シャンピニーの戦い/パリ防衛軍の再編成(付・パリ軍戦闘序列)
9月19日に独軍によって包囲されて以来、繰り返される包囲網突破作戦が立て続けに失敗に終わり、次第に高まった不満が一気に爆発した「10月31日の危機」を経て、11月初旬にはパリ市民のトロシュ将軍率いる「国防政府」に対する評価は地に落ちました。
大多数のパリ市民は焦燥と失望で暗澹とした気分に沈み、下層市民は地下に潜行し革命を唱える左翼過激派の「甘い声」に耳を傾け、中流市民は日を追って乏しくなる食料や燃料事情に「飢餓」を見通し悲観に暮れます。なお、様々な理由で独軍包囲下の首都に残っていた上流階級の人々は飢餓の怖れもどこ吹く風、供出命令も半ば無視して普段通りの贅沢な生活を維持しており、怖いものは未だ実行されていない独軍の市街砲撃位なもので、ひたすら嵐が鎮まるのを待っていたのです。
人々は公然とトロシュ政権の無為無策を罵り始め、あらゆる機会と捉えては国防政府が独軍包囲網に対する大規模な攻撃を再度行うように圧力を掛け続けますが、当のトロシュ将軍周辺は11月に入っても「将軍は状況打開の計画を持っている」と曖昧な希望を述べるばかりで実行が伴わず、巷では「トロシュは計画を持っている、その計画のおかげで我らは勝利するだろう」等々皮肉たっぷりの戯れ歌が歌われる始末でした。
現実にはトロシュ将軍はこの先の見通しも立たずに途方に暮れており、独軍に対してはただ対峙するだけで突破作戦作成にも熱が入らず時間ばかりが過ぎて行ったのです。
トロシュという人物は聡明であり決して怯懦でもなく、この時代の他の指導者的軍人たちと同じくアルジェリア、クリミア、イタリアと転戦しそれなりの評価も受けましたが、かと言って実戦で際立つような軍人ではありませんでした。1867年、仮想敵国となる普王国に対して無為無策・努力せず怠惰に落ちた軍の有様を暴いた「1867年の軍隊」を著して軍と政府から疎んじられ、逆に一般に名が知られるようになった「反体制」(左翼や共和主義者ではなくオルレアン王党派だったと言われます)で軍政畑の人物でした。また、包囲下のパリには「一家言持った」多くの高級士官が居住していましたが、その多くは予備役に編入されていた引退将官で、急激な発展を見せる産業に伴い、武器ばかりでなく戦術までもが変遷するこの時代に即して作戦を立案し実行出来る能力を秘める者は現役士官を含めても多くはありませんでした。
従ってパリ在の将軍連中で一番実戦経験と実行力があったのは、あのパトリス・ドゥ・マクマオン将軍も買っていたオーギュスト・アルクサンドル・デュクロ将軍、次いで野戦軍を率いるにはやや高齢(当時67歳)ではあるものの仏第13軍団を率いていたジョセフ・ヴィノワ将軍と言うことになります。
デュクロ将軍は10月下旬の「マルメゾンの戦い」でも示していた「セーヌ下流域への突破」を主張し続けており、この「独本土とは正反対側にある包囲網の薄い部分」を一気果敢に突き、パリに残されたおよそ8万の野戦兵力を脱出させ、独軍を混乱に陥れればパリ包囲網を崩壊させる機会が生まれると考えていたのです。
国防政府はこのベテラン野戦軍指揮官二人に攻勢兵力全てを託し、一大突破作戦を敢行することになるのでした。
一方の独軍もこの11月上旬から手詰まり感が漂い始め、このまま漫然と包囲を続けて良いものか、普大本営でも意見が割れ始めていました。
これは特に英国の世論が次第に仏側への同情へ傾き始めたことや、独本国にも「厭戦感」の初期兆候が見られることを危惧し、早期に戦争を終わらせ「勝ち逃げ」したいビスマルクら北独政府首脳と、「この敵首都は後僅かで飢餓状態に陥るはず」と読み、粛々とパリを包囲し続けることによりメッスの時と同じく相手側が折れる、即ち犠牲少なく「完勝」することでこの戦争の終結を中途半端な「休戦」ではなく「降伏」で終わらせたい(この裏には「仏を完膚なきまで叩いて将来独の敵ではあり得なくする」という究極の目的完遂があります)と考えるモルトケら参謀本部との確執だったのです。
このような情勢の中、あの「クルミエの戦い」(11月9日)が発生、この「戦争始まって以来の仏軍完勝」の報は、パリと包囲陣双方に劇的な反応をもたらすのです。
独側では、「クルミエでバイエルン軍敗退・仏ロアール軍前進」との至急報が入るや否や、カール王子率いる独第二軍とメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世率いる大公軍に事態対処の緊急令が下り、大本営ではパリ包囲網の再構築を含めた「南及び西方からの脅威」に対抗するための「作戦の練り直し」が始まります。それは11月16日、普国王ヴィルヘルム1世の勅命として下り、それを端的に表せば「独第三軍は単にセーヌ左岸(概ねパリ南側)における包囲網を維持するだけに留め、右岸にあるヴュルテンベルク王国(W)師団はマース軍に転属せよ」ということでした。
