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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・極寒期の死闘
402/534

シャンピニーの戦い(終)/極寒の死闘・12月2日(後)


☆普第2軍団(ポンメルン州)(1870年11月30日付)


司令官 エデュアルド・フリードリヒ・カール・フォン・フランセキー歩兵大将

参謀長 カール・オットー・ヘルマン・フォン・ヴィヒマン大佐

*参謀部

 フォン・ペータースドルフ少佐/フォン・ウンルーヘ大尉/フォン・ケスラーン大尉

*副官部

 フォン・ブロンベルク少佐/フォン・デア・マルヴィッツ騎兵大尉/フォン・ナーゾ中尉/フォン・ブルハルト中尉

砲兵部長 フォン・クライスト少将(砲兵第2旅団長)

工兵部長ザンドクール少佐(工兵第2大隊長)

*工兵部 ヴェーバー大尉

衛兵長 モーリッツ中尉


◯第3師団

師団長 マティアス・アンドレアス・エルネスト・フォン・ハルトマン少将

参謀士官 ストックマー少佐

副官 フォン・ベニングゼン大尉/フォン・ジッハルト1世中尉


◇第5旅団 ハインリッヒ・ヴィルヘルム・オットー・ユリウス・フォン・コブリンスキー少将

*擲弾兵第2「ポンメルン第1/国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世」連隊 

ヨハン・ヴィルヘルム・ヘルムート・フォン・ツィーミィーツキー大佐

*第42「ポンメルン第5」連隊

 フリードリヒ・アウグスト・ベルンハルト・フォン・デム・クネセベック大佐

◇第6旅団 ルートヴィヒ・エバーハルト・フォン・デア・デッケン大佐

 ※8/25にメッス西包囲線を巡視中狙撃され負傷(「メッス包囲戦(前)/バゼーヌ軍包囲突破を謀る」参照)のため、第61連隊長フォン・ヴェルダー大佐が代行

*第14「ポンメルン第3」連隊 アウグスト・アドルフ・ヴィルヘルム・フォン・フォス大佐

 ※8/18グラヴロットの戦い・モスクワ農場戦で負傷(「グラヴロットの戦い/鬼将軍フランセキーの奮闘」参照)のため、フォン・ショルレマー少佐が代行

*第54「ポンメルン第7」連隊 男爵フェルディナント・フォン・レッヒェンベルク中佐


・猟兵第2「ポンメルン」大隊

 テオドール・エーリッヒ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ゴットフリート・フォン・ネッツァー少佐

 ※疾病のためシュルツ大尉が代行

*竜騎兵第3「ノイマルク」連隊

 男爵カール・ゲオルグ・グスタフ・フォン・ヴィリゼン大佐

 ※バーデン騎兵旅団指揮を任されたためフォン・ヴェデル少佐が代理指揮

*野戦砲兵第2「ポンメルン」連隊/第1大隊 男爵フォン・アイナッテン少佐

 ・重砲第1,2中隊(6ポンド砲/12門)

 ・軽砲第1,2中隊(4ポンド砲/12門)

・第2軍団野戦工兵第1中隊/野戦軽架橋縦列 フォン・ヴィスマン大尉

・第2軍団第1衛生隊


◯第4師団

師団長 オットー・ルドルフ・ベーノ・ハン・フォン・ワイヘルン中将

参謀士官 ボイエ大尉

副官 ミュンヒ大尉/フォン・グリースハイム中尉


◇第7旅団 カール・ヴィルヘルム・アルベルト・フォン・トロッセル少将

*擲弾兵第9「ポンメルン第2/コルベルク」連隊 

フリードリヒ・ゲオルグ・フォン・フェレンテイル・ウント・グルッペンベルク大佐

*第49「ポンメルン第6」連隊

 アレクサンドル・テオドール・アルベルト・ラウリン中佐

◇第8旅団 男爵フリードリヒ・カール・フォン・ケットラー少将

*第21「ポンメルン第4」連隊

 ルドルフ・フォン・ローベンタール中佐

*第61「ポンメルン第8」連隊

 アルベルト・フリードリヒ・アウグスト・フランツ・フォン・ヴェルダー大佐

 ※第6旅団長代理となっているためヴァイラッハ中佐が代行


*竜騎兵第11「ポンメルン」連隊

  フォン・グレツキー=コーニッツ中佐

*野戦砲兵第2連隊/第3大隊 パウエル中佐

 ・重砲第5,6中隊(6ポンド砲/12門)

 ・軽砲第5,6中隊(4ポンド砲/12門)

