独第10軍団のトゥール攻撃とヴァンドーム西方の危機
☆ ヴァンドームの戦い後・12月17日以降の独第10軍団
独第10軍団長コンスタンティン・フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将は「ヴァンドームの戦い」翌日の12月16日夕刻、麾下第20師団に対し「西方へ退却した敵を追い、その行動を監視せよ」と命じます。独第20師団長のアレクサンダー・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・クラーツ=コシュラウ少将は翌17日、強力な混成支隊*を「黒い軍団」の歩・猟兵連隊が始祖の独第92「ブラウンシュヴァイク公国」連隊を率いるハインリッヒ・テオドール・ヴィルヘルム・アルベルト・ハーバーラント大佐に預け、ヴァンドームからル・マン方面に向けて前進させました。
※12月17日の「ハーバーラント」支隊
○第56「ヴェストファーレン第7」連隊・フュージリア(F/第3)大隊(第39旅団)
○第79「ハノーファー第3」連隊・第1、F大隊(第39旅団)
○第17「ヴェストファーレン第4」連隊・第1大隊(第40旅団)
○竜騎兵第16「ハノーファー第2」連隊・第2,4中隊(師団直属)
○野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊・軽砲第4中隊
○同・重砲第4中隊
※18日、命令変更(後述)により以下の編成に変わります
○第56連隊・第2大隊
○竜騎兵第16連隊・第4中隊
○野戦砲兵第10連隊・軽砲第3中隊
ハーバーラント
ハーバーラント大佐は道中多くの仏軍落伍兵や逃亡兵を捕縛または排除しつつ急進して、モレからの街道とヴァンドームからの街道が合流するエピュイゼイ(ヴァンドームの北西15.7キロ)に達しますが、ここには仏第17軍団の一部が未だ居座っており、この砲兵を持つ強力な仏軍と長時間に渡る銃砲撃戦となりました。ようやく夕刻近くになり仏軍は退却を始め、一気に市街へ入った独軍は戦意を失って座り込んでいた落伍兵や負傷兵ら数百名を捕虜にすると、打ち捨てられた多くの武器を鹵獲し、護国軍の軍旗一旒を獲るのです。大佐等はこの夜、一旦後退してアゼ(エピュイゼイの南東7.5キロ)の周辺で宿営しました。
翌18日早朝に前進を再開した支隊は、途中命令の変更によって編成を小規模に変え更に西へ進みますが、道中仏軍の抵抗に遭遇することはなくブレイ川(ペルシュ地方ノジャン=ル=ロトルーの南方を水源に南へ蛇行しつつ流れ、一部はロワール=エ=シェール県とサルト県境となってヴァンドームの西でロワール川に注ぐ支流)に達し、この沿岸で西側サン=カレや北方モンドゥブローに向かって退却する仏軍縦隊の後ろ姿を視認します。この川の西側では仏軍の待ち伏せも大いに考えられたため、ハーバーラント大佐は軽快な竜騎兵斥候のみに渡河を許し広範囲に渡って偵察を行わせたのでした。
この18日、フォークツ=レッツ将軍は麾下部隊の内、特に損耗が激しく長期間の行軍と戦闘でボロボロとなった軍装や個人装具を交換または修繕する必要に迫られていた諸隊をヴァンドームへ集合させる命令を発します。この中にはハーバーラント大佐の指揮下にあった多くの部隊も含まれていました。
※12月18日にヴァンドーム集合を命じられた諸隊
◇第39旅団
○第56連隊
○第79連隊(当初第5,6中隊欠。この2個中隊は23日に復帰)
○猟兵第10「ハノーファー」大隊
○竜騎兵第16連隊・第2,5中隊
○野戦砲兵第10連隊・軽砲第4中隊
○同・重砲第4中隊
○同・騎砲兵第1,3中隊
○胸甲騎兵第3「オストプロイセン/伯爵ウランゲル」連隊(騎兵第2旅団)
○槍騎兵第12「リッタウエン」連隊(騎兵第2旅団)
フォークツ=レッツ将軍
