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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
397/534

第2次オルレアンの戦い/古都の終焉


☆ 仏ロアール軍本営・12月4日午前


 午前8時。仏ロアール軍司令官ドーレル・ドゥ・パラディーヌ中将は、明け方5時に返信された国防政府トゥール派遣部のフレシネによる「オルレアンからの撤退を許さず」との主旨の回答(既述)に対し一旦はこれを「無視」する覚悟を固めますが、このままでは命令無視の反抗と捉えられ軍法会議ものの事態となってしまうため、更なる「上申」を試みます。その文面には追い込まれたドーレル将軍の率直な心情が滲み出ていたのです。


「国防政府トゥール派遣部 戦争指導担当大臣(=フレシネ)殿

 サランにて。12月4日午前8時発信

 本官(=ドーレル将軍)は実際の戦場にいるため、理性的に状況判断可能な状態にあります。それ故、現状と乖離する命令を受ける苦痛は国を憂える大臣(フレシネ)に劣るものではありません。

 本日早朝より敵はセルコットやオルレアン大森林を越えて前進し、オルレアンは最早風前の灯火といったところです。ロアール軍は耐えかねる損害を受け、大森林の防御を失い、3日間に及ぶ戦闘による疲弊と士気の低下に晒されております。

 敵は予想以上に手強いのです。時間も残されておりません。本官は大臣が命じるオルレアンの防衛が成功するとは考えておりせん。ロアール軍が試みることが出来るあらゆる手立てを尽くしたとしても、今晩か明日中には迫る敵の手によってオルレアンは陥落することでしょう。

 これは大きな惨事でありますが、より大きな惨劇を回避する唯一の方法は、残された時間で犠牲を避ける(撤退する)勇気を持つと言うことです。

 本官に軍を再編成する時間を与え、不足する物資や人員を育てることに傾注すれば、ロアール軍はまだ国防に寄与することが可能です。

 オルレアンの死守に拘れば、その可能性も消えます。故に本官はこれ以上犠牲を出さずにロアール軍を撤退させる必要があるのです。

 本官は大臣がブルバキ将軍に与えた命令についても撤回するよう希望します。第18と20軍団は、ジアンでロアールを渡るべきで、オルレアンに向った後にロアールを渡る羽目となるのは危険です。まだシャトーヌフ(=シュル=ロアール)の橋は通行可能とのことです。(ブルバキ軍団が既に行軍していてもシャトーヌフでロアールを渡河すれば独軍の追撃をかわすことが可能、との示唆)

 署名 ドーレル」(筆者意訳・補足)


 しかし午前10時。軍団長マルティン・デ・パリエール将軍が直率する仏第15軍団第1師団がオルレアン市内に入り、市郊外北部や東部でも敵を食い止めているとの報告があったことで、ドーレル将軍はしつこくオルレアン防衛を要求するガンベタらの命令に渋々応じようと考えを改め、トゥールにその旨通告しました。


「トゥール戦争指導部宛

 オルレアンにて 12月4日午前11時55分発信

 本官はオルレアンについての作戦を変更します。第16と17軍団及び東部より招聘される第18と20軍団によりオルレアンにて抗戦します。(ドーレル)」


 しかし、この命令は仏第15軍団以外実行されることはありませんでした。既にオルレアン在のロアール軍本営と右翼(東)の仏第18、20軍団との連絡は、間に普第3軍団が入り込んだため途絶えており、左翼の仏第16、17軍団との連絡も独メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍のブレ~オルム方面への進出によって途切れてしまい、命令を伝えることが出来なかったのです。結局オルレアンの防衛は「傷だらけの」仏第15軍団のみで行うしかなくなったのでした。


挿絵(By みてみん)

「トルコ兵」の死


☆ シャンジー「軍」の後退


 同4日昼前。オルレアン北西部郊外で戦う仏第16、17軍団を率いるシャンジー将軍は、独大公軍によるオルレアン侵攻を極力妨害しようと仏第16軍団の第1「ジャン・ベルナルディン・ジョーレギベリ提督」師団をコアンス(ブレ=レ=バールの北西4.6キロ)付近に集合させました。同じくサン=シジスモンからジェミニー(ブレからそれぞれ西に7.7キロ、西南西に6.8キロ)に掛けて集合し始めた仏第17軍団もこれと連動して自軍団右翼(東)側を南下する大公軍の右翼側面を攻撃する作戦だったのです(仏第16軍団の第2と第3師団は既にロアール河畔へ向かって撤退中です)。

