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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・極寒期の死闘
412/534

オルレアン戦線の戦況(12月5日から7日)



 普王国フリードリヒ・カール・ニコラウス・フォン・プロイセン親王元帥の隷下にある北独第二軍とメクレンブルク=シュヴェリーン大公軍は12月5日、退勢にある仏ロアール軍を破りオルレアンの再度占領に成功しました。

 この結果は仏国防政府トゥール派遣部が目論んだロアール軍による「パリ解放」の夢を完全に撃ち砕くもので、同時におよそ20万と言われたロアール軍の「崩壊」を招きます。カール王子は今後逃走した仏軍を追撃して完膚なきまでに叩いて再起不能にすると同時に、仏軍残党がロアール川の戦線に接近することを防ぐことが主任務となるのでした。


 セルコット(オルレアンの北9.4キロ)に進んだカール王子は5日早朝、大公軍がオルレアンを占領したとの第一報を受け、メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世歩兵大将に対し「ロアール右岸(下流に向かって右側。オルレアンでは北岸)に沿って下流に向かい、前線をボージョンシー(オルレアンの南西24.5キロ)まで拡張せよ」と命じます。同時に北独第二軍麾下のコンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将率いる普第3軍団に対しては「ロアール右岸上流に進み、サン=ドニ=ドゥ=ロテル(同東17キロ)まで前進せよ」、同じくアルベルト・エーレンライク・グスタフ・フォン・マンシュタイン歩兵大将率いる北独第9軍団に対しては「ロアールを渡河して左岸(下流に向かって左側。オルレアンでは南岸)に入り、前衛をロアレ川(オルレアン南方4キロ付近を流れるロアール支流)の線まで前進させよ」と命じます。他の諸隊に対してはオルレアン大森林内に隠れ潜んでいると思われる仏敗残兵の掃討を命じると共に、1万以上に及んだ仏軍捕虜の後送を命じたのでした。


挿絵(By みてみん)

オルレアン 12月5日早朝 独軍と仏軍捕虜


 この後、カール王子は本営と共にオルレアンへ入城し事後の作戦検討に入りましたが、ここで文字通り四散した仏ロアール軍の情勢が報告されます。斥侯や諜報からの諸報告をまとめると、仏軍はトゥール(オルレアンからは南西へ107キロ)やブールジュ(同98.5キロ)へ向かって退却しほぼ3つに分裂した様子で、王子は特にブールジュへ向かった仏軍に対しては北独第二軍を追撃に使い、トゥールへは大公軍を向かわせるよう参謀たちに至急作戦立案を命じました。

 この結果、同5日午後7時、カール王子は普第3軍団に対し「翌6日、前衛がシャトーヌフ(=シュル=ロアール。サン=ドニ=ドゥ=ロテルの東6.9キロ)まで進む」べく、同じくユリウス・ハーツゥング・フリードリヒ・フォン・ハルトマン中将率いる普騎兵第1師団に対しては「C・アルヴェンスレーヴェン将軍と協力し普第3軍団の左翼(北)側を捜索し援護せよ」と命じました。ロアールを渡河した普第9軍団に対しては「軍団所属の騎兵を活用しソローニュ地方(ロアレ川の南方に広がる森林と湖沼が目立つ地域)を偵察し、同時にロアレ河畔に進んだ北独第25『ヘッセン大公国』師団の前衛支隊を普第18師団と交代させ、ヘッセン師団は普騎兵第2師団より1個騎兵旅団の増援を得てロアール南岸に沿って前進、ヘッセン師団と隷属騎兵は対岸を進むメクレンブルク=シュヴェリーン大公の指揮に従え」と命じるのでした。しかしこの時、重要なムン(=シュル=ロアール。オルレアンの西南西17.6キロ)とボージョンシーの橋が仏軍によって落とされており、ロアールを挟んだ連携には困難が予測されたのです。