・第2軍団野戦工兵第1中隊/工兵器具縦列 グレーテン大尉

・第2軍団野戦工兵第3中隊 パルケ大尉

・第2軍団第2衛生隊


◯第2軍団砲兵隊 ペッチェル大佐

*野戦砲兵第2連隊・騎砲兵大隊 マシュケ中佐

・騎砲兵第2,3中隊(4ポンド騎砲/12門)

*野戦砲兵第2連隊・第2大隊 ヒュプナー少佐

 ・重砲第3,4中隊(6ポンド砲/12門)

 ・軽砲第3,4中隊(4ポンド砲/12門)

・第2軍団第3衛生隊


◯野戦砲兵第2連隊・弾薬大隊 レオ少佐

*第1,2,3,4,5砲兵弾薬縦列/(重)架橋縦列


◯輜重兵第2「ポンメルン」大隊 シュメーチェル大佐

*衛生予備廠・馬廠・野戦製パン縦列・第1,2,3,4,5糧食縦列

*第1~12野戦病院・輜重監視護衛中隊



☆ 12月2日(承前)


 比較的静かになった南部に比して、シャンピニー半島北部では午後に入っても激しい戦闘が続きました。


 北部戦線の統括指揮を執るゲオルグ・ザクセン第二王子は午前10時、ブリ(=シュル=マルヌ)で苦戦する前衛の増援として、ヴィリエで前進待機していた北独フュージリア第108「Sシュッツェン」連隊第1大隊とノアジー(=ル=グラン)からS第107連隊第3大隊をブリに指し向けます。この前進中、Sシュッツェン(軽歩兵)第1大隊兵はブリの北東側高地斜面に展開していた仏クルティ旅団から激しい銃撃を行軍列左翼(南方)側面に受け、損害を被ってしまいました。このため同大隊は左に向けて旋回し、この仏軍と戦うためヴィリエ~ブリの坂道(現1870年12月2日通り)より北方にあるブドウの木に覆われる高地斜面を駆け足で登りました。

 Sシュッツェン兵はヴィリエ西郊外公園の陣地から援護射撃を貰うとクルティ旅団兵と至近距離で銃撃を交え、機会を得ると一斉に威嚇の声を上げて突撃し、クルティ旅団兵を南西方向のヴィリエ西郊外斜面に広がるブドウ畑の隔壁まで追い払います。しかし、この仏旅団の後方にはモーション師団もう一つの旅団(ジョセフ・アヴリル・ドゥ・ランクロ准将指揮)が控えており、迫るS軍将兵に不意打ちの激しい銃撃を浴びせたため、Sシュッツェン第1大隊は大きな損害を受けて進撃が止まりました。しかしこの時、同連隊の右翼(北側)にノアジーから前進して来たS第107連隊第3大隊の2個中隊が現れてSシュッツェン兵を助け、同大隊の残り2個中隊はそのままブリ部落の南東正面に向けて進撃して行きました。

 このブリ東側の独軍戦線左翼(南側)は仏モーション師団兵によって激しく叩かれ圧迫されていましたが、ここにS第108連隊第2大隊と北独猟兵第13「S第2」大隊の第4中隊が現れ、同時にヴィリエ部落を守っていたW第1連隊の一部将兵も臨機に参戦して仏軍の進出を防ぎ、独軍は何とか戦線を維持することに成功するのです。

 この時、クールルイ方面にあった砲兵諸中隊のうち2個中隊がヴィリエの南郊外へ陣地転換を行って西側から圧を掛ける仏軍に砲撃を加え、S軍団砲兵隊の重砲2個中隊もヴィリエ北方に砲列を敷き、その後方には予備として控えていた北独擲弾兵第100「S第1/親衛」連隊の第3大隊がラ・グルヌイエール農場から進み来て戦線の厚みを増したのでした。


※午前11時30分におけるシャンピニー半島北部戦線の独軍部隊

*ブリ部落内(北部)

○S第107連隊・第5~10中隊

*ブリ東の墓地とその周辺

○S第107連隊・第1大隊(第1~4中隊)

○S第104連隊・第3大隊の一部

*ブリ東方高地上

○S第107連隊・第11,12中隊

○Sフュージリア第108連隊・第1、第2大隊

○S猟兵第13大隊・第4中隊

○W第1連隊・第1中隊

*ヴィリエ部落内とその周辺

○W第1連隊・第2~6中隊

○S擲弾兵第100連隊・第3大隊

○Sフュージリア第108連隊・第3大隊

*ヴィリエ北郊外

○S軍団砲兵隊・重砲第7,8中隊

*ヴィリエ南郊外

○普第2軍団砲兵・重砲第1中隊

○W砲兵・4ポンド砲第3中隊


 午前11時を過ぎると南部の戦線と同様、どちらともなく銃砲撃が鎮まって行き、戦闘は一時の自然休止状態となりましたが、これも正午を過ぎると仏軍側から激しい銃砲撃が再開され、戦闘は再び激烈なものとなります。

