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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Eine Ouvertüre(序曲)
4/534

第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争



 モルトケがマリーをホルシュタインへ逃がした頃。ドイツの北、デンマーク王国でも革命の嵐が吹き荒れていました。


 デンマーク王国は既述通りナポレオン戦争の結果、スカンジナビア半島の領地(ノルウェー王国として独立)を失い王権も国民の助力なくしては低下してしまう状況となったせいもあって国家再建の中で中産階級が力を付け、1847年、時の国王クリスチャン8世は憲法の制定を策して草案を作るよう指示します。これは年末に完成し翌年1月議会に掛けられることとなりました。


 ところがここで国王が急逝し、王室でも「問題児」とされていた皇太子がフレデリク7世として即位しました。

 それでも新国王は先代の意志を継いで「立憲君主」を目指し、憲法発布に向けた法令を発布します。これにより各地域・階層を代表する52人の代議員からなる国民会議が作られて憲法の検討がはじまりました。

 議員の選出は例によって多くが国王や聖職者、貴族、騎士団員などの特権階級から選ばれていましたが、大学や地域の中産階級、そして属国でドイツ人が多数のシュレスヴィヒ公国、ホルシュタイン公国、ラウエンブルク公国なども本国に準じて議席を持ち、これら公国の持つ議員数は全人口に占めるデンマーク本国人であるデーン人の割合を遙かに越えていたため、デーン人保守派からは非難の的となりました。


 直後に発生した「革命の嵐」はデンマークにも波及します。幸いにも立憲君主国を目指す憲法法案を審議する直前だったため過激な行動は目立つことがありませんでしたが、「火種」は別のところにあったのです。


 ユトランド半島の「首」・シュレスヴィヒ公国と「肩」・ホルシュタイン公国は非常に複雑な経緯を辿って19世紀を迎えますが(後述します)、デンマークの「本国人」となるデーン人より圧倒的にドイツ人が多い地域でした。

 この憲法検討の国民会議にも議員が選ばれ、3月11日に首都コペンハーゲンに召集されました。ここでドイツ人の多い土地として自治権拡大の主張がなされますが、革命機運はデンマークでは希薄で、デーン人たちからは拒絶されてしまいます。それどころか新国王は「シュレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国はデンマーク王国と不可分の関係である」との宣言を憲法の中に入れるよう要求し、これを国民会議も認める勢いとなったのです。


 この報告を受けたシュレスヴィヒの議会とホルシュタインの議会は合同会議をシュレスヴィヒの主邑フレンスブルク(ハンブルクの北142キロ)で3月18日に開催しますが、ここでシュレスヴィヒ公国の北部地方(アイダー川より北)の議員から「シュレスヴィヒ公国だけをデンマーク王国に吸収合併させる」要求が発せられたのです。

 これは既にデンマーク本国でも検討され始めている案件だったため、会議はこの要求を拒絶すると、5人の議員がコペンハーゲンに向かい、新王フレデリク7世にこの要求を飲まないよう約束させようとするのでした。


 しかし、当時はユトランド半島の付け根から海を隔てた首都まで辿り着くまで平均3日は掛かり(荒れやすいバルト海の船旅です)、逆にニュースは腕木信号(手旗信号の巨大機械版)により遅くても2日で届きます(電信網はまだ黎明期です)。


挿絵(By みてみん)

腕木信号機(テレグラフ)


 フレンスブルクでシュレスヴィヒとホルシュタイン両公国が会議を行った、との記事は3月20日の朝、コペンハーゲンに到着しました。ところがこれが口伝てに「シュレスヴィヒとホルシュタインのドイツ人が蜂起しデンマーク王国の支配から離脱を図っている」とのデマとして広がってしまいます。これは国民会議で実権を握り始めていた穏健右翼層によって積極的に拡散され、会議では憲法の検討そっちのけでこの「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題」が話し合われ、全会一致で「両公国で発生した暴動を指導したドイツ人を非難する」決議が採択されるのです。これにはシュレスヴィヒのデンマーク帰属を策するアイダー北部のデーン人たちも満足でした。この「アイダーのデーン人」を代表した代議員オーラ・レイマンはここで「5つの要求」を提案し、これも満場一致で採択されました。


1・国王はシュレスヴィヒ=ホルシュタインの独自制定憲法を認めない

2・デンマーク国民はシュレスヴィヒを含むデンマークの主権を守るための王の行動を支持する

3・シュレスヴィヒのデンマーク帰属を決めるための憲法を制定する

4・デンマーク王国内のシュレスヴィヒ州としての独立保持のために新たな地方政府を用意する

5・シュレスヴィヒを統治する政府は愛国的なデーン人によってのみ組織される

(この部分筆者意訳です)


 この熱烈な発言が議会でなされている間、政府はフレンスブルクで反乱が未だ発生していないとしても「手遅れにならない内に」と、国軍の動員を決しました。しかしこれがドイツ側に伝わればプロシアやオーストリアなどがドイツ民族保護のため宣戦布告をする危険が高まるため、公示せず秘密裏に行うこととされます。当然ながら動員令はデーン人が殆どいないホルシュタインの連隊(過去にモルトケ少尉が在籍していました)には発せられませんでした。


