、槍騎兵第3連隊は歩兵第5師団にそれぞれ配置転換となり、騎兵第15旅団所属の驃騎兵第16連隊は歩兵第18師団に配置転換されます。それまでこれら歩兵師団に属していた騎兵連隊は、竜騎兵第6連隊が騎兵第14旅団に、竜騎兵第2と竜騎兵第12連隊が騎兵第15旅団に移籍となりました。
※12月20日以降に異動となった独第二軍騎兵連隊(*印。○印は以前のまま)
◇独騎兵第14旅団
*竜騎兵第6「マグデブルク」連隊(第18師団より)
○槍騎兵第15「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊
◇独騎兵第15旅団
*竜騎兵第2「ブランデンブルク第1」連隊(第6師団より)
*竜騎兵第12「ブランデンブルク第2」連隊(第5師団より)
○驃騎兵第3「ブランデンブルク/ツィーテンの驃騎兵」連隊
◇第5師団
*槍騎兵第3「ブランデンブルク第1/ロシア皇帝」連隊(騎兵第14旅団より)
◇第6師団
*胸甲騎兵第6「ブランデンブルク/ロシア皇帝ニコラス1世」連隊(騎兵第14旅団より)
◇第18師団
*驃騎兵第16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊(騎兵第15旅団より)
※これまで騎兵3個連隊旅団だった騎兵第14旅団が2個連隊、騎兵2個連隊旅団だった騎兵第15旅団が3個連隊に変更となりました。また、異動した騎兵連隊が異動先の部隊と同郷となる点も大きかったと思えます。具体的には第3軍団(第5、6師団)がベルリンを中心とするブランデンブルク地方、第18師団はシュレスヴィヒ=ホルシュタイン地方が策源地のため、歩兵や砲兵と同郷となります。また騎兵第14旅団へ異動したマグデブルク竜騎兵の原隊である第18師団はシュレスヴィヒ=ホルシュタインの他マグデブルクの諸隊も編入されており、違和感はなかったと思います。同じく騎兵第15旅団はご覧の通り全てブランデンブルク州の部隊となりました。
反抗した住民を連行する独槍騎兵
9月にラン(Laon)で重傷を負い長期療養を余儀なくされていた独騎兵第6師団長でメクレンブルク=シュヴェリーン大公の弟君――浮世離れしたある種の変人で「メクレンブルクの黒羊」「シュナップス殿下」等と陰口を叩かれつつも社交界や将兵から大人気だったヴィルヘルム親王騎兵中将ですが、「全快した」と称してクリスマス当日オルレアンへ現れます。親王はカール王子から一兵卒に至るまで大歓迎されて騎兵第6師団長に復帰し、それまで留守を預かっていたフォン・シュミット少将は喜んで元の地位・騎兵第14旅団長に戻るのでした(しかし既述通り親王は傷から入った破傷風菌による後遺症に苦しみ、後年手術を行いますが甲斐なく亡くなっています)。
独大本営はオルレアン西側の第2ロアール軍同様南方に去った第1ロアール軍の動向も大いに気にしており、12月22日、カール王子に対し「ブルバキ軍の情勢を探るためジアンを越えて(東と南に)強行偵察隊を送るよう」要求するのです。
しかし同時にカール王子は「B第1軍団をエタンプ(オルレアンの北北東62.2キロ)まで送り、第二軍(とパリ包囲網)の総予備とするよう」命令されました。この一見モルトケの大方針とは異なるオルレアンから兵力を分散させるような命令はB第1軍団の状態から発せられたもので、予想以上に「傷が深い」同軍団を完全に立て直すためには前線近くで「付焼刃」的に補充・休養を行うのではなく、後方で数ヶ月に渡って補充修復(人馬・被服・武器・装備一切)の必要があり、また補充兵を多数受け入れるため一定期間錬成を行う必要もある、とのモルトケの判断でした。
