アミアンの戦い(後)
☆ 仏「北部軍」の誕生
ベルギーとの国境に沿って延びる細長いノール県(海峡のダンケルクからアルデンヌの西・ヴァランシエンヌまで)の県都・リール出身の筋金入り共和派、アシル・テストランはセダンの敗北による9月の政変直後、仏国防政府によってノール県知事に任命され、9月末にはノール、エーヌ、ソンムそしてパ・ド・カレー各県の政府側代表となって郷土の防衛に責任を負うこととなります。
この「北方4県」は伝統的に共和派が強い土地柄で、国防政府への支持も高い地方でしたが、パリ以外の国防に責任を持ったトゥール派遣部との連絡はパリが包囲され独軍がシャルトルまで侵入したために困難となり、テストランはほぼ独力でアミアンやアラス、リールで防衛力の強化を図り「北部軍(アルメ・ド・ノール)」と称されることとなる軍を立ち上げなくてはならなくなりました。
その初動時はパリに兵力と装備を奪われてしまっていたため、追加徴兵しようにも適齢・適格者は少数に留まり、セダンの敗残兵(仏に温情的なベルギー経由で北部に至った者が大多数です)が多少は役立つだろうと考えられる程度、しかも数万の軍を率いるに足る能力を持つ指揮官もいませんでした(最初期は海軍出身のロベン少佐が軍を率いますが、戦意も能力も乏しいと烙印を押され国民衛兵部隊の指揮官に異動します)。
10月7日夜にはパリから気球で脱出しモンディディエへ着陸したガンベタ一行がアミアンへ立ち寄り、テストランと再会したガンベタは支援を約束しましたが、その後は職務に忙殺されてしまったガンベタから連絡もなく、切実な援助要請は文字通りナシのつぶてとなってしまいます。
するとここにメッスから脱出したばかりのジャン・ジョセフ・ファレ大佐がトゥール派遣部からアラスへ派遣されて着任しました。工兵畑で教皇領での勤務が長かったファレ大佐は、決して目立つ存在ではなく数万の兵力を率いた経験もありませんでしたが、ようやくガンベタの後援を得たテストランの支援をバックにして精力的に領域内を回りました。ファレ大佐は、それまで各地でバラバラに行動していた正規軍の小部隊や敗残兵の団隊を掌握しつつ各県の護国軍を連隊毎に組織し、義勇兵中隊を指揮下に加えて行きました。10月20日にシャルル・ドニ・ソテ・ブルバキ中将が「北部軍司令官」として着任する頃には、マルシェ連隊への統合途上にある歩兵14個大隊と野戦砲兵6個中隊が防衛任務に使えるようになっています。
しかし、新司令官のブルバキ将軍はバリバリの前皇帝派で最前まで帝国軍の近衛軍団司令官、しかも一般には全く理解不能で謎だらけだった「メッスからの単身脱出」(敵前逃亡も疑われていました)を敢行した張本人で、前摂政皇后に会っていたともロンドンへ行ったとも噂され、そのまま英国に亡命かと思えば悄然としてトゥールに現れガンベタに「任務を」と頭を垂れた、全く持って「怪しい」人物でした。共和派シンパの多い仏北部では「歓迎されざる人物」として疎まれ、協力を訴える将軍は反感の視線を浴びて半ば無視され、テストランの周辺以外では要請を拒絶されることもしばしばだったのです。
ドゥエ(ノール県)で民衆に囲まれるブルバキ将軍の馬車