 「ドイツ人がシュレスヴィヒ=ホルシュタインを奪った」とのデマに踊らされた首都の市民は3月21日の昼、王宮まで一万人規模のデモ行進を行い「国王はこの危機を乗り越えるため新政府を立ち上げシュレスヴィヒを確保せよ」と叫びます。前述通り政府内でもこの主張が大勢で国王は圧力に屈し14時に動員令を発しました。国防省は翌22日から動員を開始し、内閣も戦争を意図して改造され(3月政府)、あのオーラ・レイマンも無任所相として内閣の一員となったのでした。因みにこの時、伯爵アウグスト・エダム・ヴィルヘルム・モルトケが立憲君主制初代首相を務めますが、彼は大モルトケとは違う家系で直接の血縁はありません。


挿絵(By みてみん)

クリスチャンボー(王宮)へのデモ行進(1848年3月21日)


 このように全てが「手遅れ」となった後にシュレスヴィヒ=ホルシュタインの代表5人がコペンハーゲンに到着します。


 5人は23日に王宮に招かれますが、国王は自治権拡大のためシュレスヴィヒ=ホルシュタインが企画する自治憲法の要求を拒否し「(ドイツ人が殆どを占める)ホルシュタイン公国には独自憲法を認める(自治)がシュレスヴィヒはデンマークの憲法に従って貰う(併合)」と述べるのでした。消沈した代表団はその夜、再び汽船でホルシュタインの首府キールへ向かいましたが、「コペンハーゲンで国王が革命派に捕らえられた」との噂(国王が国民会議に妥協した、が正解)は再び彼らを追い越してキールへ届くのです。


 1848年3月23日。自分たちの代表が国王に謁見していた正にその時、キールでは首都で国王が捕らえられ革命が発生、とのニュースに即座に反応したドイツ人たちが「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン臨時政府」の設立を宣言します。彼らは「国王が解放されるまでは王権を代理執行する」と述べますが、デーン人の誰もがそんなことは信じません。実際、シュレスヴィヒ=ホルシュタインをドイツ連邦に組み入れる動きは開始されるのでした。


挿絵(By みてみん)

キール臨時政府の宣言(1848年3月24日)


 翌24日、キールの臨時政府はシュレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国を一つの「州」として認めるようコペンハーゲン政府(キール政府にとっては革命政府です)に要求します。しかも「両公国と公爵(国王が兼ねています)を侵略から守る」と宣言し、これは国民や諸外国に対し「独立を意図していない」との表明となりましたが、内面は別のところにあるのは明らかでした。


 同じ24日。ごく普通の列車がキールを発し、ノイミュンスター経由でシュレスヴィヒとホルシュタインの境界、アイダー河畔のレンツブルク(シュレスヴィヒ領)に到着しました。この列車にはデンマーク王家の縁戚でシュレスヴィヒとホルシュタイン両公国の知事と軍の司令官だったフレデリク・アフ・ノール親王とキール駐屯デンマーク軍部隊(ドイツ人主体です)の志願兵50人が乗車していたのです。


挿絵(By みてみん)

フレデリク・アフ・ノール


 この街にはアイダー川の中州にシュレスヴィヒ防衛の要となるレンツブルク要塞がありましたが、ノイミュンスターから敷設された新しい鉄道は要塞の外郭を抜けて要塞の脇を走っており、ノール親王は要塞に直接乗り込むと守備隊の隙を突いて重要拠点を占拠し、ここで火災を知らせる警鐘を鳴り響かせて要塞の閲兵場に守備隊を集合させます。

 デンマーク王国正規軍の制服を着用した親王はここで「シュレスヴィヒ公国の正当なる公主である国王がコペンハーゲンの暴徒どもに拘束された。我らは公国を守るため公権力を引き継いだものである」と高らかに宣言し、「我々と行動を共にする者はここに残れ。それ以外の士官諸君らは自由に要塞を出てよろしい」とデンマーク軍士官を解放します。159名の士官中94名は(本国の革命などデマとして)王への忠誠を誓いデンマーク領に向けて去りましたが、65名の士官と下士官兵の殆どは親王の下でシュレスヴィヒ=ホルシュタインの新しい軍に入ることを決するのでした。これで親王たち臨時政府軍は要塞に備蓄してあった大量の武器弾薬を確保し、シュレスヴィヒ全域を確保するために北上を開始するのでした。


挿絵(By みてみん)

シュレスヴィヒ=ホルシュタインの民兵(独連邦旗を掲げます)


 その後、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン臨時政府軍(以下SH軍と略します)およそ7,000名は討伐に進撃して来たデンマーク正規軍11,000名と戦いますが4月9日にフレンスブルク郊外で敗れ(ボヴの戦い)、レンツブルクまで下がって籠城しました。

 二手に分かれたデンマーク軍はシュレスヴィヒ公国首都シュレスヴィヒ(レンツブルクの北24キロ)を占領し、ホルシュタインとの境界線アイダー川に迫りますが、ここでプロシア王国主導でオーストリアを含むドイツ連邦がシュレスヴィヒ=ホルシュタイン臨時政府を救援することを決して、プロシア軍のフリードリヒ・フォン・ヴランゲル将軍を司令官とする32,000名・各種野砲74門の「ドイツ連邦軍」を結成、軍事介入を開始します。


挿絵(By みてみん)

ボヴの戦い(1848年4月9日)


 ドイツ連邦軍(以下独軍とします)とSH軍は4月23日のイースター当日にシュレスヴィヒ市とフレンスブルク南郊のオイーヴァセ付近でデンマーク軍と衝突、独軍は両方で勝利を得ました。デンマーク軍は10,000名と32門の野砲をユトランド半島東部のアルス島へ撤退させ、態勢を整えました。


