シャンピニーの戦い/仏軍攻勢・ヴィリエの戦闘(11月30日)
11月30日にサン=ドニ西郊やショアジー郊外そして「クレテイユの三角地帯」で、パリ第二軍司令官アレクサンドル・デュクロ将軍が目論む「独軍包囲突破」を成功させるための「助攻」が行われていた頃、パリ南西郊外「マルヌの巾着部」北方でデュクロ将軍直接指揮の下、当の包囲突破を賭けた激闘が繰り広げられました。
30日の払暁時。アヴァロン山(ヴァンセンヌ城館の北東6.5キロ付近。現コトーダヴロン公園の北側)に布陣した野戦重砲やノジャン分派堡(同東3.4キロ)の要塞砲、ヴァンセンヌの森南縁で「巾着の口」を塞ぐ形にあるフェザンドリー角面堡の要塞砲、そして巾着内部に展開する護国軍の野砲は、対峙する独軍の前哨線及び本陣地線に対しほぼ一斉に砲撃を始めます。
午前6時30分。仏パリ第二軍の第1、第2両軍団(各1個師団欠の計4個師団。各々1個師団は既述通りモン=メスリーやショアジー方面で戦っています。以下「パリ第X軍団」とします)は29日夜間から30日早朝に掛けてようやく架け終えたジョアンヴィル(=ル=ポン。ヴァンセンヌ城館の南東3.5キロ)やノジャン(=シュル=マルヌ。同東3.2キロ)南方のマルヌ川諸仮橋から渡河を開始し、約2時間後には予定された全ての第一線部隊がマルヌ左岸の「シャンピニー半島」(巾着部の北側対岸)に渡り終えました。
マルヌを渡河する仏パリ第二軍
仏軍の布陣は、右翼南側、マルヌ川とジョアンヴィルからシャンピニー(=シュル=マルヌ。ジョアンヴィルの東南東3キロ)への街道(現・国道D4号線)間にパリ第1軍団第3師団(ジョセフ・ファロン海軍少将指揮)、その左翼北側に連なって同軍団の第1師団(アシル・ドゥ・マルロワ少将指揮)、そしてパリ第2軍団第3師団(エルネスト・ドゥ・モーション少将指揮)が続き、その後方ポランジの公園(ジョアンヴィルの北東郊外にあった庭園。現存しません)北に同軍団第2師団(ジャン=オーギュスト・ベルトー少将指揮)が前線予備として進みました。
マルヌ右岸上にはアントニー=アシル・デクセア=デュメルク中将率いる仏パリ第3軍団(2個師団)が、かき集めた架橋資材を抱えてヌイイ(=シュル=マルヌ。シャンピニーの北北東5キロ)へ向かいます。彼らはヌイイ付近に架橋を行いマルヌを渡河してノアジー(=ル=グラン。ヌイイの南東1.8キロ)を占領するようデュクロ将軍から命令を受けていたのです。
この日の早朝払暁前、ザクセン王国軍(S)の北独第107「S第8」連隊の第1大隊がヴュルテンベルク王国軍(W)の前哨と交代してシャンピニーとル・プラン(シャンピニーの北西1.5キロ付近にあった家屋群)付近の前哨陣地に入り、この右翼(北東)には同連隊の第2大隊がブリ(=シュル=マルヌ。同北北東2.6キロ)とノアジー=ル=グランにそれぞれ2個中隊を派遣して守備に就いていました。この時、北独第48「S第4」旅団の本隊は一部がノアジー近郊、一部がグルネー(=シュル=マルヌ。ノアジーの北東2.3キロ)とシャン(=シュル=マルヌ。同東3.5キロ)で待機状態にありました。
この前線勤務に就いていたS第107連隊の後方にはW師団の右翼となるW第1旅団が展開しており、ヴィリエ(=シュル=マルヌ。シャンピニーの北東2.7キロ)とクールイイ(同東2.5キロにあった小部落)、その南西方向で街道の十字路際にあった「クールルイの狩猟小屋」(同南西1.3キロ。現在国道D4とD233号線の交差点内で緑地となっている部分)、そしてシュヌビエール(=シュル=マルヌ。同南南東2.4キロ)の各拠点で待機していました。