それでも真面目なブルバキ将軍は、メッスで一緒だったファレ准将と共に部下の練成に力を入れ、部隊編成を急ぎ装備の充実を図りましたが、配給される装備は欠陥だらけで旧式が多く、実数も足りない状態はいつまで経っても改善されず、兵士の動員も遅れ気味で特に士官の不足は致命的な域でした。こうして、状況改善に非協力的な共和派にうんざりして嫌気の差したブルバキ将軍は、ガンベタに任地の変更を願い出ることとなります。ところが、軍の編成に心血を注ぐブルバキの真摯な態度は次第に頑固な共和主義者の態度を軟化させ、「この人は本気だ」と気付いた人々は協力を惜しまなくなりますが時既に遅く、幾度か拒否されても辞職願を繰り返すブルバキに押されたガンベタは遂に屈して将軍をロアール軍へ異動とします。ブルバキ将軍は11月18日(一説には16日)、北部4県に別れを告げてオルレアンへ去って行きました。
ブルバキの後任が決定し着任するまで、この北部軍の指揮は参謀長のファレ准将(10月末に昇進)に託されます。
ファレ
ジャン=ジョセフ・フレデリック・アルベール・ファレ准将はこの時54歳。19歳で軍工科学校に入り21歳で卒業(席次は107人中66番という平凡な成績でした)、そのままメッスの軍砲術工科大学へ進み23歳で晴れて工兵少尉として任官、パリ東の外堡ノジャン要塞勤務から軍歴をスタートさせました。27歳で大尉に昇進したファレは南仏リヨンの要塞勤務を経てアルジェリア植民地へ異動、灼熱の植民地で部族の反乱鎮圧などを経験し鍛えられます。続けてイタリア独立戦争に従軍、少佐に昇進しそのまま半島に残り教皇領で長らく工兵隊を率いました。その後仏本土に帰ったファレは、ル・アーヴル、トゥーロン要塞の工兵指揮官などを歴任、ローマに戻って52歳で大佐となります。普仏戦争が始まるとバゼーヌ軍配下となりメッス籠城に加わりますが降伏後に脱走、トゥールに至ると仏ノール県に派遣されて、創設期の北部軍を掌握すると10月末准将に昇進しブルバキ将軍の下で参謀長となるのです。
この総司令官不在の中、仏軍にとっては運の悪いことに東方から強力なマントイフェル軍が現れ、サン=カンタンを威嚇しつつラ・フェールを包囲し、オワーズ川を越えるとアミアンに迫ったのです。
アミアンの戦い 部落を行く仏軍
☆ 11月27日・普軍中翼/第15師団の戦闘
普第8軍団長アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン歩兵大将はマントイフェル将軍の命令に従い26日夜、翌27日の命令(前進目標地の指定)を麾下に下します。それによれば、普第15師団は1個旅団をアヴルとノワイエ両河川合流点のフアンカンからエストレ(=シュル=ノワイエ。フアンカンの南西7キロ)間に、1個旅団をサン=アン=アミエノワ(同西6.3キロ)とその周辺に、それぞれ宿営させるよう命じられ、普第16師団は宿営地の「北限」としてルミニー(アミエノワの西南西3キロ)からセル河畔のプラシー(=ビュイヨン。ルミニーの西4.5キロ)を指定され、「状況如何では」それをデュリー(アミアンの南南西5.9キロ)まで進めても構わない、とするのです。また、同師団には別に「左翼(西)支隊」を設けてセル上流エヴォワッソン川との合流点コンティ(プラシーの南西9.6キロ)方面を警戒するよう命じます。軍団砲兵隊はグラットパンシュとオレスモー(アミネノワから南南西へそれぞれ3.8キロと6.5キロ)を宿営地とするよう命令されました。
これを見てもマントイフェル将軍とゲーベン将軍は2日後の28日にアミアン総攻撃を目論み、前日の27日は警戒しつつ攻撃発起点まで前進するだけと考えており、この「アミアンの戦い」は正に遭遇戦だったことが分かります。
ゲーベン
