アミアンの戦い(前)
☆ 11月27日・普軍右翼の戦闘(ヴィレ=ブルトヌーの戦い)
フォン・マントイフェル騎兵大将の代理として普第1軍団(第4旅団欠)の指揮を執る普第1師団長、フォン・ベントハイム中将は11月26日の夕刻、マントイフェル将軍の命令に基づいて、「普騎兵第3師団の増援となってカイユー(=アン=サンテール。モレイユの北東10キロ)に進んだ我が第1軍団前衛(第3旅団)は騎兵師団と別れ、リュス沿岸まで前進する本隊援護のため明27日、警戒しつつリュス川を越えてマルセルカーヴ(カイユーの北北西3.7キロ)とジャンテル(同西北西10.5キロ)間に布陣せよ」と命じました。
※11月27日の普第1軍団行軍/戦闘区分
前線にあるもの/歩兵12個大隊半・騎兵3個中隊・砲兵12個中隊・工兵2個中隊
◎前衛(普第3旅団主幹)
指揮官 グスタフ・カール・ルートヴィヒ・レオポルト・フォン・プリッツェルヴィッツ少将(普第2師団長)
◇前哨支隊
○擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊・第2、フュージリア(F)大隊
○竜騎兵第10「オストプロイセン」連隊・第2,3中隊
○野砲兵第1「オストプロイセン」連隊・軽砲第5中隊
◇本隊
○擲弾兵第4連隊・第1大隊
○第44「オストプロイセン第7」連隊
○竜騎兵第10連隊・第1中隊
○野砲兵第1連隊・重砲第5、軽砲第6中隊
○第1軍団野戦工兵・第1中隊
◎軍団本隊(普第1旅団及び第1師団砲兵隊の主力と第1軍団砲兵隊)
指揮官 ゲオルグ・フェルディナント・フォン・ベントハイム中将
◇第1梯団
○擲弾兵第1「オストプロイセン第1/皇太子」連隊
○猟兵第1「オストプロイセン」大隊・第3,4中隊
○野砲兵第1連隊・重砲第1,2中隊
○第1軍団砲兵隊
*野戦砲兵第1連隊・騎砲兵大隊
・騎砲兵第2,3中隊
*野戦砲兵第1連隊・第2大隊
・重砲第3,4、軽砲第3,4中隊
○第1軍団野戦工兵・第3中隊
◇第2梯団
○擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊・第1大隊
○第41「オストプロイセン第5」連隊・第1、F大隊
○野砲兵第1連隊・軽砲第2中隊
◎オアーズ沿岸(ノアイヨン方面)から行軍中の諸隊(普第2旅団主幹)
指揮官 男爵ルドルフ・ゴットフェルト・ヴィルヘルム・ルイス・カール・エルンスト・フォン・ファルケンシュタイン少将(普第2旅団長)
※2個梯団となって27日先頭がロワへ到着予定。歩兵6個大隊半・騎兵4個中隊・砲兵1個中隊・工兵1個中隊
○第43「オストプロイセン第6」連隊
○擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊・第2、F大隊
○第41連隊・第2大隊
○猟兵第1大隊・第1,2中隊
○竜騎兵第1「リッタウエン/アルブレヒト親王」連隊
○野砲兵第1連隊・軽砲第1中隊
○第1軍団野戦工兵・第2中隊
※竜騎兵第10連隊・第4中隊と野砲兵第1連隊・重砲第6中隊は普第4旅団に同行(ラ・フェール攻囲部隊)
ベントハイム
普第1軍団前衛の竜騎兵斥候は27日の早朝、リュス川を越えて北方を偵察し、ジャンテル及びカシー(ジャンテルの東北東2キロ)の近郊に仏軍の大きな部隊を発見し報告を上げます。
