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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・極寒期の死闘
408/534

普軍の海峡到達とフェデルブ将軍の登場

独第一軍の海峡方面進出(1870.12上旬)

挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)

パリからルーアンまでのセーヌ沿岸地図(19世紀の鉄道沿線図)


☆ 普軍、英仏海峡沿岸へ


 普第1軍団の混成1個旅団は12月8日、マントイフェル将軍の意図に即してレ=ザンドリ(ルーアンの南東31.8キロ)付近に工兵が架けた仮橋を渡ってセーヌを越え、左岸(ここでは南岸)沿いに上流へ進むと翌9日には同じく主要なセーヌ渡河点のヴェルノン(レ=ザンドリの南17.8キロ)を占領しました。この行軍中、旅団は付近で臨時召集された護国軍新兵を次々に捕虜として進み、ブリアン将軍麾下の軍がヴェルノン方面に去ったことを知ります。しかしこのセーヌ渡河点には既に仏軍の目立った部隊は存在しませんでした。

 ポン=ド=ラルシュ(ルーアンの南16キロ)からセーヌ左岸に渡った普第2旅団中核の第1軍団混成支隊は9日、エブルー(同南46.7キロ)を占領します。ここには既にドルー(シャルトルの北33.2キロ)を拠点とする普騎兵第5師団の前哨隊が先着しており、住民を尋問した結果「数日前までおよそ1万4千名の護国軍部隊が存在していた」が「ブリアン将軍がルーアンを放棄したとの知らせを受けて全員鉄道でリジウー(エブルーの西北西68.7キロ)に向かって去った」とのことでした。この師団クラスの仏軍は9月政変で新設されたウール県の臨時護国軍部隊と判明したのです。


挿絵(By みてみん)

ヴェルノンの破壊された常設橋


 騎兵と砲兵で強化され、セーヌ左岸を河口に向けて進んだ普第29旅団はこの9日、ポン=オードゥメール(ルーアンの西南西43.5キロ)へ到達し、リスル河畔のモンフォール(=シュル=リスル。ポン=オードゥメールの南東12.7キロ)で鉄道を破壊するとル・アーブルの対岸、オンフルール(ル・アーブルの南東12.4キロ)で約2万の仏軍が準備されていた艀や渡船で大きく開いたセーヌ河口を渡りル・アーブルへ去ったことを知りました。この時先行してオンフルールに至った普軍驃騎兵斥候隊は最後に渡船に乗り込んでいた仏軍後衛に発見され銃撃を浴びています。


 一方、セーヌ右岸(ここでは北岸)では普近衛竜騎兵旅団が盛んに斥候を繰り出し、その報告によれば「千名を超える護国軍がル・アーブルへの街道(現・国道D982号線)を行軍中」とのことで「ル・アーブルとその周辺には既に2万5千を超え最大5万に及ぶ仏の大軍が集合中」とするのです。この仏軍前哨はモンティヴィリエ(ル・アーブルの北東8.3キロ)からセーヌ河畔のアルフルール(モンティヴィリエの南4.3キロ)に強力な防衛線を構築しており、この9日、ボルベック(ルーアンの西北西47.5キロ)を越えてル・アーブル目指し接近した近衛竜騎兵斥候が撃退されています。


 更に北方ではディエップ(ルーアンの北53.3キロ)を目指し、普騎兵第3師団から両軍団に派遣されていた騎兵2個連隊に歩兵2個大隊、そして騎砲兵1個中隊が普騎兵第7旅団長の伯爵フリードリヒ・ジークマル・ツー・ドーナ=シュロビッテン少将に率いられて7日、クレール(ルーアンの北17.4キロ)に進んで宿営すると、翌8日ディエップに向かって行軍しますが、その道中仏軍を見かけることはおろか行軍の跡も発見されませんでした。ツー・ドーナ将軍は9日ディエップに達し、無防備だった市街と港を捜索した後、海岸砲台にあった27門の巨大な要塞重砲の火門に大釘を差してしばらくの間使用不能にすると、更に海岸電信所を襲って機器を破壊し海峡電信線を切断して英国との通信を不通にしました。