 この時、デンマークは海軍力が圧倒的に劣るプロシアに対し、強力な海軍力を駆使してバルト海沿岸を海上封鎖し、プロシアの海運を壊滅状態に陥れるのです。

 ここでプロシア国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は「これは犬と魚の戦争ではないか」と嘆き、海上から後方連絡を攻撃されるのではとの不安が増した独軍とSH軍はシュレスヴィヒ北部から南部へ下がります。ここでデンマーク軍はアルス島前面にあるユトランド半島最大の堡塁群「デュッペル堡塁」からドイツ連邦軍の側面を脅かす作戦に出て、デュッペル西のニボルで戦闘が発生、圧された独軍はデュッペル堡塁前で反撃するものの結局はシュレスヴィヒ公国から完全に撤退するしかありませんでした。


 ほぼ同時期にドイツ連邦が「デンマークの内戦」に介入したと見做した英・露・仏三ヶ国は共同して義勇兵を出すなどデンマークの後ろ盾となっていたスウェーデンに休戦仲裁を依頼、デンマーク王国とドイツ連邦を代表しプロシア王国がスウェーデン南端のマルメで休戦交渉を行い、8月26日に7ヶ月間の休戦が成立しました。

 この裏にはプロシア王国が海上封鎖の解除を願ったばかりでなく1848年革命が未だドイツ連邦内で続いており、ベルリンも自由主義者に従うしかないような状況だったため、先ずは国内問題に専念したかったからだと思われます。

 休戦ではデンマーク軍と独軍はシュレスヴィヒ=ホルシュタインから引き上げるよう、自治軍部隊はホルシュタイン公国の兵士によって存続を許されますがシュレスヴィヒ公国で徴兵された兵士はデンマーク国王に忠誠を誓いデンマーク軍に帰属するよう、シュレスヴィヒ=ホルシュタインは一旦キール政府を解散し、デンマーク、プロシア双方から2名ずつ、1名を双方合意で選出し州政府を構成するように決定されました。

 注目すべきはモルトケの実弟でデンマーク人としてシュレスヴィヒ=ホルシュタインの議員となっていたアドルフ・フォン・モルトケがこの臨時州政府執政官の一人として選ばれたことでした。


 しかし、1849年4月3日、デンマーク軍は休戦を延長せずに再びシュレスヴィヒ北部へ進撃を開始します。ユトランド半島東部に隣接するフュン島とアルス島で機会を窺っていた陸軍を半島へ上陸させるため、絶対的に優勢なデンマーク海軍は4月5日にレンスブルクとキールの北に当たるエッカーンフェルデ(キールの北西25キロ)に小艦隊を送り込み上陸支援に当たらせましたが、これは失敗します(エッカーンフェルデの戦い*)。


挿絵(By みてみん)

エッカーンフェルデの戦い


 この戦争「第2フェーズ」ではSH軍が戦闘員16,000名で3個師団を作り、戦争の「第1フェーズ」でプロシア軍旅団を率いたエドゥアルト・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・ボニン少将(後にプロシア陸軍大臣)が指揮を執ります。ドイツ連邦軍はカール・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・フォン・プリットヴィッツ歩兵大将を総司令官に、ヘッセン選帝侯国(クール=ヘッセン)とバイエルン王国の混成師団(第1師団)・ハノーファー王国軍(第2師団)・プロシア王国軍(第3師団)からなる合計46,000名で、SH軍と併せて62,000名の将兵で北上を開始し、これはデンマーク軍の41,000名を確実に上回っていたためデンマーク軍の総司令官フレデリク・ビューロウ少将は退却北上を命じます。

 難攻のデュッペル堡塁こそデンマーク軍守備隊が守り抜きましたがその他のシュレスヴィヒ地域はSH軍と独軍により占領され、追撃したボニン将軍率いるSH軍とプロシア軍師団により4月23日、デンマーク軍はコリング(フレンスブルクの北78キロ)で大敗し、デンマーク軍本隊はバイレ(同北24キロ)とフレゼレシア(同東北東19.5キロ)に分かれて撤退、それぞれの地にある要塞に籠城しました。これを無視したSH軍本隊は更にシュレスヴィヒ州境を越え、中央ユラン州へ侵入しオーフス(同北東87キロ)を占領しますが、ここを護っていたオラフ・ライ少将率いるデンマーク軍第5旅団は巧みにモル地方(オーフスの東にある半島一帯)のヘルゲネス(モル最南端の島状半島)へ脱出しました。またクルスチアン・デ・メザ大佐率いる第6旅団は海軍力に頼ってアルス島(デュッペルの東)に居座り続けます。余談ですがアントン・カール・フレデリク・モルトケという少将がビューロウ麾下で一旅団を率いていますが彼もモルトケの血縁ではありません。


挿絵(By みてみん)

ビューロウ(デンマーク)


 小ベルト海峡を扼するフレゼレシア要塞ではニールス・クリスチアン・ルンディング大佐が7,000名の将兵と共に籠城していましたが、ボニン将軍のSH軍主力が北上する中、14,000名のSH軍が残って要塞を包囲し、郊外に堡塁6個を築造して要塞を砲撃しました。幸いにも制海権はデンマークが完全に握っていたため、住民の多くは小舟で対岸のフュン島に脱出しており、補給も海から受けることが出来ました。また、ルンディング大佐は幾度も出撃して敵の堡塁築造を邪魔したり騒擾を起こしたりしており、そこにヘルゲネスから海運を使ってフュン島に脱出していたライ少将の旅団が海軍に護衛されながら到着しました。ほぼ同時にデ・メザ大佐の旅団もアルス島からフュン島に密かに移動を完了して予備となります。増援を得たルンディング大佐はビューロウ将軍から「機会があれば要塞から出撃してもよろしい」との訓令も受けていました。


