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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・極寒期の死闘
416/534

ボージョンシー=クラヴァンの戦い(後)


☆ 12月10日


 12月9日。仏第2ロアール軍司令官アントワーヌ・アルフレ・ユージン・シャンジー将軍が本営を置くジョスヌに国防政府派遣部指導者ガンベタがやって来ます。

 5キロほど東で独仏将兵による死闘が繰り広げられる中、シャンジー将軍と協議したガンベタは、「ブールジュに退却した仏第15軍団とオルレアンから待避した諸隊は今後再び北上し、ソローニュ地方へ侵攻した独軍に対し牽制攻撃を仕掛けるので、それまでの間、シャンジー将軍は第2ロアール軍をボージョンシー~マルシュノワールの森戦線に留め置くこと」を命じ、将軍もこれを了承します。

 シャンジー将軍はこの9日の戦闘終了後にフレシネへ送った戦闘報告の中で麾下諸隊の奮戦を賞賛し、「本日独軍は戦線を動かすことに失敗し、結果この3日間を無駄に過ごしてしまった」と断じました。しかし実際には敵大公軍と同様、前線の仏第17軍団と仏第16軍団の一部、そしてカモ師団の将兵は3日間に及ぶ戦闘の連続で疲弊し、弾薬も不足し始め、ただでさえ乏しい糧食補給も怪しくなっていたのです。

 ここまでは兵員数が第2ロアール軍のおよそ四分の一以下と思われる独大公軍に対し数を頼みに互角へ持ち込んだシャンジー将軍でしたが、やがて前線に独軍の増援が現れれば形勢は敵大公軍有利となり、既にブロアに迫るロアール左(南)岸の敵の存在(北独第9軍団)もあって、時間が過ぎれば過ぎるほど自軍が不利となるのは明白でした。

 しかし敵大公軍にとっても状況は決して芳しいものではないことをシャンジー将軍も気付いており、お互いここが我慢の為所と考えた将軍は何とか「ボージョンシー~クラヴァン~ビナ」の線を回復し、遥か南方に退き再起を図っているはずのブルバキ将軍率いる「第1ロアール軍」の反攻を待とうと考えるのです。

 シャンジー将軍は自軍の前線に殆ど接するまでに延びる普軍前線の内、まずは突出部となっているオリニー~ヴィルジュアン~ヴィルマルソーの普軍前哨を排除することに決め、9日の宵、仏第17軍団に対し「敵の突出部となっているオリニー付近の敵を駆逐せよ」と命じたのでした。


 メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世歩兵大将は、9日夕に発せられたカール王子の命令を受けた上で、9日深夜、普第17と普第22師団に対し「B第1軍団に代わって戦場に到着しつつある普第10軍団を援助するため、10日午前中に集合場所にて戦闘準備を成せ」と命じます。この時、大公軍本営では幕僚たちや大公自身もこの日の戦闘は「激しいものにはならない」と踏んでおり、希望的観測として「数日間の激闘で敵も疲弊し尽くしているはずで、オリニー周辺からの後退によりひょっとするとこのまま全面的な撤退に移行するのでは」との期待もあったのです。

 この内、普第22師団の普第32「チューリンゲン第2/ザクセン=マイニンゲン公国」連隊は最前線となるオリニー、ヴィルジュアン、ヴィルマルソーの各部落に展開したまま夜明けを迎えますが、師団長のフォン・ヴィッティヒ将軍は黎明前、連隊の半数以上となる7個中隊を大公の命令に従って原隊の普第43旅団に復帰させるために後退させ、前線の三部落にはわずか4個中隊*だけが前哨として残ることとなったのです。