アミアンの南方(アヴル河畔まで)でこの普第8軍団に対する仏軍は、ジョセフ・バルテルミー・グザヴィエ・デロジャ大佐率いる旅団が右翼(西)側、アルフォンス=テオドール・ルコアント准将の旅団が左翼(東)側に展開し、その右翼端はポン=ドゥ=メス(アミアンの西南西4.4キロ)付近にあり、ゴルティエ中佐率いる護国軍第47「ノール県」連隊の3個(第4、5、6)大隊がこの部落と街道に展開しています。正規軍の戦列歩兵第33連隊の第1大隊に、猟兵第1大隊、そしてデュフォーレ・デュ・ベッソル大佐旅団からの増援、海軍フュージリア兵の2個中隊がセル河畔からアミアン~ブルタイユ街道(現・国道D1001号線)までの間に展開し、この沿道のデュリー(アミアンの南南西5.9キロ)部落からサン=フュシアン部落の東郊外までにはフランシス・ガブリエル・ピティ中佐率いる戦列歩兵第24連隊(第1、2大隊)と猟兵第2大隊が展開、その東のボーヴ方面は護国軍第46「ノール県」連隊の3個(第1、2、3)大隊が守備していました。また、直前にアラスから行軍して来た12ポンド砲中隊はデュリー北の肩墻砲台に配置され、これは護国軍砲兵が操る4ポンド野砲によって増強されます。
アミアン市街自体にはポールズ・ディボイ少将率いる国民衛兵とソンム、マルヌとノール県の護国軍大隊4個が予備となって控えていました。
27日払暁時。前日に普第15師団の前衛となってリュス沿岸まで前進していた普第30旅団(普驃騎兵第7「ライン第1/国王」連隊第2,3中隊と師団砲兵の重砲第1,2中隊が付されています)諸隊は、命令を受けて南西方向に進むとアヴル川を渡河し、アイユ(フアンカンの南東3.2キロ)周辺で再集合しました。ここから普第28「ライン第2」連隊の第2、F大隊と驃騎兵1個中隊を前哨に指定してフアンカンへ先行させ、旅団本隊はドマルタン(フアンカンの南南西3キロ)の東側まで西進して一時待機に入ります。
フアンカンに進んだ普第28連隊(2個大隊)からは1個中隊が北方へ偵察に出ますが、この中隊はアヴルとノワイエ合流点を越えて北上した途端、ボーヴとサン=ニコラ(現・ボーヴのアヴル川右岸・東側市街)に潜む仏軍から激しい銃撃を受け、これに反応した普第28連隊は直ちに反撃を開始、ドマルタンから急行した重砲第1中隊の1個小隊(2門)はフアンカン南の高地上に砲を敷くと砲撃を開始します。このたった2門の砲は奮迅の戦い振りを見せ、次々に目標を捉えると仏軍の縦隊や散兵群を叩き、この周辺を防衛していたノール県の護国軍部隊が前進拠点としていたル・パラクレ(農家。フアンカンの西1キロ。現在は住宅地)を集中的に砲撃すると仏軍は堪らずにここを放棄し、北へ撤退します。
ここで空かさず普第68「ライン第6」連隊の第1大隊(この時は第2,3中隊のみ。第1中隊は輜重護衛、第4中隊は第28連隊第1大隊と行動を共にしています)が前進してル・パラクレを抑え、同連隊第11中隊はコトンシー(ドマルタンの北北西1.3キロ)付近のノワイエ川渡河点を確保するのでした。
アミアンの戦い 仏護国軍を襲う普軍兵士
この攻撃を指揮する普第30旅団長オットー・フォン・ストルブベルク少将は、アヴル川右(東)岸で戦う普第1軍団前衛の状況を心配したマントイフェル将軍がゲーベン将軍に「アヴルを越えてジャンテル方面の戦闘を支援せよ」と命じた、との話を聞き及ぶと午後1時、「旅団全力でボーヴとサン=ニコラを占領する」と決意します。ストルブベルク将軍は予備として後置していた第68連隊F大隊を右翼(東)に進め、同連隊第2大隊を左翼(西)に向けてル・パラクレの第1大隊2個中隊と合流させました。
