独第一軍アミアン南方に到達す~ラ・フェール要塞の陥落
フリードリヒ・カール王子の独第二軍とメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ=フランツ2世の「大公軍」がパリの南方及び西方の脅威に対応するため動き出した11月中旬。
フォン・マントイフェル騎兵大将率いる独第一軍もパリの北方包囲線に脅威を与えるソンム河畔・アミアン方面に向け動き始めていました。
11月16日。マントイフェル将軍はランスにて、軍がオアーズ川(ベルギーのシメイ付近を水源にイルソン~ギーズ~ラ・フェールを経てコンピエーニュでエーヌ川を合せ、コンフラン=サントオノリーヌでセーヌに注ぐ一大支流)方面に進むに当たっての詳細な行軍計画を麾下団隊に伝達します。この時将軍はその右翼(北)任担部隊(後述)に対し「本来進むはずであったサン=カンタン(アミアンの東71キロ)へは向かわず、ギスカール(サン=カンタンの南西27キロ)に進むよう」命じました。これは、この時点でマントイフェル将軍が使用出来たのが軍の半数に満たない兵力だった事が主な理由で、将軍は、サン=カンタン周辺には仏軍のかなり大きな兵力がいるはずなのでこれを一旦は回避し先へ進む、としたのです。
※11月16日時点でマントイフェル将軍がオアーズ沿岸方面へ使用可能だった兵力
〇普第8軍団(第15、16師団、砲兵隊)
〇普第3旅団(第2師団所属)
〇普第1軍団砲兵隊
〇普騎兵第3師団
※マントイフェル将軍麾下で他方面にあった兵力
*メッス警備・ティオンビル要塞監視・モンメディ要塞監視
〇普第7軍団(第13、14師団、砲兵隊)
*(シャルルヴィル=)メジエール要塞監視
〇普第1師団
*ラ・フェール要塞(サン=カンタンの南南東21.3キロ)攻囲
〇普第4旅団(第2師団所属)
*メジエールに向け前進中
〇普予備第3師団(歩兵騎兵各1個旅団と砲兵3個中隊のみ)
この命令では普第3旅団が翌17日、ルテル(ランスの北東37.2キロ)から出立しラン(Laon。同北西45.5キロ。エーヌ県都)を経てラ・フェール攻囲中の普第4旅団の南方を通過し、11月21日にはノアイヨン(サン=カンタンの南西36キロ)に至り、同地にて西方・ソンム川方面の偵察を行うよう命じられます。
ランス在の普第8軍団は同命令において同じく翌17日から行軍を開始し、ソアソン経由で21日にはコンピエーニュ(ノアイヨンからは南西へ22キロ)に至るよう定められ、同地でモンディディエに至る街道(現・国道D935号線)とボーベに至る街道(現・国道N31号線)それぞれに前衛を置いた後、サンリス(コンピエーニュの南西29.3キロ)方面にて独マース(第四)軍と連絡するよう命じられました。
軍の右翼は普猟兵第8「ライン」大隊と第8軍団の騎砲兵1個(第1)中隊を加えた普騎兵第3師団が担うこととされ、同じくタニヨン(ランスの北東27.7キロ)からランの南を経て行軍し、20日には目標のギスカールを占領、アミアンとサン=カンタンにそれぞれ偵察斥候隊を送るよう命じられます。
マントイフェル将軍は同時にメジエールの普第1師団に対して「普予備第3師団の到着が近いので速やかにラン(Laon)へ向かうよう鉄道輸送の準備に入れ」と命じます。また、同師団の普猟兵第1大隊に対しては、師団を離れてギスカールへ向かい、同地にて普騎兵第3師団の増援となるよう命令が下ったのでした。
普ベルサイユ大本営はそれまでに得ていた報道分析、諜報や偵察情報などから「仏北西部では新軍団の編成が盛んに行われているものの、ルーアン、アミアン、リール(ノール県都)の3ヶ所のみに兵力が集中している」と判断しており、仏正規軍の展開が皆無のオアーズ川以東では本格的な戦闘は発生しない、と見なしていました。