※10日早朝の普第32連隊

*オリニー在・第7,8中隊

*ヴィルジュアン・第1中隊

*ヴィルマルソー・第12中隊

*普第43旅団に合流(セルネ)・第2~6,9,11中隊

*別任務に派遣・第10中隊


 この普軍最前線突出部に対し午前7時前後、数倍する仏軍集団が突然襲い掛かったのでした。

 仏第17軍団の数個大隊は夜明けと共に前線から出撃し、まずはオリニーを包囲攻撃しました。対する普第32連隊の第7,8中隊は襲い来る仏将兵に対し必死で防戦しますが、数に勝る仏軍の猛攻を防ぐことは出来ず、部落は占領されてしまいます。普軍の半数150名余りは手を挙げて降伏し、およそ半数が白兵戦に持ち込んで包囲を破り、北東方へ900m強離れたヴィルジュアンへ逃走しました。しかし、ヴィルジュアンの第1中隊も程なく数倍する敵に囲まれ、オリニーの残存兵が加わっても状況は焼け石に水状態で、ザクセン=マイニンゲン公国兵たちは銃弾をほとんど撃ち尽くすと東へ向けて血路を開き撤退するのでした。


挿絵(By みてみん)

普第32「チューリンゲン第2」連隊によるヴィルジュアン攻防


 この緊急時、普第43旅団本隊はセルネに、普第44旅団はクラヴァンにそれぞれ集合中、B第1軍団は払暁から戦闘準備をして待機中でしたが、この内B第4旅団は軍団長フォン・デア・タン歩兵大将から直接命令を受けてヴィルショモンに、B第2旅団はレ農場からボーヴァール農場に掛けてそれぞれ展開していました。

 因みにB第1旅団は戦場では貴重な戦力となる砲兵隊*を置いて黎明時オルレアン市内へ向けて出立し、B第3旅団は軍団予備としてボーモン部落とその周辺で戦闘準備を終え待機に入っています。


※戦場に残ったのはB野戦砲兵第1連隊4ポンド砲第1、6ポンド砲第7中隊と護衛のB猟兵第2大隊。なお6ポンド砲第5中隊は既述通り全ての砲を失って戦力外となっています。


 仏第17軍団はヴィルジュアンを奪還すると隷属する砲兵隊(3から6個中隊)を前進させて独軍戦線に向け砲撃を開始し、対する独軍も砲兵6個中隊*により対抗砲撃を開始するのでした。


※10日早朝・ヴィルジュアンの戦闘に参戦した独軍砲兵

○ヴィルショモン付近

・B野戦砲兵第3連隊6ポンド砲第5中隊

・同連隊6ポンド砲第6中隊

○セルネ付近

・普野戦砲兵第11連隊重砲第3中隊

・同連隊重砲第4中隊

○ボーヴァール付近

・B野戦砲兵第3連隊6ポンド砲第3中隊

・同連隊6ポンド砲第4中隊

※ヴィルショモンのB軍2個砲兵中隊はB第3旅団隷属でしたが、B第2旅団隷属砲兵2個(B野戦砲兵第1連隊4ポンド砲第3、6ポンド砲第3)中隊が全ての砲を損耗し戦力外となったため、以降B第2旅団の戦域で戦います。


挿絵(By みてみん)

ヴィルジュアン(オリニー)で捕虜となる普軍兵士


 こうしてヴィルジュアンを巡る攻防が続く午前10時30分、独軍戦線右翼で偵察を行っていたBシュヴォーレゼー騎兵第3連隊から大公軍本営に報告が届き、それによれば「敵はヴィレルマン周辺に強大な兵力を集中している」とのことで、これはマルシュノアールの森前面に展開している仏第21軍団が動き始めた証左でした。これに対するB第2旅団は前線をクードレイ城館(レ~ボーヴァール農場からは北へ3.5キロ)まで延伸し、ただでさえ少なくなっていた兵力をロネイとヴィレルマン中間のモンティニーやジュイへ配置すると、予備の諸隊や砲兵援護のB猟兵第2大隊もこの戦線に進むよう要請するのでした。

 更に仏第21軍団の砲兵隊も最前線へ進んで砲撃を開始したため、独軍側も砲兵7個中隊*を前線に進め対抗砲撃を始めるのです。


※10日午前遅くに参戦した独軍砲兵(前述早朝配備の砲兵と合同)

