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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・極寒期の死闘
414/534

ボージョンシー=クラヴァンの戦い(前)

ボージョンシー=クラヴァン戦場図(12.8)

挿絵(By みてみん)




☆ 12月8日


挿絵(By みてみん)

12月8日早朝に前線を視察するシャンジー将軍


 8日早朝。フォン・ヴィッティヒ少将率いる普第22師団はウズーエ=ル=マルシェ(ボージョンシーからは北北西へ16.8キロ)から2個の縦隊を作って出立し、その右翼外には大公軍本営の命令通り増援として同道する普第4師団の普第8騎兵旅団が続きます。彼らは大公軍の左翼(ロアール河畔)側集中を受けてクラヴァン(ボージョンシーの北西7.3キロ)を目指したのです。


※12月8日朝・普第22師団の行軍序列

◇右翼縦隊

○第43旅団

*普第32「チューリンゲン第2」連隊

*普第95「チューリンゲン第6」連隊(F大隊はシャルトル駐在で欠)

○驃騎兵第13「ヘッセン第1」連隊・第1~3中隊

○野戦砲兵第11連隊・重砲第3中隊

○同・軽砲第3,6中隊

○第11軍団野戦工兵第3中隊

◇左翼縦隊

○第44旅団

*普第83「ヘッセン=ナッサウ第3」連隊(第1大隊の1個中隊欠)

*普第94「チューリンゲン第5/ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国」連隊

○驃騎兵第13連隊・第4中隊

○野戦砲兵第11連隊・重砲第4中隊

○同・軽砲第4,5中隊

○第11軍団野戦工兵第1中隊


 午前早くメジエール(小部落。ウズーエの南2.8キロ)を通過した右翼第43旅団は、この南方でマルシュノワールの森東端前のポワズリー(ウズーエの南7.4キロ)方向から激しい銃撃を浴び、すると早朝よりの濃霧の中、仏軍の散兵群が姿を現します(これはコリン少将の仏第21軍団第2師団将兵)。

 旅団先頭にあった普第95連隊の両(第1、2)大隊はこれに対抗しつつ前進を強行し、ヴィレルマン(同南5.3キロ)を経てポワズリーとセデネ(小部落。ヴィレルマンの南西790m)まで進み、ここで右翼外の騎兵に援護された右翼縦隊の3個砲兵中隊による猛砲撃の助けを借りて仏軍の前進を阻止するのでした。この時、右翼縦隊の残りはヴィレルマン周辺で待機となります。

 同時にクードレイ城館(ヴィレルマンの東北東1.8キロ。現存せず周辺は農場となっています)に到着した左翼縦隊の砲兵3個中隊も右翼縦隊の砲列傍らに続いて砲を並べ、西側仏第21軍団の前線に対し砲撃を開始しました。この縦列先頭にあったザクセン大公国の第2とF大隊はシャトーダン~ボージョンシー街道(現・国道D925号線)に沿って前進し、モンスリ(農場。ヴィレルマンの南南東2.6キロ。現存します)に至り、襲撃して来た仏コリン師団将兵を撃退するのです。

 フォン・ヴィッティヒ将軍は大公の命令を受けて午前11時に両縦隊を解くと第43旅団(この旅団には、重砲第3,4中隊と軽砲第3中隊そして普騎兵第8旅団の槍騎兵第10「ポーゼン」連隊が加わります)とヴィレルマンに進んだ普騎兵第4師団本隊(普騎兵第9、10旅団)の援護を受けつつ残りの普第22師団本隊(普第44旅団主体)をクラヴァンに進め、午後1時過ぎ、周辺で戦うB第1軍団右翼側と連絡を付けたのでした。


 B第1軍団はこの8日早朝、グラン=シャトル(クラヴァンの東北東3.9キロ/現在のシャトル部落は当時プティ=シャトルという名の農場でしかなく、グラン=シャトルとは現シャトル部落の東南東420mに今もある小部落のことです)に集合を掛けると、ボーモン(クラヴァンの東2.2キロ)に前遣部隊を進めます。このB第13連隊の2個(第1、2)大隊とB第2師団の砲兵5個中隊*は正午頃、ヴィルショモン(同南南東1.8キロ)からボージョンシーへの街道を越えて来たシャルル・ベルナール・ドゥ・ヴェッセ・ドゥ・ロクブリューヌ少将麾下の仏第17軍団第1師団と戦い、これを追い返します。


