12月31日・第2次ヴァンドームの戦い
☆12月下旬の仏第2ロアール軍
仏第2ロアール軍司令官アントワーヌ・アルフレ・ユージン・シャンジー将軍は、12月15日の「(第1次)ヴァンドームの戦い」直後にル・マンへの総退却を命じ、麾下の第16、17、21軍団とカトリノー大佐にリポウスキー中佐が率いる義勇兵集団は各々西へ向かって撤退しました。この撤退行軍では秩序だった行軍を行うことが出来た部隊は少なく、殆ど潰走状態に陥った部隊が多くあって軍団や師団と言った単位はほぼ消失し、諸隊は多くの落伍兵や脱走兵を出しつつ比較的まとまっていた集団を率いる指揮官に従って雪原と泥濘そして空腹と疾病に苦しみながらもひたすら西へ進んだのです。
仏軍諸隊は撤退中、独軍の追撃隊や斥侯と接触し戦った部隊もありました(既述)が、概ね12月19日中にはル・マンの北から東、そして南のトゥール方面に到着しています。
19日における仏第2ロアール軍諸隊は、北はユイヌ河畔のコネレ(ル・マンの東22.6キロ)付近から南はロアール河畔のアンボアーズ(トゥールの東22.5キロ)対岸付近まで、北から南に向かってルソー将軍(第21軍団第1師団長)率いる集団、ジュフロワ=ダバン将軍(第17軍団第3師団長)率いる集団、クルタン将軍(のち第16軍団第3師団長)率いる集団、フェリー=ピザニ将軍率いる集団、バリー将軍(第16軍団第2師団長)率いる集団、コレ少佐(第21軍団の予備隊・15日頃にはトゥールにいました)率いる集団に分かれて宿・野営に入りますが、それぞれの集団は秩序回復と物資調達に精一杯で、互いに連絡を取り合って戦線を構築する余裕などあるはずもなく、そのままトゥール近郊での防御戦に突入してしまいました。
報告 ロアール軍の護国軍士官と兵士(ドゥ・ヌーヴィル画)
この戦闘が終わった22日、シャンジー将軍は諸軍団の秩序の回復に乗り出し、ル・マン方面で独軍を迎え撃つ態勢を構築するために諸隊の再配置を命じます。
※12月22日の命令による仏第2ロアール軍配置計画
○第21軍団 サルジェ(=レ=ル・マン。ル・マンの北東4.1キロ)からイヴレ=レヴック(同東5.4キロ)間に布陣
○第16軍団 ル・マン南部の重要な3本の街道、アンジェ~ラ・フレーシュ~アルナージュ~ル・マン街道(現・国道D323号線)、ル・マン~エコモワ~トゥール街道(現・国道D338~938号線)、ル・マン~パリニエ=レヴック~ル・グラン=リュセ街道(現・国道D304号線)の沿道に駐屯
○第17軍団 ル・マンの西郊外に宿営
*第1師団はコンリー兵営(ル・マンの北西20.3キロ)とル・マン~アランソン街道(現・国道D338号線)に沿ってサン=サトゥルマン(同北6.6キロ)までに駐屯
*第2師団はル・マン~ラヴァル街道(現・国道D357号線)沿道、ショーフール=ノートル=ダム(同西9.5キロ)までに駐屯
*第3師団はプリュイエ=ル=シェティフ(同西南西7キロ)とアロンヌ(同南南西5.5キロ)間に布陣
この22日、スジェ(ヴァンドームの西25.5キロ)に進んだ独第20師団の斥侯隊がバリー将軍率いる第16軍団第2と第3師団の前衛に撃退されています(既述)。バリー将軍の集団はロワール(Loir)川に沿ってブレイ川の合流点付近からラ・シャルトル=シュル=ル=ロワールにかけて展開していました。また、トゥールから西へ退避したクルタン将軍とフェリー=ピザニ将軍の集団はこの時、シャトー=ラ=ヴァリエール(トゥールの北西32.2キロ)周辺にありました。