これだけを見れば包囲網南側の「軽視」に見えますが事実は別にあります。
普大本営は既述通り11月7日、「パリの南方及び西方から首都包囲網解囲を謀る仏新軍に備え、これを撃破するため」新たな野戦軍「メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍」を設けました。ヴィルヘルム1世の甥で普軍歩兵大将フリードリヒ・フランツ2世大公の下に参集するため、まずはセーヌとマルヌ両河川の合流点「クレテイユ(シテ島の南東10.5キロ)の三角地帯」の南側から大公国軍が属する普第17師団が抜け、その「穴」はメッスから馳せ参じたばかりの普第4師団が埋めました。同時にベルサイユの西からシャルトル方面に展開していた普第22師団、普騎兵第4、同第6師団、そしてオルレアン周辺に展開していたB第1軍団と普騎兵第2師団が大公軍傘下となり、シャルトルの西~南側とオルレアン方面を担当する事になります。
ところが直後の9日に「クルミエの戦い」が発生し、フォン・デア・タンB軍歩兵大将率いるB第1軍団と普騎兵第2師団はオルレアンを放棄し北上撤退するのでした。
この「事件」はモルトケら参謀本部の作戦を根底から揺さ振ることになります。
先の16日発令の勅令は「仏ロアール軍はまもなく北上を開始し、そうなればパリ防衛軍も呼応して解囲に動き出すはず」との予測による「包囲網の再構築と迎撃作戦」準備でした。
この時動いたのはW師団だけでなく、セーヌ左岸では「北上して来る仏軍、同じくこれに呼応して内側から解囲を謀るだろうパリ防衛軍に対抗しパリ南面の包囲網を厚くする」目的で包囲網の大規模な配置転換が行われるのです。
まず、エデュアルド・フリードリヒ・カール・フォン・フランセキー歩兵大将率いる普第2軍団中、17日にセーヌ支流リヴィエール・モルト川沿いにあるロンジュモー(パリ中央・シテ島の南18.1キロ)とパレゾー(ロンジュモーの北西4.2キロ)にいた普第4師団が更に西側ベルサイユ寄りのサクレー(ベルサイユの南南東9キロ)とオルセー(サクレーの南3.8キロ)へ移動し、翌18日、遙々メッスから行軍し、同僚第4師団に代わって「クレテイユの三角地帯」に着任したばかりの普第3師団と軍団砲兵隊がロンジュモーとパレゾーに向かって移動を始めました。これにより、それまでB第2軍団と普第6軍団によって維持されて来たパリ南面包囲網の後方に普第2軍団による「第二線」が形成され、万が一大公軍を振り切ってロアール軍がパリ郊外に現れた場合には包囲網背後を守るため戦い、パリの仏軍が南面包囲網の突破を図った場合には後方予備として包囲網を支えることが出来るようになるのでした。
この普第3師団と第2軍団砲兵隊が抜けた包囲網の「穴」(セーヌ右岸)には、独マース軍に転属したW師団が守備範囲を西へ広げて展開しました。
この「薄く」なったクレテイユ南面から「マルヌ巾着部」を巡ってノアジー(=シュル=マルヌ。同東14.8キロ)に至るパリ南東側包囲網に対し、北独第24「ザクセン王国(S)第2」師団の半数に当たる北独第48「S第4」旅団とSライター騎兵2個中隊・S野戦砲兵2個中隊・S工兵1個小隊が、万が一仏軍がマルヌ巾着部周辺を襲った場合速やかにW師団の右翼(東)と共に仏軍と戦うこととなってマルヌ左岸(ここでは南岸)に渡り、グルネー(=シュル=マルヌ。ノアジーの北東2.3キロ)からブリ(=シュル=マルヌ。同南西2.5キロ)に掛けて再展開します。
この移動によって「空いた」東側包囲網南部は、まず北独第23「S第1」師団左翼(南)が守備範囲をモンフェルメイユ(グルネーの北5.8キロ)まで伸ばして右翼(北)を空け、ここに普近衛軍団左翼(南)が移動し担当範囲をオーネー(=スー=ボワ。サン=ドニの東10キロ)まで延伸することで対処しました。
マルヌ川の渡河点も順次整理強化され、特にポンパル(小部落。グレネーの対岸)とモンタペンヌ(邸宅。同東1.9キロ付近。現存しません)、ポンポンヌ(グレネーの東北東8.7キロ)付近に仮設された諸橋梁は、北独第12「S」軍団とW師団戦区を結ぶ「生命線」として重要なものとなりました。なお、包囲開始直前の9月にグルネーで架けられた橋は役目を終え破壊されています。また、セーヌ上流の渡河点はジュヴィジー(=シュロルジュ。ロンジュモーの東6キロ)付近にも新たに舟橋が設けられて増強され、この新橋を含めたパリ南面セーヌ川の各渡河点防衛のため、普第4師団からカール・ヴィルヘルム・アルベルト・フォン・トロッセル少将指揮の普第7旅団が分派され、司令部はヴィルヌーブ(=サン=ジョルジュ。クレテイユの南7.7キロ)に置かれます。この普第7旅団はこのセーヌ沿岸警備の他にW師団左翼(西)の援護にも活躍することになります。