 ブリからはクルティ旅団を中心とする強力な仏散兵集団がブリ東方高地の独軍陣地へ突進し、周辺の独軍を統括指揮していたS第108連隊長の男爵クレメンス・ハインリッヒ・ロタール・フォン・ハウゼン大佐は、倍は多く見積った敵とそれまでの損害とを考慮して「総員ヴィリエまで後退する」と命令、各中隊は陣地を放棄して急速後退し、この際、これまでに獲た約300名の捕虜も逃がすことなく部落内まで引き入れました。なお、この時までにSシュッツェン連隊の2個大隊が受けた損害(戦死・負傷・不明者)は士官36名・下士官兵633名という大きなもので、両大隊は佐官の全てと中隊長クラスの大尉が全員戦死か負傷して後送され、大隊は中尉(本来なら小隊長)によって指揮されていたのです。


挿絵(By みてみん)

ブリ東高地で衝突するザクセン・シュッツェン(フュージリア第108)連隊と

仏モーション師団兵


 この間ヴィリエには東方から前述の増援が到着し、S擲弾兵第100連隊の第3大隊はW第1連隊主力が戦うヴィリエ公園へ進んで戦線を強化、S第108・シュッツェン連隊の第3大隊は公園の北縁に進んで銃撃を開始しました。部落南の砲兵2個中隊は北から迫り来る仏軍を砲撃して効果著しく、公園の独軍の銃撃と相まって仏軍の進撃は高地尾根で留められてしまったのでした。

 後背を維持していた友軍が去ったため、ブリや墓地で戦うS第107連隊を中心とするS将兵も左翼南側から片翼包囲(反対側の右翼はマルヌ川です)の危険に陥ります。これに気付いた同連隊臨時指揮官のアレクサンドル・フォン・ボーズ(ボーゼ)少佐は諸中隊を率いて川沿いに北方へ後退してノアジー方面へ逃れました。

 これによりブリ部落と東側高地は再び仏軍が占拠し、部落では逃げ遅れた多くのS軍兵士が捕虜となりました。


挿絵(By みてみん)

クルティ


 ゲオルグ王子はこの戦線右翼の状況を憂慮し、仏軍がクールルイからヴィリエ、そしてノアジーに向けて再び攻撃して来るに違いないと考えて、S軍砲兵6個中隊をノアジー南東郊外へ、普砲兵1個中隊をクールルイ北方へそれぞれ前進させ、同時にクールルイまで前進して来た普第5旅団の歩兵2個大隊をヴィリエ部落まで前進させます。

 仏軍側もマルヌ右(ここでは北)岸に退いていたベルマール師団と「湾曲部」西側のクレテイユ地区にいるシュスビエル師団がそれぞれマルヌ川を越えてシャンピニー半島へ入り、ベルマール師団はそのままブリ周辺で戦っていたドーデル、クルティ両旅団と交代してブリとその東側高地へ展開し、シュスビエル師団は午後2時にヴィリエ部落の西側鉄道線を挟んで展開していたベルトー師団の戦線に参入し、同時にその砲兵は石炭製造所付近の砲列に加わるのでした。

 クールルイから南の戦線を指揮する普第3師団長マティアス・アンドレアス・エルネスト・フォン・ハルトマン少将は、この仏軍のおびただしい増強に気付くと、狩猟小屋付近の低地に待避していた普第2軍団砲兵4個中隊を再び前進させ、この砲兵たちは曳馬に鞭を振るい駆け足で石炭製造所の仏軍砲列右翼に向かって突進し、その距離1,500mで大至急砲列を敷くと急射撃を行い、慌てた仏軍砲兵は約10分間対抗砲戦を行っただけで陣を払い後退してしまい、普軍砲兵も仏要塞重砲の報復砲撃が激しくなる前に従前の低地まで引き下がったのでした。


 午後3時。仏軍は数個大隊の歩兵で再びヴィリエに向かい突進しますが、これは増強された独軍の凄まじい銃砲撃によって阻止され失敗に終わります。この後、午後5時には殆ど全ての前線で戦闘は終了し、仏軍の砲兵のみ夜陰に戦場が沈むまで砲撃を続けたのでした。


挿絵(By みてみん)

