シャンピニーの戦い/極寒の死闘・12月2日(前)
☆ ヴュルテンベルク王国野戦師団(1870年11月30日付)
司令官 普軍男爵フーゴー・モーリッツ・アントン・ハインリッヒ・フォン・オーベルニッツ中将
参謀長 パウル・フリードリヒ・フォン・トリービッヒ大佐
*作戦課
男爵フォン・ファルケンシュタイン大尉/エーゲル中尉/男爵フォン・ヴィーダーホールト中尉
*内務課
男爵フリードリヒ・ペルグラー・フォン・ペルクラス中佐/ライバー大尉
*副官
伯爵フォン・ディーラー大尉/普軍フォン・ストッシュ大尉/普軍フォン・ランゲンベック中尉
砲兵部長 フォン・ジック大佐
工兵部長 男爵ショット・フォン・ショッテンシュタイン大尉
衛兵中隊長 ハインリヒ大尉
師団本部付 普軍フォン・ラットレ少佐(参謀本部より派遣)
◇ ヴェルテンベルク王国野戦第1旅団
男爵カール・ベルンハルト・フォン・ライツェンシュタイン少将
参謀 バッフ大尉
*ヴェルテンベルク第1「王妃オルガ」連隊 フォン・ベルガー大佐
*ヴェルテンベルク第7連隊 カール・アウグスト・ヘルマン・フォン・ランパッハー大佐
*ヴュルテンベルク猟兵第2大隊 フォン・クニュルチュル中佐
・ヴュルテンベルク第1衛生小隊
◇ ヴュルテンベルク王国野戦第2旅団
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ゲオルグ・フォン・スタルクロッフ少将
参謀 ザールヴァイ大尉
*ヴェルテンベルク第2連隊 アルベルト・フォン・リングラー大佐
*ヴェルテンベルク第5「国王カール」連隊 男爵フリードリヒ・フォン・ヒューゲル大佐
・ヴュルテンベルク猟兵第3大隊 フォン・リンク中佐
◇ ヴュルテンベルク王国野戦第3旅団
男爵アルベルト・フォン・ヒューゲル少将
※疾病入院のためフォン・マウフ大佐が代行指揮
参謀 シル大尉
*ヴェルテンベルク第3連隊 マクシミリアン・ジョセフ・フォン・プファイフェルマン大佐
*ヴェルテンベルク第8連隊 フォン・マウフ大佐
※第3旅団を代行指揮していたためフリードリヒ・アントン・フォン・シュレーダー中佐が代理として勤務
・ヴュルテンベルク猟兵第1大隊 グスタフ・フォン・ブランデンシュタイン中佐
・ヴュルテンベルク第3衛生小隊
◯ ヴュルテンベルク騎兵旅団
伯爵フォン・セーレル少将
参謀 伯爵フェルディナント・アドルフ・ハインリヒ・アウグスト・フォン・ツェッペリン大尉
*ヴュルテンベルクライター騎兵第1「国王カール」連隊
男爵オスカー・フォン・ハルデック大佐
*ヴュルテンベルクライター騎兵第3「国王ヴィルヘルム」連隊
男爵フォン・ファルケンシュタイン大佐
*ヴュルテンベルクライター騎兵第4「王妃オルガ」連隊
伯爵フォン・ノーマン=エーレンフェルス大佐
◯ 師団砲兵隊 (6ポンド砲x18, 4ポンド砲x36)
*ヴュルテンベルク野戦砲兵第1大隊 フォン・マルヒターラー中佐
・6ポンド砲第1中隊(6門)
・4ポンド砲第2,3中隊(12門)
*ヴュルテンベルク野戦砲兵第2大隊 ロシュマン中佐
・6ポンド砲第6中隊(6門)
・4ポンド砲第4,5中隊(12門)
*ヴュルテンベルク野戦砲兵第3大隊 レンツ少佐
・6ポンド砲第9中隊(6門)
・4ポンド砲第7,8中隊(12門)
*ヴュルテンベルク野戦工兵団/架橋縦列、器具縦列 レッフラー中佐
*ヴュルテンベルク第1,2,3予備弾薬縦列 クーホルスト大尉
*ヴュルテンベルク輜重隊 ウーランド大尉
・ヴュルテンベルク第4衛生小隊
*馬廠・野戦屠獣縦列・野戦製パン縦列・第1,2,3,4糧食縦列
*第1~6野戦病院
シャンピニーの戦い(パノラマ・シャンピニーの東郊外公園部分)
エドゥアール・デタイユ画
☆ 11月30日夜~12月1日