 7月6日の午前1時。24,000名の大軍となったデンマーク軍は、総司令官ビューロウ将軍の号令一下要塞から出撃し、折からの濃霧と風音が進むデンマーク軍部隊の騒音を消し、進撃路に撒かれた藁により足音も消したデンマーク軍は真っ暗闇の中SH軍の堡塁を襲撃しました。

 闇の中、戦いは白兵接近戦となり次第に数の多いデンマーク軍有利に推移しますが、ベテランのプロシア軍士官により指揮されたSH軍も粘り強く戦い、堡塁の間で反撃に出てデンマーク軍を押し返すSH軍部隊もありました。

 しかし、夜が明けるに従い不利を悟ったプリットヴィッツ将軍による後退命令でSH軍は退却に移り、郊外の戦闘は午前9時までに終了しました。

 この戦いではオラフ・ライ将軍が追撃戦で乗馬を倒された後、自身も2発の銃弾を受けて戦死し、その他にデンマーク軍は士官33名・下士官兵479名が戦死、士官42名・下士官兵1,302名が負傷、36名の下士官兵が捕虜となり、SH軍は士官5名・下士官兵198名が戦死、士官47名・下士官兵1,087名が負傷、士官32名・下士官兵1,626名が捕虜となりました。


挿絵(By みてみん)

フレゼレシアの戦い(ニルス・シモンセン画/部分)


 この戦闘の結果を知ったロシア帝国(後述しますが過去に皇帝がシュレスヴィヒ=ホルシュタインの領主でした)は直後に「もう十分だろう」と介入し「プロシアがこれ以上戦争を続行するなら国交断絶する」と脅して来ました。これと同時にイギリスも「圧力」を掛けて両者に停戦を持ちかけ、プロシアはドイツ連邦を代表して停戦協議の席に着くこととなり、独軍はユトランド半島から全面撤退するのでした(撤退の完了は8月25日)。

 7月10日。ドイツ連邦(を代表するプロシア王国)とデンマーク王国との間で休戦が発効し、一時的な平和が訪れますがこれは両者とも不満が残る不完全な平和で、SH軍も保持されました。イギリスとロシアの介入で、先のマルメ協定で話し合われていた完全な和平についても話し合われますが、各国(ロシアにも利害がありました)の思惑により交渉は困難を極め、結局ドイツ連邦とデンマーク王国との間で「全てを留保する」(=1848年の状態維持)ことで決着し、1850年7月2日、ベルリンで講和条約が結ばれました。


 独軍が去った後もシュレスヴィヒ=ホルシュタインのドイツ人たちは臨時政府を解散せず、50年4月にプロシア陸軍の予備役だったカール・ヴィルヘルム・フォン・ヴィリゼン将軍を総指揮官に招き、ドイツ連邦が完全に抜けた後も戦闘を続行します(ドイツ連邦からは義勇兵も多数参加しました)。

 この戦争「最終フェーズ」では1850年7月24日と25日にシュレスヴィヒ市の北9キロのイトシュテットでこの戦争最大の会戦(デンマーク史上でも最大の陸戦です)が発生し、これはSH軍が26,800名、デンマーク軍(ゲルハルト・クリストフ・フォン・クロッグ将軍指揮)が37,500名と軍団規模同士の衝突となります。


 戦いは24日の早朝、デンマーク軍の前衛がSH軍の前哨と遭遇したことから始まり、この日は前哨同士の戦いとなってデンマーク軍がSH軍をシュレスヴィヒ方面へ押し戻す形で終わります。この夜、デンマーク軍は本隊を前進させ、これはSH軍との間で本格的な夜戦に発展しました。

 戦いは正に一進一退でかなり激しいものとなりましたが、デンマーク有利は変わらず、SH軍はじりじりと後退します。

 25日の早朝。天気は急変し濃い霧と雨の中戦闘は続きました。午前7時頃、反撃に出たSH軍はデンマーク軍を押し戻すことに成功、この時、戦争緒戦から戦い続けていたフレデリク・アドルフ・シュレッペグレル少将が戦死してしまいます。


挿絵(By みてみん)

イトシュテットの戦い~突撃するシュレッペグレル将軍


 SH軍は一旦失っていたイトシュテットの部落を奪還しようと猛攻を続け、デンマーク軍も白兵で応えました。一軒一軒を争う戦闘はおよそ30分間、ここでデンマーク軍が優勢となりSH軍はシュレスヴィヒ市に向かって退却しました。デンマーク軍は追撃しようとしましたが、SH軍の分派されていた部隊が西側から戻って来たため、デンマーク軍は辛くもSH軍の側面攻撃をかわして戦闘は一時膠着します。

