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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・極寒期の死闘
417/534

ヴァンドームへ


 仏国防政府派遣部のガンベタは12月9日、既に事実上の「仏国政府」となっていた「派遣部」をトゥールから大西洋岸のボルドー(南へ300キロ)へ移転することを決しました。

 シャンジー将軍率いる仏第2ロアール軍が独大公軍を阻止している最中の「引っ越し」は、下手をすれば敵味方双方から「敵前逃亡」と受け取られかねない怖れもあった訳ですが、何時でも強気のガンベタがこの時点で「負の決断」を行った背景には、やはり戦闘の連続と錬成不足で疲弊し尽くし軍需物資も十分に行き渡っていない自軍の現実が重くのしかかっていた証左(時間の問題でシャンジー軍は敗走しトゥールへ独軍が殺到するとの読み)だと思われます。

 その「罪滅ぼし」であるかのようにガンベタは9日の午後6時、仏第2ロアール軍本営が置かれたジョスヌに現れ、シャンジー将軍に対し派遣部のボルドー移転を知らせます。彼はジョスヌで一晩明かした後、シャンジー将軍と協議してからブロアに移動、ここでロアール対岸に布陣する北独第9軍団のH師団砲兵による市街砲撃に遭遇しました。その時川越しにH師団長のヘッセン大公国ルートヴィヒ・カール公太子による降伏を示唆する呼び掛けがありますが、これを言下に拒否しています。やがてガンベタは後ろ髪を引かれつつボルドーへ出発するのでした。


挿絵(By みてみん)

 ガンベタ


 12月11日。シャンジー将軍は、マルシュノワールの森前面(東のヴィレルマン周辺)に展開する仏第21軍団第2師団(コリン将軍)に戦闘態勢を採らせて独大公軍の注意を引かせ、後方待機の諸隊から撤退を開始させました。コリン師団の活動に反応した普第22師団やB軍前哨部隊は小競り合いの銃撃戦を繰り広げ、これは夕刻まで断続的に続きました。同じく戦線中央では、仏第17軍団の第2、第3師団がロシュからコンクリエ(それぞれジョスヌの西5.6キロと南西4.7キロ)まで後退し、ロクブリューヌ将軍率いる同軍団の第1師団はセリ(同南南西4.6キロ)方面へ下がりますが、既述通りその後衛はセリの東北東2キロのモルテ農場で普第20師団の前衛に捕まり撃破されてしまいました。

 仏第16軍団長のジョーレギベリ将軍は、同軍団第1師団(ドゥプランク将軍)をトゥプネからセリ方面に下げ、カモ将軍師団はタヴェールの陣地帯からアヴァレ(ジョスヌの南南東8.8キロ)へ下がります。なお、シャンジー将軍はこの日タルシー(同西南西6.6キロ。16世紀由来の立派な城館があります)に後退し本営を置きました。


☆ 12月12日


 ロアール左岸ではブロアと対面した北独第9軍団が12日、対岸の仏軍(仏第16軍団第3師団)をにらみつつ更に前進を図り、軍団長のフォン・マンシュタイン歩兵大将は北独第25「H」師団をカンデ=シュル=ブーヴロン(ブロアの南南西12キロ)へ、普騎兵第3旅団をその左翼(南側)に並進させてウシャン(カンデの南東4.5キロ)へ、それぞれ進ませました。騎兵はウシャンで北進する普第15騎兵旅団との連絡を図ろうと試みますが普軍騎兵はその道中、西へ退却中の仏義勇兵中隊に遭遇したのみで、義勇兵たちは皆抵抗わずかで逃走し普軍が本格的な反抗を受けることはありませんでした。

 一方のロアール右(北)岸では、普第10軍団が仏軍落伍兵や追撃遅延を狙った少数の後置兵などを排除しつつ前進を継続、普第20師団はシュエーヴル(ブロアの北東13キロ)に、普第19師団はその後方メにそれぞれ達します。軍団の右翼(北)には連携を命じられた普騎兵第2師団(1個旅団欠)が続行し、大公軍との連絡を絶やさないようにしていました。

 同日、大公軍の普第22師団は更にその右翼側を進んでヴィレクサントン(ブロアの北北東18.5キロ)まで達します。その前衛は更に進んでマヴ(ヴィレクサントンの西4.3キロ)の東郊外まで到達しましたが、この部落には仏軍の後衛部隊がおり、既に夕暮れ時となっていたため普軍は攻撃を諦め、付近で警戒しつつ野営するのでした。

 普第22師団の右翼には普第17師団が進み、この日はラ・マドレーヌ=ヴィルフルワン(農場と付近の家屋。ヴィレクサントンの北北西4キロ。現存します)に進みます。師団の騎兵旅団である普騎兵第17旅団は師団右翼支隊となり、更に北上してマルシュノワールの部落(ラ・マドレーヌの北5.7キロ)を占領しました。この騎兵旅団には師団から普擲弾兵第89連隊の第2,3大隊・普猟兵第14大隊の第3中隊・普野戦砲兵第9連隊の重砲第5中隊が同行しています。

