表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・極寒期の死闘
415/534

ボージョンシー=クラヴァンの戦い(中)


☆ 12月9日


 12月8日の午後3時から夜間に掛けて発せられた、独第二軍とメクレンブルク=シュヴェリーン大公軍の総司令官・カール王子の命令は、翌9日午前、大幅に変更されることとなります。


 これは、同9日午前10時前後にオルレアン在カール王子の本営に達したモルトケ参謀総長によるヴィルヘルム1世国王名義の命令電信に従うもので、その内容は「大公軍による仏国防政府派遣部在トゥールへの進撃は極めて重要な作戦であるため、独第二軍は出来得る限り速やかなる支援を大公に与え、少なくとも1個師団の増援をロアール右岸(ここでは北岸)の戦線まで送り、大公軍の前進と同時に強力な兵力により同河川左岸(ここでは南岸)沿いに西へ進撃することもまた重要であって、親王(カール王子)はロアール戦線における全兵力の総指揮を執り、この作戦手段は全て親王の判断に委ねる」との主旨でした。


 大公軍が想像以上の敵兵力と対峙し、また連続する戦闘で主力となるバイエルン王国(B)軍が疲弊していることはカール王子も前線を視察したヘルツベルク大佐(独第二軍参謀副長)から詳しく聞いており、在ベルサイユ普大本営もトゥールへの進撃を優先事項とした今、王子としてはブールジュ方面へ南進する諸隊の行動を制し、全兵力を挙げて大公軍を援助することが重要となったのでした。

 電信命令を読んだ直後に即断したカール王子は午前10時30分、緊急の軍命令を発し、それに因ればフォークツ=レッツ歩兵大将の普第10軍団は「オルレアン市内とその近郊に駐屯する諸隊を躊躇することなくムン(=シュル=ロアール)に向けて進発」させ、普第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将は「麾下軍団諸隊と普騎兵第1師団を直率して大至急オルレアンへの帰途につき、ロアール上流のジアン近郊には一時監視隊を残留させるのみとする」べく、またビエルゾンに至った普騎兵第6師団は「付近の鉄道線を破壊した後、12月10日までにその右翼(西側)支隊がヴィヌイユ(ブロアの対岸。ブロア城の東3.5キロ)へ向かっている北独第9軍団と連絡し、左翼(東側)支隊は変わらずシェール河畔の偵察を続行」するよう命じられるのでした。


 大公軍本営はこの9日正午頃、普第10軍団が増援として向かうことを伝えられます。しかし大公軍においても状況は8日夕刻から更に目まぐるしく変化していました。


 B第1軍団の一前哨は8日深夜、前線を騎行する仏軍の伝令を捕らえ携行していた命令書を奪います。この命令書を解析したところ、仏第2ロアール軍の「目的」はフリードリヒ・フランツ2世大公が考えていた「撤退」ではなく「しばらくの間ボージョンシー郊外からマルシュノワールの森までの間を死守すること」にあると気付くのです。ムン=シュル=ロアールに本営を置いた大公はこの報告を受けると、9日午前7時にそれまでの方針を大幅に変更した軍命令を発しました。

「本日、最前線において普第17師団はメッサ付近、普第22師団はボーモン付近、普騎兵第4師団はクラヴァンからヴィレルマン間に、それぞれ集合せよ。B第1軍団と普騎兵第2師団は予備となりグラン=シャトル周辺に集合待機せよ」

 しかし、この命令がそれぞれの司令部に届く前、大公軍諸隊は再び仏第2ロアール軍と死闘を演じ始めたのです。


 同9日黎明前。仏第2ロアール軍司令、シャンジー将軍はジョスヌ(クラヴァンからは南西へ5キロ)の本営から命令を発し、ボージョンシーで普第17師団に叩かれて大損害を受けたカモ師団をタヴェール(ボージョンシーの南南西2.7キロ)まで下げて戦線を再構築させます。同じく、自軍戦線右翼(ロアール川側)で仏第17軍団を後援しつつブロアの前面にあったドゥプランク将軍の仏第16軍団第1師団をカモ師団の左翼(マルシュノワールの森側)と連絡させ、右翼をトゥペネ(ジョスヌの南東2.1キロ)まで進ませ戦線を強化しました。戦線中央は変わらず仏第17軍団が担当し、その本隊はトゥペネ~ウルセル~ロルジュに展開します。マルシュノワールの森方面も仏第21軍団が護り続け、主力はロルジュ~ポワズリー~サン=ローラン=デ=ボワ~オータンヴィルの線上にありました。

