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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・極寒期の死闘
407/534

マントイフェル軍のルーアン占領


 アミアンが陥落し、「元帝国正規軍」将兵を含む仏北部軍を敗退させたマントイフェル将軍は、仏軍がアラス方面へ急速後退したとの斥候偵察を受けると、アティシーで11月20日夜に受領した普大本営命令「ルーアンまで前進せよ」(既述)をそのまま実行することに決し、28日正午、「普第8軍団は明29日、アミアンからポワ=ドゥ=ピカルディ(アミアンの南西26.4キロ)への街道(現・国道D1029号線)上に進み、前衛をクルーズ(同南西11.7キロ)まで前遣するよう、普第1軍団は同日、コンティ(同南南西20.2キロ)方面を目指し、前衛はエセールオー(コンティの東6.7キロ)まで前進するよう、その際普第3旅団に砲兵2個中隊を付けて普騎兵第3師団へ派遣し、フォン・デア・グレーベン中将の隷下とするよう」命じます。同じく普騎兵第3師団に対しては「両軍団に騎兵各1個連隊を送り、第1軍団から送られる支隊と残り諸隊(騎兵2個連隊と騎砲兵1個中隊)でアミアンを守備し、同時にルーアン目指して前進する軍主力の右翼北方と背面を援護してルーアン~ラン(Laon)鉄道を守備せよ」と命じました。この鉄道本線はラ・フェール要塞が陥落したことでランからアミアンまで運行することが可能となっており、この日ラ・フェールから普第4旅団を中心とする諸隊がアミアンに向け鉄道輸送を開始していました。


 同日の朝、普騎兵第3師団に出されていた「普第1軍団から架橋資材を譲り受けてソンムを越え北上せよ」との命令は未だ実行されておらず、結果、フォン・デア・グレーベン将軍は無駄な行動をすることなくこの変更された命令の実行に取り掛かることが出来るようになります。

 将軍は普槍騎兵第5「ヴェストファーレン」連隊を普第1軍団に、同胸甲騎兵第8「ライン」連隊を普第8軍団にそれぞれ送り出し、残りの諸隊は普第3旅団と合流してアミアン市内に入りました。この時アミアンでは北部のシタデル(城塞)が降伏しておらず、ゲーベン将軍は軍団主力を命令に従って送り出すと、普フュージリア第40「ホーヘンツォレルン」連隊と軍団所属の砲兵諸中隊と共に居残ってシタデル攻略に集中していました(12月1日の開城後に前進)。市内のソンム県庁からは県知事らが逃走しており、占領地の行政を混乱させないため、マントイフェル将軍は自身の軍経理部長チュルヒャー経理官をアミアンに残して仏役人の指揮に当たらせています。


※11月28日以降のアミアン守備部隊

指揮官 普騎兵第3師団長伯爵フォン・デア・グレーベン=ノイデルヘン中将

○歩兵第3旅団  アルベルト・フォン・ブッセ大佐

*擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊

*第44「オストプロイセン第7」連隊

○槍騎兵第7「ライン」連隊

○槍騎兵第14「ハノーファー第2」連隊

○野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊

・重砲第5中隊

・軽砲第6中隊

○野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊

・騎砲兵第1中隊

○第1軍団工兵・第3中隊

※2、3日後にラ・フェールよりヘッセン=カッセル要塞砲兵第11大隊の第8中隊も到着し、共に運ばれて来たラ・フェール要塞の鹵獲仏製12センチ前装施条カノン砲4門は開城したばかりのシタデルに搬入されて備砲となっています。


☆ 11月末のエプト、アンデル川方面


 北部軍が創設された頃、英仏海峡に面した仏北西部のノルマンディ地方(マンシュ、カルヴァドス、オルヌ、ウール、セーヌ=アンフェリウールの各県からなります)でも防衛兵力が組織され、これは最終的にブリアン将軍が統括指揮を執りました。

 10月以来、パリ北西部のセーヌ下流域に関する普ベルサイユ大本営の関心は高く、ロアール軍の動向と共にこの「ブリアン軍」に関する情報も盛んに集められ、この11月時点では正規軍の戦列歩兵1万1千を含む総戦闘兵員数を約4万3千名、野砲は27門前後、騎兵若干名と信じられており、その主力はセーヌ=アンフェリウール(現・セーヌ=マリティーム)県都ルーアンに在るものと考えられていました。

