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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・極寒期の死闘
410/534

ガリバルディの「ヴォージュ軍」攻勢


挿絵(By みてみん)

ガリバルディ一家(60年代)




 仏ヴォージュ県からオート=ソーヌ県を経て、コート=ドール県都ディジョンに達した伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルト・アウグスト・フォン・ヴェルダー歩兵大将率いる独第14軍団主力は、既述通り11月の中旬、ディジョン周辺で待機状態に入ります。これは東方アルザス(独・エルザス)県からやって来るフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュメリング少将率いる普予備第4師団を待つためで、ヴェルダー将軍は普ベルサイユ大本営からの命令により兵力が整った後、南方のボーヌやシャロン=シュル=ソーヌ、更には南仏の主邑リヨンへ前進を計る予定でした。

 この短い待機中にヴェルダー将軍の下には周辺に潜む仏軍の情報が集まり、それによれば、「ボーヌ周辺に展開していたクルーザ将軍率いる軍団は11月16日以降鉄道輸送によってシャニー(ボーヌの南南西14.2キロ)からロアール河畔のヌベールに向かった」とのことで、実際、ヴェルダー将軍麾下の諸斥候からの報告でも「ソーヌ右岸(ここでは主に西側)からは仏軍が宿営地としていた各都市・部落より撤収している」とあり、この間敵との接触が見られたのは、これまでも何度か主戦場となったソーヌ渡河点のサン=ジャン=ドゥ=ローヌ(ディジョンの南南東30キロ)近郊のみ、それも相手は義勇兵中隊(その多くは「中隊」とは名ばかりで100名前後)で、強行偵察に及んでいた偵察隊が率いていた砲兵小隊による数発の榴弾発射によって逃走させたのでした。


 しかし、ディジョンの西側から南西方向に広がるコート=ドール山地や南方ボーヌ方面では変わらず仏軍の行動が活発で、11月20日にはバーデン大公国軍(以下Ba)第1連隊第7中隊がディジョンの南方ニュイ(=サン=ジョルジュ。ディジョンの南南西22.2キロ)近郊において強力な仏軍部隊と遭遇、苦戦に陥り掛けた中隊をヴージョ(ニュイの北4.4キロ)やジリ=レ=シトー(ヴージョの東南東1.3キロ)から駆け付けた諸隊(Ba第1連隊第1,2,6,8中隊とBa軽砲第3中隊の1個小隊)が救援し、仏軍を西側ショー(ニュイの西南西3.5キロ)へ追い払うという事件も発生しています。

 この2日後の22日には仏義勇兵500名が山砲数門を携帯してヴージョを襲い、これをBa第1連隊の第2大隊が迎え撃ち、同地に駐屯していたBa軽砲第3中隊とジュヴレ=シャンベルタン(ヴージョの北5.5キロ)から同連隊F大隊の2個(第11,12)中隊が応援に駆け付け、義勇兵らは諦めて撤退して行きました。この救援部隊中の第12中隊は同日午前中、シャンヴォーフ(ジュヴレの西4.8キロ)で仏義勇兵の集団を襲い駆逐して同部落を確保し、増援を迎えた後に反撃を試み突撃を繰り返す義勇兵部隊をその都度撃退していたのです。

 ディジョンの北西から南東へ流れるソーヌ支流のウシュ川上流・コート=ドール山地では、20日にヴァル=シュゾン(ディジョンの北西14.3キロ)付近、翌21日にはマーレン(同西18.7キロ)とウシュ河畔のポン・ド・パニー(マーレンの南南東3.3キロ)付近にそれぞれ仏義勇兵が出現しますが、急を聞いて駆け付けたBa第2旅団の警戒隊が近付くやたちまち逃走して行ったのです。


 これらは皆、イタリアの老雄ガリバルディ将軍が率いる義勇兵たちで、共和主義を信奉する仏人、又は個人的に普・独を憎んでいた様々な国からやって来た「ボランティア」たちでした。


挿絵(By みてみん)

 ガリバルディ(1870年代)


