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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・極寒期の死闘
399/534

シャンピニーの戦い/パリ軍の前哨・陽動作戦


※ ドイツ第三軍本営 在・ベルサイユ市街 (1870年11月30日付)


司令官 皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・カール・フォン・プロイセン元帥

*皇族付武官団

 ミシュケ少佐/伯爵ツー・オイレンブルク大尉/男爵フォン・シュライニッツ騎兵大尉

参謀長  カール・コンスタンチン・アルブレヒト・レオンハルト・グラーフ・フォン・ブルーメンタール中将

参謀副長 フォン・ゴットベルク大佐

砲兵部長 ヘルクト中将(砲兵第三方面本部長)

*砲兵部長付き先任士官 ハルトマン中佐

工兵部長 シュルツ少将(工兵第二方面本部長)

*工兵部長付き シューマン少佐(但しメクレンブルク=シュヴェリーン大公軍本営へ工兵部長代理として派遣中)

 

*軍参謀部

 フォン・ハーンケ少佐/カルナッツ大尉/レンケ大尉/フォン・ヴォルフ大尉/フォン・フィーバーン大尉/ブロンサルト・フォン・セルレンドルフ大尉

*参謀部付 リッター・フォン・クシランダー少佐(B軍参謀本部より派遣)

*副官部

 ドレソウ少佐/フォン・ゾンマーフェルト大尉/フォン・ムーティウス騎兵大尉/フォン・ボーズ大尉/伯爵フォン・ゼッケンドルフ中尉/男爵フォン・ビッシング少尉


軍経理部長 バルレッツキー参事官(陸軍省より派遣)

*高等経理部 ミュラー参事官(陸軍省より派遣)

軍医部長 ビューガー軍医監

本営管理部長 フォン・ヴィンターフェルト少佐

衛兵長 フォン・ブルーメンタール中尉

野戦憲兵本部 フォン・ヒンメン中佐/ビューム大尉


*兵站総監部

総監 フォン・ゴッチュ中将

副官 フォン・ラーテノウ騎兵大尉/伯爵フォン・ケルラー中尉/フォン・ラーベナウ少尉

砲兵部長 エルドマン中佐

工兵部長 バッハフェルト少佐

経理部長 シューマン経理官

野戦憲兵隊長 ハーク少佐

*B軍兵站総監部

総監 フォン・マイヤー少将

参謀 伯爵フォン・ヴェリー・ドゥ・ラ・ポシア中佐

副官 ロッソウ中尉/オットー中尉

砲兵部長 男爵フォン・ハルスドルフ少佐

工兵部長 クレイマン少佐

経理部長 バッケルト経理官

野戦憲兵隊長 ハイス大尉


軍本営従軍者

ザクセン=コーブルク=ゴータ公 エルンスト2世普軍騎兵大将

*同副官 フォン・シュラビッシュ少佐/フォン・ティーゲザー少尉

ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン候太子 レオポルト普軍大佐

ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公子 カール・アレクサンダー・アウグスト・ヨハン普軍騎兵大尉

*公子付武官 男爵フォン・ウント・ツー・ボードマン大尉

ヴュルテンベルク王国 ヴィルヘルム・カール・パウル・ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・ヴュルテンベルク親王中尉(後に最後のヴィルテンベルク王ヴィルヘルム2世)

ヴュルテンベルク王国「オイゲン公子」 ヴィルヘルム・オイゲン・アウグスト・ゲオルク・フォン・ヴュルテンベルク少尉

メクレンブルク=シュトレーリッツ大公子 アドルフ・フリードリヒ・アウグスト・ヴィクトル・エルンスト・アーダルベルト・グスタフ・ヴィルヘルム・ヴェリングトン親王

*公子付武官 フォン・ガーゲルン大佐

バイエルン王国野戦軍本営常駐武官代表 伯爵フォン・ボートマー少将

*同従軍武官 男爵フォン・フライベルク=アイゼンベルク少佐

ヴュルテンベルク王国本営常駐武官 フォン・ファーベル・デュ・フォール中佐


☆ 所属部隊数

○普第2軍団

歩兵大隊;25個(内猟兵大隊2個)・騎兵中隊8個・砲兵中隊14個(84門)・工兵中隊3個

○普第5軍団

歩兵大隊;25個(内猟兵大隊2個)・騎兵中隊8個・砲兵中隊14個(84門)・工兵中隊3個

○普第6軍団

歩兵大隊;25個(内猟兵大隊2個)・騎兵中隊8個・砲兵中隊14個(84門)・工兵中隊3個

○普第11軍団(普第22師団・欠)

歩兵大隊;13個(内猟兵大隊1個)・騎兵中隊4個・砲兵中隊8個(48門)・工兵中隊1個

○B第2軍団

歩兵大隊;25個(内猟兵大隊2個)・騎兵中隊20個・砲兵中隊18個(106門)・工兵中隊3個

○普後備近衛師団

歩兵大隊;12個・砲兵中隊3個(18門)・工兵中隊1個

○独第三軍総計

歩兵大隊;125個(内猟兵大隊7個)・騎兵中隊48個・砲兵中隊71個(424門)・工兵中隊14個


※マース(ドイツ第四)軍本営 在・マルジャンシー(サン=ドニの北西9キロ)(1870年11月30日付)


司令官 ゼクセン王太子アルベルト歩兵大将

*王族付武官団

 シェーンブルク=ヴァルデンブルク公国公子ゲオルグ少将(S士官)/伯爵フィッツツーム・フォン・エックステット大尉(S士官)

参謀長  男爵フォン・シュロートハイム少将(普王国士官)

工兵部長 オッペルマン中佐(普王国士官)

*軍参謀部

 シュヴァイガー少佐(S士官)/キューネ少佐(普王国士官)/エードラー・フォン・デア・プラニッツ大尉(S士官)

*副官部

 男爵フォン・ヴェルン少佐(S士官)/エードラー・フォン・デア・プラニッツ中尉(S士官)/フォン・ヒンユーベル少尉(S士官)/フォン・ヤゴウ少尉(普王国士官)/伯爵フォン・アルニム少尉(普王国士官)/伯爵フォン・ヴェスターホールト=ギーゼンベルク少尉(普王国士官)/フォン・ヴァスマー少尉(普王国士官)