翌23日、シャンジー将軍はシャルトル方面からペルシュ地方に独軍が再度侵入したことを知り、数日前にペルシュ地方のノジャン=ル=ロトルーとヴィブレイ(ノジャン=ル=ロトルーの南29.8キロ)間へ向かったカトリノー大佐率いる義勇兵集団の増援としてリポウスキー中佐の義勇兵集団を送り出し、義勇兵だけでは不安だったのかルソー将軍に1個連隊を率いてノジャン=ル=ロトルー方面へ向かうよう命じ、将軍は選抜した2,000名の将兵を直率してラ=フェルテ=ベルナール(ノジャン=ル=ロトルーの南西19.3キロ)へ進みました(既述通りこれら諸隊は独メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍の各偵察斥侯隊と衝突しています)。
シャンジー将軍は同じ23日に仏第17軍団の第3師団を率いる伯爵アルフォンス・ドゥ・ジュフロワ=ダバン准将に対し「独軍の注意をトゥールから逸らすため、ロワール川に沿ってヴァンドーム方面へ進撃せよ」と命じます。ジュフロワ将軍は麾下を率い前述通りバリー将軍の前衛が構えるスジェ周辺まで前進しました。
12月27日早朝、独軍がスジェに向かって前進する、との斥候情報を得たジュフロワ将軍は、三兵科混成・旅団クラスの兵力を率いてベッセ=シュル=ブレイ(スジェの北北東7.3キロ)に置いた本営からトロオ、モントワール(=シュル=ル=ロワール)、レ・ロシュ=レヴックに向かいました。
既述通りこの戦闘で独ボルテンシュターン隊を駆逐したジュフロワ=ダバン将軍は同日夜、シャンジー将軍より「シャトー=デュ=ロワール方面にいるバリー将軍から増援を迎え入れ、ヴァンドームに攻勢を掛けろ」との命令を受けるのです。
このため将軍は、ロワール沿岸に展開する第16軍団の諸隊が合流するまでブレイ沿岸で待機し、31日の早朝、アゼ(ヴァンドームの北西8.3キロ)やマザンジュ(同西北西9.6キロ)まで前進し集合を終えた混成2個師団クラスの兵力*でヴァンドーム方面へ動き始めるのでした。
※31日の仏ヴァンドーム攻撃「ジュフロワ将軍*」兵団
(総兵力/歩兵27個大隊・各種砲32門・騎兵数個中隊)
◇ティエリー大佐(第16軍団第3師団第2旅団長)隊
*命令「サヴィニー=シュル=ブレイ(エピュイゼイの西南西9.2キロ)からエピュイゼイへ行軍集合、ダンゼへ前進」
○マルシェ第33連隊(旧・第15軍団第3師団)
○護国軍第32「ピュイ=ド=ドーム県(仏中部)」連隊(旧・第15軍団第3師団)
○ブーシュ=デュ=ローヌ県(南仏。県都マルセイユ)護国軍の1個大隊
○4ポンド砲x4門
◇マーティ大佐(マルシェ第36連隊長)隊
*命令「エピュイゼイからダンゼ及びアゼへ行軍集合、ヴァンドーム北郊のベル・エール城館(ヴァンドーム城の北3.3キロ。現存します)へ前進」
○マルシェ第36連隊(第16軍団第1師団)
○護国軍第74「ロット=エ=ガロンヌ県(仏南西部)」連隊(第17軍団第1師団)
○4ポンド砲x4 ミトライユーズ砲x2
◇バイエ大佐(マルシェ第38連隊長)隊
*命令「アゼに集合しベル・エール城館へ前進」
○マルシェ第38連隊(第16軍団第2師団)
○護国軍第66「マイエンヌ県(県都ラヴァル)」連隊(第16軍団第2師団)
*命令「マザンジュに集合しラ・テュイルリー(ヴァンドーム城の北3キロ)へ前進」
○マルシェ第46連隊(第17軍団第3師団)
*命令「リュネ(ヴァンドーム城の西11.5キロ)からヴァンドーム方面へ前進」
○護国軍第70「ロット県(仏中南部)」連隊(第17軍団第3師団)
◇各種砲20門(ヴァンドーム攻撃の各縦隊に分散配備)
◇アルジェリア・エクレルール(騎兵)隊(ゴアソード大佐)
○マルシェ胸甲騎兵第3連隊など
※普仏戦争篇初期の「開戦直前のフランス軍(三)」に記した通り、仏軍の将官は形式上全員が「師団指揮官(ジェネラル・ドゥ・ディヴィジョン)=少将」の階級で、任務に応じその上の階級(中将以上)を授かること(任務が終われば一少将に戻る)となっていますが、この19世紀後半ともなると他国の軍隊同様に年功や軍功など人事的考査で階級が決定され、特に旅団指揮官である准将は他の欧州諸国で基本的に旅団を指揮する階級である少将と同等に見なされました。従って仏軍では独諸邦にない階級である准将が他国で考えられている「大佐と少将の間=将官に準じるもの」ではなく「将官」として認知されています。その他少将は他国の中将、中将(軍団指揮官)は同大将、大将(軍指揮官)は同上級大将や元帥と同等の地位と目されています。