こうして仏軍の新たな攻勢に備えた独包囲陣でしたが、包囲網北面を担当するマース軍の前哨たちはこの頃、「仏軍はブゾン(サン=ドニの西10.6キロ)とサン=ドニ付近で新たな架橋準備を行っている」との不気味な報告を上げていました。同じくパリから脱走した兵士の尋問では「攻撃軍がヌイイ門(ヌイイ=シュル=セーヌ。ブゾンの南南東5.6キロ)に集合している」との証言が得られたのです。
しかしこれらの情報は、別ルートの報告(偵察斥候の他間諜や内通者の情報)から得られた「仏軍はジャンヌヴィリエ(サン=ドニの西5キロ)方面に蓄積していた架橋資材を他方面へ運搬しようとしている」との情報、そしてここまで(11月20日頃)の大公軍や普騎兵第5師団の活動によって「パリを西方から解囲可能な大兵力は存在せず」との結論を得たことによって「脅威ではない」とされ、マース軍は単にブゾン橋梁跡に残されていた橋柱(将来の再架橋に備えていました)を爆破するだけで、兵力の再展開は行われませんでした。
パリの包囲網を強化する独軍
ベルサイユ在の普大本営はこの間(11月16日から25日)、「パリでは包囲南面に対する出撃の兆候が見られる」として独第三軍に高度の警戒態勢を命じていました。
すると11月26日の夜、W師団の包囲網に対し対面する「マルヌ巾着部」のサン=モール(=デ=フォセ。クレテイユの東2キロ)やクレテイユ方面の各堡塁から激しい砲撃がありました。この砲撃はセーヌ渡河点のショアジー(=ル=ロワ。同南西5.2キロ)に対しても行われます。
ショアジーに対して仏軍はこの11月最終週に2回に渡って夜間襲撃を仕掛けており、これはその都度任地で警戒していた普第6軍団が撃退し事無きを得ていたのです。
この晩(翌27日早朝午前2時過ぎ)も仏軍はヴィトリ(ショアジーの北3.5キロ)から出撃すると普第6軍団の前哨を駆逐してティエイ(同西1.5キロ)とシュヴィイ(同西北西4キロ)付近まで進出しますが、この攻撃は既に「要塞化」している両部落を守る普第38連隊によって撃退されました。
仏軍は翌28日黎明前にも攻撃を仕掛けますが、同様に普擲弾兵第10連隊の防戦によって失敗しています。
この仏軍攻勢の兆候は27日を境に包囲網南と東側で顕著となり、その最前線で敵の動きを探る普軍の前哨たちは「仏軍はヴィトリとメゾン=アルフォール(クレテイユの西北西2.6キロ)間においてセーヌに新たな橋を増設中」「市内からヴァンセンヌ等東側堡塁群に向かう列車の往来が頻繁となっている」などと報告し、また、包囲されても変わらず発行され続ける市内の各新聞(多くは壁新聞)や間諜、そして毎日のように発見される脱走兵の尋問からも「仏軍は数日以内に東か南に一大出撃を敢行する」との確証が得られるのでした。その中で一番の証拠と言える情報は「パリ市内から東方郊外並びに北東方郊外へ通じる全ての道路上に設置されていたバリケード類が撤去され、周辺住民は市街と各堡塁周辺部間の通行を禁止された」と言うものでした。
☆ パリ防衛軍の再編成と「東進」の開始
元より仏国首都パリの兵員は出身・組織・練成度もまちまちな「寄せ集め」ですが、包囲以来「漠然とした区分」で野戦兵力・防御兵力・後備治安兵力に分けられ、それぞれ任地に就いていました。
これを組織化し、三軍に編成し直したものが11月6日に発表された「パリ軍」でした。
パリ軍は市内に散在する正規野戦軍、戦争前徴兵の護国軍、9月政変で編成された「臨時」国民衛兵*、警察や消防に各所の衛兵、そして義勇兵を練度と「信頼度」によって区分けし、軍団・師団・旅団・連隊に編成し直したもので、「パリ第一軍」「パリ第二軍」「パリ第三軍」に統括されました。
パリ第一軍は臨時国民衛兵266個大隊、騎兵隊1個集団、砲兵1個集団から編成した戦闘兵員数16万に及ぶ巨大な軍として計画されますが、実体は新兵教練を終えたばかりで制服や装備、旧式の備蓄武器すら満足に行き渡らずにいた「数ばかり大きい素人の集団」でした。彼らは主に「ティエールの壁」防備と市内治安警備に使用されます。それでも万一に備え、臨時国民衛兵中「優秀な兵士」を抜粋して「戦闘中隊」なるものを創設し、これらの中隊を適宜400から500名程度の「マルシェ歩兵大隊」に集成し編成、彼らは各要塞や分派堡塁に勤務する「正規の」護国軍部隊が野戦軍への応援として戦場に駆り出された時、代わって要塞勤務に就くため待機することになります。