 ※B野戦砲兵第1連隊・4ポンド砲第4、6ポンド砲第6,8中隊はボーモンの南西郊外に砲列を敷き、B野戦砲兵第3連隊・6ポンド砲第5,6中隊は同地東郊外に砲列を敷いていました。


 メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世は、クラヴァンに普第22師団が接近したことを知ると、正午、「ボーモン東方に進んだB第2師団はヴィルショモンに、フォワナール(ムン=シュル=ロアールの南西2.7キロ)にある普第17師団はボージョンシーに、それぞれ前進せよ」と命じ、B第1師団と普騎兵第4師団は「軍直属となって現在地に待機」を命じます。

 この頃(正午過ぎ)となると、仏軍の砲撃は益々盛んになり、ボージョンシーの東と北側郊外に広がるブドウ畑に潜むカモ師団の散兵線からは猛烈なシャスポー銃の銃撃が絶えることなく続きました。B軍の諸部隊はこれに耐久しつつじわじわと前進してクラヴァン南方郊外からル・メー(ボーモンの南南東1.7キロ)に至る前線を形成したのです。


※12月8日午後・B第2師団の戦闘序列

◇第一線

右翼(クラヴァンの南東郊外/ボーモン前面)から左翼(ル・メー)へ

○B第10「ルートヴィヒ親王」連隊・第2大隊

○B第13「オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ」連隊・第2大隊

○B第10連隊・第10,11中隊

○B猟兵第1大隊

○B第3「バイエルン親王カール」連隊・第1大隊

○B第3連隊・第3大隊(ル・メー部落内)

◇第二線(待機)

 ボーモン部落内

○B第10連隊・第1大隊(1個中隊欠)

○B第10連隊・第9,12中隊

○B第13連隊・第1大隊

◇前線予備

 ボーモンの東郊外

○B第12「ギリシャ王アマリエ」連隊(2個中隊欠)

○B野戦砲兵第1連隊・4ポンド第2中隊


◇他の任務にあって前線にないもの

 輜重援護・警戒などで更に後方待機

○B第10連隊・第3中隊

○B第12連隊・第1,2中隊

○B第13連隊・第3大隊

○B猟兵第7大隊

 普騎兵第2師団への増員

○B第3連隊・第2大隊


 ところが、午後1時を過ぎると一旦はヴィルショモン周辺に引き上げた仏第17軍団第1師団が、その付近に陣を敷いていたピエール・デフランドル少将の同軍団第3師団と合同し一斉反攻を開始したのです。B第2師団は後方からB第13連隊第1大隊を増援として前線へ投入しますが、それでも戦力比はほぼ3対1で仏軍が勝り、相手は護国軍や後方部隊主体といえど歴戦のB軍もこれには耐久出来ず、B第2師団の前線は強烈な圧を受けてボーモン周辺まで押し返されてしまうのです。

 しかしル・メー部落にあったB第3連隊の第3大隊だけは、血相を変え蛮勇を奮って襲い来る恐ろしいほどの数の仏軍による波状攻撃を耐えに耐え、包囲の危険にある部落を死守するのでした。


挿絵(By みてみん)

ル・メー部落へ進むサルト県の護国軍将兵


 この危機を見たB第1軍団長のフォン・デア・タン歩兵大将は軍の予備として後置していた砲兵のうち4個中隊を前線に急行させ、この内B砲兵第3連隊の6ポンド砲第5中隊はクラヴァンとボーモンの間、残り3個中隊*はボーモンの東方に砲を敷いていた砲兵群に加入するのでした。


※12月8日昼過ぎ・ボーモンとクラヴァンにおけるB軍の砲列

+印は仏軍反攻後に参戦

◇ボーモンとクラヴァン間(右翼/西から左翼/東へ)