☆ 第2次ヴァンドームの戦い(12月27日から1月2日までの独側状況)
独第20師団長のアレクサンダー・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・クラーツ=コシュラウ少将は27日の昼頃、スジェ方面へ送り出した第79連隊の代理指揮官フォン・ボルテンシュターン中佐の支隊がモントワールやレ・ロシュで戦闘に至ったと聞き、午後1時、中佐の支隊を援護収容するための部隊をヴィリエール(=シュル=ロワール。ヴァンドーム城の西北西5.7キロ)へ送り、中佐隊を無事迎え入れるとその後1両日中、偵察斥候を西方へ盛んに送って敵の情報を得ようとしました。この結果、「仏軍はブロン川(ダンゼとアゼを通ってマザンジェの南でロワールに注ぐ支流)の西方に大軍を集合させており、東へ出撃する気配が濃厚」であることが確認されるのでした。
クラーツ=コシュラウ
この報告を受けた独第10軍団長でブロア~ヴァンドーム方面戦線の責任者であるコンスタンティン・フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将は、クラーツ=コシュラウ将軍を救援するためエルボー(ブロアの西14キロ)付近にあるカール・フリードリヒ・アレクサンダー・フォン・ディリングスホーヘン少将の第40旅団とその麾下にある騎・砲兵集団をヴァンドームへ送る命令を出し、この増援は29日、無事ヴァンドームに到着します。また別個、独騎兵第1旅団もヴァンドームに向かう命令を受領し、こちらは一足先の28日中にヴァンドームに至りました。なお、この旅団所属の独槍騎兵第4「ポンメルン第1」連隊は別動しており、ブロアからボージョンシーに掛けてのロアール沿岸を警戒するため散開しています。代わりに独騎兵第1師団の砲兵である野戦砲兵第1連隊の騎砲兵第1中隊が旅団と行動を共にしていました。クラーツ=コシュラウ将軍はこの騎兵旅団を直ちにフレトゥヴァルからモレ方面へ進ませ、ヴァンドーム北方のロワール沿岸で警戒を強めました。
これで将軍はヴァンドームに独第20師団のほぼ全力(歩兵11個大隊・騎兵1個連隊・砲兵4個中隊)の他、騎兵2個連隊と砲兵2個中隊を集合させたことになります。
将軍は直ちに前哨線をヴィルポルシェ(小部落。ロワール沿岸。ヴァンドーム城の北北東3.5キロ)~ベル・エール城館~クルティラ(同北西2.3キロ)~モントリュー(小部落。ロワール沿岸。同西3.5キロ)に敷いて市街の防衛態勢を整えました。
※12月29日・フォン・クラーツ=コシュラウ将軍麾下のヴァンドーム守備隊
◎独第20師団
◇第39旅団/ハインリッヒ・シモン・エデュワルド・フォン・ヴァレンティーニ大佐指揮
○第56「ヴェストファーレン第7」連隊
○第79「ハノーファー第3」連隊(2個中隊欠)
◇第40旅団/カール・フリードリヒ・アレクサンダー・フォン・ディリングスホーヘン少将指揮
○第17「ヴェストファーレン第4」連隊(2個中隊欠)
○第92「ブラウンシュヴァイク公国」連隊
◇師団直属
○竜騎兵第16「ハノーファー第2」連隊
○第10軍団野戦工兵第2中隊
○野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊・第2大隊
・軽砲第3,4中隊
・重砲第3,4中隊
○同・騎砲兵大隊(軍団砲兵より)
・騎砲兵第1,3中隊
◇独騎兵第2旅団(槍騎兵第8連隊欠)/カール・アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・バウムガルト少将指揮