 その大公軍に対してカール王子は「右翼(北)前線をオルレアン~シャトーダン街道(現・国道D955号線)の線まで延伸し、ロアール下流に向けて追撃を続行せよ」と命じましたが、ペルシュ地方の掃討戦からロワニとププリーの戦いを経てオルレアンの占領まで戦いの連続で疲弊し切っていた軍の状況も鑑み、命令の発起を7日朝まで猶予して軍を直前の宿営地に留めることを許し、この間、騎兵2個(普第2、4)師団のみが警戒と偵察任務に就くこととするのでした。


 明けて6日正午、カール王子の本営は新たな命令を下します。普騎兵第6師団は「ソローニュ地方を抜けビエルゾン(オルレアンの南76.7キロ)まで突進し、彼の地の鉄道を完璧に破壊せよ」、北独第9軍団は「若干の歩兵部隊を抽出しラ・フェルテ=サン=トーバン(同南20.3キロ)へ派遣して普騎兵第6師団の突破を支援せよ」とそれぞれ命じられました。東へ進む普第3軍団には「モンタルジ(同東北東62.6キロ)からジアン(同南東59.5キロ)にかけてのロワン河畔に未だ敵が居残っているかを確認せよ」、普騎兵第1師団に対しては「附随して来た普第10軍団所属部隊(普第39旅団の歩兵4個大隊と砲兵1個中隊)を原隊に返し、第3軍団に追従せよ」との命令が下ります。

 これらの処置により、オルレアンのカール王子の手元にあるのは普第10軍団だけとなるのでした。


挿絵(By みてみん)

オルレアン ロアール川に遺棄された仏軍河川砲艦


 普第3軍団は最初の命令に従って5日中に仏兵を見ることなくサン=ドニ=ド=ロテルへ達します。翌6日、軍団の前衛は昨日と打って変わって多くの仏落伍兵に遭遇し、これら戦意を失って悄然とする仏兵を捕虜にしつつ前進しました。軍団はこの日目標のシャトーヌフを越え、サン=テニャン=デ=ゲ(シャトーヌフの東14.7キロ)まで前進します。

 軍団の前衛(普第5師団の前衛支隊*)に属するブランデンブルク竜騎兵1個小隊は翌7日、市街地の家屋から発せられる激しい銃火を潜ってウズーエ(=シュル=ロアール。シャトーヌフの南東22.4キロ)を通過しました。この時、仏ロアール軍の落伍兵たちはこの街に集合していましたが、普軍前衛の砲兵が街を砲撃し始めたため急ぎヌヴォワ(ウズーエの南東9.5キロ)まで後退しました。この部落には仏軍歩兵の数個大隊と若干の砲兵が集合しており、落伍兵たちはこの兵士たちに収容されたのでした。


※12月7日・普第5師団前衛支隊

〇 普擲弾兵第8「親衛(Leib)/ブランデンブルク第1」連隊

〇 普竜騎兵第12「ブランデンブルク第2」連隊・第1中隊

〇 普野戦砲兵第3「ブランデンブルク/ゲネラル・フェルドツァイクマスター(砲兵将軍)」連隊・軽砲第2中隊

〇 普第3軍団・野戦工兵第2中隊


 ヌヴォワにまとまった数の敵が存在することを知った普軍前衛は、まずは軽砲中隊と本隊から先行し到着した重砲第1中隊によりジアンへの街道(現・国道D953号線)の路傍に砲列を敷かせて部落周辺を砲撃させ、その後普擲弾兵第8連隊とこれも本隊から到着した普第48「ブランデンブルク第5」連隊F大隊の2個中隊によって両翼包囲を図り、対する仏軍と猛烈で長時間に渡る銃撃戦を繰り広げました。そのまま日没を迎えたため、普軍は夜陰に乗じてヌヴォワ部落近郊まで前進、部落北方のジアン街道付近に前哨を置き警戒しつつ野営に入りました。