26日の夕刻までに、デミャン(カイユーの西4.5キロ)からロワ~アミアン街道(現・国道D934号線)沿いのウルジュ(農家群。デミャンから西へ2.8キロ)の間(現・カステル通りの線)まで前進していた普第3旅団の前哨支隊は、歩兵2個(擲弾兵第4連隊第7,8)中隊をデミャンの街道橋(現・国道D23号線の橋)守備に残すとリュス川を渡河してアンガール(デミャンの西北西1.8キロ)付近に再集合し、ウルジュにいた歩兵2個(擲弾兵第4連隊第9,11)中隊は先行してドマール(=シュル=ラ=リュス。アンガールからは西へ2.1キロ)の街道橋(現・国道D934号線の橋)を抑えました。この周辺に昨日までいた普第8軍団の前哨は親部隊を追って既にアヴル沿岸に達し、ノワイエ川をも越えようと西進していたのです(普第28連隊の第9中隊と同第68連隊の第7中隊)。
前衛の本隊は午前10時、早朝よりの濃霧が晴れ始めた頃にリュス川まで到着し、これを率いるフォン・プリッツェルヴィッツ少将はベントハイム将軍の命令を遂行するためドマールに集合した諸中隊に対し「本隊の擲弾兵第4連隊第1大隊及び竜騎兵第10連隊第1中隊、そして砲兵1個中隊の前進を支援し、共にドマールの森(ボワ・ドゥ・ドマール。ドマールの北北西1.6キロ付近。半分ほど現存します)とその西側高地を占領せよ」と命じ、他の諸隊に対しては「カシーに向けて前進せよ」と命じるのでした。
これによって普第3旅団とその付属部隊は3つの縦隊となります。
◇右翼(東)縦隊
○擲弾兵第4連隊・第7,8中隊
○竜騎兵第10連隊・第3中隊
※この縦隊の後方やや離れて続行
○歩兵第44連隊
○野戦砲兵第1連隊・軽砲第6中隊
◇中央縦隊
○擲弾兵第4連隊・第5,6,10,12中隊
○竜騎兵第10連隊・第2中隊
○野戦砲兵第1連隊・軽砲第5中隊
○第1軍団野戦工兵・第1中隊の一部
◇左翼(西)縦隊
○擲弾兵第4連隊・第1,2,3,4,9,11中隊
○竜騎兵第10連隊・第1中隊
○野戦砲兵第1連隊・重砲第5中隊
一方、このアミアン東方でソンム川の南方・リュス川北方方面を護っていた仏軍はジョセフ・アルチュール・デュフォーレ・デュ・ベッソル大佐が率いる5,000名前後(猟兵1個、戦列歩兵1個、海軍フュージリア兵各1個大隊にノール県の護国軍3個大隊から成る1個連隊)に、アルフォンス=テオドール・ルコアント准将率いる約6,000名(戦列歩兵3個大隊からなる混成1個連隊とノール県の護国軍3個大隊から成る1個連隊と猟兵1個大隊)の左翼(東)側部隊(戦列歩兵2、3個大隊、2,000名前後)でした。
デュフォーレ・デュ・ベッソル旅団はソンム川の要衝コルビの南、直線に東西へ延びるサン=カンタン~アミアン街道(現・国道D1029号線)上のヴィレ=ブルトヌー(デミャンの北5.5キロ)に主力が展開し、その一部がジャンテルにいました。また、ルコアント准将の旅団はアミアン南部の防衛線を担当していましたが、その左翼支隊はジャンテルとカシーの北に派出されベッソル旅団の右翼を増強する形に展開していたのです。
ちなみにルコアント准将とデュフォーレ・デュ・ベッソル大佐は共に仏近衛軍団に所属していたエリート現役士官(ルコアントは仏近衛擲弾兵第2連隊長大佐、ベッソルは近衛猟兵大隊長少佐でした)で、二人ともメッス降伏の際に不戦宣誓を拒絶し捕虜となりましたが脱走に成功し、包囲前のパリに至って国防政府に出頭、それぞれが昇進すると北仏ピカルディに送られていました。率いた正規軍歩兵も要塞や要地守備として後方にあり前線に出ていなかった戦列歩兵にセダンやメッスから脱出し捕虜を免れた将兵を加えた部隊で、十分な練成が行われていなかったとはいえ、数だけは多い護国軍兵よりあてに出来る兵士たちでした。