フォン・デア・タン大将は一生忘れ得ない土地となったオルレアンから24日のクリスマスイブに麾下を引き連れエタンプに向かい出立します。
このB第1軍団は他にもメクレンブルク=シュヴェリーン大公軍やジアン監視に支隊を派出していましたが、これら部隊もやがて本隊復帰を目指して任地を離れることとなりました。
大公軍に派遣されていた軍団長弟のフーゴ・フォン・デア・タン少将率いるB第4旅団他砲兵たちは、22日に帰還命令を受け取ってシャルトル近郊からオルレアンに向かいました(既述)。ジアン監視の後ウズーエ(=シュル=ロアール)にあった男爵アウグスト・フォン・レオンロード大佐率いる支隊の内、シュヴォーレゼー(軽)騎兵の3個中隊は独驃騎兵第16連隊の到着後直ちにオルレアンへ帰還し、残った歩兵2個大隊はブリアールに向けて強行偵察に出るランツァウ将軍に従うこととなりましたが、これも中止命令が出されたためB親衛連隊の2個大隊は26日にエタンプに向けて出発しました。
ランツァウ支隊は25日、命令通りジアン南方への偵察を実行しようと活動を開始し、モンタルジからブリアールに向けて動き始めます。将軍がブリアール市街へ接近すると、既に仏軍の姿は市街前面に築かれた陣地帯から消えており、独軍が住民を尋問した結果、仏軍守備隊は22日に南東方向へ撤退したとのことでした。その後ブリアールからロアール沿岸を南へ進んだある士官斥候は、「ボニー(=シュル=ロアール。ブリアールの南東11.5キロ)部落内で住民から銃撃を受けた」と報告を上げ、これは付近に仏軍か有力な義勇軍が存在する証拠でもありました(仏の市民は過激な共和左派が支配する土地で無い限り、付近に味方の軍勢がいない場合は概ね「大人しかった」といいます)。
クリスマス以降の数日間、ランツァウ将軍はこのボニーを占領して更に南方ヌベールへの街道(現・国道D2007~D907号線)に沿って複数の斥候偵察隊を放ちますが、これらの斥候たちは護国軍や義勇兵の集団と度々遭遇し短時間の戦闘を繰り広げるのです。
この仏護国軍と義勇兵の集団は29日、ランツァウ将軍のボニー先遣隊がブリアールへ引き上げる際に激しい闘志を見せて追撃を行い、あわよくば包囲殲滅を計るかのような積極的行動を見せた後に南へ去り、31日には再びボニーに向けて前進を計ったH第2連隊の1個中隊に対しヌベールから北上したと思われる新たな仏軍部隊が出現し、強行偵察に出たこのH中隊はボニー占領を諦め本格的戦闘を避けてウッソン(=シュル=ロアール。ブリアールの南東6.6キロ)まで下がります。追撃する仏軍迎撃のためブリアールを発したH増援はヌベールへの鉄道線・ウッソン停車場の傍らで仏軍と対戦し、暫くは銃撃戦が続きましたが数で勝る仏軍側が数個大隊で独軍左翼(北東方向)に突進すると、独軍は包囲を避けてブリアールまで一気に退却したのでした。
ブリアールでは敵襲来の報を受けたランツァウ将軍が支隊の殆ど全てを動員して部落死守を計ります。ブリアールには数日前から独第二軍の兵站総監部に属し後方連絡線の守備に就いていた後備歩兵「デトモルト」大隊の2個中隊が増援として派遣されており、ランツァウ将軍はこの増援も得た事で何とか仏軍の攻撃を防いで市街を死守することが出来るのでした。結果仏軍は一旦ブリアール攻略を諦め、南方に下がりますが郊外で宿営に入り、1月1日の午後2時になって再び攻勢に転じ、ブリアール東郊外の(ロワン川に向かう)運河を渡るとジアンに通じる街道(現・国道D957号線)を抑え、ランツァウ支隊の退路を断とうと突進して来ました。対するランツァウ将軍はH第2連隊の2個中隊を前進させ対戦し、仏軍を撃退する事に成功します。将軍は「これ以上援軍も期待出来ない状況でブリアールに拘るとやがて優勢な敵に包囲殲滅される」と感じ、全部隊をジアンに向けて後退させました。ランツァウ支隊の後退中、仏軍は追撃も短距離だけで満足しブリアールに留まります。