*B砲兵第1連隊・4ポンド砲第3中隊<B第2旅団付>

*B砲兵第3連隊・6ポンド砲第3中隊<B第2旅団付>

*同連隊・6ポンド砲第4中隊<B第2旅団付>

*同連隊・6ポンド砲第7中隊<B第1軍団砲兵隊>

*同連隊・6ポンド砲第8中隊<B第1軍団砲兵隊>

+同連隊・6ポンド砲第5中隊<B第1軍団砲兵隊>

◇ボーモンの東郊外

*B砲兵第1連隊・6ポンド砲第9中隊<B第1軍団砲兵隊>

*B砲兵第3連隊・12ポンド砲第12中隊<B第1軍団砲兵隊>

*B砲兵第4連隊・6ポンド砲第10中隊<B第1軍団砲兵隊>

+B砲兵第3連隊・騎砲兵(4ポンド騎砲)第2中隊<B第1軍団砲兵隊>

+B砲兵第3連隊・6ポンド砲第6中隊<B第1軍団砲兵隊>

+不詳<B第1軍団砲兵隊・11月にパリへ去ったバレーガン中隊の交代要員と思われます>


 フォン・デア・タン大将は他にもB第1師団のB猟兵第9大隊をクラヴァンの普第22師団前衛の増援として送り出し、更に後退するB第2師団を収容するためB猟兵第4大隊とB第2「王太子」連隊及び1個中隊の欠けたB第11「フォン・デア・タン」連隊を前進させます。

 同じくB第2師団を指揮する軍団長弟のフォン・デア・タン少将は師団で後置していたB第12連隊を戦線左翼(南)へ、同第10連隊の第1大隊と第9,12中隊、B砲兵第1連隊の4ポンド第2中隊を戦線中央へ、それぞれ向かわせたのでした。

 B軍左翼後方では、友軍の苦戦を見た普騎兵第2師団の騎砲兵2個中隊が援護射撃を開始し、更にその後方ではB胸甲騎兵旅団がボージョンシーを攻める普第17師団とB第1軍団の間を埋めるべくメッサ方向へ前進を図るのです。


 こうしてほぼ3対1の兵力差を2対1程度にまで縮めた前線のB軍は、押し寄せる仏軍に対し猛烈な銃砲撃を送り、戦場における順応では遙かに勝るB軍の厳格な統率は兵士たちの団結を緩ませず、逆ににわか仕立てで軍隊に投入された仏軍兵士たちは、一向に鎮まらない猛烈な火線の中へ飛び込む勇気を次第に失って行きました。綻びは方々で現れ、突撃は尻つぼみとなり、釘付けにされた諸隊はやがて後退し始めるのです。

 仏軍退潮の気配を察したB軍諸隊は空かさず反撃に移り、B軍3個旅団はほぼ全力で追撃を始めます。仏第16軍団第1師団と第17軍団第1師団はボージョンシーへの街道を越えて西へ退却し、B軍は深追いせず追撃を中止して再び街道に沿った前線を作り上げました。


 仏軍はこうしてクラヴァン南部の前線から下がりましたが、これは一時的な戦力の建て直しで、シャンジー将軍は新たに第17軍団砲兵をヴィルショモンに、第21軍団砲兵をヴィルヌーヴ(農家。クラヴァンの西3.3キロ。現存します/ボージョンシー東の部落とは別です)にそれぞれ展開させるとクラヴァンの南北に展開する独軍に対し猛烈な砲撃を始めます。仏第17軍団長代理のゲプラット将軍はこのクラヴァンを奪回しB軍をムンまで押し返すべく「軍団の尻」を叩いていたのでした。


 一方、普第22師団の第44旅団は前述通り午後1時頃クラヴァン近郊にやって来ます。この旅団と同道した3個の師団軽砲(第4,5,6)中隊はロネイ(クラヴァンの北2.4キロ)西側に砲列を敷き、短時間の砲撃でボーヴァール(農場。同北西1.5キロ。現存します)にいた仏軍前哨を駆逐しました。続いて普第83連隊F大隊がこの農場とレ(農場。ボーヴァールの南東370m。現存します)を占拠し、旅団主力は仏軍が逃げ去ったクラヴァンを占領するのです。