デュフォーレ・デュ・ベッソル
さて、普軍の左翼縦隊は、先頭を行く擲弾兵の第9,11中隊が敵からの抵抗を受けることなくドマールの森北縁まで前進しましたが、ここでジャンテルに布陣していたベッソル旅団の右翼部隊である仏猟兵第20大隊から猛銃火を受け、森の中で足止めされてしまいます。これに対し歩兵と共に前進した普軍重砲第5中隊は、森林内の空き地に砲列を敷いて仏猟兵に榴弾を浴びせ始め、更にジャンテル部落の西側に同擲弾兵連隊の第1大隊が突進したことで仏猟兵は部落の陣地を棄ててカシーまで後退して行きました。
仏軍の後退を見た普軍擲弾兵の第9,11中隊は、ジャンテル部落の北東角まで突進してここを占拠し、友軍歩兵を追って陣地を転換した重砲第5中隊と共にカシーの西側に散兵線を敷いた仏軍(ルコアント旅団の一部)と銃砲撃戦を始めるのです。この間、普軍前衛の竜騎兵はアミアンへの街道(現・国道D934号線)沿いを捜索し、ジャンテルの南西郊外に集合した擲弾兵の第1大隊はカシー南のフレーの林(ボワ・ドゥ・フレー。かつてドマール森の600mほど北にあった林。現存しません)へ1個(第2)中隊を送って、右翼(東)側を北上する中央縦隊と連絡を取ったのです。
その中央縦隊では、先鋒となった擲弾兵第4連隊第10中隊がアンガールから出撃して、北郊外に潜んでいた仏ベッソル旅団前哨を駆逐しつつアンガールの森(ボワ・ドゥ・アンガール。アンガールの北1.7キロ東西に二分し広がる森)西側北西角まで進み、同時に左翼ジャンテル方面の戦闘援助のため同連隊第12中隊と軽砲第5中隊がジャンテル目指して前進しました。
ところが、この歩砲兵各1個中隊がフレーの林に差し掛かった時、カシーから仏ルコアント旅団兵が散兵突撃を決行して迫り、林の第2中隊とこの歩砲兵両中隊が応戦すると仏軍散兵は開墾地に展開し、これはそのまま長時間に渡る銃撃戦に発展します。
ここで仏軍は粘り強く何度も突撃を敢行しますがその都度林の普軍は激しい銃撃によってこれを撃退し、更にアンガールから同連隊第6中隊が増援として進み出、軽砲第5中隊がアンガールの森の西500mに肉薄して砲列を敷き、至近距離から榴散弾射撃を行ったことによって遂に仏軍はフレーの林北側から撤退するのです。この時、アンガールの森は同連隊第5中隊と工兵によって守備され、竜騎兵中隊は両側友軍縦列との連絡を通し続けたのでした。
アンガールの森の普軍を襲う仏軍
右翼縦列では、その先頭を行く擲弾兵2個(第7,8)中隊が一時デミャンからヴィレ=ブルトヌーへの街道(現・国道D23号線)を横切る丘陵(アンガールの森東側)の上に留まり、後方東側を行軍して来る普第44連隊が接近するのを待ちました。その後正午に至って前進を再開した両中隊が、アンガールの森と街道の東側に広がるモルジュモンの森(ボワ・ドゥ・モルジュモン。現在もアンガールの森東側にあります)の間を進むと、途端にヴィレ=ブルトヌーの南郊外にあった目立つ堆土付近(現在の国道D23号線とD136号線との合流点付近)に展開する仏ベッソル旅団の強力な散兵線から激しい銃火を浴びてしまいました。両中隊は損害が拡大する前にアンガールの森へ逃れます。