しかし、ベルギーと仏との国境地帯には大小様々・数多くの要塞が点在し、これは仏軍の集合地点や策源地として有効で、アム(サン=カンタンの南西19キロ)、ペロンヌ(同西北西26.8キロ)、アミアンそしてアブビル(アミアンの北西40キロ)といったソンム川(サン=カンタン北東のフォンソンムから前述の都市を経て英仏海峡に注ぐピカルディー地域の中心河川)流域の渡河地点は防御工事を行って拠点化しており、仏軍はここからパリ北方へ解囲軍を送ることも、西方へ進撃する独第一軍の右翼側面を脅かすこともまた可能だったのです。
このマントイフェル軍の前方には英仏海峡やセーヌに向かって流れて行く諸河川(ソンム、アヴル、ノワイエ、セル、ブレルなど)が一部で深い渓谷や湿地帯を持つ広い河川谷を作っており、これら地域は強固な防衛線構築に向いていて、また、この地方を走る人口が集中した街々を繋ぐ整備された街道は、街区こそ石畳などで舗装されているものの、その郊外や耕作地、森林原野の区間では当然ながら未舗装で、土地が白亜質なるが故に一度の大雨や降雪でたちまち泥濘に変化し、軍の通行に大きな弊害となるものでした。
諸河川の沿岸は耕作が盛んに行われて畑地が多く、ここには素朴な粘土で建てられた農家が集落を創ってこれが数百mから数キロの範囲で点在していました。この部落間には障壁や生け垣、木塀などを巡らせた草原や畑地があり、また、丘陵・高地にある部落では一軒一軒の家屋が独立して高い土塀で囲われており、これらは直ぐにでも軍の拠点と化す可能性がありました。
独第一軍の最右翼に進み出た普騎兵第3師団は、予定通り20日にギスカールへ到達しこれを占領します。
ここから各地へ向かった斥候中アムに向かった隊は、部落周辺におよそ800名の護国軍部隊を発見し報告しました。
同じ頃、騎兵師団の後方では普第3旅団と第1軍団砲兵隊がショニー(ラ・フェールの西南西11.8キロ)に到達し、普第8軍団の前衛はコンピエーニュに到着します(翌21日にかけて軍団全てが到着しました)。
マントイフェル将軍は同20日夜、本営と共にソアソンからアティシー(コンピエーニュの東16キロ)へ移動し、この地で大本営より「軍はルーアンまで前進せよ」との命令を受領しました。
この後の数日間は軍の前方の状況を明らかにするため、普騎兵第3師団はオアーズ河畔をくまなく捜索して回り、軍主力部隊は騎兵が捜索済みのオアーズ川に沿って前進することとなります。
この時、普軍騎兵たちはソンム上流河畔(アム~ペロンヌ辺近)に多くの仏軍部隊を発見し、アミアンへの街道筋でも数ヶ所で護国軍部隊や義勇兵部隊を確認しますが、これら仏軍前哨は独騎兵の姿を見るや直ちに撤退して姿を眩ますのでした。
アミアン市自体を偵察した斥候は「市街にはおよそ1万5千の仏軍が存在する」と報告し、10月以来S騎兵師団を中心とする「トゥール・リッペ支隊」と、普近衛「槍騎兵」旅団を中心とする「エプト方面支隊」が活動(「パリ包囲網の後方事情」を参照ください)するマース軍の本営からは「アミアンにはルーアンとリールから次々に軍隊が鉄道輸送されて到着している」との通報があったのです。
21日からコンピエーニュに本営を置いているマントイフェル将軍はこれらの現状から23日、「当初の計画にあった、オアーズ沿岸に軍を集合させる、という命令を破棄し、現在前線にいる兵力だけで更に西へ直進する」と決しました。将軍としてはメジエール要塞の包囲を予備第3師団に引き継ぐ第1師団を待ちたかったことでしょうが、鉄道網の不備により師団の鉄道輸送は1日6列車編成という計画が崩れて4列車編成で実行されており、23日までにオアーズ河畔へ到着出来たのは歩兵4個大隊、騎兵1個中隊、砲兵1個中隊、衛生隊の一部のみで、師団全てがアミアン付近に到着するのは27日以降となってしまうことが確実となったため将軍は「敵の集合前にアミアンを陥落させるため第1師団を待たない」と決断したのです。
