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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・極寒期の死闘
413/534

仏ロアール軍の分裂

マルシュノワール~ボージョンシー戦線12月7日


挿絵(By みてみん)




☆ ムン=シュル=ロアールの戦闘(12月7日)・後


 普第17師団前衛が、7日の午後4時前後に膠着していたムン(=シュル=ロアール)の西郊戦線で前進が図れるようになったのは、バイエルン王国(B)第1師団の動きが大きく関係しています。

 B第1師団は既述通り、サン=エ付近からラ・シャルリー経由でムン北西側の仏軍戦線左翼を攻撃するようメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世から命じられていましたが、それ以前から大公軍右翼側では普騎兵第2師団が行動を開始していました。


挿絵(By みてみん)

極寒の中を突撃する普軍驃騎兵


 早朝にムンから引き上げたツー・シュトルベルク中将たちは、B第1師団と普第17師団が前進を開始した直後、大公から両師団の右翼(北)を進み普第17師団を援護するよう命じられ、正午頃ラ・シャルリーに達するとモーヴ川(クルミエの南方3ヶ所からラ・シャルリー、ムンを経てボージョンシーへ流れるロアール支流)を渡河しようとしますが、仏軍が対岸に散兵線を敷いて待ち構えているのが望見されたため渡河を中止し、モーヴ沿岸を遡ってクルミエ戦での激戦地、ラ・ルナルディエール(ラ・シャルリーの北北西5.4キロ)まで進みます。騎兵師団はここでモーヴ(・ドゥ・ラ・ディーブ)川を渡りバコンを経てル・バルドン(ムンの北西3.8キロ)を目指し、午後3時頃、師団砲兵2個(野戦砲兵第2連隊・騎砲兵第1、同第6連隊・騎砲兵第3)中隊の砲撃で仏軍をル・バルドンから駆逐しました。

 この時、B第1師団前衛となっていたB第1旅団が同地に到着し、B前衛歩兵は砲兵3個(B野戦砲兵第1「親王ルイトポルド」連隊・4ポンド砲第1、同6ポンド砲第5,7)中隊の援護射撃を受けてラングロシェール西側に居座って普軍を阻止し続けていた仏軍を攻撃するために2個の梯団を作って前進を開始します。


※12月7日・B第1旅団の攻撃隊列

○第1梯団(右翼・北から)

*B親衛連隊・第1大隊

*B猟兵第2大隊

*B親衛連隊・第2大隊

○第2梯団(同)

*B親衛連隊・第3大隊(1個中隊欠)

*B第1連隊・第1大隊

※B親衛連隊の第12中隊、B第1連隊の第2大隊、B第11連隊の第3大隊は別任務で加わっていません


 B軍はル・メー(ラングロシェールの西南西3.6キロ)方向に後退しつつあった仏軍を追ってラ・ブリ農場(同西北西1.8キロ)の真横まで前進しますが、この行軍中、B親衛連隊第1大隊長のエッカート少佐は背進する仏軍からの銃撃を受けて重傷を負い、間もなく死去してしまいました。因みに仏軍側も「B軍の高級指揮官が重傷を負った」との情報を得ており、シャンジー将軍の本営はこの日の戦闘報告で「敵B軍のバプティスト・リッター・フォン・シュテファン中将(B第1師団長)が銃弾を受けて負傷した」と誤認した情報をトゥールに上げています。


挿絵(By みてみん)

鉄道堤へ突撃するバイエルン兵


 B軍がラ・ブリを2個(親衛連隊第5、猟兵第2大隊第4)中隊で占領すると、グラン=シャトル(ラングロシェールの北西3.1キロ)から仏軍の強大な縦隊が密集して出撃してラ・ブリに迫り、B軍の右翼(北)側面に進んだため、B第1旅団長のカール・リッター・フォン・ディートル少将は旅団を右へ転回させて敵の右翼に正面させ急進させました。この進撃に対し、普騎兵第2師団の両騎砲兵中隊はフォンティーヌ(ル・バルドンからは北へ2.9キロ)の南側に砲列を敷いて援護射撃を行い、B軍を助けています。

 ほぼ同時にB第2旅団もル・バルドンに到着し、こちらは大公からの命令で南方にて奮戦する普第17師団の増援としてB第1旅団の左翼(南)側へ進み出ましたが、ここで日没を迎え、戦場は急速に闇に閉ざされ始めたためこれ以上の前進は中止されました。


 グラン=シャトルの近郊ではB第1旅団第1梯団と仏軍が衝突し夕闇の中で激しい近接戦闘が起こります。この戦闘は両者譲らず夜に入っても続きましたが、B軍第2梯団の殆どが参戦したことによって次第に形勢はB軍有利となり、勇戦した仏軍はボーモン(グラン=シャトルの南西2.1キロ)方面へと後退して行きました。

 このグラン=シャトルの戦闘中、ラ・ブリ農場を占領していたB軍の2個中隊は、農場の南方に砲列を敷いて西へ進むB第1旅団の側背面を砲撃し始めた仏軍の1個砲兵中隊を発見します。B軍2人の中隊長、ゴルヒ大尉とマイヤー中尉は示し合わせて直ちに出撃し、この砲列を襲って仏砲兵を駆逐すると砲6門全てを鹵獲する手柄を上げました。しかし若い2人のB軍士官が大手柄だと喜んだのも束の間、西から仏の1個大隊が突進し、倍する敵に銃剣白兵格闘戦にまで及んだB軍2個中隊は奮戦空しく、包囲される前に砲を棄てて退却したのでした。


