オータンの攻防と普第7軍団の南下
☆ オータン攻防戦
仏ヴォージュ軍がダロワ(ディジョンの北西10.6キロ)へ動いた、との報告を受けた独第14軍団長フォン・ヴェルダー歩兵大将は、手近にある麾下部隊の全力を挙げてディジョンを守り抜く決意をすると、ウシュ沿岸にいるBa第1旅団の一部を除くディジョン近辺に展開する全ての部隊に対して11月26日の午前、「ディジィン市街と周辺の陣地に移動し展開せよ」との緊急令を発します。
この時、イス=シュル=ティーユ(ディジョンの北22.3キロ)周辺でラングル方面を警戒中のフランツ・アントン・ケラー少将率いるBa第3旅団は、ヴェルダー将軍から直接「明27日午前8時にヴァントゥー(同北8キロ)へ移動せよ」と命じられましたが、旅団はこの時既に急を聞き付けて西に向かって行軍を始めていました。しかし行軍中に「ガリバルディ将軍の義勇兵たちは再び西方へ撤退した」とのデーゲンフェルト将軍の通報を受けるのです。
同じくデーゲンフェルト将軍のいるタラン(ディジョンの西北西3.3キロ)へ救援に駆け付けたのはフォン・デア・ゴルツ少将率いる普混成旅団でした。
ゴルツ旅団は26日早朝、プルノワ(タランの北西9.3キロ)へ向かったデーゲンフェルト将軍のBa第2旅団に代わってディジョン防衛の西側第一線に入っていたもので、この行動にはBa第2旅団の予備部隊も同行していました。ゴルツ将軍はデ(タランの北1.8キロ)周辺から撤退したおよそ5,000名の仏軍を追ってダロワへ向かいますが、この時仏軍はゴルツ旅団の追撃を知ってプルノワからも西へ撤退し、その際に相当混乱してほぼ潰走状態にあったとの噂を耳にするのです。
このためゴルツ将軍はダロワからプルノワへ進み、ここでガリバルディ将軍の後衛と衝突しました。この戦闘は激しくも短時間で終了し、仏軍後衛はパスク(プルノワの西南西2.7キロ)まで後退し建て直しを図りますが、ここへプロンビエール(=レ=ディジョン。タランの西2.5キロ)にいたBa第1旅団の一部*が現れてパスクを攻撃したため、仏軍後衛は更に西へと駆逐されたのです。
普軍に襲われるヴォージュ軍兵士
※Ba第1旅団のウシュ川方面支隊
○Ba擲弾兵第1「親衛」連隊・第2大隊
○Ba擲弾兵第2「プロシア王」連隊・第1、F大隊
○Ba竜騎兵第1「親衛」連隊・第5中隊
○Ba野戦砲兵軽砲第3中隊
Ba第1旅団兵はこの仏軍を追撃しますが、パスク部落を越えると突然周辺の森から仏軍のおよそ1個大隊(800名前後)が銃撃を浴びせつつ突進して来ます。不意を突かれたBa軍は左翼(南)側が一時崩壊の危機に陥りました。しかし、態勢を整えたBa擲弾兵第2連隊F大隊の猛射撃と軽砲中隊の霞弾による至近砲撃でこの突撃は粉砕され、結果仏軍は一斉に森林内へと消え去ったのでした。
この間、ディジョン北方から西方コート=ドール山地へ進んだBa第3旅団はダロワに到着し、友軍の後を追ってラントネ(パスクの南2.7キロ)を占領して、ここを拠点に周辺へ索敵の諸隊を放ちます。この時Ba第5連隊の第1大隊は南へ進み、ウシュ河畔のフルーレ(=シュル=ウシュ。ラントネの南3.3キロ)で仏の守備隊(義勇兵400名ほど)を襲うとこれを四散させたのでした。
この26日の夕刻、ヴェルダー将軍はディジョンの本営でトロア(オーブ県都)とショーモン(ディジョンの北87.5キロ)の普軍後方兵站守備隊からそれぞれ通報を受け、それによると「シャティヨン=シュル=セーヌ周辺には未だ数千に及ぶ仏義勇兵集団が跋扈している」とのことで、ヴェルダー将軍はディジョン西方のコート=ドール山中にいるフォン・デア・ゴルツ将軍に対し「明日早朝、部下を率いて北上しシャティヨンの味方守備隊を救出せよ」と命じるのでした。