 しかしブレを攻撃中、普騎兵第4師団から「コアンスに敵が集合中」との情報を得たB第1軍団長フォン・デア・タン歩兵大将は、シャンジー将軍の計画に対抗してブリシー付近に待機させていたB第3旅団、B胸甲騎兵旅団、軍団砲兵隊の諸隊を西へ90度転向させて仏軍の攻撃に備え、同じく後方ユエートルにいた普騎兵第9旅団は所属師団の2個騎砲兵中隊と共にコアンス方面へ前進したのです。

 この普軍騎兵旅団はパテからサン=ペラヴィ(=ラ=コロンブ。コアンスからは南西へ3.3キロ)に向かっていたジョーレギベリ師団の一部と遭遇し戦闘となります。この時仏軍行軍縦隊はサン=ペラヴィへの街道(現・国道D935号線)上を進んでいましたが、その左翼(東)側はコアンスに集合した同僚歩兵が敷く散兵線とミシェル将軍率いる軍団騎兵によって護衛されていました。


挿絵(By みてみん)

パテからサン=ペラヴィーへ後退する教皇領ズアーブら


 普騎兵第9旅団長のヴィルヘルム・フォン・ベルンハルト少将は、進行方向に発見した敵が「ヴィルピオンの戦い」で苦渋を飲まされた「戦上手」のジョーレギベリ提督師団と知ると戦いを挑み、槍騎兵4個(普槍騎兵第1連隊第2、同第6連隊第2,3,4)中隊を直率すると騎兵集団に向けて突撃を敢行、次第に速度を上げた400騎を超える普軍槍騎兵は街道の東に延びる仏軍の塹壕線を飛び越え仏軍騎兵に迫ります。ミシェル騎兵師団は騎銃を構えて普軍槍騎兵を迎え打ちますが、一斉射撃にも怯まず突進するベルンハルト将軍らを見て急ぎサン=ペラヴィへ逃走するのでした。

 同じ頃、旅団長とは別行動となった普槍騎兵第6連隊の第1中隊は、必死で銃撃を繰り返す仏軍歩兵の散兵線を突き破ると、サン=ペラヴィ部落手前で仏軍騎兵集団の左翼(西)側面を襲撃し、同じように敵戦線を突破した普槍騎兵第1連隊の第3中隊*が仏騎兵右翼を急襲します。しかしサン=ペラヴィにいた仏第17軍団兵によってミシェル将軍等は保護され、普軍槍騎兵2個中隊は街道沿いの塹壕線から猛烈な銃火を浴びせられたため、急ぎ射程外まで脱出するのでした。


 ※この槍騎兵中隊はセダン戦後のパリへの行軍以降、普皇太子率いる独第三軍本営の護衛として勤務していましたが11月末に任を解かれ、12月2日連隊に復帰していました。


挿絵(By みてみん)

サン=ペラヴィー付近の戦闘 攻撃する普軍騎兵


 ベルンハルト将軍は仏騎兵を蹴散らした後、仏軍がまだ残っていると思われるパテを攻撃することにして、普槍騎兵第6連隊をパテへ先発させ、これを知った同僚普騎兵第8旅団もまたパテへ向かいました。


 ヨブ・ニコラス・リヒャルト・マリア・フォン・ヘントハイム少将率いる普第8騎兵旅団は午前5時、同行するB歩兵第3連隊とB野戦砲兵第1連隊4ポンド砲第2中隊と共にコルマンヴィル(パテの北西12キロ)から出立して南下し、昼前、パテに仏軍守備隊が存在するのを発見すると市街に突撃しますが、この時は未だ仏第17軍団の主力が居たために撃退されてしまい、一時ミュゼル(パテの北2.6キロ)周辺に留まってパテを監視していたのです。