モレイユへの街道(現・国道D935号線)脇に至った第68連隊F大隊は、フアンカンからアヴル川を越え右岸に至った普第28連隊の右翼(東)に進み出ましたが、ここでジャンテルの森(ジャンテルの東にある森。そのままの形で現存します)に潜んでいた仏ルアコント旅団兵からかなり激しい銃撃を浴びてしまいます。大隊はここでサン=ニコラへ向かうのを中止し、この森の仏軍と銃撃戦を始めました。
普第28連隊の2個(第2、F)大隊は、輜重縦列から離れノワイエ川を越えてフアンカンへ出て来た普第68連隊の第1中隊を加えると、ジャンテル方面に向いた同連隊F大隊に右翼側を護られる形で進み、鉄道堤に沿ってサン=ニコラへ突進しました。ここで既述の土製堡塁に構えた仏護国軍兵と激しい銃撃戦を繰り広げ、午後2時30分頃、銃撃が衰え始めたと感じた普軍は一斉突撃を敢行し、太鼓の連打に乗って部落内へ突入した普軍諸中隊は一気に部落を占領、逃走する護国軍兵を追撃して少々ロンゴー(アミアンの南東4.3キロ)方向へ前進しました。
ル・パルクレの普第68連隊諸隊は、アヴル右岸での戦いが普軍有利に進むと見ると前進を再開し、ボーヴとその西郊外にある城跡(現存します)に向かい、この時、左翼(西)側で戦う同僚第29旅団の右翼と接触して連絡を取るのでした。
ストルブベルク
普第29旅団(普驃騎兵第7連隊第1中隊と師団砲兵の軽砲第1,2中隊が付されています)諸隊は、同じく軍団命令を受けて同日払暁、モレイユ~エリー街道(現・国道D920号線)沿いに集合して前進を開始、午前中は仏軍を見ることなく北西へ進んで午後1時にサン=アン=アミエノワに達します。ここで第65「ライン第5」連隊の第1、2大隊と驃騎兵中隊をサン=フュシアン(アミエノワの北2.4キロ)へ先行させますが、この旅団に随行していた普第15師団長ルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー中将はアミエノワで普第30旅団からの戦闘報告を受け、東側からはそれを裏付ける激しい銃砲撃音が聞こえていたため、普第65連隊のF大隊にフュージリア第33「オストプロイセン」連隊の2個(第3,4)中隊をフアンカンの前線に増援として送ることを決めました。
クンマー
この半個連隊が去った直後、サン=フュシアンからボーヴに掛けての仏軍堡塁群から仏軍が出撃します。
仏軍縦列を発見したクンマー将軍は普フュージリア第33連隊の第2大隊に軽砲第1中隊を付けて迎撃に送り出し、大隊はル・カンボの家(ル・カンボ・フェルム。農家。アミエノワの北東2.4キロで現存します)に向け進撃しました。クンマー将軍は堡塁群を出た仏軍の多くがボーヴ方面へ進むのを見、またストルブベルク将軍がボーヴとサン=ニコラを抑えたとの情報を得ると、先にフアンカンに向かった諸隊にル・カンボの家に向かった諸隊も併せ、全てをボーヴ西側の城跡のある高地に進ませることに決し、未だアミエノワに留まる普フュージリア第33連隊の第3大隊と軽砲第2中隊も、この攻撃に参加させようと考えるのです。
先行していた軽砲第1中隊はボーヴの南西1.4キロを切った地点で砲列を敷くと砲撃を開始します。第7中隊を残置した普フュージリア第33連隊第2大隊の3個(第5,6,8)中隊は、この砲撃援護を受けて午後3時頃ボーヴの西側高地に向けて前進し、ボーヴの南西側の谷(ヴァレ・デゼール。現・国道D167号線沿い)には第65連隊F大隊とフュージリア第33連隊第3,4中隊が入って同じく城跡の高地を目指しました。この右翼(東)外には前述通り普第30旅団の第68連隊諸中隊がほぼ同時に城跡目指して進みます。