とりあえずディジョン周辺の安全を確認したヴェルダー将軍は28日、コート=ドール山中から急速に撤退している仏ヴォージュ軍の後衛が、今もなおソンベルノン(ディジョンの西25.5キロ)にいることを斥候報告で知ります。この際何かにつけ小うるさい仏義勇兵集団を徹底的に叩こうと考えたヴェルダー将軍は、Ba第3旅団長のケラー将軍に対し「翌29日にソンベルノンを占領してオータン方向へ進撃せよ」と命じます。更にプロンビエールを拠点とするBa第1旅団「ウシュ川支隊」と、27日中にミルボー(=シュル=ベーズ)からディジョンに入った普予備第4連隊の諸隊は、ケラー支隊の側方援護としてポン=ドゥ=パニー(ラントネの南西6.6キロ)でウシュ川の渓谷に入りその川沿いの街道(現・国道D905号線)を西へ進むよう命じられるのでした。
※29日の独第14軍団オータン攻撃諸隊
◇左翼(南)支隊
○Ba擲弾兵第1連隊・第1、2大隊
○Ba竜騎兵第2「マルクグラーフ・マクシミリアン」連隊・第4中隊
○Ba野戦砲兵・軽砲第3中隊
○普第25「ライン第1」連隊・第1大隊
○普予備槍騎兵第1連隊・第2中隊
○普混成砲兵・軽砲第1中隊
◇本隊(ケラー支隊)
○Ba第5連隊
○Ba第6連隊・第1、F大隊
○Ba竜騎兵第3「カール親王」連隊
○Ba野戦砲兵・軽砲第1,2中隊・重砲第2中隊
オータンを目指す独軍は道中仏ヴォージュ軍の斥侯や前哨を排除しつつ前進し、29日夕には前衛がエシャネ(ソンベルノンの南西3.7キロ)、左翼支隊がサント=マリー(=シュル=ウシュ。同東南東7.2キロ)へ、そして本隊のケラー支隊が予定通りソンベルノンに入りました。翌30日も前進を続けたケラー将軍らは前衛がアルネ=ル=デュック(オータンの北東24.5キロ)、後衛がヴヴェ(=シュル=ウシュ。ボーヌの北北西20.2キロ)まで進みます。ケラー将軍は12月1日を期してオータンに進撃を試みますが、同時にボーヌ方面の仏軍がブリニー(=シュル=ウシュ。ボーヌの北西14.5キロ)やイヴリー=アン=モンターニュ(同西15.3キロ)へ進んだことが判明し、これがオータンへの増援となることがはっきりしたためにケラー将軍はウシュ河畔を前進する左翼支隊に対し、「南東方面から進み来る仏軍に対しアルネ=ル=デュックで迎撃せよ」と命じ、同地付近に警戒待機させるのでした。
この後方援護を受けてケラー将軍のBa第3旅団前衛は1日の午後2時30分、殆ど抵抗されることなくオータンの北東前面までに至ります。ところが、ここで市街方面から猛烈な銃撃を受け、前衛のBa砲兵2個中隊は市街北郊外の街道(現・国道D681号線)の傍らに留まり、歩兵と砲兵1個中隊は街道の東側に移って再展開しました。この布陣はオータンの仏軍がBa第3旅団の左翼(西)に対し重点的に攻撃を始め、こちら側からの片面包囲を試みようと図ったためでした。
ガリバルディ将軍が本営を構えるオータンを死守するためヴォージュ軍は必死に抵抗し、幾度も突撃を敢行しますがケラー将軍率いるBa軍はその都度冷静に反応してこれを撃退し続けました。戦いは両者拮抗したまま日没時を迎え、ゲリラ戦に長けるガリバルディ麾下の義勇兵相手に夜戦を嫌ったBa軍側もオータン市街への侵入を諦めざるを得なくなります。