 このドゥプランク師団の前進を助けるため、午前7時過ぎにドゥ・ロクブリューヌ将軍の仏第17軍団第1師団が、普第75連隊が奪い取ったばかりのヴェルノンに向かって前進し攻撃を仕掛けます。これを同連隊第2大隊が猛銃撃を加え迎撃したため、仏軍の散兵群は無理をせず急ぎ撤退するのでした。この仏第17軍団の攻撃を助けていた同軍団の砲列は、メッサの北郊外に砲列を敷いていた普野戦砲兵第9連隊の重砲第5中隊と、敵襲の報を受け順次前線へ到着した砲兵4個中隊*によって正確な対抗砲撃を受け、そのために短時間で陣地転換をせざるを得なくなったのでした。


※この4個中隊の内、普野戦砲兵第9連隊騎砲兵第1,3中隊(第1中隊は1個小隊2門欠)は8日の深夜、普第75連隊のヴェルノン襲撃に続いてその北西郊外に砲列を敷きましたが黎明と共に仏第17軍団の前線から猛烈なシャスポー銃の銃撃を受けて後退し、直接メッサ郊外の砲列に加わり、ほぼ同時に同連隊軽砲第6、重砲第6両中隊がボル方面から到着しました。


 B第1軍団の戦線では、その前哨が仏軍前線の間際にあったため、夜が明けると後退命令が届く前、自然各所で銃撃戦が始まりその数は加速度的に増して行きました。

 午前7時。仏第17軍団の数個縦隊がル・メー部落(クラヴァンの南東3.4キロ)に向けて前進を始めます。この時ル・メー付近で前哨任務に就いていたのはB第3旅団に属するB第12連隊第1大隊のほぼ半数と第3大隊の全部、そしてBシュヴォーレゼー(軽)騎兵第4連隊の第1中隊で、更に前夜ル・メー南西郊外まで前進して警戒しつつ野営していたのはB第12連隊第2とB猟兵第1の両大隊でした。この最後の2個大隊は迫る仏軍縦隊を激しい銃撃で迎え撃ち、更にル・メー周辺を射程内に収めていた普第17師団所属の重砲第5中隊がこれに気付いて砲撃を開始、仏軍縦隊は損害を避けるため急速に転回し撤退するのでした。

 B第3旅団他の諸隊(弾薬補充のために後方へ去ったB野戦砲兵第1連隊4ポンド砲第2中隊を除きます)は、夜明けと共にボーモン(クラヴァンの東2.1キロ)周辺へ集合し、午前8時30分頃順次前線へ進出しました。この時、B野戦砲兵第1連隊の6ポンド砲第5中隊は陣地に就くなり仏第16軍団の前哨がいるヴィロルソー(ル・メーからは南西へ1.8キロ)を砲撃し、B第12連隊の半数(6個中隊)が部落に向かって前進を始めました。B軍兵はヴィロルソーの手前150mに展開して部落周辺の仏軍と激しい銃撃を交わし、午前10時30分、突撃を敢行して一気に部落を占領し約100名の捕虜を得たのです。その後ヴィロルソーにはB第12連隊の第2、3大隊が集合して仏軍戦線に突き出した拠点を護り、正午にはヴィルマルソー(ヴィロルソーの西南西1.3キロ)から出撃した仏軍縦隊を砲兵の協力を得て撃退するのでした。

 午前中B第3旅団主力はル・メー周辺に留まり、B猟兵第1大隊のみヴィロルソーの孤立を避けるためB第4旅団との連絡を通そうとヴィルヴェール(農場。ヴィロルソーの北北西800m)へ前進したのでした。

 このB第4旅団はヴィルショモン(クラヴァンの南南東1.8キロ)周辺で夜明けを迎え、左翼(南)に連なった同僚B第3旅団と同じく午後7時頃に前哨部隊が仏軍と戦闘を再開しました。その前線にあったのはB第10連隊、Bシュヴォーレゼー騎兵第4連隊の第3,4中隊、B野戦砲兵第1連隊の4ポンド砲第4中隊で、この砲兵中隊は既に4門の砲を破損や消耗で失い、たった2門で砲撃を行っていました。対面する仏第17軍団は前哨のみ銃撃を行い本隊はセルネ(ヴィルショモンからは西北西へ1.4キロ)付近で隊列を整え戦闘準備中でしたが、午前9時になってその戦線右翼(南)から前進を始め本格的戦闘に移行しました。