○槍騎兵第12「リッタウエン」連隊
○胸甲騎兵第3「オストプロイセン/伯爵ウランゲル」連隊
※フレトゥヴァル~モレ方面
◇独騎兵第1旅団(槍騎兵第4連隊欠)/ヘルマン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フォン・リューデリッツ少将指揮
○胸甲騎兵第2「ポンメルン/国王」連隊
○槍騎兵第9「ポンメルン第2」連隊
○野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊・騎砲兵第1中隊(騎兵第1師団)
○独第17連隊・第9,12中隊(第20師団)
※独第79連隊の2個(第2,4)中隊はクロミエ=ラ=トゥール(ヴァンドーム城の東5.7キロ)で軍団車輌集積所の護衛、猟兵第10「ハノーファー」大隊はブロアにあって不在でした。
このように「強化」1個師団を預けられたクラーツ=コシュラウ将軍は30日、先手必勝とばかりに仏軍が集合中のブロン川方面へ出撃、まずはアゼ、そしてエピュイゼイ(ヴァンドームの北西15.7キロ)まで突進することを決し、このための兵力(麾下のほぼ半数)*をフォン・ディリングスホーヘン将軍に預け、同時に騎兵第1旅団を率いるフォン・リューデリッツ将軍にもフレトウヴァルからエピュイゼイに向け前進するよう命じるのでした。
アゼ部落
12月31日大晦日。ディリングスホーヘン将軍は歩兵4個大隊・騎兵2個中隊・砲10門の本隊を直率しアゼへの街道(現・国道D957号線)を前進し、右翼(北)支隊(歩兵1個大隊)をヴァンドームの森(ヴァンドームの北西方にある森林)へ、左翼(南)支隊(歩兵1個大隊・騎兵1個中隊・砲2門)をサン=カレへの街道(現・国道D5号線)に向かわせ、ブロン川がロワール川に合流するル・ゲ・デュ・ロワール(マザンジェの南東1.7キロ)方向へ前進させました。
※12月31日の「アゼ攻撃」隊
◇本隊(独第40旅団長フォン・ディリングスホーヘン少将)
○第56連隊・第1、F大隊(第39旅団)
○第92連隊・第1、2大隊(第40旅団)
○槍騎兵第12連隊・第4,5中隊(騎兵第2旅団)
○野戦砲兵第10連隊・軽砲第4中隊
○同・騎砲兵第3中隊(1個小隊欠の4門)
◇右翼支隊(フォン・ミュンヒハウゼン少佐)
○第92連隊・第F大隊
◇左翼支隊(ハインリヒ・ルドルフ・グスタフ・シュミット・フォン・クノーベルスドルフ少佐)
○第79連隊・第1,3中隊(第39旅団)
○第17連隊・第2,3中隊(第40旅団)
○槍騎兵第12連隊・第1中隊
○野戦砲兵第10連隊・騎砲兵第3中隊の1個小隊/2門
ディリングスフホーヘン
アゼ進撃の先頭に立った独第56連隊第1大隊は街道沿いに潜む仏の斥候や前哨を駆逐しつつ前進を強行しル・ヴォモロー(アゼの南1.8キロ)まで進みますが、ここでブロン川の対岸から猛銃撃を浴びて停止し、この右翼(東)後方に進んだ同連隊F大隊の2個中隊もラ・メリリエール(当時は1軒の農場。現小部落。ル・ヴォモローの東450m)から銃撃を浴びます。これら先鋒部隊は砲兵の援護を求め、本隊の砲兵はラ・メリリエール農場に榴弾を浴びせ、仏軍前哨を撤退させるのでした。
第56連隊第1大隊は午前10時前後に前進を再開しますが、仏軍はル・ブリアール(ブロン川左岸の農場と家屋群。マザンジェの東南東2.1キロ付近。現存しません)方面から約6個大隊の強力な部隊(バイエ大佐隊の半数)を出撃させて西から攻撃を始め、独側は直ちに転向してこの敵と正対しました。
同じ頃、その南方では本隊後衛となっていた独第92連隊第1大隊が街道を離れてヴィルシャテン(農場。ヴィリエールの東北東1.4キロ。現存します)に進み、付近の雑木林を占拠して南西側から片翼包囲を狙って迫って来た仏バイエ大佐隊の攻撃を防いだのです。