挿絵(By みてみん)

ミトライユーズの砲撃


 グラン=シャトルの戦闘が終結した頃、B第2師団の増援がすぐ北方まで進んで来ます。

 この部隊はB第3旅団で、B第2師団を代理指揮するB第4旅団長の男爵フーゴ・カール・ルートヴィヒ・フォン・ウント・ツー・デア・タン=ラートザームハウゼン少将*が同7日午前10時30分、師団をユイッソーに集合させた際に師団前衛とされたもので、旅団は先鋒部隊をグレノー(農場。バコンの南南西1.8キロ。現存します)を経由してヴィロエリー(農場。グラン=シャトルの北北西1.8キロ。現存する3軒並びの農家一番南)まで進め、B野戦砲兵第3連隊の6ポンド砲第5中隊を前面に出してちょうどクラヴァン(ル・バルドンの西南西6.1キロ)へ退却しつつあった仏軍縦隊を砲撃させます。

 この日は第二線後続として進んでいたB第2師団は午後4時、所定の宿営地で宿営に入ろうとしたところ、グラン=シャトルの戦闘が発生し、同時にB第1師団から増援要請が届いたため、フォン・デア・タン師団長は日没時前に本隊へ合流していた第3旅団を再びヴィロエリーまで進めましたが、既に遅く戦闘は終了していたのです。

 この夜、B第2師団は前哨線をロネイ(クラヴァンの北2.5キロ)からレ・バンシェ(農場。ロネイの北3.6キロ)間に敷いて警戒し、この農場で普第22師団との連絡を取りました。


※セダン戦などの功績でリッターの称号と中将位を授けられたヨーゼフ・マクシミリアン・フリードリン・リッター・フォン・マイリンガー中将(B第8旅団長)は、緒戦から師団長が病気不在だったB第2師団長に正式任命されパリ包囲網からオルレアンへ向かいますが、道中仏義勇兵が跋扈する後方連絡線の混乱等によって未だ戦場に到着出来ず、軍団長の弟カール・フォン・デア・タン少将が赴任までの間指揮を代わりました。


挿絵(By みてみん)

バイエルン歩兵の突撃


 普第22師団はこの7日正午、ビナ(ウズーエ=ル=マルシェの西5キロ)付近に進んだ普騎兵第4師団の後方(東)に位置するため、ウズーエ=ル=マルシェへ進みこの日はここで待機に入ります。

 普軍騎兵師団の方は早朝西への進撃を開始し、敵の去ったウズーエを経由してビナを易々と占領すると強力な斥候多数を前三方に放ち、各斥候隊はビナの西方マルシェノワールの森周辺で仏軍の強力な部隊と遭遇、一部は短時間の交戦に至りました。師団長で王末弟のアルブレヒト親王は正午から午後1時の間に、マロール(ビナの南南東3.8キロ)に前遣されていた普騎兵第10旅団の援護下、師団所属の砲6門(野戦砲兵第11連隊・騎砲兵第2中隊の2個小隊と、同第5連隊・騎砲兵第1中隊の1個小隊)を使って森周辺で目立つ仏軍の歩兵縦隊や、森の縁に砲列を敷き盛んに砲撃して来る仏軍砲兵数個中隊に対し砲撃を行わせます。

 しかし再度斥候から「マルシェノワールの森北縁に強大な敵兵力が存在する」との報告が上がって来たため、アルブレヒト親王は「これ以上歩砲兵の増援がない状態で敵と対峙するのは甚だ危険」と判断し、午後3時30分、戦闘を切り上げさせると全部隊を後退させ、その後仏軍の妨害を受けることなくモレ街道(現・国道D357号線)の北方で宿営を確保すると警戒しつつ休息に入りました。


挿絵(By みてみん)

マルシュノワールの森12月7日~マロールでバイエルン猟兵を救う普胸甲騎兵


 一方、新たに大公軍傘下となった北独第25「ヘッセン大公国(H)」師団はロアール川左(南)岸で大公軍よりほぼ1日先行して行軍し、6日にクレリ=サン=タンドレ(ムン=シュル=ロアールの東4.5キロ)、翌7日にライイ=アン=ヴァル(ボージョンシーの東4キロ)まで進んでいます。

 この7日、師団の右(北)翼支隊にあったH野戦砲兵・軽砲第3中隊は、激しい戦闘が望見される対岸のムン(=シュル=ロアール)の西郊に対して砲列を敷くと、仏軍陣地に対して砲撃を開始しましたが、さすがに距離が離れ過ぎ(5キロ以上と思われます)だったため効果はなく、直ぐに諦めて行軍を再開しています。同じく右翼支隊の一部はボージョンシーの対岸付近まで進むと、H軽砲第1中隊が川沿いを進む仏軍縦隊に対して砲撃を行い、こちらは敵の行軍を射程外まで迂回させることに成功しました。


 7日の「ムン=シュル=ロアールの戦闘」による独軍の損害は、B第1軍団が戦死16名・負傷101名・行方不明25名、普第17師団が戦死58名・負傷162名・行方不明10名でした(仏軍は不詳です)。


挿絵(By みてみん)

クラヴァンの戦場パノラマ(仏絵葉書)


☆ 仏「第2」ロアール軍の誕生(12月5日から7日)