 仏軍がゆっくりと戦闘準備を成す中、本隊がヴィルショモンに集合したB第4旅団(前日の戦闘で砲全てを損壊し戦闘能力を失ってしまったB野戦砲兵第1連隊6ポンド砲第6中隊を除きます)はB第13連隊の半数(6個中隊)をヴィルショモンの南東方向に進ませて参戦し、まずは仏軍の前進を抑えます。B第4旅団は戦闘可能で残っていた砲8門を当初ヴィルショモンの北郊外に置きましたが、歩兵の戦闘開始後に部落西にあった風車場(ヴィルショモンの西400m。現在は農場となっており、風車の跡もはっきり残っています)のある高地へ陣地転換させました。ところがこれは仏第17軍団の砲兵3個中隊の射程内で、しかも仏軍前線からもシャスポー銃の有効射程(1,200m)内に入ってしまい(セルネから900m余り)、猛烈な銃砲撃を食ったこの砲8門は大損害を受け、急ぎ後退してしまうのです。砲兵を喪失したB第4旅団はその後仏軍から猛攻を受けましたが、必死で防戦に努めて戦線を維持し続けたのでした。


 B第1軍団と交代を命じられたフォン・ヴィッティヒ中将率いる普第22師団本営には、黎明と共に前哨から「仏の野営地で活発な行動が見られ、これは戦闘準備と思われる」との主旨の報告が相次いでもたらされます。これにより仏軍が再び東進を図るに違いないと考えたヴィッティヒ将軍は、普第43旅団を払暁時ロネイ(クラヴァンの北2.4キロ)周辺に集合させてB第1軍団の戦線(クラヴァン以南)へ向かわせると、普第44旅団にはボーヴァール農場からレ農場(両農場はクラヴァンの北西1.4キロ周辺)を経てクラヴァンまでの戦線を維持するよう命じるのでした。

 午前8時。南方のB軍戦線よりの銃砲声が激しくなる中を普第43旅団が戦線後方のボーモンへ到着しますが、戦闘は既に活発で、B軍諸隊が戦線を離脱し普軍と交代する等ということは不可能となっていました。伝令から交代不可能との連絡を受けたヴィッティヒ将軍は、同時に敵の攻撃重点がヴィルショモンにあることを知ると、B第4旅団を援助することに決めて普第32連隊第1、普第95連隊第1、2の歩兵3個大隊と普野戦砲兵第11連隊重砲第3,4中隊をヴィルショモンへ前進させました。午前9時頃から参戦し始めたこの普軍によって増員の成ったB第4旅団は、ヴィルショモンからクラヴァン、ボーモンを狙った仏第17軍団諸隊の攻撃を防ぎ、激しい銃砲撃により仏軍は前進を断念、その大集団はセルネに向けて背走して行ったのでした。この時普軍の重砲第4中隊は後退する仏将兵の背中に向けて正確な砲撃を行い、やがて恐慌状態となった仏第17軍団諸隊はセルネを通過しさらに西へ後退して行きます。この間、敵の銃砲撃を受けて後退したB第4旅団の砲8門中未だ砲撃可能だった5門は態勢を整え、これも北方より転進しヴィルショモンの東郊外に砲列を敷いた普野戦砲兵第11連隊・重砲第3中隊の傍らに進んで砲を並べ砲撃に参加したのでした。

 仏軍が後退局面となったことで追撃に入った普第95連隊の第2大隊はセルネに突入し逃げ遅れた仏兵約200名を捕虜にすると、セルネ近郊に砲列を敷いていた仏砲兵を襲い、これも逃げ遅れた砲の前車2輌、弾薬馬車1輌、そして多くの馬匹を鹵獲するのでした。

 この後、仏軍はセルネを回復しようと反復攻撃を仕掛けますが、普第95連隊兵は「満身創痍」でも戦うことを止めないB軍砲兵が繰り出す砲撃援護を得てこれを撃退しつつ急ぎ部落に防御工事を施しました。この時、普第22師団の2個砲兵(重砲第3,4)中隊もヴィルショモンの西郊外に進出し、セルネを攻撃する仏軍を砲撃しています。


挿絵(By みてみん)