同日夕、普騎兵第3師団は「明日以降もアミアンの偵察を重点的に行い、強力な支隊をアムの警戒に充てて残留させた後、師団本隊は前進して25日にはアヴル沿岸のモレイユ(アミアンの南東19キロ)に到達せよ」と命じられます。
更にマントイフェル将軍は「普第1師団長(フォン・ベントハイム将軍)は軍司令官に代わり前線にある普第1軍団(ここでは普第3旅団のみ。普第4旅団欠)を指揮し、第1師団中オアーズ川に到達した一部部隊を吸収してノアイヨンとロワ(ノアイヨンの北西20キロ)間に集合し、普第8軍団は支隊をサン=ジュスタン=ショッセ(コンピエーニュの西北西30キロ)を経由してブルタイユまで派遣し、本隊はモンディディエへ前進、クレルモンにあるマース軍の派遣隊(トゥール・リッペ支隊)と連絡を通せ」と命じたのでした。
行軍野営地の普軍兵士
モレイユ東のリュス川(モレイユの東北東12キロのケクス付近を源流とするアヴル川支流)流域まで進んでいた普騎兵第3師団前衛(普槍騎兵第14「ハノーファー第2」連隊の一部)は、24日の早朝、モレイユに向かうとその郊外で強力な仏軍部隊に遭遇し、激しい銃撃を浴びた普軍槍騎兵たちはメジエール(=アン=サンテール。モレイユの東北東5.4キロ)まで追い返され、更に激しい追撃を受けました。ここで普軍槍騎兵は包囲の危機に陥りますが、午前9時になるとメジエールに増援*が到着し、この増援に加わっていた普騎砲兵小隊は迫る仏軍に対し効果的な援護射撃を行い、増援の普軍猟兵は仏軍部隊(状況から正規軍の戦列歩兵と思われます)の突撃を数回に渡って阻止しました。
※24日の普騎兵第3師団前衛増援
○普猟兵第8大隊・第4中隊
○普槍騎兵第14連隊本隊
○普野戦砲兵第8連隊・騎砲兵第1中隊の1個小隊(2門)
しかし、仏軍側にも増援が現れると再び包囲を狙って攻撃を仕掛け、一部はメジエール東のボークール(=アン=サンテール。メジエールの東北東2.4キロ)まで進んだため、普軍部隊は一気にブショワール(モレイユの東14キロ)まで後退するのでした。仏軍はこれを追ってル・クネル(同東10キロ)に至りますが、普軍砲兵の阻止砲撃を受けて後退し、午後に入るとメジエールやボークールからも撤退して行ったのです。(普軍の損害は戦死3名・負傷18名・捕虜4名。仏軍は不詳です)
普騎兵第3師団本隊は翌25日、強力な仏軍がモレイユに居座っているのを確認するとル・クネルまでで前進を止め、前哨はリュス流域で仏軍前哨と小競り合いを起こしましたが、大事に至る前、双方共に引き上げたのでした。
普第1軍団の前衛は同じ25日、目標のロアに到着し、同じくモンディディエに至った普第8軍団の普第15師団を中心とする右翼本隊は、「昨日騎兵が遭遇した敵を掃討せよ」とのマントイフェル将軍の命令を受け、北上してモレイユ南郊まで侵入し、ここで仏軍前哨を攻撃するとこれをモレイユ部落へ追い払いました。また、同軍団左翼を行くことになった普第16師団は、道中全く敵に遭遇せずロカンクール(モンディディエの西11キロ)及びブルタイユへ順調に進んで、クレルモン(ブルタイユの南30キロ)から派出されていたマース軍トゥール・リッペ支隊の前哨と連絡を取ったのでした。
ル・クネルの普軍猟兵
25日の夕刻。マントイフェル将軍が本営を進めたモンディディエに集まった報告と斥候たちの情報では、「仏軍の北方集団主力は既にアミアンへの集合を終え、その補充兵員は尚もリール、アラス(アミアンの北東56キロ)、そして英仏海峡に面する港町ブーローニュ(=シュル=メール。カレーの南南西30.7キロ)から順次送り込まれている」とのことで、この報告を聞いたマントイフェル将軍は「アミアンの攻撃は軍の陣容が整った後で行う」とこれまでの考えを改め、翌26日に普第3旅団をル・クネルまで進ませて普騎兵第3師団と合同させ、騎兵師団長のフォン・グレーベン将軍に対しては「歩兵の増員は行うが同騎兵師団は今後もアミアンを監視するのみで先走って攻撃を行ってはならない」、と釘を差しました。