 この日普騎兵第17旅団は退却中の仏第2ロアール軍の馬車隊に追いついて攻撃を行い、貧弱な護衛を駆逐すると各種馬車40輌の鹵獲に成功しました。

 マルシュノワールの森北側の偵察を命令された普騎兵第4師団は、普騎兵第8と同第10旅団をバコンに置き、斥候を森林の北方へ放ちました。この戦争中、敵地浸透・偵察に大活躍のライン竜騎兵(普竜騎兵第5連隊)は前日(11日)、シャトーダン方面へ2個中隊を送り出し、この日(12日)には残り2個中隊がヴェルド(ウズーエ=ル=マルシェの北西9キロ)に進みました。これら諸隊は道中にある部落で多くの仏兵を見掛け、彼らは多くが西への撤退中でしたが、中には部落になんとか防御態勢を構築しようとしている部隊も見受けられるのでした。こうした状況から、単体での行動は危険と感じた連隊長チャールズ・ハリソン・ヴリヒト大佐はこの12日、先行する2個中隊を呼び戻して再び連隊単位に戻るとオゾワール=ル=ブレイユ(ウズーエ=ル=マルシェの北北西12キロ)に進んで大公軍の右翼(北側)外を警戒するのでした。


 これら大公軍第一線の後方では、普騎兵第4師団の残り、普騎兵第9旅団がトゥペネ(ジョスヌの南東2.1キロ)周辺に進み、B第1軍団所属の砲兵4個中隊がB第4旅団と共に大公軍に残ってジョスヌ付近で宿営しました。なお、残留した残りのB軍砲兵2個中隊は、軽砲4個中隊が全ての砲を失ってしまった普第22師団の傘下に入り、この日ヴィレクサントンで師団に合流しています。

 激戦の連続でほぼ戦力が半減してしまったB第1軍団残りの3個旅団は全てオルレアン市街へ向けて出立し、逆にロアール川上流域(東)からやって来た普第3軍団と普騎兵第1師団はオルレアンに入城すると、短時間の休息と補給をした後、ボージョンシーに向けて出立するのでした。


 この12日前後、それまでの極寒が緩んで雪が溶け、また氷雨も降ったために大地は泥濘に沈み、街道筋も何度も往復する軍隊のため深い泥の海となっていました。このため行軍は困難を極めますが、これはベテランの兵士と士官の数が相対的に多い独軍よりも、一部は「烏合の衆」となりかけている練度と士官の数が圧倒的に少ない仏軍に対し大きな影響を与えました。

 普第22師団と普第17師団が行くマルシュノワールの森南側ではその兆候が顕著に現れ、街道筋には多くの落伍兵が放心状態で見つかり、武器や馬車が打ち捨てられて山となり、泥に埋もれた人馬の遺体がそこかしこに散乱、点在する部落や農場には数千名に昇る戦病者や負傷者がろくな手当も施されず、為す術もない住民が介抱する姿が見られたのです。

 これは正に軍隊の末期症状で、進む独軍兵士たちには戦争が間もなく終わるとの希望が芽生えますが、その進む独軍兵士たちも疲労が蓄積し、体力も限界に近付き怪我や病気にかかりやすい状況で、ただ厳格な規律とプライド、そして「勝っている」という状況が彼らを支えていたのでした。

 しかしこの仏軍衰退の状況は12日時点でボージョンシーまで前進したカール王子の本営にまで伝わっておらず、幕僚たちは「仏軍はどこか適当な地点で立ち止まり反攻を企てるに違いない」と信じていたのです。カール王子は仏第2ロアール軍の目的が完全に判明しない今、未だ10万は下らないだろう敵がブロアへの道を辿っている間は、敵の面前へ疲れ切った大公軍2万を進ませるのは危険ではないのか、と思い始めるのです。

 そこでカール王子は「翌13日、大公軍諸隊は12日中に到達した地点で停止し、最前線にある各前衛のみ敵を追跡せよ」との命令を出すと、比較的元気な普第10軍団に「翌13日午後1時をもって十分な兵力によりブロアを攻撃・占領せよ」と命じ、ロアール左岸を進む北独第9軍団には「必要あらば第10軍団のブロア攻撃を援助せよ」普第3軍団には「未だオルレアン付近にある最後尾の梯団は急ぎボージョンシー付近にある本隊へ合流せよ」との命令が下ったのでした。


 仏第2ロアール軍はこの12日、前述通り非常に苦しい後退行軍を行い、何とか12キロ前後を稼ぎます。

 仏軍の左翼(北)となる第21軍団はマルシュノワールの森縁に沿ってゆっくりと西へ向かい、マルシュノワールの部落とモレの間に宿営又は野営しています。この軍団と行動を共にする義勇兵集団は森林中と北方の部落に分散して、普第4騎兵師団の斥侯たちを悩ませました。