軍経理部長 シューリヒ少佐(S陸軍省より派遣)

軍医部長 シーレ軍医監(普王国士官)

本営管理部長 フォン・ヴルンプ大尉(S士官)

衛兵長 フォン・クロージク中尉(普王国士官)

*兵站総監部

総監 フォン・ブリッヒャー大佐(普王国士官)

副官 フォン・ドリガースキー中尉(普王国士官)/フォン・ジムゾン少尉(普王国士官)


☆ 所属部隊数

○普近衛軍団

歩兵大隊;29個(内猟兵大隊2個)・騎兵中隊32個・砲兵中隊15個(90門)・工兵中隊3個

○普第4軍団

歩兵大隊;25個(内猟兵大隊2個)・騎兵中隊8個・砲兵中隊14個(84門)・工兵中隊3個

○北独第12「S」軍団

歩兵大隊;29個(内猟兵大隊2個)・騎兵中隊24個・砲兵中隊16個(96門)・工兵中隊3個

○W野戦師団

歩兵大隊;15個(内猟兵大隊3個)・騎兵中隊10個・砲兵中隊9個(54門)・工兵中隊2個

○独第四軍総計

歩兵大隊;98個(内猟兵大隊9個)・騎兵中隊74個・砲兵中隊54個(324門)・工兵中隊11個




☆ ライの戦闘・ガレ・オー・ボォーフの戦闘(11月29日)


 仏パリ第三軍に「助っ人」として参加していたパリ第二軍第1軍団の第2師団は、ライ(=レ=ローズ。ショアジー=ル=ロワの西北西6キロ)の独軍陣地攻撃を命じられ、11月28日の夜、オート=ブリュイエール堡塁(ライ=レ=ローズの北北東1.6キロ)後方の集合地に参集し、師団長ルイ・エルネスト・ドゥ・モーユイ少将はヴァランテン大佐率いる師団第1旅団に対しライ攻撃を命じました。

 ヴァランテン大佐は戦列歩兵第110連隊(旧・マルシェ第10連隊です)に先鋒を命じ、連隊は半個大隊6個の縦列を作ると堡塁の東西を走るカシャンとビルジュイフへ通じる両街道(現・国道D157とD148号線)の間を進んで、まずはライ部落の包囲を狙いました。これに続行して第二線となったのは同僚第109連隊とフィニステール県の護国軍部隊で、ニコラ・ブレーズ准将の師団第2旅団はオート・ブリュイエールの高地周辺で待機しました。

 ほぼ同時にビトリでは、パリ第三軍第6師団長ルイ・ピエール・アレックス・ポタゥ海軍准将が、サロモン海軍大佐の指揮する海兵4個大隊5,000名と、ビトリとイブリー守備隊の護国軍兵に臨時国民衛兵のマルシェ戦闘大隊を併せた8個大隊を直率してショアジー(=ル=ロワ)を襲うこととなります。


挿絵(By みてみん)

 ポタゥ海軍准将


 これらパリ第二軍の東行から独包囲網の目を逸らす牽制助攻は、既述通り工兵によるマルヌ架橋が間に合わなかったために30日に延期となりますが、この1日順延の決定が半日も遅れたため、助攻作戦を指揮するジョセフ・ヴィノワ将軍にトロシュ将軍の延期命令が届いた時には既に戦闘は佳境を迎えてしまっていたのでした。


 28日夜半、普第6軍団の包囲管区では仏のパリ南部分派堡や砲台から激しい砲撃が加えられ、その第一線に籠もる前哨部隊からは「敵の前線で活発な活動が見られる」との報告が相次ぎます。

 普第6軍団長フォン・テューンプリング騎兵大将は普第12師団に対し直ちに包囲本陣地の持場に就くよう命じ、この内普第62「オーヴァーシュレジェン第3」と第63「オーヴァーシュレジェン第4」両連隊のF大隊はライ部落の本陣地に、両連隊の2個大隊はシュビィ(=ラリュ)の本陣地にそれぞれ就き、残り2個大隊は危うい箇所に直ぐに応援に駆け付けられるようオルリ(シュビィの南東4.4キロ)周辺で待機に入ります。軍団の他の諸隊もまた仏軍の大規模な包囲突破作戦を予感して戦闘準備を成し、ライの南となるフレンヌとランジス付近に集合を始めるのでした。


 明けて29日午前6時過ぎ、仏第110連隊の散兵群はまだ夜の明け切らぬ薄闇と広がるブドウ畑を利して静音のまま三方からライ部落北縁に接近し、やがて一斉に突進して部落とビエーヴル川岸の水車場(ライの公園西750m。現存しません)へ侵入しました。これを警戒中の普第62、63両連隊のF大隊が迎え撃ち、戦闘はたちまち小銃の銃尾を振るい銃剣で突き交わす激しい白兵戦となりました。

 しかし近接戦闘では練度と規律に勝る普軍が一枚上で、次第に圧倒された仏兵の多くは手を挙げて捕虜となり、残りは部落外へと遁走しました。しかし一部は勇敢に居残り、部落北西角の2、3軒の民家と水車場は仏軍が死守し、部落郊外で再集合した仏第110連隊は周辺のブドウ畑に再展開すると部落北辺に集合した普2個F大隊と激しい銃撃戦を始めるのでした。ここに普第62連隊の第1大隊がフレンヌ経由でライに駆け付け、戦いはますます激しいものになりました。


 午前8時30分になると、仏軍はライの公園(有名なバラ園)と墓地に攻撃を集中し押し寄せましたが、これも普軍の激しい一斉射撃を浴びて突撃は粉砕され、仏兵は再びブドウ畑に逃げ帰ります。ここを機会と捉えた普軍は退却する仏兵を追撃し、更に北西角の民家と水車場に対する逆襲を行いました。ここでも激しい白兵戦となりますが犠牲を出しつつも普軍はこれら拠点を奪還し、遂に仏軍は一斉にビルジュイフ目指し退却するのでした。この退却を援護する仏軍の要塞砲砲撃も午前10時過ぎには止むのです。