○ヴィルショモン付近

・普野戦砲兵第11連隊軽砲第3中隊*

○ボーヴァール付近

・B野戦砲兵第3連隊4ポンド砲第1中隊

○モンティニー付近

・B野戦砲兵第1連隊4ポンド砲第1中隊

・同連隊6ポンド砲第7中隊

・同連隊4ポンド砲第3中隊

○クードレイ城館付近

・B野戦砲兵第1連隊6ポンド砲第9中隊

・B野戦砲兵第4連隊6ポンド砲第10中隊


※ヴィルショモンに前進した普第22師団の軽砲中隊には、同僚軽砲第4中隊の1個小隊2門とB軍団砲兵の予備4ポンド砲1門とそれを操作する普第22師団砲兵が加わりました。これらの大砲は連日長時間に渡る連続砲撃で後装閉鎖器が焼けて損耗し、夕刻には全ての砲が発射不能となってしまいます。なお、普第22師団の他の軽砲(第4中隊の4門と第5,6中隊の12門)は前々日の8日、こちらも砲撃のし過ぎで使い物とならなくなって戦闘力を失っていました。


挿絵(By みてみん)

普軍砲兵の軍装


 この前線に出動した独軍砲列は正午過ぎ、クラヴァンへ進んだ普第10軍団の砲兵隊中更にモンティニー南方へ進んだ4個砲兵中隊によって増強され、午後1時を過ぎると更にクードレイ城館に進んだ普騎兵第4師団の2個騎砲兵(普野戦砲兵第11連隊の第2、同第5連隊の第1)中隊が参戦したことで最大となります。

 この普騎兵第4師団の斥候は早朝、命令通りモレ付近まで侵入して偵察を行い、同地の仏軍は配置に在るものの前進の気配は一切ないことを報告しました。これを聞いた師団長の王弟アルブレヒト親王は、砲兵援護に在る普槍騎兵第10連隊を除いた普騎兵第10旅団をクードレイ城館の北へ進め、残り2個旅団をクードレイ城館の東側に留めて予備とするのでした。

 独大公軍の戦線右翼(北)端となったクードレイ城館から左翼(南)ヴィルショモンに至る前線に展開する砲兵19個中隊による砲撃は威力抜群で、午後3時になると対する仏軍砲兵(仏第21、17、16軍団)は損耗と度重なる陣地転換で疲弊が激しくなり、砲戦を終了し撤退を余儀なくされるのです。

 この、午後3時以降仏第21軍団と仏第17軍団の左翼(北側)は局所のみ銃撃戦を続行し幾度かは独軍前線に対して突撃を敢行するものの、それまでの熱意は乏しく独大公軍側はこれを容易に撃退することが出来ました。


 一方、独大公軍左翼(南側)の普第17師団戦線では午後になっても戦いの勢いは収まりません。

 ハインリッヒ・フォン・マントイフェル大佐率いる普第17師団前衛支隊はボージョンシーからクロ・ムッスを越えてル・グロール(農家。クロ・ムッスの北西900m。現存します)までの戦線を維持していましたが、その北側・戦線中央から北部で戦闘が激しくなったため、師団長のヘルマン・フォン・トレスコウ中将は本隊から普擲弾兵第89「メクレンブルク」連隊の第2、3大隊(旧・ラウフ支隊で昨夜師団に復帰)と普野戦砲兵第9連隊の軽砲第6、重砲第6中隊を抽出してヴィルマルソーへ、本隊残りはヴィロルソー付近までそれぞれ前進させました。

 すると間もなく仏第16軍団第1師団とカモ師団による攻撃が始まり、ヴィルマルソーに至ったメクレンブルク擲弾兵がこれに対応します。この仏散兵群には後方ボージョンシー北西部に展開した砲兵4個中隊*が猛砲撃を加え、仏軍はたまらず友軍砲兵の援護射撃下退却に移ったのです。


挿絵(By みてみん)

仏護国軍イゼール県部隊の攻撃


※12月9日・普第17師団の砲列

○普野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・軽砲第5中隊

○同連隊・重砲第5中隊

○同連隊・騎砲兵第1中隊

○同連隊・騎砲兵第3中隊


 仏軍が去った後、普第17師団前衛は一部をル・グロールに残すとその北600mのロワーヌへ前進し、午後に入ってボージョンシーに到着した普第10軍団の前衛*は、そのまま市街を抜けるとル・グロールからロアール川までの間に前線を構築したのでした。