 その後正午頃に態勢を整えたデンマーク軍の総攻撃が始まり、今度はSH軍も退却を始めてデンマーク軍はシュレスヴィヒ市を占領、会戦は終了しました。

 丸二日に及ぶ長い会戦ではデンマーク軍が534名の戦死・2,274名の負傷を記録し、SH軍は845名の戦死、2,770名の負傷又は捕虜を記録しています。


 この戦いに勝利したデンマーク軍でしたがシュレッペグレル将軍始めとする有能な指揮官の多くを失い、またSH軍より多数の死傷者を出したことで手放しでは喜べなくなりました。再びドイツ連邦軍が介入する可能性は否定出来ず、SH軍も未だ強力でしたがデンマーク軍はシュレスヴィヒから退かず、9月12日のミスンデの戦いと10月4日のフレデリクスタッド(独名フリードリヒシュタット)の攻囲砲撃に勝利し、ここで再び列強(英・露・仏)が介入して双方に圧力を掛け、1851年1月11日、シュレスヴィヒ=ホルシュタインの臨時政府は解散し、後始末は列強が差配してデンマークとドイツ連邦に託されます。


挿絵(By みてみん)

砲撃で炎上するフリードリヒシュタット


 1852年5月8日。英・露・仏・墺・普の5ヶ国とデンマークの権利を擁護するスウェーデンがロンドンにてデンマークの現状を維持する「ロンドン議定書」を締結しました。

 これは1849年にデンマークが布告した憲法の中でシュレスヴィヒ=ホルシュタンをデンマーク領土とする部分を撤回し現状を維持するもので、デンマークとしては受け入れ難いものでしたが、ドイツ連邦(特にプロシア)の介入を防ぐためには仕方のないことでした。

 結局、シュレスヴィヒ=ホルシュタンは「デンマーク王家が所有」とすることで(デンマーク王国の「領土」とはしていません)決着を見たのです。


 戦争全期を通しデンマーク軍は2,128名が戦死、5,797名が負傷し、SH軍とドイツ連邦は1,284名が戦死、4,675名が負傷しました(独側資料によります)。デンマーク側が「3年戦争」と呼ぶデンマークにとっての「内戦」は、消化不良の状態で終わり、シュレスヴィヒ=ホルシュタインでは火種が燻り続けるのでした。


挿絵(By みてみん)

第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争後 デンマーク軍のパレード


☆「オルミュッツの屈辱」


 立憲主義によるドイツ統一を夢見たフランクフルト国民議会は正しく呉越同舟で様々な思惑を抱えたドイツ人各領邦が意見をぶつけ合ったため、設立当初から対立が激しく、それは「大ドイツ主義」対「小ドイツ主義」、「カトリック」対「プロテスタント」、そして「オーストリア」対「プロシア」と「保守主義」対「急進主義」と、複雑で解決が難しいものでした。

 結局第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の発生と、それによる保守反動の反撃開始によりフランクフルト国民会議は解散に向かったのでした。


 この1848年革命までドイツ諸邦は大国オーストリア帝国の主導で関税同盟などの「緩い連合」によりまとまっていましたが、革命と動乱で民族主義も高揚したため、オーストリア帝国にとってフランクフルト国民会議の存在は「目の上のタンコブ」で、早々議員を引き上げることとなります。

 逆に「ドイツの盟主」の座をオーストリアと争うまでに成長したプロシア王国は、1849年、オーストリアを除くドイツ連邦の成立(小ドイツ)を目指してエアフルト(フランクフルト=アム=マインの北東192キロ)で新たな議会を設立し、これにはプロシア王国の他、バーデン大公国、ヘッセン大公国、ヘッセン選帝侯国、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国、ナッサウ公国、そしてチューリンゲンの諸侯などが参加し、新たな「ドイツ連邦」を目指しました。プロシアはまた、ハノーファー王国やザクセン王国に接近し「三王同盟」も成立させます。

 この革命騒ぎに乗じて小ドイツを完成させようとするプロシアに怒り、危機感を抱いたオーストリアは北部ドイツ諸侯に強力な外交攻勢(=脅迫)を掛け、バイエルン王国とヴュルテンベルク王国もプロシアを警戒してオーストリアに同調したため、ハノーファーとザクセンもプロシアとの関係を見直し、三王同盟はたちまち解消されてしまうのでした。


 南の大国オーストリアの外交攻勢によりドイツ連邦内で浮き始めたプロシアに対し、東の大国ロシア帝国が追い打ちを掛けます。ロシア皇帝ニコライ1世はこの時、明確なオーストリア支持を表明したため、エアフルト議会による「小ドイツ」連邦の試みは完全に失敗し、下手をすれば墺露と戦争になる危険性も危惧したプロシアは1950年11月27日、「1948年革命の後処理」と称してロシア、オーストリアに「呼び出された」プロシア王国はオーストリア帝国モラヴィアの辺境領にあるオロモウツ(独語;オルミュッツ。ウィーンの北北東167キロ)で交渉を行い、「エアフルト議会を終了し、ホルシュタインやヘッセンを含めて古いドイツ連邦へ戻る」ことを約束させられるのでした。


 この頃のプロシア王国には外交や軍事でオーストリアやロシアと対抗する力は未だありません。それには1848年革命で弱体化してしまった王権や国力を高める施策が必要でした。


 この時、プロシア国内には大きく二つの問題があります。

 一つは、国民。未だ自由主義勢力が強く、王族にも自由主義に迎合する者が多くいました。国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は常に絶対王政の批判に晒されていました。

 二つ目は軍隊。徴兵制が甘く、兵士は短い徴兵期間で勤務するので荒さが目立ちます。また、郷土軍という民兵制度がありましたが、これが自由主義陣営に寄り過ぎていたため、いざという時頼りになりません。実際1848年の革命時には動員に応じない部隊がありました。このあてにならなず下手をすれば革命軍にもなる郷土軍を軍の主流から除く事も懸案となって来ました。