各々ヴァンドームに集合した諸隊はクラーツ=コシュラウ将軍の指揮下に置かれ直ちに装備被服の一新に取り掛かります。
この18日。フォークツ=レッツ将軍はロワール河畔に集合したこれら諸隊と、第37旅団長ペーター・フリードリヒ・ルートヴィヒ・レーマン大佐が指揮を執るブロアに配置した守備隊*を除く第10軍団と独騎兵第1師団の主力でトゥールを目指すことに決するのでした。
※12月18日におけるブロア守備隊
○普第91「オルデンブルク公国」連隊(第37旅団)
○竜騎兵第9「ハノーファー第1」連隊・第1,2中隊
○野戦砲兵第10連隊・軽砲第2中隊
○第10軍団野戦工兵第3中隊の一部
○槍騎兵第8「オストプロイセン」連隊(騎兵第2旅団)
○野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊・騎砲兵第1中隊(騎兵第1師団)
トゥール攻略を目指す独第10軍団(と独騎兵第1師団)は騎兵第1旅団長ヘルマン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フォン・リューデリッツ少将に前衛支隊の指揮を任せ、前衛は18日中にサン=タマン(=ロングプレ。ヴァンドームの南南西12.2キロ)、19日にヴィルドーメ(トゥールの北東22.2キロ)まで進みます。本隊*は同19日にシャトー・ルノー(同北東27.8キロ)に至り派出された騎兵斥候は同日モネ(同北東13.6キロ)付近で初めて仏軍部隊を視認し、騒擾を起して不意を突き数名の仏兵を捕虜として情報を獲得します。これにより仏第2ロアール軍はトゥール近郊に約1個師団(1万5千の歩兵に相応の騎兵・砲兵部隊)を宿営させていることが判明するのです。
※12月18日・フォークツ=レッツ将軍麾下の「トゥール攻略隊」
◎前衛支隊(フォン・リューデリッツ少将)
○第78「オストフリーゼン」連隊(第37旅団)
○槍騎兵第9「ポンメルン第2」連隊(騎兵第1旅団)
○野戦砲兵第10連隊・重砲第2中隊
○第10軍団野戦工兵第2中隊
◎本隊(エミール・フォン・ヴォイナ少将)
◇第38旅団
○第16「ヴェストファーレン第3」連隊
○第57「ヴェストファーレン第8」連隊
◇第40旅団
○第17「ヴェストファーレン第4」連隊
○第92「ブラウンシュヴァイク公国」連隊
○胸甲騎兵第2「ポンメルン/国王」連隊
○竜騎兵第9連隊・第3,4中隊(第19師団)
○竜騎兵第16連隊・第1,4中隊(第20師団)
○野戦砲兵第10連隊・軽砲1,5,6中隊
○同・重砲第1,2,3,5,6中隊
○第10軍団野戦工兵第1,3中隊(一部欠)
モネ周辺図
12月20日。リューデリッツ将軍と前衛は前進を再開するとモネに到着しましたが、同地には既に敵影はなく、ただ偵察に居残っていた一騎兵が慌てて逃げ出すのを見ただけでした。将軍は前衛を分割*し一隊を第78連隊F大隊長のヘルマン・アウグスト・ゲブハルト・ヴィルヘルム・フォン・ヴィンス少佐に任せてトゥール~ル・マン鉄道の破壊を命じます。
※12月20日の「ヴィンス支隊」
○第78連隊・F大隊
○槍騎兵第9連隊・第3中隊
○重砲第2中隊の1個小隊(2門)
○工兵若干名
前衛の残りはトゥールへの街道上(現・国道D910号線)を行軍し、その先鋒はモネ郊外に進むとラ・ゴベルテル(小部落。モネの南西3.3キロ)やレ・プティット・ルリ(農場。ラ・ゴベルテルの北700m。現存します)そしてラ・ゴーシュリ(農場。モネの南1.8キロ。現存します)付近にそれぞれまとまった数の仏軍が籠もる陣地を発見しました。