 軍の中央部では仏第17軍団がロシュ~コンクリエ~セリの線から後退し、ブロア~シャトーダン街道(現・国道D924号線)に沿ったヴィエヴィー=ル=レイエ(ブロアの北30.8キロ)~ウック(同北24.6キロ)~ヴィルヌーヴ=フルヴィル(同北22.4キロ)の線に達し、左翼を仏第21軍団第3師団と、右翼を仏第16軍団第1師団とそれぞれ連絡しました。

 その仏第16軍団第1師団は、セリ周辺から後退してブロア~シャトーダン街道上のポンタジュー(同北17.2キロ)に至り、前日夕刻アヴァレからメにかけて展開していたカモ師団がポンタジュー~マヴ(ブロアの北17.2キロ)間に後退しています。


 ブロアには去る4日から仏第16軍団第3師団が駐屯し、追って第2師団が加わりロアール対岸から迫る北独第9軍団に対して防衛線を張っていましたが、この12日、ブロア方面の防衛に責任を負っていた第2師団長バリー将軍と第3師団長のモランディ将軍らは接近する普第10軍団を認め、更にシャンジー将軍との連絡も一時的に途絶えたため「これ以上市の防衛は不可能」と断じて一斉に北西方向への後退を始めました。彼ら仏第16軍団主力はこの12日から13日に掛けてエルボー(ブロアの西14.5キロ)を経てサン=タマン(=ロングブレ。ヴァンドームの南南西12.2キロ)へ進むのでした。


 シャンジー将軍の本営はこの日、ノワイェ(ウックの西南西5キロ)にありました。


挿絵(By みてみん)

仏マルシェ竜騎兵の突撃


☆ 12月13日


 翌13日早朝。昨日とこの日黎明以降明らかとなった仏軍衰退の情報がカール王子の下に集まり始めます。午前9時には普第10軍団の先鋒部隊から報告が届き、それによれば「ブロアの敵は昨夜以来撤退した模様」とのことで、また仏軍の野営跡や宿営にある遺留品や書簡から「仏第2ロアール(Loire)軍はロワール川*方向に撤退していることは明らか」とされるのです。また、マルシュノワールの森北方を偵察する普騎兵第4師団は、マルシュノワールの森北辺に未だ隠れ潜み、少数で行動する普軍騎兵斥侯を狙撃しては森の奥深くへ逃走する仏義勇兵に悩まされつつも、仏第21軍団と仏義勇兵諸中隊が西へ向かっていることを確認し報告して来ました。


※Loir。ペルシュ地方を水源にシャトーダンやヴァンドームを抜けて西へ流れ、メーヌ=エ=ロワール県都アンジェの北でサルト川に合流します。大河ロアール(Loire)と区別するため拙作ではロ「ワ」ールと表記しています。


 カール王子はそれまで、ロアール川に沿ってブロアからトゥールへ進むことを考えていましたが、これにより「南西方向でなく真西に向かう」ことを決心するのです。

 王子は13日正午、貴重な1日の休息を得た大公軍に対して「翌14日、右翼(北)がモレ(ウズーエ=ル=マルシェの西21.7キロ)へ、左翼(南)はウックへそれぞれ達すること」を命じます。

 同じ頃、ブロアが普第10軍団によって占領され、北独第9軍団前衛は仏軍部隊に遭遇せずシェール川の線(ブロアからは30キロほど)まで到達した、との報告が入りました。カール王子は空かさず普第10軍団に対し「前衛支隊をシス川(ブロアの西8キロ付近を南北に流れるロアール支流)の線まで送り、斥候をエルボー及びアンボワーズ(ブロアの南西32.7キロ)方面へ派遣せよ」と命じました。

 この日ボージョンシー周辺で集合のなった普第3軍団と普騎兵第1師団は、「翌14日マヴまで前進せよ」と命じられ、北独第9軍団及び同軍団と連絡のなった普騎兵第6師団は「ブロア付近のロアール橋梁が修理開通するまで左岸に留まり、この間に軍団はサン=ディエ(=シュル=ロアール。ブロアの北東13.9キロ)にも軍舟橋を架設せよ」と命じられました。


 カール王子の参謀長、フリードリヒ・ヴィルヘルム・グスタフ・フォン・スティール少将(当時47歳と若く、将来を嘱望されていたエリートの一人です)は、この13日に本営が移動予定のシュエーヴルへ先着し、設営の準備を指揮していましたが、ここへ参謀総長モルトケが12日に発送したスティール将軍宛の書簡が届きました。