 独軍で「大西洋沿岸」に一番乗りしたツー・ドーナ将軍は、夜間市街へ留まるのは危険(先月30日に発生したエレトパニーの件もあります)と感じて撤退し、この日からオフエ(ディエップの南22.7キロ)で警戒を怠らずに宿・野営を始めるのです。


挿絵(By みてみん)

ディエップの港(1876/シャルル=フランソワ・ドービニー画)


 これら前線部隊が海峡沿岸へ進む中、7日付の普大本営命令がルーアン在のマントイフェル将軍の下に届けられました。

 これによれば、「ブリアン将軍率いる仏軍に対し、なお都市郊外で遊弋するものがあればこれを撃破することが貴官(マントイフェル将軍)第一の任務」と定め、「戦況が有利な場合のみル・アーブルに対し奇襲を行うこと」や「アミアンよりアラスに向かって撤退した仏の兵団を絶えず監視下に置くこと」「この北部兵団が再び進撃した場合には直接これに向けて攻撃すること」等が命じられたのです。

 これらの命令はここまでマントイフェル将軍が講じた作戦に齟齬なく適応するものだったため将軍は9日、「普第1軍団と普近衛竜騎兵旅団はルーアン並びにセーヌ下流域の警戒を行い、普第8軍団と普騎兵第3師団はソンム沿岸を警戒すること」と改めて任担地区を定めたのでした。


☆ マントイフェル軍の転進


 この9日になると、ソンム沿岸を巡回する普騎兵第3師団の諸斥侯から「仏軍の斥侯と邂逅した」との報告が増加し、また沿岸地域で住民が不穏な動きを見せたり、仏軍のまとまった部隊が辺りを行軍する姿が望見されたりし始めたのです。

 この状況からゲーベン将軍は麾下第8軍団をル・アーブル方向に進ませた後、海峡沿岸を北上してサン=ヴァレリー(=アン=コー。ディエップの西27キロ)まで進み、ここからアミアンに向けて進むこととされます。また、ゲーベン軍団がアミアンへ到着した後、それまでアミアンを守備していた普第3旅団は普第1軍団の守備するグルネーからルーアン方面へ前進し原隊復帰することとされました。更にマントイフェル将軍はアミアン~ルーアン鉄道を可及的速やかに修理して利用可能とするよう、麾下工兵と第1野戦鉄道隊に命じます。これはソンム方面の仏北部軍とノルマンディ地方に退いたブリアン軍どちらが動いても速やかに集合を図れるよう準備しておこうというマントイフェル将軍の要望でした。


 普第1軍団を率いるフォン・ベントハイム将軍はマントイフェル将軍の命令でエブルーにあった普第2旅団を中核とする支隊をセーヌ河畔のル・ヌーブール(エブルーの北西22.6キロ)に進めます。この支隊中リスル河畔に向かった別働する諸隊は11日にボーモン=ル=ロジェ(エブルーの西北西27.9キロ)に達し、ここを護っていた仏軍部隊を撃破し、北方へ逃走した仏兵を追撃した普軍の竜騎兵は一つの集団を襲撃して全滅させたのです。普第2旅団の両隊は12日にボーモンとル・ヌーブールからセルキニー(ル・ヌーブールの西南西14.4キロ)へ進んで合同しましたが、セルキニーにいた仏護国軍前哨は普軍到着前にこの地を去りました。

 このリスル河畔に進んだ普軍とリジウーやポン=オードゥメールに通じる鉄道線を破壊しようとする普軍の工作を妨害するため、同12日午後ベルネー(セルキニーの西南西8.7キロ)から仏護国軍部隊が出撃しますがこれは全て失敗に終わり、普軍に撃退されてしまいます。しかしこれによりベルネーにはリジウーから1万2千から1万5千に及ぶ仏護国軍師団が前進してきたことが判明し、翌13日、普第2旅団は重要なリスル渡河点のブリオンヌに主力を置き、ルーアンへの街道(現・国道D438号線)に沿って展開します。普第1軍団残りの普第1と第4旅団(第3旅団はアミアン在)はルーアン近郊に集合し守備を固めました。しかし、普近衛竜騎兵旅団の増援としてル・アーブル方面へ進んだ諸隊はそのままとされるのです。