 しかしこの日夜の時点までに収集された情報では、仏ロアール軍傘下の第20軍団と第18軍団の一部は普軍が現れる以前にサン=ペール(=シュル=ロアール。ウズーエの西8.2キロ)でロアールを渡河し、対岸のシュリー(=シュル=ロアール)から左(南)岸に進んでおり、オルレアンからシュリーまでの間、橋梁と言う橋梁は全て破壊され落とされている、と言うことでした。普第5師団前衛が対しているジアン前面の仏軍は18軍団の一部で、普軍から見れば後衛とも「囮」とも判断される比較的少数の部隊だったのです。


 オルレアン大森林を捜索しつつ5日にはロリス(ウズーエからは北へ14キロ)に達していた普騎兵第1師団は、多数の斥侯をロワン河畔へ送って偵察を行いますが仏軍部隊と遭遇せず、6日、モンタルジ(ロリスの北東20キロ)に進んで居残っていた義勇兵部隊を駆逐するのでした。


 一方、ロアール南岸に移動し南進した北独第9軍団の支隊からは、ヘッセン大公国(H)ライター(軽)騎兵第1「近衛シュヴォーレゼー」連隊がロアレ河畔の南側を捜索し、二百名を超す仏ロアール軍の落伍兵や脱走兵を捕縛すると5日、軍本営の命令通りラ・フェルテ=サン=トーバン近郊に至ります。すると部落北方の森で仏軍前哨と遭遇して戦闘状態となりますが双方短時間で離脱し、翌6日早朝、H騎兵たちは仏軍が夜間南方へ撤退したことを確認すると部落へ入りました。H騎兵はここでも数百名の落伍兵を捕虜にすると正午に至って追い付いた普第18師団の前衛と交代、クレリ=サン=タンドレ(オルレアンの南西14.4キロ)へ進んでいた本隊(北独第25「H」師団)を追って北へ転進しました。

 この6日は普第18師団前衛所属の普竜騎兵第6「マグデブルク」連隊が午後になって仏軍が潜むラモット=ブーヴロン(ラ・フェルテ=サン=トーバンの南南東14.6キロ)付近まで進み、やがて追い付いた普野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊の軽砲第1中隊と重砲第1中隊が夜陰に沈むまで砲撃を続けました。その後、騎兵や砲兵が不利な夜戦を嫌った普軍はコソン川(シャトーヌフ=シュル=ロアールの南19キロ付近から西へ、ラ・フェルテ=サン=トーバンを経てブロアの南でロアール支流ブーヴロン川に注ぐ中級河川)の線まで退却しています。

 コソン河畔にはこの日、南方の捜索を主任務とする普騎兵第6師団主力も到着し、同師団前哨の普驃騎兵第16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊第1中隊は7日の払暁、先行してラモット=ブーヴロンに至り、仏軍が撤退しているのを知ると更に南下してヌーアン=ル=フュズリエ(ラモット=ブーヴロンの南7.3キロ)に侵入しました。ところが、部落内の街道上で家屋や物陰に潜む仏軍から猛銃撃を浴びてしまい、中隊は戦死6名、負傷5名、17頭の馬匹を失い退却します。仏軍は普驃騎兵を追って部落を飛び出し北上し始めましたが、途中救援に駆け付けた普騎兵師団所属の野戦砲兵第3連隊・騎砲兵第2中隊と、命令によって騎兵師団を増強した普フュージリア第36「マグデブルク」連隊第2,3中隊がこれを迎撃し、仏軍は一気にサルブリ(ヌーアンの南12.4キロ)まで後退するのでした。

 7日、普騎兵第6師団本隊は街道途中の森林・湖沼地帯において慎重に捜索を行ったため、行軍が大いに遅れ、日没後にサルブリ近郊まで進出して市街地に仏軍の歩兵大隊数個と砲兵中隊1個が構えているのを確認した後、この夜はヌーアン=ル=フュズリエ周辺で宿営しました。