ランツァウ支隊がこの期間(12月25日から1月1日)に被った損害は戦死18名・負傷41名・行方不明8名・馬匹11頭で、この内12月31日1日で合計52名の損害を受けています。仏軍側は不詳です。
こうしてB軍諸隊がロアール沿岸から去った後、活発な行動を始めたように見えるブルバキ将軍と、ル・マン周辺に集合して復活を期すような動きを開始したシャンジー将軍ですが、前述通りこれはベルサイユ在の独大本営も大いに気に病む状況でした。12月20日前後に掲載された欧州列国主要新聞の特派員記事や、戦争中であっても(勿論包囲下のパリでも)盛んに発行されている仏国内の新聞記事、そしてソローニュ地方で捕縛した捕虜や郵便配達の御者などからの聴取で「ブールジュから仏軍の大部隊がシャロン=シュル=ソーヌ(ブールジュの東南東189キロ。ディジョンの南に当たります)に向けて出発した」との情報を得ていたベルサイユ大本営でしたが、第二軍本営からの報告によりブリアールにおける顛末を聞かされたモルトケ参謀総長ら参謀本部首脳陣は、「シャンジーばかりでなくブルバキも第二軍に対する本格的な対敵行動を開始した」と確信し、ブルバキ将軍の東への動きは陽動で、実はジアン方面からロワンを遡りパリ方面へ進むのでは、という従来からの「悪夢」が現実となったのではないか、と疑うのでした。実際、とても敗残兵や義勇兵の寄せ集めには見えなかったランツァウ支隊を襲ったブリアールの仏集団ですが、実はブルバキ将軍の第1ロアール軍麾下第18軍団に属する護国軍将兵数千名(連隊規模)と海軍歩兵数個中隊が基幹となり、砲兵2個中隊も同道していたことが捕虜などの言から判明するのです。
折しもソローニュ地方を巡回していた独竜騎兵第12連隊(猟兵第3大隊第2中隊の3個小隊と野戦砲兵第3連隊騎砲兵第2中隊の1個小隊が同道していました)は、28日にオルレアンへ帰還するとカール王子に対し「本日28日、仏軍の大部隊が数個縦隊を作ってオービニー=シュル=ネール(ブールジュの北45.3キロ)付近を北進中」との報告を上げました。この報告も電信にて素早くベルサイユに届けられ、モルトケらは「ヴァンドーム西方とジアン両方面において活発となった仏軍の様子から、この2つのロアール軍の目的はル・マン及びブールジュを発起点とするパリへの同時進撃である可能性が高まった」と考えるのでした。
対する独第二軍は現在オルレアンに主力を置き、その両翼で敵との接触を維持しており、これは軍事で言うところの「内線」状態となります。
モルトケ戦術なるものは「外線」による「分進合撃」を得意とする、と思われますが、この状況は全くの逆で、モルトケやカール王子は皮肉にもナポレオン1世が得意とした内線が外線に対して有利となる「各個撃破」を行うことを迫られるのでした。
各個撃破はどちらの敵を先に叩くのかが悩みどころで、これを誤り撃破に失敗すると敵に包囲・合撃されてしまいます。敵の戦力が左右全く均等であれば、時間・地形・距離などを考慮して先に近い方を叩くのがセオリーとなりますが、その逆を行って敵の不意を突くのも魅力的な選択となるものです。しかし、この1970年の年末において常識的にどちらを先に叩くかは明らかでした。