 既述通りガリバルディは「帝国だったフランスは敵だったが今の共和国は味方」として11月7日、イタリアから2~3千名前後の義勇兵を連れてニースから南仏マルセイユへ入り、一部共和主義者からは歓迎されたものの反カトリック(教皇権威主義に対する反抗)でフランスの敵だったことが多いガリバルディは信心深い多くの仏人から反感を持って迎えられますが、その後ガリバルディの名声に引き寄せられてやって来たポーランド、イタリア、アイルランド、イングランド、スペイン、アメリカ等々諸外国からの義勇兵や、護国軍に加わらず義勇兵となる道を選んだ共和主義者の仏人が加わり5、6千名程度に膨れた軍団を率いディジョン近郊に至ります(「オニヨン河畔の戦いと英雄ガリバルディの登場」)。

 長年不衛生で過酷な環境で戦い続けたこの生ける伝説の闘士は当時既にリウマチに侵され足が不自由で、馬車がなければ行軍も不可能な状態でした。しかし「仏のために戦い斃れても良い」と語ったカトリックの敵「赤い将軍」は、敵視する仏の右派からの密かな妨害や非協力とも戦って戦場に立ち続けていたのです。

 それを支えるのはイタリア統一戦争の時代(1840年代から70年)「赤シャツ党/千人隊」の頃から彼を支え続けて来た仲間たちや結束の強い家族たちでした。特に長男メノッティに次男のリッチョッティ、娘婿のステファーノ・カンツィオらは、老いと病で自ら戦えない父に代わって戦闘部隊を率い、各地で独軍を襲っていたのです。


 このガリバルディ率いる義勇兵主体の軍団は11月中旬仏国防政府トゥール派遣部から正式に「ヴォージュ軍(アルメ・ドゥ・ヴォージュ)」と呼ばれるようになります。それまで「ヴォージュ軍」と呼ばれていたブザンソン周辺に集合していた軍は「東部軍(アルメ・ドゥ・レスト)」と名付けられ、やがて「北部軍」司令官から第18軍団長に転任したブルバキ将軍が率いることになりました。

 ガリバルディ率いる「ヴォージュ軍」は11月中旬時点で4個「旅団」に編成され、前述通り6千名前後の兵員を要するまでになっています。これは1863年にロシアに対する反乱で国を追われ仏に亡命していたポーランド軍のジョゼフ・ボサック=オーク(ポーランド名/ジョゼ・ボサカ・ハウケ)少将率いる第1旅団、仏軍のデルペシュ大佐率いる第2旅団、ガリバルディの長男ドメニコ・メノッティ・ガリバルディ率いる第3旅団、そしてガリバルディ家の次男、血気盛んなリッチョッティ率いる第4旅団、その他騎兵、砲兵若干からなりました。参謀長は仏海軍出身の外科医で技術士官、ガリバルディ旧知の仲のフィリップ・トゥーサン・ジョセフ・ボルドーネ准将が担い、彼は仏人との交渉や新兵受け入れ、そして兵站維持に奔走し「ヴォージュ軍」を裏から支えたのです。


挿絵(By みてみん)

ヴォージュ軍首脳陣 (左からボルドーネ、メノッティ、ガリバルディ、リッチョッティ、カンツィオ)


 ガリバルディの本営は当初ドールに置かれますが、11月12日にトゥール派遣部の指示により麾下全部隊と共に西へ行軍するとディジョンの南西70キロ、ソーヌ=エ=ロワール県のオータンに本営を置きました。


 この直後に発生し現在でも語り継がれるエピソードは「シャティヨン=シュル=セーヌ(ディジョンの北西68キロ)の襲撃」で、ガリバルディの次男・当時23歳と若い「大佐」リッチョッティ率いる遠征隊800名*余りの義勇兵による普軍後方連絡線・セーヌ上流沿岸への遠征です。


 リッチョティは11月14日にオータンを発って北へ向かい、コート=ドール山地へ入ります。この山地を縦断する街道(現・国道D980号線)へ出ると、ソリュ(オータンの北37キロ)~スミュール(=アン=ノーソワ。ソリュの北北東24.7キロ)~モンバール(スミュールの北14.8キロ)~クルミエ=ル=セック(モンバールの北東18.2キロ)と進むと19日にオルレアン方面へ進んだ独カール王子軍の後方連絡線上の重要な兵站中継地・セーヌ河畔のシャティヨン=シュル=セーヌに接近しました。