この頃、独槍騎兵第12連隊の第3中隊はクラーツ=コシュラウ将軍の命令を受けてヴァンドームの北郊外を捜索し、ベル・エール城館の北側で仏軍の縦隊複数を発見すると、「敵大軍がブロン川を渡河しエスペルーズ(ダンゼの南東4.3キロ)を越えた位置まで接近してベル・エール城館に向かっている」と報告します。この騎兵中隊はその後仏軍(マーティ大佐隊)に付かず離れず逐次報告を続けました。
報告を受けたクラーツ=コシュラウ将軍(ディリングスホーヘン将軍と共に攻撃本隊にいました)は正午に至って、「敵は我らより優勢でこちらの動きに対応して防戦を行っているのではなく、元よりヴァンドームを狙って攻撃前進を行っている」と判断を下します。このままでは倍近い敵に擦り潰されて左右から包囲されかねず、そうなればヴァンドームも風前の灯火となってしまうのは明らかでした。そこで将軍はディリングスホーヘン将軍に対し「全軍暫時戦闘を終了しヴァンドームへ後退せよ」と命じたのでした。
退却は後衛となってユシュピー(ヴィリエールの東2.6キロ)北方・ヴァンドームの森南西端に散兵線を構えた第92連隊第2大隊の援護射撃の下に整然と行われ、この大隊は独軍諸隊がヴァンドーム北方の鉄道堤(シャトーダン~トゥール線。現在ヴァンドームの森西端を抜ける鉄道線はまだありません)を越えるまで銃撃を続けた後に急ぎ撤退しますが仏軍も激しく追撃を行い、犠牲もまた大きかったのです。
この時、独の左翼支隊もまた撤退行の援護に貢献します。
左翼「クノーベルスドルフ」隊はロワール川に沿って進むと、配属された騎砲兵小隊の砲2門を活用してヴィリエール(=シュル=ル=ロワール)やその北東にある森林から迫って来た仏軍を阻止しましたが、やがて西から現れた優勢な敵(マルシェ第46連隊や護国軍第70連隊)を見て独自に撤退を決していました。クラーツ=コシュラウ将軍はこの部隊をヴァンドーム防衛線の最西端となるモントリューに留めさせ、本隊後衛の撤退を援護させたのです。
シュミット・フォン・クノーベルスドルフ
一方、独軍右翼支隊は当初の命令に従ってベル・エール城館付近からヴァンドームの森へ入ると、全く仏兵を見ることなく森を抜け、レ・ベルゼヴリー(農場。アゼの東2.1キロ。現在は乗馬教室となっています)付近で前方から迫る仏軍を視認し、ここで散兵線を敷くと銃撃戦を行って敵の前進を阻止しました。その後正午となって後方のヴァンドーム方面から銃砲声が響いたため、大隊長のフォン・ミュンヒハウゼン少佐は部下と共に森へ引き返し、森を抜けたラ・テュイルリー付近でベル・エール城館を巡る攻防に参戦するのです。
古のドイツ騎士団に連なるリッタウエン(小リトアニア。東プロシアの最東部)の槍騎兵たちが張り付き監視していた仏マーティ大佐隊は、エスペルーズを越えた後に南東方向へ進み、正午少し過ぎに独軍が出撃して留守となっていたベル・エール城館目前に現れます。しかし、ここにはクラーツ=コシュラウ将軍の命令により直前にヴァンドーム市街から独第56連隊第2大隊が進み来て守備に就いており、迫る仏軍縦隊に対して猛銃火を浴びせて攻撃前進を頓挫させるのです。この大隊は仏軍がベル・エール城館に現れた頃にラ・テュイルリーに到着したミュンヒハウゼン少佐の第92連隊F大隊の援助を受け、突撃を繰り返す仏軍に対して効果的な防戦を行いました。また、仏マーティ隊に属していたライット式4ポンド野砲とミトライユーズ砲を持つ砲兵中隊がヴァンドームの森東縁に砲列を敷いた時、両大隊はこれに激しい銃火を浴びせ、仏軍砲兵が本格的な砲撃を行うことを不可能として後退させることに成功したのです。