 既述通り仏ロアール軍は12月3から4日に掛けての第2次オルレアンの戦いの結果ほぼ3方向に離散し、仏第18と20軍団は赴任したばかりのブルバキ将軍に率いられ、主力をロアール川左岸(南岸)に移して南へ退却しましたが、セダン戦時仏第12軍団第3「ブルー(海軍)」師団第2旅団長で、あの「バゼイユ」で奮戦したのち脱出したシャルル・マルタン・デ・パリエール少将率いる第15軍団はほぼ壊乱状態となり、本隊とはぐれた仏第16・17軍団諸兵と共にオルレアンから退出(一時的休戦による市街の明け渡し。短時間の休戦後独軍の追撃が始まりました)、ラ・フェルテ=サン=トーバンを経て5日夕刻にはラモット=ブーヴロンまで落ち延びます。その後この軍勢は6日正午にサルブリ周辺へ到着、その後ソルドル川(ブールジュ北東の高地を水源にアルジャン~サルブリ~ロモランタン=ラントネーと流れシャティオン=シュル=シェールでロアール支流シェール川に注ぎます)の南に退きました。

 このサルブリ(オルレアンの南54キロ)までロアール軍司令官ドーレル・ドゥ・パラディーヌ将軍も同道し、この雑多な集団を何とか戦闘集団として再起させるべく動き始めますが、トゥールの国防政府派遣部は既にパラディーヌ将軍を見限っており、前日5日、ガンベタはフレシネに命じて「旧」ロアール軍を大きく2つに分割させ、仏第15、第18、第20軍団を「第1」ロアール軍としてブルバキ将軍に預け、オルレアンの西方へ集合した仏第16、第17、そして不十分ながら一応の編成が成ったコンスタン・ルイ・ジャン・バンジャマン・ジョレス提督率いる第21軍団を「第2」ロアール軍としてシャンジー将軍に任せるよう命じます。

 既述通りドーレル・ドゥ・パラディーヌ将軍はこの6日午後3時に解任命令書を受け取ると、シェルブールへの転属命令を拒否してその場で軍を辞任しました。


 この時の仏第21軍団は護国軍と補充部隊による3個師団編成で、別にル・マンで戦時昇進により少将となったオーギュスト・グジェアール海軍中佐が第4師団(別名・ブルターニュ兵団)を練成中でした。

 「第1」ロアール軍司令官となったブルバキ将軍は、第18、20軍団をアルジャン(=シュル=ソルドル)より更に南下させると共に、サルブリのパリエール将軍に対し、残存兵力を率いてブールジュ(サルブリの南東46.3キロ)方面へ後退させ戦力回復に努めるよう命じます。

 これによりガンベタが望んでいた「20万の兵力でモンタルジ(ロワン河畔)~ピティヴィエ間を抜きフォンテーヌブローの森を経てパリ南部へ突進する」という壮大な「夢」は完全に潰えたのでした。


 一方、「第2」ロアール軍司令官となったシャンジー将軍は、既述通りマルシュノワールの森とボージョンシー間で大公軍を迎え撃つことにして急ぎ部隊を展開させます。


 5日朝までに仏第21軍団は、独軍がマルシュノワールの森北方を迂回してシャンジー軍の後方へ進むことを警戒してエコマン(ビナの西南西11.9キロ)~マルシュノワール(同南南西10.2キロ)~サン=ローラン=デ=ボワ(同南5.9キロ)の間、マルシュノワールの森一帯に展開しました。

 同じく、モランディ准将率いる仏第16軍団第3師団はロアール川左岸を突破されるのを警戒してブロワに向かうこととなります。パリ准将率いる仏第17軍団第1師団第1旅団は第21軍団との連絡を取るためビナへ、バリー少将率いる仏第16軍団第2師団はメ(ル・メーとは違います。ボージョンシーの南西12.8キロ)付近に展開する事となりました。その他の部隊は大公軍が進み来るムン=シュル=ロアールとボージョンシー間に展開すべく動き出します。

 同じ頃、グジェアール将軍のブルターニュ兵団は編成未了でアルドネ=シュル=メルズ(ル・マンの東17キロ)に留まります。トゥール派遣部はこのブルターニュ兵団に代わる兵力をシャンジー将軍に送ることに決め、軍団編成から漏れた兵力を結集して作られた「トゥール地区機動兵団」を列車でボージョンシーへ送り出しました。この部隊は指揮官の名を取って「カモ師団」と呼ばれます。


 第2ロアール軍はこの5日夜、以下の位置にて宿・野営に入ります。


○仏第21軍団(3個師団)

 モレ、エコマン、サン=ローラン=デ=ボワ(ビナの南5.9キロ)、マルシュノワール。(マルシュノワールの森一帯)

○義勇兵集団

 第21軍団の左翼(北)側

○仏第16軍団第1師団

 ロルジェ(ビナの南南東9.3キロ)から南・マルシュノワールの森南東端前面

○仏第16軍団騎兵師団

 ポワズリー(ロルジュの北2.6キロ)

○仏第17軍団第3師団

 ル・プレシとプレネ(同南東3キロ付近にある双子部落)、ラ・コカルディエール(プレネの西1.2キロにある農家。現存します)

○仏第17軍団第2師団

 クールセル(ウルセル。プレネの東1.5キロ)、ヴィルジュアン(ボージョンシーの北西5.5キロ)、オリニー(ヴィルジュアンの南西950m)