なお、W第2旅団の本隊は更に南のシュシー(=アン=ブリュ。同南4.8キロ)周辺で巾着部南部を警戒し、W第3旅団はブレバンヌ方面にあって既述通り普第7旅団とW第2旅団の一部と共にメスリーとボヌーイ間で仏シュスビエル師団と戦い始めていたのです。
ジョアンヴィルの爆破された常設橋
☆ パリ第1、2軍団の攻勢
「独軍が全力で対抗する前に包囲網を破らねば勝機はない」と心得ていたデュクロ将軍は、既に1日半は遅れてしまった作戦を何とか軌道に乗せるため、当初計画していた歩兵に続いての軍と軍団砲兵のマルヌ渡河を待たずに歩兵の攻撃を進展させます。
渡河を終えたモーション師団はそのままル・プランを攻撃し、前哨任務に就いていたS第107連隊第1中隊を短時間で駆逐するとヴィリエに向かって前進を継続しました。この師団先鋒は午前10時にブリ南東側の高地(現在のサン・カミーユ病院周辺)に到達し、ここの前哨陣地帯にあったS軍諸隊を蹂躙して残兵をノアジー方面へ駆逐しました。この頃には仏のパリ第3軍団もマルヌ右岸(この方面では北岸)に沿ってほぼ平進しており、ヴィリエの一帯を護るS第48旅団は西側ばかりでなく北からの銃撃にも気を付けなければならなくなったのです。
これとほぼ同時にベルトー師団はモーション師団の右翼と連絡しながらプティ・ボワ・ドゥ・ラ・ランドの林(シャンピニーの北北東1.1キロにあった小さな林。当時は無かった鉄道の分岐線に沿った林が名残です)に到達し、マルロワ師団もブリ~シャンピニーへの街道(現ギイ・モケ道路)脇の石炭製造所(ドゥ・ラ・ランドの林の南西側250m付近にありました)まで進んでこれを占領しました。
石炭製造所付近を行く仏マルロワ師団兵
しかし最右翼(南)でシャンピニーへ直接向かったファロン師団は、前哨の後退を援助するため危険を省みずブレール(一軒家。シャンピニーの東南東1.2キロ付近。現モニュマン通り沿いにありました)の高地西端まで前進して来たW砲兵6ポンド砲第1中隊が直近から浴びせた榴弾によってかなりの損害を被ってしまいます。この時シャンピニーの南西側でマルヌ沿岸に砲列を敷いたファロン師団の2個野戦砲兵中隊は、このW砲兵中隊を狙って対抗砲撃を行いますが、高低差のために有効射とならず、W砲兵は部落周辺に展開していたS第107連隊第2~4中隊が遙かに優勢なファロン師団兵に攻撃されてシャンピニーを去り、仏散兵がブレールの砲兵陣地に突進して来るまで粘って砲撃を続け、シャスポーやタバティエール小銃の銃弾が大砲に当たり始めるまで居座ると、急ぎ砲撃陣地を捨てて後退して行ったのでした。
こうして損害も多く出してしまったファロン師団ですが、午前11時までにはシャンピニー部落を越えてその東方ブレール付近の高台まで進み、同師団の1個連隊は部落内を捜索した後に守備隊となって東側に対する防御陣地を設け始めたのでした。
一方、モーション師団の先鋒散兵群は午前10時過ぎにヴィリエ部落西郊外の公園西端に到達しこれを占領しようと進み出ましたが、ここにはW第7連隊とW砲兵4ポンド砲第2,3中隊がしっかりした陣地線に籠もって待ち構えており、仏兵はこの猛銃砲火によって公園西方に広がるブドウ畑まで撃退されてしまいます。この時ヴィリエにいて敵兵の後退を見たS第106「S第7/親王ゲオルグ」連隊第7中隊と同連隊第8中隊の一部、そして公園のW第7連隊第8中隊の一部は追撃を開始しブドウ畑の仏散兵群を襲撃しますが、これは増援を得た仏軍によって迎撃されてしまい、大損害を受けたSとWの混成部隊はヴィリエ部落まで退却したのでした。
ヴィリエ=シュル=マルヌのW第7連隊兵士