こうして普軍歩兵合わせて1個連隊強(14個中隊)の一斉前進により包囲の危険を感じた仏軍は、行軍列や散兵線を正確に叩き続ける普軍砲兵2個中隊の猛砲撃にも苦しんだ揚げ句、およそ400名の死傷者を残しほぼ壊乱状態でアミアンへ撤退して行くのでした。
ボーヴを占領した普軍の一部は潰走状態となってカニー(ボーヴの北西3.8キロ)へ逃走する仏軍を追撃し、ボーヴの陥落後アヴル右岸に渡った普フュージリア第33連隊第3大隊はロンゴー郊外まで敵を追ったのでした。
仏軍では後退援護のためカニーやロンゴー付近にあった複数の砲兵中隊が砲撃を始めましたが、これは普軍砲兵が対抗砲撃を始めたため直ちに砲撃を中止し後退しました。またカニーから前進した仏軍予備部隊もこの砲撃によって前進を止められ、退却に転じています。
ここで夕刻を迎えた普軍諸隊は追撃を中止して後退し、普第30旅団はボーヴとフアンカンで、普第29旅団はアミエノワでそれぞれ宿営に入り、未だ仏軍が潜むアミアン南方の堡塁群を警戒し不寝番の前哨を配置するのでした。
☆ 11月27日・普軍左翼/第16師団の戦闘
アルベルト・クリストフ・ゴットリープ・フォン・バルネコウ中将率いる普第16師団はマントイフェル将軍の命令に従い、同日黎明時からルミニーとエベクール(ルミニーの北西1.5キロ)を目指して前進を開始します。
バルネコウ
師団の前衛となった普第32旅団は、仏軍に遭遇せず右翼(東)側部隊がルミニーに到着、ここから普フュージリア第40「ホーフェンツォレルン」連隊第1大隊と第2大隊の1個中隊が、斥候によって仏軍が存在すると判明したエベクールに向かいました。
同旅団の左翼(西)側部隊の先鋒は、この南側のサン=ソッフリュー(エベクールの南2.8キロ)を襲って仏軍の前哨部隊を駆逐し、普第70「ライン第8」連隊第1大隊はこのアミアン~ブルタイユ街道上を北上してエベクールに向かいました。この南と東から挟撃されたエベクールの仏猟兵第2大隊は部落北方の森(部落北1.3キロ付近に現存します)へ急速後退し難を避けましたが、部落西側へ出た仏軍1個中隊は南から急進して来た普驃騎兵第9連隊の2個中隊に襲撃されて逃げ場を失い、その殆ど(およそ200名)が死傷するに及んだのです。
エベクールの教会へ突撃する普第70連隊F大隊(カール・レヒリング画)
※11月27日の普第32旅団行軍序列
*右翼縦隊
○フュージリア第40連隊(第1中隊欠/輜重護衛)
○野戦砲兵第8「ライン」連隊・軽砲第5中隊
○第8軍団野戦工兵・第1中隊
*左翼縦隊
○第70連隊・第1、F大隊
○驃騎兵第9「ライン第2」連隊・第1,4中隊
○野戦砲兵第8連隊・重砲第5中隊
*左翼警戒支隊
○第70連隊・第2大隊
○驃騎兵第9連隊・第3中隊
※左翼警戒支隊は命令通りにコンティへ派遣され、その一部はセル川を越えて西へ進んでリュメニル(エベクールの西8.8キロ)付近でアミアン~ルーアン鉄道を破壊しています。
エベクールを占領した諸大隊とその右翼で戦う普フュージリア第40連隊の第5中隊は、ルミニーの北西方に砲列を敷いた軽砲第5中隊の援護射撃を受け、午前11時頃にエベクール北方の林に向かって前進を再開しました。森に潜んでいた仏戦列歩兵第24連隊の1個大隊は当初激しい抵抗を示しましたが、森の西側から第70連隊の2個(第10,11)中隊が進み出て包囲されそうになると後退を始め、やがてそれは潰走となりデュリー並びにセル河畔へ去って行きました。