※12月9日午後・ボージョンシー付近の普第10軍団前衛

○普第92「ブラウンシュヴァイク公国」連隊

○普猟兵第10「ハノーファー」大隊

○普竜騎兵第16「ハノーファー第2」連隊・第4,5中隊と第1中隊の2個小隊

○普野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊・重砲第3,4中隊


 ヴィルジュアンを奪還した仏第17軍団は午後に至るまで両軍の砲撃戦の下、部落に立てこもり独軍戦線に銃撃を繰り返していました。これに対しトレスコウ将軍は、この突出部を残すことで仏軍が両側独軍戦線の側面を攻撃することが可能となっているため、この敵を駆逐することが重要と思い至ります。

 そこで将軍はまず、ヴィルマルソーの前線に至った軽砲第6、重砲第6の両砲兵中隊により部落を砲撃させて敵を部落内に釘付けにした後、正午頃に前衛の普第76「ハンザ第2/ハンブルク市」連隊F大隊をヴィルジュアンへ突撃させ、空かさず同連隊第1大隊を増援に送りました。

 この「ヴィルジュアン争奪戦」は凄惨を極めたと言い、仏第17軍団兵は必死の形相で独ハンブルク兵と戦い、家屋一軒一軒を争う白兵戦は双方に大きな損害を与えるのです。戦闘は延々と3時間ほど続き、午後3時から4時に掛け仏軍はほぼ制圧され、残るは頑強に抵抗する部落東方の一軒家のみとなるのでした。この戦いでは早朝にヴィルマルソーで前哨となっていたことで仏第17軍団の猛攻を受ける前に撤退し、その後はヴィロルソーの西郊外にあったオモヌの家(現在は墓地になっている土地の向かい側。現存しません)に下がっていた普第32連隊第12中隊も、同僚の敵討とばかりにハンブルク兵と並んで攻撃に参加しています。

 ヴィルジュアンから追い出された仏第17軍団はその後、オリニーやウルセルを起点に再三再四に渡ってヴィルジュアンへ攻撃隊を差し向けますが、ヴィルジュアンには更にハンブルク連隊の第2大隊も増援として駆け付け、また、ヴィルマルソーの南郊外には普第17師団砲兵隊(軽砲2個・重砲2個・騎砲兵2個の6個中隊)が集合して砲を敷き、続いて普第10軍団砲兵隊(野戦砲兵第10連隊)の騎砲兵2個(第1,3)中隊も到着して普第17師団砲兵の傍らに続いて砲列を敷きました。

 これら新参の砲兵諸中隊による砲撃は猛烈で、更にはセルネ付近に砲列を敷いていた普第22師団砲兵の重砲2個中隊も南部戦線に対する砲撃援護を始めたため、遂に仏第17軍団の攻撃は完全に頓挫して散兵群は後退、前述の一軒家に立て籠もる仏軍中隊も孤立して降伏し約170名の仏兵が捕虜となりました。この午後4時過ぎを以て仏第2ロアール軍は全戦線で攻撃を中止するのです。


 フリードリヒ・フランツ2世大公はボーモン周辺に集合した予備諸隊を前線に進めるよう命じていましたが、仏軍からの銃砲撃が途絶えた事を聞き及ぶとこれを中止します。このボーモンには、正午にクードレイ城館への前進を中断し戻って来た普騎兵第2師団、B胸甲騎兵旅団の他に、普第10軍団からの増援第一弾となる普第19師団本隊に、オルレアンを朝早く出立して到着したばかりの普第39旅団(普第20師団所属)が大公の直率として控えていました。

 大公はこの10日夜、自軍諸隊をそれぞれの戦闘終了時の場所に残して宿野営させ、その前哨をボージョンシー南西郊外のロアール河畔からヴィルジュアン、セルネを経てマルシュノワールの森東端のポワズリー面前までに配置し、油断がならない仏第2ロアール軍を警戒させたのでした。