○仏第17軍団第1師団

 ヴィルマルソー(同南東1.1キロ)~ロワーヌ(ヴィルマルソーの東1.1キロ)間

○仏第17軍団騎兵師団

 クロ・ムッス(ボージョンシーの西2.3キロ)~ボグーヌ(農家。ヴィルマルソーの南1.9キロ。現存します)

○仏第16軍団第2師団

 メ。

○仏第16軍団第3師団

 ブロワ。

○「トゥール地区機動兵団」(カモ師団)

 * マルシェ猟兵第16大隊 ; ル・メー(ムンの西6.3キロ)

 * 徒歩憲兵連隊 ; ムン=シュル=ロアール市街とその東郊外

 * マルシェ第59連隊と義勇エクレルール隊(ボネ大尉) ; ボーモン(同西6.9キロ)

 * 護国軍第27「イゼール県」・同第88「アンドル=エ=ロアール県」混成連隊とアン県義勇兵隊 ; メッサ(同西南西5キロ)

 * マルシェ猟騎兵第2連隊 ; ボーモン

 * マルシェ胸甲騎兵第7連隊 ; ボーモン

 * 乗馬憲兵第1連隊 ; ボーモン


 6日早朝。トゥールから来たばかりなのに「疲弊が激しい(厭戦気分も無視出来ません)第16、17軍団諸隊よりは元気で士気も高い」として一番危険なロアール川を臨むムン=シュル=ロアールの最前線に立たされたシャルル・マリエ・ローラン・ドミニク・ジェローム・カモ准将は、「普軍騎兵が接近」との至急報を受け、ムン市街とその東に前哨を出していた麾下の徒歩憲兵連隊(この時前線にいたのは6個中隊)にムンの防衛を命じ、やって来た普第2騎兵師団と衝突しました。

 既述通り普軍騎兵に従属していたB第12連隊第3大隊が、本来は後方で綱紀粛正・治安任務に就くのが任務の仏軍憲兵必死の抵抗を排除してムン市街を占領しますが、歩兵がこの1個大隊でしかなかった普軍は結局、ムン西郊外に戦陣を敷いたカモ師団将兵と戦うのは不利と判断しサン=エ方面へ引き上げました。


 ボージョンシーとマルシュノワールの森との中間点・ジョスヌ(ボージョンシーの西8.4キロ)に本営を構え、この戦闘結果を知ったシャンジー将軍は、独軍がトゥール方面(南西)へ本格的に進む兆候が明らかになったと断じ、ほぼ計画通り麾下部隊を敵の突破に備え展開させます。これにより、この日からルイ・ドゥブランク准将が率いることとなった第16軍団第1師団はグラン=ボヌヴァレとヴィロルソー(クラヴァンの南南東3.6キロ)に進出し右翼(南)でカモ師団と連絡しつつ、左翼(北)で第17軍団第1師団と連絡を取ります。

 第17軍団は従前の前線を維持しつつクラヴァンに前哨を出し、左翼の第3師団はロルジュで第21軍団と連絡して戦線を引き締めました。このロルジュ周辺に陣を敷いていたドゥプランク准将師団が南へ去ったため、コリン少将率いる第21軍団第2師団はロルジュとポワズリー間に進出し、グジェアール将軍のブルターニュ兵団(第21軍団第4師団)は軍団総予備としてラ・ヴィル=オー=クレール(モレの西11.2キロ)まで前進しました。

 なお、第16軍団第1師団長だったジャン・ベルナルダン・ジョーレギベリ海軍少将は第2ロアール軍の指揮官に昇任したシャンジー将軍に代わって第16軍団長となり、第17軍団もソニ将軍の負傷で急遽指揮を執っていたゲプラット少将に代わってルイ・ジョセフ・ジャン・フランシス・イシドロ・ドゥ・コロンブ少将が正式な指揮官に任命されました(但しコロンブ将軍の赴任は遅れて12月下旬となり、それまではゲプラット将軍が指揮を執り続けました)。


挿絵(By みてみん)

ジョーレギベリ提督


 7日午前。ビナ付近からマロールに掛けて騎兵を中心とする普軍とB軍部隊が進出し、仏第21軍団第3師団(ギヨン准将指揮)の前哨が拠点としていたビナから追い出されました。ほぼ同時にヴィレルマン(ウズーエ=ル=マルシェの南5.4キロ)の仏第17軍団第3師団の前哨陣地も襲われ、ビナ、マロール、ヴィレルマンの各部落は普軍が占領しました。

 仏軍右翼も襲撃され、ル・バルドンからラングロシェール、ラ・ブリュエール、フォワナールを経てボルに至るおよそ4キロの前線を敷いていたカモ将軍麾下の護国軍第88連隊の1個大隊と、仏第17軍団第2師団からの増援・マルシェ第51連隊は、ルドルフ・カール・ハインリッヒ・エンゲルハルト・フォン・マントイフェル大佐率いる普第17師団の前衛に対し闘志を燃やして激しく抵抗をするものの、次第に増える普軍に押されて西へと撤退しました。ここにヴィロルソーからラ・ブリ農場に進んでいたドゥプランク准将師団の護国軍第33「サルト県」連隊とマルシェ第37連隊、そしてカモ師団のマルシェ猟兵第16大隊が増援として現れて普軍の前進を阻止し一時は普軍を押し返したものの、既述通りB第1師団前衛が前進してラ・ブリを奪われ、仏軍は再びル・メー方面へ押し返されたのです。