ブリ=シュル=マルヌ 戦いの後


 2日夜。独仏両軍は再び対峙しつつ宿・野営に入りますが、その前線位置は激戦の割に早朝と殆ど変わりはありませんでした。


 独軍はノアジー=ル=グランと鉄道線の間にW第2旅団が進出して前線に展開し、北独第24「S第2」師団はS軍団砲兵と共にシャン=シュル=マルヌ付近まで下がって宿・野営しました。また、W第1旅団はクールルイ公園森林に集合した後ラ・ランド(城館と付属建物。ヴィリエの南東2.1キロ付近。現存しません)まで下がって宿・野営を行い、戦闘と緊張の連続で疲弊し切った身体を休めました。その前方、ヴィリエ南方の鉄道線からクールルイを抜けて狩猟小屋陣地までには普第6旅団の前哨が布陣し、その一部はシャンピニー東側公園まで出張ります。シャンピニー部落の南部と東部には普第49「ポンメルン第6」連隊(普第7旅団)と普猟兵第2「ポンメルン」大隊(普第3師団)が居座り、部落内北部に潜む仏軍前哨と対峙し、普第6旅団の本隊はシュヌビエールとオルムッソン付近で野営し何時でも出撃出来るよう待機に入りました。

 普第6旅団の左翼(南)には普第5旅団が続き、北へ進んだW第2旅団に代わってボヌーイとショアジー=ル=ロワの間に陣を構え、この南西側にはこれまで通りW第3旅団があってボアシーとヴァロントン付近で宿・野営し、普第7旅団片割れの普擲弾兵第9「ポンメルン第2/コルベルク」連隊はヴィルヌーブ=サン=ジョルジュにあってセーヌ渡河点を守り、普第4師団残りの普第8旅団は遙か南のドラヴェイユ(セーヌ右岸。ヴィルヌーブ=サン=ジョルジュの南南西5.7キロ)周辺で宿・野営したのです。


挿絵(By みてみん)

シャンピニーで戦うヴュルテンベルク兵(12.2)


 一方の仏軍側は、クレテイユ地区の防衛をパリ第1軍団第2「ドゥ・モーユイ少将」師団第2「ブレーズ准将」旅団に任せてシャンピニー半島へ進んで来たシュスビエル師団が前線まで進出して、シャンピニー部落西部からランド川の戦線を固め、その後方にはマルロワ、シャロンのパリ第1軍団両師団とパリ第2軍団モーション師団のクルティ旅団がラ・プラン周辺まで後退して野営に入りました。ヴィリエ西側高地にはベルトー師団の第1旅団(ブッシュ准将指揮)が前哨配置で残り、そのベルトー師団の片割れマリエ・フランシス・ジョセフ・ドゥ・ミリベル大佐が指揮する護国軍主体の第2旅団は、モーション師団の第2旅団(ジョセフ・アヴリル・ドゥ・ランクロ准将指揮)と共にジョアンヴィル東側の三叉路(現在の国道・D3とD4号線の分岐点)付近で野営しました。

 パリ第3軍団のベルマール師団とマタ師団のドーデル旅団はブリ部落とその東方高地を支配したまま野営に入り、そのマルヌ対岸ではマタ師団のボネ大佐旅団が展開して宿・野営すると、レイユ中佐の護国軍集団は一時放棄していたヌイイへ進んで一帯を占領したのです。


☆ 12月3~6日


 状況は明らかに仏軍側不利に傾いているにも関わらず、2日の深夜、強がるトロシュ将軍は市内の軍長老に対し「多くの戦死者を出したが戦況は満足すべき状態にある」と告げ、国防政府は市民に対して「攻撃は順調に進んでいる」として希望を滲ませていました。

 そんな中、前線のデュクロ将軍は既に崩壊の兆しを見せる麾下部隊の様子を観察し、「このままでは疲弊し戦意喪失した軍は一気に崩壊してしまう」と考え、トロシュに市内への撤退を申し出るのです。

 しかし、トロシュは言を左右にこれをはぐらかし、決定は先に延ばされてしまうのでした。


 また、デュクロ将軍は2日の夕刻までに「ロアール軍はフォンテーヌブロー目指して行軍中」との報告を受けていました。この時、当のロアール軍は「ロワニとププリーの戦い」真っ最中で、カール王子とメクレンブルク=シュヴェリーン大公によってオルレアン方面へ押されつつあった訳ですが、包囲下のパリに届く報告は早くても一日前から数日前のもので、その多くは希望的観測が入り混じってしまった「誤報」でした。勿論、この「ロアール軍北上」の報告も「ヴィルピオンの戦い」が元ネタとなった「想像の産物」でしたが、「後退」を否定されたデュクロ将軍としてはこれを信じて「前向きに行動」するしかなく、渋々とですが引き続きパリ第二軍主力をマルヌ左岸(ここでは東又は南)に留め、ロアール軍がパリ近郊に進出し易くするためにも独軍を出来るだけこの地に拘束するよう努めるのでした。