 南から友軍騎兵(槍騎兵第6連隊)が現れた事で攻勢に出る決心をしたヘントハイム将軍は、B4ポンド砲中隊にパテ市街を砲撃させ、仏軍は包囲を恐れ一斉に街を棄て撤退を始めました。この時追撃に当たった数個中隊の騎兵は、仏軍の弾薬馬車を数輌鹵獲することに成功しています。


 パテも陥落し、押され始めたことを悟ったシャンジー将軍は、退いて態勢を整えることに決し、戦意衰えず前線で指揮を執り続けるジョーレギベリ提督率いる第16軍団第1師団を後衛に指定すると、仏第17軍団をモンピポーの森(クルミエの東6キロ付近に広がる森林)南方まで退却させるのでした。


 大公軍はシャンジー「軍」後退の兆候に気付くと一斉に前進を開始します。

 B第1軍団はコアンスを警戒していたB第3旅団他を再び吸収するとシャトーダン街道上へ進み、普第17師団はその左翼(東)側でラ・ボルデ(モンテギュ農場の南1.8キロ)を経て、それぞれオルレアンを目指して進みました。この時、大公から北独第9軍団と連絡せよと命じられた普第22師団は、ボールペールからシャルトル旧道上をサランに向けて南下し始めるのでした。

 普第17師団は師団騎兵を先鋒としてジャンヴリー(ジディの西2.2キロ)から出立させ、その南東にある林を両側から迂回してラ・ボルデへ突進させ、その後方からは2個大隊の歩兵がモンテギュ農場経由で、残り本隊はアルディ経由でそれぞれ騎兵に続きました。

 しかし、アルディでは仏ジョーレギベリ師団の一部が踏み止まって抵抗を続けており、普軍は到着順に部落北方に展開*して銃撃戦となりましたが仏軍は屈せず、逆に複数箇所で突撃を敢行するのです。普軍はこれを退けつつ敵が衰勢になるのを待ち、午後3時30分、満を持して普フュージリア第90連隊第3大隊が部落西端に強烈な突撃を敢行すると、疲れ切った仏軍は遂に部落から遁走したのでした。


挿絵(By みてみん)

戦場のシャンジー将軍


※アルディ北方の諸隊(午後2時頃・左翼東から右翼へ)

○普第76連隊・F大隊

○普第75連隊・第2大隊

○普猟兵第14大隊・第3,4中隊

○普擲弾兵第89連隊・第1大隊


 この間、B第1軍団はシャトーダン街道上で順調に行軍を続け、アングレを通過した前衛支隊*はル・グラン・オルム(オルレアン中心の北西4.5キロ)に到達し、ここに居残っていた仏第15軍団の一部を撃破します。


※ル・グラン・オルムを占領したB第1軍団前衛支隊

○B第11連隊・第1、2大隊

○B猟兵第4大隊

○B軽騎兵第3連隊

○B野戦砲兵第1連隊4ポンド砲第1中隊


 B軍はそのままオルレアン市街直前まで進むと、街道を外れて後方から接近する普第17師団に道を譲ります。普第17師団はB軍将兵から激励の歓声を浴びると前衛の2個(普擲弾兵第89連隊第1、普フュージリア第90連隊第3)大隊が郊外部落サン=ジャン(=ドゥ=ラ=リュエル)で抵抗する仏軍部隊を駆逐し、午後6時、遂にオルレアン市の西門前に達したのです。


 一方、大公軍本隊の右翼(西)後方にある普騎兵第2師団は、オルレアンに進んだ軍主力の後方を警戒するため更にロアール川方面を捜索し、ラ・シャペル(=サン=メマン。オルレアン中心の西5キロ)近郊に達すると、仏軍の輜重縦列が遙か上流(オルレアン市街)から舟橋を渡って南岸に向かって行軍し、同時にラ・シャペルの対岸では仏軍の行軍列がオルレアンから川の南岸に沿ってブロアに向かう街道(現・国道D951号線)上を進むのを目撃します。

 この発見により急ぎ師団騎砲兵2個(普野戦砲兵第2連隊第1、同第6連隊第3)中隊が川を望む高地上まで呼ばれ、騎砲兵たちはまず輜重が渡る舟橋を狙って砲撃を始め、たった数発で橋に当てた手だれの砲兵はたちまちこの橋の破壊に成功しました。続いて南岸を進む行軍列に照準を合わせた砲兵は、こちらも正確かつ激しい砲撃を行って仏軍を恐慌状態に陥らせたのです。この仏軍は半数が行軍を阻止され道を引き返したのでした。