フォン・リューデリッツ将軍はこの仏軍に対するため直ちに第78連隊の第1、2大隊をレ・ベル・ルリ(城館。レ・プティット・ルリの北東580m。現存します)やレ・ブレ(小部落。モネの南西1.4キロ)、そしてラ・フイエ(農場で現在は小部落。モネの南1.2キロ)付近に進め、重砲1個小隊をトゥールへの街道上に置いて仏軍陣地に対して砲撃を始めさせ、その間に本隊はモネ市街に入城しました。仏軍はレ・プティット・ルリから出撃し強引にモネへ進もうとしましたが、正午頃、ランジュヌリー(モネの西6.6キロ)に至る街道(現・国道D28号線)の上に進んだ独軍本隊の重砲第1中隊の1個小隊2門が砲撃を始め、これに乗じた第16連隊第2大隊が進み来る仏軍と衝突してこれを撃退するのでした。追って第57連隊の第1、2大隊もこの右翼(西)側に進んだため、レ・プティット・ルリやラ・ゴベルテルの仏軍は自軍左翼からの片翼包囲を恐れて急ぎ撤退を始め、それは直ぐ潰走状態に至るのです。
付近にいた独第57連隊の4個中隊は直ちに追撃に移り、仏軍が街道脇に留まって銃撃戦へ持ち込もうとするのを阻止、前衛の第78連隊の一部は街道を渡って東側に進み、仏軍の去ったラ・ゴーシュリ農場を占拠しました。
戦闘が開始された頃に戦線左翼(東)へ進んでいた前衛の槍騎兵第9連隊は、ラ・ゴーシュリ農場が確保されたのを見ると前進を開始、本隊から到着した竜騎兵第9連隊第4中隊の2個小隊を加えてラ・サンソニエール(ラ・ゴーシュリ農場の南南西1.8キロ)を越え、ラ・ゴーシュリ農場から撤退し南へ逃走中の仏軍を追撃、まるで牧羊犬のように仏兵をトゥールへの街道へ追い立てます。この街道上では方々から敗走する仏兵が群集となって遁走しており、これを望見した独槍騎兵第9連隊長代理の伯爵ゲオルク・トマス・エマニュエル・フーゴ・フォン・ヴェンゲルスキー少佐はその場で指揮下にあった騎兵10個小隊(槍騎兵8個と竜騎兵2個。槍騎兵連隊の残8個小隊は後方及び右翼側にいました)を直率するとレール・デ・デュシャン(当時は農家。現・ラ・ミロシュリ部落。ラ・ゴベルテルの南2キロ)から一気に街道へ突進して敗残兵の群れに突入、仏兵たちは恐慌状態となって一部は街道上を前進して来る独軍(第57連隊第2大隊と第78連隊第1中隊)の方向へ逃走、捕虜となり、残りは付近の雑木林や生垣に逃げ込みます。仏軍側は新たな部隊を北上させてこれら退却中の将兵を収容させ、シャンペニエ(ラ・ミロシュリ部落の南西4.2キロ)付近で今一度逆襲に転じますが、これはラ・ボディニエル(農場。ラ・ゴベルテルの西北西1.8キロ。現存します)に進んで砲列を敷いた重砲第1中隊による榴弾砲撃で腰砕けとなり後退して行きました。
仏軍が完全に退勢となったと考えたヴェンゲルスキー少佐は再び騎兵を集合させると、縦長の隊列を作って街道上を前進し、仏兵を見つけ次第襲い始めます。しかし、周辺は街道上以外深い泥濘で歩兵砲兵はおろか騎兵さえも通行不能となっており、独軍騎兵の長い隊列は仏軍にとって目立つ目標となっていました。後退しつつも落ち着きを取り戻した一部の仏将兵は街道沿いに再展開し、ヴェンゲルスキー少佐らを30mほどの至近距離まで引き付けると一斉射撃を行い、以降乱射で迎え撃ちます。街道以外に逃げ場のない独騎兵たちはここで大損害を被り、ヴェンゲルスキー少佐も負傷してしまい引き返さざるを得なくなりました。
仏軍を襲う独槍騎兵(E・ヒュンテン画)
ヴェンゲルスキー少佐が敵を追っている頃、本隊他の騎兵数個中隊はトゥールへの街道西側に進んでノートル=ダム=ドゥエ(モネの南西7.6キロ)まで進みますが、この先に仏軍の大規模な散兵線が望見され、また南からの銃砲撃も激しくなりつつあったので、騎兵たちはこの地で南方を警戒するに留めます。また、右翼(西)へ進んだヴィンス支隊は、鉄道破壊のためランジュヌリーへ進みますが、ここで本隊の方向(東)から銃砲声が響き、シャンソー=シュル=ソワジー(モネの西南西7キロ)経由で本隊の援助に向かいますが、仏軍を捕捉する事は出来ませんでした。夕闇迫る中、両軍は自然銃砲撃を止め、戦闘は終了します。