11月8日、パリ第一軍は59個「マルシェ」連隊の下238個大隊の歩兵、6個中隊の騎兵、1個集団の砲兵で正規発足しました。
この員数多く問題も多い雑多な集団を率いることになったのは、ジロンド県出身でルイ=フィリップの「7月」王政下とナポレオン3世の第二帝政下で亡命生活を送った経験のある生粋の穏健共和派軍人、ジャック・レオナール・クレマン=トマス将軍でした。
しかしクレマン=トマス将軍は、1848年の二月革命に続く「六月蜂起」においてルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック将軍の下、社会主義者や急進左翼主導の暴動を鎮圧し労働者を多数殺害したという「黒歴史」を持ち、それを忘れず恨みに思い続ける急進左派勢力から忌み嫌われていたため、下層市民や労働者階級を中核とした臨時国民衛兵の指揮官としては「疑問点」を含んでいたのです。
※臨時国民衛兵(Garde nationale sédentaire)は、直訳すれば「定住国民衛兵」となります。最初に登場したのは1795年、穏健共和政権下で制定された「共和暦3年憲法」の一項で、場合に因っては野戦軍の一部として出征することもある「国民衛兵」と違い、居住区から「動かず(=野戦に出ず)」にその「街」の治安を守る郷土民兵組織でした。この準軍事組織は時々の政府によって設置されたり廃止されたりを繰り返しますが、1870年の国防政府は出征する護国軍が抜けた穴を埋めるために新設し、パリではそれまでの国民衛兵に義勇兵、そして男性市民の多くが臨時国民衛兵として徴集され「パリ国民衛兵」となり、これは後にパリ・コミューンの強力なバックボーンとなって行きます。
臨時国民衛兵
デュクロ将軍が率いることになったパリ第二軍は、パリ軍随一の野戦軍集団で、包囲網への主攻を担当する正に「パリの切り札」でした。この軍には当然ながら在パリ最良の兵員・資材が集められ、最も信頼出来る仏第13、第14軍団に属していたマルシェ部隊に補充兵員を加え、名称も「マルシェ」から「戦列歩兵」に「昇格」した「一応は」プロの戦闘員たちでした(それまでの隊番号に100番を加えます)。
この軍は3個軍団と騎兵1個師団、若干の砲兵集団からなり総兵員数は10万を超え、新旧の4ポンド、8ポンド、12ポンドの各野砲とミトライユーズ砲、そして採用されたばかりの新型砲レフィエ85mm(7ポンド)砲など併せて320門以上を備える強力な軍でした。
パリ第三軍はほとんどが護国軍と政府の武装組織(国家憲兵隊や警察、税関警備隊、森林保安官など)からなる歩兵6個師団と騎兵1個師団からなる戦闘兵員約7万人の軍で、ジョセフ・ヴィノワ将軍が率います。彼らの任務はデュクロ将軍が主攻撃を行う際に他方面で陽動・助攻を行うことで、普段は治安・要所警備や要塞勤務などを行う後備部隊中心のため、デュクロ将軍麾下ルイ・エルネスト・ドゥ・モーユイ少将率いる師団(第1軍団第2師団。戦列歩兵4個連隊・護国軍4個大隊基幹)を臨時にヴィノワ将軍傘下としていました。
この他、分派堡や要塞には8万に及ぶ要塞警護の護国軍部隊が配備され、特に北部郊外衛星市のサン=ドニには北海からバルト海へ向けて海軍歩兵と共に出撃する筈だった男爵カミーユ・アダルベル・マリエ・クレマン・ドゥ・ラ・ロンシエール・ル・ヌリー海軍中将を司令官に仰ぐ「サン=ドニ軍」3万5千(戦列歩兵3個連隊・セーヌ県/パリの護国軍15個大隊・海軍フュージリア兵1個大隊)が設けられます。
このように11月中旬にはパリの防衛兵力は40万以上に及び、「員数だけは」囲む独軍の2倍以上となったのです。
パリ防衛軍は11月一杯、独マース軍の包囲網と対峙するパリ北面のコロンブ半島(サン=ドニ対岸ジャンヌヴィリエからマルメゾンに至るセーヌ湾曲部)における防衛工事を続行し、セーヌ下流(西)方面には毎日欠かさず斥候偵察隊が送られました。特にデュクロ将軍が目論見ていた「西方出撃」時の突破口となるブゾン~マルメゾン方面の独軍に対抗するため、モン・ヴァレリアン山(要塞)周辺には多数の砲台が新設され、普第4及び第5軍団の第一包囲線は断続的に砲撃を受けました。その要塞にはヴァンサンヌ要塞から運び出され、後に「ラ・ヴァレリ」と名付けられる海軍の24センチ重カノン砲1門が設置され、この「巨砲」は思い出したように火を噴き、その榴弾はボールガール城館(ベルサイユ宮殿の北3.9キロ。現存せず)の普軍肩墻砲台まで届く(射距離およそ7,500m前後)独軍にとって厄介な存在となったのです。
モンヴァレリアン要塞の巨砲「ヴァレリー」