 このシャティヨンでは僅か数日前に西方ヨンヌ沿岸へ向かった普第10軍団の主力が通過しており、この時には市街と周辺部にナンシーに本営を置く独ロートリンゲン総督府の兵站部隊と独第二軍の兵站総監部所属部隊併せて1,000名近い人員が駐屯していました。

 19日深夜、リチョッティ隊は雨中と夜陰に乗じて市内へ侵入し普軍兵站部隊の宿営を奇襲、普軍兵站守備将兵13名を殺害すると士官7名・下士官兵や軍属160名を捕虜にし、更に馬匹82頭、満載された4輌の武器・弾薬馬車、そして軍用郵便物で一杯となった1輌の郵便馬車を奪うという戦果を挙げ、反撃される前に市街を去りました。リッチョッティ隊の損害は戦死6名・負傷12名と言われます。


挿絵(By みてみん)

シャティヨン=シュル=セーヌを襲撃するリッチョッティ・ガリバルディ


※11月19日の仏「ヴォージュ軍」第4旅団のシャティヨン遠征隊


指揮官/リッチョッティ・ガリバルディ「大佐」

*サヴォワ・ヴォロンテーヌ(義勇兵)中隊

*ヴォージュ県義勇兵中隊

*ドゥー県(スイスの北西国境に接した県)・エクレルール義勇兵中隊

*イゼール県(南仏・アルプ地域)護国軍第2レギオン(集団)

*ドール(ディジョンの南東42キロ)義勇兵中隊

*ル=アーブル猟兵中隊

※実際の戦闘に参加したのはこの遠征隊の半数およそ400名と言われています。


 この「事件」は戦争全体から見れば「コップの中の嵐」に過ぎませんが、当事者からすれば仏伊の義勇兵たちの意気は大いに上がり、独軍は後方連絡線に更なる警戒を要することとなって貴重な兵力を割かれることに繋がる「一大事件」でした。

 この時リッチョッティらは電信線を各所で切断し東西の通信連絡網を破壊したため、ベルサイユの普大本営は21日になってようやく事件を知り、また大本営が発した警戒情報がディジョンのヴェルダー将軍に達した時には既に23日の日中となっていたのです。


挿絵(By みてみん)

シャティヨンから凱旋するリッチョッティ隊


 この情報と先般のディジョン南方から西方に掛けての仏義勇軍による活発な活動により、ヴェルダー将軍は「軍団右翼(西側)に示された仏軍の脅威に備える」として23日、東側ソーヌ河畔へ派遣していた諸隊を引き上げさせてディジョン近郊へ集合させるよう命令を下します。また11月17日にメッスからやって来て「普混成旅団」(旧・予備第1師団の正規兵旅団)長として着任したばかりの男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将(前・普第26旅団長)に対し「麾下を率いてディジョン南部から北上を企む敵を阻止せよ」と命じました。

 Ba師団の内、後方連絡線守備に回っていた部隊はこの間、アルザスからヴォージュを越えて順次前進して来た普予備第4師団主力*と任務を交代して所属原隊に復帰しています。


※11月中旬から下旬の普予備第4師団


*11月18日からヴズール(ディジョンの東北東90キロ)とその周辺に駐屯

○ オストプロイセン後備混成第1連隊

・ティルジット後備大隊

・ヴェーラウ後備大隊

○ オストプロイセン後備混成第3連隊

・ダンツィヒ後備大隊

・マリーエンブルク後備大隊

○ 予備槍騎兵第3連隊・2個中隊

○ 混成砲兵大隊・軽砲第2中隊


*11月23日からグレー(同東北東43.2キロ)とその周辺に駐屯

○ 普第25「ライン第1」連隊(3個大隊)

○ オストプロイセン後備混成第2連隊

・オステローデ後備大隊

・オルテスブルク後備大隊

・グラウデンツ後備大隊

・トールン後備大隊

○ オストプロイセン後備混成第1連隊

・インスターブルク後備大隊

○ 普予備槍騎兵第1連隊

○ 混成砲兵大隊

・重砲第1,2中隊

・軽砲第1中隊


*ベルフォール包囲陣に参加

○ オストプロイセン後備混成第1連隊

・グンビンネン後備大隊

○ オストプロイセン後備混成第3連隊

・レッツェン後備大隊

・ゴールダプ後備大隊(遅れてオステローデ後備大隊と交代)