仏パリ第2軍団は両歩兵師団が前進したことによって砲兵の展開を急ぎ、ブリの東側高地上にモーション、ベルトー両師団砲兵と渡河を終えたばかりの軍団砲兵隊が急ぎ砲列を敷きます(ミトライユーズ砲を含む40門前後)。
このヴィリエ部落に対するパリ第2軍団の攻撃は、持久戦闘を行ってヴィリエの敵を拘束しつつパリ第3軍団がノアジー=ル=グランを占領する(即ち独軍の背後を遮断する)まで待つ計画でしたが、前線で指揮を執るデュクロ将軍は、パリ第1、第2軍団が独軍砲兵の有効射程内で榴弾を受け続けて損害が増大し始めたのを知り、「パリ第3軍団は未だマルヌに架橋出来ず」との報告を受けると、午前11時、パリ第2軍団長ピエール・ププリウス・ルノー将軍に対し「直ちにヴィリエを攻撃し占領せよ」と命じたのでした。
この時、ヴィリエ前面の陣地帯にはS第48旅団の一部が前進して加わり、これら兵士が撃ちまくる銃弾とノアジー=ル=グランの南郊外に砲を敷いたS砲兵1個中隊による連続榴弾砲撃によってヴィリエ西高地からの仏軍の攻撃は阻止され続けますが、既に1個師団の全力が集中し始めたヴィリエ西高地上の仏軍を後退させるまでには至りませんでした。
奮戦する仏砲兵
※30日午前11時におけるヴィリエとノアジー戦線の独軍諸隊
*ノアジー=ル=グラン部落内
○S第107連隊・第2大隊
○S第106連隊・第5,6中隊
*ノアジー部落南方
○野戦砲兵第12「S」連隊・重砲第4中隊
○Sライター騎兵第2連隊・第1中隊
*ヴィリエ=シュル=マルヌ部落北方
○S第106連隊・第3大隊
○Sライター騎兵第2連隊・第2中隊
○野戦砲兵第12連隊・軽砲第3中隊
*ヴィリエ部落内
○W第7連隊・第1大隊
○同連隊・第6,8中隊
○S第106連隊・第7中隊
○同連隊・第8中隊の一部
*ヴィリエ公園の南方
○W第7連隊・第5,7中隊
○S第106連隊・第8中隊の一部
○W野戦砲兵連隊・4ポンド砲第2中隊
アーベンドロート
この期に及びS第48旅団長代理のフォン・アーベンドロート大佐はS第106連隊第3大隊をヴィリエから、同連隊第5,6中隊をノアジーからそれぞれ前進させて仏モーション師団に対抗させ、仏軍はこの数倍する敵(仏軍)を前にしても乱れることなく包囲の環を絞り始める精悍なS将兵の姿を見て動揺が広がり、やがて一斉に高地の西際まで後退したのです。
この時S軍は馬匹の不足で放置されていた野砲2門と弾薬馬車1輌を鹵獲してヴィリエ~ブリ街道(現・国道D233号線)を超える付近まで仏軍を追いました。
これに対し仏軍はブリ東高地上の砲列が前進したS軍を狙い撃ち、またマルヌ右(北)岸のパリ第3軍団砲兵もヴィリエを砲撃し始めました。この激しい砲撃によってさすがにS第106連隊右翼(北)側の諸中隊は損害を避けて四方へ退却し、一部は潰走状態となってブリ北方のブドウ園まで遁走するのです。このために生じた戦線の「穴」はちょうどヴィリエ部落に到着したS第104「S第5/親王フリードリヒ・アウグスト」連隊の半数(第7~12中隊)が遮蔽に頼って砲撃を避けながら塞ぎました。ほぼ同時にS第107連隊第3大隊もグルネーからヴィリエに到着し、S野戦砲兵軽砲第4中隊もライター騎兵1個中隊の護衛の下、マルヌ右岸のシェル(グルネーの北北東2キロ)からグルネー経由でヴィリエ東郊までやって来たのです。
ヴィリエ西で仏軍を襲うS第106連隊
このヴィリエ西郊で激しい攻防が行われていた時、その南側ではベルトー師団が鉄道線の両側に分かれて前進していました。しかし、この東では鉄道堤両脇にあった砂利採取場(ヴィリエの南西800m付近)に展開したW第7連隊第5,7中隊と緒戦にル・プランで駆逐されたS第107連隊第1中隊の残兵が防御の後方で待ち構えており、ベルトー師団将兵はこの線路脇の「敵」とヴィリエとクールルイ間に砲列を敷いていたW砲兵4ポンド砲第2,3中隊の銃砲撃を正面から受けてしまい、またクールルイ陣地から飛び出して来たW第1連隊第7中隊が銃撃に加わったことで、ベルトー師団の進撃は一時足止めとなってしまいました。