 しかし、これはセーヌ下流左岸(ほぼ南)で活動するフィエレック将軍の義勇兵や護国軍部隊、ペルシュ地方の西で編成中のバンジャマン・ジョレス提督率いる混成部隊(後の仏第21軍団)、そしてアブビル方面の北部軍部隊と混同・情報が錯綜重複した結果の「誇大妄想」で、実際にブリアン将軍がルーアンを中心として掌握していた兵力は戦闘兵員2万2千、砲32門、騎兵若干だったと記録されています。


挿絵(By みてみん)

 ブリアン


 10月来、独マース軍から派遣されていたヴィルヘルム・ニコラウス・アルブレヒト親王(子息の方)率いる「エプト方面支隊」(普近衛騎兵第2「槍騎兵」旅団中心)は11月25日、マントイフェル軍のアミアン接近に伴い任を解かれ、パリ北部のマース軍包囲網へ召喚されてジゾー(ルーアンの東南東52.3キロ)を去ります。この代わりに北独騎兵第12「ザクセン王国(S)」師団はボーベ(アミアンの南南西54キロ)からジゾーに前進し、パリ包囲網からは普近衛騎兵第3「竜騎兵」旅団(伯爵アレクサンドル・フェルディナント・ユリウス・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク少将指揮)がボーベ目指して出立しました。マントイフェル軍がルーアンを目指す事を通告されている独マース軍司令アルベルト・ザクセン王太子は、これら騎兵部隊に付された歩兵諸隊に対し「第一軍の前衛がエプト河畔に到着し次第、任を交代して可及的速やかに原隊復帰せよ」と命じたのでした。


 ところが、この任地変更前後の数日に渡って「ブリアン軍」の前哨部隊がジゾー周辺まで進出し、独軍の前哨偵察隊と衝突するという事件が続発します。ボーベに到着した普近衛竜騎兵旅団はエプト上流のグルネー(=アン=ブレイ。ボーベの西北西26.4キロ)に仏軍がおり、エプト河畔を抑えているのを発見しました。

 11月27日と28日には、ジゾーから西方へ偵察に出たS騎兵諸隊は仏軍の歩兵と騎兵の混成斥候隊と接触し、戦闘に至る前に仏軍側からリシュヴィル(ジゾーの西17.4キロ)方面へ後退して行きました。

 ジゾー西方の仏軍が気になったS騎兵師団長の伯爵フランツ・ヒラー・フォン・トゥール・リッペ中将は翌29日、歩騎兵の混成偵察隊を編成し、ジゾーとサン=クレア(=シュル=エプト。ジゾーの南西10.8キロ)から二手に分かれてエクイ(同西25.1キロ)へ向かい前進させます。

 この二つの偵察隊はサン=ジャン・ドゥ・フルネル(同西21キロ)で仏軍前哨と遭遇しこれを駆逐すると引き返し、夜になってエレトパニー(同西北西12.3キロ)及びレ・ティリエ(=アン=ヴェキシン。エレトパニーの南7.8キロ)で宿営しました。ところがこの夜、エレトパニーに宿営した偵察隊*は翌30日午前1時30分、ブリアン将軍が命じてエクイに進んだ仏軍部隊から襲撃され、部落の西で宿営していた擲弾兵第100「S第1」連隊の第5中隊はその殆どが寝込みを襲われ捕虜となってしまいます。また、騎砲の1門は前車の車軸が折れて運ぶことが叶わず、これも仏軍に鹵獲されてしまいました。他のS軍諸隊は襲い来る仏軍と一時は激しい市街戦となった後、部落の南と東から部落外に脱出し、以降は追撃を受けることなくジゾーへ帰還しました。

 この「エレトパニーの夜戦」で仏軍は約50名の死傷者を出し、S軍は捕虜100名前後を含む約150名を失い、馬匹もおよそ80頭を奪われてしまったのです。


挿絵(By みてみん)

普軍槍騎兵の捕虜を連行する仏義勇兵


※11月30日にエレトパニーで宿営していたS軍偵察隊

○北独擲弾兵第100連隊・第2,5中隊

○S近衛ライター騎兵連隊・第3中隊

○北独槍騎兵第17「S第2」連隊・第2中隊

○北独野戦砲兵第12「S」連隊・騎砲兵第2中隊の1個小隊(2門)


挿絵(By みてみん)