また、普第1師団の内、アヴル河畔まで進んだ部隊は全てロワに集合してラン経由で前進中の師団本隊を待ち、普第8軍団はモレイユとエセールオー(ブルタイユの北北西12キロ)の間、即ちアミアンの南から南東に掛けて18~20キロ離れた地方に宿営することになったのです。
26日、普第8軍団の左翼部隊(西側・第16師団中心)は全く妨害されることなくエセールオーなど目標に到達して宿営を始めます。
しかし、未だ仏軍がいるはずのモレイユ攻略を命じられた同軍団右翼部隊の普第30旅団は、モレイユ部落の西郊外において仏軍の小部隊と遭遇し、後衛と思われるこの仏軍は暫く銃撃戦を行った後にアヴル川沿いに後退を始め、この時リュス河畔まで前進していた普第68「ライン第6」連隊の第9中隊は川を越えて後退する仏軍を追撃し、サン=ニコラ(現在ボーヴと改名。モレイユの北西10.4キロ)の南方まで進みますが、この地で逆襲に遭って猛烈な銃砲火により前進を阻まれてしまいました。しかし、増援としてやって来た同連隊の第5,6中隊が銃撃戦に加わり、普軍は更に仏軍部隊をサン=ニコラ南郊外に築造されていた土製堡塁後方まで追い払います。この堡塁後方には強力な仏軍部隊が展開中で後退した部隊を援護して収容し、普第68連隊の3個中隊もここで追撃を諦めるのでした。
ほぼ同時に、普第28「ライン第2」連隊の第9中隊と同第68連隊の第7中隊はリュス北河畔のドマール(=シュル=ラ=リュス。モレイユの北5.4キロ)とアンガール(ドマールの東2.2キロ)まで進み、ここで北方ソンム川方向より仏軍部隊の攻撃を受けますが、これを全て撃退してリュス川の橋頭堡を確保したのです。
この日、普第8軍団は戦死18名・負傷47名、行方不明4名を計上しています(その殆どは第68連隊の損害)。
攻撃隊形で前進する普軍
この26日、普第3旅団は命令通りル・クネルに陣を敷いた普騎兵第3師団に合流し、その前衛は軍の追加命令によって更に前進して、同日夕刻リュス河畔のカイユー(=アン=サンテール。ル・クネルの北北西5.1キロ)に至りました。
増援を得た普騎兵第3師団は本隊がロジエール(=アン=サンテール。ル・クネルの北東7キロ)前哨をケクス(ロジエールからは西へ4キロ)に置き、斥候によって敵の存在が確認されたソンム沿岸に向け前遣隊を送ることを決し、この前衛支隊はブレイ(=シュル=ソンム。同北14.1キロ)やコルビ(アミアンの東15.6キロ)を警戒するため北に進みました。
また、ようやく全ての部隊が(シャルルヴィル=)メジエールの要塞から離れることが出来た普第1師団の本隊は、この日団隊毎にクシー(=ル=シャトー=オフリック。ソアソンの北15.5キロ)からノアイヨンを経てロワまでの間に達し、前衛はブショワールへ進出したのです。
この26日はル・プレシエ(=ロザンヴィエ。モレイユの南東5.6キロ)に進んだ独第一軍本営は、本日における仏軍の様子から「敵は今のところアミアンを死守するだけで未だパリ方面への南下は考えていない」と判断、マントイフェル将軍は、「明日(27日)は第一軍を更に前進させてアミアンの敵防衛線(市街南郊外の高地に土塁や築堤による塁壁が築かれていました)に接近させ、翌28日にアミアンを攻撃するため軍の集中を図る」ことを決します。
この命令によって、集合しつつあった普第1軍団は主力をリュス川の線まで前進させ、臨時軍団長のベントハイム将軍は同地の普騎兵第3師団を隷下に収めて騎兵にリュス川北方ソンム沿岸までを偵察させ、ゲーベン将軍麾下の普第8軍団は左翼(西)を警戒しつつノワイエ川(アヴル支流)からセル川の間に布陣を終え、前哨をアヴル=ノワイエ合流点のフアンカン(アミアンの南東11キロ)からエベクール(同南南西9.3キロ)間に進めてアミアンの仏軍と対峙するよう命じたのです。
普軍負傷兵の手当て
☆ ラ・フェール攻囲戦(11月11日から28日)