 デュクロ将軍はこの2日の夜間、麾下各部隊に乏しくなった糧食や砲兵の弾薬、そして曳馬の補充を行わせ、また、再び独軍が先制攻撃することを予期して現在地の防御を高めるよう努めましたが、あくまで「前進」を期待するトロシュ将軍ら国防政府筋からの圧力もあって、翌3日は独軍に対し「形ばかりの先制攻撃」をする事になってしまうのでした。


 日付が変わる夜半、仏軍の予備に指定されて後方に野営していた諸隊は前線部隊の直後に召集させられ、砲兵たちは叩き起こされるとル・プラン、ヴィリエ西高地、ブリ郊外にそれぞれ前進して払暁前、独軍前線に対し一斉砲撃を開始しました。

 これを予期していた独軍側では、フランセキー将軍が麾下諸隊に対し「即座に前線へ進み戦闘準備をせよ」と命じ、前線部隊は直ちに任地へ赴きました。

 この時、W師団と第24師団はヴィリエとクールルイ両部落とその周辺高地に展開し、普第7旅団と第2軍団砲兵、そしてヴィルヌーブ=サン=ジョルジュで待機していた普第6軍団の「マラホウスキー支隊」*が急ぎオルムッソン北方高地尾根まで、予備となっていた普第8旅団はドラヴェイユからボアシー(=サン=レジェ)目指してそれぞれ前進を始めるのでした。


※12月2~3日の「マラホウスキー支隊」

 2日の戦闘中にフランセキー将軍から「1個旅団をヴィルヌーブへ」と要請されたテューンプリング将軍は、セーヌ左岸に待機していた普第21旅団長のヴィルヘルム・フォン・マラホウスキー=グリファ少将に対し「直ぐに動かせる付近の部隊を率いセーヌを渡ってヴィルヌーブまで前進せよ」と命じられ、マラホウスキー将軍は麾下の擲弾兵第10「シュレジェン第1」連隊と第22旅団のフュージリア第38「シュレジェン」連隊を借り受けてヴィルヌーブに進んでいました。


 しかし仏パリ軍は独軍の増強を待つはずなどなく、一気にシャンピニー部落内とその北のランド川沿い、そしてヴィリエ部落前の独軍前哨を襲い、前線を突破しようと試みたのです。

 気温がマイナス14度と冷え込んだこの朝、シャンピニー部落とその南郊外マルヌ川岸の低地では普軍の前哨3個(第49連隊第9,11、猟兵第2大隊第2)中隊が仏軍の攻撃をいとも簡単に退けましたが、シャンピニー部落の北部では仏軍は独軍前哨を蹴散らして前進し、その先の公園林西端に急ぎ展開した普軍の7個(猟兵第2大隊第1,4中隊、第49連隊第1~4,6)中隊と衝突しました。ここでも仏軍は普軍部隊によって前進を阻まれ、やがて勢いを失った仏軍散兵群は後退を始めるのです。同じ頃、普第14「ポンメルン第3」連隊の第1大隊はランド川の南岸を東へ進もうとしていた仏軍縦隊の隙を突いて襲撃し、これを石炭製造所後方まで退却させるのでした。

 W師団の3個(W第5連隊第6、W猟兵第3大隊第2,4)中隊はヴィリエ西公園に向かって攻撃前進する仏軍散兵群を攻撃し足を止めさせることに成功しました。それでもこの仏軍散兵は公園北西端の隔壁を乗り越えて公園内へ突入しようとしましたが、これも付近の独軍によって狙い撃ちされ後退しています。


挿絵(By みてみん)

市街戦 普軍前哨を襲う仏軍


 こうして仏軍は出鼻を挫かれ、30日や2日の攻防と比べて覇気に欠ける仏軍の攻勢は一気に尻つぼみとなり、この後の戦闘は小部隊の遭遇戦か散発的な銃砲撃に徹して戦線は動かず、期せずして戦場に濃霧が漂い出したこともあって銃声も午後には止んでしまうのです。

 すっかり静かになった戦線を見ていたフランセキー将軍は午後4時、前線の諸隊と警戒する後方予備に対し「本日の戦闘は終了。後退して宿営せよ」と命じます。前線部隊の後退援護はノアジー(=ル=グラン)付近のS軍団、ヴィリエ付近のW師団、そしてシャンピニー付近に残留する普軍前哨が行い、前線部隊は全て何の妨害を受けることなく宿・野営地に至るのでした。