ヴィルショモン バイエルン軍の砲列


 一方、クラヴァンからボーヴァール農場の間に留まっていた普第44旅団は、同僚第43旅団の出立直後に仏第17軍団左翼数個大隊の猛攻を受けます。

 実はこの時、ボーヴァールとレ農場は普第83連隊F大隊が守備することになっていましたが、命令を誤解した大隊長がクラヴァンに向かって進んでしまい、ガラ空きとなった両農場は仏第17軍団兵によって占拠されてしまうのです。クラヴァンでそのことを知ったヴィッティヒ将軍は激怒して、ドジを踏んだ大隊長に対し「直ちに両農場を奪い返せ」と命じました。しかしその時には既に農場の仏軍は護りを固めており、師団の半数をB第4旅団の増援に送ったばかりでクラヴァン自体も仏軍の銃砲撃を受け始めていたために残余の部隊を動かせなかった将軍は、午前7時30分以来リリーの双子部落(グラン=リリーとプティ=リリー。クラヴァンの北東1.3~2キロ周辺に現在も残る農場群)で待機中のB第2旅団に伝令を送り、「助太刀」を請うたのでした。

 B第2旅団長のフォン・オルフ少将は早速この要請に応じることを決めます。オルフ将軍は麾下のB猟兵第9大隊、B第11連隊の2個(第1、2)大隊とB野戦砲兵第1連隊4ポンド砲第3中隊を普第83連隊F大隊の増援としてクラヴァン北方に進ませ、B猟兵大隊はB第11連隊第1大隊と共にボーヴァールへ、普第83連隊F大隊とB第11連隊第2大隊はレへ、それぞれ突進して仏軍と短時間ですが猛烈な接近白兵戦を行い、仏第17軍団兵は強烈な圧を受けて西へと駆逐され、周辺は再び独軍諸隊に占領されたのでした。

 この攻撃に連動してクラヴァン在の普第83連隊第1大隊の3個と普第94連隊第1大隊の2個、そして同連隊の第6、合わせて半個大隊(6個中隊)が部落西側へ出撃し、激しい銃撃戦を行いつつも西郊外の高地に取り付いて布陣し、普第83連隊第2大隊の3個中隊と普第94連隊F大隊が、セルネで戦う普第95連隊第2大隊の増援として開けた平原に進み出るのでした。


 午前11時前後。仏第17軍団長代理のアンリ=ピエール・ゲプラット将軍は、シャンジー将軍の督戦を受けてレ農場を目標に再び兵力を集中しようと図ります。対するヴィッティヒ将軍はオルフ将軍と話し合い、B第2旅団は全力を挙げて普第44旅団を援助することを決め、オルフ将軍は予備としてリリーに後置していた諸隊を全てレまで前進させました。同じくボーヴァールの北方にはB野戦砲兵の5個中隊*が到着し、この砲兵護衛のため、グラン=シャトルに待機していたB第1旅団よりB親衛連隊の2個(第1、2)大隊とB猟兵第2大隊がモンティニー(ロネイの西北西1.4キロ)まで前進、同旅団の残部とB第1軍団砲兵隊残りの4個砲兵中隊も予備の無くなったヴィッティヒとオルフ両将軍のためロネイまで前進するのでした。


挿絵(By みてみん)

バイエルン猟兵の軍装


※午前11時過ぎ・ボーヴァール北方のB軍砲列(グラン=シャトルより前進)

○B野戦砲兵第1連隊・6ポンド砲第5中隊(B第1旅団従属)

○同連隊・6ポンド砲第7中隊(B第1旅団従属)

○B野戦砲兵第3連隊・6ポンド砲第7中隊(B第1軍団砲兵隊)

○同連隊・6ポンド砲第8中隊(B第1軍団砲兵隊)

○B野戦砲兵第4連隊・6ポンド砲第10中隊(B第1軍団砲兵隊)


 このB軍右翼(北方)戦線の更に北では普騎兵第4師団が黎明時より活動しています。

 午前10時には同師団傘下の普騎兵第10旅団はクードレイ城館(ヴィレルマンの東北東1.8キロ)に陣を構えており、対峙する仏第21軍団の前哨数個部隊が戦線整理で普軍の消えたヴィレルマン周辺に進むのを発見し監視していました。師団他の2個旅団は更に後方(北東)にあって戦闘準備中でした。