エレトパニー市街


 同じ夜、レ・ティリエにも仏軍の強力な攻撃隊がやって来ましたが、こちらのS軍偵察隊は気配を感じて戦闘態勢を整えていたため、仏軍部隊はそのままオトゥヴェルヌ(レ・ティリエの南東2.7キロ)まで進んで包囲を図りましたが、S軍はこれに攻撃を加えたため、仏軍は短時間で戦闘を切り上げエクイへ引き上げたのです。


 エレトパニーの「悲劇」を知ったトゥール・リッペ将軍は直ちに強力な攻撃隊を編成して同30日午前中にエレトパニーへ発進させましたが、S軍部隊が同地に到着する前、仏軍はエレトパニーからエクイへ引き上げました。

 同日、トゥール・リッペ将軍はアルベルト王太子からの命令を受領し、それによれば、「S騎兵師団は進み来るマントイフェル将軍の第一軍と行動を共にすべし」とのことで、同じ頃ボーベの近衛竜騎兵旅団も普大本営から直接、第一軍の隷下となるよう命じられたのでした。


挿絵(By みてみん)

トゥール・リッペ


☆ 11月30日から12月3日・独第一軍の西進


 普第1並びに第8軍団はこの30日、前日29日に進んだ場所にて休息日となり、また、アミアンの「シタデル」が白旗を掲げたため、その砲撃用に居残っていた諸砲兵中隊は軍団に復帰しました。

 翌12月1日。両軍団はルーアン目指し一斉に前進を開始し、3日、それぞれの前衛はエプト川の河畔に達します。しかし、仏軍の諸前哨隊は普軍の接近を知ると一斉にアンデル川の東部から去ってしまい、ここまでは普軍の行軍に対する妨害は全くありませんでした。

 軍の最右翼(北)を行く普第16師団はこの3日、ヌフシャテル=アン=ブレイ(ルーアンの北東40.5キロ)とその南方までに達し、騎兵と砲兵を付された普第29旅団(普第15師団)はフォルジュ(=レゾー。ヌフシャテルの南南東15.3キロ)に進みました。

 この左翼(南)後方では普第2師団の支隊*がソンジョン(グルネーの北東11.9キロ)を越えた辺りまで進み、ほぼ集合のなった普第1師団はグルネー(=アン=ブレイ)に入り、この地には普近衛竜騎兵旅団も到着しました。


※11月末の普第2師団

 師団はアミアンに普第3旅団を残し、普第4旅団はラ・フェール占領後の11月28日中に同地を後にすると普竜騎兵第10連隊の第4中隊、野戦砲兵第1連隊の重砲第6中隊と共にノアイヨンとモンディディエを経て進み、この12月3日に独第一軍の行軍に追い付きました。ラ・フェールに守備隊として残った普擲弾兵第5連隊のF大隊も後を後備部隊に任せると行軍を開始し、12月7日に親連隊へ合流しています。


 マントイフェル将軍はこの3日、仏軍との衝突が近付いたとして、ストルブベルク少将の普第30旅団と第1軍団の騎兵1個連隊、第8軍団の砲兵2個中隊を「軍直轄総予備」に指定し、これら部隊は前線中央となるポムルー(フォルジュの東5.8キロ)周辺に留まるよう命令されます。また翌4日は「普第8軍団はビュシー(ルーアンの北東24.4キロ)へ、普第1軍団はラ・アイユ(同東24.8キロ)とリオン=ラ=フォレ(ラ・アイユの南南東7.9キロ)へ、軍予備はアルギュイユ(フォルジュ=レゾーの南南西8.2キロ)へ、それぞれ進む」よう命令を発します。S騎兵師団に対しては軍の左翼(南)に進んでフルーリー(=シュル=アンデル。ルーアンの東南東20.7キロ)とセーヌ河畔のレ=ザンドリ(フルーリーの南南東13.4キロ)方面を偵察するよう要請を出し、普近衛竜騎兵旅団はラ・フェルテ(=サン=サムソン。フォルジュ=レゾーの南南西4.1キロ)で第8軍団長フォン・ゲーベン将軍の隷下となるよう命令されました。またこの日にはメッスで病に倒れた軍参謀長フォン・スペルリング少将が退院し軍本営に戻って来たのです。


挿絵(By みてみん)