 この日の朝、B第2軍団の包囲管区でも仏パリ軍の攻撃が予想されB軍諸隊は払暁前から防戦準備を整えていましたが、持ち場ではなくお隣第6軍団の担当であるライへの攻撃が開始されたため、ブール=ラ=レーヌ(ライの西北西1.5キロ)の本陣地に構えた部隊と前進陣地のあるビエーヴル川の谷へ進んだ前哨隊*とはライを襲う仏軍部隊の右翼(西)側を激しく銃撃し、仏軍攻撃隊の戦力を西側に削ぐ役割を果たし普第6軍団を助けたのでした。


※11月28日朝にライの普軍を援助したB軍諸隊

○B第9連隊

○B第5連隊・第1大隊

○B野戦砲兵第4連隊・6ポンド砲第5,6中隊

○B野戦砲兵第2連隊・12ポンド砲第9中隊


挿絵(By みてみん)

ライの戦い(11月29日)


 同じ頃、ショアジーの本陣地に構えていた普擲弾兵第10「シュレジェン第1」連隊(普第11師団所属)に対して、仏ポタゥ師団の部隊が襲い掛かりました。


 この時先行した仏海軍歩兵4個大隊と臨時国民衛兵4個戦闘中隊は、セーヌ河畔に沿った鉄道堤の後方に集合すると午前6時30分、ガレ・オー・ボォーフ(停車場。ショアジーの中心街から鉄道を北に1.8キロ。現在のレ・アルドネス駅の南方。現存しません)を奇襲して普軍前哨を駆逐し、一部を捕虜にしました。同時にセーヌ河畔に沿って前進した仏野戦砲兵の1個中隊とビトリの砲台にある重砲、そしてセーヌ川を遡って来た砲艦2隻はショアジーとその南側の普軍拠点に対し激しい砲撃を加えました。ボォーフ停車場の仏海軍兵は急ぎ防御を固め、ショアジーの本陣地からこれを観察していた普軍のテューンプリング将軍は、仏軍が足場を固める前にこの農場を銃剣突撃によって必ず奪還せよと厳命します。

 しかしこの時は激烈な白兵戦が始まることはありませんでした。仏軍のヴィノワ将軍はようやく牽制攻撃が30日に延期されるとの命令を受け、ちょうどライへの攻撃が失敗した事を知るとショアジーの攻撃隊も召還することに決めて後退命令を発するのでした。ボォーフ停車場の海軍兵や周辺の護国軍兵、臨時国民衛兵たちは後退戦闘を行いながら順次ビトリへ引き返し、要塞砲兵だけが正午頃まで砲撃を繰り返したのです。


挿絵(By みてみん)

ボォーフ停車場(19世紀絵葉書)


 この29日の「ライの戦闘」と「ガレ・オー・ボォーフの戦闘」により、ショアジーの北とライ周辺には多くの仏軍負傷兵が取り残され、折からの厳寒のため傷者は長く生きられないことが確実なために白旗の使者が普軍陣地に差し向けられます。結果人道理由による限定的な休戦が発せられ、仏軍は3時間の猶予を与えられて負傷者を自軍陣地内へ収容するのでした。

 この戦闘で仏軍は約1,000名の戦死・負傷者を計上し、普第6軍団は別に約300名に上る「無傷の」捕虜を得ています。対する普第6軍団とB第2軍団の損害は、戦死者33名・負傷者114名・行方不明(ボォーフ農場の捕虜)が5名、合計僅かに152名でした。


☆ 独マース軍の警戒(11月29日から30日)


 モン・ヴァレリアン山方面からの砲撃に晒される普第5軍団の包囲管区ではこの29日早朝、「挨拶代わりの砲撃」より少々長い時間砲撃があり、午前8時に砲撃が止むと同時に強力な歩兵部隊がサン・クルーにギャルシュ(サン・クルー宮殿の北西2.3キロ)高地方面とラ・マルメゾン公園に向かって前進を開始しました。

 特にギャルシュに向かった仏軍の歩兵3個大隊は普軍の前哨陣地を奇襲して普前哨兵を駆逐しこれを占領しますが、直ちに本陣地から普猟兵第5「シュレジエン」大隊の第4中隊が駆け付け、増援を得た普前哨部隊は逆襲に転じ、倍する仏軍に対して強烈な白兵攻撃を仕掛けて程なく前哨陣地を奪還します。同じくラ・マルメゾン公園に押し寄せた仏軍部隊も第一線に構えた普フュージリア第37「ヴェストファーレン」連隊の第1、2大隊と第50「ニーダーシュレジェン第3」連隊のF大隊による猛烈な銃撃で前進を止められ、こちらも正午までにモン・ヴァレリアン山方面へ撤退するのでした。


 11月28日に発生した「ボーヌ=ラ=ロランドの戦い」の詳報はこの29日早朝にはベルサイユの普大本営へ到着し、ロアール軍がピティヴィエとロワン川の間をフォンテーヌブローの森方面へ前進する構えを見せたことが確認されます。

 従ってパリの仏軍もセーヌに沿って南下するのではないかと想像され、特にセーヌ右岸(パリの南郊では概ね東)が危険と考えられたのです。


 29日午前、独マース軍司令官アルベルト・フォン・ザクセン歩兵大将は普大本営の訓令を受けて全軍に電信命令を発し、これは「現在使用可能な兵力は全てW師団の援助に充てることに定め、これはS軍団ばかりでなく必要に応じて普近衛軍団の一部も南部へ転進することを意味する」との内容でした。

 この日の午後、命令に従い北独第24「S第2」師団の半数はマルヌ川(南)沿岸へ、普近衛第2師団はその前衛をウルク運河沿いのスブラン(サン=ドニの東12.4キロ)まで進み始めますが、ザクセンの増援がマルヌ左(ここでは南)岸に渡ることは後命を待つこととされるのです。