挿絵(By みてみん)

ベルネーの戦闘


 このル・アーブルに向かったのは普第8軍団の普第16師団で、12月10日にイブト(ルーアンの北西31.5キロ)からセーヌ河畔コドゥベック(=アン=コー。同西北西28.3キロ)へ進みました。ところが同じ日の夜、ゲーベン将軍の下に軍本営から至急報が届き「アラスから仏軍が南下し、その前衛がソンム河畔で普軍を襲った模様」とのことでした。背後が気になるゲーベン将軍は軍団後衛予備としてルーアン近郊のマロンム(ルーアンの北北西6キロ)に宿営していた普第30旅団(ルーアンの占領により軍予備から解放されています)に対し「急ぎアミアンへ向かえ」と命令し、同じくリスル河畔のポン=オードゥメールに留まってベントハイム将軍を支援していた普第29旅団に対しても、同じくアミアンへ転進するよう命じました。更に両旅団は13日に普第15師団としてラ・フイリー(ルーアンの東30.4キロ)で合同し、アミアンへ急ぐよう命じられたのでした。

 こうしてアミアン方面への備えを行ったゲーベン将軍は普第16師団を直率すると翌11日、ボルベック(ル・アーブルの東北東27.8キロ)からリールボンヌ(ボルベックの南南東7.5キロ)の線に達します。ここでル・アーブルを監視していた普近衛竜騎兵旅団と合流したゲーベン将軍は竜騎兵旅団長のブランデンブルク将軍から「仏軍はル・アーブル東方で重厚な防衛線工事を行っており無視出来ない数の兵員が陣地に展開している」との報告を受けるのです。

 実際この時、ル・アーブルではブリアン将軍がノルマンディ北部の護国軍と国民衛兵をかき集めておよそ4万に達すると称される兵員と護国軍の野戦砲兵数個中隊を配備し、市街及び郊外の諸堡塁には要塞重砲137門が配備されていました。街角には重要な港の絶対死守を宣言する檄文が張り出され、市民の協力で港湾や市場にもバリケードや銃座が設置されていました。

 このル・アーブル港は戦前より国際商港として栄えていましたが、この頃にはル・マン周辺で編成を急ぐ仏第21軍団や、シャンジー将軍率いるロアール軍左翼にとって死活問題となる英国や英国を経由してアメリカからやって来る銃器・大砲・弾薬などの物資中継港となっていました。12月に入ってようやくブルターニュ地方に届き始めた物資の流れを止めないためにもル・アーブルは仏軍が死守すべき重要拠点となっていたのです。


挿絵(By みてみん)

ルーアンからル・アーブルまでのセーヌ沿岸地図(19世紀の鉄道沿線図)


 ここでゲーベン将軍とマントイフェル将軍は「ル・アーブルかアミアンか」の選択を迫られますが、現場のゲーベン将軍にとって選ぶ道は一つしかあり得ませんでした。

 ゲーベン将軍はアミアンで対峙した仏「北部軍」が最後は自ら撤退したとはいえ、その一部に実戦経験のある正規軍が混ざっていたことを知っており、ソンム沿岸や鉄道沿線も守備範囲とする手薄なアミアン守備隊が再び「アミアンの戦い」と同程度の兵力で襲われれば危うい、と感じていたと思われます。一方のル・アーブルの敵は「烏合の衆」と思われ、逃げ場のある状況で戦い始めれば戦線は短時間で崩壊するであろう「素人集団」であることはこれまでの戦いを見ても明白です。しかしル・アーブルの後ろは海で仏軍は正に背水の陣にあり、逃げ場のない状況下、地元民からなると思われる兵士たちを中核とする仏軍は「窮鼠猫を噛む」かも知れず、しかも攻めるゲーベン将軍配下の倍か数倍に及ぶと思われる兵員数がある模様でした。元来海外からパリへの物資輸送に欠かせない重要な港であるル・アーブルは防備も強く、生半可な奇襲では落とせないこともまた必至です。ル・アーブル攻略は時間の係る包囲か砲撃しかなく、その時間も資材もゲーベン将軍の下にはありませんでした。