これに対しベルトー将軍は師団のミトライユーズ砲兵中隊を前線に振り向け、このミトライユーズ砲6門が鉄道線路脇砂利採取場の独兵を正確に叩き始めると、独将兵らは堪らず400m東側の「ヴィリエ停車場」(現存)へ向かって後退し、この撤退援護をヴィリエ部落南端にあったW砲兵4ポンド砲第2中隊と部落に到着したばかりのS砲兵軽砲第4中隊が行います。
一時はこの砂利採取場もベルトー師団の手に落ちましたが、先のW、S砲兵2個中隊の砲撃は確実に仏軍の戦力を削ぎ、集中砲撃の直後にS第104連隊第1大隊が突撃を敢行すると砂利採取場の仏将兵は一気に線路上を西へ撤退して行ったのでした。
一方、シャンピニーに入ったファロン師団の第1旅団(コンテ大佐指揮)は、シャンピニー市街地周辺の街道に設置されていたバリケードや障害物を撤去した後の午前10時30分、クールルイ西側の高地に登って来ます。旅団に続行する師団野砲2個中隊は、シャンピニーで様々な馬車によって塞がれた通りを片付けながら苦労して進み、午前11時になってクールルイ西高地に達して砲列を敷きました。ところがこれを観察していたクールルイ陣地のW将兵が剥き出しの仏砲列に銃撃を浴びせ、このため仏軍砲兵は僅か数発を発射しただけで砲を前車に繋ぎ、急ぎ高地を下りてしまいます。この間付近の仏軍3個砲兵中隊は北上して石炭製造所付近に進み、こちらは遮蔽物の陰に砲列を敷く事が出来ました。
同時刻、ファロン師団の先鋒散兵群はマルヌ河畔に沿って前進を継続し、メゾン・ブランシュ(一軒家。クールルイ「狩猟小屋」の西300m付近にありました。現在、その北西250m辺りに第2次大戦時のレジスタンス記念展示館があります)に達します。ここを占拠した仏軍は狩猟小屋のW猟兵と銃撃戦を展開し、対するW第2旅団は歩兵2個中隊とW砲兵6ポンド第6中隊をシュヌビエールに前進させて狩猟小屋陣地を援護させ、更にこの砲兵中隊はクールルイ南方高地際まで前進してW砲兵6ポンド砲第1中隊の砲列隣に砲列を敷き、砲撃を始めるのでした。
戦うヴュルテンベルク第7連隊兵(11.30)
※30日午前11時におけるシャンピニー東方・クールルイ~シュヌビエール戦線の独軍諸隊
*クールルイ公園(クールルイ東に広がっていた森林公園。現在は住宅地です)の北方(ヴィリエ停車場の南)
○W野戦砲兵・4ポンド砲第3中隊
○W野戦砲兵・6ポンド砲第1中隊の1個小隊(2門)
○W第1「王妃オルガ」連隊・第4中隊
*クールルイ部落内
○W第1連隊・第1,2,3,5中隊
*クールルイ部落南方高地
○W第1連隊・第6中隊
○W野戦砲兵・6ポンド砲第1中隊の2個小隊(4門)
○W野戦砲兵・6ポンド砲第6中隊
*ボワ・ラッベ(クールルイ公園の南側にあった庭園林。現存しません)
○S第107連隊・第2,3,4中隊
○Wライター騎兵第4「王妃オルガ」連隊
*クールルイ「狩猟小屋」
○W猟兵第2大隊
*シュヌビエール北方
○W第5「国王カール」連隊第1,2中隊
クールルイのW第1連隊(フランツ・ニューマン画)