 しかし仏第17軍団もまた再びクラヴァンを落とすために前線部隊を送り、このためクラヴァンの西側でも激しい戦闘が始まったのでした。

 普第22師団残りの3個砲兵(重砲第3,4、軽砲第3)中隊は午後2時30分になって普第43旅団と共にロネイまで進みましたが、この行軍はボージョンシー街道と平行して西方に砲列を敷いた仏第17軍団と同16軍団砲兵諸中隊の格好の目標となっており非常に困難な行軍となりました。この敵砲兵と戦う先の3個軽砲中隊はこの間、普第8騎兵旅団に護衛されてボーヴァールまで前進し砲を敷き直しており、ロネイの砲兵3個中隊もまた敵に狙われつつもボーヴァールに向けて進むのでした。

 この時、普騎兵第4師団本隊(普騎兵第9と同第10旅団)はモンティニー(ロネイの西北西1.4キロ)付近まで進み、その騎砲兵2個(第11軍団の第2、第5軍団の第1)中隊もまたボーヴァールの普軍砲列に加わりましたが、昨日マルシュノワールの森を砲撃したために榴弾が残り少なくなっていたこの両中隊は短時間で全弾撃ち尽くしてしまい、弾薬補充のためにモンティニーへ引き上げたのでした。


 午後3時。準備の成った仏第17軍団は主力(第1と第3師団)をクラヴァンに向け前進を開始します。その密集した縦隊はセルネ(クラヴァンの南南西1.3キロ)を越えてクラヴァン近郊に迫り、たちまち激しい銃撃戦が始まりました。

 この攻撃に対しては、クラヴァン市街の西縁に陣取ったB猟兵第9大隊が猛射撃で迎撃し、やがて市街周辺で構えた普第83と普第94両連隊一部の援護を得て、銃火に怯んだ仏軍先鋒に対して大胆な突撃を敢行したため、仏軍の攻撃は失敗し縦隊は引き返し始めました。

 しかし、クラヴァン前面では失敗した仏軍も、その北方のレ農場を襲った攻撃を成功させ、当地にいた普軍は一部が捕虜となり多くが東方へ脱出したのでした。これを知ったヴィッティヒ将軍は第43旅団に対し直ちに反撃を命じ、普第32連隊第2とF大隊はこの農場を占拠した仏第17軍団第3師団の一部が勝利に酔う間もなくレを襲って仏軍を追い出し奪還したのです。同時に普95連隊第1、2大隊は普軍砲列のあるボーヴァールへ急行し砲兵の援護に当たりました。この攻撃中、前線で陣頭指揮を執っていた仏第17軍団第3師団長デフランドル将軍は重傷を負い、後送されてしまいます。後退した仏第17軍団第3師団将兵は戦線後方で待機していた同軍団第2師団に保護されました。


挿絵(By みてみん)

レ農場へ突撃するデフランドル将軍


 このレ農場の後方ではB軍団左翼から転進した普騎兵第2師団が普第22師団を援助すべく準備をしていましたが、この第22師団右翼に対しマルシュノワールの森東側に待機していた仏第16軍団の騎兵師団から2個の騎兵連隊が一旦メジエール(ヴィレルマンの北2.6キロ)方面へ迂回し、そこから右旋回してヴィレルマンへ接近します。これに対抗したのはあの「弾切れ」で補充に戻っていた普騎兵第4師団の騎砲兵2個中隊で、急ぎル・カルフール(農家。モンティニーの北西500m)付近に砲列を敷いた彼らは補充したばかりの榴弾を発射し、これに驚いた仏軍騎兵集団は急旋回を行って退却しました。これを普驃騎兵「親衛第2」連隊第4中隊が追撃しますが、仏騎兵の逃げ足は速く追い付くことは出来ませんでした。


 午後4時。仏第17及び21軍団砲兵の猛烈な榴弾砲撃により、クラヴァンにより近いB軍の砲列5個中隊(後から加わったB砲兵第3連隊の6ポンド砲第5中隊以外)は多大の損害を受け、フォン・デア・タン大将はこの5個中隊を敵銃砲の有効射程外へ後退させます。しかし軍団で予備扱いとなっていた砲兵3個中隊*が前進してボーモン東の砲列に加わり、着弾で雪塊や泥濘、弾片と石塊が飛び交う危険な荒野で激しい対抗砲撃を開始したのです。


挿絵(By みてみん)