その右翼後方から接近した普第44連隊の前衛は、「堆土陣地」の東側、マルセルカーヴからカシーに至る街道(D23号線の東側は現・国道D136号線。D23号線から西は現在廃されてありません)の脇、特にヴィレ=ブルトヌー南方を走る鉄道の堤付近に築造されていた堡塁群周辺に強力な仏軍(ベッソル旅団本隊)が展開しているのを望見しました。
前線で指揮を執るプリッツェルヴィッツ将軍は、この連隊がカシーへ進むのを中止させ、見敵必戦とばかりにヴィレ=ブルトヌー方面へ直進するように命じます。第1旅団長代理となっているフォン・ベッキング大佐に代わって第44連隊の指揮を執るハンス・テオドール・レオポルト・ダルマー少佐は、第2大隊に対しモルジュモンの森東側を一気に鉄道堤まで前進するように命じ、仏軍の左翼(東)側を包囲しようと図ります。この時大隊は二手に分かれ、2個中隊が正面で敵を引き付ける間、2個中隊が敵陣地の東側から攻撃を開始し、この銃撃戦はやがて連隊本隊(第1、F大隊)の内半数の4個中隊が参戦することで西へ広がり、モルジュモンの森までが行き交う火線に包まれたのです。この時同連隊に同行していた第1軍団の軽砲第6中隊は、モルジュモンの森縁に砲列を敷き、ヴィレ=ブルトヌーの「堆土陣地」に砲を敷く仏ベッソル旅団砲兵(4ポンド野砲2個中隊)と砲撃戦を繰り広げました。
※モルジュモンの森東側で戦う普第44連隊の散兵線
*モルジュモンの森東縁から東へ(左翼(西)から右翼の順で)
・第4中隊・第3中隊・第11中隊・第9中隊・第7中隊・第6中隊
*少し東へ離れ ・第5中隊・第8中隊
*モルジュモンの森北東角(予備待機)・第1中隊・第2中隊
*モルジュモンの森南東角(予備待機)・第10中隊・第12中隊
普第44連隊の前線
少時後、砲撃の効果が現れ始めたと考えたダルマー少佐は部下を仏軍の鉄道堤堡塁左翼に向けて突進させ、その距離250mを切った所まで肉薄しました。ここで一斉射撃を行った連隊諸中隊は直後、一斉に喊声を張り上げて三方から仏軍堡塁と散兵壕に対し猛烈な突撃を敢行し、短時間の凄惨な白兵戦の後、押された仏ベッソル旅団兵は遂に退却を始め、普軍将兵は背走する仏兵を狙撃しつつ暫くの間追撃を行ったのでした。
しかしダルマー少佐はヴィレ=ブルトヌーに自軍の数倍する敵がいることに気付いており、深追いはせずに追撃を中止させ、急ぎ堡塁と散兵壕の防御を反対側へ向けるための工事を始め、この間歩兵に追い付いた普軽砲第6中隊は第44連隊の右翼東端に砲を並べたのでした。
こうして27日正午から午後1時頃に掛けて、普第1軍団の前衛諸隊はヴィレ=ブルトヌー南東面の堡塁からジャンテルに至るまでおよそ5キロに渡る前線を形成し、仏軍が失地を回復するべく準備を成す中、急ぎ防御態勢を整えたのです。
※27日午後1時頃の普第1軍団前衛による「前線」
右翼から左翼へ
*ヴィレ=ブルトヌーの南東・鉄道堤に沿った堡塁群東側
○野戦砲兵第1連隊・軽砲第6中隊
*その堡塁群内
○第44連隊・第3,5,6,7,8,9,11中隊
*その堡塁群西側
○第44連隊・第4中隊
*マルセルカーヴの南郊外
○竜騎兵第10連隊・第2,3中隊
*モルジュモンの森東側で砲兵援護として待機
○第44連隊・第10,12中隊
*モルジュモンの森内部
○第44連隊・第1,2中隊
*アンガールの森内部
○擲弾兵第4連隊・第5,7,8中隊と第10中隊の1個小隊
○第1軍団野戦工兵・第1中隊の一部
*アンガールの森西側
○野戦砲兵第1連隊・軽砲第5中隊
*カシーの南方
○擲弾兵第4連隊・第6,12中隊と第10中隊の2個小隊
*フレーの林内部
○擲弾兵第4連隊・第2中隊と第9中隊の1個小隊