こうしてパリでは西方突破作戦を計るデュクロ将軍によって再度マルメゾン方面への出撃準備が始まりますが、11月14日になってクルミエの戦いの詳報がパリにも伝わり、このニュースによって国防政府も俄かに突破作戦を実施してロアール軍の首都進撃を後援しようという機運となって行きました。これでデュクロ将軍の計画も「西」からロアール軍がやって来る「南」へと方向を変更すべし、との意見が現れ、更に18日にトゥールのガンベタから「パリ軍も南方への出撃を図ってロアール軍の行動を援助して欲しい」との主旨の連絡が届いたのです。
これで国防政府の大勢は「南への突破」に固まり、その総指揮官にはもちろんデュクロ将軍が任じられました。
しかし、デュクロ将軍はこれまで仏軍が度々攻撃を行って来たパリ南面・クレテイユの三角地帯南側からショアジー、ティエイ、そしてシュビイに至る独軍包囲網は、包囲開始2ヶ月を迎えて著しく強化されていることを偵察報告から得ており、ここを正面から強襲しても突破には困難と多大な犠牲を要する、とします。そこでデュクロ将軍は、まず「マルヌ巾着部」の「口」・ジョアンヴィル(=ル=ポン)からノアジー(=ル=グラン)までのマルヌ沿岸9キロでマルヌ川を渡河して南岸へ突進し、ここを足場にムラン方面のセーヌ上流へ南進することを狙い、その初動として北独第12軍団の任地北端前面のアヴァロン山(ヴァンセンヌ城館の北東6.5キロ付近。現コトーダヴロン公園北側)を占領してマルヌ川北側の独軍陣地を牽制、同時に包囲網北側のエピネー=シュル=セーヌ(サン=ドニの北西4キロ)や同北西方のラ・マルメゾン(ビュザンヴァル)、そして南面のライ=レ=ローズ(ショアジーの西北西5.5キロ)に対する陽動攻撃を行って独軍を翻弄するよう作戦を練るのでした。
デュクロ将軍と助攻を担当するヴィノワ将軍は急ぎ準備を開始し、11月28日を作戦開始日と命じられたパリ第二軍はヴァンセンヌ要塞や公園周辺に押っ取り刀で集合し、ヴィノワ将軍のパリ第三軍は各地で牽制攻撃の配置に就きました。
11月26日、助攻のために事前砲撃が開始され、パリ第三軍第5師団(デューグ少将・戦列歩兵1個大隊、護国軍6個大隊、猟兵1個大隊、砲18門)は29日早朝、ロニー堡塁横の坂を下って一気にアヴァロン山へ登るとここを占領しました。前述通り包囲網南方のショアジーやシュビイにも攻撃が行われると29日夜にはパリ第二軍第3軍団が出撃してアヴァロン山周辺に前進待機しました。
ところが、軍の前進直前にマルヌへ仮橋を架橋する工兵を中心とする作業隊は、28日の午後8時にジョアンヴィルで架橋作業を始めたものの、折しも上流で大雪となったマルヌ川は水位を上げて奔流となり、危険となった作業隊は架橋作業を中止してしまいます。既に助攻が開始され、本日(29日)中にパリ第二軍のマルヌ渡河も始まる直前のデュクロ将軍も、間違いなく独軍はパリ軍の大兵力移動を探知しており時間が勝負となっていたとはいえ、「このまま作戦を決行しても上手く捗らないのでは」と作戦中止を弄び、前線で見守っていたトロシュ将軍も中止命令を出すか否かで迷いました。
しかし、ロアール軍が北上していると思われる以上、ドーレル将軍に掛かる圧力を取り払うためにも出撃を行うしかない、と決意したトロシュ将軍は作戦続行を命じ、デュクロ将軍も1日遅れの「30日に作戦開始」と命令するのでした。
国民衛兵の訓練
仏パリ防衛軍戦闘序列 1870年11月8日
☆パリ第一軍(戦闘員総計166,000名)
司令官 ジャック・レオナール・クレマン=トマス中将
○臨時国民衛兵による59個「マルシェ」連隊(238個大隊)
○騎兵6個中隊
○砲兵1個集団
パリ第一軍クレマン=トマス将軍
☆パリ第二軍
司令官 オーギュスト=アレクサンドル・デュクロ大将
参謀長 フェリクス・アントワーヌ・アペール准将
砲兵部長 シャルル・ヴィクトル・フレボー少将
工兵部長 フランシス・マリエ・トリピエ少将
◎第1軍団(旧・第13軍団を元に編成)
司令官 ジョルジュ・ウジェーヌ・ブランシャール中将
参謀長 フィリップ大佐
砲兵部長 ミシェル・ジョセフ・フランシス・アルバート・ルノー=ダベクシー少将
工兵部長 デュプティ少将
○第1師団 アシル・シャルル・ルイ・デスロー・ドゥ・マルロワ少将
◇第1旅団 シャルル・エドモンド・マルトゥノ・シャドゥラ・ドゥ・コルドゥー准将 (9,129名)
*護国軍イル=エ=ヴィレーヌ県(ブルターニュ地方東部・県都レンヌ)第1、2、4大隊 (ヴィニュラル大佐)
*護国軍コート=ドール県(ブルゴーニュ地方北東部・県都ディジョン)第1、2、3、4大隊 (ドゥ・グランセ大佐)