ボーモン近郊バイエルン砲兵の苦闘 12.8


※午後4時砲列に加わった砲兵中隊

*B砲兵第1連隊・6ポンド砲第5中隊

*同連隊・6ポンド砲第7中隊

*同連隊・4ポンド砲第1中隊


 予備砲兵の前進と共に後方よりB第1旅団(親衛連隊第12中隊と第1連隊第2大隊欠)もまた戦場に進み出、ボージョンシー街道に沿って展開するB軍の散兵線中央に加わりました。彼らはB第2師団の同僚と混合してセルネ付近からヴィルヴェール(農場。ヴィルショモンの南東960m。現存します)に展開した仏第17軍団第1師団の散兵線に向かって突撃を敢行します。

 ところがこれは運悪くジョーレギベリ提督の命令で南方のメ(Mer。ル・メーとは違います。ボージョンシーの南西12.6キロ)からやって来た仏軍の増援(ルイ・ドゥプランク准将の仏第16軍団第1師団)と衝突してしまい、正面と側面から攻撃を受けたB軍はたちまち防戦一方となって攻撃は失敗、短時間で突撃の先陣にあった大隊長3名(B第13連隊第1大隊のエンドラス少佐、B第12連隊第3大隊のパウシュ少佐、B親衛連隊第3大隊のフォン・ルエシュ少佐。3人共に戦死)を含む多数の士官を失うと、散り散りとなったB軍諸隊は包囲殲滅される前に命辛々ボーモン方面へ逃走したのでした。

 勢いに乗った仏軍はこれを追撃してボージョンシー街道に迫りますが、ここでボーモン付近に展開するB軍砲列の砲撃を受け、これを「制し難い障害」と判断した仏軍は元の前線へ引き上げるのです。


挿絵(By みてみん)

ヴィルショモン12.8 エンドラス少佐の戦死 アントン・ホフマン画


 クラヴァンの戦線はここで「時間切れ」となりました。夕闇と夜の極寒迫る中、仏第17軍団は戦線で突出部となっていたヴィルショモンを棄て、元の陣地まで下がって行ったのでした。


 B第1軍団の戦線左翼(南)では同8日午前中、普第17師団(2個中隊欠)が前日に確保した前線各拠点の防御工事を行った後の午前11時に師団前衛(前日7日と同じ編成です)がヴィルヌーヴ(部落。ボージョンシーの北北東3.8キロ。クラヴァン西の農場とは違います)からレ・ヴァレー(小部落。ヴィルヌーヴの南南東850m)の線まで進みます。

 午後12時30分。メクレンブルク=シュヴェリーン大公より先述の「ボージョンシーへ前進せよ」との命令が師団長ヘルマン・フォン・トレスコウ将軍の下に届き、将軍は前衛支隊をオルレアン~ボージョンシー街道(現・国道D2152号線)上へ進めてボージョンシー市街へ、街道の右(西)へ普第75「ハンザ第1」連隊の2個(第1、2)大隊を進めてメッサ(ボージョンシーからは北へ9.3キロ)へ、それぞれ前進するよう命じました。

 メッサへ向かった普第75連隊2個大隊は、師団の重砲第6中隊と第9軍団騎砲兵第1中隊(普第17騎兵旅団砲兵)の援護射撃の下メッサ郊外へ進むと二手に分かれ、一隊は部落を回り込んで西から、もう一隊は南から侵入を試みます。ところが、ここを守っていたカモ師団の仏マルシェ第59連隊が頑強に抵抗し、この戦闘は延々夕暮れ時まで続くのでした。ようやく日没近くとなって仏軍の銃撃は収まり、一気に部落へ侵攻したブレーメン自由市の普軍将兵は150名の仏落伍兵を捕虜として部落を制圧します。ここへ一度は部落を棄てて西へ退却した仏軍部隊が再び突撃を敢行しますが、これはブレーメン兵の猛銃撃で阻止され、2個大隊はこの日そのままメッサに宿営するのでした。

 このメッサの争奪戦最中、マントイフェル大佐率いる普第17師団前衛は、同道する先の2個砲兵中隊によってボージョンシー東郊外の丘陵に陣取るカモ師団陣地を砲撃し、両砲兵中隊は更にマルゴティエール(メッサの南東1.2キロ)を越え、その南西500mまで前進すると砲列を敷き直し、ヴェルノン(メッサの南西1.3キロ)を中心にビナ~ボージョンシー街道(現・国道D925号線)に沿って展開するカモ師団前線を砲撃しました。