12月20日の「モネの戦闘」で、独軍は戦死35名・負傷41名・行方不明(捕虜)26名・馬匹82頭の損害を受けています。特にヴェンゲルスキー少佐の槍騎兵第9連隊の損害は大きく、戦死24名・負傷12名・捕虜24名、58頭の馬匹を失いました。
モネの戦闘で独軍に対抗したのはフェリー=ピザニ将軍率いる1万乃至1万5千の9月以降に召集された護国軍新兵を中心とする部隊で、アンジェ(メーヌ=エ=ロアール県都。トゥールの西93.5キロ)からロアール川に沿って進み18日にトゥールへ入ったばかりでした。仏軍側は負傷者を除く捕虜100名の他、300から400名程度の損害を受けています。
戦闘終了後、独第38旅団で第一線にある部隊はランジュヌリーからパルセ=メレ(マネの南南西7.2キロ)までの間に前哨を展開して付近に宿営し、その他の部隊はモネとルニー(モネの東南東7.7キロ)で宿営しました。
このルニーからシャンセ(ルニーの南3.5キロ)へ前遣された一隊は士官斥侯数個をロワール沿岸に向けて派出しますが、ポセ(=シュル=シス。同南東9.1キロ)とモンルイ(=シュル=ロワール。同南南西11.2キロ)に向かった騎兵士官たちは大胆にも仏兵で充満する部落に侵入して敵情を探り、発見されると仏軍の重囲を突破して無事帰還するのでした。
同じく、ブロアからロアール沿岸をトゥールに向けて出発した別動隊*は、対岸(左岸)から度々正体不明の敵による銃撃を受けたため、当初進んでいた沿岸の街道(現・国道D952号線)から少々西へ離れて行軍することになりました。
※ブロアからトゥールへ向かった独別動隊(橋梁や鉄道破壊用の爆薬を保持して行軍しました)
○第91「オルデンブルク大公国」連隊・第4,9中隊
○竜騎兵第9連隊・第1中隊
○槍騎兵第8連隊・第3中隊
○野戦砲兵第10連隊・軽砲第2中隊の1個小隊(2門)
○軍団工兵若干名
独第10軍団長フォン・フォークツ=レッツ将軍は20日夜、「トゥール方面は強力な仏軍によって護られている」として、「翌21日には敵情を明らかにしその動向に関する詳細な情報を求める」と麾下に要求しました。同時に、独第39旅団長でフォン・シュワルツコッペン中将が疾病休養中のため独第19師団を代理指揮するエミール・ペーター・パウル・フォン・ヴォイナ少将(ヴォイナ兄弟の兄。E・ヴォイナ)はフォークツ=レッツ将軍から直接、「歩兵6個大隊・騎兵6個中隊・砲兵2個中隊・工兵2個中隊を与えるので、自ら側方を警戒しつつトゥールへの街道上を行軍してトゥールを占領せよ」と命じられます。しかしフォークツ=レッツ将軍は更に「但し、敵が激しく抵抗し戦闘が拡大する恐れが出た場合には占領を中止しろ」と付け加えたのでした。
E・ヴォイナ将軍は21日早朝、選抜した攻撃隊を率いてモネから出立し、先頭に立った独胸甲騎兵第2連隊は意外にも仏軍を見ずに街道を南下しました。ポンメルンの胸甲騎兵たちはトゥールの北郊外市に入り、ロアール川の橋梁に達しますが、この橋の袂周辺には市民が集合し一部の者は武器を手にしており、遂には騎兵を狙撃する者まで現れるのです。
一旦引き上げた騎兵から事情を聴いたE・ヴォイナ将軍は軽砲第1中隊に命じてロアール河畔に砲列を敷かせ、砲兵は第16連隊F大隊を護衛として群集に榴弾を発射、これを解散させました。しかしこの時、前線に出て砲兵の傍らで状況を観察していた第19師団参謀のヴィルヘルム・カール・フリードリヒ・グスタフ・ヨハン・フォン・シェルフ少佐は左腕と背中に銃弾を受け重傷を負い後送されてしまいます。
この時、後方からフォークツ=レッツ将軍の命令が届き、それによれば「敵の強大な縦隊が貴官らの方向に向かっているとの情報があるため、モネに帰還せよ」とのことで、E・ヴォイナ将軍は麾下に一斉後退を命じたのでした。なお、トゥール市街入り口付近での戦闘中、E・ヴォイナ将軍は一部隊を西へ進め、この隊はメットゥレ(トゥールの北北西6.9キロ)付近でル・マンへの鉄道線を破壊しています。