○ 普予備槍騎兵第3連隊・2個中隊

○ 混成砲兵大隊・軽砲第3,4中隊


 シャティヨン=シュル=セーヌの「事件」を知ったヴェルダー将軍は、「伝説の英雄」ガリバルディが連れて来たゲリラ戦が何たるかを知る外国籍の義勇兵集団を中核とした一大勢力が、ディジョンに対し南ばかりでなく北西側のコート=ドール山地からも攻撃(=ディジョン包囲)を目論んでいるのではないか、と勘繰ります。

 そこで到着したばかりのシュメリング将軍に対し「明日24日、ミルボー(=シュル=ベーズ。ディジョンの東北東22キロ)に進んで周辺を確保し部落を堅守、麾下諸隊を複数の支隊に分けて西方へ派遣」するよう命じました。

 更に到着した報告によれば、ラングルへの街道(現・国道D974号線)を北上した独軍の一斥候はティル・シャテル(ディジョンの北北東23.4キロ)付近で銃撃を受け、北方に脅威を感じていたヴェルダー将軍は23日夜Ba第3旅団に命じ、即刻ベール=ル=シャテル(同北東15.4キロ)へ出発させるのでした。


 24日、Ba第3旅団とグレーからフォンテーヌ=フランセーズ(グレーの北西19キロ)へ進んだ普予備第4師団の一支隊とはラングル街道沿いの敵を警戒して斥候を多数放ちますが、少数の義勇兵に遭遇するだけでした。しかし、ディジョン南近郊のジュヴレ(=シャンベルタン。ディジョンの南南西12.6キロ)やクレマンセ(同南西15.1キロ)、ラングル街道西のメッシニー(=エ=ヴァントゥー。同北9キロ)のBa軍各拠点では纏まった数の仏護国軍部隊や義勇兵の集団が現れ、直ぐに去って行った、との報告が相次ぎます。

 25日にはウシュ川の渓谷を捜索していた斥候がプロンビエール(=レ=ディジョン。同西北西5.7キロ)を西へ越えた付近で義勇兵集団に遭遇して引き返し、Ba第2旅団の前哨線からBa第4連隊第5,6中隊、Ba軽砲第4中隊の1個小隊(砲2門)が出動し、この斥候隊を助けて義勇兵集団をヴェラール(=シュル=ウシュ。プロンビエールの西南西5.5キロ)まで追い払いました。しかしこのヴェラールには多くの義勇兵集団が集合しているのが確認され、Ba諸隊は深追いを止めたのです。この義勇兵集団は午後になるとコンセル=レ=モン(ヴェラールの南東3.8キロ)に置いたBa軍の前線拠点を目指して行軍を始め、この拠点にいたBa第4連隊の第9,11中隊は迎撃に出て義勇兵たちの出鼻を挫き、追撃を受けた義勇兵らはヴェラールを経て更に西へと撤退して行ったのです。


 25日にディジョンの西側に出現した仏義勇兵たちもガリバルディ将軍麾下の部隊でした。

 オルレアン近郊の防衛に忙しいガンベタやフレシネは、ディジョン近郊で戦うガリバルディに対して、ほとんど「白紙委任」の状態を与えています。これは間に独軍があって「連絡を取るのに時間が掛かる」という地理的障害もあってのことでしたが、「反カトリック」で教会への礼節も欠ける(複数の義勇兵部隊は教会に踏み込んで宿営し、家具などを焚き火にしてしまったと言います)急進左派や外国人の義勇兵たちを持て余していたのではないか、とも想像されます。それでも「敵の敵は味方」の論理で、全国各地で誕生しガンベタの下に集まって来た義勇兵中隊や臨時召集の護国軍新兵部隊が現れれば、国防政府派遣部は増援として「ヴォージュ軍」へ送り出すのでした。しかしこれも「本格的な戦力とはなり得ない」「熱しやすく冷めやすい(=あてに出来ない)」雑多な集団を厄介払いする処置でもあったのです。


挿絵(By みてみん)