◇第2旅団 フランシス・ジュスタン・パテュレール准将 (3,114名)
*戦列歩兵第121連隊 (カリロン・ドゥ・ヴァンダイユ中佐)
*戦列歩兵第122連隊 (ドゥ・ラ・モヌレイ中佐)
◇師団付属
*海軍4ポンド砲2個中隊(12門)
*ミトライユーズ砲中隊(6門)
*工兵1個小隊
○第2師団 ルイ・エルネスト・ドゥ・モーユイ少将
◇第1旅団 ルイ・エルネスト・ヴァレンティン大佐 (10,629名)
*戦列歩兵第109連隊 (ミクル・ドゥ・リウ大佐)
*戦列歩兵第110連隊 (ミムレル大佐)
*護国軍フィニステール県(ブルターニュ地方西部・県都カンペール)第2、3、4、5大隊 (ヴィルスブレ中佐)
◇第2旅団 ニコラ・ジャン・アンリ・ブレーズ准将 (6,255名)
*戦列歩兵第111連隊 (ドトリヴ中佐)
*戦列歩兵第112連隊 (レスピオー中佐)
◇師団付属
*4ポンド砲2個中隊(12門)
*ミトライユーズ砲中隊(6門)
*工兵1個小隊
○第3師団 ジョセフ・ファロン海兵少将
◇第1旅団 コンテ大佐 (8,094名)
*戦列歩兵第113連隊 (ポティエ中佐)
*戦列歩兵第114連隊 (ヴァンセ中佐→ジョルジュ・エルネスト・ジャン=マリー・ブーランジェ中佐*)
*護国軍ヴァンデ県(アキテーヌ地方北部。県都ラ・ロッシュ=シュル=ヨン)第1、2、3大隊 (オブリー中佐)
◇第2旅団 ルイ・コンスタン・ロラン・ドゥ・ラ・マリウーズ准将 (5,106名)
*戦列歩兵第35連隊 (マルティノー中佐)
*戦列歩兵第42連隊 (アドリアン・プレヴォー中佐)
◇師団付属
*4ポンド砲2個中隊(12門)
*ミトライユーズ砲中隊(6門)
*工兵1個中隊
○軍団砲兵隊 アンネー大佐
*12ポンド砲6個中隊(36門)
○軍団工兵1個中隊
※ブーランジェ中佐は後の国防大臣・世界史にも登場する「ブーランジェ運動」の張本人です
◎第2軍団(旧・第14軍団を元に編成)
司令官 男爵ピエール・イポリット・プブリウス・ルノー中将
参謀長 フェリー=ピサニ少将
砲兵部長 アンドレ・デニス・アルフレッド・ボアッソネ少将
工兵部長 コルピン大佐
○第1師団 男爵ベルナール・ドゥ・シュスビエル少将
◇第1旅団 ジュール=マリエ・ラドレー・ドゥ・ラシャリエール准将 (3,840名)
*戦列歩兵第115連隊 (カジャール中佐)
*戦列歩兵第116連隊 (パニエ・デ・トゥッシュ中佐)
◇第2旅団 クロード=マルタン・ルコント准将 (3,861名)
*戦列歩兵第117連隊 (モンタル中佐→ガラン中佐)
*戦列歩兵第118連隊 (ロシュフォール中佐)
◇師団付属
*4ポンド砲2個中隊(12門)
*ミトライユーズ砲中隊(6門)
*工兵1個小隊
○第2師団 ジャン=オーギュスト・ベルトー少将
◇第1旅団 ブッシュ准将 (4,033名)
*戦列歩兵第119連隊 (ショルトン中佐)
*戦列歩兵第120連隊 (ヘックキット中佐)
◇第2旅団 マリエ・フランシス・ジョセフ・ドゥ・ミリベル大佐 (7,364名)
*護国軍ロアレ県(県都オルレアン)第2、3、4、5大隊 (ドゥ・モンブリゾン中佐)
*護国軍セーヌ=アンフェリウール県(現・セーヌ=マリティーム県。ノルマンディ地方北部。県都ルーアン)第1、4、5大隊 (ドゥ・ベルイエ中佐)
*護国軍ドローム県(南仏ドーフィネ地域。県都ヴァランス。)第2大隊
◇師団付属
*4ポンド砲2個中隊(12門)
*ミトライユーズ砲中隊(6門)
*工兵1個小隊
○第3師団 エルネスト・ルイ・マリエ・ドゥ・モーション少将
◇第1旅団 アンリ・ジャン・クルティ准将 (5,000名)
*戦列歩兵第123連隊 (ドゥピィ・ドゥ・ポディオ中佐)
*戦列歩兵第124連隊 (サンギネッティ中佐)
◇第2旅団 ジョセフ・アヴリル・ドゥ・ランクロ准将 (5,060名)
*戦列歩兵第125連隊 (ジョルダン中佐)
*戦列歩兵第126連隊 (ネルトナ中佐)
◇師団付属
*4ポンド砲2個中隊(12門)
*ミトライユーズ砲中隊(6門)
*工兵1個小隊
○軍団砲兵隊 ミノ大佐
*12ポンド砲5個中隊(30門)
○軍団工兵1個小隊
◎第3軍団
司令官 アントニー=アシル・デクセア=デュメルク中将
参謀長 ドゥ・ベルガリック大佐
砲兵部長 プレンストー少将
工兵部長 ラゴン大佐
○第1師団 アドリアン・アレクサンドル・アドルフ・ドゥ・キャリー・ドゥ・ベルマール准将
◇第1旅団 ジャン・マルティン・フルネ大佐 (5,100名)
*ズアーブ歩兵第4連隊 (メリク中佐)
*戦列歩兵第136連隊 (アラド中佐)
◇第2旅団 ヴィクトール=マルティン・コロニュー大佐 (8,297名)