直後に普第32旅団はエベクール「北森」の北辺部に集合すると、前線で攻勢を観戦していた軍団長フォン・ゲーベン将軍は「このままアミアンへ前進せよ」と命じ、諸隊は正午から午後1時に掛けて順次北上を開始しました。
この時の右翼(東)側は普フュージリア第40連隊、驃騎兵第9連隊の2個中隊そして工兵中隊で、アミアン~ブルタイユ街道の東側を行き、左翼(西)側では街道上とその西を第70連隊の2個大隊と砲兵2個中隊が行軍しました。
行軍列それぞれの先鋒諸隊は仏軍が逃げ込んだデュリー北方の墓地(部落北方1.3キロ。現存します)とその北で東西に延びる堡塁群から盛んに銃撃を浴びますが、これに対して後方から駆け付けた普第16師団砲兵残りの2個(軽・重砲第6)中隊を併せた野戦砲兵4個中隊は順次デュリーの東側に展開して砲列を敷き、歩兵の援護射撃を始めます。この砲火は墓地の仏軍に動揺を呼び、ここに普軍先鋒の第70連隊第12中隊が突撃を敢行したため墓地の仏軍はたちまち後方の堡塁群まで撤退したのです。
すると味方が去ったことを知った堡塁群の仏砲兵は、普軍砲兵に対して砲撃戦を挑み、これには砲声を聞いて前進した普第8軍団砲兵の騎砲兵2個中隊も加わり、砲戦は夜陰によって目標が定められなくなるまで続きました。
デュリー北方墓地に進んだ普軍歩兵も堡塁群から激しい銃撃を断続的に浴びたため、ゲーベン将軍はこの日のアミアン突入を諦めて午後4時に歩兵の戦闘を終了させ、最前線には前哨を残すと旅団残りの本隊はデュリー南郊外まで下がって野営に入ったのです。
一方、普第31旅団はこの戦闘の間、後方予備となって戦闘の進展に従いエベクールへ前進しました。旅団長のブルノ・ナイトハルト・フォン・グナイゼナウ少将は、ここから第69「ライン第7」連隊第1大隊を左翼(西)支隊に指定しセル沿岸へ送り出し、第29「ライン第3」連隊の2個(第1,4)中隊をサン=ソッフリューから同じく西のセル沿岸に出しました。
エベクールからセル川に達した第69連隊第1大隊は川に沿って北上し、途中、仏軍の前哨隊や東から後退して来た仏敗残兵を駆逐しつつ夕刻までにサルエル(デュリーの北西3.2キロ)に達し、ここで警戒しつつ宿野営に入ります。
旅団本隊の方は、前線での戦闘が終了したとの連絡を受けるとエベクールと周辺の農家に宿営を求め、セル河畔に派遣されていた第29連隊の2個中隊は、ヴェール=エベクール(現・ヴェール=シュル=セル。デュリーの西南西2.7キロ)に進むとサルエルまで進んでいた友軍大隊と連絡を付けるのでした。
☆ 27日夜間~12月1日
戦場が夜陰に沈み砲声も途切れると、ドマール(=シュル=ラ=リュス)の西側高地で観戦していたフォン・マントイフェル将軍は、独第一軍本営を率いてモレイユに至り、この地で各方面からの報告を受け今後の検討に入りました。
その結果、ゲーベン将軍の普第8軍団前面にある堡塁群には相当数の仏軍が居残っており、この日最後の銃砲撃戦を見てもその抵抗力は侮れないものがあったため、マントイフェル将軍と参謀・幕僚たちは翌日のアミアン総攻撃に際し、「戦線が横に延び過ぎているため、第1と第8軍団の戦線を整理して短縮し、両軍団が密接に連携しアミアンを攻撃する状況を作る」ことが重要との認識で一致しました。
同時に、第1軍団で未だ後方にある諸隊を至急前線に招聘することが必要とも考え、ちょうどこの日の戦闘中にラ・フェール要塞の陥落が報告されたこともあって、普第4旅団の野戦戦力を可及的速やかに戦場へ送ることが決定されました。
こうしてマントイフェル将軍がラ・フェールへ伝令を送った直後、深夜に至って仏軍がヴィレ=ブルトヌーから撤退したことが報告されたのです。