 カール王子は大公軍が激しい戦闘を続けて疲弊し尽くし、歩・砲兵たちの動作も緩慢となって危険となったことを報告され、しかも普第22師団の軽砲全てとB軍の多くの砲が「廃品」となったことを知ると、フリードリヒ・フランツ2世大公に対し「後命あるまでオルレアン守備を命じたB第1軍団の内、1個旅団と砲兵6個中隊は前線に留めても良い」と命じました。この10日深夜には更に命令を送り「翌11日も10日の命令のまま行動すべし」と命じ、但し「B第1軍団全てのオルレアン出発は12日まで延期せよ」としたのです。

 これらの命令は、オルレアンへの帰還を命じた普第3軍団と普騎兵第1師団がこの日(10日)それぞれサン=ドニ=ドゥ=ロテル(オルレアンの東17.1キロ)とサン=ブノワ=シュル=ロアール(同東南東31.8キロ)までしか進むことが出来なかったことが遠因でした。このため、疲弊する大公軍は翌11日になっても普第10軍団のみの増援を得ただけで、既に自軍の3倍以上はすると判明した敵と戦うしかなかったのです。


 この10日、ソローニュ地方で活動する普騎兵第6師団は旅団毎2つに別れて行動し、ブールジュに対して行動する普騎兵第14旅団はこの日も多数の斥候を放ち、メアン=シュル=イェーヴル(ブールジュの北西15.5キロ)とラ・シャペル=ダンジョン(同北31.3キロ)に仏軍が目立つ守備隊を置き、ラ・シャペル=ダンジョンからは大きな仏軍縦隊が警戒しつつブールジュへの街道(現・国道D940号線)を南下していることが確認されました。

 命令によりブロアに向けて進んだ普騎兵第15旅団はヴィルフランシュ(=シュル=シェール。ビエルゾンの西北西23.8キロ)付近で鉄道を破壊し、その後ロモランタン(=ラントネー。同北西28.6キロ)を占領し、市街地と周辺にいた200から300名程度の仏軍落伍兵や脱走兵を追い払い、一部を捕虜にしました。

 一方、普騎兵第6師団との連絡を命じられた普騎兵第3旅団*(普騎兵第2師団所属で一時的に北独第9軍団傘下となっています)はこの日、ブラシュー(シャンボール城の南7.7キロ。ロモランタンからは北北西へ26.1キロあります)に進みましたが、シャンボール城と同じく道中蜘蛛の子を散らすように逃走する仏義勇兵のみに遭遇するだけでした。

※この普騎兵第3旅団には、普猟兵第9大隊、ヘッセン大公国(H)第4連隊第2大隊、普野戦砲兵第9連隊軽砲第1中隊の1個小隊(2門)も同道しました。


 北独第9軍団はこの10日、前衛がヴィヌイユ(ブロアのロアール対岸・東へ3.3キロ)に達し、既にロアールに掛かる付近の諸橋梁が全て破壊され落されていることを発見しました。このヴィヌイユは少数の守備隊によって守られていましたが北独第25「H」師団の前衛によって駆逐されます。しかし市街を抜けてロアール河岸に接近したH将兵は、対岸のブロアから激しい銃撃を浴びせられました。このため、前衛に属するH野戦砲兵の軽砲第1と重砲第1両砲兵中隊がブロア市街に向けて測距の砲撃を行い、直後に市街の砲撃を始めるや否や銃撃はぴたりと止み、H砲兵も砲撃を中止したのでした。

 普野戦砲兵第9連隊の軽砲第1中隊の残り2個小隊(4門)はこの日の前進中、モンリヴォーを過ぎた辺りで対岸のムナール(ブロアの北東8.4キロ)付近を北に向けて進む仏軍縦隊を発見し、直ちに砲を並べこれを砲撃します。相手側の仏軍もこれに応じて砲兵を繰り出し砲戦となりましたが、追って駆け付けたH野戦砲兵重砲第2中隊が参戦すると、仏軍は砲撃を止めて退避するのでした。