*護国軍セーヌ県(パリを含む首都県。現在廃止)/マルヌ県(シャンパーニュ地域。県都シャロン=アン=シャンパーニュ)合同 第1、2、3、4大隊 (フランチェスケッティ中佐)
*護国軍モルビアン県(ブルターニュ地方南部。県都ヴァンヌ)第1、2、5大隊 (不詳)
◇師団付属
*4ポンド砲2個中隊(12門)
*ミトライユーズ砲中隊(6門)
○第2師団 ガストン=マリエ=ジョセフ・マタ少将
◇第1旅団 ボネ大佐 (8,560名)
*戦列歩兵第105連隊 (ガラン中佐)
*戦列歩兵第106連隊 (ギネ中佐)
*混成護国軍連隊 (レイユ中佐)
・護国軍タルヌ県(南仏ラングドック地方西部。県都アルビ)第1、2、3大隊
・護国軍セーヌ=アンフェリウール県第3大隊
◇第2旅団 マルティン=エデュワール・ドーデル准将 (4,342名)
*戦列歩兵第107連隊 (タライユ中佐)
*戦列歩兵第108連隊 (コワッフェ中佐)
◇師団付属
*4ポンド砲2個中隊(12門)
*ミトライユーズ砲中隊(6門)
○軍団砲兵隊 ドラクロ中佐
*4ポンド砲1個中隊(6門)
*12ポンド砲5個中隊(30門)
○騎兵師団 伯爵クリエイション・ギュスターブ・ジャン・ジャック・ルイ・ドゥ・シャンプロン少将
◇第1旅団 シャルル・ジョルジュ・フィリップ・ドゥ・ムシュトン・ドゥ・ゼルブロワ准将(1,085名)
*マルシェ竜騎兵第1連隊(後・竜騎兵第13連隊) (ロテ大佐)
*マルシェ竜騎兵第2連隊(後・竜騎兵第14連隊) (ジェローム・ナポレオン・ボナパルト2世大佐*)
◇第2旅団 アベル・クーザン准将 (1,374 名)
*猟騎兵第1連隊 (ジェラール大佐)
*猟騎兵第9連隊 (シャレロン大佐)
*スィパヒ騎兵(アルジェリア植民地騎兵)1個中隊 (バーリクール大尉)
◇独立旅団 レオン・アレヴェーヌ大佐 (1,374名)
*騎馬憲兵第1連隊
○軍直轄砲兵隊 ルセ中佐
*12ポンド砲5個中隊(30門)
*4ポンド砲1個中隊(6門)
*新式砲兵4個中隊(レフィエ85mm砲*x24)
○軍直轄工兵2個中隊
※レフィエ85mm砲(Canon de campagne de 7 de Reffye modèle 1870)はミトライユーズ砲も開発した砲兵技術士官ジャン=バティスト・ヴェルシェール・ドゥ・レフィエが開発し戦争中に正式採用された螺式尾栓を採用した後装施条式野砲で、普軍のクルップ4ポンド野砲に匹敵する新型野砲(但し鋼鉄製のクルップ砲に対してレフィエ砲最初のタイプは未だ青銅製)です。
パリ第二軍デュクロ将軍
☆パリ第三軍
司令官 ジョセフ・ヴィノワ大将
○第1師団 ジュール=アンリ・スマン少将
◇第1旅団 ジャン・フランシス・ダルジャントル准将 (4,686名)
*共和国親衛隊歩兵隊 (ヴァランタン大佐→アレヴェーヌ大佐)
*国家憲兵隊首都連隊
*国家憲兵隊セーヌ=エ=オワーズ県(パリ市を取り巻く地域。現在は廃止)連隊
◇第2旅団 ブティエ大佐 (6,349名)
*税関警備兵連隊 (ビゴ中佐)
*森林監視兵連隊 (キャロー中佐)
*戦列歩兵第29連隊補充大隊
*戦列歩兵第59連隊補充大隊
○第2師団 侯爵シャルル・フィリップ・エドゥワール・ドゥ・リニエ少将
◇第1旅団 フィルホル・ドゥ・カマス大佐
*護国軍コート=ダルモール県(ブルターニュ地方北部。県都サン=ブリュー)連隊第1、2大隊 (ショレ中佐)
*護国軍コート=ダルモール県連隊第3、4大隊 (ドゥ・カルネ中佐)
*護国軍エロー県(南仏ラングドック地方地中海沿岸。県都モンペリエ)連隊3個大隊 (ドゥ・モンヴァイヤン中佐)
◇第2旅団 シャルル・ガブリエール・ヒポリット・ティバス・ドゥ・シャンブレ大佐
*護国軍セーヌ=エ=オワーズ県連隊第1、2、3大隊 (アブラーム中佐)
*護国軍セーヌ=エ=オワーズ県連隊第4、5、6大隊 (ランシュヴァル中佐)
○第3師団 シャルル・マリエ・ナポレオン・ドゥ・ボーフォート・ドゥ・ドープル少将
◇第1旅団 デュムラン准将 (7,125名)
*護国軍オーブ県(シャンパーニュ地方南部。県都トロワ)連隊の3個大隊 (ファヴー中佐)
*護国軍ソーヌ=エ=ロワール県(ブルゴーニュ地方南部。県都マコン)連隊の3個大隊 (ドナ中佐)
◇第2旅団 アドルフ・ダンドレ海軍中佐 (7,161名)
*護国軍アン県(スイスと接するアルプ地方東部。県都ブール=カン=ブレス)連隊の3個大隊 (ドルト中佐)
*護国軍ヴィエンヌ県(ポワトゥー地方東部。県都ポワチエ)連隊の3個大隊 (マイユ中佐)
○第4師団 フランシス・ダニエル・オーギュスト・コレール少将