ヴォージュ軍の伊義勇兵


 オータンに居を定めたガリバルディは19日に愛息子がシャティヨンで挙げた戦果に気を良くして、強気にディジョンを解放しようと目論みます。このため、21日にリッチョッティ隊(第4旅団)以外で動かせる全部隊を直率して東へ動き、まずはコート=ドール山中のアルネ=ル=デュク(オータンの北東24.4キロ)を越えて北東ディジョン方向へ進みました。ガリバルディは24日にソンベルノン(ディジョンの西25.3キロ)街道(現・国道D905号線)に達し、リッチョッティ隊もこの街道沿いへやって来ます。

 また、ディジョンの南に現れた護国軍部隊を中心とした仏軍は、リヨン北のソーヌ沿岸で編成されたカミーユ・クレメー少将率いる「クレメー師団」で、ガリバルディ率いる義勇兵たちとは一線を画するものの、同調して行動していたのです。

 これら総計2万を越える仏軍部隊はディジョンを西と南から攻撃しようとしました。


 対するヴェルダー将軍は前述通りディジョン周辺の守りを高めますが、市街周辺に防衛陣地を固めるだけではなく機動的な迎撃も命じます。

 26日には再びヴィラールへ進んで来たガリバルディの前衛をBa第1旅団の両(Ba擲弾兵第1と第2連隊)F大隊と軽砲第3中隊とが迎撃し、激しい戦闘の末これをラントネ(ヴェラールの北西3.8キロ)へ追い払いました。

 同日、Ba第2旅団長の男爵アルフレッド・エミール・ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・デーゲンフェルト少将は旅団主力*を率いてコート=ドール山地に向かい、サン=セーヌ=ラベイへの街道(現・国道D971号線)を進んでダロワ(ディジョンの北西10.6キロ)に至りますが全く敵を見ず、ここから南方ウシュ川方面へ向かいました。するとパスク(ダロワの西南西6.3キロ)付近でガリバルディ軍本隊と遭遇するのです。

 この時、ガリバルディ将軍はおよそ6個大隊(4,500名前後)の歩兵と山砲12門を率いており、激しい銃砲撃を受けたデーゲンフェルト隊は山地での行動に慣れた義勇兵らの攻撃で、その半数でしかないBa軍側は次第に不利となり、デーゲンフェルト将軍は無理をせず所属砲兵の援護射撃下、午後1時から順次プルノワ(ダロワの西南西3.5キロ)~デ(ディジョンの北西4.4キロ)を経てディジョンの防衛線まで撤退しタラン(同西北西3.3キロ)で警戒しつつ宿営に入りました。


挿絵(By みてみん)

ラントネで戦うアヴェロン県の仏護国軍部隊


※11月26日のデーゲンフェルト支隊

○ Ba第3連隊・第2、F大隊

○ Ba第4「ヴィルヘルム親王」連隊・第1大隊

○ Ba竜騎兵第1「親衛」連隊・第3中隊と第1中隊の半数

○ Ba野戦砲兵・重砲第1中隊


 退いたデーゲンフェルト将軍は仏軍警戒のためBa第3連隊のF大隊をオトヴィル(=レ=ディジョン。タランの北3.4キロ)に派遣しますが、その前哨隊が部落で任に就いた午後6時半、ガリバルディ隊の前衛が密集し夕闇に紛れて襲って来ました。

 夜陰で数の知れない敵に襲われたBa第3連隊F大隊は、防戦一方となり短時間で南側のデ方向へ後退します。このデ部落には昼間から同連隊の第1大隊が派遣され警戒任務に就いていましたが、異変に気付いた同大隊は直ちに出撃し、F大隊兵を収容すると共に仏軍義勇兵を迎撃、このBa軍が4列に並んだ重厚な一斉射撃を浴びせ続けると、何度も突撃を繰り返したガリバルディの義勇兵たちもようやく諦めコート=ドールの山中へ撤退して行ったのでした。



☆「ヴォージュ」軍 1870年12月上旬(戦闘兵員6~7,000名/最終的には16,600名)


司令官 ジュゼッペ・ガリバルディ少将

 参謀長 フィリップ・トゥーサン・ジョセフ・ボルドーネ准将


挿絵(By みてみん)

ボルドーネ


※[ ]内は指揮官/隊長。


◇第1旅団 ジョゼフ・ボサック=オーク(ジョゼ・ボサカ・ハウケ)少将


挿絵(By みてみん)