この場合、外線にある敵(仏軍)が内線にあるオルレアン在の独軍を包囲殲滅しようする可能性は低く、これをスルーしてパリ救援に向かおうと考える可能性の方が高いと考えられ、この場合シャンジー軍は北上してペルシュ地方を抜けシャルトル~ドルー~マント=ラ=ジョリーの線上へ、ブルバキ将軍はソローニュ地方東端を抜けてジアン付近からロワン沿岸を北上しフォンテーヌブローからセーヌ沿いに北上することをそれぞれ夢見るはずです。
ここでモルトケが考えたのは実に現実的な作戦で、内線の利を活かして全兵力を挙げ「最も近くにあり最も危険である一方の敵」を急ぎ攻撃し、その撃破後にもう一方の「比較的遠くにあり危険も少ない」敵と対する、ということであり、パリの攻囲も最終段階となったことで、モルトケは南方からのパリ解囲の「芽」を完全に摘んでしまおうと考えたのでした。
1871年1月1日。独参謀本部は大本営とヴィルヘルム1世国王の名で第二軍に対し電信命令を発します。その主旨は「ロワール(Loir)川の西方にて貴軍と接触する敵に対しヴァンドームとイリエ=コンブレ(シャルトルの南西24.1キロ)から貴軍全力を挙げた攻勢を発起せよ」と言うもの(この発令時には第2次ヴァンドームの戦いの詳細は大本営に伝わっていません)で、同時にディジョンのヴェルダー軍、パリ包囲網東翼、そしてカール王子の第二軍の間を埋める役目を果たしているフォン・ツァストロウ将軍の独第7軍団に対し、「第二軍が西方に向かっている間、万が一ブルバキ将軍麾下の敵が北上しロワン川の渓谷に向かった場合、これを全力で阻止せよ」と命じるのでした。
☆独第7軍団
メッス開城後、ハインリヒ・アドルフ・フォン・ツァストロウ歩兵大将は独第7軍団を率いて12月中旬までに軍団本隊をシャティヨン=シュル=セーヌ(ディジョンの北北西69.2キロ)に、前衛をラヴィエール(シャティヨン=シュル=セーヌの西南西29.4キロ)に置きました。
この直後の12月16日、ツァストロウ将軍の下にロアール軍と戦うカール王子より書簡が届き「ジアンから北上する可能性のある仏ブルバキ軍阻止を手伝って貰えないか」との要請を受けます。同日には大本営より「オーセール(同西75キロ)に向かって前進し、カール王子軍左翼との連絡を取る」よう命じられ、将軍は急ぎ出立の準備に入りました(既述)。将軍は相応の守備隊をシャティヨン=シュル=セーヌに残すと翌17日、本隊*を引き連れてオーセールに向かって出発します。この本隊はトネール(オーセールの東北東30.5キロ)を経て進み、ラヴィエール在の前衛はノワイェ(同東南東33.5キロ)を経由して20日、前衛がオーセール郊外に達しました。この行軍中前衛はサン=シル=レ=コロン(同東南東13.8キロ)で、本隊はベーヌ(同東11.4キロ)でそれぞれ義勇兵中隊に遭遇しますが、直ぐに駆逐しています。また、オーセールやサン=ブリ(=ル=ヴィヌー。オーセールの南東8.2キロ)を守備していた少数の護国軍将兵もツァストロウ軍団によって駆逐されました。
過酷な行軍
※12月20日の独第7軍団(「ティオンビルとモンメディの攻囲」も参照願います)
*メジエール要塞攻囲中
○独第14師団と軍団砲兵の重砲第3,4中隊
*シャティオン=シュル=セーヌ守備隊
○歩兵2個大隊・予備槍騎兵第5連隊の2個中隊・砲兵2個中隊
*第二軍兵站総監部の要請でトロアとバル=シュル=セーヌ(それぞれシャティヨン=シュル=セーヌから北西に61.4キロ、32キロ)に派遣
○歩兵1個大隊