 これはカール王子の「懐刀」に対し、戦争全般の現況と独第二軍が必要となるであろう情報を集約しモルトケの見解を示したもので、敵が衰退し終戦が垣間見えて来たものの自軍も疲弊し苦しい状況下、悩むスティール参謀にとって進むべき方向を照らしてくれるありがたいものだったのです。

 その書簡の主旨は次のようなものでした。

「11月下旬から12月初旬に掛けて、親王配下の軍(=独第二軍と大公軍)はパリ救援に赴かんとする仏軍を撃破した。親王軍の任務は今やこの四散した仏諸軍団を急追し、これらを長きに渡って行動不能とすることにある。この任務はここ数日間、大公軍によって継続される仏軍に対する攻撃によって実施されているものの、パリが未だ陥落していない現状では、(大公軍を含む)親王軍がパリから遠く離れることは好ましくない。同時に、連戦と長期行軍に明け暮れる親王軍に必要とされる休養・補給・営繕のためにも一時停止が必要とされるところである。

 従って、(ロアール川の)南方に対する作戦は特別の事情や戦況が訪れない限り、トゥール~ブールジュ~ヌベール(ブールジュの東59キロ)の線より越えて行ってはならない。同時にオルレアンに独第二軍主力を置き、全戦線の中核とすることが肝要である。

今後大公の軍はシャルトル周辺に進んで布陣し、ノルマンディー地方に潜む敵に対する警戒任務を行うようにすることを望む。万が一、コンリー兵営(ル・マンの北西20キロにあった仏軍の兵営で、当時仏西部の義勇兵や護国軍部隊の練成中心地でした)に集合する敵の予備軍が、退却行にある敵第2ロアール軍と合流するに至った場合は、現シャルトル付近に駐在する普第5騎兵師団がノジャン=ル=ロトルー付近まで前進し監視、場合に因っては追撃に当たらせるので、シャルトルに至った大公軍はこの時点でパリ包囲網の一部と任地を交換するか、同軍は解散して各団隊は諸任地に再配分されるかの判断をすることとなろう。

 貴官ら第二軍参謀が特に留意すべきはブルバキ将軍隷下の軍の存在である。目下ブールジュ周辺にあると思われるブルバキ軍を絶えず確実に監視下に置き、その行動に注意せよ。もし、ブルバキ軍に対抗するためフォン・ツァストロウ将軍麾下の軍団(普第7軍団)と連携し作戦する必要が生じた場合、親王は大本営を介さず直接同将官と連絡し協議し行動してよろしい。因みにフォン・ツァストロウ将軍は12月13日においてシャティオン=シュル=セーヌで歩兵2個連隊を麾下に加える予定である」(モルトケ12月12日発送の書簡要旨。筆者意訳)


 一方、ブールジュへ退いたブルバキ将軍は、ガンベタやフレシネ、そしてシャンジー将軍からも書簡や伝令によって「再出撃」を催促されていました。しかし、ブルバキ将軍からすれば僅か1週間前にオルレアン東方に赴任したばかりで3個軍団(仏第18、20軍団、第15軍団の残部と第16、第17軍団の一部)の統括指揮を命じられ、麾下諸隊は崩壊寸前で脱走兵や傷病・落伍兵が続出する中、規律を復活させ補充や休養に奔走している最中では無理な相談、というものでした。

 それでも将軍は12日、イェーヴル川(ブールジュの東25キロ付近のボジからブールジュを経てビエルゾンでシェール川に合流します)に沿ってブールジュに迫っていた普騎兵第14旅団の諸斥侯に対抗するため、比較的落ち着きを取り戻した歩兵数個大隊と騎兵部隊を出撃させます。この仏軍支隊はイェーヴル沿岸を下りつつ遭遇する普軍騎兵斥侯を駆逐し、同日中にはその騎兵部隊がビエルゾン市の外郭胸壁まで押し寄せ、これと呼応するかのように市街地で市民の一部が蜂起し始めました。

 この時、ビエルゾン市街には市街治安とブールジュ方面監視のため普騎兵第14旅団から騎兵4個中隊(1個連隊/半個旅団規模)が抽出されており、普槍騎兵第3「ブランデンブルク第1/ロシア皇帝」連隊長で当時普騎兵第15旅団を代理指揮していた伯爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴァルター・フォン・デア・グレーベン大佐が麾下をシェール川下流へ送り出した後も残留し指揮を執っていました。大佐は市民の反抗を抑えつつ何とか夜を明かしますが、翌13日、南方と東方から仏軍歩兵の大集団が現れ、たちまちの内に市街北方に広がる森林地帯を抑え、グレーベン大佐らはオルレアン方面への退路を塞がれ市街は包囲されてしまうのです。降伏しか手がないような絶体絶命状態に陥った大佐は、それでも騎兵4個中隊を率いて強硬突破する途を選んで市街北方へ出撃し、猛銃撃と追撃をかわして森林を左右に迂回しつつ逃走、損害を受けながらも正午頃にヘルマン・アルベルト・ツー・リナル中佐が指揮を執る普第14旅団本隊(残り8個中隊)が待つサルブリへ到着しました。仏軍部隊はグレーベン支隊をビエルゾン北方の森林地帯まで追ったものの深追いをせず、ビエルゾンからも引き上げ、シェール川の線まで下がって行きました。この日普騎兵第14旅団は戦死4名・負傷4名・捕虜5名・15頭の馬匹を失っています。