ハウケ


*ローヌ・エクレルール(義勇騎兵/実態は歩兵)中隊

*ローヌ・ヴォロンテーヌ(義勇兵)中隊 [タンテュリエ大尉]

*グレー(ディジョンの東北東43.3キロ)・エクレルール大隊 [ネヴェ少佐] 

*エジプト人猟兵隊 [ペンナジ少佐]

*スペイン人義勇兵中隊 [ガルシア少佐]

*アルプ=マリティーム県(コート・ダジュール地方・県都ニース)護国軍連隊の1個大隊 [ブリュノー少佐]

*護国軍第42「アヴェロン県(南仏オクシタニー地方)」連隊 [ヴィリム中佐]


※12月中旬以降に参加した部隊


*フィリップヴィル(ベルギー南部)・エクレルール大隊 [グー少佐] 

*「ティライヤール(軽歩兵)」義勇兵中隊 [パサニシ大尉]

*アルジェ=ガリバルディ義勇兵隊 [デュビ大尉]

*ジェノヴァ=ガリバルディ義勇兵隊 [パナッツィ少佐]

*マルサラ(シチリア島)のイタリア人レギオン(集団) [オレンセ少佐]

*イゼール県(南仏・アルプ地域)護国軍第1レギオン [ブルトン中佐]


◇第2旅団 デルペシュ大佐→クリスティアーノ・ロビア少将

 参謀 ジョリヴェ大尉(正規軍士官)


*マルセイユ・エガリテ(平等)第1大隊 [ゴーティエ少佐]

*マルセイユ・エガリテ(平等)第2大隊 [レイモンド少佐]

*オリエント(中東)・エクレルール中隊 [コルソ大尉]

*マルセイユ・ゲリラ隊 [ブスケ少佐]


※12月中旬以降に参加した部隊


*サン=ローラン=デュ=ヴァール(ニースの西)=ガリバルディ義勇兵隊 [ダニーロ少佐]

*アトラス義勇兵中隊 [ガリエ少佐]

*オリエント・ゲリラ隊 [シュネ少佐→ジャコ/別名ソルシー少佐] 

*臨時護国軍ガール県(南仏地中海沿岸)第1大隊  [ブラコニエ少佐]

*海軍歩兵1個中隊 [ジュネ大尉]


◇第3旅団 ドメニコ・メノッティ・ガリバルディ大佐

 参謀 サン=アンブロ少佐


挿絵(By みてみん)

メノッティ(壮年時)


*イタリア・ヴォロンテーヌ・レギオン [タラナ少佐]

*コルマール(オ=ラン県都)義勇兵中隊

*オ=ラン県(アルザス南部)義勇兵中隊 [クリュシー少佐]

*ヴォクリューズ県(コート・ダジュール地方)義勇兵中隊 [エイラ大尉]

*アルジェ=ガリバルディ義勇兵隊 (※12月中旬以降第4旅団へ)

*ジェノヴァ=ガリバルディ義勇兵隊 (※12月中旬以降第4旅団へ)


※12月中旬以降に順次参加した部隊


*アルプ=マリティーム県護国軍連隊の1個大隊 [モニエ少佐]

*オート=アルプ県(伊国境・県都ガップ)護国軍連隊の1個大隊 [バルテルミ少佐]

*バス=ピレネー県(現・ピレネー=アトランティック県・スペイン国境)護国軍第3大隊 [ボルル少佐→イリアール少佐]

*イゼール県(アルプ地方・県都グルノーブル)護国軍第3レギオン [コンバリュ中佐]

*アルプ(サヴォワ地方)猟兵隊 [ラヴェッリ少佐]

*混成義勇兵中隊 [ロステ少佐]

*フランシュ=コンテ(スイスとの北西国境地方)義勇兵中隊 [オルディネール少佐]


◇第4旅団 リッチョッティ・ガリバルディ大佐

 参謀 ドゥテット大尉


挿絵(By みてみん)

リッチョッティ(壮年時)


*サヴォワ・ヴォロンテーヌ中隊 [ミッシュア少佐]

*ドール(ディジョンの南東42キロ)義勇兵中隊 [アベル少佐]

*ヴォージュ県義勇兵中隊 [ヴェルカ少佐]