レ=ザンドリ付近ル・プティ・アンデリーの橋と丘の上のガイヤール城


☆ 12月4日から6日・普軍のルーアン占領


 明けて4日。グナイゼナウ少将の普第31旅団はヌフシャテル(=アン=ブレイ)で騎兵砲兵それぞれ2個中隊を加えて強化され、二手に分かれて独第一軍の最右翼(北)をルーアンに向け進み始めます。正午頃、旅団本隊はサン=マルタン=オスモンヴィル(ヌフシャテルの南西14.7キロ)付近でヴァレンヌ川(この付近を源流にディエップで海峡に注ぐ中河川)を越えますが、直後仏軍のまとまった部隊と衝突しました。この旅団に付された砲兵中隊の一つ、野戦砲兵第8連隊重砲第6中隊は即座に砲を並べ仏軍に向かって榴弾を数発発射すると同時に、普軍は歩兵を突進させたため、仏軍は急ぎ南方のロクモン(オスモンヴィルの南南西4キロ)に向かって後退します。ここで普第29連隊の第2大隊がロクモンへ突進すると仏軍は部落を棄てて南へ撤退して行きました。この仏軍の別動隊はボーモン(農場と小部落。ロクモンの東北東2.8キロ)で少時抵抗した後にロクモンへ撤退しますが、運悪く普軍が突入した時に当たり、この部隊の仏兵は殆どが手を挙げて投降するのでした。

 普第31旅団の右翼支隊(普第29連隊第1、F大隊・普驃騎兵第7連隊第2中隊・野戦砲兵第8連隊軽砲第6中隊)は本隊の西側を南下していましたが、ヴァレンヌ川の下流・サン=サエンヌ(サン=マルタン=オスモンヴィルの北4キロ)で南方から砲撃音が響き、本隊からの伝令が敵の西側を抑えるためにボスク=ベランジュ(同西3.1キロ)へ進むように、との旅団長命令を受けると、目的地に急ぎますが到着時には戦闘は終了しており、支隊はそこから西へ進んで午後4時30分、ボスク=ル=アール(ボスク=ベランジュの西6キロ)で仏軍を発見、約1時間の戦闘の末に仏軍を駆逐し部落を占領しました。ここから偵察に出た支隊の斥侯はロウーイイー(ボスク=ル=アールの西北西4キロ)付近でル・アーブル鉄道の線路を破壊しようとしますが、付近で警戒していた護国軍守備隊に撃退されてしまい、改めて中隊規模に増強された斥侯隊が出直し目的を達成するのでした。


 フォン・クンマー将軍率いる第15師団の本隊となるオスカー・フォン・ボック大佐の普第29旅団は普第8軍団の左翼(南)を行き、フォルジェット(小部落。ビュシーの東北東5.8キロ)とリフルモン(小部落。フォルジェットの北1.4キロ)間にまとまった仏軍の集団がいるのを発見します。普軍は砲兵3個中隊によりこの仏軍を砲撃し、対する仏軍からは野砲4門による対抗砲撃がありましたが普軍が第65連隊第2とF大隊による突進を受けると歩兵共々一斉に後退して行きました。ここで普驃騎兵第7連隊の1個小隊が先行して仏軍の後衛列に突入してこれを蹴散らし、ラズラン(農場。ビュシーの北東1・5キロ。現存します)にいた仏軍部隊は追撃して来た普軍砲兵の砲撃数発を受けるなりビュシーを越えて西へ逃走しました。普驃騎兵第7連隊の第1中隊はビュシーの西郊外で別の仏軍を捕捉してこれを壊滅させ、約20名の捕虜を獲ています。この後ビュシーを占領した普第29旅団はその前線をカトネ(ビュシーの南南西8.4キロ)まで延伸し周辺で宿営を始めました。

 第8軍団の残り、バイエル・フォン・カルガー大佐の第32旅団はル=メニル=ゴッドフロワ(小部落。ビュシーの西7キロ)周辺まで前進し、軍総予備の第30旅団と諸隊はアルギュイユに集合します。また近衛竜騎兵旅団はイケブーフ(フォルジュ=レゾーの南南西5.4キロ)に達しました。

 この日、普第8軍団は戦死6名、負傷29名を報告しています。


 同じ12月4日、普第1軍団はグルネー(=アン=ブレイ)からルーアンに至る街道(現・国道N31号線)上を進み、軍団の遙か前方を行く諸騎兵部隊がアンデル川の各渡河点に到着するとここで仏の強力な部隊に遭遇しました。これら騎兵部隊は敵との距離を置いて警戒すると斥候を放って観察し、それによれば仏軍は「アンデル川の線を死守する様相」に見えたとのことで、第1軍団の代理指揮官ベントハイム将軍はマントイフェル将軍に伝令を送って許可を得るとラ・フイリー(グルネーの西15.3キロ)周辺で軍団を集合させて宿営を行い、その前哨を前方に広がるラ・マール・ノワールの森(現セーヌ・マリティーヌ県とウール県との境に広がる森)縁に出すのでした。