 仏第2ロアール軍司令官シャンジー将軍はこの日の午後遅くに「敵がロアール左(南)岸よりブロア対岸まで侵入した」との報告を受け、またブルバキ将軍率いる「第1ロアール軍」は未だ退却しつつ態勢を整えている最中であり、敵の「背後」から攻撃を行う余裕など当分ありえない事も知ります。これによってシャンジー将軍は遂に「全軍明日ヴァンドーム(ブロアの北西30.4キロ)に向けて後退する」と決心し前線での活動を中止させました。

 これで3日間に及んだ「ボージョンシー=クラヴァンの戦い」は終了となったのでした。

 

 大公軍(B第1軍団、普第17、22師団、普騎兵第2、4師団)はこの3日間の戦いで約3,400名の損害を受けましたが、前線にあった歩兵の数が約2万7千名に対し第2ロアール軍(仏第16、17、22軍団とカモ師団、他義勇兵部隊)は10万近くとなり、独側が4対1という大劣勢だったことを考えると、これは去る8月炎暑の中行われた「マルス=ラ=トゥールの戦い」に匹敵する会戦だったことが分かります。ただ、彼の戦いと違うのは、8月の戦いが「正規軍同士だが独(普)は積極(攻勢)的・仏は消極(防御)的」だったのに対し、12月の戦いは「少数の正規軍対多数の寄せ集めだが、双方共に積極的」だったことです。また、砲兵が戦いの中心にあったことも特徴的で、これはそれまで「高い授業料」(=多くの戦死傷者)を払って覚えた敵の戦い方を、不利な旧弊然とした武器(英米から購入した兵器も前線に入り始めていましたが当然中古品です)にめげず実践したシャンジー将軍と仏第2ロアール軍の砲兵たちを讃えるべきなのかもしれません。しかし、兵員の練度と兵器・物資の差は数でも覆らず、シャンジー将軍らは善戦したものの結局は先に退却するしかありませんでした。仏第2ロアール軍の損害ははっきりとした記録がありませんが、独軍の捕虜となったのは大公軍のほぼ倍となる約1,600名と言われ、単純に損害も独側の倍と考えればその損害(捕虜以外の戦死傷者)や逃亡兵は5,000名かそれ以上になるのではと推定されます。また、独軍は戦場に残された仏軍の砲6門を鹵獲しますが、先述通り長時間の連続砲撃によって普第22師団の4個(野戦砲兵第11連隊・軽砲第3,4,5,6)中隊の全24門とB第1軍団の諸砲兵中隊の砲約三分の二が廃棄処分となってしまいました。


挿絵(By みてみん)

奮戦する仏軍砲列


※ボージョンシー=クラヴァンの戦い(1970年12月8から10日)における独大公軍の損害


○B第1軍団(この期間の歩・砲・騎兵総数約15,000名)

*戦死/士官33名・下士官兵260名・馬匹148頭

*負傷/士官57名・下士官兵1,178名・馬匹121頭

*行方不明(多くが捕虜)/下士官兵542名・馬匹2頭

 合計/士官90名・下士官兵1,980名・馬匹271頭

○普第17師団(この期間の歩・砲・騎兵総数約10,000名)

*戦死/士官16名・下士官兵133名・馬匹12頭

*負傷/士官17名・下士官兵353名・馬匹6頭

*行方不明(多くが捕虜)/軍医(士官)3名・下士官兵32名・馬匹1頭

 合計/士官36名(内軍医3名)・下士官兵518名・馬匹19頭

○普第22師団(この期間の歩・砲・騎兵総数約10,000名)