 この日午前中まで仏パリ軍はシャンピニー半島から退く気配を見せず、「生半可な攻撃では敵をパリに追い返せない」と覚悟したアルベルト王子は、翌朝を以てアヴァロン山に対面する第23「S第1」師団の残部もマルヌ左岸(南)へ渡河させ、アルベルト王子の要請を受けた普フリードリヒ皇太子も、普第6軍団から更に1個旅団を割いてセーヌ右岸へ差し向ける命令を出すのです。


 この12月3日の夜は互いに砲撃もなく、前哨同士の小競り合いも起こらず戦場は不気味に静まり返っていました。もっともパリ近郊の寒気は更に強まり、この極寒と連日の戦闘により互いの将兵は限界を迎えようとしていたのです。


挿絵(By みてみん)

廃墟で食事をする前線の普軍兵士


 仏軍に劣らず危機的状況は独軍側も一緒で、3日朝に仕掛けられた仏軍からの攻撃は、疲れ切った独軍(特に30日から戦い続けるWとS軍)前線兵士の神経を極限までにすり減らし、この時は仏軍側も本意でない熱意薄い攻撃だったため何とか追い返せはしたものの、後1回でも仏軍が本気でゴリ押しすれば独軍戦線に裂け目が生じる可能性大だったのです。

 これはベルサイユの大本営も憂慮していたことでしたが、モルトケら参謀本部は前述通り皇太子から1個旅団を割いてアルベルト王子に与え、アルベルト王子がアヴァロン山前面からS軍団全てを引き抜いてマルヌを渡河させ、代わりに危険なサン=ドニ東面を監視する普近衛軍団の包囲網を薄く南に引き延ばす手立てを成すのを黙って見るだけで(さすがに万が一を考え、パリの遙か北で戦っていたマントイフェル将軍の独第一軍に南下の可能性を示唆しましたが)、それ以上は何の手立ても施さずひたすら我慢をしていました。

 何故ならば、この3日から4日に掛けての夜、「戦況は我に有利に進行し、明日にはオルレアンが独軍の手に落ちるのは確実」とのカール王子からの報告が届いていたからで、モルトケら普大本営首脳陣は、これでパリの包囲網は南側から押される恐れがなくなり、後はひたすら仏パリ軍の起こす「騒動」を押さえ込み耐久するだけで「パリ(=仏)は落ちる」と考えていたからなのでした。


挿絵(By みてみん)

破壊されたブリの城館


 4日朝。夜の明け切らぬ内に敵情偵察に出発した独軍の各斥候たちは、ブリ部落とその東高地、ヴィリエ西方の公園に対面した高地、そしてシャンピニー部落内から仏兵がいなくなっていることに気付きます。


 実は前日3日早朝、デュクロ将軍は一人悩んだ挙げ句、「優柔不断な」トロシュら国防政府に諮ることはせず、「独軍が兵力的にも優位に立つ前」にパリ第二軍諸隊をマルヌ対岸へ後退させる決断を下していたのです。

 デュクロはまず前述通り前線部隊に攻撃行動を取らせて独軍を牽制した後、正午から輜重、次いで後方予備、前線部隊と順番にマルヌを渡河させて行きました。この3日午後は前述通り都合よく濃霧がシャンピニー半島を覆い、仏軍諸兵は疲れた身体を引きずるようにしてブリ、ヌイイ、そしてジョアンヴィルの舟橋を渡ったのでした。

 午後7時30分頃にはジョアンヴィルの軍橋を護るために半島へ残ったファロン師団の第2旅団(ルイ・コンスタン・ロラン・ドゥ・ラ・マリウーズ准将指揮/戦列歩兵第35と42連隊からなるパリ軍唯一の正規戦列歩兵旅団)以外、ほぼ全ての部隊がマルヌ対岸へ去ってヴァンセンヌの森周辺へ集合し、デュクロ将軍が兵士たちとパリ市民の「激昂」を防ぐために達した「この後退は単に軍の戦闘力を復活させるための戦術的後退である」との「御託」をそれぞれの指揮官から聞かされるのでした。


挿絵(By みてみん)

ヴァンセンヌの森のパリ軍


 この4日朝。アルベルト王子が下した命令でマース軍の包囲管区最右翼(西側)の普第4軍団はモンマニー(サン=ドニの北北西4.2キロ)からモン・パンソン(モンマニー部落の東南東850mの小山)山上にあったそれまで近衛軍団右翼部隊が入っていた陣地帯に入り、普近衛軍団は包囲網左翼(東から南)を一気にマルヌ右岸のシェルまで延ばしました。