 また、前線後方のグラン=シャトル周辺には騎兵を中心とする予備隊がメクレンブルク=シュヴェリーン大公直属として展開・待機していました。


※12月9日・午前中 大公軍の本営直率予備

○B胸甲騎兵旅団(ボーモン及びリリー東方)

○普騎兵第2師団(早朝ル・バルドンよりグラン=シャトル周辺へ移動)

○B砲兵1個中隊(部隊名不詳)

○フォン・ラウフ支隊*

○午前中に後方連絡線から到着したB第1師団の補充兵約1,200名

 ※普騎兵第17旅団長のアルフレート・ボナヴェントゥラ・フォン・ラウフ少将は11月26日から歩兵2個大隊、騎兵5個中隊、騎砲2門を率いて遙か西方ル・マンの東で仏トゥール派遣部の動きを監視していましたが、帰還を命じられて長躯敵を避けながら北へ迂回し本隊復帰を目指します。将軍は部下と共にオルレアン西郊まで戻って来たところでボージョンシー=クラヴァンの戦いに遭遇、そのまま大公の下へ馳せ参じました。


 フリードリヒ・フランツ2世大公と本営幕僚たちは早朝ムン(=シュル=ロアール)を発し午前7時30分にグラン=シャトルに到着しここから全軍の指揮を執り始め、午前中に前線と各地の斥候から集まった報告を検討すると「マルシュノワールの森北東方に強大な仏軍が集合しつつあり」との報告が多くあることに注目します。更に正午、戦線最右翼を担当する普第4騎兵師団から「敵の大集団マルシュノワールの森を出てクラヴァン方面へ向かう」との報告が届き、大公は直ぐにボージョンシー方面の普第17師団へ伝令を発し、奮戦中のB第1軍団と普第22師団を助けるため「ヴィロルソーとヴィルヴェールに向かい前進せよ」と命じるのでした。


 仏第16軍団第1師団とカモ師団は早朝のヴェルノン攻撃以来、ボージョンシー近郊への攻撃を控えて普第17師団と対峙していましたが、午前11時に至って強力な縦隊複数がヴィロルソー方面へ前進を始め、ボージョンシー北郊外に砲列を敷く普野戦砲兵第9連隊の軽砲第5中隊が砲撃で対抗、やがて前進して軽砲中隊の脇に砲を並べた同連隊の重砲第5,6中隊が猛烈な榴弾砲撃を浴びせ始めたため、仏兵は散開して伏せるばかりで前進することが出来ず、やがて諦め引き返して行きました。

 午後に入り、普第17師団長のフォン・トレスコウ将軍は大公より先の前進命令を受領すると、麾下に対して次のような配置を命じます。これによれば、メッサに集合待機する師団本隊はグラン=ボヌヴァレ(ヴィロルソーの南東820m)へ、ピエール=クーヴェルト(農場。グラン=ボヌヴァレの南東780m)に進んだ前衛支隊の右翼(北)にあった普第75連隊第2大隊はレ・クロル(農家。クロ・ムッスの北西900m。現存します)へ、同連隊第1大隊はクロ・ムッスへ、それぞれ進んで占領し、ボージョンシーとその周辺には普擲弾兵第89連隊第1大隊と普竜騎兵第17連隊の第4,5中隊、そして北郊外で奮闘する軽砲第5中隊だけが守備隊として残留しました。

 更に、普第76連隊の2個(第1、F)大隊と軽砲第6中隊は、タヴェール付近にいる仏カモ師団主力を警戒しつつ前進を始め、B軍が拠点とするヴィロルソーとロワーヌ(ヴィロルソーの南780m)に向かいます。

 この内、第1大隊はヴィルマルソーまで進んで仏軍と激しい銃撃を交わした後の午後3時、オリニーやヴィルジュアンから進み来た仏第17軍団の左翼と衝突します。ほぼ倍する敵に攻撃された大隊は一時戦線崩壊の危機に立たされましたが、追ってやって来た同僚F大隊と共同して防戦に努め、またヴィルマルソーの南郊外に砲列を敷いた3個砲兵中隊*の援護射撃もあって仏軍に深刻な打撃を与え、仏軍は急ぎ転回し退却に移るのでした。


※この3個中隊は普野戦砲兵第9連隊の軽砲第6、騎砲兵第1(1個小隊2門欠)と第3中隊で、騎砲兵の2個中隊は正午頃、B第1軍団を援助するため普竜騎兵第17連隊の2個中隊に援護されてヴィルショモンの南郊外に進出し、砲撃を行っていました。