*ジャンテル部落内
○擲弾兵第4連隊・第11中隊と第9中隊の2個小隊
*ジャンテル付近で予備待機
○擲弾兵第4連隊・第1,3,4中隊
○竜騎兵第10連隊・第1中隊
○野戦砲兵第1連隊・重砲第5中隊
独第一軍司令官フォン・マントイフェル騎兵大将は早朝より前線へ騎行し、最初はタンヌ(ドマールの南西1.5キロ)南方の高地上で、後にジャンテルの南郊外まで前進して観戦していましたが、このジャンテルとアヴル・ノワイエ両川岸のフアンカンまでの間に普軍が一切存在しなくなった(普第8軍団が西へ動いたため)のが気になり始め、ル・プレシエ(=ロザンヴィエ。モレイユの南東5.6キロ)から行軍中の第28「ライン第2」連隊第1大隊(前日に軍本営の護衛となっていました。輜重護衛だった普第68連隊第4中隊も同道しています)に伝令を送り、「アヴル川沿いに急ぎ行軍しフアンカンに至れ」と命じます。ここにいつ仏軍の大部隊が現れてもおかしくないと感じた将軍は、既に正午には全ての部隊がアヴル川を渡河して西へ進んでいた普第8軍団に対する「一部をフアンカン経由でアヴル右岸へ呼び戻し、普第1軍団の戦闘へ関与せよ」との命令を伝令士官に預けると、自身の護衛に就いていた普驃騎兵第7「ライン第1」連隊の第4中隊までもロワ及びモンディディエへ通じる両街道(現・国道D934号線とD935号線)へ走らせ監視させるのでした。
前線で孤軍奮闘する普第1軍団前衛の後方では、本隊の第1梯団がリュス河畔に達し、宿営地を定めた後に急ぎ前衛支援のための前進準備に入っていました。
これを直率したベントハイム将軍は、午後1時から2時の間に「遂に仏軍が前衛の前線へ襲い掛った」との知らせを受けると、リュス川の渡河点には少数の守備隊のみ残留させ、残りの諸隊全てがリュス川北の高地上まで進むよう手筈を整えるのでした。
一方、擲弾兵第4連隊の第7,8中隊は、アンガールの森より幾度も出撃を試みますが、その都度カシーから迎撃に出る仏ルコアント旅団に阻止され続けていました。第1軍団砲兵部長のリヒャルト・エミール・フォン・ベルグマン少将は午後2時、先遣した重砲第1中隊を最初はドマールの森とアンガールの森との間に送って援護射撃を行わせ、その後この砲兵はアンガールの森北西角に陣地転換して砲撃を続けます。この砲撃は効果的に仏軍の逆襲を防ぎましたが、その間先の擲弾兵2個中隊は敵の攻撃により損害が増大し、遂にデミャンの北西側高地斜面まで後退し、ここに進んで来た普第1軍団本隊の第1梯団に収容されたのでした。この時両中隊ではたった1名の少壮少尉を残し全ての士官が負傷するか戦死してしまっていたのです。
この頃、本隊第1梯団・擲弾兵第1「オストプロイセン第1/皇太子」連隊第1中隊の先鋒小隊は同行していた軍団砲兵隊の砲前車や空の弾薬馬車等を利用して部隊に先行し一気にリュス河畔まで進み、河畔で下車した彼らは渡河後に北方へ突進すると、ちょうどアンガールの森に侵入を始めていた仏軍散兵群の左翼(東)と衝突する形となります。その僅か後に駆け付けた同連隊の3個(第7,10,12)中隊が仏軍の正面南側から攻撃すると、普軍を森から追い出した後でいきなり反撃を食う形となった仏軍は慌てて後退し、普軍はこれを追撃してヴィレ=ブルトヌー南郊の「堆土陣地」に接近しました。普擲弾兵第1連隊の諸中隊はここで堆土を遮蔽に散兵線を敷く仏ベッソル旅団の将兵と銃撃戦に入ったのです。
前線へ急ぐ普軍砲兵