ラ・フェール要塞の陥落を知るマントイフェル将軍
この夜、アヴル川がソンム川と合流するカニーとロンゴー周辺では、ボーヴとサン=ニコラから退いたルコアント旅団の諸隊が普軍に探知されないよう少しずつアミアンへ撤退を始めていました。既にヴィレ=ブルトヌーが落とされ、フアンカンとその西側からは普軍が続々とボーヴとサン=ニコラに集合しているものと思われていたため、ルコアント准将は包囲される前にアミアンへ後退することに決したのです。
28日払暁時。普軍は各地から斥候を繰り出し仏軍の前線を確認しました。すると、前線では仏軍の姿が全く見られず、アミアン東西のソンム川各橋梁は全て破壊されて落とされているのが発見されます。また、複数の斥候は「ソンム川の北方を敵の行軍列が北に向かって進んでいるのを望見した」と報告しました。
報告を受けたマントイフェル将軍は、マルセルカーヴ周辺で宿野営を行っていた普騎兵第3師団に対し、「ソンム川を越えて前進せよ」と命じ、第1軍団長代理のベントハイム将軍には、「騎兵師団に軍団全ての架橋資材と人員を貸与せよ」と命じました。
仏軍がアミアンを放棄した可能性が高いと知ったゲーベン将軍は、諸報告を詳細に吟味した後の正午、普第32旅団を直率して堡塁群を越え、全く抵抗されることなくアミアン市に入城しました。
一晩遡って27日の夕刻。仏「北部軍」代理指揮官のファレ将軍はソンム河畔のコルビ(ヴィレ=ブルトヌーの北4.5キロ)でデュフォーレ・デュ・ベッソル大佐の旅団兵が続々と後退して来るのを見守っていました。
普マントイフェル軍の激しい攻撃を受けた兵士の中には脱走を試みる者が続出しており、すっかり戦意を失ったように見える将兵を前にして、それでもファレ将軍はこのコルビの渡河点を死守し、普軍の北上を阻止しようと考えるのです。
しかし夜に入ってアミアンに退いた諸団隊指揮官が、何とファレ参謀長抜きで協議して「護国軍守備隊が籠る『シタデル』(市北部の稜堡式城塞)を後衛として、全部隊手遅れになる前に即刻アラスやアブビルへ後退する」との決議がなされた、と知ってファレ将軍もコルビでの抵抗を諦めました。「代理指揮官」のファレ将軍は工兵畑一筋で、野戦では経験が格段に上のルコアント准将やデロジャ大佐、デュフォーレ・デュ・ベッソル大佐らを抑えることが出来なかったものと思われます。
これによって仏軍左翼(東側)ばかりでなくアヴル川以西の堡塁群を楯にしていた右翼側部隊も深夜から翌朝に掛けて順次アミアン市内へ撤退し、更にソンム川を越えて北方へ去って行ったのでした。
アミアン「シタデル」の出撃門
12月27日の「アミアンの戦い」(仏軍呼称は「ヴィレ=ブルトヌーの戦い」)で仏「北部軍」は死傷1,383名、捕虜(一部逃亡を含む)約1,000名を被り、普軍は死傷1,292名、捕虜22名を出しました。
※アミアンの戦い(11月27日)における普軍の損害
○普第1軍団
戦死/士官9名・下士官兵131名・馬匹48頭
負傷/士官36名・下士官兵640名・馬匹55頭
行方不明(捕虜)/士官1名・下士官兵19名
○普第8軍団
戦死/士官10名・下士官兵80名・馬匹78頭
負傷/士官20名・下士官兵234名・馬匹67頭
行方不明(捕虜)/下士官兵2名・馬匹1頭
○総計
士官76名・下士官兵1,216名・馬匹458頭
普第8軍団のアミアン入城
仏軍に見捨てられた形のアミアン市内では、護国軍の新兵たちの多くが武器を棄てて一斉に逃走し、住民たちは家に引き籠って息をひそめていました。