ファロン師団が前線のW師団兵によって前進を阻まれた事を確信したW第1旅団長のフォン・ライツェンシュタイン少将は、「逆襲に転じてシャンピニーを奪還する」決意をすると、クールルイの陣地線にあった4個中隊に対し前進を命じました。しかし、W第1連隊から成る諸中隊がクールルイ高地を下ってシャンピニー部落への緩斜面を登り始めると、次第に銃撃が激しくなり、更に仏軍が再びシャンピニーから出撃して斜面上から撃ち掛けるとW諸隊は損害が続出して前進することが適わず、急ぎクールルイの高地上まで引き返したのでした。この時に陣頭指揮を執っていたW第1連隊長のフォン・ベルガー大佐は複数の銃弾を受け、致命傷を負って後送されると間もなく息を引き取ったのです。
仏ファロン師団はこのW第1連隊の後退を見ると散兵を先に追撃して来ましたが、クールルイ部落北方に砲列を敷くW砲兵4ポンド砲第3中隊とヴィリエからこの砲列横に進んで来たS野戦砲兵の軽砲第3中隊が反撃の砲撃を開始し、同じくクールルイ公園北で砲兵を援護していたW第1連隊第4中隊の銃撃も加わってクールルイ前面で仏軍の足を止めさせました。
このクールルイ付近の攻防が始まった頃、その南側の「狩猟小屋」ではW猟兵第2大隊の一部がメゾン・ブランシュへ突進して油断していた仏軍先鋒部隊を襲い、仏軍は約200名の捕虜を残して西へ後退しました。これを機に、正午頃、W猟兵第2大隊とW第5連隊第1,2中隊そしてクールルイ南側にあったW第1連隊の第6中隊は一斉に前進を謀り、クールルイの西斜面で停滞するファロン師団将兵の側面を襲いました。この時、W砲兵6ポンド砲第6中隊の1個小隊2門が歩兵に追従して前進し、この砲撃も手伝って仏軍右翼は崩壊してシャンピニー部落内へ逃走し、その他の部隊も徐々にシャンピニーへと退却します。勇敢な一部の士官に率いられた少数が緩斜面の遮蔽やブレールの一軒家に留まって抵抗を試み、これは疲弊し始めたW諸隊も排除出来ず、追撃も尻つぼみとなってシャンピニー~クールルイの南では次第に銃声が途絶え、暫くはただ互いの砲兵による「榴弾の交換」のみが続いたのです。
シャンピニー マルヌ川の斜面
※正午過ぎクールルイ周辺の独軍砲兵
*クールルイ北方
○W野戦砲兵・4ポンド砲第3中隊
○野戦砲兵第12連隊・軽砲第3中隊
*クールルイ南方
○W野戦砲兵・6ポンド砲第1中隊
○W野戦砲兵・6ポンド砲第6中隊
クールルイ高地を落とせなかったデュクロ将軍は、この方面の攻撃を明日に延期する決心をすると前線部隊に対し「現在地を死守せよ」と命じます。同時に前線を確実に維持するためパリ第1、第2軍団の砲兵18個中隊をシャンピニーの北から西を流れる小河川・ランド川(暗渠となって現存しません)の線に沿って展開させるよう命じました。
前述通り独軍側も早朝からの交戦で疲弊しており、ヴィリエ前面からシャンピニー前面の戦場では午後1時~2時に向かって確実に銃砲声が絶えて行き、この日の戦いも終焉を迎えたか、と思われました。
しかし、シャンピニー半島におけるこの日の独軍の苦難はまだまだ続くのです。
☆ パリ第3軍団の攻勢
デクセア=デュメルク将軍率いるパリ第3軍団はこの30日早朝、ロニー(=スー=ボワ。ノジャンの北4キロ)周辺から出立すると前述通りマルヌ右岸を東へ進みました。
その途上、デュクロ将軍から進撃を急ぐよう発破を掛けられると先行するレイユ中佐率いる混成護国軍連隊がヌイイを占領し、続行した野戦砲兵4個中隊がその郊外からアジール・ドゥ・ヴィル・エヴァル(ホピタル・ドゥ・ヴィル・エヴァル。精神病院と付属家屋群。ヌイイの東1.2キロ。現存します)を砲撃します。この時(午前10時)、この広大な施設とメゾン・ブランシュ(城館と庭園。ヌイイの北北東2.3キロ。現在は新興住宅街。クールルイ南の同名一軒家との混同注意)には北独第47「S第3」旅団の前哨が控えており、彼らは砲撃後に迫る仏護国軍部隊を尻目にグルネー対岸のポン・ポール(ヌイイの東北東3.2キロ。マルヌ右岸)からラ・シェネー(ポン・ポールの北北西1キロ)に掛けての本陣地線まで後退しました。