 同じ頃、オルレアンの西側、ロアール右岸をボージョンシー目指して進むメクレンブルク=シュヴェリーン大公軍では強力な仏ロアール軍の残部と衝突するに至ります。


 大公フリードリヒ・フランツ2世と「大本営からやって来たお目付け役」アルブレヒト・フォン・ストッシュ中将始めとする幕僚たちはカール王子の命令に従って行軍計画を練り、6日、ル・マンへの街道(現・国道D357号線)を行く普騎兵第4師団をウズーエ=ル=マルシェ(ボージョンシーの北北西17キロ)、ロアール河畔を南西へ進む普騎兵第2師団をボージョンシーまで、翌7日に普第22師団と普第17師団をそれぞれ騎兵が発した両地へ、同日バイエルン王国(B)第1軍団をヴィレルマン(ウズーエの南5.5キロ)とボーモン(ボージョンシーの北北西5.9キロ)を結ぶ線上に達するよう、それぞれに命じました。また、新たに指揮下へ加わったロアール左岸を行くH師団(第25師団)には、同7日ライイ=アン=ヴァル(ボージョンシーの東4キロ。ロアール南岸)まで、同師団所属のH騎兵旅団にはミュイード(=シュル=ロアール。同南南西14.6キロ)まで前進するよう命令が下るのでした。


 大公軍の中央を進む普騎兵第2師団はB第12「ギリシャ王アマリエ」連隊の第3大隊とB野戦砲兵第3連隊の騎砲兵第2中隊を増援として加え、6日の午前中に宿営地のアングレ(オルレアンの西北西5.9キロ)を発します。その後ロアール河畔のサン=エ(オルレアンの西南西12.2キロ)でB胸甲騎兵旅団を加え(逆に師団の普騎兵第3旅団は前述の軍命令によりH師団隷下となりロアール左岸へ進みました)、途中、仏軍の前哨を駆逐しながらムン(=シュル=ロアール。ボージョンシーの北東5.5キロ)の東郊に至ります。

 しかし、ここで強力な仏軍前哨線に衝突し、B第12連隊第3大隊が前面に出て激しい攻防を繰り広げた挙句、ようやく仏兵を後退させるのでした。この時、逃げる仏兵に接して進んだ斥侯は、「強大な仏軍部隊がボル(ボージョンシーの北東4.6キロ)からラ・ブリュエール(ボルの北西1.1キロ)の間に前線を構築している」との報告を上げ、手元の歩兵1個大隊だけではムン部落の保持すら難しいと考えた師団長伯爵ヴィルヘルム・ツー・シュトルベルク=ヴェルニゲローデ中将は、戦場が夕闇に沈む前に普軍騎兵と付属兵力をサン=エへ、B胸甲騎兵旅団をユイッソー=シュル=モーヴ(サン=エの北西5.4キロ)へ後退させたのです。


 この6日、北方を進む普騎兵第4師団は仏軍に遭遇することなくウズーエ=ル=マルシェに達し、更にその先を窺いましたが、ここで西方から仏軍歩兵の数個縦隊が接近して来たため、こちらも師団長の王弟アルブレヒト親王騎兵大将が退却を命じ、こちらはシャルソンヴィル(ウズーエの東北東4.5キロ)からバコン(同東南東8.1キロ)間に宿営するのでした。


☆ ムン=シュル=ロアールの戦闘(12月7日)・前


 仏ロアール軍は12月4日深夜のオルレアン放棄により「崩壊」しました。


 既述通りシャルル・ドニ・ソテ・ブルバキ中将は仏第18と第20軍団を統括指揮してオルレアン東郊から東へ退き、5日早朝に第18軍団をジアン方面へ、第20軍団をシュリー(=シュル=ロアール)からアルジャン(=シュル=ソルドル。ジアンの南西20キロ)に向けて退却行に入らせます。