 普第76連隊主力が前進したことで、グラン=ボヌヴァレに進んだ普第17師団本隊の2個(普第75連隊F、普第76連隊第2)大隊もまた前進し、クロ・ムッスとボグーヌ農場(クロ・ムッスの西2キロ)とのちょうど中間付近に戦陣を張り、西と北に展開する仏第16と第17両軍団兵と銃撃を交わし始めました。

 この戦闘中、部隊名は定かでない1か2個中隊の歩兵たちが銅鑼声を張り上げて前進を始め、この蛮勇はたちまち戦線全体に広がり、付近の普第76連隊3個と普第75連隊Fの4個大隊は雪崩を打って仏軍戦線へ突撃を敢行しました。これに動揺した仏軍がデュニー(農場。ジョスヌの南南東3.6キロ。現存します)方面へ撤退すると普軍はフラードの家(フェルム・ドゥ・フラード。農家。クロ・ムッスの南西2.4キロ。現存します)まで追撃を行いますが、ここで激しい銃撃と仏軍の「虎の子」ミトライユーズ砲の斉射を受けこれ以上の追撃を諦めました。仏軍はこの失地を回復しようと激しい突撃を繰り返しますが、普軍はフラードの家から引き下がらず、逆に戦線を右翼(北)はグラン=トパンヌ(農場。ヴィルマルソーの南南西1.6キロ付近。現存しません)左翼(南)はラ・ピエール・トゥルナント(地名。当時も今も麦畑が広がるだけの場所です。クロ・ムッスの南西1.6キロ)までに左右に広げ、戦場が夜陰に沈むまで維持するのでした。


 フリードリヒ・フランツ2世大公は、午後1時までに集まった情報により「マルシュノワールの森から発した仏大軍も前進を止めた」ことを知り、「仏軍はこれ以上攻勢に移る気はなく、当初の予定通り防戦に徹する気である」と考えを改め、それまでに麾下部隊が受けた損耗と疲弊を考慮して、最前線にあるB第2師団と普第22師団の主力を前線より下げる命令を下します。これによって大公軍の戦線右翼は防御に転じますが、午後3時になって左翼の普第17師団が先述通り攻勢に出たため、これを援助するために再びまとまった戦力*をクラヴァンとヴィルショモンを経てヴィルジュアンに向かって押し出すのです。


※午後3時・独軍戦線右翼でヴィルジュアンに向かった諸隊

◇普第22師団より

○普第32連隊

○普驃騎兵第13連隊・第2,3中隊

○普野戦砲兵第11連隊・重砲第3,4中隊

◇ラウフ支隊の一部

○普槍騎兵第11連隊・第1,3中隊

○普竜騎兵第18連隊・第1,2中隊

○普野戦砲兵第9連隊・騎砲兵第1中隊の1個小隊(2門)


 この三兵科連合部隊が仏軍前線に突進すると、あれほど頑強に抵抗していた仏軍戦線は短時間抵抗した後にあっけないほど簡単に撤退を始め、仏第17軍団の拠点だったヴィルジュアンは普軍の手に落ちます。

 勢いに乗った普第32連隊は第2大隊をそのままオリニーへ突進させ、ここでも仏軍は短時間抵抗すると部落を捨ててジョスヌに向けて退却して行くのです。

 ここで戦場は夜陰に沈み、この北部クラヴァン前面の戦線でも銃砲声は途絶えるのでした。


挿絵(By みてみん)

ヴィルジュアンの戦い(12.9)


 独大公軍はこの9日夜、前線で警戒しつつ宿野営を行います。普第17並びに普第22師団の前哨線はボージョンシー~クロ・ムッス~オリニー~セルネに敷かれ、右翼端セルネでB第1師団に連絡しました。B軍はセルネからモンティニーに前哨線を敷き、モンティニーでは普騎兵第4師団と連絡を通します。普軍騎兵はこのモンティニーからウズーエ(=ル=マルシェ)までの戦線を維持しました。

 大公は日没後に戦闘がほぼ終了すると幕僚と共にムン(=シュル=ロアール)へ戻り、ここでオルレアン市街から前進して来た普第10軍団の先発隊を迎えます。同軍団の砲兵8個中隊は普竜騎兵第16連隊に護衛され、歩兵に先立ち午後3時までにグラン=シャトル周辺に到着していました。