デクセア=デュメルク
ヌイイが陥落した事を知らされた北独第12軍団長ゲオルグ・フォン・ザクセン親王中将は、仏軍が更に東進するのではないかと考え、第23「S第1」師団で南側に割ける部隊を根こそぎシェルへ集合させ、また軍団砲兵の一部もシェルへ急がせました。
しかしヌイイの仏軍はただアジール・ドゥ・ヴィル・エヴァルとメゾン・ブランシュに偵察斥侯を送っただけで満足した様子で、その本隊はヌイイの西側でマルヌを渡河しノアジー=ル=グランを狙う様子だったのです。そこでゲオルグ王子は午後1時、軍団砲兵の第4大隊(この時は重砲第7,8、軽砲第6の3個中隊)をマルヌ左(南)岸へ送り、少し後には歩兵も渡河させ南岸へ送りました。
ヌイイを占領したパリ第3軍団は午前10時、ヌイイ西側のマルヌ右岸高台上に砲列を敷く軍団砲兵6個中隊の援護射撃の下、ブリとヌイイ間の河中に架橋資材を運び入れて作業に入り、ヌイイの南西側では正午頃に2本の軍橋が架かります。ちょうどこの頃、モーション師団はヴィリエ西郊外から後退中で、S軍団の前衛はブリを脅かす勢いでした。
この戦況を眺めていたパリ第3軍団の第1師団長、アドリアン・アレクサンドル・アドルフ・ドゥ・キャリー・ドゥ・ベルマール准将はマルヌ左岸での戦闘が下火となったのを確認すると、午後2時、ヌイイの南西に架けられた2本の軍橋を使用して部下を渡河させ、「この戦況ではノアジーを占領してヴィリエの後背を脅かすより、直接ヴィリエの独軍を叩く方が理に適う」と判断し、マルヌ左岸沿いにまずはモーション師団との連絡を目指してブリへの進撃を開始しました。
キャリー・ドゥ・ベルマール准将はこの時46歳の誕生日を目前(12月14日生まれ)とした働き盛り・新進気鋭の将軍でした。普仏戦争における仏軍の高級指揮官たち同様、サン・シール卒業後はアフリカを皮切りにクリミア、イタリア、メキシコと第二帝政下の戦場をくまなく転戦してキャリアを積み、勇猛果敢な野戦指揮官として上層部にも認知されると、戦列歩兵第78連隊長大佐(マクマオン将軍が率いた仏第1軍団の第2「ペレ少将」師団傘下)で普仏開戦を迎えます。
ベルマールは開戦直後にヴルト会戦で奮戦し、シャロン軍となってからはデュクロ将軍が率いることとなった同軍団の第4「ラルティーグ少将」師団第2旅団長准将に昇進しました。直後にセダン会戦で普近衛軍団やS軍団と戦い、砲弾の破片を浴びて落馬し負傷した師団長に代わって師団の指揮を執ります。敗戦で捕虜となった彼は農民に変装し一時収容所から脱走、9月8日、政変直後のパリに現れてパリ防衛軍に編入されました。同じく脱走したデュクロ将軍の下でサン=ドニで護国軍の集団を任されると、仏の将軍では珍しい独断専行で、「セダンの敵」とばかりに憎き普近衛軍団を襲って「第1次ブルジェの戦い」を引き起こし、その後パリ軍の創設によりデクセア=デュメルク将軍麾下の師団長となったのでした。
余談ですが、この人は独仏生まれを間違えたのではと思える程に「上を恐れず自ら考え行動する」独軍に多いタイプの軍人で、もし独軍側にいたら水を得た魚の如く勇名を馳せたのでは、と興味の尽きない一人です。
ベルマール
このヴィリエ方面で独軍(S・W両軍)の指揮を執る北独第24師団長、ネールホッフ・フォン・ホルダーベルク中将はこの仏軍の動きを察知すると、背後を脅かされることとなったS軍右翼をヴィリエ北方の散兵壕陣地と墓地へ後退・集合させ、同時にノアジー=ル=グランの守備隊とヴィリエの高地上の砲兵陣地へ増援を召集しました。
※午後2時過ぎ・ヴィリエとノアジーへのS軍増援
*ノアジー=ル=グランへ
・ヴィリエ部落よりS第107連隊第3大隊