憂鬱な曇天と時折の降雪が続いた11月も終わる30日。パリ市周辺では久々に晴天の一日となり、市内は期待半分・不安半分の落ち着かない心情に居ても立ってもいられない多くの市民が醸し出す張り詰めた空気に満たされて時が過ぎて行きました。
東方からは激しい戦いを裏付ける砲声が時折の中断を挟んで早朝から日暮れまで続き、市民たちは前日発表されたトロシュ将軍の「パリ解囲に向けて前進するロアール軍に同調するためのパリ軍出撃」という「声明」と「勝つまでは生きて帰らない」と断言したデュクロ将軍の「宣言」を信じ、ある者は祈り、ある者は半信半疑ながらも「今度こそ」の希望に心揺らぐのでした。
正午過ぎには僅かながらも市内へ連行される捕虜の姿が目撃され、歓声に応え凱旋将軍のようにドライゼ銃を見せびらかす臨時国民衛兵の姿に勝利を確信する市民が浮かれ出しました。
夜に入って国防政府筋から発表された「戦果」も「パリ軍の大勝利・仏軍の再興」を祝い「明日も続くだろう戦いでパリは救われる」と言うもので、一部の市民はこれで包囲も解かれ11月下旬遂に始まった飢餓に続く食糧難もやがて解消される、と喜んだものでした。
しかし冷静に状況を眺めていた市民たち、特に市街東部セーヌ右岸の市民たちは、午後に入って増え始め、その後は途絶えることが無くなった負傷者の流れが「敗北」の二文字を示すのでは、と疑い出すのです。
人々の心を写すように、夜に入ると雲が広がって小雪が舞い始めます。昼間は晴れていた分、寒気は強烈で、戦場の泥濘はたちまちにして再び堅い岩の様に凍て付き、不運にも野営するしかなかった両軍の兵士たちを凍えさせるのでした。
戦闘が完全に終了して夜更けとなると、独軍側では急ぎ翌日のための行動が開始されます。
マース軍本営では「明日も早朝からヴィリエ及びクールルイに対する攻撃が続く」と考え、これは普ベルサイユ大本営も同感で、直ちに「普第2及び第6軍団の一部を東へ移動させる」よう命令が飛びます。
これによる各隊の移動準備は深夜から始まり、普第4師団の「セーヌ右岸支隊」(普第7旅団主幹)と普第11師団の第21旅団は翌12月1日黎明に宿営地を発ってW師団の包囲管区後方を急ぎ、午前9時にはシュシー(=アン=ブリ。シャンピニーの南4.9キロ)周辺に至ります。
前日30日夕刻にパレゾー(ベルサイユ宮殿の南東13.5キロ)周辺の宿営地へ入ったばかりの普第3師団は1日午前7時に宿営地を発ち、ヴィルヌーブ=サン=ジョルジュの渡河点でセーヌを渡ると、午後にはボアシー(=サン=レジェ。シュシー=アン=ブリの南南西2.2キロ)とシュシー間の待機陣地帯に到着しました。
しかし、独軍の将官たちが覚悟していた仏軍の「一大攻勢」はこの日、遂に始まりませんでした。
デュクロ将軍らパリ第二軍本営は「状況を判断すれば攻勢は失敗に帰した」と悲観しており、そうは言ってもこのままおずおずと市内へ帰ったりしたら「間違いなく暴動・革命が発生する」と恐れ、「大風呂敷」を畳むのが難しくなったトロシュ将軍(ロニー分派堡に司令部を置きました)とデュクロ将軍(シャンピニー半島にいます)らは「シャンピニー半島の前線をそのまま維持する」と決意し、麾下各隊に「現在地を死守するため防御を徹底せよ」と命じたのです。このため、仏軍は拠点防御の陣地補強工事や戦場に残された負傷者の救出と後送、戦死者の回収、戦場の整理に忙しく、これを見た前線のS、W両軍も同様に防御や負傷者の手当に時間を費やしたのです。
独軍の葬儀
この「自然休戦の一日」でも多少の動きは見られ、パリ第三軍のデューグ師団に護衛されてアヴァロン山に進出していた仏軍の野戦重砲砲列はこの日も一日ノアジー=ル=グランやヴィリエ北のS軍陣地、そしてS軍の主力がいると思われたシェルを砲撃し、強行偵察のため山を下った仏護国軍兵の数個中隊はS軍の前哨を蹴散らすとガニー(ヌイイ=シュル=マルヌの北3.1キロ)に進出しますが、付近の北独第23「S第1」師団部隊が対応し始めると直ぐにアヴァロン山へ引き上げたのです。