一方の仏ベッソル大佐はこの間、自軍最左翼(東)で失った鉄道堤の堡塁を奪い返すため、何度も攻撃隊を差し向けましたが普軍はその都度激しい銃撃を浴びせて撃退しました。この攻撃阻止はまたモルジュモンの森東方まで進出し砲列を敷いたマクシミリアン・ハインリヒ・ユンゲ大佐率いる普第1軍団砲兵隊4個(騎砲兵第2,3、軽砲第3,4)中隊による援護射撃が大いにものを言った結果でした。この内軽砲2個中隊は少し後にモルジュモンの森北側へ陣地転換し、ヴィレ=ブルトヌーの仏軍に対して砲撃を繰り返しますが、休まず繰り出す仏ベッソル旅団の攻撃で銃弾を浴び続けたため短時間で砲撃を切り上げ、再び森の東側まで後退しました。この仏軍の前進に対しては後方から前線に到着した新たな普軍砲兵3個(重砲第2,3,4)中隊が森縁に砲を敷いて砲撃を開始し撃退しています。
この仏ベッソル旅団の攻撃隊がモルジュモンの森北方から後退した後、普軍の軽砲第4、重砲第4両中隊は再び森の北方砲兵拠点へ進出し、最外右翼の軽砲第6中隊と、戦場東側のマルセルカーヴから前進して来た普騎兵第3師団の大砲10門*がこれに同調してヴィレ=ブルトヌー南郊の「堆土陣地」を目標として猛砲撃を開始したのです。
※騎兵師団の砲10門とは師団に属した第7軍団砲兵の第1中隊と臨時に派遣された第8軍団砲兵第1中隊の2個小隊(1個小隊は騎兵師団前衛に配されています)のことです。この砲兵たちと普猟兵第1大隊の1個(第1か第2どちらか)中隊は、24日からアムの南でラ・フェールの攻囲部隊との連絡維持とアムの警戒任務に就いていましたが26日に召還命令を受け、27日の午前、師団本隊が普第1軍団の右翼(東)外で偵察・警戒任務を行っている最中に合流し、師団はマルセルカーヴで集合を果たした後に騎砲兵中隊を先に前線へ送り出し、続いて騎兵本隊もマルセルカーヴの西側へ進んで待機に入っていました。
モルジュモンの森東側で砲兵援護となっていた第44連隊の2個(第10,12)中隊は、この間に鉄道堤の堡塁へ増援として送られて、モルジュモンの森には前進して来た擲弾兵第1連隊の3個(第5,8、少し遅れて第6)中隊が入りました。この増援3個中隊は堆土陣地の南東側モルジュモンの森北方にあった小さな雑木林(現存しません)に居座っていた仏軍攻撃隊の残部を駆逐すると、前進して来た重砲第2中隊の砲撃援助を受けて前進し、「堆土陣地」の左翼(東)側を攻撃します。この機会を捉え、正面から銃撃を行っていた同連隊の諸中隊は堆土陣地への突撃を敢行し、既に激しい銃砲撃を浴びて弱っていた堆土の仏ベッソル旅団守備隊は堪えることが出来ずに一気に後退局面に至るのでした。
こうして前線の仏軍はヴィレ=ブルトヌー南の鉄道線切り通しへ逃げ込み、ほぼ同時に仏軍砲兵も普軍砲兵の対抗射撃で沈黙を余儀なくされると先行してヴィレ=ベルトヌー南面に迫っていた普軍の諸中隊*は鼓手の激しい連打に乗って喊声を上げ、一気に部落内へ乱入したのです。
部落の仏ベッソル旅団兵に戦意は薄く、2、3ヶ所で激しい抵抗を試みていたものの、既に夕闇に沈み始めた部落では混乱状態となった仏護国軍兵が闇に乗じて我先に逃走しており、仏軍は主にコルビのソンム川渡河点に向かって急速後退して行ったのです。
部落内では逃げ遅れ、または抵抗を試みた後に投降したおよそ180名の仏将兵が捕虜となりました。
仏軍散兵線に迫る普第44連隊の突撃
※ヴィレ=ブルトヌーへ突入した普軍諸中隊
○擲弾兵第4連隊・第7中隊
○同・第10中隊の1個小隊
○第44連隊・第1,2,4中隊