・マルヌ右岸よりS第105「S第6」連隊第2大隊
・同S第106連隊第1大隊
・同猟兵第13「S第2」大隊
*ヴィリエ高地へ
・マルヌ右岸より野戦砲兵第12連隊重砲第3中隊
増援の配備後、ヴィリエ南方にあったS砲兵2個中隊は北側高地の陣地へ転換し、すると直後にマルヌ右岸からS砲兵3個中隊が到着し、砲兵力は仏軍に対抗可能な規模になります。
また、ヴィリエ南方の砲兵力の「穴」はW砲兵6ポンド砲第6中隊がクールルイの北方から陣地転換し、元から砲撃を行っていた同僚の4ポンド砲第3中隊の傍らに布陣するのでした。しかし、この4ポンド砲中隊は午前中から砲撃を続けていたために残弾が乏しく、仏軍が砲撃を自身に向けた時のみ応射を行っているだけだったのです。この頃ボヌーイからもW砲兵4ポンド砲第5中隊が到着し、クールルイ公園林の隔壁後方に砲を敷くと急ぎ壁に「砲門」を開けて前面の斜面下を砲撃するのでした。
午後3時30分、ベルマール准将はブリ北側のマルヌ河畔で前進を止めて部下を集合させると寸刻を惜しんで攻撃態勢を取らせ、パリ軍でも精鋭のズアーブ第4連隊を先頭に立ててブリ東郊外からヴィリエの高地へ登る切り通し道(現・1870年12月2日通り)を前進し始めました。
しかしこの先では既に独軍が道に照準を合わせて遮蔽物の後ろに隠れ待ち構えており、そこへ文字通り「飛んで火に入る夏の虫」状態で進撃して来たズアーブ連隊は、激しい十字砲火を浴びせられた結果ほぼ壊滅状態の大損害を被ってしまい潰走しました(この地で士官は全員、下士官兵は半数以上が戦死か負傷しました)。
これを見ていたデュクロ将軍は、「攻撃は明日」と決定した直後でまたしても「跳ね馬」ベルマール准将に専行されて内心穏やかでなかったものの「こうなってしまったら攻撃を続行するしかない」と腹を括り、ベルマール准将に第1軍団から4個大隊の歩兵を急遽増援として送り、「ヴィリエを落とせ」と命じます。同時にベルトー、ファロン両師団に対し「クールルイの狩猟小屋を占拠せよ」と命じ、戦場は再び活性化するのでした。
猛銃撃を受けるズアーブ第4連隊
同僚のズアーブ兵が直ぐ東で血の洗礼を受けていた頃、ブリ東の高地上では、苦労しながら高地尾根へ登って来たベルマール師団の砲兵2個中隊が砲列を敷き、目前のヴィリエ公園の隔壁を破って歩兵の突破口を穿とうとします。しかしこの壁はなかなか頑丈で、一部が崩れはするものの穴を開けたり完全に崩落させたりする事は出来ませんでした。それでも構わずにベルマール准将は総攻撃を命じ、部下の諸隊は一斉に高地を駆け上がってズアーブたちが陥った罠を抜け公園の隔壁に取り付きますが、これもまた公園に籠もったW第7連隊と公園の北方散兵塹壕線で戦うS軍諸隊の冷静な銃撃によって阻止されてしまうのでした。この攻撃の最中にはS砲兵の重砲第4中隊がノアジーから公園北へ陣地転換して参戦し、効果的な近接援護射撃を行っています。
ベルマール准将も諦めずに部下を叱咤しつつ幾度も突撃を敢行させますが、その散兵群は全て激しい銃砲火で粉砕されてしまいました。やがて日が暮れ始めると、さすがのベルマール准将も攻撃を諦め、ブリ東の高地に後衛を置いて援護させつつ本隊はマルヌ河畔とブリ部落まで下がったのです。
突撃する仏軍と防戦する独軍
同じ頃に行われたベルトー師団の攻撃も鉄道線路に沿って展開した独軍諸中隊の猛銃撃と逆襲にあって阻止され、これはそのまま激しい持久の銃撃戦へ発展しました。ここではヴィリエ南方とクールルイ付近に砲列を敷いた独砲兵諸中隊が活躍しました。