しかし、更に後方から現れた仏軍増援(バイエ大佐隊の左翼)によって自軍左翼(西)側から包囲され掛かると、両大隊はヴァンドーム北部を横切る鉄道堤(シャトーダン鉄道)を越えて南側の市街中心部へ撤退するのでした。独第56連隊第2大隊長を務めていたグスタフ・ベルンハルト・フィリップ・フォン・デア・ランケン大尉は敵の来襲時に左手に銃弾を受けて指2本を失っていましたが激しい痛みに耐えて後送を拒絶し、撤退の最後まで前線で指揮を採り続けていました。
この鉄道堤沿いには既にヴァンドーム防衛の歩兵部隊が展開しており、独第79連隊の第2大隊と第17連隊の2個(第1,4)中隊は鉄道を横切る街道(現・国道D36号線)の両側と西側にあるレ・テュイルリー墓地内(現存)に陣を占め、フォン・ディリングスホーヘン将軍麾下の諸大隊も順次墓地の西側で鉄道に沿って展開しました。ヴァンドームには第92連隊の半分・6個中隊と工兵中隊が市街地警備に残り、その南側にあるヴァンドーム城の高地には砲兵6個中隊が順次砲列を敷き、これは10個中隊の歩兵と騎兵諸隊によって援護されました。また、ロワール南岸に潜む敵が南方から攻撃するのを警戒するためシャトー・ルノーに至る街道(現・国道N10号線)脇には第79連隊のF大隊が展開し、第17連隊の第2大隊も城高地の西側防衛に進むのでした。
※12月31日午後・ヴァンドーム市街地と城高地の独軍
*市街地警備
○第92連隊・第7~12中隊(F大隊と第2大隊半数)
○第10軍団野戦工兵第2中隊
*ヴァンドーム城高地上
○第56連隊・第1大隊
○第79連隊・第1,3中隊
○第17連隊・第2,3,10,11中隊
※更に夕刻までに独猟兵第10大隊がブロアから駆けつけました(後述)。
*高地上ヴァンドーム城の西側
○野戦砲兵第10連隊・重砲第3中隊
○同連隊・騎砲兵第3中隊
○同連隊・騎砲兵第1中隊
*高地上ヴァンドーム城の東側
○野戦砲兵第10連隊・重砲第4中隊
○同連隊・軽砲第4中隊
○同連隊・軽砲第3中隊
○ロワール上流河畔のメレ(ヴァンドーム城の北東3.5キロ)で警戒中の胸甲騎兵第3連隊の2個中隊を除く全ての騎兵中隊(10個中隊)
ヴァンドーム城高地
ヴァンドームに北西と北から迫る仏ジュフロワ兵団に対し、ヴァンドーム城高地の独軍砲列は午後2時頃、一斉に榴弾砲撃を開始しました。仏軍は散開せず密集して接近しており、独軍の諸砲兵中隊はこの容易い目標に猛砲撃を浴びせます。仏軍散兵群はまず右翼(西側)のクルティラ付近に迫っていた部隊から動揺が始まり、程なく付近の仏軍部隊はほぼ潰走状態となり西へ逃走を始めました。これとは別に高地西のヴァレンヌ(ヴァンドーム城の西南西5.3キロ)を抜けロワール南岸から迫って来た騎兵1個連隊とその後方に続く歩兵1個連隊の仏軍(ゴアソード大佐率いるマルシェ胸甲騎兵第3連隊と護国軍第70連隊)に対しては高地上の重砲第3中隊が正確な砲撃を行って仏軍騎兵の出足を挫き、やがてこの方面の仏軍諸隊も壊乱して遁走するのでした。
しかし、比較的楽だったヴァンドーム西側の防衛に対し、東側ベル・エール城館方面の戦いは熾烈を極めます。
仏軍はマーティ大佐隊とバイエ大佐隊の半数・およそ1個師団に近い兵力(8,000から1万人)で押し寄せ、数回に渡って独軍散兵線*に波状攻撃を加えますが、独軍の粘り強く正確なドライゼ銃の射撃によって抜くことが適いません。これは仏軍側の連携が整わなかった(隊個別にタイミングを合わせることなく突撃を繰り返しました)ことと、やはり錬成不足で突撃の勢いが弱かったことが原因と思われます。仏軍は午後4時になってようやく一斉突撃を敢行し、これは功を奏して鉄道堤に取り付くことが出来ましたが、時既に遅く、夕暮れが迫って辺りは急速に暗くなったため仏軍は夜陰に乗じて順次退却して行きます。クラーツ=コシュラウ将軍は仏軍が前線より退いたとの報告を受けると、直ちに前線にあった3個大隊に対し「市街を出て完全に敵を駆逐せよ」と命じ、独軍諸隊は仏軍の後を追うと辺りが完全に夜陰に沈むまでに高地の麓にある数軒の農家を接収したのでした。