  この「エアフルト連邦」を崩壊させ旧来のオーストリア主導によるドイツ連邦に復することになった出来事を、プロシアでは会議の場所を取って「オルミュッツの屈辱」と呼びますが、明治の日本が日清戦争後の三国干渉後、「臥薪嘗胆」を唱えたのと同じく、プロシア政府も屈辱を耐え、まずは国内をまとめる事に腐心することになるのです。




こぼれ話

犬と魚の戦争~エッカーンフェルデの戦い



 プロシア国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が「犬と魚の戦い」と嘆いた第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争ですが、正にそれを具現するような戦闘が戦争の第2フェーズで発生しています。

 それがシュレスヴィヒ南部のフィヨルド、エッカーンフェルデで49年4月5日に発生した「エッカーンフェルデの戦い」でした。


 戦争が始まるや、シュレスヴィヒ=ホルシュタインとドイツ連邦は強力で歴史あるデンマーク海軍に制海権を奪われ、全く歯が立たない(というより、そもそも独側に海軍が存在しない)状況に追い込まれます。この危機に際し、折から開催されていたフランクフルト国民会議は1848年6月14日、「ドイツ連邦海軍」を創設することを決し、600万ターレル*を供出して「艦隊」を作ることを決定しました(ドイツ海軍誕生の日とされます)。シュレスヴィヒ=ホルシュタイン臨時政府も小艦隊を持つことが決まります。

 しかし、伝統ある海軍(何せヴァイキングの本家本元です)に対し一朝一夕に対抗可能な海軍が登場するわけもなく、将来英国と渡り合うまでに成長するドイツ海軍は、客船を改造した艦や徴用した帆船などの寄せ集めでスタートするのです。


*北独の通貨1ターレル(統一ターラーとも呼ばれます)は1866年において純度0.900の銀18.5g(純銀16.65g。1866年の換算で約1米ドル)。1873年に廃止され金マルクとなります。


 戦争の第2フェーズでデンマーク軍はアルス島とコリングからシュレスヴィヒ東部沿岸を攻撃することに決し、制海権を握っている優位を活かし海軍はその遥か南、シュレスヴィヒ市とレンズブルク市の東側となるエッカーンフェルデに牽制攻撃を行い、陸軍部隊を上陸させてSH軍の北上を遅延させる作戦を発動します。


 この戦闘のためにデンマーク海軍は以下の艦艇を出動させました。


※エッカーンフェルデの戦いに参加したデンマーク艦隊


挿絵(By みてみん)

◯戦列艦「クリスチアン8世」(帆装/1841年デンマーク建造/2,800t/30ポンド前装滑腔砲x30、18ポンド前装滑腔砲x54) 乗組員665名 艦長 フレデリク・アウグスト・パルダン大尉


挿絵(By みてみん)

◯フリゲート「ゲフィオン」(帆装/1843年デンマーク建造/1,390t/15ノット/60ポンド臼砲x2、24ポンド前装長砲身滑腔砲x26、24ポンド前装短砲身滑腔砲x20) 艦長 マイヤー大尉

◯砲艦「ヘクラ」(蒸気外輪/1842年英国建造/637t/9ノット/60ポンド臼砲x2、24ポンド前装滑腔砲x2、4ポンド榴弾砲x2)

◯砲艦「ガイザ」(蒸気外輪/1844年デンマーク建造/550t/9.6ノット/60ポンド臼砲x2、18ポンド前装滑腔砲x6)

◯他・帆走スクーナー3隻(不明)


 戦列艦「クリスチアン8世」のパルダン艦長率いる小艦隊は4月4日の午後、エッカーンフェルデのフィヨルド湾口で集合します。

 2隻の砲艦とスクーナーには陸軍の兵士1個中隊(250名)が乗船しており、エッカーンフェルデに到着次第上陸する予定でしたが、あいにくこの日は海が荒れ風雨が強まったため上陸を中止します。いずれにせよ陸軍の兵士たちは重度の船酔いに苦しめられて戦うどころではなくなっていました。


 一方、エッカーンフェルデの街と海岸線はドイツ連邦軍とSH軍が確保しており、フィヨルドの北と南2ヶ所に砲台が築造されていました。


 この地区の総司令官はドイツ中部チューリンゲンに領地があるザクセン=コーブルク=ゴータ公のエルンスト2世で、砲台は工兵隊のヴェルナー・フォン・ジーメンス中尉(後の電機企業ジーメンス創業者)が設計・設置します。

 南砲台は18ポンド要塞カノン砲4門、北砲台は84ポンド要塞臼砲2門、24ポンド要塞カノン砲2門、18ポンド要塞カノン砲2門で砲兵はプロシア軍のエドゥアルト・ユリウス・ユングマン大尉が指揮するSH軍の第5要塞砲兵隊91名でした(大砲は全て青銅製前装滑腔砲です)。

 デンマーク艦隊の接近は独側も気付いており、4日の夜、街の守備隊としてゴットルフ城(エッカーンフェルデの西北西19.5キロ)から歩兵大隊(800名前後)とヘッセン=ナッソウ公国の野砲中隊6門が到着し南砲台が強化されました。この南砲台はSH軍のルートヴィヒ・テオドール・プロイサー軍曹が指揮します。


 明けて5日の朝。天候が回復するとパルダン艦長は海岸砲台と街を砲撃することに決め、午前7時30分、「クリスチアン8世」と「ゲフィオン」は抜錨するとゆっくりフィヨルドに侵入します。蒸気機関を持つ2隻の砲艦はいつでも支援可能なように蒸気を絶やさずフィヨルド湾口で待機しました。