クールルイの狩猟小屋とメゾン・ブランシュでは進出していたW師団兵が迫り来るファロン師団の散兵群を撃退して、シャンピニーへ引き返す仏軍部隊の背後に向けてW猟兵第2大隊の1個中隊が追走し、ブレールの一軒家を占拠する事に成功します。
ところで、W師団長のフォン・オーベルニッツ中将はこの頃までW師団包囲管区の左翼西側で同時進行していた「モン=メスリーの戦い」の指揮に忙しく、包囲管区右翼シャンピニー方面の戦いはW第1旅団長のフォン・ライツェンシュタイン少将が行って来ました。しかし午後2時前に仏シュスビエル師団が後退して戦闘が終息に向かうと、オーベルニッツ師団長は休む間もなく東に目を転じ、W第2と第3旅団から直ぐに動かせた歩兵3個(W第5連隊第2・W第8連隊第1・W猟兵第1)大隊を引き抜いて直率すると「マルヌの巾着部」を廻り込むようにして北へ急ぎ、午後3時頃、ちょうど狩猟小屋とメゾン・ブランシュで仏ファロン師団が迎撃される頃合いに狩猟小屋南方に現れました。
この戦場では午前中からW猟兵第2大隊が戦い続けており、エリートと自負するさすがの猟兵たちも疲弊の色が濃くなっていたため、直ちに同僚第1大隊がその任を代わりました。オーベルニッツ将軍は残る2個大隊の前進を続行させ、これらW師団増援は攻防激しいクールルイとヴィリエの戦線へ進みます。
しかしこの辺りで冬の夕暮れが迫り、やがて日が落ち夜の闇が広がり始めると自然と銃砲声は疎らとなって、やがて全前線に渡って完全に途絶えるのです。
この時点で独軍側の最前線は南側がブレールの一軒家付近に始まり、クールルイの陣地線からヴィリエ南の停車場付近を通ってその北のヴィリエ西の公園からヴィリエ北の高地尾根を抜け、ノアジー=ル=グランでマルヌ沿岸に達し北端となりました。
この後方にW第1旅団と第24「S第2」師団本隊があって、将兵たちは戦闘が終わると疲れた体を引きずりながらそれぞれシュヌビエール、クールルイ、マルノー(ヴィリエの東3.6キロ)そしてシャン(=シュル=マルヌ)の諸部落へ入ってその傍らに野営するか運の良い者は宿営に有りつくのでした。
ゲオルグ王子の第12軍団本営もシャンまで前進し、王子は「戦闘は必ず再開する」と踏んだ明日のためにフュージリア第108「Sシュッツェン」連隊と擲弾兵第100「S第1/親衛」連隊の第3大隊、それに軍団砲兵隊の数個中隊を付近に呼び寄せ、自身の直率と指定するのでした。これら軍団予備隊と前線にある諸隊以外のS軍団部隊はそのままマルヌ右岸の持ち場(シェル、モンフィルメイユ、クリシー=スー=ボワそれぞれの陣地帯)に在り続けました。
この夜の仏パリ軍の前哨線は独軍前線に接近して設けられ、シャンピニー部落から部落北の石炭製造所を経てプティ・ボワ・ドゥ・ラ・ランドの林西端からそのままシャンピニー~ブリ小街道(現ギイ・モケ道路)沿いにヴィリエ公園と対峙するブリ東高地尾根に沿ってブリの北でマルヌ川に達しました。
この前線後方ではシャンピニー部落にファロン師団が宿・野営を行い、石炭製造所の西側にマルロワ師団が野営、ベルトー師団はこの左翼北側に接して鉄道線路を跨いでマルヌ河畔までの間で野営し、前線で大きな損害を受けたモーション師団は予備となって下がるとル・プランで宿・野営しました。
マルヌ沿岸のブリにはパリ第3軍団主力が集合し、前線となった東高地にはベルマール師団が独軍の夜襲を警戒しながら野営を行い、ガストン=マリエ=ジョセフ・マタ少将の軍団第2師団は一部がブリ部落内に入ると残りは右岸に残って貴重な仮設軍橋と右岸に残った軍団砲兵を護り、同師団傘下でレイユ中佐が掌握する護国軍諸部隊はヌイイとその周辺に宿・野営して、東からブリの渡河点へ迫ろうとするS軍団を警戒するのでした。
シャンピニーの戦い(パノラマ・部分)エデュワルド・デタイユ画