*行軍中守備隊残置を命じられニュイ(ラヴィエールの西隣。西南西1.1キロ)に
○歩兵2個中隊
○予備槍騎兵1個小隊
*行軍中守備隊残置を命じられシャブリ(オーセールの東17.1キロ)に
○歩兵1個中隊
○予備槍騎兵1個小隊
*オーセールに到着(以上諸隊以外の軍団残部)
○第13師団の歩兵8個大隊と1個中隊
○驃騎兵第8連隊(4個中隊)と予備槍騎兵第5連隊の1個半中隊
○野戦砲兵6個中隊
○野戦工兵1個中隊
このオーセールでは21日に独本土からやって来た独予備驃騎兵第1連隊がツァストロウ将軍麾下となりました。この連隊は12月11日の大本営命令で1個師団を欠く第7軍団への増援として送られたものでしたが、この時ロートリンゲン総督府で任務に就いていた第60「ブランデンブルク第7」連隊(第15師団)とティオンビル要塞やロンウィー要塞を監視していた第72「チューリンゲン第4」連隊(第16師団)も第7軍団へ異動となります。しかし第60連隊はアルザス総督府で、第72連隊は後備諸隊が「落ち着く」までメッス要塞警備に使用されてしまい、年末になってようやく第7軍団の任地へ行軍して来ました(後述します)。
こうしてオーセールに拠点を移したツァストロウ将軍でしたが、大本営やカール王子が再三に渡って要求する「モンタルジ(オーセールからは北西へ66.5キロ)方面で第二軍の最左翼部隊と連絡しジアン方面に対する」ことは中々の難問でした。それはオーセールを流れるヨンヌ川の西側からロアール川・ロワン川までの間の諸街道では、この地方住民や義勇兵などにより障害物の設置や堤路の切り崩し、橋梁の破壊、路面の損壊などが盛んに行われ、悪天候による積雪と泥濘も加わって行軍が甚だしく困難となっていたのです。実際11月中旬にこの地方をモンタルジへ進んだフォン・フォークツ=レッツ将軍の第10軍団も義勇兵や悪路に四苦八苦していました。ツァストロウ将軍はこの諸街道修繕を最優先として急ぎ工兵と歩兵を向かわせクリスマスの期間中も休まず奮闘しますが、その後年末が近付くにつれ、ブルバキ将軍の第1ロアール軍がブールジュやヌベールから「東方へ」向けて進んだことがはっきりとして来るのです。
このためベルサイユ大本営は方針を180度転換、ツァストロウ将軍に対し「フォン・ヴェルダー将軍の独第14軍団が仏ブルバキ軍とガリバルディ(ヴォージュ)軍によって合撃される可能性が生じ、ヴェルダー軍団を収容すること(セーヌ川方面への撤退)もあり得るため、貴軍団はシャティヨン=シュル=セーヌに向かって行軍し、ヴェルダー将軍に協力して敵を攻撃せよ」と命じたのです。
これによりツァストロウ将軍は麾下を率いて12月27日、オーセール周辺から再びシャティヨン=シュル=セーヌに向けて行軍を開始します。ところが本隊はシャブリ、一部はスラン川(オータンの北を源流にオーセールの北でヨンヌに合流する支流)に沿ってリスル=シュル=スラン(オーセールの南東40キロ)まで南下した後にセーヌ川上流へ向かいますが、29日、独第二軍がほぼ全力でル・マンの第2ロアール軍を攻撃することが決定されたため、第7軍団は再びヨンヌ、ロワン両川方面にも目を光らせなくてはならなくなりました。ツァストロウ将軍は30日、正式に変更命令を受けてアルマンソン川(ディジョンの西側を源流にニュイ~トネールを経てオーセールの北でヨンヌに合流する支流)の河畔で留まり、以降西側ロアール川方面か東側ソーヌ川方面いずれにも出撃可能なように待機するのでした。
☆ ラングル要塞
ラングル要塞のプラン図(18世紀)