 これはS軍団の前哨部隊がロニーからアヴァロン山周辺に進み出た強力な仏軍部隊のため「動くに動けない状況」となっていたからでした。

 しかしアルベルト・ザクセン王太子は翌30日の命令として、「第23『S第1』師団はマルヌ河畔まで守備範囲を拡張し、第24『S第2』師団はマルヌを渡河して現在師団の半数(第48「S第4」旅団)が守るグレネーからシャンピニーに至る包囲線を強化し、同時にその両翼となるW師団と第23師団のためにも相応な予備を左右に用意せよ。S軍団砲兵はマルヌ南岸に渡り砲撃を行うことを想定して準備せよ」と、アヴァロン山の仏軍を半ば無視するような強気な命令を発しました。

 S軍団長でアルベルト王子の弟君ゲオルグ・フォン・ザクセン親王中将は、「西方正面に進み出た仏軍の意図はS軍団の拘束・陽動にある」と、兄と同じ結論に達するや軍団の左翼側移転に奔走するのでした。


☆ 第2次モン=メスリーの戦い(11月30日)


 パリ南方セーヌ河畔にある独軍が、「マルヌ巾着部」周辺の独軍(Wと第24師団)を援助出来なくする目的で行われた作戦は、30日午前3時に発動されました。

 先ずは、後備兵力を主体とするパリ第三軍では「陽動作戦すら成功は覚束ないだろう」と危惧したデュクロ将軍により、パリ第二軍第2軍団第1師団(男爵ベルナール・ドゥ・シュスビエル少将指揮)が招聘され急ぎ南方へ前進します。

 ロニー分派堡付近から「マルヌ巾着部」へ入ったシュスビエル師団は、前夜(29日深夜)「巾着部」のポルト・ドゥ・クレテイユ(クレテイユの北東1.4キロ)付近に架橋されていた軍舟橋によってマルヌを渡り、30日午前6時、師団の野戦砲兵2個中隊はクレテイユの塹壕陣地に砲を敷くと「巾着部」のサン=モールにある諸砲台とセーヌ=マルヌ合流点を守るシャラントン分派堡の要塞砲と同調して一斉に南方独軍包囲網を砲撃し始めました。


 この数日間における仏軍の行動を観察していたW師団長の男爵フーゴ・モーリッツ・アントン・ハインリッヒ・フォン・オーベルニッツ中将は、これを最前線に突出するメスリー部落とモン=メスリー高地(クレテイユの南1.4キロ)の陣地に対する攻撃前兆と読み、マルヌとセーヌの間に展開していた諸隊に警報を発し防戦準備を始めます。この時、W第2旅団の1個大隊はボヌーイ(=シュル=マルヌ。クレテイユの南東2.6キロ)で第一線勤務を、W第3旅団の3個中隊はフェルム・ドゥ・ロピタル(農家。同南南西3.2キロ。現存しません)で同じく第一線勤務を行っており、最前線の前哨として1個中隊がメスリー部落とモン=メスリーにありました。また、左翼(西)警戒として2個中隊がポンパドゥール交差点(メスリーの西南西1.4キロ)付近とショアジー=ル=ロワ北方のセーヌ対岸(東岸)にありました。*


※11月30日早朝の「クレテイユの三角地帯」南方、マルヌ~セーヌ間におけるW師団包囲網戦力


*ボヌーイ付近

○W第2連隊・第2大隊

*ロピタルの家(フェルム・ドゥ・ロピタル農家)付近

○W第3連隊・第1,2,3中隊

*モン=メスリーとメスリー部落

○W第3連隊・第4中隊

*ポンパドゥール交差点付近

○W第3連隊・第6中隊

*ショアジー北方対岸

○W第3連隊・第5中隊


 この前線部隊後方では午前8時、W第2旅団本隊がシュシー=アン=ブリュ(ボヌーイの東2.5キロ)付近で警戒態勢に入り、W第3旅団本隊はブレバンヌ(同南2.7キロ)付近に集合、緊急時にW師団を西側から援助する予定だった普第7旅団はヴァロントン(ブレバンヌの西1.6キロ)周辺に集合し戦闘態勢となったのです。


挿絵(By みてみん)

前進するヴュルテンベルク兵


 仏軍は午前9時に砲撃を止めると同時に戦列歩兵1個連隊をブリ=コント=ロベールへの街道(現・国道D19号線)に沿って突進させ、同じく1個連隊がメスリー部落へ押し寄せました。

 メスリー部落で前哨勤務に就いていたW第3連隊第4中隊の本隊は10倍以上の敵に迫られ直ちに本陣地に向かって後退し難を逃れ、仏軍の先鋒散兵群は入れ替わりにメスリーを占領します。しかし、部落東のモン=メスリー陣地に入っていた同中隊の1個小隊は、東側のボヌーイから駆け登って来たW第2連隊第5中隊の増援を得て迫る仏軍に対し陣地に踏み留まり銃撃戦を挑んだのです。この小癪なW軍前哨兵に対し、メスリー部落を占領した仏軍連隊はモン=メスリー高地西側から一斉に攻撃して陣地へ殺到し、W兵は敵兵が陣地に突入する直前まで防戦すると一気にボヌーイまで退却して行きました。

 この時、モン=メスリー陣地を救おうとロピタルの家にいたW第3連隊の2個中隊と後退した第4中隊の一部がメスリーへ迫りましたが、こちらも仏軍に押し返されて元の陣地に向け退却します。これを仏軍が追ってリメイユ部落(ヴァロントンの南東450m)へ続く小街道(一部のみ現存。広大な鉄道操車場から自動車工場の東を通っています)脇にあった連続する雑木林の中央にある小林(現存せず)まで迫りますが、急ぎヴァロントン部落両側の陣地に砲列を敷いたW砲兵4ポンド砲第7,8中隊と普第7旅団に従っていた普野戦砲兵第2連隊軽砲第5中隊が一斉に砲撃を開始し、仏軍の追撃は阻止されるのでした。


 一方、1個連隊の戦列歩兵に攻撃されたボヌーイの陣地は、これまでも数回仏軍によって奇襲を受け、その都度撃退していましたが今回は5倍に近い兵力で迫られたため危機に陥ります。