正午になって遂に普軍が市内に入って来ると真っ先に「城塞」へ白旗の使者が送られ、籠る護国軍部隊に対し降伏勧告が行われます。しかし城塞指揮官のジャン=フランシス・ヴォジェル少佐はこれを言下に拒みます。
当時この城塞には500名の護国軍将兵と砲門に据えられた22門の大砲がありましたが、既に50名が敵前逃亡していました。
ゲーベン将軍は期限を29日の朝に定め、「それまでに降伏しなければ攻撃する」と伝えます。翌朝となっても城塞に白旗が見えず、ゲーベン将軍は城塞を囲んだ普フュージリア第40連隊の5個(第1,3,9,11,12)中隊に射撃を命じます。これに応じた仏守備隊との間に一時激しい銃撃戦が繰り広げられますが、結局この日は白旗が揚がる事はありませんでした。業を煮やしたゲーベン将軍は、既に28日の夕刻に命じていた手元にある軍団所属砲兵11個中隊のソンム北岸への渡河(橋梁は全て破壊されており、架橋資材の不足で大砲が渡れる仮橋も架けられていませんでした)を厳命し、30日払暁時には「シタデルを完膚なきまでに叩く」砲撃を開始するよう強く命じます。
ところがこの時、仏側指揮官のヴォジェル少佐は既に戦死していました。29日の朝、銃撃戦の陣頭指揮を執った少佐はドライゼ銃弾を浴びて致命傷を負い、その日の内に息を引き取っていたのでした。
ヴォジェル少佐に代わった次席指揮官のヴォアライユ少佐は現実的で、翌30日の早朝、普軍砲兵が未だ砲撃準備を行っている内に白旗を掲げます。降伏交渉は素早く開始され午前10時に交渉はまとまり、翌12月1日、アミアンの「シタデル」は降伏します。
ゲーベン将軍は約400名の捕虜と各種砲30門、そして多くの要塞装備品を鹵獲しますが、安置されていたヴォジェル少佐の遺体に敬礼し、栄誉礼を以て丁重に葬るよう命じたのでした。
撃たれたヴォジェル少佐
☆ 1870年11月27日におけるアミアン周辺に集合した仏「北部軍」主力戦闘序列
司令官 ※後任着任まで参謀長が代行
参謀長 ジャン=ジョセフ・フレデリック・アルベール・ファレ准将
砲兵部長 シャロン中佐
工兵部長 コッスロン・ドゥ・ヴァルノワジ大佐
◇第1旅団 アルフォンス=テオドール・ルコアント准将(前・近衛擲弾兵第2連隊長)
○猟兵第2大隊 ジョヴァネリ少佐
○戦列歩兵第75連隊・第2大隊 バプティスト・トラモン少佐
○戦列歩兵第65連隊・第1大隊 エンドラン少佐
○戦列歩兵第91連隊・第1大隊 シャルル・ポール・ドゥ・ギスラン・ドゥ・ボンタン中佐
○護国軍第46「ノール県」連隊・第1、2、3大隊 サン=マルタン中佐
○野戦砲兵・2個中隊(12門)
◇第2旅団 ジョセフ・バルテルミー・グザヴィエ・デロジャ大佐
○猟兵第1大隊 ジャン少佐
○戦列歩兵第24連隊・第1、2大隊 フランシス・ガブリエル・ピティ中佐
○戦列歩兵第33連隊・第1大隊
○護国軍第47「ノール県」連隊・第4、5、6大隊 ゴルティエ中佐
○野戦砲兵・2個中隊(12門)
◇第3旅団 ジョセフ・アルチュール・デュフォーレ・デュ・ベッソル大佐(前・近衛猟兵大隊長)
○猟兵第20大隊 ヘックキット少佐
○戦列歩兵第43連隊・第1大隊 (不詳)
○海軍フュージリア兵・第1大隊 (不詳)
○護国軍第48「ノール県」連隊・第7、8、9大隊 デュアメル中佐
○野戦砲兵・4個中隊(24門)
◇本営直轄
○憲兵(騎兵)2個中隊
○マルシェ竜騎兵2個中隊
○工兵2個中隊
○輜重縦列1個
○義勇兵若干中隊
◇仏北部4県の臨時護国軍集団 ポールズ・ディボイ少将
○4個大隊
○アミアン市と周辺の国民衛兵