 すると、後方ヴィルマルソー付近にいたシャルル・ベルナール・ドゥ・ヴェッセ・ドゥ・ロクブリューヌ少将率いる仏第17軍団第1師団の左翼がグラン=シャトルへ進出してB軍を迎え撃ちました。この戦いは付近が夜陰に沈んだ後も続きますが、次第に押され始めた仏軍はやがてボーモン方面へと引き上げたのでした。


挿絵(By みてみん)

マルシュノワールの森の第21軍団兵


☆ カール王子軍・12月7日夜


 カール王子はグラン=シャトルの戦闘が未だ続く7日夕刻、ベルサイユの普大本営から1通の電信を受け取ります。これはモルトケ参謀総長の副署が付いたヴィルヘルム1世国王の勅令電信でした。

 この命令によってカール王子は大公軍をガンベタのいるトゥールへ向けて進撃させることを許され、独第二軍はロアール軍「残党」の追撃を続行するよう命じられます。


 この時までにカール王子が得た情報では、オルレアンの東郊から逃走した仏軍はおよそ3個軍団で、ブールジュに向け南下したとのことでしたが、その際にジアン方面にも幾ばくかの部隊が進んだとの情報もあり、その正確な退却方向が未だ判明していませんでした。

 このためカール王子は基本方針として第二軍主力でソローニュ地方(オルレアンの南、シェール川までの森林と湖沼地域)を経てブールジュへ向かうこととしますが、深夜に至って麾下に発した命令は「まずはオルレアンの東西を征する」との考えが見えるもので、C・アルヴェンスレーヴェン中将の第3軍団はそのまま南東へ進撃し「翌8日ジアンを占領せよ」と命じられ、マンシュタイン歩兵大将は、普第18師団と北独第9軍団砲兵隊をロアール左(南)岸を南西へ進んでいる第25「H」師団に合流させ、再び軍団集合を成して大公軍のボージョンシー攻略を対岸から援助する様命じられます。

 一方、オルレアンに居残っていた普第10軍団を指揮するフォークツ=レッツ歩兵大将は、ソルドルから更に南のシェール河畔を捜索中の普騎兵第6師団を援助していた普第18師団が西へ去るため、入れ替わりにラ・フェルテ=サン=トーバン周辺に1個支隊を送るよう命じられました。


 同じ頃、ヴィルヘルム1世の勅令とカール王子の命令を通報されたフリードリヒ・フランツ2世大公は、ボージョンシーとマルシュノワールの森周辺に敵の大軍が待ち構える状況から、「命令通りトゥールへ進撃するには兵力を一点集中して運用し突破を図るしかない」、と考え左翼(南側ロアール北岸)に兵力集中を図ることに決し、7日午後9時45分、次の主旨の軍命令を発しました。


「普第17師団は翌8日午前10時ボル(ムンの南西2.5キロ)に集合、同時刻B第1軍団はグラン=シャトルで集合、戦闘準備を完了すること。普第22師団は普騎兵第4師団の1個旅団を加えてヴィレルマン経由でクラヴァンに進み、普騎兵第4師団残りの2個旅団は普第22師団の後方に追従すること。普騎兵第2師団はグラン=シャトルとクラヴァンの間に集合し、B第1軍団と普第22師団との連絡を付けること。ロアール左岸のH師団は対岸(右岸)で戦闘が惹起した場合、努めてこれを援助するように」


挿絵(By みてみん)

ボージョンシー郊外のバイエルン前哨兵



◎仏第21軍団戦闘序列 1870年12月初旬


軍団長 コンスタン・ルイ・ジャン・バンジャマン・ジョレス中将(戦時昇進・本来は海軍大佐)

参謀長 シャルル・ジョセフ・マリエ・ロイゼル准将

砲兵部長 シュテー大佐

工兵部長 ダンドゥヴィル大佐


☆ 第1師団 ルソー少将

○ 第1旅団 ルー中佐

*マルシェ第58連隊 [旅団長直率]

*マルシェ猟兵第13大隊 [ロンバード少佐]

*護国軍ドゥー=セーブル県(ポワトゥー地方・県都ニオール)第4大隊 

*護国軍ロアール=アンフェリウール県(現・ロアール=アトランティック県・県都ナント)第2大隊

*護国軍オーブ県(シャンパーニュ地方・県都トロワ)第3大隊

*臨時護国軍サルト県(ブルターニュ地方東方・県都ル・マン)第5大隊

○ 第2旅団 ティエ・ドゥ・ヴィラール中佐

*マルシェ第26連隊の3個中隊§

*マルシェ第94連隊の3個中隊

*マルシェ第49連隊の2個中隊

*護国軍第90「サルト県及びコレーズ県(リムーザン地方・県都チュール)」連隊の2個大隊

*臨時護国軍サルト県の1個大隊(コレーズ県臨時護国軍との説あり)

◇ 師団付属

*砲兵2個中隊と1個小隊(14門)

*工兵1個小隊(初期のみ所属か)

○ 騎兵隊

・ドルドーニュ県(アキテーヌ地方・県都ペリグー)義勇兵隊

・ニース(南仏コート・ダジュール)・ファランクス(重装歩兵隊列)隊

・サルト県エクレルール隊


※「§」の部隊は他のソースでは別軍団や師団所属となっています。

※砲兵は1871年1月時点で以下の部隊が所属しています。

◆ 師団砲兵(ショーメ海軍砲兵戦隊長/少佐格)