1日の午後に入ると「偶発的状況によって今日一日は双方望まない開戦が発生するのを避けるため」上司暗黙の了承の上、双方前線指揮官たちの間で「夕方まで数時間の一時的休戦」が紳士協定で結ばれ、双方の兵士たちは急ぎ前線を越えて負傷者の救助や死者の回収と埋葬、そしてこれが大事ですが、自軍陣地からは死角となり敵からは遮蔽物に利用される様々な戦場の妨害物(=ゴミ)の除去を始め、同時に「横目で」敵の布陣を確かめたのでした。
独軍側も仏軍に劣らずこの「幕間」を利用します。
ノアジーやヴィリエ、クールルイ、そして「狩猟小屋」の各拠点では急ぎ陣地の防御力強化工事が施され、また南方に先述の2個(普第7、普第21)旅団が増援としてやって来たため、この「シャンピニー半島」の付け根における独軍の戦力はほぼ倍近くになりました。これによりマース軍司令官アルベルト・ザクセン王子はS軍団長の弟君ゲオルグ王子に対し「包囲網に脅威を与えるシャンピニー半島内の敵をマルヌ対岸へ追い返し、同時に架橋された軍舟橋を全て破壊せよ」と正式に命じます。ところが、この命令は前述のアヴァロン山からの砲撃やガニーへ敵が侵攻したことなどから伝達が相当に遅れ、ゲオルグ王子が兄の書簡命令を読む頃には既に夜となってしまいました。このため、この進撃命令は翌朝から開始されることとなったのです(後述)。
パリ郊外のアルベルト・フォン・ザクセン王太子
この晩、寒気は更に増して氷点下10度となり、前線にある独軍の指揮官たちは「この過酷な状況では、疲弊度の高い兵士を露天に置くと疾病・凍死の危険がある」と判断し、家屋がある限り出来るだけ多くの将兵が屋根の下で就寝出来るよう宿営の用意に奔走しました。不運にも前哨任務に就いた兵士たちも敵の状況が許す限り、屋根のある建物まで下がるよう訓令されたのです。
この1日夜、シャンピニー戦線の独軍右翼(北)はS軍団が担当し、ノアジーからヴィリエにかけて出来る限り集合し身を寄せ合って宿営し、この内臨時にゲオルグ王子の指揮下に入ったW第1旅団はヴィリエとクールルイで宿営しました。
この左翼(南)には前進して来た普第7旅団があり、シュヌビエール周辺で宿営します。W師団残りの2個旅団は従来通りシュシー=アン=ブリとヴァロントン周辺で宿営していました。このW師団左翼後方(東)に普第3師団と普第2軍団砲兵隊が進み、彼らはビルクレーヌ(シュシー=アン=ブリの南5.5キロ)~マロルサン(=ブリ。ビルクレーヌの北東2キロ)~サントニー(同東3キロ)の間で宿営し、逆に行李や糧食を後方に置いたまま前進していた普第21旅団はセーヌを再び渡河してアティス(=モンス。ヴィルヌーブ=サン=ジョルジュの西南西5.1キロ)付近で宿営と食料にありついたのです。
この1日夜、普大本営はヴィルヘルム1世国王の名で命令を発し、このセーヌとマルヌ間にある諸隊(S軍団のほぼ4分の3・W師団・普第7旅団・普第2軍団)の指揮を一時普第2軍団長のフォン・フランセキー歩兵大将に預けるとし、フリードリヒ皇太子の独第三軍隷下のフランセキー将軍は、これも一時マース軍司令アルベルト王子の指揮下に置かれることとされました。
フランセキー将軍の下には夕暮れ時、アルベルト王子からの命令が届き、それによれば、「本日S軍団司令官に下した総攻撃命令は明日実行せよ」とのことで、将軍は直ちにゲオルグ王子に対し「麾下諸隊を直率して明日2日早朝よりブリからシャンピニーに控える仏軍を攻撃せよ」と命じるのでした。
更にフランセキー将軍は王子に対して「必要ならば普第7旅団も配下に加え攻撃に用いるべし」とし、自身率いる普第2軍団の第6旅団と野戦砲兵2個中隊は明午前7時にシュシー=アン=ブリへ集合とし、軍団残余の部隊も全て宿営地において戦闘態勢を採るよう命じたのでした。