 同じくシャルル・ガブリエル・フェリシテ・マルティン・デ・パリエール少将はオルレアン市街から第15軍団の残部を率いてロアールを渡河して南へ脱出、サルブリを目指し、日付が変わった5日黎明前、本隊はラ・フェルテ=サン=トーバンに到着しました。直後の午前3時、ロアール軍総指揮官ルイ・ジャン・バプティスト・ドーレル・ドゥ・パラディーヌ中将も幕僚と共にこのラ・フェルテ=サン=トーバンまで落ち延びたのでした。


挿絵(By みてみん)

オルレアン市街から去るロアール軍


 圧倒的に不利な状況下、闘志を失わず指揮を執り続けていたアントワーヌ・アルフレ・ユージン・シャンジー少将は、麾下の仏第16と第17軍団を率いてオルレアン西郊外で急ぎ戦線を立て直そうとしました。

 4日深夜、シャンジー将軍はオルレアンの失落を確認すると、今後の作戦方針を定め、5日の早朝トゥール派遣部のフレシネに報告しています。


「ボース地方南西部、オルレアンとブロアの間に広がる平原はオルレアン郊外からマルシュノワールの森までに点在する農場や小林によって通行が限られ、諸所に防衛適地を提供しています。特にモレ(ウズーエの西21.8キロ)からポワズリー(同南7.4キロ)までに延びるマルシュノワールの森は東西20キロに渡って広がり、この森の東端・ロルジュ(同南10キロ)からボージョンシーまでの間にも部落や農場、小林などが点在して防御拠点となって、これらはオルレアンからトゥール方向へ進もうとする敵にとって行軍上の障害となります。このボージョンシー~ロルジュ間はわずか11キロしかなく、この間とマルシュノワールの森とを固守することでロアール川(Loire/大河)からロワール川(Loir/シャトーダンやヴァンドームを流れる)までの間を容易に守ることが出来、これは即ちロアール下流域をも守ることになります。本官は『第2』ロアール軍司令官として、オルレアンから西へ進む敵と対戦し、これによってオルレアン並びにパリに程近い地域において『第1』ロアール軍が今一度再起するための機会と時間を稼ぎ、そしてロアール軍が再びパリに向けて北上するために、我が軍はジョスヌ(ボージョンシーの西北西8.5キロ)の前面で強固に防衛線を敷き、侵入する敵の左翼(南面)をボージョンシー付近で迎撃することで敵をロアール川とマルシュノワールの森の間に拘束することに決定しました。 将軍シャンジー」(トゥール派遣部への報告。筆者意訳)


 この4日深夜における「シャンジー軍」はオルレアン西方のサン=リファールの森西側、あの輝かしいクルミエの戦い直後に展開した位置とほぼ重なるような場所にいました。


※12月4日・シャンジー将軍麾下の仏軍部隊


〇ロジエール(=アン=ボース。クルミエの北東3キロ)とデスキュール(小部落。同東2.9キロ)間

 *集成騎兵部隊

〇ウズーエへの街道(現・国道D2157号線)上・デスキュールとクルミエ間

 *仏第16軍団第1師団

〇ムン=シュル=ロアールの北郊外

 *仏第16軍団第3師団

〇ル・バルドン(ムンの北西4キロ)付近

 *仏第16軍団第2師団

〇バコン

 *仏第17軍団第2師団

〇ユイッソー=シュル=モーヴ南郊

 *仏第17軍団第3師団

〇モンピドー城館、ル・クル(ユイッソーの北2キロ)付近

 *仏第17軍団第1師団

〇マルシュノワールの森一帯

 *仏第21軍団主力


 シャンジー将軍は、ここから計画通り軍勢をマルシュノワールの森東側からボージョンシー間に集合させて強固な戦線を築くため、以下の行軍命令を下します。


 *集成騎兵部隊

 ロジエール~クルミエ~ヴィロルソー(クルミエの西南西5.2キロ)~シャンドリー(ウズーエの東南東4キロ)~ビジー(同南南東3.2キロ)~ヴィレルマン~ポワズリ

 *仏第17軍団第1師団

 バコン~モンティニー(ヴィレルマンの東南東2.3キロ)~ロルジュ

 *仏第16軍団第1師団(第17軍団第1師団の行軍後方から)