ケラー将軍は翌朝に攻撃を再開するべく一旦兵を退きオータン郊外で攻撃準備を始めましたが、深夜に至ってディジョンのヴェルダー将軍より「ディジョンまで後退せよ」との命令が届きました。ケラー将軍は敵本陣を目前に撤退することを残念がりますが命令とあれば仕方がなく、ヴォージュ軍の夜襲を警戒しながら夜間ドレ川(オータンの東14キロ付近からオータンの北へ流れる河川)を越えた所まで後退します。夜が明け短時間の休息後、ケラー支隊は行軍を続け、この日(2日)はアルネ=ル=デュックまで退きました。
このアルネ=ル=デュックで本隊の後方を警戒していた左翼支隊も本隊とほぼ同時に後退命令を受け、こちらは2日ソンベルノンまで退くと3日に無事ディジョンへ戻るのでした。
ケラー支隊本隊は3日早朝にアルネ=ル=デュックを発すると午前中にヴァンデネス(=アン=オオワ。アルネ=ル=デュックの北東13.9キロ)に達しました。ところがここで東側に聳えるシャトーヌフ部落の高地(ヴァンデネスの東1.8キロ)から不意打ちの猛射撃を受けたのです。
この高地に潜んでいたのはヴォージュ軍と連動してディジョンを窺っていたカミーユ・クレメー将軍麾下の一隊で、これは前日、ガリバルディ将軍が後退局面に入ったBa軍を追撃するため、麾下をボーヌからディジョンの南方に掛けて展開していたクレメー将軍に対し「敵の脚を止めるための出撃」を要請したことにより、クレメー将軍はボーヌで待機していた予備部隊に対しBa軍が通過するに違いないアルネ=ル=デュック~ソンベルノン街道(現・国道D977Bis号線)に向かって夜間出撃させたものでした。
このシャトーヌフ部落はケラー将軍のいるヴァンデネス部落から標高およそ100m上の高地にあり、Ba軍は完全に俯瞰され狙い撃ちされたのです。このままでは部落の家屋の陰から動くことも出来ず、やがては後方オータン方面からガリバルディ軍がやって来るのは間違いのない状況で、ケラー将軍は犠牲を厭わず反撃に出ることを即決すると、Ba第5連隊の第1、2大隊に対しシャトーヌフ攻撃を命じ、両大隊はBa砲兵3個中隊18門の援護射撃の下、高地の急斜面を登り始めました。
山上の仏軍も榴弾砲撃を浴びつつも必死で銃撃を繰り返しましたが、統制が取れ怯むことなく斜面を登るBa軍の動きは素早く、護国軍の予備部隊を中心としていたクレメー将軍の部下たちは、シャトーヌフ部落に達したBa将兵にたちまち圧倒されて駆逐されてしまいます。ほぼ同時に南方のサント=サビーヌ(ヴァンデネスの南3.2キロ)からも仏軍の追撃隊がヴァンデネスに迫りましたが、こちらはBa第6連隊のF大隊が出撃して撃退に成功しました。
バーデン歩兵第6連隊の将兵
こうして仏クレメー師団の攻撃を防いだケラー支隊は、弱体な馬車縦列に護衛を付けコマラン川沿いの狭い街道を先行させ、車列が安全な距離まで離れると銃撃を収めて警戒しつつ北上を再開します。シャトーヌフ部落から追い出されたクレメー師団も尾根沿いに距離を取って北上しBa軍を追いますが、これをシャトーヌフを占領したBa第6連隊第1大隊と苦労して尾根上に達したBa重砲第2中隊が後方から攻撃して四散させました。
その後ケラー将軍は仏軍に悩ませられることなく急速に後退し、午後遅くに支隊はウシュ河畔に達すると夜闇迫る中ヴェラール(=シュル=ウシュ。ディジョンの西10.3キロ)で宿営に入ります。戦闘と地形、行軍路の状態を考慮しなくともこの日の40キロに及ぶ行軍はケラー将軍麾下の将兵の精強さを物語るものでした。
翌4日、ケラー将軍らは疲弊していたものの胸を張ってディジョンへ帰還したのです。