ところが、日付が変わって午前3時、フランセキー将軍の本営にベルサイユから連絡士官が到着し、「普第21旅団以外にも第2軍団の1個師団(普第4師団と思われます)をもセーヌ左岸(西)へ帰すように」との訓令を渡すのです。しかし、鬼神も畏れる「グラヴロット/サン=テュベール」や「シュウィープ森」のフランセキー将軍(「ケーニヒグレーツの戦い/死に神の棲む森で」以降を参照)は「今朝の命令は既に下された」として大本営の命令に服せず、「このままでは混乱を招くので前命令を保持することとした」旨の弁明書を急ぎ書き上げると、「これを参謀総長に」と連絡士官に渡したのです。
フランセキー将軍
同じ頃、ブリ~シャンピニーの前線ではデュクロ将軍麾下の将兵が眠れぬ夜を過ごしていました。独軍の目から遮蔽された場所にいた運の良い者は焚き火に寄り集まって極寒の夜を過ごしていましたが、殆どの兵士は毛布や重い防寒具を持たず寒空に凍えていたのです。
パリ軍当初の計画では、30日の内にシャンピニー半島を席巻しノアジーからヴィリエ、クールルイ高地、そしてシュヌビエールまでを占領、運が良ければシャンの部落すら制圧して将兵は暖かな室内で休息出来るはずでした。そのため、身軽になって戦闘に専念出来るよう「装備は必要最低限しか持たない」決定がなされており、パリ軍の兵士たちは輜重・行李は当然のこと、個人装備の毛布すら持たずに前進していたのです。
シャンピニーの防衛(12月2日)エドゥアール・デタイユ画
☆ 12月2日
12月2日黎明前。フランセキー将軍によってブレ攻撃を命じられた北独第24「S第2」師団は、ゲオルグ王子によって増派された同第23「S第1」師団の歩兵4個大隊とS軍団砲兵隊と共にノアジー=ル=グラン南東郊外のラ・グルヌイエール農場(ヴィリエの東北東2.5キロ付近にありました。現在は学校が建っています)付近に集合し、シャンピニー攻撃を命じられたW第1旅団はW第1連隊をヴィリエとその南側鉄道堤周辺に、W第7連隊とW猟兵第2大隊をブレール高地付近に集合させ、それぞれ出撃態勢を取りました。これら前線部隊の後方では、普第2軍団の普第7旅団が「クールルイの狩猟小屋」陣地周辺、同第6旅団は軍団砲兵2個中隊を付してシュシー付近にそれぞれ集合し、同第5旅団と軍団砲兵残りの4個中隊はマロルサン=ブリに向け夜間行軍中でした。
ゲオルグ・フォン・ザクセン
午前7時。シャンピニー半島北部戦線の指揮官となった北独第24師団長エルウィン・ネールホッフ・フォン・ホルダーベルク中将は、同師団のS第107「ザクセン第8」連隊第1、第2大隊とS第104「ザクセン第5/フリードリヒ・アウグスト王子」連隊第3大隊、そして前進阻害となる障害物除去の支援としてS工兵第4中隊を師団前衛として進発させます。この前衛先鋒はS第107連隊第2大隊で、部隊は仏軍の前哨線を突破すると前哨兵をブリ市街へ撃退し、部落への街道(現・国道D75号線)を塞ぐバリケードや馬車などに潜んで待ち伏せたものの、眠れぬ夜を過ごしてすっかり戦意を失っていた仏哨兵を次々に捕虜として行きました。しかし部落内にはパリ第3軍団の第2「マタ少将」師団第2旅団(マルティン=エドゥアール・ドーデル准将指揮)の前衛数個大隊が控えており、こちらは激しく抵抗を始めたため、この後は壮絶な市街戦に発展して行きます。また仏軍側は、アヴァロン山の重砲やロニー、ノジャンの両分派堡の要塞砲、同じくマルヌ対岸に布陣する同軍団砲兵などが味方が残っている可能性を無視してブリ郊外を砲撃し、このためS第107連隊第2大隊は士官のほぼ全員が戦死か負傷して倒れ、中隊の指揮は軍曹や伍長が行うという危機的状況となりますが、それでも部落北部を占領して譲りませんでした。
S第107連隊第1大隊はブリ東方高地から仏軍前哨を駆逐すると、同僚大隊と同じくブリ市街に接近しますが、市街東郊外に布陣していたパリ第2軍団第3「モーション少将」師団第1旅団(アンリ・ジャン・クルティ准将指揮)と正面から衝突します。これもたちまち激しい白兵戦となりますが、数で倍する仏クルティ旅団が次第にS軍将兵を圧倒し、S軍大隊はヴィリエ北方の墓地の陣地まで後退し、ここでブリの仏軍と先の見えない持久銃撃戦が始まるのでした。