 W第2旅団長フリードリヒ・フォン・スタルクロッフ少将は旅団の一部(W第2連隊第1大隊・W猟兵第3大隊・W砲兵4ポンド砲第5中隊)を直率してシュシー=アン=ブリより前進し、この内4個中隊の歩兵(第1大隊の第1,2,3中隊と猟兵大隊の第2中隊)をモン=メスリー高地へ向かわせました。

 高地に向かった半数の歩兵4個中隊は、ブレバンヌ公園(ブレバンヌの北に広がっていた森林内の公園)内の砲台に入っていたW砲兵4ポンド砲第4中隊の援護射撃を受けて高地に取り付きましたが、強力な仏軍は山上から逆襲に転じ、押されたW軍歩兵はボヌーイの南方まで退却するのです。

 部落も仏軍の猛攻撃に晒されますが、守備隊のW第2連隊第2大隊は強気に撃って出て部落西郊外のランシー公園で白兵戦となりますがこれは失敗に終わり、却って公園の北側は仏軍に占領されてしまいました。ボヌーイの攻防はここで一旦停滞し、仏軍は公園北縁から部落に銃撃を浴びせ続けます。ここでスタルクロック将軍は旅団の予備を投入してボヌーイへ進め、以降部落の攻防は持久戦の様相となるのでした。

 モン=メスリー奪還に失敗した4個中隊はボヌーイ南郊でヴァラントンへの街道(現・国道D284号線)脇に散兵線を敷いて銃撃を始め、部落守備の同連隊第2大隊は弾薬が残り少なくなったため、スタルクロッフ将軍の部隊と入れ替わりに後方へ下がりました。

 この時ボヌーイの南側では、ブレバンヌ森林内に代理指揮官のルートヴィヒ・フォン・マウフ大佐率いるW第3旅団の歩兵4個と砲兵1個中隊が進み、その西側のヴァラントンにはWと普の砲兵3個中隊と普第7旅団が控え、この旅団からは2個中隊が部落前面に出て警戒し、残りは参戦するため部落西郊外で集合中でした。


挿絵(By みてみん)

 スタルクロッフ


※午前11時のW師団西翼前線部隊と普第7旅団

*ボヌーイ部落内

○W第2連隊・第4中隊

○W猟兵第3大隊・第1,3,4中隊

*ボヌーイ南東郊外(弾薬補充中)

○W第2連隊・第2大隊

*ボヌーイ南方ヴァラントンへの街道脇

○W第2連隊・第1,2,3中隊

○W猟兵第3大隊・第2中隊

*ボワ・ドゥ・ブレバンヌ(ブレバンヌ森林)内

○W第3連隊・第7,8中隊

○W第8連隊・第1,2中隊

○W砲兵4ポンド砲第4中隊

*ヴァラントン東郊外

○W砲兵4ポンド砲第8中隊

*ヴァラントン部落内

○普第49「ポンメルン第6」連隊・F大隊

○W砲兵4ポンド砲第7中隊

*ヴァラントン西郊外

○普野戦砲兵第2連隊・軽砲第5中隊

○普第49連隊・第1、2大隊

○擲弾兵第9「コルベルク/ポンメルン第2」連隊・第2、F大隊

※当時W師団の連隊は4個中隊の2個大隊(第1~8中隊)制、普軍連隊は3個大隊(第1~12中隊)制です。


 これらW師団前線兵必死の防戦で仏軍の攻撃は次第に勢いを失い、特に鍛えられた砲兵の活躍は著しく、仏軍は午前11時過ぎからモン=メスリー高地へじわじわと後退を始めます。これを追ったブレバンヌ森林のW部隊による攻撃(W第8連隊第2中隊の一部)は撃退されましたが、正午頃、普第7旅団長のカール・ヴィルヘルム・アルベルト・フォン・トロッセル少将が戦闘準備のなった3個大隊半の歩兵をヴァラントンから出撃させると形勢は一気に独軍側有利となり、ヴァラントン前面の小林に潜んでいた仏軍前衛部隊も退却を始めます。これを追ったのが前線まで進み出ていたW騎兵旅団のライター騎兵4個小隊で、敗残兵を襲撃するとその多くを斬殺し残りを捕虜とするのでした。

 ヴァラントンの部隊以外にもブレバンヌからW第3連隊の3個中隊がメスリー部落へ向かって進撃し、ほぼ同時にその東側では同じくブレバンヌとボヌーイ方面からW部隊が一斉反攻に転じてモン=メスリー高地に殺到、仏軍は高地と部落から追い落されてしまうのです。


挿絵(By みてみん)

モン=メスリー 襲撃するW騎兵


※正午過ぎに反攻へ転じた独軍部隊

*メスリー部落へ

○擲弾兵第9連隊・第2、F大隊

○普第49連隊・第1大隊

○普第49連隊・第9,10中隊

○W第8連隊・第2中隊の一部

○W第3連隊・第1,2,3中隊

*モン=メスリー高地へ

○W第8連隊・第2大隊

○W第2連隊・第1大隊の一部

○W猟兵第3大隊の一部


 モン=メスリーではなおも闘志を失わない一部の仏兵が高地の塹壕に籠もって抵抗し続けますが、メスリー部落側(西)から高地へ登った独軍の攻撃を受けて撃退され、クレテイユに向け撤退中の仏軍に向かいW砲兵4ポンド砲第5中隊が急ぎ前進して砲撃を行いますが、午後1時30分、仏軍はシャラントン分派堡の要塞砲庇護下に入り、要塞砲が火を吹き始めると独軍側も追撃を中止したのです。


 この11月30日の「第2次」モン=メスリーの戦い*において仏軍は約1,200名の戦死・負傷者並びに捕虜を出し、独軍は約350人の損害(普第7旅団が戦死11名・負傷44名、W師団が戦死75名・負傷221名)を報告しています。


※包囲直前の9月17日にも仏第13軍団ドーデル准将旅団と普第9師団の第17旅団とが同じ地域で戦っています(「独軍のパリ包囲開始(後)」参照)


☆ 普第6軍団の包囲管区に対する攻撃(11月30日)