パリへ続く河川・マルヌ川の源流地域となるオート=マルヌ県にある古都ラングル(ディジョンの北北東64キロ)は、この普仏戦争終盤に至るまで独軍占領地の中に取り残された「孤島」として仏軍支配下にありました。この「孤島」には所属も様々な正規軍兵・護国軍兵・国民衛兵・義勇兵など約12,000名の戦闘員がおり、独軍は攻略を後回しにしていました。
仏要塞都市の例に漏れずラングルも城塞都市建設の大家セバスティアン・ドゥ・ヴォーバンにより中世の城塞都市から攻城に対抗出来る近代要塞に生まれ変わっており、1857年に開通した仏東部鉄道会社のパリ~ミュルーズ線やディジョン線への鉄道分岐点シャランドレ操車場(ラングルの南東10.7キロ)を管制する重要な位置にありました。これは北北西31キロにあるオート=マルヌ県都で同じヴォーバン式要塞都市のショーモンがメッス陥落直後の11月上旬、独軍に完全占領された後もパリやオルレアンの戦線を支える独軍後方連絡線にとっては非常に厄介な存在で、独軍兵站総監部と占領地総督府はラングルを避けて連絡線を維持しており、また要塞都市から出撃を繰り返す仏守備隊の存在もあって早くこの障害を取り除いて欲しいと大本営の独軍首脳陣に願っていたのです。
シャランドレ操車場
ラングル要塞守備隊は騎兵上がりの予備役で当時66歳のピエール・アルベロ・ドゥ・ヴァクール准将が指揮を執り、前述通り積極的に出撃を繰り返していました。
この出撃はラングル守備隊(12,000名の半数は文字通りの烏合の衆で殆ど役に立たなかったとも言います)の主力となっていた仏正規軍・戦列歩兵第57連隊の補充部隊やオート=サヴォワ県の護国軍部隊等によるもので、12月だけでも5、6、8、9日と連続出撃し、ヴェルダー軍団の後方連絡線上となるコンボーフォンテーヌ(ラングルの東南東45キロ)、ショーモン近郊のノジャン(同北18.3キロ)、パリへ至るセーヌ鉄道が走るシャトーヴィレン(同北西36.3キロ)などが襲われました。
歩哨を襲って線路を破壊する仏義勇兵
このラングル要塞はディジョン在の独第14軍団長、伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルト・アウグスト・フォン・ヴェルダー歩兵大将が監視の責任を負っており、これまでも何度か要塞守備隊の実力を探るような強行偵察や攻撃を行って来ました。
11月末にガリバルディ将軍のヴォージュ軍によりディジョンを脅かされたヴェルダー将軍は12月1日、オータンで仕返しの攻撃を行った後再びヴォージュ軍とにらみ合いの状態となりますが、12月8日にベルサイユ大本営から「ラングル要塞の監視強化」を命じられ、麾下普予備第4師団の一部を、直前に襲撃されたコンボーフォンテーヌやシャンリット、ティル・シャテルなどに派遣してラングル方面を警戒します(既述。「オータンの攻防と普第7軍団の南下」参照)。
すると12月13日となってヴェルダー将軍宛に再びベルサイユ大本営から一通の命令書が届くのです。
「1870年12月8日 ベルサイユ大本営にて(ディジョン着・13日早朝)
敵ロアール軍は11月30日より12月4日に掛けてオルレアン近郊にて撃破され、その一部はロアールを渡河し南方に逃れ、また一部はトゥールに向かって退却した。ほぼ同時期にパリにおいて包囲網を突破せんとの敵パリ軍の企画も12月2日までに撃退されることとなった。
このため、今後貴官が行うべき任務は、ベルフォール要塞(アルザス地方南部)の攻囲を速やかに完遂するために攻囲部隊を援助し、ラングル要塞を孤立させ、ツァストロウ将軍と協働してカール親王殿下の第二軍及び皇太子殿下の第三軍が利用する後方連絡線の安全を担保し、同時にロートリンゲン及びランス総督府管轄の南部地方に騒擾が起きぬよう努めることにある。