 普第1軍団の左翼(南)側ではS騎兵師団が仏軍の前線を確認しつつル・ティル(エトレパニーの西4キロ)まで前進します。この日第1軍団と連絡を取ろうと派遣されたS騎兵士官斥候の一人はリヨンの森(ラ・フイリーの南西8キロ周辺の森林地帯)で仏軍に捕まってしまうのでした。


挿絵(By みてみん)

ルーアンの防衛線(1870.12)


 こうして独第一軍本営はアンデル川とその後方に仏軍の大きな戦力が控え、ルーアンの東方には堡塁陣地が展開しているとの情報も得ます。翌5日に本格戦闘を覚悟したマントイフェル将軍は、麾下各部隊に早朝から斥候を放って仏軍の様子を探るよう命じますが、5日黎明に宿営地から発った普第29旅団の先鋒、普驃騎兵第7連隊の2個中隊はアノーヴィル(ルーアンの北北東6.8キロ)付近で仏軍の堡塁陣地を発見、慎重に近付きますが「もぬけの殻」で、急ぎルーアン市街近郊まで突進したライン驃騎兵たちは、全く銃撃を受けなかったことで、大胆にも市街へ突入しました。市内では多数の市民たちが騒いでおり、一部は普軍騎兵を威圧しますが、構わず市中心部の市場まで進んで仏軍が完全にルーアン市街からも去ったことを知り、脅威が無いことを確認した驃騎兵たちは急ぎこのことを軍団本営に知らせました。

 ゲーベン将軍は直ちにルーアン市街の占領を命じ、午後2時30分、まずは普第32旅団の2個大隊が市内へ入城し、その1時間後にはゲーベン将軍自ら先頭に立って同旅団全ての部隊がルーアンに入るのです。

 この5日深夜には普第29旅団も市内に到着し、普第31旅団と普近衛竜騎兵旅団はルーアン北方と西方郊外の諸部落に宿営地を求めます。


 ルーアン占領を報告されたマントイフェル将軍は、同時に仏軍が去ったアンデル川の各渡河点から無事西へ進んだ普第1軍団に対し、「明6日ルーアンに入城し、市街の南方を占領せよ」と命じました。将軍はこの軍団をルーアン守備とセーヌ左(ここでは南)岸への進出に当て、先にルーアンへ入った普第8軍団をセーヌ右(ここでは北)岸で使い、ル・アーブル方面へ進ませようと考えたのです。

 この日、軍の予備隊はマントイフェル将軍と共にラ・アロティエール(アルギュイユの南西4キロ)に留まったのでした。


 この仏軍の撤退は急速に行われたもので、「ル・アーブル兵団」を率いルーアンを死守しようと考えていたブリアン将軍は4日夜、麾下の前線部隊の多くが怖じ気付いて撤退し、その士気も低かったことから建て直しを欲して後退命令を発したのです。未だ鉄道が活きている内に仏軍は列車を用立てて、多くがセーヌを越えて南方へ後退して行きました。


挿絵(By みてみん)

ルーアン郊外の街道(グラン=クーロンヌ付近)


 翌6日。ゲーベン将軍はルーアンを普第1軍団に譲って西へ向け進みましたが、全く仏軍の逃げ足は早いもので途中出会ったのは落伍兵のみでした。マントイフェル将軍は普第1軍団と共にルーアンへ入城し、セーヌ=アンフェリウール県の知事らは逃亡したため、ここでも軍団本営のクラマー経理官を行政府の指揮に当たらせました。 

 こうして普大本営の命じたルーアン占領を成し遂げたマントイフェル将軍は、次の大本営命令が来るまでの間、ノルマンディ地方北部と北部海峡沿岸を巡邏して住民から武器を奪い、護国軍や義勇兵部隊が集合する場合はこれを駆逐するために複数の支隊を設けることにします。この遊動部隊の左翼(南)側にはエクイまで進んでいたS騎兵師団が進出し、防御することになったのでした。


挿絵(By みてみん)

19世紀後半のルーアン市


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