 この30日午前中、セーヌ右岸「クレテイユの三角地帯」における激しい攻防に比してセーヌ右岸ショアジー(=ル=ロワ)からライ(=レ=ローズ)に至る普第6軍団の戦区は不気味に静まりかえっていました。

 これは前日のパリ第三軍による「フライング」攻撃から再度攻撃を準備するのに時間が必要だったことも理由ですが、仏軍の連携の不味さに起因する一面もあり、シュスビエル師団の出撃を通告されていなかったパリ第三軍のヴィノワ将軍は、セーヌ左岸の戦闘が終息に向かった正午過ぎ、ようやくデュクロ将軍の「独断専行」を知り、急ぎ前面の普軍に対する牽制攻撃を開始させたのです。


 この攻撃開始命令によりイブリー分派堡とこれに属する砲台からショアジーとティエイの普軍陣地に対する猛砲撃が始まり、これに同調してセーヌ川に浮かぶ砲艦とオルレアンへの鉄道線上に進み出た装甲列車も砲撃を繰り返しました。

 これら多くの砲列による援護射撃を受け、午後12時55分、ビトリにいたパリ第三軍第6「ポタゥ提督」師団は昨日と全く同じ作戦でショアジーへと突進し、同じくパリ第二軍からの助っ人、モーユイ師団の第2旅団(ニコラ・ブレーズ准将指揮)はショアジー西のティエイ部落とその西郊でランドマークとなっていた「貯水塔」陣地へ向かいます。

 ポタゥ師団で常に先陣を承る海軍兵旅団は普軍前哨線を突破すると、昨日に続き再びボォーフ停車場を占領し、急ぎ前進したモーユイ師団の4ポンド野砲1個中隊による近接援護射撃を得て一気にショアジー部落に向け突進しました。同じ頃、ブレーズ准将の戦列歩兵もティエイの貯水塔めがけて襲い掛かり、仏軍は昨日と同じく普軍の陣地帯に殺到しました。

 しかしこの攻撃は両方共に「半恒久化」した重厚堅牢な陣地線に籠もった驚くほど少数の普軍将兵たちによる冷静な射撃で阻止され、射界が開けた凍てつく大地に仏兵たちは釘付けにされて這い蹲り、やがて戦死者と負傷者を残し急ぎ撤退するしか手が無くなるのです。

 この攻撃では仏パリ軍海兵第10大隊長のマリエ・マルティン・ウジェーヌ・ドゥプレ海軍中佐が複数の銃弾を受け壮絶な戦死を遂げています。同じ頃、セーヌを進む仏軍砲艦もショアジー付近の河畔にあった2門の野砲(普野戦砲兵第6連隊の重砲第1中隊1個小隊)によって前進を阻止され、やがて後進して行ったのでした。


※11月30日正午過ぎの普第6軍団前線部隊

*ボォーフ停車場

○普第51「ニーダーシュレジェン第4」連隊・第9中隊

*ショアジー前面陣地

○普第51連隊・第10~12中隊

*「貯水塔」陣地

○普猟兵第6「シュレジェン第2」大隊・第4中隊


 状況不利と見たヴィノワ将軍はポタゥ提督部隊をビトリへ、ブレーズ准将部隊をサケー風車場(ビトリの西南西1キロ付近。現存しません)陣地へ引き上げさせました。この時、ビルジュイフの西では仏軍の野砲1個中隊が前進してブレーズ旅団の撤退を援護し、これをシュビイ在の普野戦砲兵第6連隊軽砲第5中隊が迎え撃って対抗射撃を加え、やがてこの仏軍砲兵も自軍陣地線内に引き上げると午後5時頃、全ての戦闘が終息しました。


 この日、普第6軍団では63名(戦死15名・負傷48名)の損害を出し、仏軍は約100名の損害と言われています。


挿絵(By みてみん)

ガレ・オー・ボォーフの戦闘記念碑


☆ エピネーの戦闘(11月30日)


 30日午前7時、モン・ヴァレリアン要塞とその付属砲台、そして付近に増設された砲台から砲撃が始まり、ほぼ同時にパリ第三軍に属する護国軍部隊が一斉にラ=マルメゾン公園からマルメゾンの森に掛けての普第5軍団第一線陣地とサン・クルー宮殿北のモンルトゥー陣地帯に対し突撃を企てました。しかしこれは歴戦の普第5軍団前哨部隊(普フュージリア第37「ヴェストファーレン」連隊・第1、2大隊と普第50「ニーダーシュレジェン第3」連隊のF大隊)による猛銃撃で阻止され、護国軍兵は無理をせず午前11時には全て自軍の陣地線内へ引き上げました。


 この戦闘が行われていた頃、東側・サン=ドニの戦線では普近衛軍団と普第4軍団の包囲管区に対し、男爵カミーユ・アダルベルト・マリエ・クレマン・ドゥ・ラ・ロンシエール=ヌリー海軍中将率いる仏「サン=ドニ軍」とオーギュスト・ベルタン・ドゥ・ヴォー少将率いるパリ第三軍の騎兵師団が密かに出撃の機会を窺っていました。

 正午頃、サン=ドニ堡塁群の西端、ラ・ブリッシュ分派堡と目前のセーヌ河畔に係留された装甲モニター(浮砲台艦)や近辺の砲列から激しい砲撃が始まり、これは普近衛軍団による陣地帯の西側、普第4軍団のエピネー=シュル=セーヌ(サン=ドニの北西4キロ)陣地を狙ったものでした。

 この分派堡後方に集合したのはルイ・フランシス・ジョゼフ・アンリオ准将率いるサン=ドニ軍第2旅団で、たっぷり2時間に及ぶ事前砲撃後の午後2時、ロンシエール=ヌリー提督はアンリオ准将に対し前進を命じたのです。


 アンリオ准将は策を弄して目立つ散兵群をエピネー部落東側へ進めて包囲の態勢を取らせ、これに普軍守備隊が気を取られている内にユジェーヌ・ラモット=トゥネ海軍大佐率いる第3旅団からの助っ人、海軍フュージリア兵2個中隊がセーヌ川に沿った小道を普軍前哨に発見されることなく進み、遂に部落南側から部落へ侵入する事に成功するのです。