 最初に戦列艦「クリスチアン8世」が、後方から「ゲフィオン」がフィヨルドの奥にあるエッカーンフェルデの街に向け接近します。「ゲフィオン」は北側の海岸線に沿うと砲が並ぶ舷側(片舷20門)を海岸に沿うよう転向し北砲台を射程に捉えました。「クリスチアン8世」も速度を落として舷側(片舷32門)を海岸に向けると停泊し、こちらは南北両方の砲台を砲撃可能なようにします。

 一瞬の静寂の後、「クリスチアン8世」と「ゲフィオン」は激しい砲撃を開始し、SH軍の両砲台も空かさず応射しますが、ユングマン大尉が直率する北側の砲台は僅かの時間で沈黙してしまいました。

 この頃から強い東風が吹き始め、「ゲフィオン」は目標を南砲台に変えようと転向しますが、風が強く背面から当たるため急速に海岸線へ接近してしまい、座礁を避けるため艦尾を南へ向けた状態で停止してしまいます。これで艦尾方向に指向可能な砲以外、射撃が出来なくなりました。

 「クリスチアン8世」もですが「ゲフィオン」も戦闘に入ってから多くの砲弾を受けており、このままでは危険と感じたマイヤー艦長は湾口にいる砲艦の「ガイザ」に向けて「曳航を頼む」の信号旗を揚げ、「ガイザ」は外輪をけたてて「ゲフィオン」に近付き曳航の太索を渡しますが、これは南砲台からの幸運な一発によって切断されてしまいました*。直ぐに新たな太索が「ゲフィオン」に投げ渡されますが、ここで南砲台の砲撃は「ガイザ」に集中され、「ガイザ」は機関に野砲の榴弾を受けて牽引力が低下し、「ゲフィオン」を曳航する余力がなくなってしまいました。「ガイザ」は自身を護るためにも壊れかけた機関を酷使してフィヨルドを出るしかありませんでした。


※Wikiや一部の資料(ドイツ側)では「南砲台がゲフィオンの錨鎖を撃ち抜いて行動不能にした」とあります。確かに帆走艦が強い風の影響を受ける際、錨鎖に索を付けて押し引きすることで艦を回す操艦法もあり、錨鎖を切られ錨を失うとかなりの影響が出ますが、ここではデンマーク側資料に従います。


挿絵(By みてみん)

南砲台とデンマーク艦隊


 この頃、「クリスチアン8世」もまた南砲台から正確な着弾を受けて損傷が増しており、強風で身動き出来ない艦を曳航させようと、こちらもまた湾口の「ヘクラ」に信号を送って来援を要求しました。「ヘクラ」も直ちにフィヨルドに進入しますが、ちょうどその頃、最初の艦砲射撃で損害を受け沈黙していた北砲台が態勢を整え再び砲撃を開始しており、見張りに発見された「ヘクラ」は北砲台からの砲撃により舵に損傷を負い、こちらもまたフィヨルドから脱出して行ったのです。


 追い詰められたパルダン艦長は乗組に命じ重量物(備砲と思われます)を片舷に移動させ「クリスチアン8世」を傾けることにより逆風を避けつつ前進を試みました。そして非常にゆっくりでしたが前進することが出来るようになります。ここでパルダン艦長は時間を稼ぐため午後12時30分、「砲撃を止めなければエッカーンフェルデの街を砲撃する」との書簡を持たせて白旗の使者を上陸させました。


 書簡を受けたSH軍のユングマン大尉は、残り少なくなった弾薬の補充も出来ると考え砲撃を止めることとして、双方砲撃を休止したことで自然休戦が実現します。


 SH軍の砲撃が止んだことを確認したパルダン艦長と「ゲフィオン」のマイヤー艦長は、この貴重な時間でお互いフィヨルドから脱出しようと様々な試みを行いますが、風は完全に逆風で身動き出来ず、挑戦は全て失敗し両艦共にSH軍の両砲台前に殆ど停止した状態のまま時間が無情にも過ぎて行きます。頼みの綱だった蒸気機関を持つ砲艦は2隻とも深刻な損傷を受けており、迂闊にフィヨルド内へ入ることが出来ませんでした。

 その間、SH軍は弾薬を補充し砲弾(昔ながらの砲丸です)を磨いて不発や砲弾があらぬ方向へ飛んで行かない様にし、破損した大砲を出来る限り修繕するのです。


 午後4時。パルダン艦長の下にユングマン大尉から返書が届き、それには「要求を拒否し砲撃を開始する」とありました。

 午後5時30分。南砲台から砲撃が再開され、最早抵抗することも出来なくなった「ゲフィオン」には次々に着弾して舷側や甲板は穴だらけになり、死傷者も無視出来ず非常に危険な状態になりました。マイヤー艦長は万策尽き、艦旗の上に白旗を掲げさせました。ところが、明らかに白旗が見えるはずなのに砲台からの砲撃は止まず、これはSH軍砲兵が海軍の習慣を知らないからだ、と急ぎ士官1名を上陸させ降伏することを記した書簡をSH軍に手渡し、ようやく無慈悲な砲撃が止むのでした。


 これで残された「クリスチアン8世」には砲撃が集中することになり、こちらも被害は深刻で、索具や帆が甲板に落下し、再び行動不能となった艦は艦尾を海岸に向けて南砲台の至近で座礁してしまうのでした。