 この時(午後3時から4時頃)、オルレアンから2本の列車が兵士を満載して発車し、オルレアン~トゥール鉄道を西へ走り始めますが、普騎兵第2師団はこちらも妨害しようと急ぎ鉄道沿線へ向かいました。しかしこれは間に合わず、騎砲兵も急ぎ砲を転回して砲撃を行いましたが列車は速度を上げ危地を脱しブロア方面へ逃げ去ったのです。

 以降、騎兵たちは夜に至るまで鉄道線を分断して騎砲兵はこの線路を狙いました。この時オルレアンに進んで来た一列車に対しては2、3発榴弾を発射して列車を止め、騎兵はこの列車を襲撃しようと突進しましたが、列車の機関士は急ぎ機関を逆転させて急速後退し、ボージョンシー方面へ逃げ切っています。何とこの列車にはガンベタが乗車しており、パリ脱出時以来再び独軍の捕虜となる危機を脱することに成功したのでした。


☆ オルレアン陥落


「在サラン、ドーレル将軍

 トゥールからサランへ。12月4日午前11時15分発信

 国防政府トゥール派遣部は以下の命令を通達する。

 国防政府は「パリを救うために、あらゆる手段を用いてオルレアンを死守せよ」と命じて来た。しかし、貴官(ドーレル将軍)は撤退の必要があると異論を述べ、オルレアンの防衛は撤退より大きな損失を軍に与えると主張した。更にこれは現場で状況判断した上での決断と訴えたので、政府としては貴官が最善を尽くしていると考え、それを撤回させることを断念する。

 国防政府はオルレアンの防衛とロアール軍右翼の行動に対する命令を撤回し、ロアール軍全ての指揮命令を貴官が行うことを許す。

 署名 レオン・ガンベタ、A.D.クレミュー、グレ=ビゾン、フリション」(筆者意訳)


 独軍の攻勢は衰えず、最悪の状況であることを悟ったトゥール派遣部は遂にオルレアン放棄を認めました。しかしこの電信は市内外の混乱によりドーレル将軍の手元に届くまで数時間を要します。

 この間、居ても立ってもいられず、トゥールを飛び出したガンベタは前述通り列車でオルレアンを目指しました。

 午後1時35分、フレシネは第18軍団と第20軍団がオルレアンに向かっているとの報告を受け、同時に西側のシャンジー「軍」も何とか崩壊を招かずに軍紀を維持していることを知り、ガンベタに知らせます。フレシネはオルレアンのドーレル将軍とロアレ県知事アルフレッド・ペレイラにガンベタからの電信を転送し、彼がオルレアンへ督戦に向かっていることを知らせるのです。


「在オルレアン司令部 ドーレル将軍へ。

 国防政府トゥール派遣部、12月4日午後1時35分。

 政府は貴官が本来の命令に従いオルレアン防衛を着実に実行することを決定したことに満足している。

 私(ガンベタ)は個人的に貴官指揮下の軍隊が海軍砲兵を盾として効果的な防衛を行えるだろうと確信している。

 貴官指揮下の軍隊で発生した混乱は最悪の事態を引き起こしてはいるが、貴官が未だ48時間以内に20万以上の兵力を掌握可能としているということを忘れてはいけない。これには現在マルシュノワール(ブロワの北27キロ)とボージョンシーに集合中の6万に及ぶ将兵(仏第21軍団の事)を含まない。私は貴官の左翼とトゥールを護るためこの軍隊を使用するだろう。もし貴官がこの軍隊を必要とするのなら、私は直ちにこの新軍団を貴官の下に送る。

 貴官の右翼において、既に命令を下している通り第18と第20軍団が合同して貴官に向けて進軍中なのは確実である。

 オルレアンまで30分の地点(ボージョンシーか?)において ガンベタ」(筆者意訳)


 しかし、独軍に圧倒される一方のロアール軍は一部を除いて既に崩壊状態で、その抵抗も各所で粉砕され、部隊は四散し寒さに震え腹を空かせた経験不足の兵士たちは迫る独軍の手を逃れオルレアン目指して後退する一方でした。