*イゼール県護国軍第2レギオン [ブラッシュ少佐]

*ドゥー県(スイスの北西国境に接した県)・エクレルール義勇兵中隊 [ベギ少佐]

*ル=アーブル猟兵中隊 [ダモン少佐]

*「パリの孤児」大隊(アルザス人部隊・一部は砲兵隊援護)


※12月中旬以降に順次参加した部隊(増設された第5旅団/ステファーノ・カンツィオ大佐指揮を含む)


*「ニコライの義勇兵大隊」 [ニコライ少佐]

*アリエ県(南仏オーヴェルニュ地方)義勇兵中隊 [プリア少佐]

*アヴェロン県(南仏オクシタニー地方)義勇兵中隊 [ロダット少佐]

*ドーフィネ(南仏東の地方)猟兵隊 [ロスタン少佐]

*コート=ドール県義勇兵中隊 [ゴディヨ少佐]

*ロワール=エ=シェール県(オルレアンの西側。県都ブロワ)・ヴォロンテーヌ中隊 [ダンブリクール少佐]

*カプレーラ島(地中海サルディーニャ島北端部沖/ガリバルディ居所)・エクレルール中隊 [ロラン少佐]

*「モン=ブラン」猟兵隊 [タパス少佐]

*ラ・クロワ(ニースの西側地方)義勇兵中隊 [ニヴォン少佐]

*トゥールーズ(南仏オート=ガロンヌ県都)義勇兵中隊 [グロゾフスキ少佐]

*ジェール県(南仏オクシタニー地方)義勇兵中隊 [ドゥルク少佐]

*「ロアールの共和主義者」猟兵隊 [ラベルジュ少佐]

*ドーフィネ地方義勇兵中隊 [デュニエール少佐]

*クレセント(ナント市の地区)義勇兵中隊 [バルボ少佐]

*「山脈の孤児」隊 [デュリュ少佐]

*コート=ドール県国民衛兵大隊 [ランバート少佐]


 他にもヴォージュ軍には勇壮で特徴的な名称を持つ義勇兵部隊(外国や植民地の開拓者も。多くが50から100人程度)が参加しています。


○アルジェリア決死隊

○コンスタンテーヌとゲルマ決死隊

○シディ・ベル・アッベス・エガリテ(平等)第2大隊

○「ナントの熊」中隊

○「復讐」中隊

○「フランスのヒスパニック人」中隊


◇騎兵隊


*仏正規軍・猟騎兵第7連隊の1戦隊

*「ガリバルディ教導騎兵」中隊

*ローヌ・エクレルール騎兵中隊

*シャティオン(リヨンの北東にある湖沼地域)・ヴォロンテーヌ騎兵中隊


※12月中旬以降に順次参加した部隊

*カラブリエ騎兵第11「混成」連隊 [ルノド中佐]

*驃騎兵1個中隊

*竜騎兵1個中隊

*捜索騎兵中隊

*シャンベリー(サヴォワ県都)騎兵中隊

*「ペルピニャンのスペイン人部隊」騎兵


◇砲兵隊


*シャラント=アンフェリウール県(現・シャラント=マリティーム県。県都ラ・ロシェル)護国軍の砲兵隊 第2,3中隊(ライット4ポンド砲)

*同・山砲第1中隊(4ポンド山砲)

*砲兵援護歩兵隊 パリ・アルザス人部隊とロアール県護国軍兵(300名)


※12月中旬以降に順次参加した部隊

*メーヌ=エ=ロアール県(ロアール下流・ナントの東側)臨時護国軍の1個中隊(4ポンド砲)

*正規軍・砲兵第2連隊の1個中隊(ライット4ポンド砲)

*同連隊の1個中隊(ライット12ポンド砲)

*ブーシュ=デュ=ローヌ県(南仏。県都マルセイユ)護国軍の砲兵隊2個中隊(ライット12ポンド砲)

*4ポンド山砲の5個中隊

*義勇砲兵1個中隊(ミトライユーズ砲)


◇工兵隊


*工兵第1連隊の1個中隊

*イタリア人補助工兵中隊

*ローヌ県架橋兵中隊


挿絵(By みてみん)

ヴォージュ軍の義勇兵(白色の軍装に注目)


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