 クルミエ~グラン=リュ~バコン~モンティニー~ロルジュ

 *仏第17軍団第2、第3師団

 ユイッソー=シュル=モーヴ~フォンテーヌ(シャトー・ラ・トゥアンヌ。ムンの北北西6キロ)~シャトル(同西6.1キロ)~クラヴァン(同西9.4キロ)~ウルセル(ジョスヌの北東2.2キロ)

 *仏第16軍団第2、第3師団

 ムン=シュル=ロアールとボージョンシー間に展開


 こうしてシャンジー将軍は連戦連敗で疲労も激しい麾下諸隊を叱咤激励しつつ、6日の深夜までにマルシュノワールの森からボージョンシーを経てムンに至るまでに前線を築いたのでした。


 7日早朝。前日にムンを目前に引き上げた普騎兵第2師団長、ツー・シュトルベルク将軍は麾下をサン=エ周辺に集合させます。今日こそは必ずムンを抜いてボージョンシーを落とそうと考えていた将軍は、普軍騎兵2個(第4、5)旅団をシャトー・プレフォール(ユイッソーの南南西3.4キロ)経由で、B胸甲騎兵旅団をボージョンシーへの街道沿いにそれぞれ前進させました。

 B胸甲騎兵旅団には普騎兵第4旅団から普驃騎兵第5「ポンメルン/“ブリュッヒャーの驃騎兵”」連隊・第2中隊が加わり、その縦隊先頭に立っていましたが、中隊が人気のないムン市街を通過し南郊に出た途端、榴弾砲撃を浴びたのです。同時に街道を北上し来る仏軍歩兵の縦隊も見え、B胸甲騎兵旅団は普軍驃騎兵を収容すると一端反転し、サン=エ部落西郊外に陣取ると、休養開けで前進を始めたはずのB第1師団と普第17師団を待つことにしました。


 普軍歩兵と共にサン=エの前線にやって来たフリードリヒ・フランツ2世大公は、ツー・シュトルベルク将軍に一時待機を命じると、「ここは歩兵と砲兵の出番」とばかりに正午頃、到着したばかりのB第1師団に対し「ラ・シャルリー(ムンの北3.7キロ)経由で北へ進み、仏軍前線の左翼側面に回り込め」と命じます。一方、普17師団にはボージョンシー街道上をそのまま進むように命じ、師団前衛支隊*は仏軍に妨害されることなくムン市街を占領しました。


※12月7日の普第17師団前衛支隊


○普擲弾兵第89「メクレンブルク」連隊・第1大隊(第2中隊欠)

○普フュージリア第90「メクレンブルク」連隊・第1大隊

○同・第3大隊

○普猟兵第14「メクレンブルク」大隊

○普竜騎兵第18「メクレンブルク第2」連隊・第3中隊

○普槍騎兵第11「ブランデンブルク第2」連隊・第2中隊

○普野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊/第3「メクレンブルク」大隊・軽砲第5中隊

○同・重砲第5中隊

○第9軍団野戦工兵・第1中隊


 ムンを占領した普第17師団前衛は、メクレンブルク猟兵を市街南西縁に展開させて仏軍の逆襲に備えます。同時に市街西郊外へメクレンブルク竜騎兵を送って敵情を偵察させようとしますが、この斥候隊は市街を出た途端に激しい銃撃を浴び、後退を余儀なくされました。普軍は空かさずフュージリア第90連隊第1大隊を市街から出撃させ、斥候を襲った仏軍を川側から攻撃しますが、この仏軍前哨線に展開していた部隊は短時間で銃撃を止めるとフォワナール(現・ボル駅付近。ムンの南西2.8キロ)とラ・ブリュエール(ムンからは西南西へ3.1キロ)間に敷かれた本陣地線まで退却して行きました。