同じ頃、S軍団前衛の最後尾を進んだS第104連隊第3大隊は、先にS第107連隊2個大隊が蹂躙して行ったノアジーとブリの間にあった公園(ブリの北東1キロ付近。現・国道D75号線の南沿いにありました)内から隠れ潜んでいた約100名の仏軍兵士を狩り出して捕虜とし、ブリ北部で頑張るS第107連隊第2大隊の左翼(南西)に連なると銃撃戦に加わったのです。
ブリ=シュル=マルヌへ突入するザクセン兵
一方、シャンピニー半島南部戦線の攻勢を指揮するW第1旅団長男爵カール・ベルンハルト・フォン・ライツェンシュタイン少将は、S軍団の進撃開始を受けてW猟兵第2大隊をブレール高地からシャンピニー市街東部へ、W第7連隊の6個中隊(W軍連隊は2個大隊/8個中隊制)をシャンピニー東部の公園林に向けて進発させました。
W第7連隊はブレールの家からシャンピニーへ続く旧道(現・モニュマン通り)の両脇に砲を敷いたW砲兵6ポンド第1中隊と同4ポンド第2中隊から砲撃援護を貰って速やかに公園へ侵入し、そこにいた仏シャロン師団の前哨兵のほとんどを捕虜としました。その後W歩兵6個中隊は公園西縁と北方に接する高地尾根に布陣して態勢を整え、同じく公園南を進撃したW猟兵第2大隊は大半がマルヌ河岸に沿って市街へ向かい、そのまま南東から市街地へ突入しました。この時、1個中隊は公園の第7連隊兵に合流しています。
しかし、W軍進撃の報を受けたファロン将軍は予備隊を西郊外から部落内へ投入し、北方ブリの市街戦と同じく、シャンピニー部落でも1軒を争う家屋争奪戦が繰り広げられるのです。ここでのファロン師団兵の抵抗も根強く、また両軍共に極寒の環境と防御工事に追われて一昨日の攻防の疲れも癒されておらず、この市街戦はW師団兵が僅かに前進するだけの持久戦となったのです。
この時、W第1「王妃オルガ」連隊の第7,8中隊はヴィリエ部落から鉄道堤に沿ってプティ・ボア・ドゥ・ラ・ランドの林へ突入しましたが、南方から駆け付けたパリ第1軍団第1「マルロワ少将」師団第2旅団(フランシス・ジュスタン・パチュレール准将指揮)に左翼(南)端と後尾とを攻撃され、大きな損害を被ってしまいヴィリエ南郊外の低地まで急速後退したのでした。
ライツェンシュタイン
パリ第二軍司令官デュクロ将軍は独軍による戦闘開始時にシャンピニーの前線へ出動し、敵状を観察すると午前8時30分、「パリ第二軍の出撃兵力の全力を挙げ独軍に対し逆襲せよ」と命じます。
これにより、一旦マルヌ右(ここでは北)岸に下がっていたベルマール准将師団と、一昨日はW師団左翼(西)諸隊や普第7旅団とモン=メスリーで戦っていた男爵ベルナール・ドゥ・シュスビエル少将率いる同第2軍団第1師団は前線への移動を開始し、パリ軍の野戦砲兵諸中隊は午前9時頃にシャンピニー北のランド川南にある石炭製造所周辺に展開して砲撃を始め、前線にあったファロン、マルロワ両師団は強力な砲兵による援護射撃の下、東方のクールルイ高地に向かって前進したのです。
増援を得たとはいえ、員数の上では明らかに劣る独軍側は、この一斉攻撃に対してまずは砲兵で対抗しようとし、野戦砲兵諸中隊は迫る仏軍に一斉砲撃を仕掛けました。
※午前9時過ぎクールルイ周辺の独軍砲兵
*クールルイ北方
○普野戦砲兵第2「ポンメルン」連隊・軽砲第5中隊
○同・重砲第1中隊
○W砲兵・4ポンド砲第3中隊
*ブレールの家周辺
○W砲兵・4ポンド砲第2中隊
○同・6ポンド砲第1中隊
ヴュルテンベルク猟兵第2大隊の攻撃(12月2日)
この砲撃援護を受け、クールルイの「狩猟小屋」陣地付近に進出していた普擲弾兵第9「ポンメルン第2/コルベルク」連隊第2とフュージリア(F)大隊は北進してプティ・ボア・ドゥ・ラ・ランドへ向かい、一気果敢な突撃で林を奪取すると、その先の鉄道堤に構えて銃撃を行っていた仏マルロワ師団将兵を白兵戦に誘い込みました。銃床や銃剣による凄惨な戦闘は練度と経験に勝る独軍が勝利し、鉄道堤の仏軍部隊はほぼ全滅の憂き目となったのでした。