*海軍砲兵第25大隊・第1中隊(4ポンド砲6門)[ショブレ大尉]

*同・第2中隊(4ポンド砲6門)[ドルヴェ大尉]

*同・第3中隊(4ポンド砲6門)[フルニエ大尉]

*護国軍メーヌ=エ=ロアール県(県都アンジェ)砲兵の1個小隊(12ポンド砲2門)

*ミトライユーズ砲1個小隊(2門)


☆ 第2師団 コリン少将(戦時昇進・本来は准将)

○ 第1旅団 ドゥ・ラ・マルリエール中佐→ヴィレン中佐

*マルシェ第56連隊 (護国軍第63連隊との説あり)[ヴィレン中佐]

*海軍マルシェ歩兵第10大隊

*護国軍イル=エ=ヴィレーヌ県(ブルターニュ地方東部・県都レンヌ)第6大隊

*護国軍アンドル=エ=ロアール県(サントル地方南西部・県都トゥール)第4大隊

(ウール=エ=ロアール県臨時護国軍との説あり)

*臨時護国軍サルト県の1個大隊(所属せずとの説あり)

○ 第2旅団 デ・ムシュ中佐

*マルシェ第59連隊(カモ師団へ?から?編入)[バリル中佐→アーノルド・ドゥ・サント=ロレット中佐]

*海軍マルシェ歩兵第9大隊

*護国軍第49「オルヌ県(ノルマンディ地方南部・県都アランソン)」連隊 [旅団長直率]

*臨時護国軍サルト県の1個大隊(所属せずとの説あり)

※以下は初期のみ存在・ボージョンシー戦以降他の部隊に吸収されたものと思われます。

*戦列歩兵(正規軍)第41連隊補充大隊(4個中隊/旧帝政軍大隊は6個)

*戦列歩兵(正規軍)第94連隊補充大隊の2個中隊

◇ 師団付属

*砲兵2個中隊と1個小隊(14門)

*工兵第1連隊第8中隊の1個小隊

○ 騎兵隊(初期のみ存在か)

・ガール県(南仏地中海沿岸)義勇兵隊

・セーヌ県「壮年」義勇兵隊

・マメール(サルト県の街)・エクレルール隊

・アルジャンタン(ノルマンディ地方・オルヌ県の街)義勇兵隊


※砲兵は1871年1月時点で以下の部隊が所属しています。

◆ 師団砲兵(ドゥ・ヴォーギュイヨン戦隊長/少佐格)

*砲兵第7連隊・第22中隊(4ポンド砲6門)[マニエール大尉]

*同第13連隊・第23中隊(4ポンド砲6門)[ニエ大尉]

*同連隊・第25中隊(4ポンド砲6門)[ヴァシエ大尉]

*護国軍メーヌ=エ=ロアール県(県都アンジェ)砲兵の1個小隊(12ポンド砲2門)


☆ 第3師団 ドゥ・ヴィルヌーブ准将(前・仏第12軍団第1師団第2旅団長)→12/7よりギヨン准将

○ 第1旅団 ストゥファニ中佐

*護国軍第78「ヴァンデ県/ロット=エ=ガロンヌ県/ジロンド県(三県とも西仏大西洋側)」連隊の一部

*護国軍第15「カルヴァドス県(ノルマンディ地方・県都カーン)」連隊・第4大隊

*護国軍フェニステール県/モルビアン県(二県ともブルターニュ地方)混成大隊

*護国軍ロアール=アンフェリウール県の1個大隊一部(所属せずとの説あり)

※上記4部隊で3個大隊を結成(フェニステール=モルビアン混成大隊長リガロ少佐指揮)

*護国軍第15連隊・本隊 [ドゥ・ラ・バルテ中佐]

*海軍フュージリア第6大隊

○ 第2旅団 ドゥ・タンプル准将(戦時昇進・本来は海軍中佐)

*護国軍第30「マンシュ県(ノルマンディ地方・県都サン=ロー)」連隊・第1、4、5大隊 [レ・モニエ=デマレ中佐]

*護国軍第92「マンシュ県/カルヴァドス県」連隊・第2、3大隊 [ドゥ・トックヴィル中佐]

※上記5個大隊で1個連隊を編成

*海軍フュージリア第3大隊

*臨時護国軍サルト県の1個大隊(コ-ト=ダルモール県臨時護国軍との説あり)

*臨時護国軍ガール県の1個大隊(所属せずとの説あり)

◇ 師団付属

*砲兵2個中隊と1個小隊(14門)

*工兵第2連隊第4中隊

○ 騎兵隊(初期のみ存在か)

・ウール=エ=ロアール県義勇兵隊

・オート=アルプ県(アルプ地方)義勇兵隊

・ラ・フェルテ=マセ(オルト県の街)・エクレルール隊


※砲兵は1871年1月時点で以下の部隊が所属しています。

◆ 師団砲兵(ドゥ・マガロン戦隊長/少佐格)

*砲兵第10連隊・第21中隊(4ポンド砲6門)[バルベ大尉]

*同第14連隊・第24中隊(4ポンド砲6門)[マルケ大尉]

*同第12連隊・第21中隊(4ポンド砲6門/71年1月5日からミトライユーズ砲が数門加入)[ファリュ=デュリフ大尉→モレ大尉]