※31日午後遅く/ベル・エール城館付近の独軍
○第56連隊・第6,7中隊
○第79連隊・第2大隊
○第17連隊・第1,4中隊
ここでこの日の戦闘は終了しますが、この夕暮れ時、クラーツ=コシュラウ将軍はフレトゥヴァルからダンゼ、エピュイゼイ方面へ向かった独騎兵第1旅団の顛末を聞き及ぶのです。
麾下2個騎兵連隊*だけでなくベンデルとヴィルヘルム・スピッツ両大尉率いる第17連隊の第9,12中隊や騎砲兵中隊を縦隊に加えたフォン・リューデリッツ将軍は午前7時にフレトゥヴァルを発し、午前9時にはダンゼ東郊のレ・ザレ(ダンゼの東1.7キロ)に進みましたが、ここで仏の大軍勢(ティエリー大佐率いる5個大隊と砲兵)を望見しました。
※但し胸甲騎兵第2連隊第4中隊と槍騎兵第9連隊第1中隊はフォンテーヌ(フレトゥヴァルの西2.5キロ)付近に残留しています。
ダンゼ
しかしリューデリッツ将軍は「見敵必戦」とばかりに攻撃を命じ、騎兵主力(胸甲騎兵3個と槍騎兵1個中隊)を北上させてブロン川を渡河しル・プレ(農場。ダンゼの北東1.3キロ。現存します)まで迂回させて仏軍左翼側からダンゼ包囲を狙いました。同時に騎砲兵2個小隊(4門)をレ・ザレに留めて砲列を敷かせ、更に槍騎兵2個中隊と騎砲兵1個小隊(2門)を敵主力がいると思われる南方アゼ方面の警戒としてレ・ザレ南の耕作地に展開させます。また、歩兵2個中隊は街道(現・国道D357号線)の南縁に沿って前進を続け、ダンゼ部落の近郊に砲列を敷いた仏軍砲兵2個小隊(ライット4ポンド砲4門)に接近しました。
この歩兵2個中隊それぞれから1個小隊を選抜した中隊長スピッツ大尉は、仏軍砲列の内街道南側に砲列を敷いた小隊に向かって突進し、仏砲兵が慌てて直射を行うのも厭わず銃撃を加えつつ肉薄、砲列援護に就いていた護国軍兵を蹴散らすと砲兵に損害を与え、この砲兵小隊はライット砲1門とその前車1輌を遺棄して逃走するのでした。スピッツ大尉は空かさず街道北に砲列を敷いたもう一方の仏軍砲兵を襲い、ここでも仏砲兵は急遽退却してその後にはライット砲2門と前車1輌が残されたのでした。
砲兵が退却したダンゼでは残された歩兵に動揺が広がり、スピッツ隊が合流した独第17連隊兵の攻撃によって部落から追い出されると一気に街道を西へ遁走して行きます。その後を追った独胸甲騎兵第2連隊はエピュイゼイの東郊外まで追った後に急ぎ引き返したのでした。
同じ頃、レ・ザレの南では仏軍歩兵1個中隊が突進して来ましたが、警戒中の独槍騎兵2個中隊はこれを正面から迎え撃ち撃破します。リューデリッツ将軍は午後1時、胸甲騎兵が戻って来ると退却行に移り、これは仏軍の妨害を受けることなく、将軍は歩兵が鹵獲した砲3門と前車2輌、そして士官3名と下士官兵50名の捕虜を引き連れて日没までにフレトゥヴァルへ帰還したのでした。
ダンゼ1870.12.31仏砲兵を襲うスピッツ大尉隊
12月31日の「第2次ヴァンドームの戦い」で独軍は戦死34名・負傷94名・行方不明(捕虜)101名・馬匹損失30頭の損害を受けました。仏軍側は不詳ですが、ベル・エール城館で激闘を繰り広げたマルシェ第38連隊が士官2名・下士官兵50名の負傷者を記録しているので、全体では捕虜や落伍脱走兵など行方不明を別として400名以上の損害だったのではと想像します。
クラーツ=コシュラウ将軍麾下の諸隊はヴァンドーム周辺の陣地で戦闘態勢を崩さずに大晦日の夜を明かし、新年1日の朝を迎えます。昨夕に撤退した仏軍はすぐ近くに潜んでいるものと思われ、独軍は間もなく再度仏ジュフロワ兵団と戦うことになると覚悟していました。
しかし早朝に前線から出動した独軍斥候が目にしたのは偵察と思われる仏軍の小部隊ばかりで、独斥侯は仏軍本隊を探し四方に進みますが、結局午前11時に「仏軍はヴァンドーム周辺から全て退却した」との報告がクラーツ=コシュラウ将軍の下に届けられたのです。