 砲撃の最中、普前衛のフュージリア第90「メクレンブルク」連隊の第2大隊*は仏軍からの猛烈な銃砲撃でバタバタと戦友が倒れる中、怯まずに突進してボージョンシー東の丘陵を制圧し、その後数回行われた仏軍の突撃も撃退して丘を死守するのでした。


※フュージリア第90連隊の第2大隊は11月18日までトゥール(Toul)要塞守備隊でしたが、後備兵との交代を行って原隊復帰を目指し行軍し、シャロン(=アン=シャンパーニュ)でマルヌ川を越え、コルベイユ(=エソンヌ)でセーヌ川を越えてこの12月8日正午頃戦場に現れました。即ち十分な糧食補給もない後方連絡線上を長期行軍した直後にそのまま戦闘に参加した訳で、メクレンブルク兵の精悍・士気の高さが伝わります。


挿絵(By みてみん)

トレスコウ第17師団長


 普前衛の先鋒となった普猟兵第14「メクレンブルク」大隊はボージョンシー市街へ突進し、一時市街外縁から300m付近で留まって市街の仏軍と銃撃を交わした後、モーヴ河畔に沿って市街へ侵入しました。仏カモ師団は街道に沿った鉄道堤で激しく抵抗しましたが、これも市街に接近した普擲弾兵第89「メクレンブルク」連隊第1大隊と普第75連隊F大隊が援護射撃を行い、仏軍は西郊外へ退却したのです。この時、カモ師団砲兵の1個中隊は既に普軍に制圧された市街へ退却してしまい、たちまち普軍に囲まれて降伏し、その砲6門は全て鹵獲されました。

 こうしてボージョンシーは普第17師団前衛によって占領されましたが、その北郊外のヴェルノン周辺には未だカモ師団の一部(第1旅団主体)が居残っており、川と仏軍に挟まれた陣地は危うい立場にありました。そこでトレスコウ将軍はメッサの普75連隊2個大隊に夜間前進を命じ、両大隊は日付が変わる午前12時、メッサからヴェルノンへ突進しました。この夜襲はカモ師団将兵が全く予期していなかったもので、仏軍は驚き慌ててヴィルロソー南東のグラン=ボンヴァレへ逃走し、後には戦意を失った落伍兵約200名が手を上げていたのでした。


 戦闘終了後の夜間、普第17師団の本隊はムン=シュル=ロアールの周辺で宿営し、ロアール川対岸のライイ=アン=ヴァルまで進んでいた北独第9軍団と連絡を通すため、ムンとボージョンシー市街近くに渡船場を作ります。この第9軍団に属する砲兵4個(重砲3,4、軽砲3,4)中隊は、ボージョンシーの対岸に砲列を敷き、正午頃から普第17師団がボージョンシーへ突入するまでの間、榴弾砲撃を繰り返していました。また、先を行く普第25「H」師団は道中仏軍の斥侯や義勇兵と小競り合いを繰り返しつつこれを排除し、退却する仏兵の背中を追いながらブロアへの街道(現・国道D951号線)を前進し、この日はモルヌ(ライイの南西3キロ)の南西郊外まで進出したのです。


 この夜、仏第2ロアール軍最左翼の仏第21軍団が朝と殆ど変わらないマルシュノワールの森北縁、オータンヴィル~サン=ローラン=デ=ボワ~ロルジュの線を確保し続けました。中央の仏第17軍団はロルジュで左翼が連絡を仏第21軍団第2師団と取り合うと本隊はウルセル~ヴィロルソー間に留まり、その右翼でボージョンシーからカモ師団が撤退した後、ヴィルロソーからタヴェールまでに仏第16軍団第1師団が進出し警戒線を張りました。


 メクレンブルク=シュヴェリーン大公、フリードリヒ・フランツ2世大将はこの日午前10時にグラン=シャトルへ進出し指揮を執りました。夜に入り各前線で戦闘が終結すると、それまでの戦闘報告から「仏軍は明日、現地点より更に後退するに違いない」と考え、翌9日のため、その考えに沿った命令を下します。