 この背走する仏軍に対し、ムン西郊に砲列を敷いたメクレンブルク大公国の重・軽両砲兵中隊が榴弾砲撃を行いましたが、本陣地に砲列を敷く仏軍砲兵数個中隊が対抗射撃を開始し、途中から戦場に進んだ普第17師団残りの4個砲兵中隊も加わって一時激しい砲撃戦となります。

 この砲撃下、フュージリア第90連隊第3大隊と前衛の騎兵2個中隊が前進してムンの西に前線を作る仏軍に攻撃を仕掛け、同連隊第1大隊はラ・ブリュエールの仏軍に対して突撃を敢行しますが、この付近にはブドウ畑があってまるで鹿柴(逆茂木)の様に歩兵の前進を阻害しており、仏軍もまた必死で銃撃を繰り返したため、攻撃は仏軍陣地の前面400m足らずの所で食い止められてしまい、この時、仏軍の増援がラングロシェール(ラ・ブリュエールの北850m)からやって来たため普軍の攻撃は頓挫してしまうのです。


挿絵(By みてみん)

ムン付近で戦う仏護国軍兵


 師団前衛がムンの西側で苦戦し始めたと知った師団長(モルトケ参謀総長を歩兵大将に推薦した前・軍事内局長)、ヘルマン・ハインリッヒ・テオドール・フォン・トレスコウ中将は直ちにムンの東郊に至った本隊から普第76「ハンザ第2/ハンブルク」連隊・第1大隊(1個中隊欠)を前進させ、ムン西郊前線の右翼(北)側増援としました。この3個中隊は南へ進んだ仏軍の裏をかいてラングロシェールを攻撃し、ただ1回の突撃でこの小部落を奪取します。この大隊は直ちに部隊を二分し、一部はラ・ブリュエール周辺で戦う友軍増援に向かい、残りはラ・ブリ(農場。ラングロシェールの西北西1.8キロ。現存します)から前進を始めた新たな仏軍部隊に対抗するため西へ進みます。

 この時、フュージリア第90連隊第2大隊も同第1大隊に追従して前線に至り、両大隊は午後4時になってこのブリから前進した仏軍増援と衝突して仏軍の逆襲を阻止しましたが、普軍側もラングロシェールから西への前進は適わず戦線は膠着しました。しかしこの間砲撃によって前線の仏軍砲兵を沈黙させた普軍砲兵の内、騎砲兵第1中隊と重砲第6中隊が前進してラングロシェール郊外に砲列を敷き直しています。


 戦線の南、普軍の左翼側では、砲兵6個中隊の効果的な砲撃によって仏軍前線からの銃撃が弱まった午後3時から4時の間に戦況が動き始め、ムン部落南西端に陣取っていたメクレンブルク猟兵から2個中隊、そしてムン市街地に留まっていた擲弾兵第89連隊の第1大隊が重砲第5中隊の榴弾援護射撃を受けて南西方向に前進を開始しました。メクレンブルク歩兵はボレット(ムンの南南西1.5キロ)から寸前まで銃砲火が瞬いていたボル(同南西2.5キロ)へ突進し、仏軍が既に同地を棄てて後退していることを確認すると、そこから西へ転進しフォワナールの仏軍陣地を襲いました。

 同時にフュージリア第90連隊の第3大隊もフォワナールへ進み、同連隊第12中隊は直前に脱出した仏軍が遺棄した砲1門を鹵獲する手柄を上げ、右翼(北)側には同連隊第1大隊の一部も進んで来ました。

 このフュージリア第1大隊の残りはラ・ブリュエールで第76連隊第1大隊の一部に合流し、ラングロシェールで膠着状態にあった同連隊第2大隊は午後4時30分に前進を強行し、部落の西へ200mほど戦線を拡張することが出来るのでした。


ムン周辺図

挿絵(By みてみん)

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