 このシェール川下流域ではグレーベン大佐の部下たち(普騎兵第15旅団)が師団長カール・ヨハン・フォン・シュミット少将に直率されて周辺を捜索しつつトゥール方面へ進み、同じくシェール河畔を遡ってこの普騎兵第15旅団と連絡を付けるよう命じられモントリシャール(トゥールの東38キロ)まで進んで来ていた普騎兵第3旅団共々、この日は仏軍に遭遇することはありませんでした。


挿絵(By みてみん)

普軍騎兵と仏竜騎兵の遭遇戦


 北独第9軍団には13日、H第2連隊が復帰します。この連隊は12月5日、オルレアン陥落後に多くの仏兵が隠れ潜んだと思われていたオルレアン大森林の捜索を命じられ、任務完了後H騎兵第1連隊の第1中隊と共にオルレアン市街の治安警備に就いていましたが、11日にB第1軍団・第1旅団が市街に入ると本隊復帰を命じられブロアに行軍したものでした。

 軍団はこの日午前中に3個大隊をボートに分乗させてロアールを渡河させ、ブロア市内へ送り込みます。ブロアには既に普第10軍団の先遣隊が入城していましたが、この日カール王子の命令で軍団の残部も市街へ入って来ました。軍団の前衛は市街北方へ出て警戒線を張ります。


 この普第10軍団の右翼(北)側では普騎兵第2師団(普騎兵第4、5旅団)が仏軍に出会うことなくヴィレルボン(ブロアの北北東8.8キロ)周辺に達しました。

 ヴィレクサントンで一時休息を取っていた普第22師団は、その前衛をコナン(ヴィレクサントンの西10.2キロ)に進め、普騎兵第4師団で単独南方へ転進した普騎兵第9旅団はこの日トゥペネを出立して、普第22と第17両師団の間となるボワソー(コナンの北2.7キロ)に進みます。

 普第17師団は前衛をエピエ(ボワソーの北西5.1キロ)に進め、本隊はウック(同北5.6キロ)に達しました。この師団傘下の普騎兵第17旅団はウック近辺で仏軍のまとまった集団に遭遇しましたが、旅団と共に行軍していた重砲1個中隊が緊急展開して砲撃を始めると仏軍は戦うことなく一斉に北へ退却して行きました。この後、騎兵たちはマルシュノワールの森南縁のヴィエヴィー=ル=レイエ(ウックの北4.9キロ)まで捜索範囲を広げて敵を探すのです。

 この大森林北方では、普騎兵第4師団傘下の普騎兵第10旅団が偵察活動を行い、クロイエ(=シュル=ロワール。シャトーダンの南西10.7キロ)周辺に仏軍の大野営地があることを突き止めました。斥候たちが付近の住民を捕まえて尋問したところ、仏軍はシャトーダンにも集合地を設けているとのことでした。この旅団からは驃騎兵2個中隊がマルシュノワールの森内部まで入り込み偵察を試みましたが、義勇兵と思われる集団があちらこちらに潜んで銃撃を加えたため詳細な偵察は不可能となり、また、ビナに仏軍騎兵の集団が現れたため、普騎兵第10旅団は退路を塞がれる前にモレへの街道(現・国道D357号線)に乗ってシャルソンヴィルまで後退するのでした。

 なお、普騎兵第4師団の残り普騎兵第8旅団はこの日別命を受け、マルシュノワールの森南縁を辿るように西へ進み、ラ・マドレーヌ=ヴィルフルワンへ至っています。


挿絵(By みてみん)

住民を尋問する普槍騎兵斥侯


 メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世は13日夕、翌14日の命令を発します。それによれば、「普第17師団は右翼(北)を北上させてエコマン(ウックの北7.5キロ)経由でモレまで進み、左翼(南)は北西に進んでフレトゥヴァル(モレの南西2.5キロ)でロワール川に達するよう」命じられ、「普第22師団は13日に普第17師団がいた地域(ウック~エピエ)に進み」「現在ジョスヌに留まっているB第4旅団とラ・マドレーヌ=ヴィルフルワンの普騎兵第8旅団は、普第22師団の後方となるサン=レオナール(=アン=ボース)周辺に至って宿営」「軍の右翼外となるモレ北方地域は普騎兵第10旅団が、同じく左翼外となるウック南方地域は普騎兵第9旅団がそれぞれ敵の捜索をおこなうこと」と命じられたのでした。