 この頃、南砲台では窯で真っ赤になるまで熱せられた砲丸を撃ち込み始め、これは燃え易い帆布や索具、そして甲板に火を点け、乗組は必死で消火を試み、その間にも着弾する砲弾で多くの者が死傷してしまいます。

 方々で部材が燻り死傷者の流血で真っ赤に染まった甲板でパルダン艦長も「これ以上抵抗すると乗組全員艦と運命を共にしてしまう」と考え、副長と一等航海士ら士官を呼んで降伏を告げました。

 士官たちから力なく同意を得たパルダン艦長は午後6時30分、白旗を掲げさせ、今度はSH軍も砲撃を中止するのでした。


 砲撃が中止されるとパルダン艦長らは消火に全力を挙げ、被弾中は出来なかったポンプで海水が汲み上げられて放水が始まります。同時に弾薬庫から危険な大砲の装薬が運び出されて海中に投じられ始めますが、ここで陸からボートがやって来てプロイサーと名乗る軍曹が乗艦すると「艦長と下士官は直ちに上陸し、弾薬の投棄は直ぐに止めるよう」要求しました。また、負傷者は全員、受け入れが整う明日朝まで艦に留まるように命じられ、これにはパルダン艦長が猛抗議を行いますがプロイサー軍曹は素気無く「直ちに実行してください」と言うばかりでした。それでも艦長は負傷者だけでも上陸を、と縋りますが「ならば砲撃が再開されます」と断られ、無念パルダン艦長は後を副長のクリーガー中尉に託して艦を後にします。


 クリーガー副長は残された乗組と共に消火活動を再開しましたが、最早鎮火は望めない状態となり、乗込と負傷者の脱出に注力しました。

 クリーガー中尉は無傷で残った艦載ボートに動かせる負傷者と乗組を乗せて海岸を往復させ、これを見たエッカーンフェルデの漁師や住民も小舟を出して自主的に避難を援助するのです。この尽力で乗組の殆どと負傷者の多くが陸地に避難を終え、この時(午後7時過ぎ)には街の住民が燃えるデンマーク戦列艦を見物しようと渚に集まり始めました。

 すると午後8時頃。炎は艦の弾薬庫に飛び火し艦体が浮き上がり四散する程の大爆発が発生、艦では残されていた負傷者と数名の乗組が即死し、艦外へ放り出された者の内数名だけが助かりました。また、海岸の野次馬も艦の飛散物によって数名が命を落としています。


挿絵(By みてみん)

爆沈する「フレデリク8世」


 この戦いでは最期の爆発での死傷者を含めデンマーク海軍は戦死134名・負傷38名・捕虜936名を記録し、SH軍は戦死4名・負傷18名を報告しています。SH軍の戦死者には、最後の瞬間、「クリスチアン8世」に乗艦していたプロイサー軍曹が含まれていました。

 また、この戦闘中、デンマーク海軍は驚くことに5,680発を発射しますが、SH軍の砲台は約900発だけでこの成果(1隻拿捕、1隻轟沈)を出したのでした。


「戦いは終わった。しかし独側16門に対し146門(砲艦含む)と火力で圧倒的に有利に立っていたデンマーク海軍は何故負けたのか。その大きな理由はデンマーク水兵の経験不足と言える。艦砲射撃は脱出しようともがく間にも行われていたが、敵砲台で破壊された大砲はほんの僅かで、人員に与えた損害も驚くほど少なかった。これはデンマーク艦が砲撃に際し約4分間隔で定期的に一斉射撃を行ったため、独側砲兵は斉射が行われる直前に掩蔽部へ逃げ込むことが可能だったからと言える。確かにデンマーク海軍も強風にあおられ幸運な一発が索や舵に当たるなど責任のない出来事もあったが、海軍にとっては忘れ去りたい結果となってしまった」(デンマークの軍事史「エッカーンフェルデ・フィヨルドの災難」より/筆者意訳)


 戦いの結果、デンマーク軍はシュレスヴィヒ市より南側に上陸する計画を中止しました。

 直接に戦闘を指揮した訳ではありませんが、名誉的にもこの方面の総司令官だったザクセン=コーブルク=ゴータ公のエルンスト2世は「エッカーンフェルデの勝利者」として名声を高め、ユングマン大尉(少佐に昇進)と戦死したプロイサー軍曹(中尉に特進)はドイツの諸国民に「英雄」として知られるようになりました。

 鹵獲された「ゲフィオン」はキールに運ばれ修理された後「エッカーンフェルデ」と艦名を変えて「ドイツ連邦海軍」に編入されます(後、プロシア海軍で元の艦名「ゲフィオン」として就役)。


挿絵(By みてみん)

エルンスト2世(ザクセン=コーブルク=ゴータ公・1842年頃)


 捕虜となった後、休戦で本国送還されたパルダン艦長とマイヤー艦長は無慈悲にも軍法会議に掛けられ、マイヤー艦長は無罪となりますがパルダン艦長は有罪を宣告されてしまいます。その後、国王は「3年戦争」勝利で恩赦を行いパルダンは「懲役3ヶ月」に減刑され、服役後に軍へ復帰しますが、二度と艦を指揮することが出来ませんでした。


挿絵(By みてみん)

エッカーンフェルデ~砲撃するヘッセン=ナッソウ砲兵


挿絵(By みてみん)

エッカーンフェルデ~南砲台とデンマーク艦隊



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