この戦闘とほぼ同時刻、同じく北上していた普第49「ポンメルン第6」連隊第1、2大隊はシャンピニー北方高地上に広がるブドウ畑に進み出、高地へ登って来たマルロワ師団将兵とこちらも白兵戦となります。
普軍はW第7連隊が敵の攻撃を受けて放棄していたヴィリエ停車場西の鉄道堤に沿った砂利採取場を奪い返し、一旦は後退していたW第7連隊の第2,5中隊は、石炭製造所から逆襲に出撃したマルロワ師団の部隊を攻撃してこれを追い返しました。
しかし、ラ・プラン方面(西)から新たな仏軍増援が現れたことで、独軍は再び砂利採取場を棄てて後退しますが、入り代わりに砂利採取場に入った仏軍の油断を突き、踵を返した普第49連隊の第2大隊がブドウ畑の中から飛び出して逆襲し、砂利採取場の一部を再び占拠すると周辺の仏軍と激しい銃撃戦となったのでした。
また、普第49連隊のF大隊はW猟兵第2大隊と一緒にシャンピニー市街へ突入し、カトリック教会(市街東側・現在の市役所南東170m付近にあります)まで侵入を果たしますが、次第に増える仏シャロン師団兵必死の防戦によって、それ以上西へ進むことが出来ませんでした。
シャンピニーの教会
仏軍が一斉反攻に転じ、戦線が膠着し始めたことを知ったフォン・フランセキー将軍は普第6旅団をシュシー=アン=ブリからシャンピニー前面まで前進させて参戦させ、夜間行軍を行ったばかりの普第5旅団と普第2軍団砲兵残りの4個中隊をマロルサン=ブリからクールルイまで前進させるのです。同時にフランセキー将軍はセーヌ左岸の普第6軍団本営へ使者を走らせ、フォン・テューンプリング将軍に「1個旅団をヴィルヌーブ・サン・ジョルジュへ送って戦闘準備を取らせて頂きたい」との要望を伝えたのでした。
前線へ進んだ普軍増援は直ちに戦闘へ関与します。
シャンピニー東方高地上に進んで砲列を成した普第2軍団所属砲兵*は、シャンピニー周辺で抵抗する仏軍に向かって有効な砲撃を行い始め、普猟兵第2大隊はシャンピニー市街と東郊公園で戦う友軍の増援となり、普第14「ポンメルン第3」連隊第1大隊は高地上のブドウ園で戦う普第49連隊の増援となりました。
最前線に進出し指揮を執り始めた普第3師団長のマティアス・アンドレアス・エルネスト・フォン・ハルトマン少将は、このシャンピニー市街と高地、公園で戦う諸隊を統括し、粘り強く銃砲撃を行って次第に仏軍の疲弊を誘い、遂に正午頃、普軍はシャンピニーからブリへの街道(現ギイ・モケ通り)までを制圧すると、その北にある砂利採取場に突入して仏軍を駆逐、場内でおよそ160名の仏兵を捕虜にしました。
一昨日から目まぐるしく攻守を変えたこの拠点も、以降独軍が死守して二度と仏軍に明け渡すことはなかったのです。
石炭製造所の戦闘(デタイユ画)
シャンピニー東郊外に展開し前線の友軍に対して有効な援護射撃を続けていた独軍砲兵は、午前11時以降更に第2軍団砲兵残りの4個中隊を加えました。
※午前11時過ぎ・シャンピニー方面の独軍砲兵
*「クールルイの狩猟小屋」からシャンピニーへの旧道の南に沿って
○W砲兵・6ポンド砲第1中隊
○普野戦砲兵第2連隊・軽砲第1,2中隊+
○同・重砲第2中隊+
*ブレールの家北東側
○W砲兵・4ポンド砲第2中隊
○普野戦砲兵第2連隊・軽砲第3,4中隊+
○同・重砲第3,4中隊#
○同・騎砲兵第2,3中隊#
*クールルイ北方
○W砲兵・4ポンド砲第3中隊
○普野戦砲兵第2連隊・軽砲第5中隊
○同・重砲第1中隊
+午前10時前後に増援として加わった砲兵中隊
#午前11時以降に増援として加わった砲兵中隊
クールルイで戦うヴュルテンベルク第1王妃オルガ連隊
この野戦砲兵14個中隊(各種砲84門)は強力な阻止力を発揮するはずでしたが、友軍歩兵が敵に接近して戦ってしまうと前線から少し離れて