 これでエピネーの陣地に入っていた普第71「チューリンゲン第3」連隊第5,6中隊は側面及び背後を攻撃されて陣地帯を維持することが難しくなり、部落南で海軍兵と戦う第6中隊は次第に押されて半数が部落西端に後退し、残り半数は水車用の用水路に降りて北方へ撤退しました。第5中隊も後衛を2、3軒の農家に置くと一斉に部落西郊外へ後退し、この後衛たちは仏軍の進撃を一時留める手柄を挙げた後、落ち着いて後退して行きました。

 一方、エピネー北郊の陣地帯を守備していた普第31「チューリンゲン第1」連隊第9中隊は、突然エピネーから飛び出して来た仏軍に背後を襲われ、こちらは混乱状態に陥ってオルムッソン(エピネーの北1キロ)に向けて潰走してしまいます。

 これに対し、付近の前哨陣地帯にあった諸中隊*は急ぎ結託してエピネーから前進して来る仏軍を攻撃し、これは一時仏軍をエピネー部落内へ撤退させる効果を生みますが、これら部隊が余勢を駆って部落に侵入すると数倍する敵に囲まれて猛銃撃を受けてしまい、慌てて退却せざるを得なくなったのです。

 こうしてエピネーは完全に仏アンリオ旅団と海軍フュージリア兵の手に落ち、付近の普軍は一時水車の用水路対岸にある一軒の農家のみを抑えるだけとなるのです。


※午後3時前にエピネーへ反撃を行った普軍諸隊

○普第31「チューリンゲン第1」連隊・第10中隊

○普第71「チューリンゲン第3」連隊・第9,12中隊

○普第71連隊・第8中隊(遅れて攻撃参加)


 これに対し普第4軍団長のグスタフ・フォン・アルヴェンスレーヴェン歩兵大将は準備のなった部隊を後方待機陣地へ集合させ、まずは軍団砲兵部長のケスラー少将に命じてエピネーを砲撃させるのです。

 ケスラー将軍は集合可能だった砲兵7個中隊*に対しエピネーを見下ろす高地に進ませて砲列を敷かせ、これら42門の野砲はエピネーを集中砲撃し始めました。


※午後3時半前後、エピネーに対する砲撃を行った普軍砲兵

*オルジュモン山(エピネーの西3キロ)上

○普野戦砲兵第4「マグデブルク」連隊・軽砲第4中隊

○同・重砲第5,6中隊

*サン=グラティアン(エピネーの北西2.7キロ)付近

○同・軽砲第3中隊

○同・重砲第4中隊

*モンモランシー(エピネーの北3.8キロ)南郊外高地付近

○同・重砲第1,2中隊


 この効果的な砲撃の下、先ずはアンジャン=レ=バン(エピネーの北北西1.7キロ)にあった歩兵2個中隊強が前進を開始し、これはエピネーから後退した諸隊の一部を加えつつ進みました。その右翼側には同時に歩兵2個中隊がサンノワへ続く街道(現・国道D14号線)上を進んで、これにはセーヌ河畔で警戒中の部隊も加わり、更に左翼側では普第7師団の歩兵2個中隊がオルムッソンからエピネーの北面目指し前進しました。


※午後3時過ぎにエピネー奪還へ動いた普軍諸隊

*オルムッソンから前進(左翼・東)

○普第26「マグデブルク第1」連隊・第1,2中隊

*アンジャンから前進(中央)

○普第71連隊・第1,2,4中隊

○普第31連隊・第9中隊の一部

*サンノワ方面から前進(右翼・西)

○普第31連隊・第8,10中隊

○普第31連隊・第9中隊の一部

○普第71連隊・第9,12両中隊の一部


 これらの諸隊は散兵を先鋒にしてほぼ同時にエピネー市街へ突撃を敢行しました。部落内では仏軍も粘って短くも凄惨な白兵市街戦となり、一軒一軒を巡る争奪戦になりましたが、短時間で普軍側有利となって午後4時過ぎ、仏軍はエピネーから総退却となるのです。

 この時、仏軍は主にサン=ドニへ逃げ込み、セーヌ河畔で逃げ遅れた兵士たちは大胆にもエピネー南の河岸に寄って来た装甲モニターに乗り込み、兵士を満載したモニターは、岸に駆け寄り猛銃撃を繰り返す普軍兵士を振り切ってパリ市内へ去って行ったのです。


挿絵(By みてみん)

エピネーの戦い(11月30日)


 この「エピネーの戦い」における両軍の損害は、仏サン=ドニ軍が約300名、普第4軍団もほぼ同数*と言うものでしたが、この局地戦は遙か南のオルレアン戦線に重大な影響を及ぼします。


 エピネー(=シュル=セーヌ)の戦いを含む11月29日から30日に掛けてのパリ近郊の戦闘情報は気球や伝書鳩に乗せて放たれ、これは比較的早く仏の支配地域に到着して電信などにより素早くトゥールの国防政府派遣部へ到着しました。しかし、ガンベタやグレ=ビゾン、フレシネらが目にしたのは「デュクロ将軍が『エピネー』へ至った」という文面で、これを派遣部は「パリ軍がエピネー=シュル=オルジュ(パリ・シテ島の南20キロ)にまで進んだ」と勘違いして「ロワニとププリーの戦い」へ進み、オルレアン放棄とロアール軍の分裂を招いたのです(「ヴィルピオンの戦い」を参照願います)。


※エピネーの戦い(11月30日)における普第4軍団の損害

○普第26連隊

戦死・士官1名、下士官兵7名/負傷・士官1名、下士官兵17名

○普第31連隊

戦死・士官3名、下士官兵19名/負傷・士官4名、下士官兵55名

○普第71連隊

戦死・士官2名、下士官兵37名/負傷・士官7名、下士官兵87名/行方不明(主として捕虜)・士官1名、下士官兵72名

○他諸隊

戦死・1名/負傷・3名


※ライやショアジー、モン・メスリー周辺の地図は「パリ攻囲/第三軍の包囲網と騎兵師団」を、

ラ・マルメゾンやサン・クルー方面の地図は「パリ攻囲/ラ・マルメゾン(第一次ビュザンヴァル)の戦い」を、

エピネーやサン=ドニ周辺の地図は「パリ攻囲/マース軍とW師団の包囲網」を、

それぞれ参照願います。


挿絵(By みてみん)