オアーズ河畔でサン=カンタンを南から護る形となるラ・フェールの比較的小さな要塞は、一方でランスからクレイユ、同じくアミアンへ至る鉄道幹線を管制することによってパリ北部を包囲する独マース軍の補給線を制限し、同じくアミアンに進んだ独第一軍の後方連絡にも影響を与える障害でした。普ベルサイユ大本営は、ベルギー国境近くを走るアルデンヌ鉄道を管制するメッス北方のティオンビルやモンメディ、そして(シャルルヴィル=)メジエールの各要塞を一刻も早く無力化したかったことでしょうが、マントイフェル将軍としては今後自軍後方連絡線に直接影響を及ぼすこの要塞の方をいち早く無害化する事が願いだったのではないかと思われます。
要塞は9世紀以来様々な築城方法によって強化され、堂々とした外壁を持っていましたが、オアーズ川が作り出した広い河川敷に創られた要塞は、川と湿地帯以外に利用出来る自然の障害物が無く、当時は人口5,000名のラ・フェール市街は、その東側郭外市街(フォーブル・ノートルダム)を除き要塞外壁内側に取り込まれていました。
この南東角には鉄道停車場を防御するための土製稜堡があり、要塞西側正面にも同様な稜堡がありました。
前述通りオワーズ川はこの周辺で大きく二手に分かれて広い河川敷を作り出して蛇行しつつ南西方向へ流れ、要塞はこの二本の流れの中に位置していました。また、西側の河川沿いにはサンブル=オアーズ運河が走っており、河川敷の幅員は所によって2.5キロにも達したため、要塞を西又は南から攻め落とそうとの考えは極めて困難と言えるものでした。同様に北面側も見通しが良く、一旦堤を切れば広範囲に氾濫地が出来たために攻撃側にとっては接近し辛い要塞と言えました。
ここまでは「難攻」な要衝と言えるラ・フェールでしたが、守備側の問題は東側にあり、このことによりラ・フェールは「不落」とは到底呼べない要塞でした。
要塞の東は郭外市(フォーブル)を隔てて直ぐに小高い高地となっており、高地と要塞中央までは僅か2キロ程度しか離れていません。高地周辺にはこの弱点をカバーする分派堡の存在もなかったため、攻撃側がこの高地を押さえたならばたちまちにして砲台を築き、要塞内部に榴弾を撃ち込んで来る可能性が高かったのです。
この要塞を護っていたのは護国軍を主力とする2,500名前後の守備隊で、要塞砲は130門に及び、その内36門は比較的新しい施条砲でした。要塞司令官は海軍のジャック・フェルディナン・プランシェ少佐でしたが、少佐が赴任してみると要塞兵員のための掩蔽壕や防御された宿舎は絶対数が不足しており、川を氾濫させる以外に要塞の防御を助けるための用意はほとんど手つかずといった状態だったのです。
ラ・フェール要塞の攻囲
ラン(9月9日)やソアソン(10月16日)が陥落して以降、独軍は度々斥候をラ・フェール近郊まで派遣しますが、本格的な攻囲が命じられたのは11月上旬、メッスの陥落で独軍が「余裕」を得た後でした。
11月5日に普ベルサイユ大本営からラ・フェール攻略の命令を受けた普第4旅団*は、メッスから独本国への捕虜輸送や、親部隊の第一軍も西へ進むために発生した混乱等で列車の手配が遅れ、ようやく11月11日から12日に掛けてポンタ=ムッソンを出立し、その後は優先的に鉄道を利用してソアソンへ至ると、ここで攻城に必要な資材・機器に攻城重砲を手に入れ、更に要塞工兵1個中隊に要塞砲兵6個中隊を編入するのでした。
※11月15日におけるラ・フェール攻略部隊
司令官 カール・アレクサンドル・フォン・ツグリニツキー少将(普第4旅団長)
〇擲弾兵第5「オストプロイセン第4」連隊
〇歩兵第45「オストプロイセン第8」連隊
〇竜騎兵第10「オストプロイセン」連隊・第4中隊
〇野砲兵第1「オストプロイセン」連隊・重砲第6中隊
〇1個糧食縦列
*普近衛要塞砲兵連隊・第1,9中隊
*普要塞砲兵第2連隊・第3,4中隊
*普要塞砲兵第4連隊・第9中隊