 ゲーベン将軍は翌12日、「軍団は急ぎディエップを目指す」として海峡沿いに北上を開始し、ル・アーブルは引き続きブランデンブルク将軍の近衛竜騎兵に監視を任せることとしました。翌13日以降、普近衛竜騎兵旅団はルーアンの普第1軍団隷下とされたのです。


挿絵(By みてみん)

1870年代のル・アーブル港


 12月14日。ゲーベン将軍麾下の普第32旅団はディエップに達し、オフエで海峡と北方を警戒していた普騎兵第3師団の「ツー・ドーナ支隊」も市街にやって来ました。師団右翼として内陸側を進んでいた普第31旅団は同日サン=ローラン=アン=コー(ディエップの南西23.8キロ)に進み、軍団砲兵はサン=サエンヌ(同南南東31.5キロ)でヴァレンヌ川に達しました。

 ゲーベン将軍は翌15日に全軍を休ませると、この後二手に分かれて一方はアブビルから、他方はヌフシャテル(=アン=ブレイ。ディエップの南東33.7キロ)から、それぞれ街道沿道の住民から武器を押収し安全を確保しつつアミアンへ進むことに決するのでした。


☆ ソンム河畔の危機(12月11日から)


 フォン・デア・グレーベン中将が守るアミアンでは、「シタデル」を守りの要とする工事が行われて市街の防御を高めた後、数多くの巡邏隊をソンム流域地方に繰り出して住民が持っていた武器の類を押収し、アラスとアブビルへ通じる鉄道線の破壊が行なわれました。

 ところが、12月第1週が終わる頃になると、その地方住民に不穏な動きが現れ始め、独軍兵士が単身行動することはかなり危険を伴う状態となり、巡邏隊に対する住民の反抗心は目に見えて高まって行きました。これはアミアンを去った仏軍部隊が再び行動を始めた前兆とも思え、12月5日には遂に住民との衝突が発生しました。

 これはカンブレに至る鉄道線の破壊を命じられた一支隊がサン=カンタンに近付いたところ、その住民から抵抗され、危険を感じた隊長が率いていた砲兵小隊に砲撃を命じるまでに至るという事件でした。翌6日にはソンム渡河点のペロンヌ(アミアンの東45.4キロ)要塞に「数千名の護国軍兵士がいる」との情報を受けたある偵察斥候隊が同要塞に近付いたところ、かなり遠距離から銃撃を受ける事態となり、以降数日に渡って似たような事件が続発するのです。


挿絵(By みてみん)

独軍占領下のアミアン


 そして9日、仏「北部軍」が動き出したとはっきり分かる事件が発生しました。


 ソンム河畔のアム(サン=カンタンの南西19キロ)ではこの頃、ラ・フェールからやって来た1個中隊の後備歩兵を護衛とする普軍鉄道隊によって線路の修復工事が行われていましたが、この日の夜、強力な仏軍の集団が夜陰に乗じて市街へ進入し、鉄道停車場で警戒中の歩哨を殺害すると一気に市街地を占領、独将兵が逃げ込んだ城館庭園を包囲して、その多くを捕虜とするという事態が発生します。

アムが陥落したことを知ったグレーベン将軍は翌7日、一支隊を差し向けましたが市街ソンム対岸郊外のエップヴィル(アムの西南西1.6キロ)で強力な仏軍により阻止され、多勢に無勢の部隊は短時間で戦闘を納めると虚しくアミアンへ退却したのです。