トゥール市街口で独軍騎兵に抵抗する市民
フォークツ=レッツ将軍は倍近いと思われる敵の目前でトゥール市街を確保し、同時にロアール川の諸鉄道橋梁を完全に破壊するには現有兵力では不足と断じ、午後1時、麾下をモネとルニー周辺で宿営させ、明けて22日にはオートレッシュ(トゥールの北東27キロ)とエルボー(ブロアの西14キロ)周辺まで引き上げたのです。
しかし、フォークツ=レッツ将軍がブロアやヴァンドーム方面へ後退する根拠とした「強力な仏軍迫る」との諸情報は誤りで、予想(期待?)に反して激しく抵抗する仏軍の姿や、跋扈する義勇兵や武器を手にした住民らの姿に惑わされた斥候情報や、虚実入り交じる伝聞などで実際の数倍に膨れ上がった仏軍の姿に将軍等が右往左往させられた結果で、フォークツ=レッツ将軍等独軍の前に立ち塞がっていたのは、10日前まで実質「仮首都」の存在だったトゥールとその周辺に住む愛国心に燃えた数千名の人々と錬成不足の護国軍新兵約1万だけでした。
実際、あの「シャトーダンの悲劇」のような犠牲を避けたいと考えたトゥール市長始めとするこの地方の行政幹部たちは独軍進駐もやむなしと考え、E・ヴォイナ将軍に対し「激高して手が付けられなくなった住民等を鎮め秩序を回復するためにも市街を占領して欲しい」と嘆願していたのでした。しかしE・ヴォイナ将軍は先の後退命令が届いたため、トゥール占領を諦めたのです。
さて、E・ヴォイナ将軍がトゥール占領を目指した21日。レーマン大佐のブロア守備隊にヴァンドームから第10軍団砲兵隊の4個砲兵中隊、そして猟兵第10大隊がやって来て加わります。これは案外強力なトゥール方面(とロアール左岸)の敵がブロア襲撃を企てた場合の備えでしたが、トゥール占領を諦めたフォークツ=レッツ将軍は更に23日、E・ヴォイナ将軍の独第19師団主力をブロア周辺に集合させ、ロアール沿岸からトゥール方面へ強力な偵察隊を輪番で送り始めます。これらの部隊はロアール両岸で度々仏軍斥候に遭遇しますが、特に27日、フリードリヒ・スタニスラウス・アルクサンダー・デュニン・フォン・プルチホフスキー少佐が率いる猟兵第10大隊と竜騎兵第9連隊第1中隊の偵察隊はリリー(=シュル=ロアール。ブロアの南西19.7キロ)で割合大きな敵部隊と遭遇し少時戦闘となりました。敵と離れた後、少佐は南下してシェール川下流域(モントリシャールなど)を捜索しますが、ここ1、2週間に仏大軍が行軍した形跡は全くありませんでした。
23日には、独槍騎兵第4連隊が独騎兵第1旅団に復帰して、ボージョンシー付近まで守備範囲を広げていた独第3軍団と連絡を取り合います。同騎兵旅団はこのクリスマス期間中ブロアの北に展開して仏軍を警戒していました。
同じくブロアの西、エルボー方面には独第40旅団が宿営し、この旅団には竜騎兵第16連隊の第1,4中隊、槍騎兵第8連隊の第3中隊、野戦砲兵第10連隊の重砲第3、軽砲第3中隊そして軍団工兵若干名が派遣され、ロアール河畔からヴァンドームの南方、独第10軍団のヴァンドーム守備隊までの間を警戒していました。
独第40旅団長カール・フリードリヒ・アレクサンダー・フォン・ディリングスホーヘン少将はトゥール~ヴァンドーム間の鉄道を活かしておくと仏軍が利用する危険性が高いとしてこの破壊を試み、27日に独第17連隊長フォン・エーレンベルク大佐が指揮する支隊*をシャトー=ルノーへ送り、支隊はおよそ150名の仏義勇兵中隊をオズーエ=アン=トゥレーヌ(シャトー=ルノーの南5.5キロ)より追い出し、ヴィルドーメ(同南南西5.5キロ)付近で鉄道を破壊しました。支隊は翌28日エルボーに帰還しますが、その時には旅団はヴァンドームへの移動を始めており、大佐は急ぎ合流したのです。
※12月27日の「エーレンベルク」支隊
○第17連隊第2、F大隊
○竜騎兵第16連隊・第4中隊の半数
○槍騎兵第8連隊・第3中隊
○野戦砲兵第10連隊・軽砲第3中隊