*北独第9軍団要塞工兵・第2中隊
*はソアソンで加入した部隊。
ラ・フェール攻略を指揮するフォン・ツグリニツキー将軍は、攻城重砲が要塞砲兵によって運搬されている間に残り諸隊を率いて15日中にラ・フェール近郊へ至ります。
将軍はその包囲網を3地区に区分しほぼ均等な部隊配置を指示すると、そのまま速やかに要塞を包囲しました。
※ラ・フェールの包囲区分
〇第1包囲区 オアーズ川東岸・ランへの街道(現・国道D938号線)より北
〇第2包囲区 オアーズ川東岸・ランへの街道より南
〇第3包囲区 オアーズ川西岸
要塞の仏守備隊は当初、要塞外壁上から盛んに銃撃を行いますが、これはほとんど効果が無く、翌16日からは数回、歩兵を出撃させて包囲網を破ろうと試みます。しかしこれらの試みは全て普軍によって阻止され、また要塞砲による包囲網への榴弾砲撃も、普軍にほとんど損害を与えることが出来ませんでした。
実は要塞の弱点となる東側高地上には東方に向けて2ヶ所に土製堡塁が築かれていましたが、要塞司令のプランシェ海軍少佐は孤立する高地には一切兵員を置かず、守備兵全てが要塞内に籠城していたのです。
19日になると、アム(ラ・フェールからは北西に23.4キロ)から出撃した仏護国軍の1個大隊と野戦砲兵2個小隊(4門)が、解囲を謀って普軍包囲網の西側(第3包囲区)に奇襲を掛けようとしましたが、接近を第3包囲区担当の普擲弾兵第5連隊第1大隊に気付かれて、ヴエル(ラ・フェールの西6.8キロ。テルニエの西郊外)付近で迎撃され、約3時間の戦闘を経て後、仏軍は諦め退却して行くのでした。
散兵線の普軍
フォン・ツグリニツキー将軍らは入念な偵察と観察の結果、攻城は常識通り東側から行うことに決定し32門の各種重砲からなる攻城砲部隊も続々と到着して、普軍は24日の夜間、仏要塞守備隊からの妨害も無く要塞東側の高地斜面に7個の砲台を構築し砲列を敷いたのです。
※ラ・フェール要塞に対する攻城砲台
*ダニジー(ラ・フェールの東1.7キロ)の北方
・第1号砲台 15センチカノン砲x4門
・第2号砲台 12センチカノン砲x4門
・第3号砲台 12センチカノン砲x4門
・第4号砲台 12センチカノン砲x4門
*ダニジー部落内
・第5号砲台 仏製鹵獲22センチ臼砲x6門
*ダニジーの南方
・第6号砲台 15センチカノン砲x4門
・第7号砲台 9センチカノン砲x6門
明けて11月25日午前7時30分。普軍要塞砲兵はラ・フェール要塞に対し一斉に砲撃を開始しました。要塞側も30分後から対抗砲撃を始め、以降両軍は夕刻まで砲撃戦を繰り広げます。
ラ・フェール要塞内では多くの家屋が罹災し、特に市街北西部にあった軍関係の建造物は火災に見舞われて焼け落ち、要塞内の重砲も数門が破壊されてしまいました。逆に要塞の重砲による普軍側の被害は少なく、夕刻に至って要塞からの砲撃は途絶え、普軍攻城砲列は夜間から翌朝に掛けて目標を絞って砲撃を続けるのでした。要塞市街に着弾した砲弾は(30時間で)3,000発と伝えられます。
翌26日午前10時頃、要塞には白旗が翻り、午前11時30分、プランシェ海軍少佐はツグリニツキー将軍と降伏条件の話合いを始め、要塞は翌27日正午に開城し護国軍将兵からなる守備隊約2,300名は捕虜となってランへ護送されたのです。
この一連の戦闘で普軍側は僅か1名戦死・5名の負傷で済み、仏軍側は不詳ですが、捕虜を除いて100~200名前後の損害と思われます。
要塞では多数の貴重な要塞保守用の資材と機材が鹵獲され、この一部は直ちにアミアン市街へ運ばれて市内の要塞(重城)の装備に加えられたのでした。
ラ・フェールには要塞工兵の他要塞砲兵2,3個中隊が残り、暫くの間の守備隊として普擲弾兵第5連隊F大隊が残留しました。その他の歩兵第4旅団諸隊と砲兵、騎兵は28日、普第1軍団本隊に加わるため、ラ・フェールを後にしたのでした。