 マルヌ渡河を命じられた北独第23「S第1」師団のマルヌ右岸諸隊(第46旅団と擲弾兵第101連隊)は、渡河前に仏軍の撤退を知りますが、既に普近衛軍団が南下を始めてS軍団の任地へ入って来たために原命令に従ってマルヌを渡河し、一時マルヌ左岸沿いに待機しました。

 一方、普第6軍団でオルムッソンへ向かいシュシーまで進んでいた諸隊は、仏軍撤退の報を受けて逆戻りを始め、この4日のうちに再びセーヌを渡河してショアジー~ライ=レ=ローズまでの以前の前線に復帰、同じく4日を以て普フリードリヒ皇太子の独第三軍麾下へ戻った普第2軍団は、大本営からの直接命令を受けてボヌーイ(=シュル=マルヌ)からノアジー=ル=グランまでのマルヌ川沿い包囲線守備にそのまま残ることとなりました。W師団はこの普第2軍団と普第6軍団の間、ボヌーイからヴァロントンまでの「クレテイユの三角地帯」を担当する事になるのです。


 また、S軍団は翌5日から6日に掛けてマルヌ右岸へ戻り、11月末までの任地であるマルヌ沿岸のシェルからウルク運河までの間に宿営地を置いて、アヴァロン山の仏軍(パリ第三軍のデューグ師団と強力な野戦重砲砲列)と対峙し、この地に進んでいた普近衛軍団も速やかに元の任地へ帰ったのです。

 実はアヴァロン山の仏デューグ師団はシャンピニー戦終了・パリ第二軍からの撤退命令と同時に引き上げ命令を受けており、この撤退にマース軍は気付かず、数日後にその事実を斥候報告によって知るのでした(従来の砲兵と守備隊は居残っています)。


 ここまでの「シャンピニーの戦い」期間中、アルベルト王子はマース軍本営をウルク運河沿いのル=ヴィレ=ガラン(サン=ドニの東15.1キロ)に置いていましたが、5日、危機は去ったとしてマルジャンシーへ帰って行ったのでした。


 この「シャンピニーの戦い」(11月30日から12月3日まで)における独軍の損害合計は戦死者約1,350名、負傷者約3,350名、捕虜は約750名に及びますが、仏軍は戦死者2,000名ほど、負傷者8,000名ほど、捕虜は2,000名前後と独軍の倍以上と言われています。この内12月2日の戦闘では仏軍は戦死1,000名、負傷5,000名を数え、独軍は戦死720名、負傷2,290名を計上したのです。


挿絵(By みてみん)

戦闘後のシャンピニー市内(20世紀初頭絵葉書)


※「シャンピニーの戦い」(11月30日/12月2日)独軍の損害

*11月30日

○北独第12「S」軍団

戦死/士官10名・下士官兵138名・馬匹24頭

負傷/士官20名・下士官兵472名・馬匹14頭

行方不明(捕虜)/士官1名・下士官兵212名

○W師団

戦死/士官3名・下士官兵248名・馬匹53頭

負傷/士官22名・下士官兵547名・馬匹22頭

行方不明(捕虜)/下士官兵10名・馬匹1頭

○総計

士官66名・下士官兵1,627名・馬匹114頭

*12月2日

○普第2軍団

戦死/士官27名・下士官兵242名・馬匹88頭

負傷/士官62名(内・軍医2名)・下士官兵1,096名・馬匹29頭

行方不明(捕虜)/士官1名・下士官兵29名・馬匹2頭

○北独第12「S」軍団

戦死/士官21名(内・軍医1名)・下士官兵190名・馬匹11頭

負傷/士官31名・下士官兵628名・馬匹4頭

行方不明(捕虜)/下士官兵381名

○W師団

戦死/士官13名・下士官兵230名・馬匹30頭

負傷/士官26名・下士官兵444名・馬匹9頭

行方不明(捕虜)/士官1名・下士官兵120名

○総計

士官182名(内・軍医3名)・下士官兵3,360名・馬匹173頭


※1日と3日の損害は双方僅かなため割愛します。


挿絵(By みてみん)

ジョアンヴィルの野戦救護所(アルフレート・ドゥカン画)


 こうしてパリの包囲を破るため、寄せ集めではあるものの護国軍や国民衛兵と比べれば戦力として当てになる元・マルシェ部隊(後方任務や要所警備・補充を主任務とする正規軍部隊/戦列歩兵の100番台連隊)を正面に立てた作戦は儚くも失敗に帰しました。国防政府の首脳陣は打ち沈み、悲観論は高まりますが誰も「こうなった責任」を問われたくはないために、殆どの軍首脳と閣僚たちは黙して語りません。