 オルレアンではドーレル将軍とペレイラ知事や助役らが首を長くしてガンベタの到着を待っていましたが、遂に現れることはありませんでした。

 ドーレル将軍とその配下の士官たちは終焉が近いことを悟ります。最早オルレアン市街を守り抜くことは不可能で、ドーレル将軍は午後4時、オルレアン市街の放棄を正式に命令しました。

 午後5時。意を決したドーレル将軍は短い電文をトゥールへ発信するよう命じます。


「トゥール戦争指導部宛

 オルレアン発、12月4日午後5時。

 本官は最後の瞬間まで諦めず、オルレアンを救うため努めました。努力は報われることはありませんでした。今夜、オルレアン市は敵の手に渡ります」


 この悲痛な通信を最後にオルレアンの電信局は通信を途絶します。ドーレル将軍は幕僚と共に大橋からロアールを渡り、南岸に移りました。

 市の防衛は軍団第1師団を中心とした仏第15軍団の一部とその他散り散りになって寄り集まった雑多な将兵に託され、指揮を執るマルティン・デ・パリエール将軍は出来るだけ多くの将兵を南岸へ逃がすまで敵の接近を防ごうと悲壮な決意をするのです。


挿絵(By みてみん)

夜間応戦する仏ロアール軍


 このパリエール将軍等の時間稼ぎで、市周辺部に残っていた多くの将兵は橋を渡って南岸へ落ち延びて行きました。


 数日間、独軍相手に善戦した仏第15軍団の砲兵たちは貴重な兵力として真っ先にオルレアンから脱出します。彼らは運搬可能な限りの砲と資材・弾薬を持って大橋を渡ると、ラ=フェルテ=サン=トーバン(オルレアンの南20.5キロ)目指し去って行きました。オルレアンには貴重な弾薬・資材や糧秣が大量に蓄えられていましたが、これら退却する将兵たちは限りある馬車に出来る限り詰め込み、担えるだけの糧秣や機材を背負って川を渡りました。しかし彼らが去った後、独軍に使われぬよう爆破しようとした複数の石橋は爆薬の不足で破壊することが出来ず、そのまま放置されることとなったのです。

 この退却命令はユイッソー(=シュル=モーヴ。クルミエの南南東5.2キロ)に至ったシャンジー将軍に届くことはありませんでしたが、反対側をオルレアンに向かって進んでいたブルバキ将軍にはロアール南岸経由で伝えることに成功しました。将軍率いる第18軍団は普第3軍団の前衛に捕捉される前に急ぎ転回し、シャトーヌフ(=シュル=ロアール)からロアール南岸に渡るとジアンに向けて去って行きます。同時にクルーザ将軍率いる仏第20軍団もサン=ドニ=ドゥ=ロテルでロアールを渡り、ブルバキ将軍を追ってオルレアンから離れて行ったのでした。


 結局パリエール将軍は、頑強に抵抗するだろうと市内侵攻に慎重となった独軍との「駆け引き」や「はったり」もあって3時間ほど時を稼ぐことに成功した後、白旗を掲げて休戦を迫る独軍の使者を門前に迎えました。

 午後10時、普第17師団長のフォン・トレスコウ中将はパリエール将軍と協議して「歴史的なオルレアンの市街を灰燼に帰すことがないように」一時的休戦を決定します。

 この結果、同夜12時(5日午前0時)以降仏軍はオルレアン市街を開け渡し撤退、市街地は独軍が無血占領することとなりました。

 この決定は直ちにメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ=フランツ2世に伝えられ、大公は「全軍オルレアンへ前進」を命じた後、「大本営からのお目付役」で軍「臨時」参謀長のフォン・ストッシュ中将以下幕僚を引き連れ最前線に騎行し、我が子のようなメクレンブルク大公国旅団(普第34旅団)将兵の行進列先頭に立つと午前0時30分、堂々オルレアンに入城したのです。


挿絵(By みてみん)

オルレアンの占領(12月5日早朝)