「普第17師団前衛はボージョンシーからトゥールに至る街道(現・国道D2152号線)を、普騎兵第2師団の1個旅団はヴィロルソー(ボージョンシーの北西3.8キロ)を経て、普騎兵第4師団の1個旅団はセリ(ボージョンシーの西南西10.1キロ)目指し、それぞれ前進せよ。B第1軍団は本日(8日)の損害が大きかったため、翌早朝、その任を普第22師団に譲り後方予備となること」


 独第二軍司令官で大公軍をも統合指揮を執るようヴィルヘルム1世国王から命じられ、オルレアンに本営を置くカール王子は、この8日早朝、大公軍本営に第二軍本営参謀副長のアドルフ・カール・テオドール・フリードリヒ・フォン・ヘルツベルク大佐を送って情報収集に当たりますが、午後2時になって大佐からの報告が伝令によって届きます。ヘルツベルク大佐は「現在大公軍が戦っている敵軍勢は少なく見積もっても2個師団の軍団クラス」との報告を上げたのです。

 この午前中にはジアン(東)及びビエルゾン(南)へ送った諸隊からも前日7日の報告が届いており、その戦闘詳報や捕虜の尋問記録から「仏軍は3から4個軍団でブールジュ及びビエルゾンに向かって退却中」との事実が判明しました。

 このことからカール王子は昨日7日に定めた方針を変えず、午後3時にジアン前面にいる普第3軍団に対し「普騎兵第1師団と共に10日までにシュリー(=シュル=ロアール)かジアン又はシャティオン(=シュル=ロアール。ジアンの南東13.8キロ)でロアールを渡河しソローニュ地方へ進出、12日にラ・シャペル=ダンジョン(ブールジュの北31.4キロ)まで到着せよ」と命じます。また、北独第9軍団に対しては「ロアール左岸上を進み続け右岸を行く大公軍と並進してブロアに至った後、左翼(南東)へ転じ13日にはメンヌトゥ=シュル=シェール(ビエルゾンの西北西16.1キロ)に到達せよ」、オルレアン周辺に位置する普第10軍団には「ラ・フェルテ=サン=トーバンに進めている支隊を10日にオルレアンへ帰還させ、13日には軍団を上げてサルブリまで前進せよ」、普騎兵第6師団は「そのままビエルゾン周辺で斥侯活動を行い、敵との接触を図ること」とそれぞれ命令を受けました。


挿絵(By みてみん)

 ヘルツベルク


 8日日没時、大公軍前線からヘルツベルク大佐が帰還し、カール王子に戦闘の様子を報告します。これを聞いたカール王子は「間接支援ではなく直接の援軍を速やかに送らなくてはならない」と断じ、オルレアン在の普第10軍団長フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将に対し「状況が許せばオルレアン東郊からサン=ドニ=ド=ロテルに渡って展開している普第20師団を9日中に市街に集合させ、大公軍への援軍となるよう準備せよ」と命じるのです。

 その後、普第3軍団より報告があり、それによれば「アルジャン=シュル=ソルドル(ジアンの南西19.7キロ)の方向に向かって退却中の敵がロアール河畔に残置した後衛は、我ら前衛の姿を確認するとジアン付近の橋梁を破壊した。しかし、この橋梁は明日中に我ら工兵によって渡渉出来るまでに修繕可能」とのことでした。一方、ジアンを迂回し更に上流のブリアールからシャティオン=シュル=ロアールに掛けて偵察を行った偵察斥侯は、この両地の橋梁も落とされていると報告します。

 サルブリを越えて偵察行に入った普騎兵第6師団はこの8日、本隊が仏軍の退却行軍を追いつつ目標のビエルゾンに達し、右翼(西)を行く支隊はメンヌトゥ=シュル=シェールでシェール川沿いにトゥールへ向かう鉄道を破壊し、左翼(東)側に偵察へ出た一隊はブールジュに向けて退却行軍する仏第15軍団後衛の後をつけてヌヴィー=シュル=バランジョン(ビエルゾンの北東17.5キロ)に達したのでした。


挿絵(By みてみん)

ボージョンシー=クラヴァン187012.8(ジマー画)




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