隠れ潜む後方守備隊や予備部隊を砲撃するしかなくなってしまいます。逆にマルヌ対岸の仏分派堡や砲兵陣地から、射程と威力が数倍する要塞砲や海軍重砲などから狙われて一方的に損害が増大し始めるのです。このため、クールルイ前面の独軍砲列は午後1時一斉に砲を前車に繋いで戦場を離れ、「マルヌ巾着部」の仏軍砲台からも死角となる狩猟小屋近郊の窪地まで下がったのでした。
砲兵の苦難とは逆に歩兵はゆっくりとですが占領地の拡大に努め、シャンピニー~ブリ街道の戦線は普第14連隊F大隊を先頭に、午後に入って右翼北側へ延伸されました。
このシャンピニー半島南部の戦線は以降夕方まで散発的な銃撃戦と小競り合いが続き、戦線はこれ以上拡大せず午前7時に始まった戦闘は夜陰が辺りを支配するとようやくにして終了したのです。
疲弊の極に達したW第1と第7連隊、そしてW猟兵第2大隊の将兵はシャンピニー東郊に集合すると、この暗闇に乗じて戦線を離れクールルイとその公園林へ引き上げます。普第49連隊F大隊は、普猟兵第2大隊の1個中隊と共にシャンピニー部落内の教会周辺を確保し、同連隊の第1と第2大隊、そして普猟兵第2大隊残りの3個中隊はシャンピニー北方の高地尾根と線路脇の砂利採取場を占領したまま夜を迎えます。
普第14連隊の2個(第1・F)大隊はこの右翼(北)側に連なってシャンピニー~ブリ街道の線を維持し、更に右翼側のプティ・ボア・ドゥ・ラ・ランド林には普擲弾兵第9連隊の2個大隊が居座っていました。
これら前線部隊の後方、シャンピニーの東側郊外・公園の外には普第14連隊第2大隊と、進軍途中に砲撃を受け連隊長の男爵フェルディナント・フォン・レッヒェンベルク中佐が致命傷を負って後送されてしまった第54「ポンメルン第7」連隊が予備として控えていました。更にシュシー=アン=ブリ周辺で「巾着部」を警戒していたW第2旅団もその主力が北進し、午後2時30分にはシュヌビエール付近に到着し布陣しています。
戦うヴュルテンベルク第7連隊(12月2日)
☆ 普第12「ザクセン王国」軍団(1870年11月30日付)
司令官 ゲオルグ・フォン・ザクセン親王中将
*王族付武官 フォン・エーレンシュタイン騎兵大尉
参謀長 フリードリヒ・フォン・チッツシュヴィッツ大佐
※グラヴロット会戦時での事故負傷(「グラヴロットの戦い/会戦後の夜間と翌19日の状況(前)」参照)入院のためシューベルト中佐が代行
*参謀部
フォン・ライヘル大尉/男爵フォン・ホーデンベルク大尉
*副官部
ヴィルヘルム・フォン・ミンクヴィッツ大尉/ミュラー・フォン・ベルネック中尉/フォン・シンプ中尉
砲兵部長 ケーラー少将(ザクセン砲兵旅団長)
工兵部長 クレンム少佐
*工兵部 ポルティウス大尉
衛兵長 ハウトウ中尉
◯ 第23「ザクセン第1」師団
師団長 アルバン・フォン・モンベ少将
参謀士官 シューベルト中佐/ハインリヒ・レオ・フォン・トライテュケ大尉
副官 エルウィン・フォン・ミンクヴィッツ大尉
◇ 第45「ザクセン第1」旅団 フーゴ・ガルテン大佐心得
*擲弾兵第100「ザクセン第1/親衛」連隊(第3大隊のみ/第1・第2大隊欠)
ヘルマン・フォン・レックス大佐
*擲弾兵第101「ザクセン第2/プロシア王ヴィルヘルム」連隊
フリードリヒ・フォン・ザイドリッツ=ゲルステンベルク大佐
※第46旅団を代行指揮していたためフォン・シンプ中佐が代理として勤務
*フュージリア第108「ザクセン・シュッツェン」連隊
男爵クレメンス・ハインリッヒ・ロタール・フォン・ハウゼン大佐
◇ 第46「ザクセン第2」旅団 アルバン・フォン・モンベ少将
※師団長を拝命したためフリードリヒ・フォン・ザイドリッツ=ゲルステンベルク大佐が代理として勤務
*第102「ザクセン第3/王太子」連隊
フランツ・フォン・ルードルフ大佐
*第103「ザクセン第4」連隊