*護国軍メーヌ=エ=ロアール県(県都アンジェ)砲兵の1個小隊(12ポンド砲2門)


☆ 第4師団「ブルターニュ兵団」 オーギュスト・グジェアール少将(戦時昇進・本来は海軍中佐)

○ 第1旅団 ベル大佐

*臨時護国軍ロアール=アンフェリウール県第3大隊

*臨時護国軍イル=エ=ヴィレーヌ県の1個大隊

*戦列歩兵第62連隊の補充大隊

*戦列歩兵第97連隊の補充大隊

*戦列歩兵第25連隊の補充大隊一部

*戦列歩兵第86連隊の補充大隊一部

○ 第2旅団 ドゥ・ピノー大佐

*護国軍ロアール=アンフェリウール県の1個大隊

*護国軍マイエンヌ県(ブルターニュの東方・県都ラヴァル)の2個大隊

*臨時護国軍モルビアン県の1個大隊

*戦列歩兵第19連隊の補充大隊

*外人部隊1個中隊

◇ 師団付属

○ 砲兵隊(11/28日付) コク海軍少佐

*砲兵第10連隊・第22中隊(12ポンド砲6門)[カントン大尉]

*海軍の山砲1個中隊(4ポンド山砲8門)[ドゥシャ大尉]

*海軍の山砲半個中隊(4ポンド山砲4門)[ノルマン海軍大尉]

*海軍のミトライユーズ砲半個中隊(5門)[フォルテ海軍技術大尉]

※後日追加

*砲兵第18連隊・第18中隊(4ポンド騎砲・騎兵師団から転属)

*海軍砲兵中隊(8ポンド砲)


*工兵1個中隊


*フォンテーヌブローの義勇兵中隊

*トゥールの義勇兵中隊


○ 騎兵隊(初期のみ存在か)

・仏正規軍槍騎兵第2連隊の1個中隊(補充隊?)[デュピュイ中尉]

・ブルトン・エクレルール隊2個小隊[キャリー=クリズエ大尉]


☆ 軍団騎兵師団 ギヨン少将(前・驃騎兵第6連隊長/セダンより脱出)

○ 第1旅団 チュセ准将

*マルシェ驃騎兵第1連隊 [ボネ中佐]§

*混成軽騎兵第3連隊 [ボニ中佐]§

○ 第2旅団

*マルシェ竜騎兵第6連隊

*マルシェ胸甲騎兵第8連隊 [ユンブロ中佐]

*混成軽騎兵第8連隊 [パランク中佐]

○ 砲兵隊(ボージョンシー戦後解隊)

*砲兵第18連隊第17中隊(4ポンド騎砲6門) [アルゲ大尉]

*砲兵第18連隊第18中隊(4ポンド騎砲6門) [アイム大尉]

※「§」の部隊は他のソースでは別軍団や師団所属となっています。


☆ 軍団予備団 ゼデ海軍中佐

○ 予備旅団 コレ少佐

*護国軍ドゥー=セーブル県の1個大隊

*護国軍ガール県の1個大隊

*海軍歩兵第9大隊

*海軍フュージリア1個隊

○ 軍団予備隊 エフォンタン少佐(竜騎兵第6連隊)

◇歩兵

*海軍フュージリア第5大隊 [サルラ少佐]

*仏東部義勇兵集団 [カセン少佐]

*工兵第1連隊第8中隊 [ベルナール少佐]

◇騎兵

*マルシェ騎馬憲兵の2個中隊[セーグル戦隊長]

*竜騎兵第6連隊の2個中隊(第15軍団より転属) [ジェス戦隊長]

*驃騎兵第5連隊の1個中隊 [モントロン少佐]

*驃騎兵2個中隊 [ドゥ・コニャック少佐→シャティオン少佐]


※1871年1月10日からの第4師団「ブルターニュ兵団」

◇ 第1旅団 ジェンヌ大佐(1/15~)

○ 第1半旅団 ヴィエル中佐

*臨時護国軍ロアール=アンフェリウール県・第1、2、3大隊

(ナント、シャントネ、サン=ナゼールの各地域郷土大隊)

*戦列歩兵「第25、第86連隊」混成大隊(サル大尉)

○ 第2半旅団 ダゲ中佐

*戦列歩兵第62連隊の1個大隊(ジェルマン大尉)

*戦列歩兵第97連隊の1個大隊(ラルモア大尉)

◇ 第2旅団 ドゥ・ピノー大佐

○ 第3半旅団 リフォー中佐

*戦列歩兵第19連隊の1個大隊

*護国軍マイエンヌ県第5、6大隊

*臨時護国軍カンペール(フィニステール県の街)1個大隊(所属せずとの説あり)

○ 第4半旅団 ペリン中佐

*外人部隊1個中隊

*臨時護国軍モルビアン県の1個大隊

*護国軍ロアール=アンフェリウール県の1個大隊


◎トゥール地区機動兵団「カモ師団」戦闘序列 1870年12月初旬


この兵団は国防政府派遣部所在のトゥールにて、これまでの軍団編成から漏れた兵力を結集し「第19軍団」とするために編成が開始され、カモ将軍の指揮下11月30日に約16,000名の師団級兵力で一応の戦力化を見ました。その後各地から集まる護国軍兵力を結集し戦力を高めようとしている最中の12月5日、「第一次」ロアール軍が崩壊したことで急遽ボージョンシー方面へ増援として送られ、シャンジー将軍指揮下で「ムンの戦闘」「ボージョンシー=クラヴァンの戦い」「ヴァンドームの戦い」に参戦、12月16日にヴァンドームで解散しました。残存兵力は第2ロアール軍の本営、第16軍団、第21軍団に分散し吸収されています。