○軍団工兵若干名
☆ ヴァンドーム西方の状況・モントワールの戦闘(12月19日から27日)
フォン・フォークツ=レッツ将軍がトゥールに向けて出発した後、ヴァンドームに居残った独第20師団長フォン・クラーツ=コシュラウ将軍は、麾下に被服装備の一新と休養を取らせる一方で盛んに騎兵斥候を西側地方へ送り出していましたが、斥候たちは20日になっても仏軍と遭遇することはなく、敵大軍が潜むと思われたサン=カレ(ヴァンドームの北西27.8キロ)にも少数の守備隊が存在するだけでした。敵はル・マンへ去ったものとすっかり安心したクラーツ=コシュラウ将軍は21日、仏軍が破壊し落として行ったモントワール(=シュル=ル=ロワール。ヴァンドームの西南西15.9キロ)とレ・ロシュ(=レヴック。同西13.2キロ)のロワール(Loir)橋梁を修理して使用可能にしようと部隊を派遣し、翌22日にはこの一部がスジェ(モントワールの西10.2キロ)に前進しますが、ここで激しい銃火を浴び、引き返します。この仏軍は引き返す独軍を追撃してモントワール近郊まで迫った後に西へ去りますが、翌23日にはサン=カレへ偵察に出た胸甲騎兵第3連隊の第3中隊が同地で銃火を浴びたため、クラーツ=コシュラウ将軍は再び警戒度を高め、西側諸方へ部隊を派遣しました。25日、サン=カレに再び至ったケルバー少佐率いる支隊*は市街を砲撃し、このため仏軍守備隊は撤退しましたが、これを追尾した独騎兵はブロワール(サン=カレの北西15.5キロ)で仏大軍に遭遇するのです。
※12月25日・サン=カレへ達したケルバー支隊
○第56連隊・第1、2大隊
○胸甲騎兵第3連隊・第3中隊
○槍騎兵第12連隊・第4中隊
○野戦砲兵第10連隊・騎砲兵第1中隊
雪原の戦場を行く仏軍(E.デタイユ画)
翌26日。フォン・クラーツ=コシュラウ将軍は第79連隊長代理のコンスタンティン・フェルディナント・アドルフ・フォン・ボルテンシュターン中佐に支隊*を預け、モントワール付近まで進んで来た仏軍の兵力を確かめるよう命じました。
※12月26日・ボルテンシュターン支隊
○第79連隊・第2、F大隊
○槍騎兵第12連隊・第1中隊
○野戦砲兵第10連隊・軽砲第4中隊の1個小隊(2門)
ボルテンシュターン中佐
しかし、ボルテンシュターン中佐が率いる第79連隊の2個大隊はそれまでの戦いで損耗が激しく、また補充も間に合わなかったため両大隊合わせても定員のほぼ半数、931名しか戦闘員が存在しませんでした。
それでも中佐は隊を直率しロワール川に沿って西へ進みました。まずはレ・ロシュの仮修繕を終えた橋梁守備に歩兵の第6中隊(200乃至250名の定員に対し、この時僅か50名でした)と数名の槍騎兵を残し、更に前進するとここまでは仏軍の妨害もなく、支隊は午後早くにモントワールに到着します。ボルテンシュターン中佐はここで宿営を命じ、翌27日朝、歩兵の第5と第9の2個中隊と槍騎兵若干名を部落守備に残し、残りは仏軍が存在すると思われるスジェに向かいました。
この道中にあるトロオ(モントワールの北西5.5キロ)で支隊の先鋒は部落内から初めて銃撃を受け、ボルテンシュターン中佐は部落内と周辺を厳重に捜索した後、ここにも警戒隊として2個中隊を残し更にスジェへ進みます。ところが、先鋒に立った歩兵半個小隊(30名前後)は2門のクルップ4ポンド砲の援護射撃を受けて部落内へ突入しますが、たちまちにして四方から激しい銃撃を浴びてしまい、急ぎ脱出するしかありませんでした。