ケラー支隊の「オータン遠征」における損害は、1日の「オータン攻防戦」で戦死3名・負傷19名、3日の「シャトーヌフの戦闘」で戦死18名・負傷76名・行方不明72名(軍医4名含む)でした。なお、行方不明の殆どはヴァンデネス部落に残した負傷兵と軍医・看護兵で、多くはヴォージュ軍の捕虜となりましたが一部は仏軍の追及を逃れ、コート=ドール山地を彷徨った後に数日後ディジョンへ帰還しています。
☆ ディジョン周辺の情勢(11月29日から)
11月29日。ディジョンの南方を偵察していたBa軍斥侯はジュヴレ(=シャンベルタン。ディジョンの南南西12キロ)が仏軍によって固守されているのを確認しました。翌30日にはBa第1旅団の前衛支隊(部隊混成の歩兵10個中隊、竜騎兵4個小隊、砲兵1個中隊)はこのジュヴレに向かって前進を図り、この行軍を見たジュヴレの仏軍・クレメー師団の前哨部隊は無理をせずに部落を棄てると、ニュイ(=サン=ジョルジュ。ディジョンの南南西21.6キロ)へ後退しました。Ba第1旅団の支隊はそのまま前進を続け、このニュイを攻撃しますが、仏軍はここでも短時間で戦闘を切り上げ、更に南方へ後退します。
その親部隊となるクレメー師団の第2旅団(セレー大佐率いるローヌ県の護国軍を中心とする5~6,000名)は、前哨の後退を受けてニュイ周辺へ急行、部落西側に急斜面を成す高地やボーヌ~ディジョン街道(現・国道D974号線)を南方から進軍し、ニュイ郊外へ至りました。これを街道沿いに構えていたBa擲弾兵第2連隊第9中隊が迎え撃ち数回に及ぶ一斉射撃を行って街道を進む仏軍の脚を止めますが、ニュイ部落北西郊外に砲を敷いていたBa砲兵による西側高地を狙った砲撃では高地の仏軍を後退させるまでに至りませんでした。
Ba第1旅団の代理指揮官でバーデン大公国の公子ヴィルヘルム中将は、この状況から敵中孤立を危ぶんでニュイ放棄を決意し、ディジョン~ボーヌ鉄道堤脇に砲を敷き直した砲兵の援護射撃下、東側のボンクール(=ル=ボワ。ニュイの東3.4キロ)まで後退し、ここで警戒しつつ夜を過ごすと翌30日、ジュヴレまで引き上げるのでした。
泥濘の激闘
11月26日にガリバルディ将軍によってディジョン西郊を脅かされたヴェルダー将軍は、前述通り追撃のケラー支隊をオータン郊外まで進撃させますが、同時にコート=ドール山地を中心に多数の斥候を放ちました。将軍の本営は斥侯の報告や諜報報告を含めた各種情報を分析・検討し結果、ディジョンを望む山地東側に潜んだ義勇兵部隊を中核とする仏軍は、およそ1万2千に及ぶことを推定します。この時ディジョン市街を防衛する部隊はBa第2旅団を中心とする5千名程で、ディジョン死守を期するヴェルダー将軍は街防衛のため急ぎ周辺部に展開する諸隊を市街地周辺の防衛線へ戻すことを決定、後方兵站線上のグレーに展開する普予備第4師団の一部(歩兵3個大隊半、騎兵2個中隊、砲兵2個中隊)をもディジョンへ呼び寄せました。
これでも足りないと思ったものかヴェルダー将軍は、12月1日、せっかくオータンに迫ったケラー将軍に対しても部下と共にディジョンへの帰還を命じます。同じく27日にシャティヨン=シュル=セーヌへ向かったフォン・デア・ゴルツ旅団にも「引き返し」を命じ、普軍旅団は12月6日までにディジョンへ戻ったのでした。