☆ 同9日・ロアール左(南)岸の戦況


 大公軍の激闘を川越しに眺めつつ、フォン・マンシュタイン歩兵大将の北独第9軍団は大公軍の一足先にロアール左岸を南西へ進みました。

 その前衛は普騎兵第2師団から借り受けた普騎兵第3旅団で、この9日さしたる抵抗を受けずにミュイード(=シュル=ロアール。ボージョンシーの南西14.7キロ)を占領しました。しかし既にこの地に架かる橋(対岸はメー)は仏軍によって爆破されており、右岸と連絡を取ることは不可能でした。

 ミュイードから追い出された仏守備隊は、しばらくの間付近に留まり普軍騎兵と銃撃戦を行いますが、更に北独第25「ヘッセン大公国(H)」師団の前衛(H第3連隊と同第4連隊第1大隊)が接近するとサン=ディエ(=シュル=ロアール。ミュイードの西南西3キロ)へ後退します。しかしこの部落もH前衛の襲撃を受けたために仏軍は逃走し、これを追ったH部隊はモンリヴォー(サン=ディエの西南西3.8キロ)に達しました。

 ところが午後4時前後、西方よりモンリヴォーに向かって仏軍の強大な縦隊が進み来るのです。これはブロア在の仏第16軍団第3師団の一部で、右岸を進む独軍の急接近を知って川を渡り北上して来たものでした。

 H前衛支隊に属したH野戦砲兵隊の軽砲第1中隊と重砲第1中隊は、ロアール右(北)岸に砲列を敷いた仏軍砲兵より援護射撃を受けて進み出たこの仏軍縦隊に榴弾を放ちますが、夕方近くだったためか効果は薄く、仏軍は勢い衰えずに接近して来ます。両砲兵中隊は急ぎ砲を前車に繋いで付近に広がるブドウ畑まで下がって難を避けようとしましたが、構わず接近する仏軍により苦境に立たされました。

 ここでモンリヴォー部落縁の家屋に潜んでいたH歩兵が進み来る仏兵に猛銃撃を浴びせ始め、開墾地に進んだ仏軍はたまらず遮蔽を求めて退却し、H前衛の危機は去ったのでした。


挿絵(By みてみん)

ボージョンシー=クラヴァンの戦いを描いた独19世紀絵葉書


 一方、ロアール河畔の戦場から遙か南で活動していた普騎兵第6師団はこの日、ビエルゾン付近でシェール川に架かる鉄道橋を爆破して落とし、多くの斥候を放って旧・仏第15軍団将兵がサルブリを後にブールジュへ急速に退却行に入るのを観察し続けました。

 また、この日午前中にオルレアンへの帰還命令を受けた普第3軍団は、ジアン付近に監視隊*を残留させて前進拠点から転向してオルレアンへの行軍を始め、その前衛は夕方までにブレイ=アン=ヴァル(オルレアンの東南東35.4キロ。シュリー=シュル=ロアールの北)に達します。普第3軍団と行動を共にしていた普騎兵第1師団はこの日、ラ・ビュシエール(ジアンの北東11キロ)に留まってジアンとブリアールを監視するのでした。


※12月9日にジアン近郊に留まった普第3軍団諸隊

○普第64連隊・第2大隊

○普野戦砲兵第3連隊・軽砲第6中隊の1個小隊2門

○普第3軍団野戦工兵の1個小隊

○普騎兵第1師団所属の普槍騎兵第4連隊


 オルレアン在のカール王子は、この日夕刻にボージョンシー=クラヴァン戦線の戦況報告を受け、戦いは自軍有利に進展していると判断すると、それまで下した命令を補完するために翌10日の行動方針を定め、既に午前中オルレアンへの帰還とジアン周辺の監視を命令済みの普第3軍団と普騎兵第1師団を除く麾下諸隊に次の主旨の命令を発しました。


 大公軍本営は、「本日までに占領した各地を死守し、最右翼となる普騎兵第4師団はモレに向け、同じく普騎兵第2師団はメーに向け、共に斥候を放って敵情を探ること」を命じられます。