ツァストロウ将軍に対してはシャティヨン=シュル=セーヌに向かい、ここを拠点に南西方向へ警戒線を延伸して、特にシャティヨン=シュル=セーヌ~ニュイ~トネール~ジョワニーまでの幹線鉄道線を防衛することを命じてある(注・この時点でツァストロウ将軍はヴェルダー将軍との共同作戦だけを命じられており、オーセールへの移動命令はこの命令後16日の事です)。
貴官とツァストロウ将軍の任務は、待機することではない。十分な兵力を準備して集合する敵軍に対し積極果敢に攻勢を仕掛け撃破することにある。元より我が軍が連絡・給養のために必要とする各地点を占領し続けることは言うまでもないことである。
本官(モルトケ)は貴官が特にラングル要塞の状況に留意することを望むものである。ベルサイユに到着したロートリンゲン総督府の報告によれば、彼の地はヌシャトー(ラングルの北北東60.8キロ)、ミルクール(同北東76.9キロ)、エピナル(同東北東90キロ)に至る連絡線への破壊活動の策源地となっている模様である。このような敵の妨害活動を看過する訳にはいかない。この件に関してはロートリンゲン総督(フォン・ボニン歩兵大将)と協議して対処を望む。おそらくはボニン将軍も麾下守備隊の一部を動員し後方連絡線の防衛を貴官と協働し達成するものと信じる。
ラングルは第二軍通過の際に一時攻囲を行う予定であったが、地勢と状況は頗る強襲に向いていたにも拘らず戦況によりこれを果たすことは出来なかった(ので、攻略は困難ではない)。
また本官はドール(ディジョンの南東42.7キロ)~アルク=エ=スナン(有名な製塩場があります。ドールの東南東22.7キロ)間周辺地域にも注意して貰いたい。この地域には今後貴軍団も進出する可能性があるだろう。貴官も推察するものと思うが、この地域を占領すれば、仏軍拠点ブザンソン(ドールの東北東43.3キロ)の後方連絡線を脅かし、またベルフォールへの救援が南仏から画策された場合、その輸送路であるリヨン方面からの鉄道線を直接攻撃することが可能となるからである。この作戦遂行時期に関しては現地にて貴官が敵の集合状況の他地方情勢をも考慮して決し、作戦は貴官の独断専行にて機会を失うことなく実行することを要する。
貴官が報告する通り、貴軍団の行動を扼するものは天候不良や地勢など自然環境のみにあらず、地方住民の敵対行動も看過出来ない障害である。従って、住民が武器を取って公然と反抗する、あるいは悪意を以て再三に渡り連絡路を破壊し通行を妨害するなど発生した場合、行動の軽重に関わらず貴官はその犯人の生命・財産に関して最も厳しい罰を下し、犯人が不明の場合は事件現場付近の全部落に対してその責任を負わせるよう命ずる。
その他細目に関しては貴官の独断において行動すべく委任するものである。
伯爵フォン・モルトケ
在ディジョン 第14軍団長歩兵大将フォン・ヴェルダー殿
(筆者意訳)」
敵対し武器を持つ仏軍人以外の人物(義勇兵を含みます)に対する厳しい対応は、既に9月時点で独上層部で決定され実行(即時軍事裁判による銃殺を含む厳罰対処)されていましたが、モルトケの名で個々に発令された文面でビスマルクシンパ呼ぶところの「盗賊」の対処に言及したのは、多分これが初めてではないかと思われます。それほどヴェルダー将軍らディジョン周辺の独軍部隊は義勇兵のみならず血気盛んな仏住民に手を焼いていたのでした。
反抗した夫婦を銃殺する独軍