このゴルツ旅団は12月1日にクルミエ=ル=セック(シャティヨン=シュル=セーヌの南南西13.7キロ)へ至りシャティヨン=シュル=セーヌ周辺へ斥侯を送ります。その結果フォン・デア・ゴルツ将軍は既に仏義勇兵部隊がこの地方を去り、シャティヨンの守備隊と街の北郊を走るショーモン~トネール鉄道の「安全」が確保されていることを知り、同時にコート=ドール山地のモンバール(シャティヨン=シュル=セーヌの南西31.7キロ)にまとまった数の仏義勇兵がいることを知るのでした。将軍はモンバールの敵を排除するため南西へ機動しますが、義勇兵たちはこの地をも後にしていたのです。
ここでヴェルダー将軍の帰還命令を受領したフォン・デア・ゴルツ将軍は、仏義勇兵を捜索しつつディジョンへ急ぎ、ビトー(ディジョンの西北西38.6キロ)からソンベルノンを経て前述通り6日にディジョンへ帰還しますが、その間仏軍を見たのはソンベルノン近郊で急ぎ南下する義勇兵の後ろ姿だけだったのです。
ヴォージュ軍の外国義勇兵たち
ヴェルダー将軍の北独第14軍団はフォン・デア・ゴルツ旅団の帰還を得た12月6日、一部を除いた殆どの戦闘部隊がディジョンに集中しました。しかしそれも束の間、ヴェルダー将軍は普予備第4師団の内12月上旬にわざわざグレーから招集した部隊を再び同地へと派遣したのです。これは当時グレーを拠点として活動していた兵站守備隊が微弱な状態だったがために、ドゥー県都ブザンソンを拠点とする仏軍(東部軍の一部)から脅威されていたからでした。
このブザンソンの仏軍は兵站後方線にとって危険な存在で、12月2日にフレンヌ=サン=マメス(ブズールの西南西23.5キロ)とブズールの中間付近でブザンソンから出撃した遊撃隊に捕虜の護送隊が襲われ、仏軍の捕虜およそ100名が奪還されてしまい、同12日にはヴレクソン(=クトレ=エ=ヴォデ。フレンヌ=サン=マメスの北西4.7キロ)でブズールの病院に入院していた傷病兵が退院し、隊列を組んで原隊復帰のためディジョン方面へ向かっていたところ、同じ仏軍遊撃隊に襲撃されてしまうという事件も発生します。
このグレーに向かった普予備第4師団の一隊は途中二手に分かれ、一部はポンタイエ(=シュル=ソーヌ。グレーの南西20.6キロ)付近でBa工兵が架けた軍橋によってソーヌ川を渡ると、ドール地方の北方で乏しくなっていた糧食の徴発を行いましたが、全くの失敗に終わります。これはこの地方が既に独軍と仏軍双方によって徹底的に徴発が行われ、辛うじて住民が冬を凌ぐに足るか足らないかギリギリの貯蔵品を隠し持っているだけの状態にあったことが原因でした。
当時(12月上旬)、ディジョンへ至る後方連絡線では、仏軍のゲリラ的活動だけでなく連日の大雪と極寒によって兵站輸送が大いに滞り、特にヴォージュ山脈を越える糧食縦列は大変な労苦と時間を強いられていたので、この糧食徴発の「不発」はヴェルダー将軍の兵站担当幕僚たちにとって敵以上に深刻な問題となっていたのです。
冬 普軍の行軍
更にヴェルダー将軍の眉間の皺を深くしたのは普ベルサイユ大本営からもたらされた12月8日に届いた命令で、これは「ラングル要塞の監視を強化せよ」との内容でした。
ベルサイユ大本営は仏の義勇兵たちによるシャティヨン=シュル=セーヌ襲撃の衝撃が消えず、ナンシー南方の後方連絡線の安全に障害となる仏義勇兵の「巣窟」と考えられたラングルを陥落させないまでも封じたいと考えたのです。このためヴェルダー将軍は貴重な戦力から再び普予備第4師団を選んで強力な支隊を編成し、ブズールからラングルへの街道(現・国道N19号線)沿いにあるコンボーフォンティーヌ(ブズールの北西22キロ)と、グレーからラングルへの街道(現・国道D67号線)上のシャンリット(グレーの北19.8キロ)それぞれに派遣し、同時に別の監視隊をティル・シャテル(ディジョンの北北東23.4キロ)を拠点にラングル郊外まで活動させるのでした。