 市内に入った普第17師団前衛は素早くロアールに架かる諸橋梁に進み出てこれらを占領すると、橋の南端でロアール南岸を警戒し、本隊は市内を捜索した後、宿営に入りました。

 B第1軍団は市西郊外のロアール河畔からシャトーダン街道までの間に宿営を設け、大公軍本営からの命令でB第2旅団を市内へ送って普第17師団の警戒・治安任務を助けたのです。

 普騎兵第2師団はアングレ周辺に集合すると付近で宿営し、普騎兵第4師団は一部がスニー(ユエートルの北3.9キロ)とブレ、一部がパテとサン=ペラヴィに宿営します。なお、この師団の先頭に立つ普胸甲騎兵第5「ヴェストプロイセン」連隊はこの5日にエピエ(=アン=ボース。サン=ペラヴィの南西8.2キロ)まで進みました。

 北独第9軍団と連絡せよと命じられオルレアン北郊外に進んだ普第22師団はこの夜、第9軍団諸隊と入り交じってレ・アイドとサランの間に宿営を求め、将兵は全てが凍り付くこの夜、少なくとも屋根の下で疲弊し切った身体を休めるのでした。


☆ 独第二軍のオルレアン入城とベルガルド方面の状況(12月4日から5日)


 夜が明けると、大公軍に続き第二軍もオルレアンに入り始めます。


 まだ夜の明けやらぬ5日の早朝、北独第9軍団の前哨は仏軍がオルレアン市北部郊外から撤退したのを確認し、軍団長のマンシュタイン将軍は第一線部隊に宿営を撤して前進を命じました。

 この独軍諸隊はその行く先至る所で仏軍の落伍・残留兵を発見しますが、彼らはその殆どが逃げることも抵抗することもなく投降し捕虜となりました。軍団前衛が市内に入ると、その中央駅付近で抵抗する者がありましたがこれも短時間で排除すると、停車場内で運び切れずに遺棄された仏海軍の艦載8ポンド砲10門を発見、鹵獲したのです。

 前衛に続いた普第18師団本隊は明け方にオルレアンへ入城し、その先鋒諸隊は直ちに諸橋梁を渡ってロアール南岸に進み出ると、まずは騎兵を西方トゥールへの街道(現・国道D951号線)、南方ビエルゾンへの街道(現・国道D2020号線)、東方ジアンへの街道(現・国道D951号線)へ派遣して撤退したロアール軍残党を捜索したのです。

 北独第9軍団残りの第25「H」師団と軍団砲兵隊はオルレアンの北東郊外、アルトネへの本街道(現・国道D2020号線)とルリーへの街道(現・国道D2152号線)間にある諸部落や農場に宿営し、その左翼(東)はその南側ロアール河畔に広がる普第3軍団の占領地と連絡しました。

 独第二軍の総予備となった普第10軍団はこの5日、その前衛をセルコットまで進めて宿営し、普騎兵第6師団はアルトネの東側に展開して宿営しました。

 この日、フリードリヒ・カール王子は本営と共にオルレアンへ入城し、ロワレ県庁に落ち着くとフリードリヒ・フランツ2世を迎え固い握手を交わすのでした。


 さて、オルレアン大森林の東端付近となる独第二軍の最左翼(東)では、普騎兵第1師団長のユリウス・ハーツゥング・フリードリヒ・フォン・ハルトマン中将が既述通り普第20師団の半数をも指揮下に収め、ロワン川流域から更に東方ヨンヌ川方面を警戒していました。

 3日当初はオルレアン大森林方面とロワン河畔のモンタルジに仏軍守備隊を確認していたハルトマン「集団」でしたが、4日朝となると斥候たちは口々に「仏軍は各地から姿を消した」と報告し、将軍は4日深夜にオルレアンの顛末を知ると翌5日早朝、ボーヌ=ラ=ロランドからベルガルド(ボーヌ=ラ=ロランドの南9キロ)へ進んでその近郊に宿営し直すのでした。