ディートリヒ大佐
*ライター騎兵第1「王太子」連隊 フォン・ザール中佐
*野戦砲兵第12「ザクセン」連隊/第1大隊
フォン・ヴァッツドルフ中佐
・重砲第1,2中隊(6ポンド砲/12門)
・軽砲第1,2中隊(4ポンド砲/12門)
・第12軍団野戦工兵第2中隊/工兵器具縦列 リヒター大尉
・第12軍団野戦工兵第4中隊 フリードリヒ大尉
・第12軍団第1衛生隊
◯ 第24「ザクセン第2」師団
師団長 エルウィン・ネールホッフ・フォン・ホルダーベルク少将
参謀士官 アドルフ・レオポルト・フォン・ティルスキー・ウント・ベーゲンドルフ少佐/フォン・ビューロウ大尉
副官 フォン・カルロヴィッツ中尉
◇ 第47「ザクセン第3」旅団 クルト・アレクサンダー・フォン・エルターライン大佐
*第104「ザクセン第5/フリードリヒ・アウグスト王子」連隊 シューマン中佐
*第105「ザクセン第6」連隊 ハンス・ベルンハルト・フォン・テッタウ大佐
・猟兵第12「ザクセン第1/王太子」大隊 伯爵フォン・ホルツェンドルフ少佐(全欠)
◇ 第48「ザクセン第4」旅団 ユリウス・カール・アドルフ・フォン・シュルツ少将
※負傷入院中のためフォン・アーベンドロート大佐が代行
*第106「ザクセン第7/ゲオルグ王子」連隊 ハインリヒ・フォン・アーベンドロート大佐
※第48旅団を代行指揮していたためフォン・マンデルスロー少佐が代理として勤務
*第107「ザクセン第8」連隊 男爵フォン・リンデマン大佐
※疾病入院のためアレクサンドル・フォン・ボーズ少佐が代行
・猟兵第13「ザクセン第2」大隊 フォン・ゴッツ少佐
※疾病入院のためヴァルディ大尉が代行
*ライター騎兵第2連隊 ゲンテ中佐
*野戦砲兵第12「ザクセン」連隊/第2大隊
リヒター中佐
・重砲第3,4中隊(6ポンド砲/12門)
・軽砲第3,4中隊(4ポンド砲/12門)
・第12軍団野戦工兵第3中隊/野戦軽架橋縦列 シューベルト大尉
・第12軍団第2衛生隊
◯ 騎兵第12「ザクセン」師団
師団長 伯爵フランツ・ヒラー・フォン・トゥール・リッペ=ビースターフェルト=ヴァイセンフェルト少将
参謀士官 フォン・キルヒバッハ大尉
副官 フォン・ケンネリッツ中尉
◇ 騎兵第23「ザクセン第1」旅団
カール・ハインリッヒ・タシーロ・クルーク・フォン・ニッダ少将
*近衛ライター騎兵連隊 フォン・カルロヴィッツ大佐
*槍騎兵第17「ザクセン第1」連隊 フォン・ミルティッツ大佐
◇ 騎兵第24「ザクセン第2」旅団
ゼンフト・フォン・ピルザッハ少将
*ライター騎兵第3連隊 フォン・スタンドフェスト大佐
*槍騎兵第18「ザクセン第2」連隊 フォン・トロスキー中佐
・野戦砲兵第12「ザクセン」連隊/騎砲兵第1中隊 チェンカー大尉
◇ 増援
・擲弾兵第100「ザクセン第1/親衛」連隊/第1・第2大隊
・猟兵第12「ザクセン第1/王太子」大隊
・野戦砲兵第12連隊/騎砲兵第2中隊
◯ 第12「ザクセン」軍団砲兵隊 ベルンハルト・オスカー・フォン・フンケ大佐
※他に派遣されたためイェルター中佐が代理指揮
*野戦砲兵第12連隊・第3大隊 ホッホ少佐
・重砲第5,6中隊(6ポンド砲/12門)
・軽砲第5中隊(4ポンド砲/6門)
*野戦砲兵第12連隊・第4大隊 イェルター中佐
※軍団砲兵隊長を代行のためフォン・デア・フォルテ少佐が代理指揮
・重砲第7,8中隊(6ポンド砲/12門)
・軽砲第6中隊(4ポンド砲/6門)
・騎砲兵第2中隊(欠)
◯ 野戦砲兵第12連隊・弾薬大隊 シェルマー中佐
※負傷入院のためアリュスケー少佐が代行
*第1,2,3,4,5砲兵弾薬縦列/第1,2,3,4歩兵弾薬縦列/(重)架橋縦列
◯ 輜重兵第12「ザクセン」大隊 シュマルツ大佐
*衛生予備廠・馬廠・野戦製パン縦列・第1,2,3,4,5糧食縦列
*第1~12野戦病院・輜重監視護衛中隊