 仏第2ロアール軍はヴァンドームに向かって後退を続け、中央と左翼(北側)はほぼロワール川を越えます。

 仏第21軍団は一部の義勇兵を除き、マルシュノワールの森一帯から引き上げてロワール川の線に退き、クロイエ(=シュル=ロワール)からフレトゥヴァルに掛けて展開しここで防衛線を敷きました。

 その南に続く仏第17軍団はペズー(ヴァンドームの北北東9.9キロ)付近から川に沿ってヴァンドームまでに展開し、単独行動が続くドゥプランク将軍の仏第16軍団第1師団とカモ将軍師団はポンタジュー周辺から一気にヴィルロマン(ヴァンドームの南東9.1キロ)へ至り、ここからトゥール~ヴァンドーム街道(現・国道D96号線)とブロア~ヴァンドーム街道(現・国道D957号線)間に進んで展開し、ウゼ川(ウックの南西付近を水源に西へ流れヴァンドーム東郊外でロワール川に注ぐ支流)とロワール川の間では仏第16軍団の騎兵たちが遊動して独軍出現を警戒し、仏第17軍団の騎兵はロワール川以東で活動し、一部はマルシュノワールの森周辺で独軍斥侯を駆逐しています(前述)。

 仏第16軍団の本隊となるバリー将軍指揮下の2個(第2、3)師団はサン=タマン(=ロングプレ)に達しましたが、北方へ12キロ離れたヴァンドームに至ったシャンジー将軍とは未だ連絡が付いていませんでした。

 

☆ 12月14日(モレ=フレトゥヴァルの戦闘)


 翌14日午前3時。普第17師団は前出大公の命令により3つの支隊によって行動を開始します。


※12月14日早朝・普第17師団の行軍序列

◇右翼(北/東)支隊

行軍経路 ヴィエヴィー=ル=レイエ~エコマン~モレ

○普擲弾兵第89「メクレンブルク」連隊(2個中隊欠)

○普竜騎兵第17「メクレンブルク第1」連隊

○普槍騎兵第11「ブランデンブルク第2」連隊

○普野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・重砲第5中隊、同騎砲兵第1中隊

◇中央支隊

行軍経路 ウック~レ・ロンス(ウックの北西5.2キロ)~フレトゥヴァル

○普第33旅団(第75「ハンザ第1」・第76「ハンザ第2」連隊。第76連隊の第3中隊欠)

○普竜騎兵第18「メクレンブルク第2」連隊・第2,3中隊

○普野戦砲兵第9連隊・重砲第6中隊、同軽砲第6中隊

◇左翼(南/西)支隊

行軍経路 エピエ~シャンプラン(エピエの北西6キロ)~フレトゥヴァル

○普フュージリア第90「メクレンブルク」連隊

○普猟兵第14「メクレンブルク」大隊(第3中隊欠)

○普竜騎兵第18連隊・第1,4中隊

○普野戦砲兵第9連隊・軽砲第5中隊


※普第9軍団野戦工兵第1中隊は、サン=ディエでの舟橋架橋作業に時間が掛かり15日に本隊復帰します。また、普野戦砲兵第9連隊の騎砲兵第3中隊は牽引馬匹に疾病が発生したため行軍を中止し、ウックに残留しました。


 普第17師団の左翼支隊は全く抵抗を受けずに進撃し、昼頃にリニェール(フレトゥヴァルの南西3.2キロ)まで達しますが、午後に入ると右翼(東)側から砲声が轟き始めたため、進路を右に取ってル・ベルルエ(現ル・ブレイユの北側部分。リニェールの北東1.1キロ)で中央支隊と連絡しました。中央支隊ではその先鋒となったメクレンブルク竜騎兵が偵察斥候をロワール河畔に放ち、ここで初めて対岸に構えた仏軍を視認します。これは仏第21軍団の第3師団で、同僚の第2師団と共にロワール北岸に陣取り、この間に破壊されず残っていたフレトゥヴァルの橋を渡って市街を占領した普第76連隊第1大隊に対し地形の利(フレトゥヴァルの北側は急斜面を成す高地です)を活かして銃砲撃を浴びせました。

 普軍中央支隊はここで砲兵2個中隊を11世紀由来の古城廃墟(シャトー=ドゥ=フレトゥヴァル)がある丘陵の麓、パロル(農場。フレトゥヴァルの南1キロ。現存します)の東側に展開させて応射させ、反復攻撃を仕掛ける仏第21軍団に対し続々とフレトゥヴァルへ入った普第76連隊残りの2個大隊に応戦させるのでした。なお、普第75連隊の一部はここで隊を離れるとロワール下流にあった渡渉点(フレトゥヴァルの西1.6キロのクールセル付近にある堰堤か)を抑え、前哨をペズー(フレトゥヴァルの西南西5.5キロ)まで出してヴァンドーム方面を警戒し、更に斥侯が仏第21軍団と仏第17軍団の守備境界となるリスル(ペズーの南西2.5キロ)から西進して、仏軍に気付かれることなくヴァンドームの北方エスペルーズ(リスルの西北西4.4キロ)まで至るのです。なお、連隊の残りは砲兵援護を行いつつ予備としてロワール河畔で待機しました。