これによりスジェ方面には仏軍の強力な部隊が進出していることがはっきりとしたため、強行偵察が任務のボルテンシュターン中佐は任務完了と見なし、トロオに戻ると部落の住民若干名を人質としてヴァンドームへの帰途に就きました。しかし、悪路の街道(現・国道D917号線)を行く中佐等がサン=カンタン・レ・トロオ(農場と付属家屋。トロオの東2キロ。小部落として現存します)を過ぎた辺りで突如仏軍の一大散兵群が出現し、そのまま街道の進行方向を完全に塞いでしまいました。しかも後方(西側)にも仏軍の縦隊が現れ、北方の高地上にも1個中隊クラスの砲兵が現れて榴弾砲撃を開始するのです。ボルテンシュターン中佐は自身率いるF大隊の3個中隊と街道上の4ポンド砲2門に抗戦を命じますが、正に多勢に無勢、完全に包囲されて後は手を挙げるか全滅するか二つに一つの状況に追い込まれてしまいました。しかし、マルス=ラ=トゥール、グラヴロット、メッス、ボーヌ=ラ=ロランド、オルレアン、ボージョンシー=クラヴァンと激戦地を転戦して来たボルテンシュターン中佐は諦めず、まず砲兵に命じて短時間脱出方向へ集中砲撃を行わせた後、端から半減している5個中隊の歩兵に着剣させ広く散開すると、全員に鬨の声を上げさせ1発の銃弾も発射せず(銃撃は止まって行うので突撃の勢いを削ぎます)仏軍に向かって突撃を敢行するのです。
驚いた高地の仏砲兵は榴弾を乱射して突撃を阻止しようとしますが、独兵はこの砲兵の直下にある仏軍右翼を襲って激しい白兵戦に持ち込み、怯む仏兵を高地へ追いやると、ここに生じた仏軍散兵線の裂け目を利用し、一気に退却するのでした。この時、F大隊長の男爵カール・ハインリッヒ・ルートヴィヒ・アウグスト・フォン・シュタイナッカー少佐は頚部に負傷してしまいますが隊と共にあって最後まで指揮を執り続け、無事脱出するのです。また砲兵小隊を率いていたバッハマン少尉は街道筋にぽつんと建つ一軒の農家の庭に砲を入れ隔壁を盾に敵を狙い砲撃を続けていましたが、いよいよ脱出という段になって負傷を免れた4頭の馬匹に砲2門を曳かせ、走りながら街道を後退する友軍歩兵を追ってモントワールに向かって疾走し、途中仏軍の猛銃砲火を浴びて馬匹2頭を失うものの何とか敵から逃げ切るのでした。この接近した乱戦ではただ見ていることしか出来なかった槍騎兵中隊も、敵の散兵線を2度突破し、途中泥濘の詰まった2、3の壕では下馬して愛馬を引きながら逃走したにも関わらず、奇跡的に負傷2名・捕虜2名・馬匹11頭の損失だけでモントワールに逃げ込むのでした。
この「ボルテンシュターンの脱出行」では4ポンド砲1門が轅棹(エンタク/ながえさお。牽引時に砲架と馬匹を繋ぐ部分。砲の「脚」)を破損しますが砲兵は戦闘中にこれを応急修繕し砲撃を続けました。また砲兵の弾薬馬車と負傷者収容馬車は無事持ち帰りますが、歩兵の弾薬馬車と衛生兵の馬車は破損し持ち帰ることが不可能となったため完全に破壊して街道筋に遺棄し、ために同行していた軍医を含む軍団の第2衛生隊はその多くが負傷兵と共に逃げ遅れ捕虜となってしまうのでした。
モントワールの戦い~血路を開くボルテンシュターン隊
ボルテンシュターン中佐が絶体絶命の危機に陥った午後2時頃、モントワール市街に留まっていた独79連隊の2個中隊もまた仏軍の銃砲撃を受け始めますが、こちらの仏軍は本格的に侵攻を企てることなく、午後4時に至りサン=カンタン・レ・トロオ方面からボルテンシュターン隊が続々と部落内へ到着した頃、仏軍はこの敗走する独軍の直ぐ後ろから部落へ押し寄せました。これを部落の両中隊が猛射撃で迎撃し、再三再四に渡って突撃して来る仏将兵をその都度撃退することに成功するのです。
この間、ボルテンシュターン中佐は部下を引き連れて仮修繕したばかりの橋を渡りロワールの左岸(ここでは南岸)へ出、川に沿ってラヴァルダン(モントワールの南東2.2キロ)に向かう小街道を進み、頃合いを見て退却行に移ったモントワールの2個中隊も同じく川を渡ってラヴァルダンへ向かい、仏軍はラヴァルダンを東へ越えた辺りまで追撃を行いますが、夕暮れ時となったため諦めて西へ引き上げたのです。