 11日。アムの様子を探ろうとラ・フェールからも歩兵一個中隊が偵察に出ましたが、こちらはアム東側のソンム河畔で強力な仏軍部隊と遭遇し、急ぎラ・フェールへ退却します。すると翌12日、仏軍の歩兵数個大隊と若干の砲兵がラ・フェールを望む西側の高地に現れ、ラ・フェールを守備するランス占領地総督府の部隊に脅威を与えることとなったのでした。


 ベルサイユの普大本営はこの12日午後、アムとラ・フェールの事態を電信によって知り「パリへの後方連絡線への重大な脅威が発生した」と認識したモルトケ参謀総長らの意見で、直ちに「ランス総督府を援助するため」「(シャルルヴィル=)メジエール要塞を包囲している予備第3師団は直ちにランス総督に対し必要な兵力を提供せよ」との命令が発せられました。ほぼ同時に「モンメディ(セダンの南東36.4キロ)を包囲する普第14師団の一部は転用可能な兵力を全てメジエール要塞に向かわせるよう」「独マース軍は歩・騎・砲兵混成の1個支隊を鉄道輸送でソアソンへ派遣するよう」命令が飛びました。

 この時、独第一軍に対しては「主力を以てボーヴェ付近に集合し、もし仏北部軍が野戦に打って出た場合、時期を逸することなく行動してこれと対戦し、同時にパリ包囲網との連絡を絶やさず、包囲網への影響を与えぬようこれを援護せよ」との訓令が発せられたのです。


 これ以前、マントイフェル将軍はソンム流域での「異変」を知ると、普第15師団を直接モンディディエへ進ませるよう命じ、アムの事件直後にはアミアンのグレーベン将軍に「必ずアムを取り返せ」との檄を飛ばしました。しかし12日深夜にベルサイユ大本営からの命令を受け取ったマントイフェル将軍は13日、「アミアンに歩兵3個大隊のみを残し残る全部隊を率いて16日にはロアに至り、同地でその西側にある普第15師団と連絡して敵が万が一ソンムを渡河して突進して来たならば対戦せよ」との命令をグレーベン将軍に発します。この命令は翌14日、グレーベン将軍の下に届くのでした。


 この頃、ディエップ周辺に進んでいたゲーベン将軍の普第8軍団に対しては、「直ちにボーヴェに向かって行軍せよ」との命令が発せられます。ゲーベン将軍は部下を叱咤激励して準備を急がせ海峡沿岸を離れると、その後数日でボーヴェ周辺部に軍団を集合させ、仏北部軍の南下に対抗する準備を成したのでした。


☆ フェデルブ将軍の登場


 12月4日、待望されていたブルバキ将軍の後任がアラスで着任します。敵将ゲーベン将軍と同じく鉄縁眼鏡の奥には長年灼熱の地で勤務して来た者によくある細められた鋭い眼が光り、眉間に深く刻まれた皺と日焼けした顔は兵士が自然と居住まいを正すような威厳に溢れていました。

 この初老の将軍はファレ将軍から北部軍の指揮権を引き継ぐと、部下幕僚を前にして「我々は今後とも決死の覚悟で敵と対決して行かねばならず、そのために本官は諸君等に対し絶対なる服従と規律、そして絶えまざる訓練を要求する」と述べるのでした。

 将軍はこの時、トゥール派遣部でガンベタと対面した時のことを思い返していたのかも知れません。

 既にアフリカ植民地での長年の勤務によって病気がちとなっていたこの将軍は、この時も決して体調は万全でなく、しかし軍を率いるに足る能力を秘めた者が陸軍から枯渇してしまったため、ノール県都に生まれ共和主義を信奉することでも知られたこの将軍に白羽の矢が立ち、急遽アルジェリアから仏本土に呼び出されたのでした。

 ガンベタは仏植民地経営でも名を馳せた将軍に対し「全て貴官の思うままに」と北部軍を託したのです。


 ルイ・レオン・セザール・フェデルブ将軍は当時52歳。ガンベタらトゥール派遣部によって11月23日「少将」に昇進させられ、北軍司令官に任命されました。

 ファレ准将と同じくノール県都リールで生まれたフェデルブは織物業を営んでいた父を7歳で失い、母の手で育てられます。頭の良かった彼は奨学金を得てリールのリセを卒業すると18歳でパリの軍工科学校(エコール・ポリテクニーク)へ進み、22歳でメッスの軍砲工科大学に入学、24歳で卒業すると少尉として第1工兵連隊で軍歴をスタートさせました。