 普第76連隊は日没後もフレトゥヴァル市街を確保し続けましたが、午後7時前後、一旦は西方に退いた仏第21軍団第3師団はドゥ・タンプル准将が直率する第2旅団を出撃させてフレトゥヴァルの西側から奇襲を掛け、市街地では両軍入り乱れての激しい白兵戦が惹起しました。この戦いは一進一退を繰り返しますが、やがて普軍側が優勢となって遂には仏軍を全て市街から追い出し撃退するのです。


挿絵(By みてみん)

フレトゥヴァルの古城と橋(19世紀)


 エコマンに進撃した普軍右翼支隊も全く仏軍に遭遇することなくモレに達しました。しかしここでロワールを渡河し偵察に入ろうとした斥候は突然激しい銃撃を浴び、更に騎兵の襲撃を受け対岸まで逃げ帰りました。

 右翼支隊の砲兵2個中隊はラ・シャロニエール(農場と付属家屋。モレの東8キロ。現存します)付近に砲列を敷いて、ロワール対岸の高地縁に陣取った仏軍砲兵と対決し、これを退却に追い込みます。しかしこの日も朝から降雨が続き、耕地や空き地、農道などは泥濘が深く、砲の重みで砲車は完全に泥に埋まってしまうため、砲列は路盤を固めた街道上など限られた土地でしか砲撃を行う事が出来ませんでした。また、その榴弾は柔らかな泥に埋まって不発となる事が多く、双方の砲兵は苦労しながら砲撃を行っています。

 普擲弾兵第89連隊の4個(第3,4,6,8)中隊はモレ市街を占領し、残り8個中隊はラ・ブリニエール(モレの北1.5キロ)から片面包囲を狙う仏第21軍団兵(第1師団)に対抗するため、順次ラ・ルエル(同北東780m)付近に散兵線を敷き銃撃戦を展開しました。

 こうして普軍右翼支隊はモレを死守し、市街を確保したまま夜を迎えるのでした。

 普第17師団のこの日の損害は、戦死34名・負傷79名・行方不明(殆どが捕虜)23名・馬匹7頭喪失でした。


挿絵(By みてみん)

フレトゥヴァルの戦い(12月14日)


 普騎兵第10旅団はこの日シャルソンヴィルから出撃し、大公の命令に従って再びモレ北方の敵情を探りました。騎兵たちは普第17師団の戦いを横目にロワール川に沿って北上すると、昨日大規模な部隊宿営地を見たクロイエには未だ仏軍が居座っていたものの、その上流シャトーダン方面では仏軍が消えており、全てヴァンドーム方向へ撤退したことが判明するのです。

 普騎兵第8旅団はB第4旅団と砲兵隊と一緒に目的地のサン=レオナール(=アン=ボース)に到着し更にその西側周辺地域で宿営に入り、普騎兵第9旅団は普第22師団の左翼(南)側に偵察斥候を放つとウックの南方で待機し続けていました。

 普第22師団はウックに到着し、昨日の普第17師団同様エピエに前衛を派遣すると、この前衛は斥候を西側ヴァンドーム方面に放ち、クロミエ=ラ=トゥール(ヴァンドームの東5.7キロ)に仏軍の大きな部隊がいることを発見します。


 この日は大公軍全体がやや北西方向へ進んだため、ブロア周辺にいる独第二軍の最前線部隊・普第10軍団との間がやや開き気味となりました。このため、後続となった普第3軍団前衛はこの日マヴまで前進し、大公軍とブロアとの間に仏軍が入り込まないよう気を付けたのです。なお、普第3軍団の先(西)には普騎兵第1師団がおり、この日はコナン(マヴの西5.8キロ)の西側まで進みました。

 普騎兵第2師団は普第10軍団前衛のいるシス川まで前進し、更に斥候に川を越えさせてヴァンドーム方向へ進ませ一気にヴィルロマン付近まで進めます。しかしここで仏第16軍団の猟騎兵2個中隊によって奇襲を受け、ル・ブレイユ(ヴィルロマンの南東5.9キロ)まで追撃されますがうまく逃げおおせたのでした。