レ・ロシュ=レヴックにいた約50名の歩兵と騎兵も午後3時に強力な仏軍部隊の攻撃を受け、抵抗僅かで無理をせず川を渡って左岸に移って撤退しましたが、リュネ(レ・ロシュの北北東3.9キロ)へ派出していた十数名の分隊には後退命令を出すことが出来ず、彼らはたちまち圧倒的な数の仏軍に囲まれ手を挙げるしかありませんでした。
降伏する独軍兵士
27日の「モントワールの戦闘」で独軍は戦死13名・負傷42名・捕虜104名(うち半数は負傷兵・軍医2名と衛生担架兵29名含む)・馬匹53頭の損失を受け、仏軍は戦死と負傷約450名の損害を被ります。しかしボルテンシュターン中佐はトロオの住民人質の他、約200名の捕虜を引き連れ、ヴァンドームに帰還することが出来たのでした。
余談ですが、このモントワール=シュル=ル=ロワールはこの戦いの70年後、もう一度歴史に登場しています。これはヴィシー・フランスの主席フィリップ・ペタンとアドルフ・ヒトラーとの会談がこの地で行われたからで、これはヴィシー政権がナチス・ドイツの「傀儡」状態となる決定的な瞬間でした。
さて、ボルテンシュターン支隊を襲った「圧倒的な数の仏軍部隊」の正体は騎兵部隊を増加させた仏第17軍団の第3師団で伯爵アルフォンス・シャルル・ジョセフ・ドゥ・ジュフロワ=ダバン准将が率いていました。ジュフロワ将軍は同師団の前・第1旅団長でヴァンドーム戦後に大佐から戦時昇進し、ボージョンシー=クラヴァンの戦いで重傷を負ったデフランドル将軍に代わり師団長となっていたのです。
ドゥ・ジュフロワ=ダバン
この師団は、トゥールに向かう独第10軍団(前述)を牽制し、その一部を振り向けさせるため、仏第2ロアール軍司令官アントワーヌ・アルフレ・ユージン・シャンジー将軍から命じられて23日に宿営していたル・マンの東側地方からヴァンドームへ向け動き始めたもので、師団はブレイ川(前述)とロワール川の合流点付近まで行軍すると、ここで周辺の友軍部隊と連絡を取って後方の安全を確保しました。このロワール河畔に展開していた部隊はヴァンドームの戦い後の退却時、サン=タマン(=ロングプレ)とモントワールを経て後退したパリ将軍旅団の一部で、ラ・シャルトル=シュル=ル=ロワール(モントワールの西21.7キロ)からシャトー=デュ=ロワール(ラ・シャルトルの西南西12.3キロ)の間に陣地を構築していました。
また、この右翼(南)側、ヌイエ=ポン=ピエール(トゥールの北北西19.8キロ)付近にはドゥ・クルタン将軍率いるヴィエンヌ県都ポアチエ(同南94キロ)から来た数千名の護国軍部隊があり、この南にリューデリッツ将軍やE・ヴォイナ将軍の軍勢とモネで戦ったフェリー=ピザニ将軍の護国軍部隊がおり、共にトゥールを護っていました。
これらの部隊はフォン・フォークツ=レッツ将軍麾下による一連の攻撃で一旦はソーミュール(トゥールの西南西59.6キロ)方面へ退却していましたが、独軍がトゥール付近から引き上げると直ちに前進しセルレ(トゥールの北11.7キロ)周辺まで戻って来ていたのです。
ドゥ・ジュフロワ=ダバン准将は27日、西郊でブレイ川がロワール川に注ぐスジェの部落から第17軍団第3師団第1旅団*と共に前進し、麾下を3隊に分けて独軍を攻撃しました。第1梯団は歩兵2個大隊と砲兵1個中隊でレ・ロシュ=レヴックへ、第2梯団は歩兵1個大隊と砲兵1個中隊でトロオへ、第3梯団は歩兵2個大隊と砲兵1個中隊、そして2門のミトライユーズ砲でモントワールへ、それぞれ向かいサン=カンタン・レ・トロオでボルテンシュターン中佐を捕捉したのでした。
※27日のジュフロワ支隊
○第1梯団(レ・ロシュ=レヴック攻撃)
・マルシェ猟兵第1大隊
・マルシェ第45連隊の1個大隊
・砲兵1個中隊
○第2梯団(トロオ攻撃)
・護国軍第70「ロット県(仏中南部)」連隊の1個大隊
・砲兵1個中隊
○第3梯団(モントワール攻撃)
・マルシェ第45連隊の2個大隊
・砲兵1個中隊
・ミトライユーズ砲2門
モントワールの戦闘記念碑(20世紀初頭)