 つい一週間前に「勝利無くばパリへ生きて帰らぬ」と豪語したデュクロ将軍はそうではなく、3日の深夜に空しくマルヌを渡り、トロシュの前に出ると開口一番「ただちにパリ軍を立て直し、計画を元に戻してサン=ドニとコロンブ半島からセーヌ伝いに北西方面へ突破したい」と意気込みました。しかし軍に失望していたトロシュは躊躇し、汚名を濯ぎたい一心のデュクロが懇願してようやく実行許可を出すのです。

 ところが、帰還したパリ第二軍諸隊がヴァンセンヌの森で再建の第一歩を踏み出した直後の5日夕、独軍の使者がパリ西のセーヌ川に唯一残されていたセーブル橋に現れ、一通のトロシュ将軍宛の書簡を渡したのです。

 ベルサイユのモルトケ将軍から送られたその書簡には「ロアール軍がオルレアンで敗北し市街は再び独軍支配下に置かれた」ことを通告し、「もしご不審あれば麾下士官1名を彼の地へ派遣し確認をするがよろしいでしょう。そのための独軍占領下における往復通行証を発行致します」と記されており、モルトケはいかにも彼らしい「直球」を投げて寄越したのでした。

 これはパリ救援に向かうはずだったロアール軍が「二度とパリに至ることはない」ので「今のうちに白旗を挙げなさい」というモルトケの忠告と言えました。


 これを踏まえて6日に開かれた国防政府の首脳会議では外相のジュール・ファーブルが、現実を直視すれば休戦するしかない、と発言しましたが、これも沈黙と冷ややかなノンの声に迎えられ、ウイと言う者はいませんでした。結局はセダンやメッスの陥落によって名声が地に墜ちたナポレオン3世やマクマオン、ル・ブーフ、そしてバゼーヌの二の舞を避けたいトロシュが拒否して戦闘継続が決定してしまうのでした。


 パリ市内では既に「シャンピニー」での敗北が現実として受け止められ、それに加え「どうやらベルサイユからモルトケの書簡なるものが到着しそれにはロアール軍の敗北とオルレアンの陥落が述べられているらしい」とのニュースが広まっていました。

 しかしトロシュやデュクロが恐れていた10月末の「蜂起」のような事態には至りません。これには次のような事情が影響したと思われます。

 11月になるとパリでは「まともな」食料(そして燃料)が店先から消え、ここに記すのもはばかりがある様々な「食材」が売られ始めていました。

 最初に消費された馬類が街から消えた後、人々は「街角の小動物」に手を出し、これも12月中には中々見つからない羽目となってしまいました。その代わりとして狙われたのがパリにある動物園の動物たちで、「街角の小動物」よりは余程まともに見える「肉」の供給元となり、偶蹄目や奇蹄目の動物から順に屠殺されて行ったのでした。

 クリスマスの頃には遂に象(アジアゾウの「カストル」と「ポルックス」。戦前は背中に人々を乗せて歩くなど人気者でしたが、この時は既に餌を絶たれて衰弱していました)が射殺され、その貴重なタンパク源はこんな時にも(否、こんな時だからでしょうか)商売に精を出す食料商に卸されて市街の肉屋に並んだのです。


挿絵(By みてみん)

殺される動物園の象


 もちろん食料統制と強制供出は行われていましたが、相変わらず「持てる者」は特権を行使して(多少の影響は出ていたものの)備蓄した食材を隠し持ち、腹を空かすことなく過ごしており、反対に多数派の「持たざる者」(正規の軍人は別)だけが空腹に苛まれていたのです。国防政府に対する恨み辛みはあるものの、まずは生きて行かねばならず、パリ市民たちはいつまで続くかわからない包囲の下、いかに食い繋いで行くかに頭の中が一杯となって行ったのでした。


 既に敗北の二文字が現実として見えて来たトロシュ将軍でしたが、表面上は平静を取り繕って襟を正し、6日、パリ市民に告げるに「敵が告げた報道は事実と考えられるが、全国から駆けつけようとするパリ救援の希望が無くなった訳ではない」として「パリの決意と義務は変更されない」と戦争続行を宣言します。

 その結びの言葉はお決まりの「フランス万歳・共和国万歳」でしたが、この状況下では、これはまるで処刑寸前の叫びを連想してしまうものだったのです。


挿絵(By みてみん)

シャンピニーの戦い(19世紀の図版)


挿絵(By みてみん)

シャンピニーの戦い(パノラマ・部分)02 エドゥアール・デタイユ画


挿絵(By みてみん)

シャンピニーの戦い(パノラマ)石炭製造所部分拡大その1


挿絵(By みてみん)

シャンピニーの戦い(パノラマ)石炭製造所部分拡大その2



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