 こうして12月3日と4日に渡って繰り広げられた「第2次オルレアンの戦い」は独軍側の完勝に終わり、仏ロアール軍は2万名以上の損失を被って事実上崩壊しました。

 この2万の損害の内、実に6割相当の1万2千強が捕虜であり、その大部分は最後までオルレアン周辺で戦った仏第15軍団の将兵でした。彼らは疲弊し切って憔悴し、殆どの兵士はボロボロの様々な制服を纏い、多くが外套や毛布も支給されずに凍え震えていました。負傷兵もまた多数で、その多くは数少ない軍医の手当を受けられず、慈悲深い大司教の号令で動員された神父や修道士女の助けで何とか生き延びていたのです。


 独軍は各種砲74門を鹵獲し、浮氷が漂うロアール河畔に係留され放置されていた河川砲艦4隻も拿捕しています。

 対する独第二軍・大公軍の損害は合わせて1,750名程で、実に独仏の損害差10分の1以下で独軍はこの大勝利を得たのでした。


挿絵(By みてみん)

戦いの後~戦場を巡回する普軍槍騎兵


※独第二軍と大公軍・12月3日~4日の損害

◇12月3日

*普第3軍団

戦死/下士官兵15名・馬匹45頭、負傷/士官7名(内軍医1名)・下士官兵80名・馬匹23頭、行方不明/下士官兵1名

*北独第9軍団

戦死/士官8名・下士官兵74名・馬匹31頭、負傷/士官26名・下士官兵282名・馬匹40頭、行方不明/馬匹2頭

*普第10軍団

戦死/士官1名・下士官兵18名、負傷/士官3名・下士官兵39名・馬匹3頭、行方不明/下士官兵3名・馬匹1頭

*普第17師団

戦死/士官1名・下士官兵14名・馬匹20頭、負傷/士官2名・下士官兵49名・馬匹18頭

*普第22師団

戦死/下士官兵2名・馬匹3頭、負傷/士官1名・下士官兵13名

*B第1軍団

戦死/士官3名・下士官兵5名・馬匹1頭、負傷/下士官兵15名・馬匹4頭、行方不明/馬匹1頭

*普騎兵第2、第4、第6師団

戦死/士官1名・下士官兵3名、負傷/下士官兵2名・馬匹3頭

◇12月4日

*普第3軍団

戦死/士官6名・下士官兵39名・馬匹10頭、負傷/士官3名・下士官兵91名

*北独第9軍団

戦死/士官8名・下士官兵76名・馬匹20頭、負傷/士官29名・下士官兵319名・馬匹20頭、行方不明/下士官兵1名・馬匹1頭

*普第10軍団

損害無

*普第17師団(含む軍本営)

戦死/士官1名・下士官兵18名・馬匹4頭、負傷/士官10名・下士官兵92名・馬匹7頭、行方不明/下士官8名

*普第22師団

戦死/下士官兵1名、負傷/下士官兵2名

*B第1軍団

戦死/士官3名・下士官兵47名・馬匹8頭、負傷/士官8名・下士官兵204名・馬匹20頭、行方不明/下士官兵50名

*普騎兵第2師団

戦死/下士官兵7名・馬匹15頭、負傷/士官3名・下士官兵35名・馬匹10頭、行方不明/下士官兵1名・馬匹4頭

*普騎兵第4師団

戦死/下士官兵3名・馬匹18頭、負傷/士官2名・下士官兵11名・馬匹35頭、行方不明/下士官兵3名・馬匹1頭


*2日間総計

戦死/士官32名・下士官兵322名・馬匹175頭、負傷/士官94名(内軍医1名)・下士官兵1,234名・馬匹183頭、行方不明/下士官兵67名・馬匹10頭


挿絵(By みてみん)

仏軍陣地に突撃する普槍騎兵


 オルレアンが陥落したことで仏ロアール軍はサルブリ方面へ撤退した仏第15軍団の残兵、ジアンへ転向したブルバキ将軍以下の仏第18、第20軍団、オルレアンの西郊外で大公軍と対峙するシャンジー将軍率いる仏第16、第17軍団と事実上3つに分裂してしまいます。

 この結果を受けたガンベタらトゥール派遣部は、その敗北責任の全てを総指揮官だったドーレル・ドゥ・パラディーヌ将軍に押し付け罷免しました。サルブリのドーレル将軍は左遷先(シェルブールの予備歩兵部隊指揮官。12月6日。)を示されますが、健康を理由に退職を願い出、静かに軍を去って行ったのです。



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