師団指揮官 シャルル・マリエ・ローラン・ドミニク・ジェローム・カモ准将→バリル中佐

○ 第1旅団 ミロ中佐

*マルシェ猟兵第16大隊

*マルシェ第59連隊  [バリル中佐→アーノルド・ドゥ・サント=ロレット中佐]

*護国軍カンタル県(オーヴェルニュ地方・県都オーリヤック)の1個大隊 [カンブフォー中佐]

*護国軍第88「アンドル=エ=ロアール県」連隊の1個大隊 [ドゥ・クール中佐]

○ 第2旅団 ドゥ・モルガン中佐

*徒歩憲兵連隊(全8個中隊1,150名) [旅団長直率]

*護国軍第27「イゼール県」連隊 [ガスティン中佐]

*アン県(仏東部アルプ地方。県都ブール=カン=ブレス)義勇兵隊

○ 騎兵旅団 ジョセフ・エリー・トリパー准将(前・槍騎兵第6連隊長・セダンから脱出)

*マルシェ槍騎兵第4連隊§ [ドゥ・ルオー中佐]

*マルシェ驃騎兵第3連隊 [ドゥ・ノワーティン中佐]

*マルシェ猟騎兵第2連隊 [ボイン中佐]

*マルシェ胸甲騎兵第7連隊§[ベルジュロン中佐]

*乗馬憲兵第1連隊 [ジル中佐]

○ 砲兵隊(12月10日以降?)

*砲兵第8連隊第22中隊(4ポンド砲6門・第16軍団第2師団から転属) [クレラック大尉]

*砲兵第7連隊第23中隊(4ポンド砲6門・第16軍団第3師団から転属) [ペレ大尉]

*砲兵第14連隊第23中隊(4ポンド砲6門・第16軍団第3師団から転属) [ベラリー大尉]

*砲兵第15連隊第21中隊(4ポンド砲6門・第16軍団第3師団から転属) [ヴィヴィエ・デ・ヴァロン大尉]

*砲兵第18連隊第17中隊(4ポンド騎砲6門・第21軍団騎兵師団から転属) [アルゲ大尉]

*砲兵第13連隊第22中隊(ミトライユーズ砲8門・第16軍団第3師団から転属) [シーラー大尉]


◇第2ロアール軍本営直轄部隊(12月10日以降)

*騎馬エクレルール隊 [ベルナール大尉]

*徒歩憲兵連隊 [モルガン中佐]

*乗馬憲兵第1連隊 [ジル中佐]

*アルジェリア・エクレルール隊 [グロー中佐]


……こぼれ話


Halt Dich fest, Hofer! Nur noch 5 Minuten, und wir sind geretter!

「ホーファ、少しの辛抱だ!ほんの5分で脱出出来るぞ!」


 マルシュノワールの森東縁でマロールから出撃した普軍騎兵中隊長伯爵ヴァフェン騎兵大尉により敵手から救出されるB猟兵第1大隊のホーファ伍長


挿絵(By みてみん)

12月7日マロール前面での救出劇を描く独19世紀絵葉書


 独本国で美談として持て囃されたこの救出劇は、12月7日、普騎兵第4師団の斥侯隊がマルシュノワールの森東側で仏軍の伏兵に襲われ、複数名が負傷・捕虜となった時に発生したものと伝えられます。これはヘルマン・ヴァイナハトの「美談」(開戦直前のドイツ軍(三)を参照ください)の「裏返し」で、同じくプロシアとバイエルンの「絆」・「ひとつのドイツ」を示すものとして強調され、プロパガンダの一環として絵葉書などになって語り継がれます。

 この絵で救出する側の普軍騎兵中隊長ヴァフェン騎兵大尉は胸甲騎兵の姿をしていますが、当時マロールにいた普騎兵第10旅団はライン竜騎兵と親衛第2驃騎兵両連隊からなっており、普騎兵第4師団の胸甲騎兵は第8旅団所属のヴェストプロイセン連隊でこの日は後方のビナに居たため、前線まで救出に向かっていたのは多分普仏戦争前半戦で敵地浸透に大活躍だったライン竜騎兵かと思われます。

 因みに、1915年までに「ヴァフェン」という名前は独軍将官名簿に存在せず、戦死者名簿にも見当たらず騎兵連隊の指揮官名にもありません(中佐以下で退任したか)。この騎兵大尉がどの連隊に属していたかは結局調べられませんでした。

 普仏両側でこの戦争を描いた多少プロパガンダ臭のする絵画では騎兵が描かれることが多く、実際は脇役の多かった胸甲騎兵の姿が多く見られます。これは当時騎兵が軍のエリートと目されていて、そのヒエラルキーの頂点に胸甲騎兵があったからだと思われます。

 また、救われたホーファ伍長の属するB猟兵第1大隊ですが、こちらは本来B第3旅団(B第2師団)所属で、クルミエ戦前後では普騎兵第2師団に貸し出されており、この時も原隊を離れアルブレヒト親王の指揮下(普騎兵第4師団)に入っていたものと思われます(調査中)。


挿絵(By みてみん)

仏軍散兵線へ突撃する普軍胸甲騎兵を描く独のプロパガンダ絵画



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