仏海軍フュージリア兵




普第6軍団(シュレジェン州)戦闘序列(1870年11月30日付)


司令官 ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・カール・クルト・フリードリヒ・フォン・テューンプリング騎兵大将

参謀長 アレクサンドル・アウグスト・カール・ヴィルヘルム・ハインリヒ・ユリウス・フォン・ザルヴィアティ大佐

*参謀部

 レーゼ少佐/シュミット・フォン・アルターシュタット大尉/ミュンニヒ中尉

*副官部

 シャッハ・フォン・ヴィッテナウ少佐/フォン・ゴルダンメル中尉/フォン・リーレス・ウント・ヴィルコー中尉

砲兵部長 アドルフ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ランム大佐(砲兵第6旅団長)

工兵部長 グール大尉

*工兵部 ショル大尉

衛兵長 男爵フォン・ザウエルマ中尉


◯ 第11師団

師団長 ヘルムート・フォン・ゴルドン中将

参謀士官 フォン・シュコップ少佐

副官 フォン・ミュラー騎兵大尉/ジノルド・フォン・シュッツ中尉


◇ 第21旅団 ヴィルヘルム・フォン・マラホウスキー・ウント・グリファ少将

*擲弾兵第10「シュレジェン第1」連隊 

カール・フリードリヒ・フランツ・グスタフ・フォン・ヴェラー大佐

※疾病で入院中のため第2大隊長パウル・フーゴー・フェルディナント・バウマイスター中佐が代行

*第18「ポーゼン第1」連隊

 男爵フェルディナント・ヴィルヘルム・フォン・ボック大佐

◇ 第22旅団 フリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンドル・フォン・エッカーツベルク少将

*フュージリア第38「シュレジェン」連隊

 ルイス・キルス・ユージン・アレクサンドル・フォン・シュメリング大佐

*第51「ニーダーシュレジェン第4」連隊 ゲオルグ・クニッピング大佐


・猟兵第6「シュレジェン第2」大隊

 フォン・ヴァルター少佐

*竜騎兵第8「シュレジェン第2」連隊

 ヴィルヘルム・シギスムント・デトルフ・フォン・ヴィンターフェルト大佐

*野戦砲兵第6「シュレジェン」連隊/第1大隊

 フーゴ・エルンスト・ヴィルヘルム・オットー・フォン・リリエンホーフ=ツヴォヴィッツキー少佐

 ・重砲第1,2中隊(6ポンド砲/12門)

 ・軽砲第1,2中隊(4ポンド砲/12門)

・第6軍団野戦工兵第1中隊/野戦軽架橋縦列 クレフェケル大尉

・第6軍団野戦工兵第2中隊/工兵器具縦列 グール大尉

 ※他に派遣されたためフォン・ノヴァハ=ゼーリング中尉が代理指揮

・第6軍団第2衛生隊


◯ 第12師団

師団長 オットー・ヴィルヘルム・レオポルト・カール・グスタフ・フォン・ホフマン中将

参謀士官 アルフレート・アウグスト・ルートヴィヒ・ゴットフリート・ケスラー少佐

副官 エンゲルマン1世中尉/男爵フォン・ビッシング中尉

◇ 第23旅団 ヴィリアム・ホンセル・ギュンデル大佐

*第22「オーバーシュレジェン第1」連隊 

アウグスト・バートホルト・テオドール・ヴィクトル・フォン・クイストルプ大佐

*第62「オーバーシュレジェン第3」連隊

フーゴ・ハインリヒ・ヴィクトル・フォン・ベッセル大佐

◇ 第24旅団 ヘルマン・ヴィルヘルム・アレクサンドル・フランツ・フォン・ファベック少将

*第23「オーバーシュレジェン第2」連隊 ルイス・アルトゥール・フォン・ブリーセン大佐

*第63「オーバーシュレジェン第4」連隊 フォン・ティーラウ大佐


*竜騎兵第15「シュレジェン第3」連隊

 カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フランツ・アレキサンドル・フォン・ブッセ大佐

*野戦砲兵第6「シュレジェン」連隊/第3大隊 ブロッホ・フォン・ブロットニッツ少佐

 ・重砲第5,6中隊(6ポンド砲/12門)

 ・軽砲第5,6中隊(4ポンド砲/12門)

・第6軍団野戦工兵第3中隊 グルム大尉

・第6軍団第1衛生隊


◯ 第6軍団砲兵隊 カール・ルートヴィヒ・フェルディナント・アルノルト大佐

*野戦砲兵第6連隊・騎砲兵大隊 ガルティンスキー少佐

※疾病で入院のため砲兵隊長が直率

・騎砲兵第1,2中隊(4ポンド騎砲/12門)

*野戦砲兵第6連隊・第2大隊 ミュラー中佐

 ・重砲第3,4中隊(6ポンド砲/12門)

 ・軽砲第3,4中隊(4ポンド砲/12門)

・第6軍団第3衛生隊


◯ 野戦砲兵第6連隊・弾薬大隊 トミティウス大尉

*第1,2,3,4,5砲兵弾薬縦列/(重)架橋縦列


◯ 輜重兵第6「シュレジェン」大隊 アレント中佐

*衛生予備廠・馬廠・野戦製パン縦列・第1,2,3,4,5糧食縦列

*第1~12野戦病院・輜重監視護衛中隊


※ヴァラントンに前進した普第4師団の「セーヌ右岸支隊」

◇第7旅団 カール・ヴィルヘルム・アルベルト・フォン・トロッセル少将

*擲弾兵第9「ポンメルン第2/コルベルク」連隊

フリードリヒ・ゲオルグ・フォン・フェレンテイル・ウント・グルッペンベルク大佐

*第49「ポンメルン第6」連隊

 アレクサンドル・テオドール・アルベルト・ラウリン中佐

*野戦砲兵第2連隊・軽砲第5中隊


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