 この数週間に渡って激闘を繰り広げ損耗と疲労の激しいB第1軍団は、「オルレアンに下がって市街守備に就きつつ戦力回復を図るため、およそ2個大隊(1,800名)の将兵を1個騎兵中隊と共に先行させて10日中にオルレアン市街へ到着させ、残余諸隊は11日中に宿営地を発してオルレアンに向かうこと」とされ、オルレアンから西へ移動を始めた普第10軍団は「明日、主力はボージョンシーまで進み、その前衛は敵との交戦が無かったならば出来る限りメーを目標に前進してロアール左岸に在る北独第9軍団との連絡を図ること」を命じられました。

 また、ロアール左岸を快調に前進する北独第9軍団は、「前衛をして一気にアンボアーズ(トゥールの東22.7キロ)を目標に進むこと」とされ、遙か南方の普騎兵第6師団は「1個旅団は北独第9軍団との連絡を通しつつシェール沿岸渓谷の捜索を続行、残り1個旅団でビエルゾンからブールジュに至る間の仏軍状況をはっきりさせるよう」命じられるのでした。




 この1870年12月9日、H師団前衛の左翼(南側)側面へ派出された小部隊が、後に独本土で賞賛される「手柄」を挙げています。


挿絵(By みてみん)

シャンボールの戦い


 現在では世界遺産「シュリー=シュル=ロアールからシャロンヌまでのロアール渓谷」の一構成部となっているシャンボール城はモンリヴォーの南東6キロにあり、名高いフランスの城館中美しさと名声では1、2を争うフレンチ・ルネッサンス様式の名城で、既に1981年、ロアール渓谷に先駆け単独で世界遺産に選ばれていました。

 ブロワ城を居城の一つとしていた仏王フランソワ1世(在位1515から1547)は狩猟のためシャンボールの地に豪華で斬新な城館を建てます。フランソワ1世の客人として、これも王の居城アンボワーズ城近くに滞在していたレオナルド・ダヴィンチもこの城の設計に口出ししたといわれており、降りる者と昇る者がすれ違っても互いを見ることが出来ない、という複雑な二重らせん構造の階段が有名な唯一無二の建築、それがシャンボール城です。

 この城はその後代々のフランス王によって使用されたり放置されたりを繰り返し、やがてフランス革命で調度品などが奪われ廃墟然となっていたところ、ナポレオン1世の参謀長ルイ・アレクサンドル・ベルティエの手に渡ります。ナポレオン没落後に、城は短期間の王政復古で王となったシャルル10世の孫でブルボン家最後の王位継承候補者、アンリ・ダルトワの手に渡り、彼はシャンボール伯爵と呼ばれるようになりました。

 城はこの普仏戦争時もシャンボール伯爵の持ち物でしたが、伯爵自身は第二帝政から国防政府を通じて時の政権からは「敵」であり、亡命地のイタリア・ベネチアやイギリスからブルボン王政復古のチャンスを窺っている状態でした。


挿絵(By みてみん)

当時のシャンボール城(1860年)


 この時、シャンボール城には義勇兵を主体とする3,000名前後の仏守備隊がいましたが、H師団から南方へ派出された偵察斥候隊のひとつ、カトライン大尉率いるH第4連隊第2大隊第8中隊の1個小隊約50名がこの名城に接近し、大尉は城が大勢の義勇兵によって護られていることを知ると、大胆にも奇襲によって仏の「至宝」を奪取しようと考え、守備側の不意を突いて突撃すると仏義勇兵たちは驚き慌てて撤退し、その際、運び出せなかった大砲5門、弾薬馬車12輌、馬匹60頭、そして逃げ遅れたおよそ200名の義勇兵が捕虜となったのでした。


挿絵(By みてみん)

シャンボール城の仏義勇兵を襲うヘッセン第4連隊兵


 この城は戦略要地に有るわけでも、要塞然として堅牢なわけでもなく、仏の国防政府トゥール派遣部も守備隊に「死守」を命じたりもしていませんでした。ただ、ベルサイユ宮殿と並びブルボン王家が君臨した往時が忍ばれる「芸術作品」と呼ぶにふさわしい城館で、我が国に例えれば姫路城や松本城のような「国宝」であり、独軍がこれを占領することは象徴的にも仏の退勢を示し、その後独本国で大いに喧伝されたことでプロパガンダとしても多くの記事や絵画になっています。

 城はその後、ベルサイユを初めとする占領された多くの城館・宮殿と同じく独の野戦病院として使用されました。


挿絵(By みてみん)

シャンボール城の戦闘 カール・レヒリング画



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