*護国軍ピュイ=ド=ドーム県(南仏オーヴェルニュ地域。県都クレルモン=フェラン)の1個大隊
*護国軍マルヌ県の1個大隊
*護国軍ソンム県(ピカルディ地域。県都アミアン)の4個大隊
*機動(戦闘)国民衛兵大隊
*警察(戦闘)大隊
○第5師団 デューグ少将
◇第1旅団 ヴァレット大佐
*護国軍4個大隊(詳細不詳)
◇第2旅団 エミール・フレデリック・ドゥ・ブレ海軍中佐
*戦列歩兵第137連隊 (アルマン・デフィ大佐)
*護国軍2個大隊(詳細不詳)
*猟兵1個大隊(詳細不詳)
*師団砲兵4ポンド砲3個中隊(18門)
○第6師団 ルイ・ピエール・アレックス・ポタゥ海軍准将
◇第1旅団 ルマン中佐 (2,491名)
*戦列歩兵第128連隊 (不詳)
*猟兵第21大隊 (パラハ少佐)
◇第2旅団 サロモン海軍大佐 (5,000名)
*マルシェ海軍歩兵4個大隊
○騎兵師団 オーギュスト・ベルタン・ドゥ・ヴォー少将
◇第1旅団 フランシス・ジュスタン・レイモン・ドゥ・ピエール・ドゥ・ベルニ准将
*猟騎兵第12連隊 (マリアニ中佐)
*竜騎兵第16連隊 (ドゥ・ラノーズ中佐)
*槍騎兵第9連隊 (ベルトワール大佐)
◇第2旅団 ブロンデ中佐
*騎馬憲兵第2連隊
パリ第三軍ヴィノワ将軍
☆サン=ドニ軍
司令官 男爵カミーユ・アダルベルト・マリエ・クレマン・ドゥ・ラ・ロンシエール=ヌリー海軍中将
◇第1旅団 ラヴォワンヌ准将
*戦列歩兵第134連隊 (ショーベルト中佐)
*護国軍セーヌ県の5個大隊
◇第2旅団 ルイ・フランシス・ジョゼフ・アンリオ准将
*戦列歩兵第135連隊 (エドゥアール・ルイ・マキシム・ダニエル・ドゥ・ボワドゥヌメ中佐)
*護国軍セーヌ県の8個大隊
◇第3旅団 ユジェーヌ・ラモット=トゥネ海軍大佐
*戦列歩兵第138連隊 (コロニエ中佐→ラボット・デ・ポルト中佐)
*護国軍セーヌ県の2個大隊
*海軍フュージリア兵1個大隊
サン=ドニ軍ロンシエール=ヌリー提督
※こぼれ話
ジェローム・ナポレオン・ボナパルト2世(=パターソン)大佐(1830-1893)
ナポレオン1世の末弟、ジェローム・ボナパルトとその最初の妻、アメリカ・ボルチモアの富豪の娘エリザベス・パターソンとの間に生まれた長男、ジェローム・ナポレオン・ボナパルト1世の長男がジェローム・ナポレオン・ボナパルト2世(簡単に言えばジェローム・ボナパルトの孫)です。
当時(1803年)ジェローム・ボナパルトは海軍士官で、カリブ海における英国海軍との戦い(マルティニク島沖海戦)に敗れ米国に避難してエリザベスと出会い恋に落ちました。しかし二人の息子を授かったジェロームの結婚は皇帝に即位したナポレオン1世によって無効とされ強制的に離婚させられてしまいます(エリザベスの仏入国を認めず。ジェロームは仏に帰国後ヴェストファーレンの王に祭り上げられます)。
二人の息子はエリザベスによってパターソン家で育てられますが、子供たちはフランス国籍は元より、「ナポレオン」を名乗ることやジェローム・ボナパルト家の相続・継承権もフランス政府から拒否されてしまいました。
成長し、父と同じくアメリカ人富豪の娘と結婚したジェローム1世もまた二人の息子を得、長男ジェローム2世は米軍人となりますが24歳の時、2年前に仏皇帝に即位した伯父のナポレオン3世(1世の弟ルイの息子)を頼って父と共にフランスに渡り皇帝に謁見、フランス国籍を得てナポレオンを名乗ることも許されました。因みに祖父ジェロームは2番目の妻としてヴュルテンベルク王家からカタリーナ妃を迎え、その息子が第二帝政下「ナポレオン公」と呼ばれ「隙あらば」帝位を狙っていたナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルトです。
皇帝の親戚と認められたジェローム2世は中尉として仏軍に転籍し、直後のクリミア戦争にも騎兵士官として従軍(ナポレオン公も従軍しますが怯懦にも仏へ「逃げ帰り」ます)、その後にアルジェリア、イタリア独立戦争にも参加して70年、普仏戦争後に中佐となりました。帝政が崩壊してもジェローム2世は軍に留まり、仏国への忠誠を認められ大佐に昇進すると竜騎兵連隊を率いてパリ防衛に参加します。戦後、70年6月に死去した父の事業を継ぐため軍を辞任するとアメリカに帰り、以降アメリカ人として生きました。
なお、彼の弟チャールズ・ジョセフ・ボナパルトはボルチモアに残って弁護士となり、後に政治家となってセオドア・ルーズベルト大統領の海軍長官(日露戦争の後期に当たります)や司法長官を歴任、司法省内に「捜査局」を開設、これが後に連邦捜査局・FBIとなるのです。
ジェローム・ナポレオン・ボナパルト2世