*戦死/士官7名・下士官兵126名・馬匹51頭

*負傷/士官22名・下士官兵386名・馬匹35頭

*行方不明(多くが捕虜)/士官2名(内軍医1名)・下士官兵204名

 合計/士官31名(内軍医1名)・下士官兵716名・馬匹86頭

○普騎兵第2師団

*戦死/馬匹1頭

*負傷/馬匹3頭

○普騎兵第4師団

*戦死/士官1名・下士官兵2名・馬匹10頭

*負傷/士官1名・下士官兵13名・馬匹31頭

*行方不明/馬匹1頭

 合計/士官2名・下士官兵15名・馬匹42頭

○独大公軍総計

*戦死/士官57名・下士官兵521名・馬匹229頭

*負傷/士官97名・下士官兵1,936名・馬匹208頭

*行方不明(多くが捕虜)/士官6名(内軍医5名)・下士官兵779名・馬匹3頭

 損害合計/士官159名(内軍医5名)・下士官兵3,236名・馬匹440頭


☆ 12月11日


 明けて11日の午前中。仏第2ロアール軍本営は一斉退却のため、独大公軍に気付かれぬよう前線部隊を従前位置に残留させ、後方に展開する諸隊から退却を開始させます。このため、大公軍の前哨は敵前線の変化に気付かず、撤退は気付かれることなく進んで行きました。一部では逆に攻撃に移行するような戦闘準備を見せる仏軍部隊もあって大公軍側は完全に騙され、これに対抗するべく戦闘準備に入る前哨部隊もあり、これに対して更に防御態勢を採る仏軍前哨もあったのです。

 仏軍の退却を最初に察知したのは大公軍左翼(南)端にあった普第10軍団の前哨部隊で、時は既に正午となっていました。ボージョンシーに前進していた軍団長フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将は急ぎ麾下に対し追撃命令を出し、普第19師団はジョスヌに向け、普第20師団はその左翼側に連なり前進を開始しました。

 普第19師団の先鋒となった普竜騎兵第9「ハノーファー第1」連隊の前衛は仏軍部隊に遭遇するものと覚悟して進みますが、道中出会うのは落伍兵ばかりで、その殆どは形ばかりの抵抗をした後、武器を棄てて手を挙げるのでした。しかし、更に先へ進むとかなり大きな隊列がマルシュノワールの森南端のロシュ(ジョスヌの西5.6キロ)方面へ進むのを望見するのでした。

 普第20師団の前衛はル・グロール農場の南を西へ進み、モルテ(農場。ジョスヌの南3.5キロ。現存します)でまとまった数の仏軍部隊が戦闘態勢で待機するのを発見しました。師団前衛に従っていた普野戦砲兵第10連隊の軽砲第3と重砲第3両中隊は直ちにモルテ農場を砲撃し、仏軍が浮足立った直後に前衛の普第56「ヴェストファーレン第7」連隊が三方から農場へ突撃を行うと仏軍後衛は逃走し、逃げ遅れたおよそ100名が捕虜となったのでした。


 独第二軍及び大公軍を統括指揮するカール王子は11日午前中、次々と到着する前線からの報告と斥侯報告により「仏第2ロアール軍は攻勢から防御に転じた」と断じます。王子は幕僚に諮り今後の作戦を計画し、これによって「今後2日間で普第3軍団を前線に進め、大公軍はマルシュノワールの森北方へ転進し、仏軍が万が一シャルトル方向へ進む事を防ぎ、同時に仏第2ロアール軍に対する総攻撃を行うための事前行動として、仏軍左翼(北側の仏第21軍団)を包囲する」との方針を固めたのでした。

 ロアール左岸を行く北独第9軍団は11日、ヴィヌイユ周辺に本隊が集合し、ブロアの仏軍(仏第16軍団第3師団)と対峙し続けます。するとカール王子の発した命令がマンシュタイン軍団長の下に到着し、それによれば「軍団はロアール右岸を進む大公軍諸隊がブロアに達するまで現在地で待機、その間、(この日)コントル(ヴィヌイユの南18.6キロ)まで接近した普騎兵第15旅団を迎え入れ合流せよ」とのことでした。

 カール王子が命令を発した後、更に「敵第2ロアール軍が総退却を開始した」との報告が入ります。しかし前線にある普第10軍団からは「敵がヴァンドーム方向へ向かうかブロア方向に向かうのかは未だ不明」との報告も上がりました。

 このため王子は「敵の行動方針を明らかにするため」次の命令を発するのです。

「明日12日、普第10軍団はブロアに向けメまで前進し、大公軍は既に発した命令に従い退却する敵を追尾してマルシュノワールの森南側へ進み、普騎兵第4師団は同森林北側に向かって前進、シャトーダン(ボージョンシーからは北西へ39.6キロ)方面まで偵察斥侯を派遣せよ」


挿絵(By みてみん)

仏軍 退却の後


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