将軍は直ちに独騎兵第2旅団の混成騎兵5個中隊に軍団騎砲兵第3中隊の2個小隊(4門)を仏軍追撃に向かわせました。フォン・バウムガルト少将が直率したこの騎兵たちはエピュイゼイへの街道を直進し、ブロン川を渡るとそこで仏軍退却行軍の最後尾を発見、これを攻撃して潰走させます。この仏軍は砲兵隊を街道西側の谷縁に展開させ、逃走した友軍将兵を迎え入れました。仏軍砲兵は独軍砲兵と騎兵に続いて現れた歩兵2個大隊を主力とする増援*から激しい銃撃を浴びましたが、護衛に付いた歩兵と共に抵抗を続けて夕暮れ時まで粘り強く戦い、その後夜陰に紛れて西へと消えて行ったのでした。
※1871年1月1日・アゼに向かった「バウムガルト」支隊
○胸甲騎兵第3連隊・第1,3中隊
○槍騎兵第12連隊・第1,3,4中隊
○野戦砲兵第10連隊・騎砲兵第3中隊の2個小隊(4門)
*遅れて同道
○第17連隊・第1大隊
○第92連隊・第1大隊
帰還 独軍槍騎兵と歩兵
同じ1月1日、騎砲兵1個小隊を連れてユイッソー=アン=ボース(ヴァンドームの南南西8.5キロ)に向かった混成騎兵4個中隊は途中、仏の斥候に遭遇するだけでまとまった敵に出会うことはなく、更にこれら斥候を駆逐しながらサン=タマン(=ロングプレ。同南11.7キロ)まで進んだ後に帰還しました。
しかし、翌2日になるとサン=タマンの北方に仏軍部隊が出現したため、クラーツ=コシュラウ将軍は槍騎兵第12連隊長オットー・カール・ハインリヒ・フーゴ・フォン・ローゼンベルク中佐に第56連隊第2大隊を預け、中佐は麾下槍騎兵第12連隊の2個(第3,4)中隊と騎砲兵第3中隊の1個小隊を加えて出撃し、トゥールへの街道(現・国道N10号線)を進んで会敵、仏軍(護国軍の連隊3,000名余り)を短時間の銃砲撃で駆逐するとヴィルショヴ(サン=タマンの南西7.1キロ)まで追撃を行い、この仏軍部隊は更に南のシャトー=ルノー方面へと去って行きました。
ローゼンベルク中佐から報告を受けたクラーツ=コシュラウ将軍は、シャトー=ルノー方面に残る敵を翌3日に撃破しようと作戦を練り始めましたが、この2日夜フォン・フォークツ=レッツ軍団長から命令が届き、その主旨は「目下確保している陣地を固守し、ヴァンドームを完全に確保せよ」とのことで、翌日の出撃は自粛されたのです。
一方、エルボー付近で待機していたフォン・ディリングスホーヘン将軍の独第40旅団を中核とする部隊がヴァンドームへ向かった(12月28日)頃、ブロア西側の守りが薄くなったと感じたブロア在のフォークツ=レッツ将軍は独第19師団長代理のエミール・フォン・ヴォィナ将軍に命じ、市街西7、8キロ余りのシス沿岸に主力を進めさせ、シャトー=ルノーからトゥール方面の仏軍に備えさせましたが、こちらの仏軍は年末年始に掛けてほとんど動くことはなく、この方面の独軍はただ時折現れる斥候だけに対処するだけの「穏やかな年末年始」を過ごしました。また、ロアール(Loire)南岸でもほとんど動きはなく、ブロア対岸の郊外市街ヴィエンヌ(現ラ・ヴァシュリ。ブロア城の南1.4キロ)に守備隊を置くだけで済んだのです。
ヴァンドームで独第20師団と独騎兵第1師団が仏ジュフロワ兵団と激戦を行っているとの情報は31日昼前にブロアへ伝わり、フォークツ=レッツ将軍は直ちに第20師団所属の猟兵第10大隊をヴァンドームへ出立させると、続けてリヒャルト・ゲオルグ・フォン・ヴェーデル少将の独第38旅団に騎兵・砲兵若干を付けヴァンドームへ派遣しましたが、この旅団が翌1日にヴァンドーム近郊へ到着した頃には前述通り戦闘が全て終了しており、これを知ったヴェーデル将軍は麾下をブロアに転向させ、翌2日部隊はブロアへ帰還しました。
ところがこの2日、オルレアンのカール王子からフォークツ=レッツ将軍に対し、麾下第10軍団の任務を「守勢」から「攻勢」に転換する旨の命令が届いたのです。