こうしてヴィレ=ブルトヌーでは勝敗が決したものの、その西のカシーとジャンテルでは勝敗が決しない激しい攻防が繰り広げられました。
この普軍戦場左翼(西)では、午後2時にカシーの仏ルコアント旅団兵が再び激しい攻撃を仕掛けて普軍をフレーの林から駆逐しようと試み、林の北方250m付近まで肉薄しました。これを林の中に陣を敷いた普擲弾兵第4連隊の諸隊が猛銃撃によって足止めし、ここに砲撃も浴び始めた仏軍攻撃隊は堪らず後退して行きました。これを機会と捉えた林の普軍は追撃を行い、一気にカシー南郊外まで進み、数少ない遮蔽を楯に残留します。この普軍歩兵(擲弾兵第4連隊の第2中隊と第9中隊の1個小隊)はこれから後、カシーの仏軍から激しい攻撃を繰り返し受けますが、東側で「堆土陣地」と戦う友軍諸隊からも援護を得、午後3時頃にはモルジュモンの森からフレーの林まで進んだ第1軍団砲兵の騎砲兵2個(第2,3)中隊からも援護されて陣地を固守し、遂に弾薬が底を突き始めるに至ってようやくフレー、アンガール両森林縁まで下がり、ここでもカシーの仏ルコアント旅団兵に対し抵抗姿勢を貫いたのでした
仏軍の南下を阻止したアンガールの森西側に砲列を敷く普軍の軽砲第5中隊は、それまで歩兵の護衛なく、見晴らしの良い開墾地で独り戦って来ましたが、この時、ジャンテルから擲弾兵第4連隊の3個(第1,3,4)中隊が進み来て、前線予備を兼ねた護衛となったのです。しかしこの行動は直後に仇となってしまいました。
フレーの林西側では、ジャンテルに入った普擲弾兵第4連隊の第11中隊と第9中隊の2個小隊が部落北辺まで迫った仏軍の攻撃を2回に渡って撃退しますが、ドライゼ銃の銃弾を撃ち尽くしてしまったため後退を余儀なくされ、一旦ドマールまで引き下がりました。代わりに同連隊第1大隊から2個中隊が前進して部落守備を引き受けますが、直後、命令によって砲兵援護を行うためフレーの林東側へ去った(前述)ため、「がら空き」となったジャンテルにはカシーから進んだ仏軍がすんなりと進入して占領してしまいます。この時、命令を聞きそびれ部落に居残っていた普軍士官1名・下士官兵16名がなすすべなく仏軍の捕虜となってしまいました。
ルコアント
普軍がジャンテルから退いたと聞いた仏軍側指揮官ルコアント准将は、カシーからこの方面に展開する仏軍のほぼ全力となる3個大隊を率いて果敢に前進しドマールを狙いました。前線でこの動きを見ていた普軍側指揮官フォン・プリットヴィッツ少将は、ジャンテル南方で待機していた重砲第5中隊、そしてフレーの林東側の普擲弾兵第4連隊の3個中隊と軽砲第5中隊を一斉に下げ、急ぎドマールに陣を敷いて重要なリュス川渡河点を護らせるのでした。
しかしここで夕闇が迫り、ジャンテルから更に南へ警戒しつつ進んでいたルコアント准将も、訓練未達の部下が不慣れな夜戦を避けるため前進を中止させるしかなくなり、ジャンテルとカシーまで引き上げます。
リュス河畔に慌てて防衛線を築き始めていた普軍も安堵し、前線を観察したベントハイム将軍も日没後、ヴィレ=ブルトヌーを占領した諸隊を除く前線の諸隊を徐々に下げてリュス川を渡河させ、その南岸周辺で野営に入らせたのでした。川の北岸には遅れて到着した第1軍団本隊の第2梯団から前哨を出し、橋頭堡を護らせます。ヴィレ=ブルトヌーでは擲弾兵第1連隊のF大隊が郊外へ進出し、北のソンム川コルビ方面と西のカシー方面に対し夜間警戒任務に就いたのでした。
鉄道堤を超えて突撃する普第44連隊