 普第10軍団は昨日の夕刻以降になって強力な偵察隊数個をブロアから出撃させており、一隊はロアール(Loire)川に沿ってアンボアーズ方面へ、一隊はエルボー、そしてもう一隊はヴァンドームへの街道をラ・シャペル=ヴァンドーモワーズ(ブロアの北東11.7キロ)へ向かいました。これら強行偵察の結果、各偵察隊は仏軍から抵抗を受けることがなく全てヴァンドーム方面へ撤退したことが判明し、道中、住民を捕縛して尋問した結果、トゥールには既に仏兵の姿はなく国防政府派遣部もボルドーに向けて移転した、との重要な事実も判明するのでした。


挿絵(By みてみん)

 仏軍猟騎兵


 この14日、独第二軍本営に集まった情報から、カール王子は「シャンジー将軍は麾下諸隊を殆どロワール川の線に集めており、ここで再び抵抗するはず」と考え、明日は再び「ボージョンシー=クラヴァンの戦い」のような激しい戦闘が始まることを覚悟します。このため王子は、この日前衛がマヴに達していたコンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将率いる普第3軍団を、ロワール川の最前線まで進めて攻撃の核とすることを構想しましたが、これは机上の空論というものでした。

 この日ブロア城の本営に届いた諸報告では、普第3軍団の状況は最前線にある大公軍諸団隊と変わらず将兵の疲弊が激しく、それもそのはず、この軍団は9日以来全く休みなしに強行軍を続け、それ以前もロアール上流でブルバキ将軍麾下の軍勢を追っていたため、1日だけでも休養としっかりした補給を欲していたのです。しかも軍団は前衛こそマヴに進んでいたものの、諸隊は延々と街道(現・国道D112号線)沿いに点在し最後尾は未だロアール川に近いメ(マヴからは南東へ11.8キロ)におり、マヴからヴァンドームまでたった一晩で22キロを走破させ、しかもそのまま戦闘に至るなどということは休養十分な精鋭でも無理難題と言えました。

 それでは、とブロアから西へ進み始めた普第10軍団を最前線に、と考えたカール王子でしたが、こちらも三方向に強力な支隊を送ったばかりで大公軍が明日行う戦闘を援助するのは困難であり、しかもその大公軍も、数週間に渡る激戦による損耗は多少の休養と補充では回復しておらず、前線の兵士たちは厳しい訓練で培った胆力と揺るぎない規律で辛うじて身体を支え、彼ら以上に文字通りボロボロの状態にあった敵と対等以上に渡り合っていたのです。

 カール王子は明日15日の先制攻撃を諦め、13日に届いたモルトケ参謀総長の書簡にあった全般状況と今後の作戦の主旨をまとめた書簡と、明日の命令を伝令士官に持たせて大公の下へ走らせました。


 フリードリヒ・フランツ2世大公はモルトケ書簡の要約とカール王子の命令を受け取ります。命令は、「普第3軍団の前衛と普第10軍団は明日、仏軍の右翼(南)側へ進出する予定なので、大公軍は明日一日面前の敵に対しこちらから攻撃を仕掛けてはならず、本格的な戦闘を極力避けるように」との主旨でした。


 カール王子は14日午前中、ブロア市内とロアール対岸にある北独第9軍団に対し「普騎兵第3旅団を原隊復帰させるよう」命じます。これはモルトケの訓令によって今後大公軍がカール王子の指揮下を離れることが確実となったための処置で、普騎兵第3旅団は直ちにサン=ディエの軍舟橋を渡って普騎兵第2師団を追い、14日中にミュルザン(マヴの南5.4キロ)まで行軍しました。

 更に王子は午後に入って麾下の諸隊に命令を発し、北独第9軍団は現在ブロアにある3個歩兵大隊に増援を送り、規模を1個旅団にするように命じられ、普第10軍団はヴァンドームに向けて戦闘態勢で前進するよう命じられます。


 カール王子は最初、普第10軍団に対し「明日15日、強力な一支隊をヴァンドーム方面へ差し向ける」よう命じていました。ところが、命令を受け取った軍団長のフォン・フォークツ=レッツ歩兵大将から「異議」があり、それによれば、「敵は練成不足で疲弊しているとはいえ2個軍団以上と思しき兵力があるので、ここは全部隊でヴァンドームへ向かいたい」とのことで、カール王子はあの普墺戦争では自身(普第一軍司令官)の参謀長だった部下からの進言を入れ、「普第10軍団は明日全力でヴァンドームへ至れ」と再度命じたのです。

 これによりフォン・フォークツ=レッツ将軍は明日15日のための命令を麾下に発し、ラ・シャペル=ヴァンドーモワーズに進んでいた支隊に、カール王子の差配によって普騎兵第2師団から送られる手筈の騎兵1個旅団と騎砲兵1個中隊を加えて軍団前衛となりヴァンドームへ前進するよう、ロアール川沿いに進んだ支隊とエルボーに至った支隊は合流し、普騎兵第2師団残りの1個騎兵旅団を加えてサン=タマン(=ロングブレ)へ向かうよう、それぞれ命じられたのです。


挿絵(By みてみん)

森林縁の戦い


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