☆ 普第7軍団の行動(11月27日から)
ハインリッヒ・アドルフ・フォン・ツァストロウ歩兵大将率いる普第7軍団の本隊は、メッス陥落以来この大要塞都市周辺に駐留していましたが、11月27日に普ベルサイユ大本営から重要な命令が届いたことで新たな活動を開始します。
モルトケ参謀総長名義の命令は「ディジョン付近に展開するヴェルダー将軍の第14軍団とロアール川方面のカール王子率いる第二軍との間を埋めよ」との内容で、これにより普第13師団と第7軍団砲兵(普第14師団と共にある重砲第3,4中隊を除く)と、予備第3師団所属でメッスの陥落以来ツァストロウ将軍の隷下にある普予備槍騎兵第5連隊はメッスを後にするのです。
軍団はメッス守備を交代する後備諸大隊が到着すると、ポンタ=ムッソンから列車を仕立ててフルアール、バール=ル=デュク経由で重要な分岐点ブレームに進みます。ここでショーモン鉄道に乗り換えるとサン=ディジエ、ジョインヴィレ(ショーモンの北36.8キロ)と経由して当時の復旧末端ドンジュー(同北28.1キロ)に至り、ここから徒歩行軍で行軍梯団毎12月の第一週までにショーモンとシャティヨン=シュル=セーヌへ到着しました。ツァストロウ将軍はラングル監視の前哨をアルク=アン=バロワ(同南南西20.6キロ)に進めます。12月10日には更に「シャティヨン=シュル=セーヌからニュイ(アルマンソン沿岸)、トネールを経てジョワニー(トロアの南西61.2キロ)に至る重要な鉄道を厳重に警備せよ」との訓令も届き、ツァストロウ将軍は軍団本隊をシャティヨン=シュル=セーヌに、前衛をニュイ近くのラヴィエール(シャティヨン=シュル=セーヌの西南西29.4キロ)に置き直しました。
しかし、独軍の増強に攻撃を手控えたのか普第7軍団も、北独第14軍団も12月中旬になるまで仏軍と正面から衝突することはありませんでした。この間、仏ヴォージュ軍とクレメー将軍師団はディジョンの南方で独軍の前線に対し斥侯を放つのみで、活動は以前に比して静かになっていました。
ヴォージュ軍の義勇兵斥侯
一息ついたヴェルダー将軍はこの期間を利用して部隊を再編成し、この数週間の攻防で破損した武器装備や被服を修繕し、間に合うものは補充して損害を少しでも補おうとします。
病気が全快したBa師団長、ハインリッヒ・カール・ルートヴィヒ・アドルフ・フォン・グリュマー中将は12月10日にディジョンに現れ師団の指揮を執り始め、12月13日には疾病に倒れたBa騎兵旅団長、男爵フォン・ラ・ロッシ=スタルケンフェルス=ヴェルツェ少将に代わり普軍の男爵カール・ゲオルク・グスタフ・フォン・ヴィルリゼン大佐(前・普竜騎兵第3連隊長)が旅団長に就任し、それまで旅団に所属していたBa竜騎兵第3「カール親王」連隊は旅団を離れて各Ba歩兵旅団に配されました(Ba騎兵旅団はBa竜騎兵第1と同第2連隊のみとなります)。Ba野戦砲兵連隊からは軽砲1個中隊が各Ba歩兵旅団に配され、残り6個の砲兵各中隊(軽砲1、重砲4、騎砲兵1)は1個の砲兵大隊にまとめられました。
それまで通風に悩まされながら師団の指揮を執っていたグスタフ・フリードリヒ・フォン・バイヤー中将は、元気になったフォン・グリュマー将軍に後を託して戦前の地位、バーデン大公国陸軍大臣の地位に退き、戦場を去って行ったのです。
バイヤー将軍