その後はアルジェリアの植民地開拓の先鋒で勤務し、カリブ海の西インド諸島での勤務を挟んで34歳(1852年)になるまでアリジェリアでの勤務を続け大尉に昇進しました。

 この頃にフランスは短期間の共和制を経て第二帝政となります。ナポレオン3世皇帝はクリミア戦争に介入すると同時にアフリカ大陸での植民地拡大にも積極的となり、西アフリカのセネガルで奴隷解放が行われた後に現地の小王国の征服が開始され、この遠征に少佐となったフェデルブは副総督として参加、セネガル川流域を制圧して仏の領域を広げます。マリやニジェールからやって来たイスラム教徒の侵攻も制したフェデルブは、42歳で工兵大佐に昇進、19世紀末に英国とファショダ事件を起こすまでとなる広大な仏領西アフリカ植民地の基礎を築いたのでした。

 長らくアフリカの不衛生な土地で野戦を続けていたフェデルブは61年に病に倒れフランスに帰国、本国で疲弊した身体を癒した彼は短期間アルジェリアのシディ・ベル・アッベスで総督を務めた後、63年の5月、45歳で准将に昇進し再びセネガルに総督として帰還しました。

 この、第二帝政期のほぼ全期に渡ったフェデルブの「セネガル開拓」における功績は現・首都ダカールの開発と港の開設、綿花プランテーションの開拓拡張、ニジェールへの鉄道延伸などが挙げられます。65年に任期を終えたフェデルブは67年、アルジェリアのボーヌ(現・アンナバ)の総督となり70年の普仏戦争を迎えます。アルジェリア総督だったマクマオン大将が植民地軍主力を率いて本土へ去った後、コンスタンティーヌで残留した植民地軍を率いていたフェデルブは、先述通り帝政が崩壊し国防政府が立ち上がった後、新軍を率いる士官不足が深刻となったことで本国に招聘されるのです。


挿絵(By みてみん)

フェデルブ将軍


 このフェデルブ将軍は工兵上がりでファレ准将と同じ学歴を持つ士官でしたが、植民地経営と野蛮で獰猛な現地人の兵士と戦い続けた経験により、「規律と猛訓練」が兵士を強くすると信じていました。将軍は早速アミアンからの撤退で自信を失っていた将兵に働きかけて奮起を促し、訓練を開始します。将軍の知性と行動力はたちまち部下の兵士たちの心を捉え「この将軍ならば」と信望を集めて行きました。しかし装備と武器は改善の見込みが少なく(ル・アーブルにやって来る英米の武器はロアール軍のため直ぐにブルターニュへ向けて運ばれ、北部軍が手にする武器物資はほんの僅かでした)、特に制服や軍靴は絶望的にひどいものでした。


 それでもフェデルブ将軍は出来る限りのことを成そうと努め、自身の経験を活かし、錬成不足で装備も悪い不利な状況下でも直ちに行動に移ったのです。


 着任後間もなく、フェデルブ将軍は独軍がルーアンへ進んだ隙に反対側のソンム河畔へ出撃することを部下に告げるとアラスから軍を動かし、12月8日にソンム河畔へ進むと9日の深夜にアムを襲ったのです。この成功によってフェデルブ将軍は休まずに次の目標、ラ・フェールへ向かったのでした。


 当時の仏軍は防御を得意とする軍隊でしたが、少数の部下と共にその半生を地図もない未開の地で戦い続けたフェデルブ将軍は、何より「拙速を厭わず常に機先を制する」攻撃主体の作戦術をモットーとしており、この仏軍でも異色の戦い振りは、ビスマルクから「狂犬」と呼ばれたマントイフェル将軍をしても慌てさせるに十分だったのです。


挿絵(By みてみん)

 普軍の捕虜たち




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